NHK経営委員会に「報道の自由」の敵が巣食う

前回まで3回のポスト(2月7日2月16日3月7日)で郵便局を舞台にしたかんぽ保険商品の不正営業事件について思うところを述べた。

そこでも簡単に触れたとおり、事件の過程で日本郵政は自らの不正営業問題が白日の下にさらされないよう、NHKに圧力をかけた。その際、NHK経営委員会が日本郵政の味方に付き、NHK会長に圧力をかけていたことが判明している。
これは「報道の自由」の崩壊を招く大問題だ。看過できない。

本ブログでもこの問題を取りあげようと思いながら手間取っていたところ、3月2日付の毎日新聞が「『番組の作り方に問題』 NHK経営委員長がかんぽ報道『介入』か 放送法違反の疑い」という記事を打った。

毎日新聞は昨年9月26日のスクープ以来、この問題の追及に熱心だ。毎日新聞の記事とNHK自身による検証記事を読めば、この問題の論点を追うことができる。

本ポストでは、遅ればせながら、私の意見を述べておきたい。

NHKのスクープと日本郵政の圧力

2018年4月24日――念のために言うが、2019年ではなく、2018年の話だ――、NHKのクローズアップ現代+は「郵便局が保険を“押し売り”!? 郵便局員たちの告白」という衝撃的なタイトルの番組を放映した。おそらく、郵貯グループの不適切営業に最初に切り込んだ番組だったと思う。これはアッパレだった。

7月になると番組側は続編を作るため、SNSで情報提供を呼びかけた。
これに対し、日本郵政、日本郵便、かんぽ生命が社長名でNHK会長宛に「内容が一方的で事実誤認がある」などと掲載中止を申し入れる。

この段階で既に郵貯内部で不適切営業は蔓延していた。
郵政側が「放送内容は間違っている」と思って抗議したのであれば、当時の3社長を含む経営幹部はよほどの無能か、裸の王様ということになる。
不正の存在を知りながら抗議したのであれば、もう背任に近い。

実態はおそらく後者であろう。日本郵政の鈴木・上級副社長は「圧力をかけた記憶は毛頭ない」と述べている。こういう時、本当に圧力をかけていなければ、「圧力をかけてなどいない」と言い切るもの。政治家の「記憶にございません」と同様、「記憶」という言葉を使って否定するのは後ろめたさの表れである。

日本郵政と手を組んだNHK経営委員会

ここまでは、「NHK」対「日本郵政」の戦いだった。

番組サイドが取材をやめないのに業を煮やした郵政側は、番組の担当者が『番組制作について会長は関与しない』と発言したことを問題視し、「放送法上、編集権は会長にあるはず。番組サイドの発言はNHKのガバナンス上、問題だ」とNHK経営委員会に訴えた。

日本郵政の言い分は、世間的には「言いがかり」の類いと言ってよい。
しかし、番組内容の真偽で争うと日本郵政にとって不利となるため、経営委から圧力をかけて現場を黙らせる、という手法を郵政側は選んだのだ。
(この戦術を考え出したのは、鈴木康夫・日本郵政上級副社長――郵政事業と放送行政の両方を所管する総務省の元事務次官――だった可能性がある。)

NHKの上田良三会長(当時)は常日頃、「我々は実際には、放送総局の方に分掌してやってもらっている。自主自律を堅持しながら、事実に基づいて、公平公正、不偏不党といいますか。そういう公共放送としての、守らなくちゃいけないスタンス。これをしっかり守るというのは、口を酸っぱくしてやっている。それを踏まえた上で、現場でやってくれ、と言っています」と表明していた。

番組内容が虚偽だったり取材手法に問題があったのならともかく、郵貯の不適切営業を取りあげた番組制作を止めなければならないとは、上田も考えていなかったに違いない。

だが、NHK経営委員会の石原進委員長(当時)や森下委員長代行(現委員長)から見れば、こうした上田の姿勢そのものに問題があった。
制作現場に任せ、政権批判をされては困る、ということだ。

石原は日本会議と関係があり、安倍政権と非常に近い。森下は安倍総理を囲む「四季の会」のメンバー。安倍が政権批判報道に神経を尖らせ、メディアに対して有形無形の圧力をかけてきたことは周知の事実である。
(脱線するが、石原を最初にNHK経営委員に任命したのは民主党政権(菅内閣)だった。「九州」枠で選ばれたと言うが、脇の甘さはこういうところにも表れる。)

こうして、戦いの構図は、「NHK」対「NHK経営委員会 + 日本郵政」に変わった。
(経営委員の全員が石原と森下に同調したわけではなさそうである。しかし、両名に反対して断固戦った者もいなかったようだ。NHK経営委の議事録的なものには、上田NHK会長に対する注意は、経営委員会の「総意」として行われたと書いてある。委員の一人でも頑強に抵抗すれば、この手の文書に「総意」という単語を載せることはできない。)

石原と森下は日本郵貯がつけた難癖に乗り、経営員会に上田を呼んで叱責した。
上田は抵抗するも、経営委員会には放送法に基づく「(NHK)役員の職務の執行の監督」権限があった。

2018年10月23日、NHK経営委員会は上田に厳重注意を行う。
立場上、上田も最後は経営委員会に逆らえない。最終的に上田は日本郵政側へ詫び状を出させられた。(実に子供じみている!)

こうした経緯を最初にすっぱ抜いたのが昨年9月26日の毎日新聞「NHK報道巡り異例『注意』 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期」という記事だった。

本来なら、石原や森下は自らの不適切営業を隠蔽したい郵政側を一喝し、NHKに対して「理不尽な抗議に屈するな」と激励する立場にあったはず。
だが、現実は違った。

2018年10月23日に行われた当該経営委員会の議事概要――当初、存在しないとされた――は、国会で批判されたことを受けて1年以上たった昨年11月1日に出てきた。
それは発言者が表に出してもよいと認めた発言のアウトラインであり、フルバージョンの議事録ではなかった。他の議題については発言者と発言内容がわかるのに、NHKのガバナンスに関する討議の部分だけ、発言者名が伏せられ、発言は極めて抽象的に要約してある。

議事概要には、議論の締めの部分だけ、「今回のことについて、いまだ郵政3社側にご理解いただける対応ができていないことについて、経営委員会として、誠に遺憾に思っている」という石原の具体的な発言が載せられている。
後段の「誠に遺憾」という発言を明らかにしたかったのだろう。だが、印象に残るのは、郵政に媚びへつらった前段の言葉遣いである。実に浅ましく、おぞましい。

11月13日の分の経営委員会に至っては、議事録の末尾に下記の文章が(昨年11月1日付で)追記されているのみだ。

○ NHKのガバナンスについて
平成30年11月7日付で、改めて日本郵政株式会社取締役兼代表執行役上級副社長より、NHK経営委員会宛に書状が届いたので、情報共有を行った。
会長に申し入れを行った内容のうち、本件の措置についての報告は求めないことを、経営委員会として確認した。

「情報共有」であって議論ではないから議事録は作りません、本件の措置については報告不要と確認したので議事録はありません、ということにしたかったのだろう。
こんな組織体が「NHKのガバナンス」を云々するとは、とんだ茶番である。

毎日新聞の記事が出ると、経営委員会による「放送現場への介入」という批判が(与党以外では)噴出した。

昨年10月11日、石原は国会に呼ばれ、「経営委員会は番組の内容や中身に立ち入ることは法律上禁止されている」という珍答弁を披露した。犯罪は法律によって処罰されるから、世の中に犯罪は起きない、と言っているのと同じだ。

この問題の追及に執念を燃やす毎日新聞は、この時の議事録に載っていなかった森下の言葉を取材によって復元した。それが冒頭で紹介した今年3月2日付の記事である。

毎日新聞によれば、2018年10月23日の経営委員会で森下は「郵政側が納得していないのは、本当は取材内容だ。本質はそこにあるから経営委に言ってきた」と述べていた。

森下は国会に呼ばれ、「いろいろと自由な意見交換をする中での言葉だったと思う」と自身の発言を事実上、認めた
番組編集への介入があったことは明らかであり、これを見逃すのであれば、何が放送法違反になるのか、私にはわからない。

森下の釈明は、「具体的な制作手法について指示したものではない。経営委員が番組編集に関与できないことは認識している」というもの。
具体的な制作手法について指示しなければ、日本郵政を怒らせない内容の番組にしろ、というニュアンスを伝えても、番組編集への関与にならないとでも言うのか?

こんな人物が今、経営委員長に収まっている。しかも、二代続けて、だ。

報道の自由を取り戻すために

2019年6月27日、かんぽ生命は2014年以降に不適切な契約が約2万4千件あったと発表し、7月10日にはかんぽ生命と日本郵便が第三者委員会を設置して調査することを表明した。

日本郵政の幹部はNHKに蓋をすることには成功したかもしれない。しかし、腐敗の実態は隠そうとしても隠しきれないほど、巨大かつ醜悪だったである。

その後、7月31日にNHK(クローズアップ現代+)は「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」というタイトルで続編を放映した。

今度は郵政側もさすがに抗議できなかった。2018年4月24日のクローズアップ現代+が間違っていなかったことも、事実によって証明されていた。

これを以って一件落着でよいのか? そんなわけがない。
一度大きく傷つけられた報道の自由を回復するためには、最低限、以下の三つのことを実現すべきだ。

第一は、森下俊三NHK経営委員長の解任。
その必要がないと言うのであれば、経営委は改ざんされていない議事録を公表し、毎日新聞の記事を否定すべきだ。

だが、先週3月5日に行われた衆議院総務委員会へ参考人として出席した森下は、議事録の公開を拒否した。

高市早苗総務大臣も、「より透明性を持った情報公開」を求めつつ、議事録公開を求めるところまでは踏み込まず。(そりゃあ、そうだろう。公開したら安倍のお友達を守れなくなる。)
一方、森下の発言については「現時点で放送法にただちに抵触するものではない」と庇ってみせた。

第二は、NHK経営委員会が上田NHK会長(当時)に行った厳重注意を取り消すこと。

日本郵便とかんぽ生命による大規模な不正営業の実態が明らかになり、クローズアップ現代+の番組が間違っていなかったことがわかった今も、2018年10月23日にNHK経営委員会が上田会長に対して行った厳重注意は取り消されていない。

これは「取材対象から抗議があった場合、NHK会長は取材対象の意向に沿うよう、番組制作上の指導を行うことが望ましい」と暗黙の裡に伝えたお達しが今も生きていることを意味する。
政権側から番組制作に関するクレームがあれば、NHK会長は時の権力者にご理解いただけるような対応をせよ、ということになりかねない。

昨年末、森下が石原の後任の経営委員長に選ばれた。ほぼ同時に、NHK会長には前田晃伸 元みずほファイナンシャル・グループ会長が就いた。前田も森下と同じく、四季の会のメンバーであった。

前田は就任時の会見で「どこかの政権とべったりということはない」と述べた。
だが、前田には、見かけによらず、食わせ者という評がある。件の厳重注意の趣旨を前田が体現し、「政権のためのNHK」にしないか、という危惧は少なからず残る。

そうした懸念を払しょくするためにも、根拠を失った――本当は最初から根拠などなかった――件の厳重注意は正式に撤回すべきだ。

最後に、NHK自身がNHK経営委員会の悪事を暴く検証番組を作り、世に問うこと。

報道の自由を守るためにある組織だと誰もが思っているNHK経営委員会が報道の自由を脅かした。その悪事を暴くことは報道機関であるNHKの務めであり、それを最もよく知る立場にあるのはほかならぬNHKである。

NHK自身にも、表に出したくない脛の傷がまったくないわけではないのかもしれない。クローズアップ現代+は、経営委員会による会長への厳重注意が番組制作へ影響したのではないかという疑念について、以下のように否定している。

去年(2018年)10月23日に、経営委員会が会長に行った厳重注意が、放送の自主・自律や番組編集の自由に影響を与えた事実はありません。前述のとおり、動画の更新作業や取材継続の判断は、去年(2018年)の7月から8月にかけて行われたものです。したがって、経営委員会による会長への厳重注意が番組の取材や制作に影響したことは時系列からみてもありえません。

しかし、これを額面どおり受け取ることはできない。
2018年7月から8月にかけて下した、取材継続をやめるという判断に日本郵政側の圧力は影響していなかったのか?
経営委員会による会長への厳重注意がなければ、クローズアップ現代+の続編放映は2019年7月ではなく、もっと早かったのではないか?

日本郵便とかんぽ生命の不正営業があまりに巨大であり、しかも、NHKは取材を通じてそれをいち早く察知していた。
続編が放映されて世間の関心が高まれば、日本郵便とかんぽ生命に騙される人は減ったはずであり、そのことはNHKの制作現場も痛いほど感じていたと思われる。

続編の放映が最初の番組放映から1年3ヶ月も後になった理由が「郵政のテーマを続編として深めて取り上げるには十分な取材が尽くされていなかったため」だと言われ、はいそうですか、と信じるほど世間は馬鹿じゃない。

NHKの制作現場は、悪いのはNHK経営委員会(特に石原と森下)だと思っていることだろう。それはほとんど正しい。

だが、その悪だくみを叩くことを毎日新聞任せにしている現状は、NHK側の落ち度だ。前田や幹部連中が押さえつけているのだろうか?

NHKが「経営委」化し、権力の犬になることだけは何としても避けなければならない。

 

NHKは今月1日から、ネット同時配信サービスを試験的に始め、4月には本格サービスへと移行する。受信料制度の抜本的な見直しも俎上にあがっていると言う。

NHK経営委員会を含めた広い意味でのNHKグループには、その前にやるべきことがある。自ら身をただすことだ。

日本郵政は解体すべきだ~③ユニバーサル・サービスの範囲を見直し、郵便局を「小さく」残せないものか?

今年1月17日に行われた記者会見。岩田一政 郵政民営化委員長は次のように述べた。

(かんぽ保険商品の不正営業によって)国民の信頼感を失ったことはこの長い歴史の中でとても悲しい出来事であったと思います。同時に、今回の問題を抜本的に改革することができれば、新しいステップ、本当に民営化してよかったというものにつなげていく可能性も秘めていると思っておりまして、例えば1月末に公表されます業務改善計画の中で抜本的なメスが入って、そのメスの中に(民営化後をにらんだ)新しいビジネスモデルになるようなものが出てくれば大変に望ましいと思っております。

何とも能天気なことだ。「規制緩和(民営化)すれば、経済はよくなる」という時代遅れのエコノミストとして、面目躍如と言ったところか。

日本郵政グループにおける不正営業問題は、全体像すら未だに把握しきれていない。それが収益面へ及ぼす悪影響も計り知れない。
にもかかわらず、不正営業問題がもう峠を越したかのごとく、岩田は「新しいビジネスモデルを!」とグループ各社の新経営陣に求めた。はっぱをかけられた新経営陣たちも鼻白んだに違いない。

日本郵政グループ各社の経営は、郵政民営化法が規定する「郵政民営化」の枠組みの中でしか行えない。法律の制定は2007年の小泉改革に遡り、2012年の改正を経て今日に至っている。

今日、既存の「郵政民営化」の枠組みの下で日本郵政グループが将来にわたって安定的に収益をあげることはできるのか――? 誰もが疑問に思い始めている。

苦境の中で無茶をした結果、かんぽ保険商品の不正営業問題(日本郵便とかんぽ生命)や投資信託の不適切販売(ゆうちょ銀行と日本郵便)が起きたと言えよう。
今、「郵政民営化」の枠組みそのものを見直すべき時が来ている。

だが残念ながら、郵政グループの経営形態を描き切るという大仕事は私の手に余る。
本稿では、現在の「郵政民営化」の枠組みが持つ問題点を明らかにし、見直しの方向性について若干の考えを述べるにとどめたい。

郵政「民営化」の実態

現在、小泉純一郎が企図した「郵政民営化」はその完成形に向かう途上にある。
しかし、「郵政民営化」の行きつく先と一般人が思い描くような民営化は大きく異なっている。

第一に、民営化が完了した時点でも、政府はグループの中核をなす「日本郵政」が発行する全株式の3分の1超を保有し続ける。これは法律に明記されていることだ。

持ち株比率が3分の1を超えていれば、株主総会で特別決議を否決することができる。したがって、「民営化」された日本郵政が定款の変更、解散、合併、事業譲渡などを行おうとしても、日本政府は拒否権を持つ。

現在の日本政府の持ち分(財務大臣名義)は約57%である。政府は昨年5月に主幹事証券会社を決定し、昨秋にも保有比率を(法律上の下限である)3分の1まで下げるつもりだった。しかし、保険商品の不正営業問題によって株価が下落したため、株式の売却も見合わせることになった。

法律上、日本郵政株の政府持ち分を3分の1超まで減らさなければならない期限は2022年度まで。だが、政府は今国会にも関連法律を再び改正し、この期限を2027年度まで延ばす考えだという。

昨年、政府が株式を売り出そうとしたのも、郵政民営化を進めるためというより、東日本大震災の復興財源を捻出するため、という側面が大きかった。今後は「法律上、政府の持ち株比率は3分の1なのだから、現状(57%)のままでよい」という意見が出てきても私は驚かない。

第二に、今も将来も日本郵政は日本郵便の全株式を保有し続ける。当然、日本郵便は非上場だ。そして、日本郵政と日本郵便にはユニバーサル・サービスの義務がかかる。

第三に、日本郵政はゆうちょ銀行とかんぽ生命の全株式を売却することになっており、二社は少なくとも株式保有面ではおそらく完全民営化される。
おそらく、と言うのはどういうことか?

