「変えられない日本」が垣間見えた――英語民間試験の延期とマラソンの札幌開催

先週の金曜日(11月1日)、二つのニュースが駆け巡った。

一つは、来年から実施が予定され、来年からスタートすることになっていた大学入試への英語民間試験導入を見送ると文部科学省が発表したこと。
もう一つは、東京五輪のマラソン・競歩を札幌で開催することが最終的に決定したことである。

奇しくも同じ日に、既存の方針が変更される大決断が二つもなされたわけだ。しかし、この二つの変更には根本的な違いがある。

英語民間試験の場合、実施が5年後に延期され、その間に実施方法の改善が図られるとはいうが、実施するという大方針そのものは変わっていない。

これに対し、マラソン・競歩については、IOC(国際オリンピック委員会)の鶴の一声で札幌開催が決まり、東京で開催するという既存の方針は葬り去られた。

今回のIOCの独断と批判する声もあるが、東京五輪大会組織委員会、東京都、政府の三者だけであれば、東京でのマラソン開催をやめるなどという「乱暴だが正しい」答に行きつくことは絶対になかったであろう。

文科省(日本政府)といい、東京都といい、日本の組織は一度決められた方針を変えるのが苦手だ。このポストでは、二つのニュースを材料にしながら日本型思考の弱点について考えてみる。

1. 英語民間試験の延期

英語民間試験の源流

2013年10月31日、教育再生実行会議は第四次提言を取りまとめた。そこには「国は、TOEFL 等の語学検定試験やジュニアマイスター顕彰制度、職業分野の資格検定試験等も学力水準の達成度の判定と同等に扱われるよう大学の取組を促す」とある。この時、大学入試に民間の英語試験を活用するという方針はレールに乗った。

教育再生実行会議は2013年1月に閣議決定で設置が決まり、文科省ではなく官邸に置かれている。

「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を実行に移していくため、内閣の最重要課題の一つとして教育改革を推進する」ため、「内閣総理大臣、内閣官房長官及び文部科学大臣兼教育再生担当大臣並びに有識者により構成し、内閣総理大臣が開催する」ものだ。ただし、閣議決定を読んでもその権限ははっきりしない。

有識者は、安倍晋三(総理大臣)、菅義偉(官房長官)、下村博文(当時の文科大臣)が少なくとも否と言わない人が選ばれる。当然、会議の提言内容もスリー・トップの意に沿わないものは入らない。

以上から、教育再生実行会議とは官僚的な積み上げの意思決定プロセスをバイパスし、安倍や安倍に近い人たちの考え方に基づいて教育改革を進めるための装置であることが見てとれる。

この年(2013年)、教育再生会議は2月、4月、5月、10月と4回も提言を出した。いじめ問題への対応(2月の提言)は急を要したのだとしても、それ以外はいかにも付け焼き刃の印象を免れない。

第四次提言を了承した教育再生実行会議(10月31日開催)では、自民党が同年5月23日にとりまとめた『教育再生実行本部 第二次提言』が参考資料として配布された。興味深いことに、この自民党の提言には「TOEFL等の外部試験の大学入試への活用の推進」という項目がある。英語民間試験の源流はこの辺りにあるのだろう。(ちなみに、同本部の「大学・入試の抜本改革」部会には、主査として山谷えり子、副主査として西川京子、萩生田光一、薗浦健太郎という、安倍好みの右翼的な政治家がズラリ並んでいた。荻生田が現文科大臣であることは言うまでもない。)

制度的欠陥品

教育再生実行会議の提言は、制度設計を含めた入念な検討を経て導き出されたものとは到底思えないものだ。言葉は悪いが、思いつきに毛が生えた程度のものも散見される。提言の作成段階では蚊帳の外に置かれ、実行プランの作成を丸投げされた文部科学省もさぞかし困ったことだろう。

総理大臣が主催する会議の中には政権とともに自然消滅するものも少なくない。しかし、安倍一強が続くこの政権では、官邸直轄の会議が出した提言は非常に重い。文科省はこの間、中央教育審議会の答申を得る等のプロセスを経て、英語民間試験の実行プランを作り上げた。合わない辻褄を無理やり縫い合わせながら作ったものだから、突っ込みどころは満載。先週、延期が発表されるや、メディアは英語民間試験の制度設計がいかに杜撰だったかを、一斉に叩き始めた。

