NHK経営委員会に「報道の自由」の敵が巣食う

前回まで3回のポスト(2月7日2月16日3月7日)で郵便局を舞台にしたかんぽ保険商品の不正営業事件について思うところを述べた。

そこでも簡単に触れたとおり、事件の過程で日本郵政は自らの不正営業問題が白日の下にさらされないよう、NHKに圧力をかけた。その際、NHK経営委員会が日本郵政の味方に付き、NHK会長に圧力をかけていたことが判明している。
これは「報道の自由」の崩壊を招く大問題だ。看過できない。

本ブログでもこの問題を取りあげようと思いながら手間取っていたところ、3月2日付の毎日新聞が「『番組の作り方に問題』 NHK経営委員長がかんぽ報道『介入』か 放送法違反の疑い」という記事を打った。

毎日新聞は昨年9月26日のスクープ以来、この問題の追及に熱心だ。毎日新聞の記事とNHK自身による検証記事を読めば、この問題の論点を追うことができる。

本ポストでは、遅ればせながら、私の意見を述べておきたい。

NHKのスクープと日本郵政の圧力

2018年4月24日――念のために言うが、2019年ではなく、2018年の話だ――、NHKのクローズアップ現代+は「郵便局が保険を“押し売り”!? 郵便局員たちの告白」という衝撃的なタイトルの番組を放映した。おそらく、郵貯グループの不適切営業に最初に切り込んだ番組だったと思う。これはアッパレだった。

7月になると番組側は続編を作るため、SNSで情報提供を呼びかけた。
これに対し、日本郵政、日本郵便、かんぽ生命が社長名でNHK会長宛に「内容が一方的で事実誤認がある」などと掲載中止を申し入れる。

この段階で既に郵貯内部で不適切営業は蔓延していた。
郵政側が「放送内容は間違っている」と思って抗議したのであれば、当時の3社長を含む経営幹部はよほどの無能か、裸の王様ということになる。
不正の存在を知りながら抗議したのであれば、もう背任に近い。

実態はおそらく後者であろう。日本郵政の鈴木・上級副社長は「圧力をかけた記憶は毛頭ない」と述べている。こういう時、本当に圧力をかけていなければ、「圧力をかけてなどいない」と言い切るもの。政治家の「記憶にございません」と同様、「記憶」という言葉を使って否定するのは後ろめたさの表れである。

日本郵政と手を組んだNHK経営委員会

ここまでは、「NHK」対「日本郵政」の戦いだった。

番組サイドが取材をやめないのに業を煮やした郵政側は、番組の担当者が『番組制作について会長は関与しない』と発言したことを問題視し、「放送法上、編集権は会長にあるはず。番組サイドの発言はNHKのガバナンス上、問題だ」とNHK経営委員会に訴えた。

日本郵政の言い分は、世間的には「言いがかり」の類いと言ってよい。
しかし、番組内容の真偽で争うと日本郵政にとって不利となるため、経営委から圧力をかけて現場を黙らせる、という手法を郵政側は選んだのだ。
(この戦術を考え出したのは、鈴木康夫・日本郵政上級副社長――郵政事業と放送行政の両方を所管する総務省の元事務次官――だった可能性がある。)

NHKの上田良三会長(当時)は常日頃、「我々は実際には、放送総局の方に分掌してやってもらっている。自主自律を堅持しながら、事実に基づいて、公平公正、不偏不党といいますか。そういう公共放送としての、守らなくちゃいけないスタンス。これをしっかり守るというのは、口を酸っぱくしてやっている。それを踏まえた上で、現場でやってくれ、と言っています」と表明していた。

番組内容が虚偽だったり取材手法に問題があったのならともかく、郵貯の不適切営業を取りあげた番組制作を止めなければならないとは、上田も考えていなかったに違いない。

だが、NHK経営委員会の石原進委員長(当時)や森下委員長代行(現委員長)から見れば、こうした上田の姿勢そのものに問題があった。
制作現場に任せ、政権批判をされては困る、ということだ。

石原は日本会議と関係があり、安倍政権と非常に近い。森下は安倍総理を囲む「四季の会」のメンバー。安倍が政権批判報道に神経を尖らせ、メディアに対して有形無形の圧力をかけてきたことは周知の事実である。
(脱線するが、石原を最初にNHK経営委員に任命したのは民主党政権(菅内閣)だった。「九州」枠で選ばれたと言うが、脇の甘さはこういうところにも表れる。)