民営化がスタートした時、ゆうちょ銀行とかんぽ生命は日本郵便と同様、日本郵政(=国が100%出資)の完全子会社であった。
その後、2015年11月に両社株式の11%が売り出され、かんぽ生命については2019年4月にも追加売却が行われた。
今日、日本郵政はゆうちょ銀行の89%、かんぽ生命の64.5%の株式を保有している。

小泉政権下で成立した郵政民営化法によれば、日本郵政はゆうちょとかんぽの全株式を2017年9月までに売却することになっていた。
しかし、2012年に民主党政権下で法改正された結果、2017年9月という時期は削られ、「できるだけ早期に」全株を売却すればよいことになった。努力義務規定のようなものだ。

自民党が政権に復帰して7年以上たつが、法律を再改正して全株売却の時期を明示しようという動きは微塵も見られない。2012年の法改正には、当時野党であった自民党や公明党も賛成したのだから、それも当然だ。小泉進次郎が「父親の改革をやり遂げる」と言っているのも聞いたことがない。
郵政民営化に対する熱狂は、小泉純一郎と共に来たり、小泉純一郎と共に去ったのである。

今や、ゆうちょとかんぽの株式売却に熱心なのは、その売却益を東日本大震災の復興財源にあてたい財務省だけだ。その財務省にも往年の力がないことは周知の事実。

ゆうちょ銀行とかんぽ生命の日本郵政持ち分がゼロになり、資本面で文字どおり民営化が実現する日は果たして来るのだろうか?
仮に形だけ民営化したとしても、旧特定郵便局長会、労働組合、総務(旧郵政)省、そして過疎地にも郵便局を残したい政治家たちが、あの手この手を使って既得権を温存しようと画策するに違いない。

「民は成功する」というカビ臭い信仰

ゆうちょ銀行とかんぽ生命に対する(日本郵政を通じた)国の出資がなくなれば、官であるが故の不自由さがなくなり、経営的にも自立していける――。それがいわゆる民営化論推進論者たちの描くシナリオ(=岩田の言うビジネスモデル)だ。

国営であればもちろん、直接・間接を問わず国の出資が残る限り、ゆうちょ銀行やかんぽ生命は「潰れることはない」と考えられるため、民間金融機関側はハンディを負う。官民の競争条件をそろえるため、ゆうちょやかんぽには他の民間金融機関にはない規制がかけられてきた。

「郵政民営化」のプロセスが動き出すと、国の出資割合が減るにつれてゆうちょ銀行やかんぽ生命にかかる規制も緩められた。最終的に国の出資がゼロになれば、規制は他の民間金融機関並みにまで下げられる。

例えば、民間の銀行であれば、預金保険の適用額は別にして、預金を受け入れる金額に制約はない。だが、郵便貯金への預入については、従来(=1991年以降の場合)1000万円の限度額が設定されていた。

「民営化」が進むと、2016年4月に預入限度額は1300万円まで増やされた。
さらに2019年4月以降、通常預金と定期性預金でそれぞれ1300万円、合計で2600万円となって今日に至っている。

同様に、かんぽ生命への加入限度額は1986年以降、ずっと1300万円だった。2016年4月、限度額は2000万円まで引き上げられた。

日本郵政を通した国の出資割合がゼロになれば、こうした限度額は撤廃される見込みだ。

では、ゆうちょ銀行やかんぽ生命が「完全民営化(=国の出資割合がゼロになる)」し、規制が大幅に緩和すれば、両社にはバラ色のビジネスモデルが待っているのか? そんなことを信じている者がいるとすれば、竹中平蔵や岩田くらいのものだ。

待ち受ける「茨の道」~金融機関 冬の時代

ゆうちょ銀行とかんぽ生命の業界内での位置づけを見ておきたい。

ゆうちょ銀行の貯金残高は昨年12月末時点で約184兆円。三菱UFJ銀行の預金残高が約181兆円(昨年9月末時点)だ。規模の面から見れば、ゆうちょ銀行は国内トップ・クラスの銀行と言えなくもない。
収益面では、2018年度決算で三菱UFJ銀行の当期利益は4,872億円(連結)だったのに対し、ゆうちょ銀行の数字は2,661億円。儲かってこそいるが、規模の割には見劣りしている。

かんぽ生命の2019年3月末時点の総資産は73.9兆円。数字としては十分に大きいが、ピークだった2002年3月末の126兆円に比べれば、何と4割以上も減っている。2018年には日本生命に抜かれ、長年君臨してきた首位の座から陥落した。
収益面でも、第一生命や日本生命が4,000億円超(連結)なのに対し、かんぽ生命は2,651億円と差をつけられている。

ゆうちょ銀行とかんぽ生命の業界内での位置づけは、「筋肉質でない巨人――かんぽ生命の場合、背丈の縮小が著しい――」と言ったところであろう。

ゆうちょ銀行とかんぽ生命が直面する困難には、①我が国の金融機関に共通の問題と、②ゆうちょ銀行とかんぽ生命に独特な問題、という二つの側面がある。

今日の日本の金融機関を取り巻く収益環境は、例外なく非常に悪い。
人口減少の続く日本では資金需要が弱く、預金だけが続く状況が長期間続いている。
加えて、金融とテクノロジーの融合が進み、金融機関はますます装置産業化、それに対応するために甚大なコストがかかる。
金融業で生き残るのは、どの金融機関にとっても大変な時代になった。

2019年3月期、地方銀行――地域においてゆうちょ銀行と地盤が重なっている――約100行のうち4割以上が本業で赤字だった。今年の3月期はもっと厳しいと思われる。大手行ですら、この数年間の収益は頭打ち。(例えば、三菱UFJ銀行はこちら。)
ゆうちょ銀行の低迷傾向はさらに顕著である。

こうした「金融機関・冬の時代」にあって、ゆうちょ銀行には収益の柱がなく、今後も見つかりそうにない。これはちょっと、絶望的と言える。

郵便貯金の時代は、全国津々浦々の店舗網を通して貯金を集め、国債で運用すれば利鞘が稼げた。貯金を多く集めれば集めただけ、収益もあがる、というビジネスモデルだった。
超低金利の続く今日、ゆうちょ銀行は(他の金融機関と同様に)運用難に苦しんでいる。

ゆうちょ銀行はもともと貸出し業務はやっていなかったため、昨年末時点で貸出し残高は4.7兆円(運用資産の構成比で2.2%)にすぎない。企業の資金需要が減る中、ノウハウに乏しいゆうちょ銀行が今後も貸し出しを伸ばすとは期待できない。

投資信託の販売手数料で稼ぐのはどうか? 日本中の銀行や証券会社が同じことをやっている。投信の知識が格別にあるわけでもない ゆうちょ銀行だけがガンガン数字を伸ばせるわけもない。そこで無理をした結果が、昨年表面化したゆうちょ銀行(及び日本郵便)による投信不正販売問題であった。

勢い、運用の中心は株式を含む有価証券投資となる。昨年末の有価証券残高は約137兆円(運用全体の64.4%)。
うち日本国債が53.2兆円を占めるが、10年ものでさえ利回りはマイナスだから、近年は残高の低下が著しい。
代わりに増えているのが外国証券で67.6兆円となっている。ただし、これもリスクと背中合わせだ。リスク・テイクが必ずしも悪いとは思わない。だが、資金運用益に過度に依存する収益構造が危うさを抱えていることは間違いない。

資金粗利鞘は低下を続け、2015年度に0.66%あったものが、2018年度には0.48%となった。
世界経済が順調に伸びていた時でさえ、日本はデフレで異次元の超低金利政策が続いた。今後、米中貿易戦争や新型コロナウイルスの蔓延など、世界経済はきびしい時代を迎える可能性が高い。報道によれば、ゆうちょ銀行が外部からスカウトした資金運用担当者も社外流出している模様だ。利鞘の一層の縮小は今後も避けられまい。

かんぽ生命の収益環境も良くない。

こちらは超低金利が続き、貯蓄性の高い養老保険の残高がはげ落ち、それを補うだけの商品開発力もないため、契約の残高自体が減少している。運用難は生命保険会社にもあてはまる。
こうした状況下で民営化(株式売り出し)を進めるため、日本郵政グループは無理なノルマを立て、郵便局を舞台にした保険商品の不正営業問題を招いた。

2020年3月期、かんぽ生命の当期利益は増える見込みだと言う。でもこれは、営業自粛及び業務停止の影響によって日本郵便(郵便局)へ支払う手数料が減った、というかんぽ生命独特の要因に依るもの。不正営業の代償は今後、(今期のプラス分以上を)間違いなく払わなければならない。「かんぽ生命=安心」というブランド・イメージも大きく傷ついた。

国の(間接)出資がゼロになり、民間金融機関との間で限度額や商品の品ぞろえに関するハンディがなくなれば、ゆうちょ銀行とかんぽ生命にとって経営上の自由度が増すのは確かだ。しかし、それだけで乗り越えられるほど、ゆうちょ銀行とかんぽ生命を取り巻く環境は甘いものではない。

今のまま「郵政民営化」を断行することは、国の関与という安全装置を捨て去り、嵐の中に帆船で漕ぎ出そうとしているようなものだ。ご苦労様、としか言葉が浮かばない。

郵便局との特殊なもたれあい

日本郵政が保有しているゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式をすべて売却すれば、ゆうちょ銀行とかんぽ生命は、資本面では国との関係が切れる。(下図参照。)

理論上、政府の間接出資から脱したゆうちょ銀行とかんぽ生命は、経営者の判断で他の金融機関と合併することも自由だ。株主が二社を別の金融機化に身売りし、売却益を得たいと考えても、資本の論理からは当然のこととなる。

一方で、2012年に郵政民営化法が改正され、日本郵政と日本郵便(郵便局)は「簡易な貯蓄、送金及び債権債務の決済」と「簡易に利用できる生命保険」をユニバーサル・サービスとして行う責務を負っている。(以下を含め、こちらの資料を適宜参照した。)全国あまねく郵便局において、銀行窓口業務と保険窓口業務を郵便窓口業務と一体で行わなければならない、というわけだ。

現在、郵便局では、ゆうちょ銀行が銀行窓口業務を、かんぽ生命が保険窓口業務を、郵便局(日本郵便)に委託することによってユニバーサル・サービスが維持されている。その際、ゆうちょ銀行とかんぽ生命は日本郵便に委託手数料を支払い、日本郵便にとってはそれが貴重な収入源となっている。

法律上はユニバーサル・サービス義務のかからない ゆうちょ銀行とかんぽ生命にしてみれば、過疎地の郵便局にまで委託手数料を支払うことは採算的に合わず、本来、資本の論理に反した行為である。
今は日本郵政が支配的な親会社だから、それを曲げさせることができる。だが将来、「完全民営化」してしまえば、ゆうちょ銀行やかんぽ生命の株主たちは何と言うだろうか?

採算のとれる郵便局だけに窓口を置くような「いいとこどり」を日本郵便側が認めることはない。
だが、郵便局と絶縁すれば、ゆうちょ銀行やかんぽ生命は広範な店舗網を失う。貯金も保険も残高が大幅に減り、運用難以前の問題として経営は苦しくなるだろう。

郵便局の方も、単独で銀行・保険の窓口業務を行うだけの人的リソースや資金力は持っていない。郵便・銀行・保険の三業務でユニバーサル・サービスを維持するためには、銀行と保険は他社に頼らざるをえない。

都市部で立地条件のよい郵便局であれば、他の銀行や生命保険会社に業務委託することもできようが、それ以外はむずかしいはず。過疎地も含めて銀行・保険の窓口を維持できなければ、ユニバーサル・サービスは維持できない。

このように見ると、資本関係が完全に切れたとしても、日本郵便とゆうちょ銀行、かんぽ生命は「持ちつ、持たれつ」の関係が終わるとは限らない。
だが、その関係が残る以上、「完全民営化」後のゆうちょ銀行やかんぽ生命を買収しようという金融機関は出てこないと思うべきだ。ゆうちょ銀行やかんぽ生命側が大規模な合併を追求する場合も、日本郵便との関係が障害となるのは間違いない。

ゆうちょ銀行やかんぽ生命が民営化されれば、サラリーは青天井で出せるようになるため、他の金融機関から有能な経営者を招聘すればよい、という議論がある。
しかし、本当に有能な経営者なら、いくら高いサラリーを積まれても、経営上の制約がこんなに大きい会社の経営を引き受け、失敗して経歴に傷をつけるような愚は犯さない。

ちょっと脱線する。
小泉純一郎と竹中平蔵がタッグを組んで推し進めた郵政民営化は、資本面の国の関与を弱めるという表面だけを取り繕ったものにすぎない。その奥にあった郵政ファミリーの既得権益との戦いには踏み込めなかった。
小泉は、郵政民営化の道筋をつければ、郵政ファミリーの既得権益構造も時間と共に自壊していく、と思っていたのかもしれない。しかし、そうであれば、小泉はもう少し総理大臣の座にとどまるべきであった。
「法律は往々にして、制定よりも実施の方が肝である」というのが永田町の鉄則。本当に結果を出したければ、政治家は淡白であってはならない。

ユニバーサル・サービスを問い直せ

小泉流の郵政民営化を予定通り断行しても、どでかい図体のゆうちょ銀行やかんぽ生命が生き残ることは中長期的に困難を極めるだろう。身売りするにしても、日本郵便との関係がネックになる。

かと言って、ゆうちょ銀行やかんぽ生命を国営に戻したところで、非効率が温存されるから儲けは減る。日本郵政グループを維持するためには、直接、間接を問わず税金投入を膨らませなければならない。

事ここに至っては、新しい改革と言うのだろうか、日本郵政グループのあり方をもう一度考え直すことが必要だ。

再考する際の出発点は、ユニバーサル・サービスの範囲である。

ユニバーサル・サービス自体は、税を投入してでも守り抜くべきである。
地方や過疎地に住んでいるという理由で都市部に住んでいる人よりも極端な不自由を強いられる、ということはあってはならない。
だが同時に、地方と都市部で同等のサービスが受けられる、というのも現実的ではない。
結局、問われるのは、地方でも保障されるべき「必要最低限のサービス」とは何か、ということ。

今日、郵便、簡易な貯金・決済、簡易な生命保険についてユニバーサル・サービスが義務化されていることは既に述べた。これを郵便と簡易な現金・決済機能のみに縮小すべきだ。

国際的に見ても、郵便はユニバーサル・サービスと位置づけられている国が多い。例えば、米国、英国、ドイツ、フランス、イタリアでは、郵便のみがユニバーサル・サービスの対象となっている。

民間の宅配便業者などが信書の配達を全国津々浦々まで低額で引き受けてくれるか、ユニバーサル・サービス込みで日本郵便を買収してくれれば、郵便事業をユニバーサル・サービスとして法律で規定する必要はない。
だが、そんな民間企業は現れそうにない。万一現れたとしても、当該民間会社から後になって「やっぱりユニバーサル・サービスは無理」と言われたら、大変なことになる。

ただし、郵便事業を今後もユニバーサル・サービスの対象とすることと、今の日本郵便のような会社形態をとって事業の多角化や拡大をめざすのがよいかは別問題だ。
狭義の郵便業務に特化し、事実上国営として当面存続させるという選択肢もある。

通信技術がさらに進み、同時に人口減少と過疎化が進行すれば、郵便事業が先細りになることは避けられない。手を広げない(むしろ、縮小する)かわりに赤字は(実質的に)税金で補填する、と発想を切り替えるのだ。

郵便料金の値上げや配達頻度の低下――「郵政民営化」の実施後に顕在化した合理化の一種である――など、税金投入を最小限にする手立ては引き続き講じるべきであろう。

銀行機能のうち、貯蓄(投信等を含む)については、自分の町に金融機関がなくなっても、近隣の市町村にある金融機関へ行ける。もちろん、不便にはなるが、生活できないとまでは言えない。申し訳ないとは思うが、我慢してもらうしかない。
今後、ネット取引がますます便利になれば、わざわざ金融機関の窓口へ行くことは、都会でも地方でもどんどん減っていく。

保険機能についても同様だ。自分の住む町に保険会社(窓口)がなくても、近隣から外交員が訪問することは今も行われている。

仮にゆうちょ銀行やかんぽ生命が過疎地や不採算地域での業務を縮小・廃止しても、(不便にはなっても)生活できなくなる、とまでは言えない。貯蓄や保険のような「享受する時間に比較的猶予のあるサービス」については、全国あまねく保証されるべき必要最小限のサービスとみなさなくてよい。

悩ましいのは、ゆうちょ銀行が担っている現金引き出し・決済機能である。

日本では、カード決済に対応できない住民や店舗がまだまだ多い。都会に住んでいる人でも、現金なしで生活できる人はほとんどいないはず。
キャッシュレス化社会になるまで、相当な長期間にわたって現金の引き出しや送金機能は必要であり続ける。

ゆうちょ銀行が完全民営化されれば、過疎地や地方の不採算店舗は縮小、廃止を免れない公算大だ。足りなくなった部分は、地方銀行、信用金庫、信用組合、農協、コンビニ等に期待するしかなくなる。しかし、他の地方金融機関も経営環境はきびしい。ゆうちょ銀行の穴を埋めるどころか、郵便局以外に金融機関のない町村――2015年時点で24あった――は今後も増え続けよう。

田舎(過疎地)に住んでいるのだから現金が引き出せなくても仕方ない、と言うわけにはいかない。したがって、簡易な現金・決済機能は少なくとも当分の間、全国あまねく維持されるべき「必要最小限のサービス」に含められるべきだと思う。

簡易な現金・決済機能をユニバーサル・サービスとして維持するとしても、そのためだけにゆうちょ銀行(またはゆうちょ銀行を買収した金融機関)に現在の店舗網――郵便局を通じた窓口機能を含む――を維持するよう求める、というのも非現実的だ。

郵便事業はユニバーサル・サービスが将来も義務化され続けるため、郵便局は(税投入してでも)過疎地を含めた市町村に将来も維持される。その郵便局やコンビニ、役場などへ他の金融機関のATMを置いてもらい、必要な経費は国が出す、というのも一つの方法だと思う。その際、過疎地ではATM取扱手数料を無料にする、くらいの配慮をしても罰は当たらない。

維持すべきは、簡易な現金・決済「機能」である。それを行う「窓口」ではない。

ユニバーサル・サービスとして全国あまねく維持されるべき業務を、現在の「郵便」「簡易な貯金・決済」「簡易な生命保険」から「郵便」と「簡易な現金・決済」に絞れば、「完全民営化」されたゆうちょ銀行とかんぽ生命が企業価値を高めるためのシナリオも様々に描ける。経営を効率化したうえで、合併や身売りの展望も開けてくる。

郵政民営化のあり方をかくも大胆に見直すのであれば、日本郵政がゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式を市場で売り出す、という現在のやり方も見直した方がよい。
合併や身売りを視野に入れ、政府の責任で提携相手先を見つける。条件次第では、相手が外資でも別に構わない。そして、日本郵政が持つ株式は相対でそこに売る。その方が、全株を市場に売り出すよりも、話は早い。

ゆうちょ銀行もかんぽ生命も、郵政公社の時代から旧郵政官僚、旧特定郵便局長、組合などがもたれあう構造を引きずっている。今回のかんぽ保険不正販売が拡大したのも、この構造が背景にあったからだ。
今のユニバーサル・サービスを維持したまま、市場を通じて株式を売り出して「完全民営化」しても、この構造はそっくり温存されかねない。

ユニバーサル・サービスを縮小することによって、ゆうちょ銀行とかんぽ生命をこの構造から切り離す。
そして、政府――総務省ではなく、金融庁か財務省が中心になる――の責任で身売り先を探し、完全な外部勢力である新経営陣の下で完全に生まれ変わる。

一方で、郵便事業は事実上国営で、郵便事業そのものが必要性を失うまで全国津々浦々に維持する。現金の引き出しや送金機能も同様に税金投入して最低限維持する。

民営化と国営化のハイブリッド――。それが私の考えた答だ。

日本郵政は解体すべきだ~②まるで他人事だった政府と民営化委員会

前回のポストでは、その不正営業について郵政グループ自身の責任を問うた。メディア情報を眺めていても、だいたいはそこで終わっている。だが、この問題で国に責任はないのか?

郵政グループは小泉改革によって「民営化」されたことになっている。しかし、その実態は「株式会社化」による「一部民営化」だ。
政府は今も日本郵政(=日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命などを傘下に持つ日本郵政グループ中核の持株会社)の発行済み株式のうち、約57%を保有している。日本郵政の出資比率は、日本郵便100%、ゆうちょ銀行89%、かんぽ生命64.5%となっている。半官半民よりも国有色が強い、と言えるだろう。

これが純粋な民間会社なら、大株主が経営に口出ししようがすまいが、私を含めて外野がとやかく言う筋の話ではない。しかし、日本郵政グループの場合、株式の過半を政府が出しているから、その経営がうまくいかなければ、株価の下落を通じて国民の資産が目減りする。過疎地などで住民が郵便・金融サービスを受けられなく可能性も出てくる。

圧倒的な大株主である国(政府)は、現場に一部いる不届き者や無能な経営陣をまるで他人事のように批判しているだけでは済まされない。

このポストでは、今回郵政グループで見られた不正営業問題について、監督機関であり同時に過半株主でもある国の責任を指摘したい。さらに、今後の郵政のあり方についても私見を述べる。

見て見ぬふりを決め込んだ政府

前回のポストでは、日本郵政グループでかんぽの保険商品販売をめぐって不正が横行し、それを経営陣が見て見ぬふり(あるいは、なす術もなく放置)したばかりか、隠蔽まで図ったことの責任を指弾した。(隠ぺい工作の詳細については次々回、NHK経営委員会の罪について書くときにきちんと述べる。)

では、国はこの間、何をしていたのだろうか?