本ポストでいちいち取り上げることはしないが、最大の欠陥は受験生の英語能力を統一的に評価する制度的な担保がないことだ。難易度の異なる7種類の試験のどれを受けるかで事実上、受験生に有利不利が生じる。入試システムに求められる最も基本的な「性能」を欠いた欠陥品、と言わざるを得ない。

中止ではなく、延期

ほんの一週間前まで、官邸や文科省は、見切り発車と言われても来年から英語民間試験を実施する、と決めていた。だからこそ、新任の萩生田文科大臣――上述の通り、英語民間試験の導入の言い出しっぺの一人である——は、出演したテレビ番組で「自分の、あの、私は身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで、勝負してがんばってもらえば」と発言したのだ。

世間的には、この「身の丈」発言で風向きが変わり、官邸も英語民間試験の導入延期に傾いたと考えられている。もちろん、10月25日に菅原一秀経済産業大臣、10月31日には河井克行法務大臣がそれぞれ辞任したことも大きく影響したことは言うまでもない。9月に内閣を改造して早々につまずいた官邸としては、これ以上批判される材料を放置できなかったのだ。

だが逆に言えば、菅原、河井のスキャンダルと荻生田の「身の丈」発言がなければ、英語民間試験は多くの欠陥を抱えたまま、実行されていたはず。「一度レールに乗ったら変えずに突っ走る」力というのは、すさまじい。

11月1日に政府(文科省)が発表したのも、英語民間試験の導入「延期」であり、「中止」ではない。6年前に決められた既定方針はまだ生きている。

政府に英語民間試験を踏みとどまらせた、と胸を張っている野党四党(立憲民主、国民民主、社会民主、共産)でさえ、先月24日に提出したのは英語民間試験の延期法案である。
政府が延期を発表した途端、英語民間試験に対する批判をヒートアップさせたメディアからも、その廃止を求める声はあまり聞こえてこない。

政府や与党サイドが英語民間試験を導入するという既定方針をやめられない、というのは、安倍一強の政治力学から(同意はできないが)何となくわかる。だが、これだけ批判されているにもかかわらず、「英語民間試験なんかやめてしまえ」という思い切った主張が政府・与党の外からもあまり聞こえてこないのはなぜか?

理由の一つは、英語をグローバル人材育成のためのツールと位置づけ、「読む・聞く」だけでなく「読む・聞く・話す・書く」の四能力を評価すべきだという意見に惑わされる人が多いことだろう。

しかし、試験の方法を変えれば英語力が伸びるわけではないし、TOEFLのスコアが高くても英語ができない日本人留学生も大勢いる。また、「読む・聞く」能力があれば、「話す・書く」能力は大学に入ってから英語漬けにすれば誰でも身につくものである。

二つめの理由は、「官から民へ=改革」という議論に弱い政治家や知識人が多いことである。

11月6日に開かれた衆議院予算委員会で安倍総理は「私は民間がやると悪くなる、民間はよこしまな考えを持っているという考え方はとらない。民間の活力や知恵を導入していくのは当然あってしかるべきだ。民間事業者などが手を挙げることを、最初から排除しなければいけないという考え方は間違っている」と述べた。こう言われると黙ってしまう政治家やメディア関係者は意外と多い。

安倍が言うとおり、「民間=悪」という考え方は間違いだ。しかし、「民間=善」という考え方も同じく間違っている。全国レベルで実施する英語入学試験の場合、民間の採用は明らかに不適切だ。

例えば、民間(NPO)の試験としてTOEFLだけを採用するのであれば、正当かつ公平な試験としての信頼性は担保される。しかし、受験料は1回あたり2万円台半ばになる。年間50万人という大量の受験生に対応することもむずかしいだろう。多くの受験生にとっては難易度が高すぎる、という問題もありそうだ。
かと言って、GTEC(ベネッセ)一本にしたのでは、予備校が入試本番の試験を実施する主体になってしまい、アンフェアな臭いがプンプンしてくる。率直に言って、試験としての権威も低い。