こうして、戦いの構図は、「NHK」対「NHK経営委員会 + 日本郵政」に変わった。
(経営委員の全員が石原と森下に同調したわけではなさそうである。しかし、両名に反対して断固戦った者もいなかったようだ。NHK経営委の議事録的なものには、上田NHK会長に対する注意は、経営委員会の「総意」として行われたと書いてある。委員の一人でも頑強に抵抗すれば、この手の文書に「総意」という単語を載せることはできない。)

石原と森下は日本郵貯がつけた難癖に乗り、経営員会に上田を呼んで叱責した。
上田は抵抗するも、経営委員会には放送法に基づく「(NHK)役員の職務の執行の監督」権限があった。

2018年10月23日、NHK経営委員会は上田に厳重注意を行う。
立場上、上田も最後は経営委員会に逆らえない。最終的に上田は日本郵政側へ詫び状を出させられた。(実に子供じみている!)

こうした経緯を最初にすっぱ抜いたのが昨年9月26日の毎日新聞「NHK報道巡り異例『注意』 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期」という記事だった。

本来なら、石原や森下は自らの不適切営業を隠蔽したい郵政側を一喝し、NHKに対して「理不尽な抗議に屈するな」と激励する立場にあったはず。
だが、現実は違った。

2018年10月23日に行われた当該経営委員会の議事概要――当初、存在しないとされた――は、国会で批判されたことを受けて1年以上たった昨年11月1日に出てきた。
それは発言者が表に出してもよいと認めた発言のアウトラインであり、フルバージョンの議事録ではなかった。他の議題については発言者と発言内容がわかるのに、NHKのガバナンスに関する討議の部分だけ、発言者名が伏せられ、発言は極めて抽象的に要約してある。

議事概要には、議論の締めの部分だけ、「今回のことについて、いまだ郵政3社側にご理解いただける対応ができていないことについて、経営委員会として、誠に遺憾に思っている」という石原の具体的な発言が載せられている。
後段の「誠に遺憾」という発言を明らかにしたかったのだろう。だが、印象に残るのは、郵政に媚びへつらった前段の言葉遣いである。実に浅ましく、おぞましい。

11月13日の分の経営委員会に至っては、議事録の末尾に下記の文章が(昨年11月1日付で)追記されているのみだ。

○ NHKのガバナンスについて
平成30年11月7日付で、改めて日本郵政株式会社取締役兼代表執行役上級副社長より、NHK経営委員会宛に書状が届いたので、情報共有を行った。
会長に申し入れを行った内容のうち、本件の措置についての報告は求めないことを、経営委員会として確認した。

「情報共有」であって議論ではないから議事録は作りません、本件の措置については報告不要と確認したので議事録はありません、ということにしたかったのだろう。
こんな組織体が「NHKのガバナンス」を云々するとは、とんだ茶番である。

毎日新聞の記事が出ると、経営委員会による「放送現場への介入」という批判が(与党以外では)噴出した。

昨年10月11日、石原は国会に呼ばれ、「経営委員会は番組の内容や中身に立ち入ることは法律上禁止されている」という珍答弁を披露した。犯罪は法律によって処罰されるから、世の中に犯罪は起きない、と言っているのと同じだ。

この問題の追及に執念を燃やす毎日新聞は、この時の議事録に載っていなかった森下の言葉を取材によって復元した。それが冒頭で紹介した今年3月2日付の記事である。

毎日新聞によれば、2018年10月23日の経営委員会で森下は「郵政側が納得していないのは、本当は取材内容だ。本質はそこにあるから経営委に言ってきた」と述べていた。

森下は国会に呼ばれ、「いろいろと自由な意見交換をする中での言葉だったと思う」と自身の発言を事実上、認めた
番組編集への介入があったことは明らかであり、これを見逃すのであれば、何が放送法違反になるのか、私にはわからない。

森下の釈明は、「具体的な制作手法について指示したものではない。経営委員が番組編集に関与できないことは認識している」というもの。
具体的な制作手法について指示しなければ、日本郵政を怒らせない内容の番組にしろ、というニュアンスを伝えても、番組編集への関与にならないとでも言うのか?