国は、郵政の不正営業について二つの責任を有している。
一つは、監督官庁としての責任。郵政グループ全般に対しては日本郵政株式会社法に基づいて総務省が監督権限を持ち、いわゆる金融業務(銀行、投信、保険等)については金融庁が監督する。
もう一つは、日本郵政グループの実質的なオーナーとしての責任。これについては冒頭に書いたとおりである。

金融庁(対かんぽ生命及び日本郵便)と総務省(対日本郵政及び日本郵便)が昨年12月27日に行政処分を下した。
年が明けた1月10日の会見では、日本郵政の経営改革について麻生太郎財務大臣(兼金融担当大臣)は次のように述べている。

社風を一新しますとかね、一新しますなんて話は嘘八百なんだ。できっこないんだから、長い組織、しかも古い組織をね。そんな簡単に一新しますとかね、ちょっと辛抱強くやってもらわないかんということだと思います。

麻生らしい毒舌だが、そこにはどこか「他人事」という感じがつきまとっている。「悪かったのは郵政の連中、俺たちは監督機関としてちゃんと処分した。あとはちゃんとやってくれよ」とでも言いたいのだろう。

しかし、最終的に行政処分を下したからと言って、総務省や金融庁は責任をきちんと果たしてきた、と胸を張れるとは思わない。「1年遅かったんじゃないの?」ということだ。

2018年4月24日、NHKの『クローズアップ現代+』は「郵便局が保険を“押し売り”!? 郵便局員たちの告白」という番組を放映した。

この番組一つで金融庁が検査に入るべきだった、というのはさすがに乱暴かもしれない。だが、この頃、NHK以外にも郵便局で行われている不正を取り上げるメディアが出始めていた。

クローズアップ現代+が報じた内容は、金融機関としてあってはならない言語道断のものであり、事実なら郵政グループは金融機関として存続を許されないほど悪質なものだった。しかも、天下のNHKが何の根拠もなくこれだけの番組を流すわけがない、と思うのが普通の感覚である。

金融庁や総務省がよほど鈍感でない限り、遅くともこの時点では、不正を知る端緒をつかんだと考えてよい。であれば、この時点で郵政側に報告を求めるなど、何らかの警告を発するべきだった。

郵政の不正営業は、いつまでも「見て見ぬふり」を続けるには規模が大きすぎた。
しかも、2019年4月にかんぽ生命の株式を追加売却した後、不正営業の不祥事が表面化して株価が下がった。ここに至ってようやく、政府は重い腰を上げることになる。

実際に金融庁と総務省が郵政側に報告を求める命令を出したのは、2019年8月8日である。立ち入り検査に入ったのは、9月11日。
クローズアップ現代+から1年3~4ヶ月以上もの間、政府は何をボーっとしていたのか?

監督省庁がすぐに動くことはなかった。
一方でNHKは、2018年4月に上記番組を第一弾として放映した後、続編の制作にとりかかる。

ところが日本郵政グループの経営陣はNHKに事実上の続編中止を要求、それが認められないと知るや、NHK経営委員会を通じてNHK本体に圧力をかけた。はっきり言って、不正の隠ぺい工作である。
同年10月、経営委員会はNHK会長を厳重注意する。NHKによる第二弾の放映は2019年7月まで延期された。

身内の馴れ合い

この時期、郵政側の対応を主導したのは日本郵政上級副社長の鈴木康夫だったと言われる。と呼ばれた鈴木康夫だったと言われる。1973年に旧郵政省へ入省した鈴木は総務省事務次官まで昇りつめ、天下り後は「日本郵政グループのドン」と呼ばれた。当然、NHKに対しても睨みが効く。(総務省が放送行政を司っていることは説明するまでもないだろう。)

この鈴木という人物は相当癖のある御仁と見える。
NHKのクローズアップ現代+が続編を制作しようとしていたことに対し、「取材を受けてくれるなら(情報提供を呼びかけた)動画を消すなんて、そんなことを言っているヤツの話を聞けるか、と。それじゃ暴力団と一緒でしょ。殴っておいて、これ以上殴ってほしくないならもうやめてやる、オレの言うことを聞けって。バカじゃないの」と記者団に公言している。
郵政で行われていた不正を報道したというNHKの行為と、暴力団が因縁つけて殴るという行為を同一視するとは驚きだ。脛によほど大きな傷を持った人でないと、こうは言わない。

鈴木は古巣の総務相に対しても相当な発言力を持っていたらしい。
そのことが窺い知れる事件が昨年末に起きた。総務省の現職事務次官だった鈴木茂樹(1981年郵政省入省)が、こともあろうに郵政グループに科す行政処分の内容を事前に郵政側へ伝えていたことが判明、更迭の憂き目にあったのだ。
総務次官の鈴木が情報を漏洩した相手が郵政の鈴木である。

総務省による行政処分の内容が日本郵政側に漏れていた事件は、鈴木(郵政副社長)流に言えば、「警視総監が暴力団若頭に捜査情報を横流し」していたような、役人道にもとる不正だ。
監督官庁である総務省の情報が郵政側に駄々洩れとなっていたのは、この行政処分に関わるものだけだったのか?
鈴木副社長は総務省に対して自社に有利な取り扱い――NHKへの圧力を含む――を要望していたのではないか?
疑いは尽きない。

漏洩の発覚を受けて即刻、高市早苗総務大臣は鈴木茂樹次官を停職3ヶ月に処した。これは一見、果断な対応に見えた。しかし、鈴木は処分を受けて辞表を提出し、辞職が認められた。多少は減額されるのかもしれないが、退職金も支払われるのであろう。

人事院の指針には、「職務上知ることのできた秘密を故意に漏らし、公務の運営に重大な支障を生じさせた職員は、免職又は停職とする」とある。次官による情報漏洩がこの件(郵政に対する行政処分)にとどまらないのであれば、鈴木次官の行為は悪質と言わざるを得ない。免職もあり得たと思われる。

高市もそこまでは切り込めなかったようだ。高市は、次官が情報漏洩した理由について「聞いていない」と述べ、「同じ郵政採用の先輩後輩の中でやむえない状況があったのではないかと拝察」したと言う。これだけの一大事なのに、郵政の鈴木副社長へ総務省として聞き取りを行うこともしなかった。

総務省OB(特に旧郵政省OB)は相当数、日本郵政グループで勤務している。その実態を踏まえれば、「鈴木―鈴木」ルート以外で総務省から郵政側へ情報が漏洩していたのではないか、と疑うべきことは当然。しかし、高市は調査対象を拡大する必要性を認めなかった。

高市は後に、次官を処分した時のことを振り返り、「素人の女大臣が何を考えているのか」「情報漏洩じゃなくて情報共有じゃないか」と言われ、「総務省の職員全員を敵に回したんじゃないか、皆さんの力を借りて総務大臣の仕事を進められるのか。悩みに悩んだ」と告白している。何とも線の細い政治家でいらっしゃることか。

こう見ていくと、鈴木次官更迭劇も(バレたのは誤算だったにしても)新旧郵政官僚連合軍の「優勢勝ち」と判定する方がよいのかもしれない。

癒着は続く

鈴木次官による情報漏洩が明るみに出たことにより、総務(旧郵政)官僚の郵政グループへの天下り的な就職がなくなる、という期待が一部にあるようだ。

昨年12月20日の記者会見で高市は「郵政グループの取締役クラスに旧郵政省採用のOBが入ることはマイナスが大きい」「来年の郵政の人事のときに私が閣僚かは分からないが、認可するかどうかの基準として考えたい」と述べた。

これを受け、12月24日には菅義偉官房長官も「(高市)総務相が『日本郵政の取締役に総務省OBが就任するのは行政の中立性、公平性の確保の観点から適切ではない』と述べている。総務相の言う通りだ」と歩調を合わせた。

だが、こうした言葉を真に受けることはできない。
論より証拠、今年1月6日付で発足した日本郵政、日本郵便、かんぽ生命の人事は、ものの見事に旧郵政官僚を経営陣に温存(一部は抜擢)している。(前回のポストを参照。)政府側が本当に断固とした姿勢で総務省と日本郵政グループに天下った官僚OBとの癒着を断ち切るつもりがあるなら、ここから始めるべきだったはずだ。

日本郵政の鈴木副社長(当時)は官房長官の菅とも年に数回会っていたと言う。菅は郵政民営化法成立(2005年10月)後に郵政担当の副大臣を務め、2006年9月には総務大臣となって郵政民営化担当大臣を兼務した。二人の付き合いが当時に遡るであろうことは容易に想像がつく。

菅が鈴木に頼まれて郵政のために動いた、という証拠はない。
しかし、鈴木が対NHKや対監督省庁に対し、有力政治家の力を利用したという疑念は拭い去れない。金融庁や総務省が官邸への忖度から郵政の不正営業に関する検査等に躊躇した可能性もある。

総務官僚と日本郵政グループに天下った郵政(総務)官僚OBとの癒着――それは事実上、総務省と日本郵政の癒着にほかならない――はこれからも続くであろう。

お飾りの郵政民営化委員会

郵貯民営化の進捗を監視・検証するため、郵政民営化委員会が設置されている。5人の有識者から成り、委員長は岩田一政元日銀副総裁が務めている。

かんぽ保険商品の販売にまつわる日本郵政の不正は、民営化委員会にとって他人事だった。今年1月17日に行われた記者会見で岩田委員長が言いたかったことを要すれば、「私たちは関係ありません」というもの。イライラの募る内容だが、以下に会見のやりとりを一部紹介する。

○記者  かんぽ生命保険の不正ですけれども、一昨年、2018年4月のNHKの報道があって、(郵政民営化)委員会では一昨年5月に軽く触れた機会があったかと思いますが、その後も不正が拡大をしていたり、今、おっしゃったように、ガバナンスが全く機能していなかった。そういうことについて、委員会として見抜けなかった、見過ごしてしまったようなところについて、反省とかというものは何かおありなのかどうか。

○岩田  まず、郵政民営化委員会は直接、日本郵政を監督・指導するという権限を持っているわけではありませんで、基本的には民営化のプロセスが円滑に進行しているかどうかについての総合的な判断を行う。そして、それを総理までお伝えするのが基本的な役割であると思います。それで、個別の事案についてのそれぞれの監督ということは、基本的には総務省と金融庁がおやりになっておられるということかと思います。

岩田は「郵政グループの日々の経営に関わることは、自分たちの仕事ではない」と強調しているのだ。
冗談ではない。2月14日にかんぽ生命が発表したところでは、2019年4~12月期に個人保険の新規契約件数は前年同期比52.1%減の63万件、新契約年換算保険料も同47.4%減少して1438億円となった。10~12月に限れば、新規契約件数は1割程度に落ち込んである。さらに、不正営業の対象となった顧客の不利益解消経費として同期決算で40億円の引当金計上を余儀なくされた。
かんぽ保険商品の不正販売問題はかんぽ生命などの経営の屋台骨を揺るがす直接的打撃を与えている。これでも「郵政グループの日々の経営」だと言うのか?

実際には、クローズアップ現代+が最初に保険営業問題を報じた直後、民営化委員会で委員の一人(老川祥一 読売新聞グループ社長)がこの問題を取り上げていた。何故かその時の議事録がホームページに載っていないため、2019年7月29日の委員会議事録から老川の発言を以下に引用する。

当委員会において私は、昨年(2018年)5月24日の委員会で実情はどうなのだと、これがもし本当だと大変厄介なことだし、かんぽ生命保険に対する信頼を裏切ることになるから、そこら辺はどうなっているのですかと、かなり重大な問題だと思ったから質問しました。
当時のお答えは、信頼を損なうことのないように研修制度その他しっかりやっていきますと、こういう御説明で、私もそれで安心したのですが、何と1年後にこういう問題が出てきている。(中略)
一般の人たちに与えた不信感というのは大変なことだと思います。まさかこんなことが行われているというのは想像もしていなかっただけに、大変残念に思っています。

正直言って、これでは全然生ぬるい。だが、老川はまだ問題意識が高い方だ。
議事録を読んでみても、他の委員たちの発言から怒りや憤りを感じることはできない。郵政側に対して彼らがしたことは「質問」であり、「追及」ではなかった。

実はこの時、岩田委員長は「かんぽ生命株式を売却した4月時点で郵政側が実態を知っていたのか?」という重要な質問を発している。
これに対し、郵政側は「契約乗換に係る苦情等が発生していることに対して個別に調査して対処してきているということは、個別論としては把握しておりましたが、(中略)量感としてはこの4月の段階では認識していなかった」と回答した。

よほどのお人よしでない限り、「本当かよ?」と突っ込むだろう。しかし、それを聞いた岩田は「把握していなかったということですね」と納得している。

このやりとりは委員会の後で行われた記者会見で披露され、世間的にはこの説明がまかり通ることになった。穿った見方をすれば、初めからシナリオのできていた芝居だったと見ることも可能である。

奇妙なことだが、2018年4月11日(201回)以降、2019年5月19日(202回)まで、民営化委員会は1年以上も開催されていない。老川が触れている2018年5月24日の委員会もホームページ上では確認できなかった。この時期はかんぽ保険商品の不正営業問題が覆い隠そうにも隠せなくなっていく時期と重なっている。どうも胡散臭い。

郵政民営化委員会の事務方トップは総務省からの出向者が務める。委員会で行われた議論や委員の関心事項はすべて総務省に――ということは日本郵政にも――筒抜けになる。実態としては、日本郵政にとって都合の悪い運営はされないことが担保されている、と思ったほうがよい。委員も役所の振り付けに忠実な場合がほとんどだ。(役所はそういう人を委員に任命するものである。)

今回の郵政グループの不祥事は民営化のプロセスで発生した。
「民営化を進めるために株式を売り出さなければならない」→「各社が収益をあげる必要がある」→「無茶でも何でも高いノルマを設定する」→「収益環境が悪い中、ノルマを達成するには不正営業も仕方ない」という悪の循環である。

こんなことをバレずに長く続けられるわけがない。株価は不正営業の実態が表面化するのと並行するように下落、低迷した。かんぽ生命の株式は昨年4月に1株当たり2375円で売り出されたが、その後下がり続けて8月には1500円を割り込んだ。今年2月14日の終値も1837円と昨年4月の売り出し価格を大きく下回っている。

こんな有り様では、次回以降の株式売り出しに支障が出ることは明らかだ。
岩田自身、不正営業問題について「(郵便局の)信頼を裏切るような事例が出てしまったということは、大変に遺憾な事態だと。もちろん、民営化にとってもマイナスの材料だ」と認めている。

だが、そう思うのであれば、民営化委員会はもっと早い段階――例えば、昨年夏とか――に事態が深刻であると対外的に表明すべきであった。
民営化委員会には不正問題を実態調査するだけの事務処理能力はない。しかし、政府内でアラームを発することならできた。それこそが委員会に最も期待された役割だったのではないか?
民営化委の無為には、情けなさを通り越して空しくなる。

 

かんぽ保険商品の不正営業問題--。郵政グループの対応は論外として、見て見ぬ振りできなくなるまで動かなかった政府と最後まで何もしなかった民営化委もひどい。

至る所に無責任のピラミッドあり、ということだ。

日本郵政は解体すべきだ~①不正営業と無責任経営

1月31日、日本郵政、日本郵便、かんぽ生命の3社は監督官庁(金融庁と総務省)に業務改善計画を提出した。昨年末に業務停止及び業務改善命令を出され、1月末が改善計画書を提出する期限だったのである。

かんぽ保険商品の販売に際して日本郵便とかんぽ生命で不正営業が行われたことは、今や知らない者はない。しかし、昨年12月18日に特別調査委員会が出した調査報告書を読んでも、どんな不正がどれほどの規模で行われたのか、全体像は明らかにならない。先日、業務改善計画書が出された際に追加報告がなされたが、それも不正の全容解明と言うにはほど遠い。「トゥー・リトル、トゥー・レイト」が続いている。

確かに、3人の社長(長門正貢日本郵政社長、横山邦夫日本郵便社長、植平光彦かんぽ生命社長)と日本郵政のドンと言われた人物(鈴木康夫上級副社長)は辞職した。しかし、それも見ようによっては「逃げ得」と言える。

不祥事が起こるたびに繰り返し言われるのが「真相解明」「責任追及」「再発防止」という言葉。本来、最大の再発防止策は厳格な責任追及、すなわち責任者の処罰である。だが、責任を追及するには不正の真相解明が大前提となる。今回の不祥事では、上記が三位一体で曖昧なままに放置されている。

日本郵政グループは、郵便、貯金、保険を生業とするが、儲けの中心は金融業。金融業は信用を旨とする。それを失ったままに総括を終わらせるのであれば、日本郵政に金融業を続ける資格はもはやない。

本ブログでは、日本郵政グループの不正営業――日本郵政や日本郵政に忖度するメディアは「不適切」営業と呼ぶようだが、それに付き合うつもりはない――を私なりの視点で点検してみたい。

罷り通った不正、続く過小評価

日本郵政グループにおける不祥事の根本は単純だ。グループ各社で「顧客だまし」の不正営業が――おそらく長年にわたって――横行していたことである。

「かんぽ保険」及び(かんぽと委託契約を締結した)「日本郵便」では、高齢者など顧客に嘘の説明をしたり、顧客の支払い能力や年齢による制約を無視したりしながら、多額の保険商品が詐欺まがいの手法で販売されてきた。詳しくは郵政側が行った調査報告書(昨年12月18日)や業務改善計画書(今年1月31日)を参照してもらいたいが、これがまたわかりにくい。昨年12月27日付で金融庁が行政処分を下した際の「Ⅱ.処分の理由」を読む方が遥かに手っ取り早いだろう。もっと具体的に不正のイメージを掴みたければ、NHK西日本新聞の特集を見ることをお勧めする。

「かんぽ生命保険契約調査 特別調査委員会」の調査報告によれば、2014 年4月から2019年3月までの間に、法令又は社内規則に違反する疑いのある保険契約が1万2,836 件あった。そのうち、2019年12 月15 日現在で、法令違反と認められた事案(不祥事件)が48 件、社内規則違反と認められた事案 (不祥事故)は622 件にのぼった。こうした不正に関与した募集人――個人向け保険販売のほとんどは日本郵便(郵便局)の募集人に行われている――の数は、少なくとも5,797人に及んだ。(先月31日の発表では、不祥事件は 106 件、不祥事故は1,306 件に膨らんでいる。)

不正そのものを示すわけではないが、保険の新契約について顧客から苦情が寄せられた割合も、郵政の数字は他の民間保険会社と比べて異常に高い。民間4社は2017年で0.42%、2018年で0.32%なのに対し、郵政はそれぞれ2.15%と1.46%。郵政の保険営業では、顧客から苦情が来る比率が民間他社に比べて5.1~4.6倍も多い、ということだ。
この数字を見て、郵政は金融機関として「終わっている」と思うのは私だけだろうか。

しかし、郵政が行っている調査の本当の問題は、「これでは調査になっていない」ということである。こんないい加減な内容を恥ずかしげもなく調査と称して出してくるとは・・・。唖然とするほかない。

第一に、特別調査委員会は「氷山の一角」しか調査する気がない。同委員会が投網をかけたのは「顧客から苦情のあった契約」が中心だった。顧客が騙されたことに気づいていない契約は「不正の疑いがある」案件にならない。

昨夏になって郵政は過去5年分の全契約約3千万件の調査に取り組むと発表した。だが、約1,900 万人の顧客のうち、今年1月28日時点で回答があったのは約 100 万通にとどまる。お年寄りをはじめ、金融商品の説明など、よくわからない人も少なくない。また、おかしいと思っていても様々な事情から――例えば、家族に知られたくないとか、(特に田舎では)地域における郵便局の募集人との関係を慮ったりするとか――苦情を申し立てない人もいるだろう。

1月31日の記者会見で日本郵政の増田社長は全件調査に触れて改革姿勢をアピールしようとしていた。しかし、増田が述べたのは結局、「顧客の気付きを促す」取り組みでしかない。今後もあくまで顧客からの申し立てに基づいて調査を進めるつもりのようだ。

それだけではない。調査期間が過去5年間に限定されているのは何故なのか、についても納得できる説明はない。ゆうちょ銀行と日本郵便による投資信託の不正販売調査が中途半端なものに終わってしまった。郵政グループの調査は、どこまで行っても不正の実態を過小評価し続けるだろう。

第二に、郵貯側が不正の疑いがあるとした案件(=顧客から苦情が寄せられた案件)のうち、アウトと判定されたのは、募集人が「自認」したものだけだった。これまた、開いた口がふさがらない。募集人が不正を働いていたとして、不正を働いたかと聞かれて正直に「やりました」と認めるケースよりも、認めないケースの方が圧倒的に多いだろう、ということは容易に想像がつく。

警察や検察は自白がなくても他の証拠があれば逮捕・立件するし、裁判でも自白なしで有罪の判決が下ることは十分にあり得る。「自白しなければ無罪」という判定がまかり通るのは、もたれあいの蔓延した郵政一家の中だけである。

さすがに金融庁も切れたと見える。行政処分を下した際に「事故判定やその調査において、顧客に不利益が生じている場合であっても、契約者の署名を取得していることをもって顧客の意向に沿ったものと看做し、募集人が自認しない限りは事故とは認定せず、不適正な募集行為を行ったおそれのある募集人に対する適切な対応を行わず、コンプライアンス・顧客保護の意識を欠いた組織風土を助長した」と郵政側を厳しく批判している。

金融庁から行政処分を解いてもらうためには仕方ない、と考えたのだろう。郵政側も業務改善計画書には「自認に頼らない事実認定・事故判定の実施」という文言を入れてきた。だが、どこまで本気で取り組む気があるのか? これまでのゴマカシ体質を考えれば、俄かには信用できない。

現場の責任――どこまで処分されるか?