安倍総理には、英語試験は「民間でやれば悪くなる」ということに気づいてほしいものである。

既定方針を変えることのむずかしさ

組織が既定方針を「変える」ということにはむずかしさがつきまとう。

一つは、変えれば何でもいい、というわけではないこと。変える以上は、問題を解決(または改善)できなければ意味がない。

2012年12月から続いている安倍政権は、集団的自衛権の行使容認をはじめ、この国に様々な変化をもたらしてきた。そのすべてを否定するつもりは毛頭ない。だが、よく見ると、変化の細部に魂がこもっていないものが少なくないことも事実だ。集団的自衛権の行使容認ですら、過去の解釈と継ぎはぎだらけにしたため、日本の武力行使に対する制約は基本的に残ったままである。

もう一つのむずかしさは、一度方針を決めたら、それが機能しない現実が生じているにもかかわらず、既定方針のまま走り続ける傾向がいかなる組織にもある、ということ。

これは、何も日本の組織だけに見られるむずかしさではない。だが、強い忖度感情や組織に対する忠誠度の高さなどから、日本の組織で特に目立つ困難であろう。

英語民間試験については、以上の二つのむずかしさが同時に表面化した。

まず、英語民間試験の導入という考えそのものが、変化の方向性が間違っていた。安倍総理を含め、日本の教育を復古的方向に変えることに熱中した人たちが、英語試験でお遊びをした、というのは言い過ぎであろうか。

加えて、英語民間試験の実施プランを作成する過程で問題点が噴出し、このままでは受験生にとって大迷惑となり、本来狙った英語力向上という効果も見通せなくなったにもかかわらず、政府は当初予定通りの実施に向けて突っ走った。そして、英語民間試験の導入という方針そのものは今も生きている。

英語民間試験の問題は、これからが正念場だ。

 

2. マラソンの札幌開催

有無を言わせなかったIOC

英語民間試験の延期が発表されたのと同じ日、国際オリンピック委員会(ジョン・コーツ調整委員長)、東京五輪大会組織委員会(森喜朗会長)、東京都(小池百合子知事)、政府(橋本聖子五輪相)の4者が最終協議を行った。その結果、来年行われるオリンピック競技のうち、マラソンと競歩については札幌で開催することが最終的に確認される。小池は「合意なき決定」と述べたが、最初から都に決定権はなく、結論は決まっていた。この協議は都民の前で「怒れる都知事」を演じさせ、小池の面子を保つための儀式だったと言えよう。

マラソンと競歩の開催場所を東京で開催しない、という大ナタを振るったのは、IOCという日本外の組織である。東京五輪大会組織委員会、東京都、日本政府という国内の組織に決定権があったなら、お互いに牽制しあうか忖度しあう結果、IOCが下したような「無茶だが、正しい」変更は絶対にできていない。

やばくてもやるしかない

2013年9月7日、来年の7月下旬~8月初旬に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されると決まった。それから6年、準備は着々と進められてきた。

その一方で、最近の日本列島の夏は記録的な猛暑続き。多くの日本人の間で「真夏の東京でオリンピックやって大丈夫か?」という懸念が共有されるようになった。選手はもちろん、観客やボランティアを含め、熱中症でバタバタ倒れたらどうするのか、というわけ。

今年の9月27日から10月6日までドーハ(カタール)で開催された世界陸上は、そうした不安を増幅させるものであった。
女子マラソンは深夜11時59分のスタート時に気温32度、湿度74%。68人中、28人が途中棄権し、完走率は6割を割った。「昼やっていたら死人が出たのでは」という声すらあがっている。男子50キロ競歩も午後11時半のスタート時に気温31度、湿度74%。46人中18人が棄権し、完歩率は約6割だった。
この「惨状」を見て、テレビやお茶の間では「東京も危ないんじゃないか?」と心配する人の数がさらに増えた。