こんな人物が今、経営委員長に収まっている。しかも、二代続けて、だ。

報道の自由を取り戻すために

2019年6月27日、かんぽ生命は2014年以降に不適切な契約が約2万4千件あったと発表し、7月10日にはかんぽ生命と日本郵便が第三者委員会を設置して調査することを表明した。

日本郵政の幹部はNHKに蓋をすることには成功したかもしれない。しかし、腐敗の実態は隠そうとしても隠しきれないほど、巨大かつ醜悪だったである。

その後、7月31日にNHK(クローズアップ現代+)は「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」というタイトルで続編を放映した。

今度は郵政側もさすがに抗議できなかった。2018年4月24日のクローズアップ現代+が間違っていなかったことも、事実によって証明されていた。

これを以って一件落着でよいのか? そんなわけがない。
一度大きく傷つけられた報道の自由を回復するためには、最低限、以下の三つのことを実現すべきだ。

第一は、森下俊三NHK経営委員長の解任。
その必要がないと言うのであれば、経営委は改ざんされていない議事録を公表し、毎日新聞の記事を否定すべきだ。

だが、先週3月5日に行われた衆議院総務委員会へ参考人として出席した森下は、議事録の公開を拒否した。

高市早苗総務大臣も、「より透明性を持った情報公開」を求めつつ、議事録公開を求めるところまでは踏み込まず。(そりゃあ、そうだろう。公開したら安倍のお友達を守れなくなる。)
一方、森下の発言については「現時点で放送法にただちに抵触するものではない」と庇ってみせた。

第二は、NHK経営委員会が上田NHK会長(当時)に行った厳重注意を取り消すこと。

日本郵便とかんぽ生命による大規模な不正営業の実態が明らかになり、クローズアップ現代+の番組が間違っていなかったことがわかった今も、2018年10月23日にNHK経営委員会が上田会長に対して行った厳重注意は取り消されていない。

これは「取材対象から抗議があった場合、NHK会長は取材対象の意向に沿うよう、番組制作上の指導を行うことが望ましい」と暗黙の裡に伝えたお達しが今も生きていることを意味する。
政権側から番組制作に関するクレームがあれば、NHK会長は時の権力者にご理解いただけるような対応をせよ、ということになりかねない。

昨年末、森下が石原の後任の経営委員長に選ばれた。ほぼ同時に、NHK会長には前田晃伸 元みずほファイナンシャル・グループ会長が就いた。前田も森下と同じく、四季の会のメンバーであった。

前田は就任時の会見で「どこかの政権とべったりということはない」と述べた。
だが、前田には、見かけによらず、食わせ者という評がある。件の厳重注意の趣旨を前田が体現し、「政権のためのNHK」にしないか、という危惧は少なからず残る。

そうした懸念を払しょくするためにも、根拠を失った――本当は最初から根拠などなかった――件の厳重注意は正式に撤回すべきだ。

最後に、NHK自身がNHK経営委員会の悪事を暴く検証番組を作り、世に問うこと。

報道の自由を守るためにある組織だと誰もが思っているNHK経営委員会が報道の自由を脅かした。その悪事を暴くことは報道機関であるNHKの務めであり、それを最もよく知る立場にあるのはほかならぬNHKである。

NHK自身にも、表に出したくない脛の傷がまったくないわけではないのかもしれない。クローズアップ現代+は、経営委員会による会長への厳重注意が番組制作へ影響したのではないかという疑念について、以下のように否定している。

去年(2018年)10月23日に、経営委員会が会長に行った厳重注意が、放送の自主・自律や番組編集の自由に影響を与えた事実はありません。前述のとおり、動画の更新作業や取材継続の判断は、去年(2018年)の7月から8月にかけて行われたものです。したがって、経営委員会による会長への厳重注意が番組の取材や制作に影響したことは時系列からみてもありえません。

しかし、これを額面どおり受け取ることはできない。
2018年7月から8月にかけて下した、取材継続をやめるという判断に日本郵政側の圧力は影響していなかったのか?
経営委員会による会長への厳重注意がなければ、クローズアップ現代+の続編放映は2019年7月ではなく、もっと早かったのではないか?

日本郵便とかんぽ生命の不正営業があまりに巨大であり、しかも、NHKは取材を通じてそれをいち早く察知していた。
続編が放映されて世間の関心が高まれば、日本郵便とかんぽ生命に騙される人は減ったはずであり、そのことはNHKの制作現場も痛いほど感じていたと思われる。

続編の放映が最初の番組放映から1年3ヶ月も後になった理由が「郵政のテーマを続編として深めて取り上げるには十分な取材が尽くされていなかったため」だと言われ、はいそうですか、と信じるほど世間は馬鹿じゃない。

NHKの制作現場は、悪いのはNHK経営委員会(特に石原と森下)だと思っていることだろう。それはほとんど正しい。

だが、その悪だくみを叩くことを毎日新聞任せにしている現状は、NHK側の落ち度だ。前田や幹部連中が押さえつけているのだろうか?