業務改善計画書によれば、郵政側はガバナンスの改善など、様々な不正の再発防止策を(金融庁などの指示をなぞる形で)講じることにしている。だが、この種の不祥事が起きた時に最も有効な再発防止策は、責任の所在を明らかにして厳格な処罰を行うことだ。それがなければ、どんなに模範解答的な文言を連ねても、「仏作って魂入れず」である。

業務改善計画では、保険募集人と(現場の)管理職の処分については、総論として以下のとおり言及されている。

① 募集人処分における「業務停止」及び「注意」の追加
募集人処分については、従前は「業務廃止」と「厳重注意」の二段階としておりましたが、一定期間募集を停止させる処分等を追加し、不適正募集の態様・程度に応じた処分を実施します。
② 管理者に対する処分
不適正募集を発生させた募集人の管理者については、部下社員の過怠の程度に応じた厳格な処分を日本郵便に対して要請します。

業務廃止と業務停止の違いを含め、抽象的でよくわからない、というのが正直なところだ。不正営業の主な舞台となった日本郵便は、「懲戒処分運用」という項目を設けてもう少し具体的に書いている。

(ア) 特定事案調査等の結果に基づく処分
特定事案調査の結果に基づき、非違の認められた社員及び管理者に対しては、厳格な処分を実施します。かんぽ生命と連携し、不適正募集を発生させた募集人や募集態様に課題がある募集人に対する研修カリキュラム等を策定し、募集再 開に向けた研修を実施します。
(イ) 管理者に対する処分
全ての金融関係管理者を「保険募集品質改善責任者」に指定し、その役割を明確化した上で、過怠があった場合に厳格な処分を実施します。

そもそも、不正の全容がはっきりしないままで適切な処分などできるのか、という疑問がある。
しかも、この前段には、募集人が自らの違反行為を申告したり、調査への十分な協力を行ったりした場合には、募集人に対する処分を本来よりも軽減又は免除する、といった司法取引まがいなことまでさらっと書いてある。それくらいしないと不正を発見できないという情けない話の裏返しなのであろう。だが、「免除」はありえない。「処分の厳格化」が聞いてあきれる。

民間の金融機関と異なり、郵政グループは政治や行政と密接につながっている組織だ。
旧特定郵便局長会は今も自民党の集票マシーンとして動き、2019年の参議院選挙では柘植芳文(前職は全国郵便局長会会長)、2016年の参議院選挙では徳茂雅之(前職は全国郵便局長会相談役)を自民党でトップ当選させた。
郵政グループの組合(JP労組)も難波奨二と小沢雅仁の二名を立憲民主党から参議院議員として国会に送り込んでいる。

日本郵政グループは経営幹部に旧郵政省の流れを汲む総務省OBを受け入れてきた。
昨年の配置は、日本郵政が鈴木康夫上級副社長(元総務次官)、かんぽ生命が千田哲也代表執行役副社長(旧郵政省出身)、ゆうちょ銀行が田中進副社長(旧郵政省出身)、日本郵便が衣川和秀(旧郵政省出身)と要所を抑えていた。
1月6日から始まった新体制も、日本郵政の新社長には増田寛也(旧建設省出身、元岩手県知事、元総務大臣)を迎え、日本郵便は衣川、かんぽ生命では千田がそれぞれ昇格して新社長に就いた。

日本郵政グループが政治にも行政にも政治力を働かせられることは、グループ内の人脈構成からも明らかだ。果たして身内に厳しい処分を科すことができるのだろうか?

ノルマが生んだ不正。それを放置した罪

それでも、募集人や現場の管理職に対し、最低限の責任追及と処分が行われることになろう。では、経営陣に対してはどうか? こちらは、逃げ切る可能性がかなりありそうだ。

金融庁は、日本郵政グループによる不正営業が行われた理由として、①過度な営業推進態勢、②コンプライアンス・顧客保護の意識を欠いた組織風土、③脆弱な募集管理態勢、④ガバナンスの機能不全、という四点を指摘している。ごく大雑把に言えば、①は「行き過ぎたノルマ営業の横行」ということであり、②から④は「広義のガバナンス欠如」に関係している。

ちなみに、金融庁の指摘は、法令順守やコンプライアンスの観点から不正営業の蔓延を問題視したものだ。しかし、日本郵政グループ経営陣の責任は、ビジネス面でも格段に重い。

いつからかも定かでないが、日本郵政グループでは目先の収益を追って不正営業が生まれた。悪事が大規模に行われれば、世間に漏れる。その結果、昨年7月にはかんぽ商品の販売を自粛(当初は8月末まで、その後年内一杯に延長)し、昨年末には3ヶ月間の業務停止処分まで食らった。収益上のマイナスは相当なものになろう。

何よりも、日本郵政グループは長年培ってきた世間の信用を失った。不祥事の発覚以来、株価も大きく下げている。
金融庁・総務省から処分を受けようが受けまいが、十分に大きな経営責任がある、と考えるのが普通の感覚というものだ。

過剰なノルマ営業について金融庁は、「営業目標として乗換契約を含めた新規契約を過度に重視した不適正な募集行為を助長するおそれがある指標を使用し続けた上に、経営環境の悪化により、営業実績が振るわないことが想定されるにもかかわらず、具体的な実現可能性や合理性を欠いた営業目標を日本郵便とともに設定してきた」と指弾している。

モーレツ営業で知られる住友銀行(現在は三井住友銀行)から日本郵便社長に転じた横山がノルマ営業を進めた、という指摘もあるようだ。
昔は郵便局員が国家公務員だった流れを汲む日本郵政グループの職員とモーレツなノルマ営業で知られた住友銀行員では、能力もモラルも違いすぎる。しかも、このところ低金利が続いて金融機関の収益環境は最悪、保険商品も売りにくい。
いくら高いノルマを課されても、現場で目標を達成できない事態が起きたとしても不思議はなかった。

いずれにせよ、無茶な目標が不正営業を生んだことは、一流銀行のバンカーだった横山にとって想定外のことだったに違いない。
私は、ノルマ営業が全否定されるべきだとは思わない。だが、それが不正を生んだところで横山たち経営陣は目標を見直すべきだったし、不正の根絶に向けて果断な対応を行うべきだった。
それをしなかった(できなかった)時点で横山のバンカーとしての倫理観は失われ、日本郵政のガバナンス崩壊に直結する責任を負い始めることになったのだと思う。

経営「無責任」の明確化

日本郵政で行われた不正営業の責任は、郵便局の募集人や(中間)管理職だけを処分すれば済む、という問題ではない。それは金融庁もよくわかっていると見える。行政処分を下した際、いの一番に「今回の処分を踏まえた経営責任の明確化」を求めた。

しかし、日本郵政側はその指摘を本当に深刻に受け止めているのだろうか? 1月31日付で提出された業務改善計画書(要旨)の末尾には、短く次のような記述がある。

今般の事態を招いた責任を明確化するため、日本郵政、日本郵便およびかんぽ生命の代表執行役社長等が辞任するとともに、役員の月額報酬の減額等を実施しました。

実にあっさりしている。「処分」という言葉も見当たらない。しかも、完了形だ。

今年1月5日に辞任したトップとは、日本郵政の長門(前職=シティバンク銀行会長)、かんぽ生命の植平(前職=東京海上ホールディングス執行役員)、日本郵便の横山(前職=三井住友銀行社長)の三名。さらに、「郵政のドン」とも言われた鈴木康夫日本郵政上級副社長(元総務省事務次官)も退いた。

彼ら4名の退任を以ってこの間の経営陣の責任を明確化する、というのはゴマカシ以外の何物でもない。グループ各社で役員を務めていた者の多くは留任し、昇格する者すらいる。

例えば、日本郵便の衣川新社長は日本郵政の専務執行役からスライド昇格を果たした。かんぽ生命の千田新社長が同社副社長から昇格したことは前述のとおり。日本郵便代表取締役副社長の米澤友宏上級副社長(金融庁出身)と執行役員副社長の大澤誠(元全国郵便局長会会長)は留任した。かんぽ生命代表執行役副社長の堀金正章(郵政省出身)も留任だ。全部は調べていないが、ざっとこんな具合である。

彼らが前体制の下で日本郵政グループの不正営業問題に関わっていなかった、なんてことはありえない。それでも出世しているんだから、「経営責任の明確化」ではなく、「経営責任をとらないことの明確化」だ。

役員の月額報酬を減額した、というのも意味がよくわからない。
報道によれば、2020年1月から6月までの半年間、代表執行役副社長や専務執行役(内部監査担当、コンプライアンス担当)の月額報酬の30%を減額し、常務執行役(経営企画担当)やその他の専務執行役、常務執行役なども5~20%減らす。かんぽ生命と日本郵便も副社長の月額報酬40%を削減するほか、その他の執行役も5~30%カットするという。

上記がすべてであれば、先般辞職した3社長や鈴木上級副社長はノー・ペナルティということになる。衣川や千田も同様だ。
これだけ大きな問題を起こしておいて、行政処分を受けるまで自らの役員報酬に手をつけてこなかったなんて、厚顔無恥にもほどがある。

経営陣が「知らなかった」は通らない

なぜ、こんなことがまかり通るのか? 経営陣を守るために使われているのが「だってボク、知らなかったんだもん」というロジックである。

辞職した長門正貢社長(日本郵政)は保険商品の不正販売を認識した時期について「郵政の取締役会で議論したのは(2019年)7月23日が初めてだ」と述べている。「(日本郵政の)取締役会に全く情報が上がってきていなかった」「現場から情報が上がってこないことには話が始まらない」とも不平を漏らした。

これだけ巨大な膿を伴う問題が長年にわたって起きていたのだ。長門たちが去年の夏まで問題をまったく認識していなかった、などというのは与太話にしか聞こえない。(万一真実なら、そんな無能な経営陣は全員クビだ。)

かんぽ商品の不正営業問題については、2018年4月24日にNHKの「クローズアップ現代+」が『郵便局が保険を“押し売り”!? 郵便局員たちの告白』という番組を放映し、大きな話題を呼んだ。

仮に郵政に鈍い経営者ばかりが集まっており、現場から悪い情報が上がってきていなかったのだとしても、遅くともこの時点では気づかなければならなかった。
2019年9月30日の会見でこの点を突かれ、長門は次のように答えている。

(2018年)4月24日の「クローズアップ現代(+)」、あれと、それから今年また2回目を放送されました。2回とも、昨日あらためて再び拝見させていただきました。おっしゃってる点は、今となってはまったくそのとおりだなと思っておりまして(略)。
今から見ればなんだったの、っていう議論はあると思いますけれども、(番組や意見募集のSNS広告が)やっぱり詐欺とか押し売りとか内部資料なんてとかっていうことで、これはちょっとひどいんじゃないか。みんなで議論して、みんなで思って、今から思うと少し不遜だったかもしれませんけれども、我々はこんなに募集品質問題、頑張ってきていて、ここまで成果があって、こんな成果が出てきて頑張っている最中なのに、僕らが悪のドクロ仮面のように、悪の権化かのようにワーッと言われるのはトゥーマッチじゃないか、という意見が出てきたので抗議しようというので抗議(した)。 

前半については失笑するしかない。
その一方で下線部の発言は、遅くとも2018年夏の時点で日本郵政が「募集品質問題」に取り組んでいたことを意味する。募集品質問題とは保険の不正営業問題を郵政内部でそう呼んでいたのであろう。
2019年7月まで経営幹部が不正営業の実態を認識していなかった、というのは嘘だと長門自身が告白しているわけだ。

郵政の経営陣は、この時点で既に不正営業問題を把握していた。だからこそ、番組を見て恐慌状態に陥ったと考えれば、納得がいく。結局、彼らはNHKの番組を奇貨として不正の是正に奔走するどころか、こともあろうにNHKに圧力をかけ、続編の制作と放送を止めさせようとしたのである。(この点については、本ブログで近いうちに取り上げるつもりだ。)

長門が「知らなかった」と言ったのには、自分たちの経営責任を免れるということ以外にも理由があった。
日本郵政グループは、2019年4月にかんぽ生命の株式を売り出している。その後、不正営業の問題が表面化してかんぽ生命の株価は大きく下落した。株式売却よりも前に不正営業のことを知っていて公表しなかった、ということになれば、長門たちは損失を被った株主から訴えられてしまう。

日本郵政の新経営陣は、辞任した4人の社長たちへの退職金支払いをどうするのだろうか?
また、昨年以前に受け取った報酬について役員たちに返還を求めることもしないのだろうか?
それを見れば、増田新社長がお飾りかどうかがわかる。
お咎めなしか、形ばかりの追加処分しか出てこなければ、日本郵政グループの腐りきった体質は今後も変わらない、ということだ。

日本郵政による「経営責任の明確化」を金融庁が今後どう判断するかも要注目である。(日本郵便とかんぽ生命に対して監督上の命令を出しているものの、郵政と腐れ縁の総務省には期待しても仕方がない。それでも、金融庁が突っ張れば、総務省だけがお茶を濁すというわけにはいくまい。)
金融庁は昨年末の行政処分ではそれなりにケジメを示した。しかし、郵政グループへの立ち入り検査に入ったのは昨年9月だ。「初動の鈍さ」を指摘されても仕方がない。

郵政グループに巣食う既得権益の塊――旧特定郵便局長、組合、旧郵政官僚など――は必死に生き残りを画策するはずだ。旧特定郵便局長会などは政治を動かして金融庁に圧力をかける可能性がある。かんぽ生命等の株式を追加売却して財源確保に充てたい財務省も弟分の金融庁に手を回し、軟着陸を求めるかもしれない。
だが一方で、この問題に毅然とした対応を貫けなければ、金融監督機関である金融庁は内外で信用と権威を失ってしまう。ここは金融庁の矜持に期待するしかない。

金融庁までもが日和ってしまうようなことがあれば、日本郵政グループ経営陣の責任を問うために残る方法は、株主代表訴訟くらいだ。
郵政の不正は、内部から正すには巨大すぎ、腐りすぎ、広がりすぎている。

「変えられない日本」が垣間見えた――英語民間試験の延期とマラソンの札幌開催

先週の金曜日(11月1日)、二つのニュースが駆け巡った。

一つは、来年から実施が予定され、来年からスタートすることになっていた大学入試への英語民間試験導入を見送ると文部科学省が発表したこと。
もう一つは、東京五輪のマラソン・競歩を札幌で開催することが最終的に決定したことである。

奇しくも同じ日に、既存の方針が変更される大決断が二つもなされたわけだ。しかし、この二つの変更には根本的な違いがある。

英語民間試験の場合、実施が5年後に延期され、その間に実施方法の改善が図られるとはいうが、実施するという大方針そのものは変わっていない。

これに対し、マラソン・競歩については、IOC(国際オリンピック委員会)の鶴の一声で札幌開催が決まり、東京で開催するという既存の方針は葬り去られた。

今回のIOCの独断と批判する声もあるが、東京五輪大会組織委員会、東京都、政府の三者だけであれば、東京でのマラソン開催をやめるなどという「乱暴だが正しい」答に行きつくことは絶対になかったであろう。

文科省(日本政府)といい、東京都といい、日本の組織は一度決められた方針を変えるのが苦手だ。このポストでは、二つのニュースを材料にしながら日本型思考の弱点について考えてみる。

1. 英語民間試験の延期

英語民間試験の源流

2013年10月31日、教育再生実行会議は第四次提言を取りまとめた。そこには「国は、TOEFL 等の語学検定試験やジュニアマイスター顕彰制度、職業分野の資格検定試験等も学力水準の達成度の判定と同等に扱われるよう大学の取組を促す」とある。この時、大学入試に民間の英語試験を活用するという方針はレールに乗った。

教育再生実行会議は2013年1月に閣議決定で設置が決まり、文科省ではなく官邸に置かれている。

「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を実行に移していくため、内閣の最重要課題の一つとして教育改革を推進する」ため、「内閣総理大臣、内閣官房長官及び文部科学大臣兼教育再生担当大臣並びに有識者により構成し、内閣総理大臣が開催する」ものだ。ただし、閣議決定を読んでもその権限ははっきりしない。

有識者は、安倍晋三(総理大臣)、菅義偉(官房長官)、下村博文(当時の文科大臣)が少なくとも否と言わない人が選ばれる。当然、会議の提言内容もスリー・トップの意に沿わないものは入らない。

以上から、教育再生実行会議とは官僚的な積み上げの意思決定プロセスをバイパスし、安倍や安倍に近い人たちの考え方に基づいて教育改革を進めるための装置であることが見てとれる。

この年(2013年)、教育再生会議は2月、4月、5月、10月と4回も提言を出した。いじめ問題への対応(2月の提言)は急を要したのだとしても、それ以外はいかにも付け焼き刃の印象を免れない。

第四次提言を了承した教育再生実行会議(10月31日開催)では、自民党が同年5月23日にとりまとめた『教育再生実行本部 第二次提言』が参考資料として配布された。興味深いことに、この自民党の提言には「TOEFL等の外部試験の大学入試への活用の推進」という項目がある。英語民間試験の源流はこの辺りにあるのだろう。(ちなみに、同本部の「大学・入試の抜本改革」部会には、主査として山谷えり子、副主査として西川京子、萩生田光一、薗浦健太郎という、安倍好みの右翼的な政治家がズラリ並んでいた。荻生田が現文科大臣であることは言うまでもない。)

