皇室の政治的発言は今後増えていく

政治的色彩を帯びた発言を皇室が行うことは、先日の秋篠宮で打ち止めになることはない――。口に出してこそ言わないが、誰もが内心そう思っているのではないか。それはおそらく正しい。

前回のポストで、秋篠宮さまの大嘗祭発言についてややネガティブな意見を書いた。一方で私は、この種の発言が将来的に増加することは避けられない、と諦観している。

来年の代替わりを経て、皇室が国民とのコミュニケーションをより活発化させ、情報発信を増やしていくことは当然の流れ。それに伴い、天皇及び天皇家(の行事)に関わる件については、皇室が自らの意見を今まで以上に述べられるようになることも必然であろう。一般的な政治・政策課題について意見や感想を述べることですら、まったく想定できない事態ではない。

私がそう考える理由や背景は、大きく言って四つ。順に説明してみたい。

情報化の進展

時代の変化と言うべきか。情報化が著しく進んだ今日、政治の世界を含めて日本社会はかつてないほどオープンになった。皇室だけがこの波から逃れられるはずもない。
    戦前は天皇の肉声を国民(臣民)が聞くことさえ憚られた。終戦時の玉音放送も天皇が自由に流したものではない。受け手の国民にとっても、非常に聞き取りづらいものだった。
    戦後、テレビの時代になり、皇族の様子は普通にお茶の間に流されるようになった。テレビや雑誌が皇族のニュースを芸能ネタのように取り扱うような風潮さえ生まれている。それでも、生放送に出演しない限り、皇族の声がリアルタイムで流れることはなかったし、出演の頻度自体も限られていた。しかし、今上天皇が事実上の退位を要請された生中継はインパクトを与えた。テーマの重さのみならず、天皇が(政府を通り越して)国民に直接、リアルタイムで語りかけたことは、皇室と国民との間のコミュニケーションのあり方に大きな一石を投じたと言える。
    今や、インターネットやSNSの時代になった。その気になればリアルタイム、ノーチェックでの発信は簡単にできる。アメリカ大統領でさえ、実に軽々しく肉声を文字にして送信するあり様だ。近い将来、天皇陛下や皇太嗣殿下、あるいは皇族の方々がトランプのような形でツイッターを使われるようになることも、全く想定されない話ではない。少なくとも、どなたかが意志を持って始められたら、止めようがないだろう。

世代(価値観)の変化

  30年を一世代とすれば、次の天皇や皇太嗣は今上天皇よりも一世代、昭和天皇よりも二世代以上もお若い。皇室のあり方に対する浩宮や秋篠宮の考え方が先代や先々代と同じ、ということはありえない。
  現在の皇太子殿下は1960年(昭和35年)生まれ、秋篠宮殿下は1965年(昭和40年)生まれ。「もはや戦後ではない」時代のさらに後、ということになる。これに対し、昭和天皇は1901年(明治34年)、今上天皇は1933年(昭和8年)と戦前のお生まれである。ただし、戦後の昭和天皇と今上天皇は、戦後民主主義の何たるかを(政治家以上に)深く理解されていた。民主主義国家・日本における象徴天皇のあり方を模索、実践されるという点において、天皇家の四人の方々に違いはない。だが、模索と実践の中身は変わり得る。
   昭和天皇と今上天皇は、象徴として、政治にかかわることに非常な謙抑的な態度を取られた。終戦直後を別にすれば、昭和天皇が政治的な発言を行うことは基本的になかった。今上天皇が事実上の退位を表明されたのも、やむにやまれぬ例外的な判断だったと思われる。
    戦後生まれの浩宮と秋篠宮は、皇室と国民の間のコミュニケーションのあり方について、もっと積極的な姿勢をとるのではないか。情報公開を重んじ、象徴天皇であっても――あるいは、象徴天皇であるが故に――自らの考えをもっと率直に国民に伝えるべきだと考えられる可能性は十分にある。

秋篠宮という個性

    皇室情報の対外発信について、皇太嗣になる予定の秋篠宮は特に積極的になりそうだ。
    浩宮と秋篠宮は5歳しか違わないが、お二人は同一人格ではない。浩宮は皇太子として育てられ、天皇になるべく教育されてきた。したがって、ご自身の考えを国民に伝えることについても、昭和天皇や今上天皇のような謙抑的姿勢をある程度は引き継がれるだろう。皇太子時代の浩宮の発言からも、そうした慎重さは窺える。
    一方、二男の秋篠宮は皇太子でない分、比較的自由に育てられた。言動も浩宮に比べて奔放なところがある。代替わりに伴って皇太子と呼称されることに難色を示した結果、皇太嗣になったとも言われている。ご自身の考えに対する「こだわり」も強いように見える。