NHKが「経営委」化し、権力の犬になることだけは何としても避けなければならない。

 

NHKは今月1日から、ネット同時配信サービスを試験的に始め、4月には本格サービスへと移行する。受信料制度の抜本的な見直しも俎上にあがっていると言う。

NHK経営委員会を含めた広い意味でのNHKグループには、その前にやるべきことがある。自ら身をただすことだ。

「抑制しない政治」の兆しが見える②~政治がメディアを圧迫する時代とリベラルの憂鬱

前回8月24日付のポストで見たように、N国の立花孝志は、マツコ・デラックス叩きを通じて自分の宣伝にまんまと成功した。だが、そんなことよりもずっと重要なのは、弱小政党であってもバラエティー政治評論を黙らせることができることを示したことである。報道メディアもそれを傍観したため、政治による対メディア介入を助長する結果となってしまった。

今回のポストでは、今日の日本のメディアと政治の関係――メディア一般に対する政治の圧力、メディアの党派的政治性など――を概観し、それが所謂リベラル勢力にとって不利な状況を作り出していることを指摘する。

政治がメディアに圧力をかける状況は決して好ましい事態ではない。しかし、トランプのアメリカをはじめ、今日、世界中の民主主義国家で共通して見られる現象であることも否定できない事実だ。「こんな状況はけしからん」と批判するのは、実は現実逃避にすぎない。まずは現実を直視することから始めるしかない。

メディアを叩き始めた政治

戦後の長い間、第四の権力と言われるメディアには、政治的(党派的)に中立であることが求められてきた。その一方で、政治の側もメディアに圧力をかけることはタブーとされた。

もちろん、戦後政治においてメディアが政治的に完全に中立だったと言うつもりはない。政治が水面下でメディアに圧力をかけることもまったくなかったわけではない。だが、少なくとも建前としては、「メディアは党派的に中立であり、政治は報道に介入してはならない」という考え方が世の中に受け入れられてきた。今日でも日本ではまだそう信じている人が少なくない。

しかし、少なくとも自民党とメディアの関係に関する限り、21世紀に入ったあたりからこの建前は形骸化してきた。

その要因の一つは、冷戦後に旧田中・大平派連合から清和会支配へと党内権力の重心が移行したことに伴い、自民党が右傾化したこと。
2001年には従軍慰安婦関連の番組について当時官房副長官だった安倍晋三などが右翼的見地からNHKに注文を付けたことが知られている。

もう一つの理由は、2009年に下野した苦い経験から自民党が政権維持のためならなりふり構わぬようになり、メディアへの圧力もタブー視しなくなったこと。
2014年の総選挙の際には、自民党はNHKと民放各社に「公平中立、公正」な選挙報道を求める要望書を出す。安倍政権批判に偏ることのないよう選挙番組へのゲスト選定に配慮することなど、それまでになかった露骨な圧力が加えられた。その後もこの種の要望は選挙の度に出されている模様である。
2018年秋には、国政選挙でもない自民党総裁選に関してまで、安倍と石破を対等に扱う旨の細かな要望書を新聞各社に出している。石破有利の報道を行わないよう圧力をかけるためであった。

メディアの側も情けない。言うことを聞かなければ安倍に出演・取材拒否されて番組や記事が成立しなくなることを気にかけたり、安倍一強体制が続く中、あとで有形無形の嫌がらせを受けることを恐れたりした結果、自民党の要望に大筋で従ってきた。

このように、最近では政治がメディアに圧力をかけるということが、実際に起きている。しかし、メディアに圧力を効果的にかけることができたのは、これまでは自民党だけだった。野党の多くは政治がメディアに圧力をかけることを依然としてタブー視し続けている。メディアの側も、仮に野党から圧力をかけられても無視することができた。

今回、N国は政治がメディアに圧力をかけられる可能性を大きく広げた。たった一人の国会議員しかいなくても、声を荒げる、有名人や番組スポンサーを攻撃対象に選ぶ、ネット動画で拡散する、等の手法が当たれば、メディアーー少なくとも、ワイドショーの芸能政治評論くらいならーーに圧力をかけて黙らせることができるという実例を作ったのである。

リベラル野党には無理?

ここで断っておかねばならない。N国が今回、成功裡にメディアを叩いたからと言って、すべての政党(野党)が立花のように効果的にメディアを叩けるわけではない、ということだ。

一言で言えば、野党がメディアを叩こうと思えば、ガラがよくては駄目。知性はメディア批判の邪魔をする。立花だけでなく、トランプを見ても、安倍を見ても、そのことは一目瞭然であろう。

日本のリベラル系野党は、旧民主党系を筆頭に、知識偏重でひ弱だ。かつては暴力革命を唱えることもあった共産党でさえ、今やすっかり知識人政党になってしまった。今日、リベラル系野党が産経新聞を批判しても、あることないこと反論されて返り討ちとなるのがオチだ。支持率とメディアへの露出がある程度比例する今日、弱小野党には、「メディアと喧嘩してメディアとの関係が悪くなっては困る」という要らぬ計算も働く。