制度的欠陥品

教育再生実行会議の提言は、制度設計を含めた入念な検討を経て導き出されたものとは到底思えないものだ。言葉は悪いが、思いつきに毛が生えた程度のものも散見される。提言の作成段階では蚊帳の外に置かれ、実行プランの作成を丸投げされた文部科学省もさぞかし困ったことだろう。

総理大臣が主催する会議の中には政権とともに自然消滅するものも少なくない。しかし、安倍一強が続くこの政権では、官邸直轄の会議が出した提言は非常に重い。文科省はこの間、中央教育審議会の答申を得る等のプロセスを経て、英語民間試験の実行プランを作り上げた。合わない辻褄を無理やり縫い合わせながら作ったものだから、突っ込みどころは満載。先週、延期が発表されるや、メディアは英語民間試験の制度設計がいかに杜撰だったかを、一斉に叩き始めた。

本ポストでいちいち取り上げることはしないが、最大の欠陥は受験生の英語能力を統一的に評価する制度的な担保がないことだ。難易度の異なる7種類の試験のどれを受けるかで事実上、受験生に有利不利が生じる。入試システムに求められる最も基本的な「性能」を欠いた欠陥品、と言わざるを得ない。

中止ではなく、延期

ほんの一週間前まで、官邸や文科省は、見切り発車と言われても来年から英語民間試験を実施する、と決めていた。だからこそ、新任の萩生田文科大臣――上述の通り、英語民間試験の導入の言い出しっぺの一人である——は、出演したテレビ番組で「自分の、あの、私は身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで、勝負してがんばってもらえば」と発言したのだ。

世間的には、この「身の丈」発言で風向きが変わり、官邸も英語民間試験の導入延期に傾いたと考えられている。もちろん、10月25日に菅原一秀経済産業大臣、10月31日には河井克行法務大臣がそれぞれ辞任したことも大きく影響したことは言うまでもない。9月に内閣を改造して早々につまずいた官邸としては、これ以上批判される材料を放置できなかったのだ。

だが逆に言えば、菅原、河井のスキャンダルと荻生田の「身の丈」発言がなければ、英語民間試験は多くの欠陥を抱えたまま、実行されていたはず。「一度レールに乗ったら変えずに突っ走る」力というのは、すさまじい。

11月1日に政府(文科省)が発表したのも、英語民間試験の導入「延期」であり、「中止」ではない。6年前に決められた既定方針はまだ生きている。

政府に英語民間試験を踏みとどまらせた、と胸を張っている野党四党(立憲民主、国民民主、社会民主、共産)でさえ、先月24日に提出したのは英語民間試験の延期法案である。
政府が延期を発表した途端、英語民間試験に対する批判をヒートアップさせたメディアからも、その廃止を求める声はあまり聞こえてこない。

政府や与党サイドが英語民間試験を導入するという既定方針をやめられない、というのは、安倍一強の政治力学から(同意はできないが)何となくわかる。だが、これだけ批判されているにもかかわらず、「英語民間試験なんかやめてしまえ」という思い切った主張が政府・与党の外からもあまり聞こえてこないのはなぜか?

理由の一つは、英語をグローバル人材育成のためのツールと位置づけ、「読む・聞く」だけでなく「読む・聞く・話す・書く」の四能力を評価すべきだという意見に惑わされる人が多いことだろう。

しかし、試験の方法を変えれば英語力が伸びるわけではないし、TOEFLのスコアが高くても英語ができない日本人留学生も大勢いる。また、「読む・聞く」能力があれば、「話す・書く」能力は大学に入ってから英語漬けにすれば誰でも身につくものである。

二つめの理由は、「官から民へ=改革」という議論に弱い政治家や知識人が多いことである。

11月6日に開かれた衆議院予算委員会で安倍総理は「私は民間がやると悪くなる、民間はよこしまな考えを持っているという考え方はとらない。民間の活力や知恵を導入していくのは当然あってしかるべきだ。民間事業者などが手を挙げることを、最初から排除しなければいけないという考え方は間違っている」と述べた。こう言われると黙ってしまう政治家やメディア関係者は意外と多い。

安倍が言うとおり、「民間=悪」という考え方は間違いだ。しかし、「民間=善」という考え方も同じく間違っている。全国レベルで実施する英語入学試験の場合、民間の採用は明らかに不適切だ。

例えば、民間(NPO)の試験としてTOEFLだけを採用するのであれば、正当かつ公平な試験としての信頼性は担保される。しかし、受験料は1回あたり2万円台半ばになる。年間50万人という大量の受験生に対応することもむずかしいだろう。多くの受験生にとっては難易度が高すぎる、という問題もありそうだ。
かと言って、GTEC(ベネッセ)一本にしたのでは、予備校が入試本番の試験を実施する主体になってしまい、アンフェアな臭いがプンプンしてくる。率直に言って、試験としての権威も低い。

安倍総理には、英語試験は「民間でやれば悪くなる」ということに気づいてほしいものである。

既定方針を変えることのむずかしさ

組織が既定方針を「変える」ということにはむずかしさがつきまとう。

一つは、変えれば何でもいい、というわけではないこと。変える以上は、問題を解決(または改善)できなければ意味がない。

2012年12月から続いている安倍政権は、集団的自衛権の行使容認をはじめ、この国に様々な変化をもたらしてきた。そのすべてを否定するつもりは毛頭ない。だが、よく見ると、変化の細部に魂がこもっていないものが少なくないことも事実だ。集団的自衛権の行使容認ですら、過去の解釈と継ぎはぎだらけにしたため、日本の武力行使に対する制約は基本的に残ったままである。

もう一つのむずかしさは、一度方針を決めたら、それが機能しない現実が生じているにもかかわらず、既定方針のまま走り続ける傾向がいかなる組織にもある、ということ。

これは、何も日本の組織だけに見られるむずかしさではない。だが、強い忖度感情や組織に対する忠誠度の高さなどから、日本の組織で特に目立つ困難であろう。

英語民間試験については、以上の二つのむずかしさが同時に表面化した。

まず、英語民間試験の導入という考えそのものが、変化の方向性が間違っていた。安倍総理を含め、日本の教育を復古的方向に変えることに熱中した人たちが、英語試験でお遊びをした、というのは言い過ぎであろうか。

加えて、英語民間試験の実施プランを作成する過程で問題点が噴出し、このままでは受験生にとって大迷惑となり、本来狙った英語力向上という効果も見通せなくなったにもかかわらず、政府は当初予定通りの実施に向けて突っ走った。そして、英語民間試験の導入という方針そのものは今も生きている。

英語民間試験の問題は、これからが正念場だ。

 

2. マラソンの札幌開催

有無を言わせなかったIOC

英語民間試験の延期が発表されたのと同じ日、国際オリンピック委員会(ジョン・コーツ調整委員長)、東京五輪大会組織委員会(森喜朗会長)、東京都(小池百合子知事)、政府(橋本聖子五輪相)の4者が最終協議を行った。その結果、来年行われるオリンピック競技のうち、マラソンと競歩については札幌で開催することが最終的に確認される。小池は「合意なき決定」と述べたが、最初から都に決定権はなく、結論は決まっていた。この協議は都民の前で「怒れる都知事」を演じさせ、小池の面子を保つための儀式だったと言えよう。

マラソンと競歩の開催場所を東京で開催しない、という大ナタを振るったのは、IOCという日本外の組織である。東京五輪大会組織委員会、東京都、日本政府という国内の組織に決定権があったなら、お互いに牽制しあうか忖度しあう結果、IOCが下したような「無茶だが、正しい」変更は絶対にできていない。

やばくてもやるしかない

2013年9月7日、来年の7月下旬~8月初旬に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されると決まった。それから6年、準備は着々と進められてきた。

その一方で、最近の日本列島の夏は記録的な猛暑続き。多くの日本人の間で「真夏の東京でオリンピックやって大丈夫か?」という懸念が共有されるようになった。選手はもちろん、観客やボランティアを含め、熱中症でバタバタ倒れたらどうするのか、というわけ。

今年の9月27日から10月6日までドーハ(カタール)で開催された世界陸上は、そうした不安を増幅させるものであった。
女子マラソンは深夜11時59分のスタート時に気温32度、湿度74%。68人中、28人が途中棄権し、完走率は6割を割った。「昼やっていたら死人が出たのでは」という声すらあがっている。男子50キロ競歩も午後11時半のスタート時に気温31度、湿度74%。46人中18人が棄権し、完歩率は約6割だった。
この「惨状」を見て、テレビやお茶の間では「東京も危ないんじゃないか?」と心配する人の数がさらに増えた。

しかし、だからと言って、「マラソンを東京で開催しない」という選択肢が頭に浮かんだ日本人はほとんどいなかった。
私自身、「真夏の東京でマラソンはやばい」とは思っても、「マラソンは東京以外で開催すべき」とまでは露ほども考えなかった。
東京都や組織委員会、日本政府と同じく、「東京オリンピックなんだから競技は東京で」という思考の枠組みから一歩も出ていない。恥ずかしながら、「死人が出ても東京でやるしかない」と考えていたのと同じことだった。

組織委員会や東京都も馬鹿ではない。ドーハ世界陸上の前から、猛暑対策には危機感を募らせていたはずだ。

既に昨年12月、猛暑対策としてマラソンのスタート時間は当初予定されていた午前7時から午前6時に前倒しすることが決まっていた。これをもっと早めることくらいは、当然検討していただろう。実際、IOCから札幌移転の話が出ると、東京都はスタート時間を午前5時よりも前にすることを慌てて提案した。
このほかにも、都はマラソン・コースに遮熱性・保水性塗装を施すという公共事業にも注力してきた。(ただし、最近になって遮熱性塗装は逆効果だという指摘も出ている。)

「暑い東京でマラソンを実施する」という枠組みの中で、都も組織委員会も考えられる手は打ってきた。それは認めよう。しかし、道路に遮熱性塗装を施し、スタート時間をいくら早めたところで、焼け石に水。最近の東京の猛暑は対策してどうにかなるレベルを超えている。

考え得る最大限の努力を払っても、競技の最中に選手たちが体調を崩して大量に棄権する——最悪の場合は選手の生命が危険にさらされる——事態が来年、相当の確率で起こりうる。これを黙認することは、「健全なコンディションの下で安全に競技を実施する」というスポーツの常識、人間界の良識に照らして考えた時、不道徳の極みだ。結果的に来年が冷夏となり、取り越し苦労と笑われることになったとしても、放置するには大きすぎるリスクを放置することは、決して許されない。

ところが、「東京でマラソンをやる」という前提の下に立つ限り、日本ではしっかりした組織や有能な人ほど、「リスクがあってもやるしかない」「できることはすべてやろう」「そのうえで、リスクが残るのは仕方がない」という発想になる。既存方針の枠組みそのものを変えよう、という発想は出てきにくい。

枠組みから出れば解決法はあった

ドーハの世界陸上を見て、「東京でマラソンや競歩をやったら、非人道的な事態が起こる可能性が高い」と懸念し、「それは許されない」から「東京以外のもっと涼しいところに変える」という思考回路で判断を下したのがIOCだった。その結論が札幌開催である。

IOCの決定について、「もっと早く言え」とか「関係者とちゃんと話し合え」という批判が出ることは理解できる。東京開催を前提に準備してきた選手や関係者の努力を無にするものだ、という同情の声も当然、出てきた。

しかし、IOCは初めからそこは割り切っていた。この時期に札幌開催へ変更することについて批判が出たところで、来年の本番を東京で行って選手たちに大トラブルが起きるリスクに比べれば、大したものではない、と。

変えるのならもっと早く変えるべきだった、と言われても、過ぎ去った時間は取り戻せない。
関係者と話し合っても、反対されて時間が過ぎるだけ。
選手や関係者の声なら、世界中で見れば会場変更を歓迎する声の方がおそらく多い。
東京都の自分勝手な言い分に気を使った結果、選手が健康を害するリスクを甘受することは、IOCにとって論外だったであろう。

「東京開催という前提で安全が確保できないのなら、東京開催という前提を見直す」というIOCと、「東京開催という前提で努力してきたのだから、東京開催は譲れない」という東京都。IOCに最終的な決定権限があるという契約上の問題だけでなく、論理の面でも勝負は初めから見えていた。

報道によれば、10月30日に行われた調整委員会の席上、小池知事は「(東京開催に向けて準備を進めてきた)選手や地元の人の気持ちをないがしろにはできない。ワンチームで大会を成功させたいという強い思いは、この場におられる皆さんの共通の思いだ」とコーツ委員長を睨みつけたという。「東京で開催しても選手や観客の安全は守られる」と主張できない小池は哀れであった。(この文脈で「ワンチーム」という言葉を使うのもラグビーの日本チームに失礼だと思った、というのは余談である。)

私も偉そうなことは言えないが、東京以外――札幌でなくてもよい――でのマラソン開催を日本側から提起していれば、と思わずにいられない。後から気づいたことだが、東京オリンピックの本番でも、競技のうちいくつかは、東京都どころか関東以外の会場で行われることになっている。例えば、サッカーの一部は札幌、宮城、埼玉などで予選が開催される。

「オリンピックの花」と呼ぶ人もいるマラソンをサッカーの予選なんかとは一緒にできない——。こうした「傲慢な常識」が、関係者を既存の枠組みに閉じ込めてしまったのであろうか。

変えられない国、ニッポン

日本の組織は、既定方針の下で頑張るのは概して得意だ。ラグビー・ワールドカップでは、台風など自然災害の襲来はあったものの、結果的には決められた枠組みの中で運営されたため、協会、地方の協力自治体、ボランティアなどの献身的サポートによって日本大会の運営は大成功を収めた。(日本をはじめとした各国選手の奮闘ぶりは言うまでもない。)

一方で、既定方針の下でいくら頑張っても駄目な時にその既定方針を見直すことは、日本の組織が苦手とするところだ。戦前の日本の指導部(軍部・政府)も、米国に勝てるとは思わないまま、米英との対決路線を変えることはなかった。英語民間試験についても、同じ構図が見てとれる。マラソン・競歩の開催場所を東京から札幌に変えたのがIOCという日本外の組織だったことは、実に象徴的であった。

既存の秩序が国際的にも国内的にも大きく揺らぎ始めた今日、既存の方針が機能しないときにそれを変える力の有無は日本の将来を大きく左右するはずである。

普天間飛行場の辺野古移設もそうだ。その基本方針は23年前に決まり、工事はようやく始まったものの、軟弱地盤の問題も出てきて未だ完成のめどは立たず。何よりも、当時と今では安全保障環境が激変した——主には中国の軍事力が急伸したことと米国のコミットメントが不透明化したこと——のに、3兆円以上の金をかけるべきプロジェクトなのか、という根本的問題がある。だが、日本側は誰も方針の見直しを言い出そうとしない。変える覚悟を感じられないのは、野党や沖縄県も同じだ。

マラソン・競歩の開催地変更にまつわる顛末は、スポーツのみならず、日本型組織全般の「変えられない」体質を浮き彫りにした。
我々はそこから何かを学び取れるのであろうか。

蛇足――IOCに挑戦せよ

IOCはマラソン・競歩のコースを東京から札幌へ変更するに当たり、「アスリート・ファースト」を強調した。
世界的に異常気象が常態化しつつある時代にあって、夏季オリンピックに立候補できる都市は今後、日本に限らず、限定される可能性が出てくる。だが本来、オリンピックはどこの国(都市)でも立候補できるのが当然だろう。それができなくなるのなら、「オリンピックは真夏に開催する」という現在のIOCの枠組みは変えた方がよい。

今回の騒動を受けて、オリンピックを真夏に開催するのがそもそもの問題、という指摘が日本国内からも出てきている。小池をはじめとする関係者に「煮え湯を飲まされた」という思いがあるのなら、なおのこと日本(JOCや日本政府)は、オリンピックの開催時期見直しを声高に主張すべきだ。

もちろん、ただ主張するだけでは既存の枠組みは変わらない。7~8月にオリンピックを開催するのは、巨額の放映料を支払う米テレビ局の意向に沿ったものだと言われている。日本だけがいくら正論をぶってみても、一顧だにされまい。一国で敵わなければ、仲間をつくるしかない。欧州諸国、そしてアジアで同じような緯度に位置する中国、韓国などとタッグを組む、という発想が必要になるだろう。

実際には、日本政府やJOCは「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で何もしない可能性の方が高い。既存の枠組みの中で頑張るのが日本らしさ、と言えばそれまで。でも、「日本らしさ」にも進化は求められるはずだ。動き出したい。

立憲的改憲の限界~山尾案と安倍案はよく似ている

安倍政治の次の焦点は憲法改正、とメディアがはやしている。だが私は、安倍からも自民党からもそこまでの熱気を感じない。世の中もまったくと言っていいほど盛り上がっていないのではないか。

自民党は2012年4月に憲法改正草案を発表した。その評価はともかく、一つの提案だったことは事実。ところが、2017年5月に安倍晋三総理(自民党総裁)が自衛隊追記案を提案するや、自民党はあっという間に従来の憲法草案を捨て去り、安倍案を追認した。「長いものには巻かれろ」ということか、「改憲できれば何でもいい」ということか、いずれにしてもいい加減な話である。

一方で、野党の方からも対案の類いは聞こえてこない。共産党や社民党は「護憲」だからまあ許せる。しかし、立憲民主党や国民民主党は「安倍政権の下での改憲には反対」と言うばかり。例によって、何がしたいのかさっぱりわからない。
と思っていたら、山尾志桜里衆議院議員が『立憲的改憲』という著書の中で独自の9条改正試案(私案)を発表しているのに気がついた。本の題名からは、憲法によって権力を縛ることを重視した改憲論、という意気込みが窺われる。

山尾と言えば、私生活の面でいろいろ注目され、政治家として毀誉褒貶の激しい人だが、その点にコメントするつもりはない。党(立憲民主党)の迷惑を顧みずに9条改正試案を発表した一事から見る限り、政策論については真面目な人なのだろうとは思う。そこに敬意を表しつつ、本ポストでは山尾がせっかく出した9条改正試案を俎上に載せてみたい。

今回は「安倍の自衛隊追記案との比較」という視点を意識して山尾試案を検証することにした。両案は共に現行9条への加憲という形式をとっているうえ、山尾自身が安倍案を相当意識しているように見えるからだ。

以下では、現行9条、安倍の自衛隊追記案、山尾案と順を追って解説していく。

現行9条~議論の前提

現行の憲法9条はもうお馴染みであろう。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を子供たちが普通に読めば、日本は軍隊を持てないんだ、と思う。私も子供の時はそうだった。現実にも、1947年5月に憲法が施行されてから3年余りの間、日本には自衛隊類似の組織を含めて軍隊らしきものは存在しない時代があった。

しかし、1950年6月に朝鮮戦争が起きると、米国政府(GHQ)は「日本がいつまでも武装解除のままでは不都合だ」と思うに至り、自衛隊の前身となる警察予備隊等の創設を命じた。もちろん、それまでの解釈に従えば憲法違反だ。

そこで当時の日本政府(内閣法制局)がひねり出したのが、「憲法には書いてないけど、国家は自然権として自衛権を持っている。個別的自衛権の一部は憲法が禁止している武力の行使に含まれない。だから、その限りにおいて軍隊のように見える組織(自衛隊)を持つことは憲法違反じゃないんだよ」という屁理屈。その後、2014年7月になって「集団的自衛権の一部も憲法が禁止している武力の行使に含まれない」という解釈変更がなされたことは周知の事実であろう。

子供の素直な感覚ではヘンテコにしか思えない理屈でも、それを認めない限り、自衛隊は憲法違反になってしまう。永田町や霞が関では長い間、このヘンテコな理屈に疑問を挟むことはタブーとされてきた。