しかし、だからと言って、「マラソンを東京で開催しない」という選択肢が頭に浮かんだ日本人はほとんどいなかった。
私自身、「真夏の東京でマラソンはやばい」とは思っても、「マラソンは東京以外で開催すべき」とまでは露ほども考えなかった。
東京都や組織委員会、日本政府と同じく、「東京オリンピックなんだから競技は東京で」という思考の枠組みから一歩も出ていない。恥ずかしながら、「死人が出ても東京でやるしかない」と考えていたのと同じことだった。

組織委員会や東京都も馬鹿ではない。ドーハ世界陸上の前から、猛暑対策には危機感を募らせていたはずだ。

既に昨年12月、猛暑対策としてマラソンのスタート時間は当初予定されていた午前7時から午前6時に前倒しすることが決まっていた。これをもっと早めることくらいは、当然検討していただろう。実際、IOCから札幌移転の話が出ると、東京都はスタート時間を午前5時よりも前にすることを慌てて提案した。
このほかにも、都はマラソン・コースに遮熱性・保水性塗装を施すという公共事業にも注力してきた。(ただし、最近になって遮熱性塗装は逆効果だという指摘も出ている。)

「暑い東京でマラソンを実施する」という枠組みの中で、都も組織委員会も考えられる手は打ってきた。それは認めよう。しかし、道路に遮熱性塗装を施し、スタート時間をいくら早めたところで、焼け石に水。最近の東京の猛暑は対策してどうにかなるレベルを超えている。

考え得る最大限の努力を払っても、競技の最中に選手たちが体調を崩して大量に棄権する——最悪の場合は選手の生命が危険にさらされる——事態が来年、相当の確率で起こりうる。これを黙認することは、「健全なコンディションの下で安全に競技を実施する」というスポーツの常識、人間界の良識に照らして考えた時、不道徳の極みだ。結果的に来年が冷夏となり、取り越し苦労と笑われることになったとしても、放置するには大きすぎるリスクを放置することは、決して許されない。

ところが、「東京でマラソンをやる」という前提の下に立つ限り、日本ではしっかりした組織や有能な人ほど、「リスクがあってもやるしかない」「できることはすべてやろう」「そのうえで、リスクが残るのは仕方がない」という発想になる。既存方針の枠組みそのものを変えよう、という発想は出てきにくい。

枠組みから出れば解決法はあった

ドーハの世界陸上を見て、「東京でマラソンや競歩をやったら、非人道的な事態が起こる可能性が高い」と懸念し、「それは許されない」から「東京以外のもっと涼しいところに変える」という思考回路で判断を下したのがIOCだった。その結論が札幌開催である。

IOCの決定について、「もっと早く言え」とか「関係者とちゃんと話し合え」という批判が出ることは理解できる。東京開催を前提に準備してきた選手や関係者の努力を無にするものだ、という同情の声も当然、出てきた。

しかし、IOCは初めからそこは割り切っていた。この時期に札幌開催へ変更することについて批判が出たところで、来年の本番を東京で行って選手たちに大トラブルが起きるリスクに比べれば、大したものではない、と。

変えるのならもっと早く変えるべきだった、と言われても、過ぎ去った時間は取り戻せない。
関係者と話し合っても、反対されて時間が過ぎるだけ。
選手や関係者の声なら、世界中で見れば会場変更を歓迎する声の方がおそらく多い。
東京都の自分勝手な言い分に気を使った結果、選手が健康を害するリスクを甘受することは、IOCにとって論外だったであろう。

「東京開催という前提で安全が確保できないのなら、東京開催という前提を見直す」というIOCと、「東京開催という前提で努力してきたのだから、東京開催は譲れない」という東京都。IOCに最終的な決定権限があるという契約上の問題だけでなく、論理の面でも勝負は初めから見えていた。

報道によれば、10月30日に行われた調整委員会の席上、小池知事は「(東京開催に向けて準備を進めてきた)選手や地元の人の気持ちをないがしろにはできない。ワンチームで大会を成功させたいという強い思いは、この場におられる皆さんの共通の思いだ」とコーツ委員長を睨みつけたという。「東京で開催しても選手や観客の安全は守られる」と主張できない小池は哀れであった。(この文脈で「ワンチーム」という言葉を使うのもラグビーの日本チームに失礼だと思った、というのは余談である。)