フェイク・ニュースがはびこる今日、ナショナリズムと感性に訴える勢力の方が、理性や知性を重視する勢力よりも、政治やメディアの世界では有利である。
理由を簡単に説明しよう。

右寄りの政党がリベラルなメディアを攻撃する場合、テーマはナショナリズムが関わるものが多い。その際、右寄り政党は当該メディアの弱みを集中して突く。事実関係に異論があっても、ナショナリズムに結び付けて声高に叫べば、より多くの国民の共感を得ることは比較的簡単だ。しかも、右寄りのメディアもリベラル系メディア叩きに参戦する。この時点で、数のうえではリベラル勢力にとって「多勢に無勢」の状況が生まれる。一方、リベラル系メディアは、右寄りからの攻撃に対して事実関係の検証やコスモポリタニズム(または平和主義)の観点から反論しようとする。しかし、これは手間がかかるうえ、ナショナリズムの関わるテーマを論理だけで議論しても一般国民の共感は広がらない。共産党や社民党を別にすれば、リベラル系野党も国民感情に配慮して「どっちつかず」の態度をとることが多い。

右寄りメディアがリベラル系野党を批判するときは、まったく逆のことが当てはまる。敗戦後、平和主義や知性が幅を利かせた時代は終わり、リベラル系はメディアも政党も不利な立場に置かれているのが今日の実情である。

米国においても、民主党は知性を尊重する支持者を共和党よりも多く持ち、民主党の議員の間にもその傾向が見受けられる。実際、米国の民主党もトランプのフェイク・ニュース攻勢に対して守勢に回らされている。だが、米国の民主党は、日本のリベラル系野党ほど負け犬根性に支配されていないし、同党を支持するメディアを持っている(後述)。日本に比べれば、状況ままだマシと言ってよい。

日本のメディアの党派性

メディアの方も今や、政治的(党派的)中立性を維持しているかと言えば、微妙なところ情勢となった。「微妙」という言葉を使うのは、今日のメディアがすべからく政治的党派性を帯びている訳ではないからである。

我々は一般的な建前として、「新聞、テレビなどのメディアは政治的に中立・公正である」と無意識のうちに思っている。だが、現実はそうではない。

法規制上、テレビ局は前述の放送法で政治的公平性を要求されている。しかし、社の方針として特定政党を支持していても、当該政党に明白に有利な報道を連日繰り返すのでなければ、法的にはアウトとならない。毎週のように自局の番組に複数政党を出演させ、コメンテーター等が特定政党をヨイショするくらいのことは大目に見られる。

論より証拠、右寄りと言われるフジテレビの報道番組では、解説委員が露骨に安倍を支持したり、野党を叩きまくったりするが、それが放送法第4条違反だということにはなっていない。
一方で、保守系陣営から偏向報道だと批判されることの多いテレビ朝日は、安倍政権を批判する傾向が他局に比べて強いことは確かだが、自民党以外の特定政党(立憲民主党など)を支持しているという事実はない。政権批判はしても、野党にもケチをつける。教科書どおりに政治的中立であろうとしているのか、言ってみれば「おぼっちゃま」のようなテレビ局である。

NHKについては長い間、公共放送であるがゆえに民法とは別次元で政治的(党派的)中立性が求められる、と考えられてきた。しかし、NHKの番組制作に自民党や官邸が介入したらしいことは前述のとおり。安倍政権になってからは、百田尚樹、長谷川三千子、古森重隆から、安倍の家庭教師だった本田勝彦まで、安倍に近い右寄りの人物が経営委員に指名された。同じく安倍人脈の籾井勝人が会長に据えられていたことをはじめ、NHK本体の人事にも官邸の意向が反映されているという指摘は後を絶たない。

新聞になると、そもそも根拠法がないので、放送法第4条のように政治的中立を法的に求められているわけではない。右寄りで知られる産経新聞は2010年に綱領を改定して決定的に右旋回した自民党を明白に支持していると言ってよい。産経ほどではないが、読売、日経も伝統的に自民党寄りだ。
一方、朝日、毎日、東京はリベラル系と位置付けられ、自民党に批判的な論調で知られる。ただし、この3社が民主党政権時代、与党寄りだったかというとそんなことはない。権力(政権)に対して批判的なだけで、特定の政党支持を打ち出してはいない。安倍自民党が政権に返り咲いて以降は、安倍政権を礼賛した時期もあったし、評論家よろしく野党叩きに精を出すことも少なくなかった。日本のメディアは溺れる者は叩くが、強い者にはゴマをする習性があるのだ。