安倍の自衛隊追記案 ~「現行解釈を変えない」と言うけれど・・・

2015年9月に安保法制を成立させた時、安倍総理は上記の理屈の上に立ったうえで集団的自衛権の行使を部分的に容認した。ところがその1年半後、安倍は「自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば命を張って守ってくれ、というのはあまりにも無責任だ」と述べて、9条1項、2項を残しつつ、自衛隊の存在を明文で書き込む憲法改正を提案した。自民党はこれを追認し、自衛隊追記案は現在の「改憲4項目」の一つとなっている。条文的には、概ね以下のようなイメージだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

これを初めて見たときの感想は、醜い構成だな、というもの。元々ある1項で「国権の発動たる武力の行使」を放棄しておいて、1項の例外として自衛権の行使はできる、と追記するわけだが、例外が大きすぎて何とも不格好。言うまでもなく、自衛権の行使は「国権の発動」以外のなにものでもない。これを例外扱いにしたら、1項で禁ずる中身はスカスカ。安倍改憲後の9条の下で禁止されるのは、あからさまな侵略戦争くらいだ。自ら「侵略戦争だ」と言って戦争する国はない。9条が「戦争の放棄」を謳っている、と説明するのはしんどくなるだろう。

一方、永田町では、安倍が自らの改憲提案について「自衛隊の任務や権限に変更が生じることはない」と説明していることに反応が集まっている。

第1は、安倍が説明するとおり、改憲しても何も変わらないのであれば、単に自衛隊の存在を明記するだけではないか、という右サイドの失望。
わざわざ改正するのだから、自衛権行使の幅をもっと拡大できるようにしなければ意味はない、というのである。

第2は、安倍が説明するとおり、改憲しても何も変わらないということは、「安倍の自衛隊追記案に賛成すること」イコール「集団的自衛権の一部容認を認めること」になる、という左サイドからの批判。

第3は、条文を変えておいて、9条の解釈が従来の解釈のまま変わらない、と説明するのは通用しない、という疑念。
安保法制を通したとき、憲法9条を変えることなく解釈を変え、それまで許されなかった集団的自衛権の行使を一部可能にしたのは、ほかならぬ安倍であった。
「自衛隊の存在を明記するだけで、何も変わらない」と言いながら自衛隊追記案を認めさせて改憲を実現したとしよう。さすがに安倍の任期中は現行の解釈を維持したとしても、将来の総理大臣が解釈を変えない保証はどこにもない。その時、条文が変わっていれば解釈変更のハードルも当然下がる。

第3の疑念は、「安倍の自衛隊追記案で9条が改正されれば、フルスペックの集団的自衛権行使を可能にする解釈が生まれる」という批判につながる。この点については、山尾の前掲書における対談で阪田雅裕元内閣法制局長官(2004年8月~2006年9月)が述べているとおりであろう。

山尾の9条改正試案~個別的自衛権と交戦権の明記

山尾の改憲案も安倍と同様に現行9条に加憲する形式をとる。現行9条と並べれば以下のような感じだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2 ① 前条の規定は、我が国に対する急迫不正の侵害が発生し、これを排除するために他の適当な手段がない場合において、必要最小限度の範囲内で武力を行使することを妨げない。
② 前条第2項後段の規定にかかわらず、前項の武力行使として、その行使に必要な限度に制約された交戦権の一部にあたる措置をとることができる。
③ 前条第2項前段の規定にかかわらず、第①項の武力行使のための必要最小限度の戦力を保持することができる。
④ 内閣総理大臣は、内閣を代表して、前項の戦力を保持する組織を指揮監督する。
⑤ 第①項の武力行使に当たっては、事前に、又はとくに緊急を要する場合には事後直ちに、国会の承認を得なければならない。
⑥ 我が国は、世界的な軍縮と核廃絶に向け、あらゆる努力を惜しまない。

9条の2にある④、⑤、⑥項は、山尾改正の本筋ではない。

④は自衛隊——何と呼んでもよいが——の司令官が総理大臣、という現状を明記したもの。⑤の自衛隊の武力行使に国会承認が必要、ということは、半世紀以上も前から自衛隊法に書いてある。どちらの項目も自民党改憲草案や安倍の自衛隊追記案に似た記述があり、大きな議論とはなるまい。

⑥項は、それまで戦力を規定してきたところで急に国家の意思表明が出てくる形となっており、個人的には違和感がある。その実現に向けて行動するわけでもないのに文字面だけ理想を書き込んで自己満足したがる、という日本のリベラルの悪い癖が出た。中国の軍事的台頭や朝鮮半島情勢を考えれば、日本は近い将来、防衛費を漸増させざるをえないから、矛盾が生じる可能性が大きい。
ただし、この表現は努力目標にとどまるため、どうにでも解釈できる。したたかな憲法改正派なら、「憲法改正の国民投票を実現するための取引材料に使ってもいい」くらいに考えるかもしれない。

山尾案の核心は、①項、②項、③項にある。

第①項に書きこまれているのは、我が国に対する急迫不正の侵害、排除する適当な手段が他にない、必要最小限度、という武力行使の旧三要件だ。山尾は「現行安保法制のように集団的自衛権の一部を解除する解釈を厳に禁ずる」と述べる一方で、個別的自衛権の一部行使が可能であることを明記する。

第③項は、第①項の帰結として武力行使を行う組織を規定している。すなわち、9条で「陸海空その他の戦力は持たない」と言っているが、上記旧三要件を満たす武力行使にあたる軍隊は持ってもいいんだよ、と書いたものだ。これで自衛隊の存在が憲法に明記される。安倍の自衛隊追記案と構造は同じである。

第②項は、山尾の生真面目さが出ている条項案。現行9条が「交戦権の否認」を明記しているのに対して、上記三要件を満たす武力行使の際には限定的な交戦権が認められる、と定めた。ここで言う交戦権は、「交戦する権利」という意味ではなく、交戦国が国際法上持つ権利の総称。これを認めないと、自衛権の行使を認めても、相手兵力の殺傷・破壊、占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕などができない。ちなみに、2015年の安保法制及びその前提となる憲法解釈の変更もこの点は乗り越えていない。

安倍の自衛隊追記案は交戦権について何も触れていない。つまり、放棄したままだ。少なくとも当面、交戦権は認めないということだろうか。

山尾が自衛権行使に伴ってどの程度の交戦権を認めるべきだと考えているのかは不明である。だが少なくとも、交戦権を限定的に認める山尾案の方が安倍案よりも武力行使の幅を広げる、という部分があることは間違ない。

山尾案でも集団的自衛権は行使できる

山尾の意図するところは、「時の権力者が恣意的な解釈によって集団的自衛権の行使容認を可能にすることがないよう、自衛権行使の旧3要件を条文に入れた」ということなのであろう。しかし、政治家というより法律家としての視点から議論しすぎたせいであろうか、山尾は落とし穴にはまったように見える。つれない言い方になるが、山尾の生真面目な考え方が生きるのは、彼女または彼女と同じ考え方の者が総理大臣か内閣法制局長官の座にある時だけだ。

旧3要件は憲法9条の下で個別的自衛権(の一部)を行使する際の条件を厳格に定めた解釈である。しかし、それを憲法の条文に落とし込んだ瞬間、旧3要件は解釈される対象になる。

山尾のような真面目な法曹関係者が解釈するのであれば、従来の解釈は変わらないと期待してもよかろう。だが、最も重要な憲法解釈は、法律ではなく政治の文脈において決まる。政治が「変える」と決めたら、法律家はついていかざるをえない。朝鮮戦争の際に自衛権と自衛隊(の前身)を正当化する解釈が生まれたのも、作成者は内閣法制局かもしれないが、それを作らせたのは当時の日本政府。その裏に米国政府(GHQ)の命令があったことは言うまでもない。

意外に思われるかもしれないが、2014年7月に新3要件を閣議決定した際、果断さと小心の同居する安倍は過去の政府解釈との連続性を完全に断ち切る決断をせず、集団的自衛権の行使は限定容認にとどまった。将来、「過去の政府解釈にはまったくこだわらない」と本当に割りきる政治指導者が出てくれば、どんな解釈も可能になるだろう。現代はドナルド・トランプが米国大統領になるオルタナファクトの時代だ。過去の法律論議の積み重ねの上に憲法解釈が行われる、という想定の下で憲法改正に取り組むのは、甘い。

「条文化された3要件」をどのように解釈すれば、集団的自衛権の行使が認められるか、少し頭の体操をしてみる。現実の安全保障論と法律論をミックスさせれば、さほどむずかしいことではない。

山尾案が書き込んでいる旧3要件のうち、最も重要な制約となるのは「『我が国』に対する急迫不正の侵害が発生していること」である。「我が国が攻撃されていない」状況下で(我が国と密接な関係にある)他国が攻撃された時に行使されるのが集団的自衛権である以上、この要件があれば当然排除される、というのが山尾の論理であろう。それは従来、正しかった。だが、今はどうだろうか?

ここで、朝鮮半島において北朝鮮と米韓が軍事衝突し、今現在、日本の領土は攻撃されていないケースについて考えてみよう。日本国内に米軍基地が存在し、北朝鮮が日本を射程に収めるミサイルを数百基保有していることを考えれば、日本はいつ攻撃されてもおかしくない。しかも、北がミサイルを発射すれば数分から長くても10分以内に甚大な被害が生じ得る。(ミサイル防衛で北のミサイルをすべて撃ち落とせると考えるのは現実的でない。)

山尾はおそらく、朝鮮半島有事については「日本が攻撃されていない事態を含め、個別的自衛権の行使で対応できる」という主張するのであろう。(そうでなければ、集団的自衛権の行使を認めない、という主張を国民が受け入れることはない。)

旧3要件が認める個別的自衛権の行使は、「日本が攻撃を受けて被害が出るまで待て」という趣旨のものでは決してない。我が国への攻撃が切迫していれば、相手側に武力攻撃の「着手」があったとみなして自衛権を行使することは可能だ。

ただし、何を以って「着手」とみなすかは従来、曖昧であった。かつては「ミサイルへの燃料注入が行われる」等の例示があったが、そんなもの、わかるとは限らないし、仮にわかったところで、数分後に日本へ着弾することを考えれば、完全に手遅れだ。固形燃料のミサイルについては、そもそも当てはまらない。

我が国の直面する最大の脅威がミサイル攻撃であるという現実を考えれば、「個別的自衛権で朝鮮半島有事に対応できる」と主張するためには、「着手」を柔軟に認めることが必要だ。逆に言えば、それさえやれば、我が国が攻撃されていない事態を含め、朝鮮半島有事に個別的自衛権で対応するという主張は一応、成り立つ。

ところがこの事態、裏から見て「個別的自衛権だ」と言っても、表から見れば「集団的自衛権以外のなにものでもない」ということになる。いや、日本が目に見える形で攻撃される前に米韓が攻撃された際の武力行使であれば、国民の多くは個別的自衛権ではなく、素直に集団的自衛権の行使と理解するだろう。

このようなケースでは、「我が国に対する急迫不正の武力侵害の発生」の解釈として新3要件を引用し、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合を含む、としても大きな異論は出ないと思われる。

旧3要件が条文化された場合、「急迫不正の侵害がミサイルや砲弾など従来型の「武力攻撃」に限定されるのか」という観点からも解釈の柔軟化が進む可能性がある。

例えば、我が国に対するサイバー攻撃。今日の国際法の流れに従えば、航空機の管制システムがハッキングされて航空機が墜落させられた場合や、厳冬期に電力システムをダウンさせられた結果、多数の死者が出た場合などでは、武力によって相手国を叩くことが正当化されるであろう。
山尾自身がどう考えているかはわからないが、相当規模の人的被害をもたらすサイバー攻撃は「我が国に対する急迫不正の侵害」に該当しうる、と解釈を拡大(または補強)しても決して不自然なことではない。

立憲的改憲の限界

たった一回のブログで山尾の改憲試案を語りつくすことはできない。

今回はあまり触れなかったが、山尾案は交戦権の一部を明記することから、我が国に可能な軍事行動を今以上に——そして安倍案以上にも——拡大させる側面を持っている。いわゆるリベラルの中には、山尾試案を危険視する人も少なくないはずだ。
もっとも、法律家として現実的対応を心掛ける山尾のことだから、そんな批判は「どこ吹く風」に違いない。

いずれにせよ、山尾の改憲案でも集団的自衛権の少なくとも一部は行使可能、というのがこのポストの最も重要な結論だ。皮肉な話ではあるが、山尾が自分の改憲案について「集団的自衛権の行使は認められない」と説明すれば、安倍が自衛隊追記案について「何も変わらない」と説明するのと同じく、不誠実な言動になる。

山尾案の限界は「立憲的改憲」の限界でもある。憲法の条文によって権力を縛る、と言っても、それは背景に権力政治があってこそ、有効に機能する。
今の憲法9条も、日本を打ち負かした米国(GHQ)という絶対的な権力が日本政府や旧軍部という権力を縛ろうとしてできたものだ。
今日、憲法改正の流れが大きくなっているのも、民主党政権が崩壊した後、「安倍一強」「自民党一強」の政治状況が生まれたことによるところが大きい。

時の権力を制御する最も有効な手段は、それに対抗する権力を打ち立てること。この現実を直視せず、「憲法の条文で権力を縛る」といつまでも言い続けているようでは、リベラルが国民の信頼を得る日は永遠に来ない。

 

以上、山尾に一定の敬意を抱きながら、山尾試案を批判してみた。

ここまで批判しておいて言うのも気が引けるが、山尾案は、安倍案や自民党改正草案に比べれば、ずっと真面目に考えられている、という意味では力作と言ってよい。しかし、その山尾試案でさえ、安全保障論や政治論の観点からはこの程度の水準か、と失望したのも正直なところだ。

私は9条改正論者である。しかし、安倍案、自民党改正草案、山尾案を少し真剣に検討してみた結果、やっぱりもっと時間をかけた方がいいな、という気になったことを告白しておく。

徴用工問題は仲裁委員会で政治決着を図るのが上策

9月3日9月8日の2回にわたり、徴用工問題をめぐる日韓関係について議論してきた。
日韓関係のもつれた糸をほぐそうとしても、日韓関係の現状は双方があまりに憎みあいすぎている。日韓が緊張緩和に向けた話し合いを今すぐに始めることは、なかなか期待できない。

それでも将来、日韓関係を改善しようと思えば、慰安婦問題と徴用工問題に何らかのケリをつけることが必要になる。特に、徴用工問題はどうしても避けて通れない。

形式から見た時、徴用工問題を決着させるには、①日韓二国間交渉による合意、②国際法廷での裁判、③日韓請求権協定に基づく仲裁委員会の裁定、という三つの方法がある。いずれも針の穴に糸を通すようなむずかしい話だ。しかし、最も現実的かつ意味のある解決となるのは、仲裁委員会を使うやり方であろう。

二国間交渉は解決につながらない

慰安婦に関しては、2011年に韓国大法院が韓国政府の無作為を咎める判決を下した。その後、2015年に安倍と朴槿恵の間で妥協が成立したが、文在寅によって一方的に反故にされたという経緯もある。
したがって、韓国政府が今後日本に再交渉を求めてきても、日本政府には「無視する」という選択肢がある。日韓関係に棘は残るが、慰安婦問題で在韓日本企業に賠償させることはできない。日本側が無理に動かなくても、目立った実害は出ない。

徴用工の方は、在韓日本企業に賠償責任を認めた韓国大法院の判決で出ており、このままでは実害が出る。今後、訴えられる在韓日本企業の数が増える可能性もある。
日本としては、この問題にケリがつかない限り、手打ちはできない。

1965年の請求権協定によって韓国国内の賠償については韓国政府が責任を持つと合意したのだから、韓国政府は約束を守れーー。これが日本政府の主張だ。
だが、韓国にも三権分立の建前がある。判決が出る前ならまだやりようがあったかもしれない。大法院の判決が確定した後、政府がそれを覆すというのは、文在寅政権でなくても無茶な話ではある。

それでも何らかの政治決着が図られるとすれば、日本政府や関係企業も一部資金負担して基金をつくり、日韓両国政府が共同して賠償に当たる、というような枠組みが考えられる。

とは言え、韓国政府が日本企業の負担を一部でも分担するということになれば、韓国世論は激高し、政権は崩壊しかねない。ましてや、文たちは反日の虜と言っても過言ではない。日本との表立った妥協など、考えたくもないだろう。

仮に日韓の間に妥協が成立し、日本国民の税金を一部でも使うことになれば、「日韓請求権協定で決着済み」という従来の日本政府の主張と矛盾する。国内(特に右寄りの人々)の説得が紛糾することは容易に想像がつく。

「両国政府が交渉を通じて妥協案に合意する」というスキームには、もう一つ大きな問題がある。苦労して合意しても、将来、韓国側にちゃぶ台返しを食らう可能性が――決して低くない可能性が――あることだ。
慰安婦問題も、村山談話とアジア女性基金、2015年の日韓合意など、何度も政府間で決着したと思ったにもかかわらず、蒸し返されてきたのが現実。徴用工問題についても、韓国政府は長年「日韓請求権協定で決着済み」と同意していたはずだが、手のひらを返した。

日本国民の間では、「韓国と何かに合意しても無意味。どうせまた、裏切られる」という絶望的なウンザリ感が共有されている。これは、政治家、官僚、国民のすべてのレベルで、右だろうと左だろうと、安倍政権を支持していようと支持していまいと、あてはまる。現時点で日本側に、韓国政府と交渉しようというエネルギーは湧きそうもない。

結論として、日韓二国間協議による解決は、無理かつ無意味ということになる。

国際司法裁判所という劇薬

当事者同士で有効な結論に達することができない場合、国内であれば次の選択肢は「出るところへ出る」こと。国際社会でその役割を担うのは、国際司法裁判所(ICJ)である。

国際法廷に委ねれば、いかなる判決が出ようと、日韓両国はそれに従うと期待してよい。(韓国については一抹の不安がないわけではないが、国際社会が韓国を支持しないことは明白だ。)
国際司法裁判所という第三者によって「譲歩させられる」という形をとるため、日韓両国政府国内的に言い訳をしやすい、というメリットもある。

国際司法裁判所は、1920年に国際連盟が創設した常設国際司法裁判所を前身とし、国連憲章(第14章第92~96条)に基づいて1945年に設置された国連傘下の常設の司法機関。裁判所はオランダのハーグに置かれ、国連総会と安全保障理事会の投票によって選ばれた15人の判事によって構成される。判事の経歴は、外務省の法律顧問、国際法の教授、大使や裁判官の経験者などが多い。同一の国から二人以上の判事が選ばれることは禁止されている。

ただし、徴用工問題を国際司法裁判所で裁くことについては、二点、押さえておかなければならないことがある。

1.  合意付託できるか

一つは、日本が望むだけでは、裁判が始まらないことだ。国内の裁判であれば、一方が他方を訴えれば、基本的には裁判が始まる。しかし、国際司法裁判はそうではない。制度的な詳しい説明は省略するが、徴用工問題を国際司法裁判所で争うためには、日韓が本件を国際司法裁判所へ付託することに合意し、その旨を記した特別合意書をハーグ法廷へ提出することが必要になる。

日本政府は戦後、領土問題を解決するために国際司法裁判所を利用しようとしたことが何度かある。韓国に対しては1954年、1962年、2012年の三回にわたって竹島の領有権問題を国際司法裁判所へ共同付託(合意付託)するよう提案した。ソ連に対しても、1972年に北方領土に関する共同付託を申し入れたことがある。しかし、いずれも韓国とソ連が拒否したため、国際法廷は開かれなかった。