私も偉そうなことは言えないが、東京以外――札幌でなくてもよい――でのマラソン開催を日本側から提起していれば、と思わずにいられない。後から気づいたことだが、東京オリンピックの本番でも、競技のうちいくつかは、東京都どころか関東以外の会場で行われることになっている。例えば、サッカーの一部は札幌、宮城、埼玉などで予選が開催される。

「オリンピックの花」と呼ぶ人もいるマラソンをサッカーの予選なんかとは一緒にできない——。こうした「傲慢な常識」が、関係者を既存の枠組みに閉じ込めてしまったのであろうか。

変えられない国、ニッポン

日本の組織は、既定方針の下で頑張るのは概して得意だ。ラグビー・ワールドカップでは、台風など自然災害の襲来はあったものの、結果的には決められた枠組みの中で運営されたため、協会、地方の協力自治体、ボランティアなどの献身的サポートによって日本大会の運営は大成功を収めた。(日本をはじめとした各国選手の奮闘ぶりは言うまでもない。)

一方で、既定方針の下でいくら頑張っても駄目な時にその既定方針を見直すことは、日本の組織が苦手とするところだ。戦前の日本の指導部(軍部・政府)も、米国に勝てるとは思わないまま、米英との対決路線を変えることはなかった。英語民間試験についても、同じ構図が見てとれる。マラソン・競歩の開催場所を東京から札幌に変えたのがIOCという日本外の組織だったことは、実に象徴的であった。

既存の秩序が国際的にも国内的にも大きく揺らぎ始めた今日、既存の方針が機能しないときにそれを変える力の有無は日本の将来を大きく左右するはずである。

普天間飛行場の辺野古移設もそうだ。その基本方針は23年前に決まり、工事はようやく始まったものの、軟弱地盤の問題も出てきて未だ完成のめどは立たず。何よりも、当時と今では安全保障環境が激変した——主には中国の軍事力が急伸したことと米国のコミットメントが不透明化したこと——のに、3兆円以上の金をかけるべきプロジェクトなのか、という根本的問題がある。だが、日本側は誰も方針の見直しを言い出そうとしない。変える覚悟を感じられないのは、野党や沖縄県も同じだ。

マラソン・競歩の開催地変更にまつわる顛末は、スポーツのみならず、日本型組織全般の「変えられない」体質を浮き彫りにした。
我々はそこから何かを学び取れるのであろうか。

蛇足――IOCに挑戦せよ

IOCはマラソン・競歩のコースを東京から札幌へ変更するに当たり、「アスリート・ファースト」を強調した。
世界的に異常気象が常態化しつつある時代にあって、夏季オリンピックに立候補できる都市は今後、日本に限らず、限定される可能性が出てくる。だが本来、オリンピックはどこの国(都市)でも立候補できるのが当然だろう。それができなくなるのなら、「オリンピックは真夏に開催する」という現在のIOCの枠組みは変えた方がよい。

今回の騒動を受けて、オリンピックを真夏に開催するのがそもそもの問題、という指摘が日本国内からも出てきている。小池をはじめとする関係者に「煮え湯を飲まされた」という思いがあるのなら、なおのこと日本(JOCや日本政府)は、オリンピックの開催時期見直しを声高に主張すべきだ。

もちろん、ただ主張するだけでは既存の枠組みは変わらない。7~8月にオリンピックを開催するのは、巨額の放映料を支払う米テレビ局の意向に沿ったものだと言われている。日本だけがいくら正論をぶってみても、一顧だにされまい。一国で敵わなければ、仲間をつくるしかない。欧州諸国、そしてアジアで同じような緯度に位置する中国、韓国などとタッグを組む、という発想が必要になるだろう。

実際には、日本政府やJOCは「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で何もしない可能性の方が高い。既存の枠組みの中で頑張るのが日本らしさ、と言えばそれまで。でも、「日本らしさ」にも進化は求められるはずだ。動き出したい。

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