最近はネット・メディアも無視できない。「ネトウヨ」という言葉が示すように、この世界では右寄りの政党が支持される傾向が強い。例えば、ネット・メディアの代表格であるニコニコ動画は安倍応援団として知られている。安倍も選挙戦中の討論番組では、地上波テレビ局を差し置いてニコ動に優先的に出演する。リベラル系でニコ動に匹敵するメディアは存在しない。

世界の民主主義国家を見渡してみても、メディアが特定政党を支持する、というのは別に異常なことではない。むしろ、日本のようにメディアが政治的(党派的)に中立を装っていることのほうが珍しい。米国では、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNが民主党系、FOXは共和党系(と言うよりも最近はトランプ系)などとはっきり色分けされる。大統領選のたびにメディアの多くは自社が支持する候補を明らかにすると言う。

ただし、日本のメディアにおいては、(公言してはいないものの)自民党を明確に支持しているメディアは確かに存在する一方、(政権批判には熱心であっても)リベラル系の政党を本気で応援しているメディアはない。その結果、リベラル系政党は自分たちの主張や反論を伝えるうえでも、どうしても後手にまわる。

戦後、日本では(公明との連立も含めた)自民党一党支配が長期にわたって続き、二大政党制が根付いていないことも関係しているのだろうが、逆に言えば、現代日本政治においてリベラル政党が弱体である理由の一つとなっている。

リベラル陣営は立ち直れるか?

N国の立花がマツコ・デラックスに噛みついた事件は、与党・自民党でなくても政党がメディアを叩ける可能性の一端を垣間見せた。だが、メディアを効果的に叩く点においては、政権の座にあるか否かを別にしても、保守系政党の方がリベラル系政党よりも有利だ。しかも、リベラル系政党は、自民党が持っているような「御用メディア」を持っていない。

これでは、リベラル系野党が夢見る政権交代などまずあり得ない。万一、僥倖に恵まれて政権に就くことができたとしても、民主党政権よろしく短期間で下野することは間違いがない。リベラル系の野党は10年計画を立て、綺麗ごとでないメディア戦術を組み立てる必要があるだろう。

危機意識が足りない点では、リベラル系メディアも五十歩百歩。綺麗ごとを墨守するだけでは、このまま保守政党と右寄り行動派メディアにどんどん包囲され、「報道の自由」も何もあったものではなくなる。いつまで党派的中立性をくそ真面目に守り続けるつもりなのだろう?

リベラル勢力に頑張ってもらいたいとは思うが、楽観的展望は描けない。

「抑制しない政治」の兆しが見える①~マツコ・デラックスに噛みついた立花孝志

このところ、「NHKから国民を守る党(N国)」の立花孝志代表が芸能人のマツコ・デラックスの発言に噛みつき、話題になっている。立花一流の炎上商法に本ブログでコメントするのも馬鹿馬鹿しい――。そう思ってスルーするつもりだったが、よくよく考えてみると、この騒動の向こうに現代日本の(世界の、と言ってもよい)民主主義が直面する宿痾のようなものが見えてきた。

これまで日本では、自民党だけがメディアに圧力をかけられる存在であった。しかし、今、我々は、政治が一般的にメディアへ圧力をかけられる時代の入り口にいるのではないか。

マツコの発言は何が問題だったのか? 

7月29日に放映されたTOKYO MX(東京メトロポリタンテレビジョン)の「5時に夢中!」という番組で、マツコ・デラックスがN国について以下のように述べた。

「この人たちがこれだけの目的のために国政に出られたら迷惑だし、これから何をしてくれるか判断しないと。今のままじゃ、ただ気持ち悪い人たち」
「ちょっと宗教的な感じもあると思う」
「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」

これに対してN国代表の立花は「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒。「マツコ・デラックスをぶっ壊す!」と8月12日にマツコが出演中のMXに押しかけ、番組スポンサーである崎陽軒のシウマイについて不買運動を呼びかけたりした。その後、8月19日にもMXを訪れた立花は、崎陽軒不買運動とマツコ批判に終結宣言を出す。しかし、MXに対しては自らの番組出演を要望し、同局が見解を出すまで毎週押しかけ続けると述べた。

マツコの発言に戻ろう。
私は、マツコの発言で敢えて問題があるとすれば、N国が「これだけの目的」(=NHKのスクランブル化)のために参院選に出たことを「迷惑」と述べた部分だと思う。この発言は、シングル・イッシュー政党の存在意義を認めないことにつながる。ただし、「NHKをぶっ壊す」以外の法案賛否などについてN国の見解がわからないため、今後の言動をしっかり見定めたい、ということにマツコの真意があったのであれば、問題視するほどのこともない話だ。