昨年、徴用工問題で大法院判決が下ったことを受け、日本政府は国際司法裁判所への提訴(単独付託)も検討していると言われる。

相手国の同意がなくても、係争当事国の片方がハーグ法廷に訴え出ること自体はできる。その後、訴えられた方が自発的に付託に応じれば、裁判は始まる。ただし、そのようなケースは極めて稀だ。

特に、韓国は面子を重んじる国。単独付託され、後からそれに応じることは、まず考えられない。日本が単独提訴しても、「憂さ晴らし」にしかならない。韓国に下記の仲裁委員会設置を呑ませるためのカードの一つと位置付け、軽はずみなことはしないことだ。

国際司法裁判所で徴用工問題を実際に審理させたいのなら、事前に韓国と話し合って「合意付託」に持ち込むしかない。そのハードルは非常に高いが、モデル・ケースは存在する。

シンガポールの東方、マレーシアの南東方向の海上に三つの岩礁がある。その一つ、ペドラ・ブランカ島(マレーシア名はバトゥプテ島)は19世紀に英国が灯台を建て、その後はシンガポールが管理してきた。しかし、1979年にマレーシアがこれら三つの岩礁の領有権を主張し始め、その帰属問題は両国間で争いの種となった。
長年の交渉の末、両国はこの問題の解決を国際司法裁判所に委ねるという特別協定に調印し、2005年にハーグ法廷へ提訴した。2008年に国際司法裁判所の出した判決は、ペドラ・ブランカ島についてはシンガポール、その南方の岩礁についてはマレーシアの主権を認める一方、最南端の岩礁については周囲の海域を領海とする国(シンガポール、マレーシアに加え、インドネシアも絡む可能性がある)の領有という表現で先送りにした。シンガポール政府とマレーシア政府はそれぞれ、不満を述べつつも判決を受け入れた。

とは言え、韓国政府が徴用工問題で合意付託に応じるということは、大法院(最高裁)で勝訴が確定しているのに、わざわざ判決が覆るリスクを冒すということを意味する。それだけでも、韓国世論から売国的だと非難されかねない。ハードルが高いことに変わりはない。

2.  勝てないかもしれない

徴用工問題を国際司法裁判所で解決する場合、もう一つの注意点は、日本が勝てるか否か、見通せないことだ。

日本政府の主張は、1965年に締結した日韓請求権協定で解決済み、というもの。無償(3億ドル)・有償(2億ドル)援助等を行い、韓国の個人分については韓国政府が責任を持つ約束だったのに、反故にされたと韓国政府を批判している。
国家間で戦時の賠償問題が片付いても、個人による旧敵国への賠償請求権は残る、という考え方が国際法解釈の主流だ。韓国の個人分の補償については韓国政府が責任を持ち、日本政府はその分を含めて韓国に援助を行ったという主張が、どの程度通るのか。韓国側が人権問題を絡めてお得意のロビイングを仕掛けることを含め、日本に不利な判決が出る要素は、少なからずある。

2014年3月、オーストラリアとニュージーランドが南極海における日本の調査捕鯨を国際法違反だと提訴した裁判について、国際司法裁判所は「このままの形で捕鯨の許可を与えることはできない」という判決を下した。判決を受け、日本は南極海での調査捕鯨を中止せした。判決が出るまで、外務省は「絶対に勝てる」と楽観していたと言う。

国際司法裁判所ではないが、韓国が原発事故後、福島県などからの水産物輸入を禁止している問題について、今年4月、世界貿易機関(WTO)の上級委員会(第2審)は、韓国に是正を求めた小委員会(第1審)の判断を取り消す裁決を下した。この時も、外務省や農水省は「勝てる」と思っていたらしい。

負けるかもしれない、というリスクがあるのは、韓国にもあてはまる。
しかも、現状の大法院判決は韓国に有利なものだ。日本側は国際司法裁判所で負けても、「ダメ元」と言えなくもない。だが、韓国政府の場合は、国際司法裁判所で負ければ、文字通り洒落にならない。

国際司法裁判の場合、政治的な配慮よりも、法解釈の議論に基づいて判決が下される。その結果、負けた方にとっては、極めてきびしい結果になる可能性がある。
例えば、元徴用工への賠償責任は韓国政府にある、という判決が下れば、(日本側にとっては当然の判決であっても)韓国の政治は大混乱に陥るだろう。逆に、日本政府は元徴用工への賠償責任を幅広く負うべし、という判決であれば、賠償金額や対象となる人数は膨れ上がりかねない。

日韓双方の政治指導者がこうした不透明性を呑み込み、文字通り政治生命をかけて取り組むことができるのか? 両国の政治や世論はついてこられるのか?
そう考えると、国際司法裁判所における解決、というオプションも現実味は薄いか。

落としどころは仲裁委員会

日韓請求権協定には、両国の間に意見の相違が生じたときの紛争解決手段について、第3条に定めがある。
すなわち、日韓の間でまずは協議を通じて解決をめざす。それが駄目な場合は、日韓各1名と日韓が同意する日韓以外の1名(または日韓が同意する第三国の指名する1名)からなる仲裁委員会を設置し、案件を付託する。両国は仲裁委員会の決定に服さなければならない。

昨年、徴用工判決が出たあと、日本政府は韓国に外交協議を申し入れ、さらに仲裁委員会の設置を求めた。しかし、韓国政府が事実上拒否したため、設置は叶わなかった。

だが、仲裁委員会による解決には無視できないメリットがある。一度断られたからと言って諦めるのはもったいない。仲裁委員会による解決のメリットは二つ。

一つは、条約(国際協定)に基づくものであり、第三国(第三者)も関与する仕組みであるため、結論が出れば、韓国も決定に従わなければならないこと。ちゃぶ台返しはまずないと思ってよい。(ただし、仲裁委員会の設置まで行っても、結論が出ないケースはあり得る。)

二つめは、仲裁委員会とは言ってもベースにあるのは二国間協議であるため、日本または韓国が国内的にどうしても受け入れられないような決定には至らないこと。つまり、国際司法裁判所の判決よりも、日韓の間で一種の「引き分け」を実現させられる可能性が高い。

両国間に最低限の信頼関係もないまま、仲裁の「着地点」について下打ち合わせもしないまま、出たところ勝負のように仲裁委員会の設置を提案しても、韓国が受けるはずはない。水面下で日韓が妥協できる大体のラインを双方がイメージできてはじめて、仲裁委員会設置の可能性が出てくる。

私が抱く仲裁案のイメージは、先に二国間交渉の項で述べたようなものだ。日本の完勝は韓国が受け入れるはずがなく、韓国の完勝は日本が受け入れられない。そうであれば、着地できる範囲は誰が考えてもあまり広くない。

冷え切った日韓の間を取り持つよう、第三国――仲裁委員会が設置されれば、仲裁委員を出すことになる可能性が高い――に依頼することも重要になる。いや、もしかしたら、これが成否の鍵を握るかもしれない。

第三国として誰もが最初に思い浮かべるのは、日韓双方の同盟国である米国だろう。私もそれを否定するものではない。
ただし、今の「トランプのアメリカ」がよいかどうかは慎重に考えた方がよい。トランプが「善意の第三者」として振舞うかどうかに確証が持てないためだ。安倍とトランプの関係を韓国がどう見るか、ということもある。
もう一つ。米国に仲介役を頼めば、「米国というお目付け役のもとで日韓が協議させられている」という構図になってしまう。別な意味でこれは嫌だな。

中国に仲介役を頼む、というウルトラCも頭の体操としては面白い。だが、中国は韓国と同じく徴用工問題を抱える国だ。日本の国内世論が中国を仲介役として受け入れることに抵抗感を持つであろうことも障害になる。賢明ではあるまい。

とは言え、米国は「日米韓」、中国は「日中韓」という日韓を含んだトライラテラルな枠組みを持っている。日本との新ディール協議に入るよう、米国と中国から韓国へ働きかけてもらうことはとても意味がある。

ここは「近隣でない小国」という線で、過去に国際紛争の仲介役として実績を持つ国にあたってみてはどうか? いずれにせよ、日本外交の日頃の「交際力」が試される。外務省にはこういう時にいい仕事をしてもらいたいものだ。

 

安倍政権と文在寅政権の相互憎悪を考えれば、少なくともいずれかの国で指導者が交代しない限り、日韓が仲裁委員会の設置を含め、何らかの妥協策に合意できる可能性はないかもしれない。(理屈の上では、別な見方もできないわけではない。日韓が何らかの妥協案に到達した場合、それぞれの政府が国内世論を納得させる上では、「右寄りで政権基盤の磐石である安倍」と「左寄りで支持率の比較的高い文」の組み合わせは理想的なものである。)

国力の接近した日韓がナショナリズムを制御し、歴史問題を克服することは、生半可なことではできない。日韓の指導者は、冷静に自国の国益とは何かを理解し、文字通り政治生命をかけてこの難問に取り組むべきだ。さもなければ、日韓のルーズ・ルーズ・ゲームはいつまでも続く。

対韓圧力はやがて手詰まりに陥る可能性大――気がつけば「戦略的無視」から逸脱していた日本政府

前回の記事で、徴用工問題に端を発した日韓関係の悪化は、双方にとって損しかないものの、その損が致命的でないために「ナショナリズムの罠」から抜け出せず、いつまでも続きそうである、と述べた。

今の日本人の感覚は、「日韓関係なんか悪くても何も困らない。つき合っても不愉快になるだけだから無視すればいい」というのが最大公約数だろう。私も正直言って、韓国に関与することに疲れてしまった。しばらく放っておけばいい、という気分だ。

その後、ソウルやプサンでは教育機関や公共施設で「戦犯企業」の製品を買わないよう努力義務を課す条例を可決するなど、韓国側は情緒的対応をやめる気配を見せない。だが前回も述べた通り、彼らが何をやろうと、日本の措置を撤回しなければならないほどの圧力をこちらが感じることはない。韓国の行為は、我々の「ウンザリ感」を一層募らせ、「日本は絶対に降りるべきでない」という気持ちを募らせるだけだ。

しかし、冷静になってみると、この関係はどこかで着地点を見つけ、終わらせなければならない。今後の展開を考えたとき、この勝負、時間が経つにつれて日本は手詰まりになるのではないか、と思えてきたからだ。それはどういうことか? あまり言いたくはないが、書いておかねばならない。

この先の展開を読む

7月4日、日本政府は半導体製造に使われる3品目の韓国向け輸出を個別許可制に移行。7月のフッ化水素の対韓輸出は前月比で8割減少した。
8月28日には軍事転用の恐れが低い製品の輸出について審査不要のホワイト・リスト(グループA)から韓国をはずす政令も施行された。
こうした動きに対し、韓国側は日本政府のとった措置に直接対応する範囲を超えて対日報復措置をエスカレートさせ、GSOMIAの破棄まで通告してきた。

先日、李洛淵(イ・ナギョン)首相が韓国国会で「(対韓輸出規制強化など)日本の不当な措置が元に戻れば、わが政府もGSOMIAを再検討することが望ましい」と答弁した。訪韓した河村建夫元官房長官(日韓議員連盟幹事長)に対しても、李は同様の発言を繰り返している。事実上、「日本が韓国をホワイト・リストに戻せば、韓国はGSOMIAの破棄(11月から発効)を取り消してもよい」という観測気球なのだろう。

しかし、日本側の輸出管理厳格化は、安全保障上の理由という建前はさておき、韓国政府に徴用工問題への取り組みを促すことが目的だ。日本政府にとって、李の提案は「まったく次元の異なる問題(菅官房長官)」を意図的に混同させようとしたものでしかない。安倍も「徴用工問題の解決が最優先だ」と不快感を示し、乗るつもりはなさそうである。

ここまでは、日本ペースとまでは言わないが、韓国側の報復措置にもかかわらず、日本が韓国に対して攻勢に立っているように見える。だが、この先は果たしてどうなるのか?

今後も韓国政府が徴用工問題で何の手も打たなければ、日本側は意地でも輸出管理の厳格化を元に戻さない。
すると、韓国側は報復措置として既に発表済みの対日貿易制限措置を実行に移す。韓国の輸出管理上、日本をホワイト・リストからはずすことも今月中には始まるだろう。11月になれば、GSOMIAも完全に破棄される。

両国にとって、経済的にも、安全保障の観点からも、マイナスの影響が出ることは間違いない。だが、前回述べた通り、両国が蒙るマイナスは「致命的」というレベルにまでは達しない。

日本が7月以降に打ち出した輸出管理厳格化措置に対し、韓国は常軌を逸した反応を示した。そのことによって、我々は日本のとった措置が韓国にとって与えるダメージを実態以上に大きなものと受け止めてしまったようだ。

前回も述べたとおり、日本の輸出管理厳格化は手続き面の規制強化であって禁輸ではない。先月あたりから、輸出申請に対する個別許可も降り始めている模様だ。ホワイト・リストからの韓国除外についても同様のことが起きる。したがって、時間の経過とともに対韓輸出は、完全に元には戻らないまでも「正常化」していくことが予想される。

さらに、サムソン電子など韓国の半導体メーカーは、フッ化水素の韓国産化に取り組むなど対策に着手した。日本の制裁は長い目で見れば、日本の素材メーカーにとって不利なことになりかねない。

日本政府が韓国に課した経済措置は、安倍がトランプ流を模倣したものだ。しかし、スケールの点で両者の違いはあまりに大きい。
トランプは、中国からの輸入に対し、広範かつ大幅に関税を引き上げている。ファーウェイについては、米政府機関による調達、米企業による部品供給を禁止した。ファーウェイに対する規制の網は、米国企業のみならず、日本を含む同盟国の一部や多数の外国企業にも及ぶ。

しばらく時間がたてば、韓国は日本の輸出管理厳格化によってあまり痛みを感じなくなるだろう。
ではその時、徴用工問題はどうなっているか? 韓国政府が徴用工問題で日本に何らかの配慮を示しているとは考えられない。
つまり、徴用工問題は改善しないまま、日本側のとった対韓措置に韓国側が慣れる、という事態を迎える可能性が高いということだ。

手詰まりの予感

徴用工問題は、日韓の外交問題という側面もあるが、基本的には韓国司法の土俵の上にある、と言わざるをえない。
大法院(韓国最高裁)の判決は既に下り、日本製鉄(旧新日鉄住金)の資産は差し押さえられている。別の在韓日系企業を標的にして新たな訴訟を起こされれば、同様の判決が出るはずだから、賠償させられる企業が続出しかねない。
我々がそれを不当だと思っても、こちらに強制的に阻止する手立てはない。(戦前なら、「朝鮮出兵」を含む軍事的な手段で圧力をかけることも可能だった。しかし、今の時代にそんなことをすれば、日本は侵略国とみなされる。)

結局、日本が韓国に対して圧力をかけ続けようと思えば、経済面(関税引き上げ、政府調達からの韓国企業締め出し、金融制裁等)で新たな対抗措置を導入するしかない。だが、韓国相手に安全保障を理由にした規制を課すには自ら限度がある。無理にやれば、WTOで負ける。
また、日本の措置は(米国がやっているように)他国の政府や企業を巻き込んだものにはならない。韓国への打撃も限定的なものにとどまる。

一般論としても、ナショナリズム(歴史問題)が絡む問題を経済圧力によって解決することは非常にむずかしい。日本が圧力を強化すれば、韓国が徴用工判決の差し押さえ資産の現金化に踏み切るなど、徴用工カードを切ってくる可能性も考えられる。

少し脱線するが、安倍にとことんやるつもりがあるのなら、徴用工問題で訴えられる日系企業に韓国撤退を要請するくらいの覚悟を持たなければならない。トランプは中国に進出している米国企業に対し、撤退を要請している。
韓国側に戦犯と名指しされた日系企業は、いわゆる賠償金を支払ってでも韓国にとどまった方がよい、と考えているのか否か? 私はその本音を知らないので、これ以上のコメントは控える。

輸出管理規制の強化によって徴用工問題の本質的な解決をはかるという日本政府の計略。一見よさそうに見えたが、ここまでくると手詰まりに陥る可能性が高い。

安倍政権の最近の対韓政策は「戦略的無視」と言われてきた。だが皮肉にも、今夏発表した対韓輸出管理の厳格化は、この「戦略的無視」を逸脱した行動であった。
韓国側の過剰反応に対し、さらなる圧力で応じても先は見えない。日本としては当面、「戦略的無視」に戻るのが得策であろう。

韓国という国は、本当に面倒くさい国だ。しかし、韓国というクセのある隣国との確執にこだわり続けることも愚かな話。好きになれない国であっても、我が国の国益を極大化するうえで利用してこそ、日本の方が大人ということではないのか。

戦略的無視という言葉には、魅力的な響きがある。しかし、それをいつまでも続けることはできない。時間はかかっても、我慢に我慢を重ねてでも、日韓関係の改善に取り組むべきだ――。私はそう思う。

次の記事では、日韓関係改善の方策(=徴用工問題の解決策)について私の試論を述べてみたい。

「抑制しない政治」の兆しが見える②~政治がメディアを圧迫する時代とリベラルの憂鬱

前回8月24日付のポストで見たように、N国の立花孝志は、マツコ・デラックス叩きを通じて自分の宣伝にまんまと成功した。だが、そんなことよりもずっと重要なのは、弱小政党であってもバラエティー政治評論を黙らせることができることを示したことである。報道メディアもそれを傍観したため、政治による対メディア介入を助長する結果となってしまった。

今回のポストでは、今日の日本のメディアと政治の関係――メディア一般に対する政治の圧力、メディアの党派的政治性など――を概観し、それが所謂リベラル勢力にとって不利な状況を作り出していることを指摘する。

政治がメディアに圧力をかける状況は決して好ましい事態ではない。しかし、トランプのアメリカをはじめ、今日、世界中の民主主義国家で共通して見られる現象であることも否定できない事実だ。「こんな状況はけしからん」と批判するのは、実は現実逃避にすぎない。まずは現実を直視することから始めるしかない。

メディアを叩き始めた政治

戦後の長い間、第四の権力と言われるメディアには、政治的(党派的)に中立であることが求められてきた。その一方で、政治の側もメディアに圧力をかけることはタブーとされた。

もちろん、戦後政治においてメディアが政治的に完全に中立だったと言うつもりはない。政治が水面下でメディアに圧力をかけることもまったくなかったわけではない。だが、少なくとも建前としては、「メディアは党派的に中立であり、政治は報道に介入してはならない」という考え方が世の中に受け入れられてきた。今日でも日本ではまだそう信じている人が少なくない。

しかし、少なくとも自民党とメディアの関係に関する限り、21世紀に入ったあたりからこの建前は形骸化してきた。

その要因の一つは、冷戦後に旧田中・大平派連合から清和会支配へと党内権力の重心が移行したことに伴い、自民党が右傾化したこと。
2001年には従軍慰安婦関連の番組について当時官房副長官だった安倍晋三などが右翼的見地からNHKに注文を付けたことが知られている。

もう一つの理由は、2009年に下野した苦い経験から自民党が政権維持のためならなりふり構わぬようになり、メディアへの圧力もタブー視しなくなったこと。
2014年の総選挙の際には、自民党はNHKと民放各社に「公平中立、公正」な選挙報道を求める要望書を出す。安倍政権批判に偏ることのないよう選挙番組へのゲスト選定に配慮することなど、それまでになかった露骨な圧力が加えられた。その後もこの種の要望は選挙の度に出されている模様である。
2018年秋には、国政選挙でもない自民党総裁選に関してまで、安倍と石破を対等に扱う旨の細かな要望書を新聞各社に出している。石破有利の報道を行わないよう圧力をかけるためであった。

メディアの側も情けない。言うことを聞かなければ安倍に出演・取材拒否されて番組や記事が成立しなくなることを気にかけたり、安倍一強体制が続く中、あとで有形無形の嫌がらせを受けることを恐れたりした結果、自民党の要望に大筋で従ってきた。

このように、最近では政治がメディアに圧力をかけるということが、実際に起きている。しかし、メディアに圧力を効果的にかけることができたのは、これまでは自民党だけだった。野党の多くは政治がメディアに圧力をかけることを依然としてタブー視し続けている。メディアの側も、仮に野党から圧力をかけられても無視することができた。

今回、N国は政治がメディアに圧力をかけられる可能性を大きく広げた。たった一人の国会議員しかいなくても、声を荒げる、有名人や番組スポンサーを攻撃対象に選ぶ、ネット動画で拡散する、等の手法が当たれば、メディアーー少なくとも、ワイドショーの芸能政治評論くらいならーーに圧力をかけて黙らせることができるという実例を作ったのである。

リベラル野党には無理?

