10月25日、シリアで3年以上、武装勢力に拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が帰国した。本人やご家族には申し訳ないが、多くの日本人が「もう駄目だろう」と諦めていただけに、「よかった」というのが素直な気持ちだ。ところが、ネットやメディアでは「自己責任」論争なるものが早くも起きている、と言うのでびっくりだ。
そりゃあ日本政府が退避勧告まで出している国に敢えて行ったんだから、災難が降りかかっても自己責任であることは間違いない。だが、渡航自粛が出ていない国に観光で行って誘拐されても、「日本政府に責任があるわけではない」という意味では自己責任だ。(念のため言っておくが、拉致被害は自己責任とはまったく別次元の話。)
世に言う自己責任論はそれを言っているんじゃないみたい。ポイントは、政府の――ひいては日本国民の――責任論のようだ。安田さんは退避勧告が出ていることを承知でシリアに入ったのみならず、日本政府が安田さんの海外取材にいい顔をしないことを批判していたという。そんな安田さんを政府は助ける必要がある(あった)のか、ということ。
俺の意見を最初に書いておくと、日本政府が海外で自国民保護に全力を尽くすべきことは当然だし、被害にあった日本国民の思想信条や社会的地位によって助けたり、助けたりしないというのは間違いだと思う。今回、日本政府が安田さんの解放に向けてどの程度本気で動いたのか、俺は知らない。カタールが身代金を払ったという情報もあるようだが、事前・事後は別にしても日本政府との間に何らかの取引があったと考えるのが普通だろう。官邸はともかく、外務省の担当部局なり現地の担当者なりが必至で動いていなかったのだとすれば、ガッカリだね。
ところで、巷の自己責任論争を聞いていて、気づいたことがある。それは、自己責任論が「権利を主張するなら義務を果たせ」という議論に似ているということ。一般論として言えば、この議論そのものは正論と言うか、当たり前だと思う人が多いに違いない。俺もそうだ。義務を果たさずに権利ばかり主張する人を見ると不愉快になる。しかし、義務なり、法律なりを作るのは為政者であるという現実と併せて考えると、単純な話ではなくなる。「義務が先」論が濫用されると、弱者を切り捨てたり、思想信条的に為政者側と異なる意見を持つ人たちに服従を強いるロジックとして使われかねない。
自己責任論も同じだ。「政府が『行くな』と言っているのに逆らったんだから、自業自得。政府が国民の税金を使って助ける必要はない」という議論は、ロジックとしては筋が通っている部分もある。これを全否定すると、ジャーナリストは退避勧告や渡航自粛なんか守らなくていい、という暴論に振れかねない。だが、これを全部肯定するとどうなるか? 「政府に助けてほしかったら、政府が行くなと言ったら絶対に行くな」という程度なら、認める人も少なくないか。では、その先に「助けてほしかったら、日頃から政府の批判とかするんじゃないぞ」という風潮が生まれたら、これはもうヤバい。
俺の考えすぎか? でも、戦前はそうだったんだよな。そして安倍晋三は「戦後レジームの解体」を唱えている。安田さんの自己責任論をふりかざす人たちに、右というか、思想的に安倍政権寄りの人が多いような印象があるのも偶然ではないんだろう。
もちろん、「ジャーナリストなら許される」という議論も不快だ。でも、上述の人たちはこの不快感を利用して、右寄りの政府に従うべきという土壌を作っているのも事実。結局、自己責任に関する議論も100かゼロかみたいな話ではなく、どちらの崖にも落ちない道を行くことしかないんだろう。安田さんは近々、会見を開くと言う。その時、彼は自己責任論についてどんな言葉を吐き出すんだろう? 安田さんが過去の自分の言葉にこだわっても、はたまた「転向」しても、俺たちは崖に落ちないようにしないとな。