芸能人ではない立花が、自分のことを「気持ち悪い」とか、「宗教的な感じ」がすると言われれば、不愉快な気持ちになったことは十分に理解できる。だが、マツコのこの感覚は少なからぬ人が抱いている感覚である。N国の候補者たちが政見放送で連日繰り返したパフォーマンスを見れば、そう思われてもまあ仕方がないだろう。しかし、マツコが思ったことをそのままに言ってはならないのは、それが誹謗中傷に当たる時のみ。今回のマツコの言葉を誹謗中傷とまで言うことはできない。(念のために付け加えると、マツコの「気持ち悪い」発言は、N国の候補者たちに向けられた言葉だと思われる。だが立花は、わざとかどうかは知らないが、これをN国に投票した人たちへ向けられた言葉と解釈しているようだ。)

結局、立花が最も問題視しているのは、N国へ投票した有権者が「冷やかし」や「ふざけ」によって投票行動を決めた、という部分なのであろう。この言葉に対して立花は、「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒してみせた。自分がケチをつけられたことに怒っているのではなく、一般有権者が侮辱されたことに対し、一般有権者のために怒っている、という体裁をとる。こういうところが立花は実にうまい。

立花は「発言は明らかに公平中立な放送をしなくてはならないという放送法4条違反」だと主張している。N国の上杉某なる幹事長も同様のことを述べ、だから、反論する機会を得るために――つまり、N国を公平に扱うために――立花をMXの番組に出演させろ、と要求している。だがこれ、ほとんど「いちゃもん」である。

放送法4条は放送番組の編集に際して以下の四点を要求している。

1.  公安及び善良な風俗を害しないこと。
マツコの発言が公安を害していないことは言うまでもない。N国の候補者たちが善良な風俗を害していないのであれば、マツコの発言も同様であろう。

2.  政治的に公平であること。
立花は、今回のマツコの発言を、一方的に特定の政治団体を誹謗中傷したものと批判する。だが、事実でもないのに「殺人者だ」「窃盗犯だ」と言われたのならともかく、この程度で「誹謗中傷」にはならない。また、立花が言うように今回の事例で政治的な公平さが損なわれたと解釈するのであれば、テレビでコメンテーターが政党を多少なりとも批判しようと思えば、その政党を必ず番組に呼ばなければならなくなる。これではテレビ局は政党について何も言えなくなってしまう。それは言論の自由の死を意味する。(ついでに言うと、放送法でいう政治的公平性を立花たちのように解釈すれば、ある政党を褒めても公平さを欠くことになるため、他の政党を呼んだ番組の中でしか許されない、ということにもなってしまう。)

何よりも、立花たちは、ここでいう政治的公平性の意味を(無知ゆえにか故意にか)間違って解釈している。政府が想定しているのは、「選挙期間中又はそれに近接する期間において殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合といった極端な場合」や「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が一方の政治的見解を取り上げず、殊更に他の政治的見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合」等だ。放送法第4条にいう政治的公平性は、マツコのような他愛のない発言について針の先のような形式主義をあてはめようとするものではない。

3. 報道は事実をまげないですること
マツコが「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」と述べたことに対し、立花は「みんな真剣に投票している」「誰がふざけて選挙の投票なんかするか!」と怒る。しかし、マツコは「N国に投票した人のすべてがふざけて入れた」と言ったわけではない。実際、「面白そう」というノリでN国に入れた人はいただろう。マツコの発言を虚偽と断定することはできない。それでも立花がマツコを批判したければ、ふざけてN国に投票した人が一人もいなかったことを立花たちが証明すべきだ。立花は「挙証責任はマツコの側にある」と主張するだろうが、それでは放送番組で政治を論じることは事実上できなくなる。

4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

これは例えば、外国人労働者の受け入れとか、カジノとか、憲法改正など、相反する意見がある重要課題について、多様な見解を紹介して一方的な議論にならないようにする、という意味。今回の件が当てはまらないことは言うまでもない。

結論としては、今回のマツコの発言が放送法4条に違反している、というN国の主張自体がフェイクである、ということ。マツコ発言には、立花が噛みつくような正当な問題など見当たらない。

バラエティー政治評論の限界

以上で述べたとおり、立花のマツコ批判は間違っている、と考えるのが正論だ。しかし、立花は自分の議論が正論かどうかなど歯牙にもかけていないだろう。マツコを叩くことによってN国の宣伝は十分に(かつ安上がりに)果たした。