ここで断っておかねばならない。N国が今回、成功裡にメディアを叩いたからと言って、すべての政党(野党)が立花のように効果的にメディアを叩けるわけではない、ということだ。

一言で言えば、野党がメディアを叩こうと思えば、ガラがよくては駄目。知性はメディア批判の邪魔をする。立花だけでなく、トランプを見ても、安倍を見ても、そのことは一目瞭然であろう。

日本のリベラル系野党は、旧民主党系を筆頭に、知識偏重でひ弱だ。かつては暴力革命を唱えることもあった共産党でさえ、今やすっかり知識人政党になってしまった。今日、リベラル系野党が産経新聞を批判しても、あることないこと反論されて返り討ちとなるのがオチだ。支持率とメディアへの露出がある程度比例する今日、弱小野党には、「メディアと喧嘩してメディアとの関係が悪くなっては困る」という要らぬ計算も働く。

フェイク・ニュースがはびこる今日、ナショナリズムと感性に訴える勢力の方が、理性や知性を重視する勢力よりも、政治やメディアの世界では有利である。
理由を簡単に説明しよう。

右寄りの政党がリベラルなメディアを攻撃する場合、テーマはナショナリズムが関わるものが多い。その際、右寄り政党は当該メディアの弱みを集中して突く。事実関係に異論があっても、ナショナリズムに結び付けて声高に叫べば、より多くの国民の共感を得ることは比較的簡単だ。しかも、右寄りのメディアもリベラル系メディア叩きに参戦する。この時点で、数のうえではリベラル勢力にとって「多勢に無勢」の状況が生まれる。一方、リベラル系メディアは、右寄りからの攻撃に対して事実関係の検証やコスモポリタニズム(または平和主義)の観点から反論しようとする。しかし、これは手間がかかるうえ、ナショナリズムの関わるテーマを論理だけで議論しても一般国民の共感は広がらない。共産党や社民党を別にすれば、リベラル系野党も国民感情に配慮して「どっちつかず」の態度をとることが多い。

右寄りメディアがリベラル系野党を批判するときは、まったく逆のことが当てはまる。敗戦後、平和主義や知性が幅を利かせた時代は終わり、リベラル系はメディアも政党も不利な立場に置かれているのが今日の実情である。

米国においても、民主党は知性を尊重する支持者を共和党よりも多く持ち、民主党の議員の間にもその傾向が見受けられる。実際、米国の民主党もトランプのフェイク・ニュース攻勢に対して守勢に回らされている。だが、米国の民主党は、日本のリベラル系野党ほど負け犬根性に支配されていないし、同党を支持するメディアを持っている(後述)。日本に比べれば、状況ままだマシと言ってよい。

日本のメディアの党派性

メディアの方も今や、政治的(党派的)中立性を維持しているかと言えば、微妙なところ情勢となった。「微妙」という言葉を使うのは、今日のメディアがすべからく政治的党派性を帯びている訳ではないからである。

我々は一般的な建前として、「新聞、テレビなどのメディアは政治的に中立・公正である」と無意識のうちに思っている。だが、現実はそうではない。

法規制上、テレビ局は前述の放送法で政治的公平性を要求されている。しかし、社の方針として特定政党を支持していても、当該政党に明白に有利な報道を連日繰り返すのでなければ、法的にはアウトとならない。毎週のように自局の番組に複数政党を出演させ、コメンテーター等が特定政党をヨイショするくらいのことは大目に見られる。

論より証拠、右寄りと言われるフジテレビの報道番組では、解説委員が露骨に安倍を支持したり、野党を叩きまくったりするが、それが放送法第4条違反だということにはなっていない。
一方で、保守系陣営から偏向報道だと批判されることの多いテレビ朝日は、安倍政権を批判する傾向が他局に比べて強いことは確かだが、自民党以外の特定政党(立憲民主党など)を支持しているという事実はない。政権批判はしても、野党にもケチをつける。教科書どおりに政治的中立であろうとしているのか、言ってみれば「おぼっちゃま」のようなテレビ局である。

NHKについては長い間、公共放送であるがゆえに民法とは別次元で政治的(党派的)中立性が求められる、と考えられてきた。しかし、NHKの番組制作に自民党や官邸が介入したらしいことは前述のとおり。安倍政権になってからは、百田尚樹、長谷川三千子、古森重隆から、安倍の家庭教師だった本田勝彦まで、安倍に近い右寄りの人物が経営委員に指名された。同じく安倍人脈の籾井勝人が会長に据えられていたことをはじめ、NHK本体の人事にも官邸の意向が反映されているという指摘は後を絶たない。

新聞になると、そもそも根拠法がないので、放送法第4条のように政治的中立を法的に求められているわけではない。右寄りで知られる産経新聞は2010年に綱領を改定して決定的に右旋回した自民党を明白に支持していると言ってよい。産経ほどではないが、読売、日経も伝統的に自民党寄りだ。
一方、朝日、毎日、東京はリベラル系と位置付けられ、自民党に批判的な論調で知られる。ただし、この3社が民主党政権時代、与党寄りだったかというとそんなことはない。権力(政権)に対して批判的なだけで、特定の政党支持を打ち出してはいない。安倍自民党が政権に返り咲いて以降は、安倍政権を礼賛した時期もあったし、評論家よろしく野党叩きに精を出すことも少なくなかった。日本のメディアは溺れる者は叩くが、強い者にはゴマをする習性があるのだ。

最近はネット・メディアも無視できない。「ネトウヨ」という言葉が示すように、この世界では右寄りの政党が支持される傾向が強い。例えば、ネット・メディアの代表格であるニコニコ動画は安倍応援団として知られている。安倍も選挙戦中の討論番組では、地上波テレビ局を差し置いてニコ動に優先的に出演する。リベラル系でニコ動に匹敵するメディアは存在しない。

世界の民主主義国家を見渡してみても、メディアが特定政党を支持する、というのは別に異常なことではない。むしろ、日本のようにメディアが政治的(党派的)に中立を装っていることのほうが珍しい。米国では、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNが民主党系、FOXは共和党系(と言うよりも最近はトランプ系)などとはっきり色分けされる。大統領選のたびにメディアの多くは自社が支持する候補を明らかにすると言う。

ただし、日本のメディアにおいては、(公言してはいないものの)自民党を明確に支持しているメディアは確かに存在する一方、(政権批判には熱心であっても)リベラル系の政党を本気で応援しているメディアはない。その結果、リベラル系政党は自分たちの主張や反論を伝えるうえでも、どうしても後手にまわる。

戦後、日本では(公明との連立も含めた)自民党一党支配が長期にわたって続き、二大政党制が根付いていないことも関係しているのだろうが、逆に言えば、現代日本政治においてリベラル政党が弱体である理由の一つとなっている。

リベラル陣営は立ち直れるか?

N国の立花がマツコ・デラックスに噛みついた事件は、与党・自民党でなくても政党がメディアを叩ける可能性の一端を垣間見せた。だが、メディアを効果的に叩く点においては、政権の座にあるか否かを別にしても、保守系政党の方がリベラル系政党よりも有利だ。しかも、リベラル系政党は、自民党が持っているような「御用メディア」を持っていない。

これでは、リベラル系野党が夢見る政権交代などまずあり得ない。万一、僥倖に恵まれて政権に就くことができたとしても、民主党政権よろしく短期間で下野することは間違いがない。リベラル系の野党は10年計画を立て、綺麗ごとでないメディア戦術を組み立てる必要があるだろう。

危機意識が足りない点では、リベラル系メディアも五十歩百歩。綺麗ごとを墨守するだけでは、このまま保守政党と右寄り行動派メディアにどんどん包囲され、「報道の自由」も何もあったものではなくなる。いつまで党派的中立性をくそ真面目に守り続けるつもりなのだろう?

リベラル勢力に頑張ってもらいたいとは思うが、楽観的展望は描けない。

「抑制しない政治」の兆しが見える①~マツコ・デラックスに噛みついた立花孝志

このところ、「NHKから国民を守る党(N国)」の立花孝志代表が芸能人のマツコ・デラックスの発言に噛みつき、話題になっている。立花一流の炎上商法に本ブログでコメントするのも馬鹿馬鹿しい――。そう思ってスルーするつもりだったが、よくよく考えてみると、この騒動の向こうに現代日本の(世界の、と言ってもよい)民主主義が直面する宿痾のようなものが見えてきた。

これまで日本では、自民党だけがメディアに圧力をかけられる存在であった。しかし、今、我々は、政治が一般的にメディアへ圧力をかけられる時代の入り口にいるのではないか。

マツコの発言は何が問題だったのか? 

7月29日に放映されたTOKYO MX(東京メトロポリタンテレビジョン)の「5時に夢中!」という番組で、マツコ・デラックスがN国について以下のように述べた。

「この人たちがこれだけの目的のために国政に出られたら迷惑だし、これから何をしてくれるか判断しないと。今のままじゃ、ただ気持ち悪い人たち」
「ちょっと宗教的な感じもあると思う」
「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」

これに対してN国代表の立花は「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒。「マツコ・デラックスをぶっ壊す!」と8月12日にマツコが出演中のMXに押しかけ、番組スポンサーである崎陽軒のシウマイについて不買運動を呼びかけたりした。その後、8月19日にもMXを訪れた立花は、崎陽軒不買運動とマツコ批判に終結宣言を出す。しかし、MXに対しては自らの番組出演を要望し、同局が見解を出すまで毎週押しかけ続けると述べた。

マツコの発言に戻ろう。
私は、マツコの発言で敢えて問題があるとすれば、N国が「これだけの目的」(=NHKのスクランブル化)のために参院選に出たことを「迷惑」と述べた部分だと思う。この発言は、シングル・イッシュー政党の存在意義を認めないことにつながる。ただし、「NHKをぶっ壊す」以外の法案賛否などについてN国の見解がわからないため、今後の言動をしっかり見定めたい、ということにマツコの真意があったのであれば、問題視するほどのこともない話だ。

芸能人ではない立花が、自分のことを「気持ち悪い」とか、「宗教的な感じ」がすると言われれば、不愉快な気持ちになったことは十分に理解できる。だが、マツコのこの感覚は少なからぬ人が抱いている感覚である。N国の候補者たちが政見放送で連日繰り返したパフォーマンスを見れば、そう思われてもまあ仕方がないだろう。しかし、マツコが思ったことをそのままに言ってはならないのは、それが誹謗中傷に当たる時のみ。今回のマツコの言葉を誹謗中傷とまで言うことはできない。(念のために付け加えると、マツコの「気持ち悪い」発言は、N国の候補者たちに向けられた言葉だと思われる。だが立花は、わざとかどうかは知らないが、これをN国に投票した人たちへ向けられた言葉と解釈しているようだ。)

結局、立花が最も問題視しているのは、N国へ投票した有権者が「冷やかし」や「ふざけ」によって投票行動を決めた、という部分なのであろう。この言葉に対して立花は、「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒してみせた。自分がケチをつけられたことに怒っているのではなく、一般有権者が侮辱されたことに対し、一般有権者のために怒っている、という体裁をとる。こういうところが立花は実にうまい。

立花は「発言は明らかに公平中立な放送をしなくてはならないという放送法4条違反」だと主張している。N国の上杉某なる幹事長も同様のことを述べ、だから、反論する機会を得るために――つまり、N国を公平に扱うために――立花をMXの番組に出演させろ、と要求している。だがこれ、ほとんど「いちゃもん」である。

放送法4条は放送番組の編集に際して以下の四点を要求している。

1.  公安及び善良な風俗を害しないこと。
マツコの発言が公安を害していないことは言うまでもない。N国の候補者たちが善良な風俗を害していないのであれば、マツコの発言も同様であろう。

2.  政治的に公平であること。
立花は、今回のマツコの発言を、一方的に特定の政治団体を誹謗中傷したものと批判する。だが、事実でもないのに「殺人者だ」「窃盗犯だ」と言われたのならともかく、この程度で「誹謗中傷」にはならない。また、立花が言うように今回の事例で政治的な公平さが損なわれたと解釈するのであれば、テレビでコメンテーターが政党を多少なりとも批判しようと思えば、その政党を必ず番組に呼ばなければならなくなる。これではテレビ局は政党について何も言えなくなってしまう。それは言論の自由の死を意味する。(ついでに言うと、放送法でいう政治的公平性を立花たちのように解釈すれば、ある政党を褒めても公平さを欠くことになるため、他の政党を呼んだ番組の中でしか許されない、ということにもなってしまう。)

何よりも、立花たちは、ここでいう政治的公平性の意味を(無知ゆえにか故意にか)間違って解釈している。政府が想定しているのは、「選挙期間中又はそれに近接する期間において殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合といった極端な場合」や「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が一方の政治的見解を取り上げず、殊更に他の政治的見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合」等だ。放送法第4条にいう政治的公平性は、マツコのような他愛のない発言について針の先のような形式主義をあてはめようとするものではない。

3. 報道は事実をまげないですること
マツコが「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」と述べたことに対し、立花は「みんな真剣に投票している」「誰がふざけて選挙の投票なんかするか!」と怒る。しかし、マツコは「N国に投票した人のすべてがふざけて入れた」と言ったわけではない。実際、「面白そう」というノリでN国に入れた人はいただろう。マツコの発言を虚偽と断定することはできない。それでも立花がマツコを批判したければ、ふざけてN国に投票した人が一人もいなかったことを立花たちが証明すべきだ。立花は「挙証責任はマツコの側にある」と主張するだろうが、それでは放送番組で政治を論じることは事実上できなくなる。

4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

これは例えば、外国人労働者の受け入れとか、カジノとか、憲法改正など、相反する意見がある重要課題について、多様な見解を紹介して一方的な議論にならないようにする、という意味。今回の件が当てはまらないことは言うまでもない。

結論としては、今回のマツコの発言が放送法4条に違反している、というN国の主張自体がフェイクである、ということ。マツコ発言には、立花が噛みつくような正当な問題など見当たらない。

バラエティー政治評論の限界

以上で述べたとおり、立花のマツコ批判は間違っている、と考えるのが正論だ。しかし、立花は自分の議論が正論かどうかなど歯牙にもかけていないだろう。マツコを叩くことによってN国の宣伝は十分に(かつ安上がりに)果たした。

もう一つ、マツコたたきで立花とN国が得たものがある。メディア、少なくともワイドショーのバラエティー政治評論の側に「N国を叩くと面倒なことになる」という気持ちを植え付けたことだ。

今回の顛末を通して、マツコやMX側がダンマリを決め込んでしまったのには少し拍子抜けした。マツコにしてみれば、「反論すれば立花の思う壺」と(それなりに)賢明な判断をしたつもりなのかもしれない。だが、そのために世間では「立花の主張の方に分がある」という見方が広がってしまった感がある。

マツコに限らず、吉本問題ではあれほど好き勝手に発言していたワイドナショーのコメンテーターや芸能人たちも――「爆笑問題」の太田光など一部の例外を除いて――、この件については歯切れが悪い。自分の見解を表明して立花の標的になることを怖れている、というのは考えすぎかもしれないが、彼らは明らかに「怯んで」いるように見える。(私はワイドショーをそんなに見ているわけではないので、あくまで漠然とした感想である。)

これまでワイドショーでキャスターやコメンテーター、わけても芸能人が政党や政治家を批判したり、おちょっくったりしても、今回マツコのように噛みつかれることは基本的になかった。特に、野党を批判しても、批判された側が彼らに牙をむいてくる心配は不要であった。(国会議員ではなかったが、橋下徹はメディアへの反論を厭わなかった。それでも橋本は知識人。反論は言論にとどまり、テレビ局に抗議に出向くようなことはなかった。) 言わば、自分の身は安全な場所に置いたまま、好きなことを言ってもよかった。

ところが今回、たった一人しか国会議員のいない「弱小」政党に軽口を叩いたところ、口汚く猛反発を食らったあげく、テレビ局にまで押しかけられ、スポンサー企業の不買運動まで口にされた。

単にすごむだけではない。芸能人には馴染みのない言葉(放送法第4条とか)を織り交ぜてくる。「崎陽軒に罪はない気がする」と軽いノリでツィートしたダルビッシュ投手は、N国幹事長の上杉から「崎陽軒に罪はないのならば、誰に罪があるのでしょうか?」と完全に議論をすり替えられ、「危機管理」「公共の電波」とむずかしそうな言葉を並べた反論を受けてしまう。少し知識のある人なら、上杉の議論など完全に反駁できるものだが、罪のないダルビッシュは謝罪に追い込まれてしまった。

米国などでは芸能人が支持政党を明確にし、政治的主張を行うことは珍しくない。彼らは、知識、意識、ディベート術もそれなりのレベルにある。政治家と対決することも辞さない。と言うか、その気がなければ表立って発言したりしない。だが、日本の芸能政治評論にそんな覚悟は見られない。立花に噛みつかれた途端、マツコや他の芸能人たちが怯んだのも当然である。

沈黙する報道メディアと政治

今回の一件では、もう一つ肩透かしをくったことがある。新聞を含めた既存メディアや政党(特に野党)がこの件についてあまり発信しなかったことだ。ワイドショーには娯楽色があり、あまり肩ひじ張って政治的公平性の話題を掘り下げろと言うのも酷なところがあるかもしれない。しかし、テレビの報道番組や、新聞までもが今回の騒動に目立った反応を見せていないことは理解に苦しむ。新聞やテレビ局にとっては、愛知トリエンナーレを社説で論じるのと同様の重要性があると思うのだが・・・。

お堅い政治評論の世界に住むお歴々は、芸能人やワイドショーを見下しているのかもしれない。N国とマツコ・デラックスの衝突など、高尚な政治テーマを扱う自分たちが関わる話題ではない、と思っているのかも。しかし、N国的な対メディア攻撃はいずれ、報道メディアにも向かう。(自民党による攻撃に対しては、すでに防戦一方となっている。)今回、報道メディアが黙っているのを見て、彼らもバラエティー政治評論とそれほどレベルは変わらないのだな、と思った次第である。

N国以外の政党からも、立花の言動に対して大きな異議の表明はなかった。私の知る限りでは、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)が「働いている場所までチームのスタッフを連れて行き、目の前で街宣活動するのは国会議員という権力者としてはやりすぎ」と述べたのが唯一である。ただし、松井は「テレビコメンテーターが批判する内容によっては、反論すべき」とも述べている。マツコの発言やそれに対する立花の見解に対する評価には踏み込んでいない。どっちつかず、でN国に対する遠慮さえ感じられる。

 

次回は議論を一歩進め、日本の政治がメディアに圧力をかけている現状を概観してみたい。今の時代にそれが与野党のパワーバランスにどのような影響を与えるかについても考えてみたい。