もう一つ、マツコたたきで立花とN国が得たものがある。メディア、少なくともワイドショーのバラエティー政治評論の側に「N国を叩くと面倒なことになる」という気持ちを植え付けたことだ。

今回の顛末を通して、マツコやMX側がダンマリを決め込んでしまったのには少し拍子抜けした。マツコにしてみれば、「反論すれば立花の思う壺」と(それなりに)賢明な判断をしたつもりなのかもしれない。だが、そのために世間では「立花の主張の方に分がある」という見方が広がってしまった感がある。

マツコに限らず、吉本問題ではあれほど好き勝手に発言していたワイドナショーのコメンテーターや芸能人たちも――「爆笑問題」の太田光など一部の例外を除いて――、この件については歯切れが悪い。自分の見解を表明して立花の標的になることを怖れている、というのは考えすぎかもしれないが、彼らは明らかに「怯んで」いるように見える。(私はワイドショーをそんなに見ているわけではないので、あくまで漠然とした感想である。)

これまでワイドショーでキャスターやコメンテーター、わけても芸能人が政党や政治家を批判したり、おちょっくったりしても、今回マツコのように噛みつかれることは基本的になかった。特に、野党を批判しても、批判された側が彼らに牙をむいてくる心配は不要であった。(国会議員ではなかったが、橋下徹はメディアへの反論を厭わなかった。それでも橋本は知識人。反論は言論にとどまり、テレビ局に抗議に出向くようなことはなかった。) 言わば、自分の身は安全な場所に置いたまま、好きなことを言ってもよかった。

ところが今回、たった一人しか国会議員のいない「弱小」政党に軽口を叩いたところ、口汚く猛反発を食らったあげく、テレビ局にまで押しかけられ、スポンサー企業の不買運動まで口にされた。

単にすごむだけではない。芸能人には馴染みのない言葉(放送法第4条とか)を織り交ぜてくる。「崎陽軒に罪はない気がする」と軽いノリでツィートしたダルビッシュ投手は、N国幹事長の上杉から「崎陽軒に罪はないのならば、誰に罪があるのでしょうか?」と完全に議論をすり替えられ、「危機管理」「公共の電波」とむずかしそうな言葉を並べた反論を受けてしまう。少し知識のある人なら、上杉の議論など完全に反駁できるものだが、罪のないダルビッシュは謝罪に追い込まれてしまった。

米国などでは芸能人が支持政党を明確にし、政治的主張を行うことは珍しくない。彼らは、知識、意識、ディベート術もそれなりのレベルにある。政治家と対決することも辞さない。と言うか、その気がなければ表立って発言したりしない。だが、日本の芸能政治評論にそんな覚悟は見られない。立花に噛みつかれた途端、マツコや他の芸能人たちが怯んだのも当然である。

沈黙する報道メディアと政治

今回の一件では、もう一つ肩透かしをくったことがある。新聞を含めた既存メディアや政党(特に野党)がこの件についてあまり発信しなかったことだ。ワイドショーには娯楽色があり、あまり肩ひじ張って政治的公平性の話題を掘り下げろと言うのも酷なところがあるかもしれない。しかし、テレビの報道番組や、新聞までもが今回の騒動に目立った反応を見せていないことは理解に苦しむ。新聞やテレビ局にとっては、愛知トリエンナーレを社説で論じるのと同様の重要性があると思うのだが・・・。

お堅い政治評論の世界に住むお歴々は、芸能人やワイドショーを見下しているのかもしれない。N国とマツコ・デラックスの衝突など、高尚な政治テーマを扱う自分たちが関わる話題ではない、と思っているのかも。しかし、N国的な対メディア攻撃はいずれ、報道メディアにも向かう。(自民党による攻撃に対しては、すでに防戦一方となっている。)今回、報道メディアが黙っているのを見て、彼らもバラエティー政治評論とそれほどレベルは変わらないのだな、と思った次第である。

N国以外の政党からも、立花の言動に対して大きな異議の表明はなかった。私の知る限りでは、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)が「働いている場所までチームのスタッフを連れて行き、目の前で街宣活動するのは国会議員という権力者としてはやりすぎ」と述べたのが唯一である。ただし、松井は「テレビコメンテーターが批判する内容によっては、反論すべき」とも述べている。マツコの発言やそれに対する立花の見解に対する評価には踏み込んでいない。どっちつかず、でN国に対する遠慮さえ感じられる。

 

次回は議論を一歩進め、日本の政治がメディアに圧力をかけている現状を概観してみたい。今の時代にそれが与野党のパワーバランスにどのような影響を与えるかについても考えてみたい。