政府の優柔不断

    政府が天皇または皇室の発言を政治的なものと公式に断ずれば、天皇や皇室の動きは封じられる。だが、大きな政治問題を引き起こすため、政府としては否定的なコメントを発しにくいのが実情だ。
    今上天皇の事実上の退位要請も政治的発言以外の何ものでもなかったが、政府はそれを認めなかった。今回の大嘗祭に関する秋篠宮発言についても、政府は(少なくとも公式には)明確な反応を示していない。秋篠宮発言を「黙殺」したとも言えるが、裏を返せば、「お咎めなし」の扱いとも受け取れる。これでは有効な「規制」ないしは「圧力」となるまい。
    皇室が記者会見で話す内容を(宮内庁が事前に把握することはできても)政府が検閲できるわけではない。秋篠宮発言は収録されたものだったが、そのまま公開された。天皇や皇室の政治的発言をチェックする機能は、煎じ詰めれば皇室サイドの自主規制に委ねられているということ。今後、皇室サイドが意図的に政治的発言をしようと思えば、意味をなさなくなる。

皇室の政治的発言は本当に禁止されているのか?

    ここで少し横道に逸れ、皇室の政治的発言は本当に許されないのか、という「そもそも論」について考えてみたい。 
    憲法第4条には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とある。ここから、天皇が政治的発言を行うことは認められない、と一般的にも考えられてきた。
    ただし、皇位の継承や皇室のあり方など、「天皇家の問題」という側面を持つテーマについては、天皇や皇族の自律権が(程度はともかくとして)認められるべき、という学説もある。いずれにせよ、この点についての本格的な議論は行われてこなかったし、政府も明確な見解は示していない。
    天皇家の問題か否かに限らず、天皇が政治に関して何らかの発言をすれば、それで即、国政に関する機能を発揮したことになるのか、と疑問を呈することもできる。天皇が意見を表明しても、政府がそれを無視すれば、少なくとも結果としては政治的影響力が発揮されたことにならない、というわけだ。
    今回の秋篠宮発言についても、「政府が大嘗祭への公費支出を見直せば、秋篠宮が(発言が政府に影響を与えたという意味で)政治的発言を行ったことになる」という意見が政府内にあったと言う。秋篠宮の意見を黙殺するための方便だったとは思うが、この考え方を裏返して少し飛躍させれば、政府が無視すれば皇族は政治的発言にならない、というすごいことになってしまう。
    憲法や皇室典範は、天皇以外の皇族について「国政に関する機能を有しない」と書いていない。天皇はともかく、皇太嗣となる秋篠宮や他の皇族による政治的発言を法律上禁じる根拠は、実はないのではないか。 
    憲法解釈自体、従来ほど硬直的に考えなくてもよい、という雰囲気も生まれつつある。先鞭をつけたのは他ならぬ安倍総理だ。歴代内閣が憲法上許されないとしてきた集団的自衛権の行使を容認できるよう、9条の解釈を変更してみせた。天皇や皇室の政治的発言についての国会答弁や解釈は、集団的自衛権行使と比べてさほど積みあがっているわけではない。9条解釈の劇的変更が認められるのなら、曖昧な4条の解釈を変えるか新設することに大きな抵抗が起きなくても驚くべきではあるまい。
    「オルタナティブ・ファクト(もう一つの真実)」という言葉の流行が示すように、「既存の価値観に縛られる必要はない」という風潮が世界中で広まっている。その波は日本にも静かに押し寄せるだろう。誰かが「天皇や皇室が政策課題について意見を表明することは、憲法上禁止されていない」と言い出せば、案外多くの支持を集める日がくるかもしれない。

    天皇や皇族がある政策テーマに関して政府に何かをあからさまに要求すれば、さすがにそれは国政に関する機能を果たしているとみなされ、憲法上許されないと考えるべきであろう。しかし、政治的なテーマについて単に意見を表明するだけであれば、それを禁じるだけの強い法律的根拠はないように思われる。皇室や国民がそのことにハタと気付いた時、皇室の政治的発言は止めようがなくなる可能性が出てくる。

秋篠宮さまの大嘗祭発言

先月30日に秋篠宮さまが53歳になられ、事前に収録された記者会見の様子が公開された。その際、秋篠宮は来年予定されている大嘗祭について「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と述べられた。皇族が政府の決定を公の席で批判することは極めて異例であったため、物議を醸している。

直接的な論点は二つ。大嘗祭の宗教性と皇室の政治的発言だ。

秋篠宮の問題提起=大嘗祭の宗教性

最初に秋篠宮発言を聞いたとき、「虚を突かれた」思いがした。象徴天皇制がすっかり定着したせいか、昨今の日本社会の保守化が影響しているのか、大嘗祭への国費支出について騒ぐのは、今や共産党やいわゆる左派系の人たちの一部くらいだ。大嘗祭を含め、代替わりの儀式が公費で賄われることに私は疑問を抱いていなかった。

憲法第20条は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。天皇家の行事――特に、皇室典範等による既定のない行事――に宗教的色彩が強いことは否定できないため、大嘗祭への公費支出は控えるべきではないのか、というのが秋篠宮の問題提起である。

これに対して政府は、天皇制が世襲であることから、大嘗祭には公的性格があると考え、宮廷費からの支出に問題はない、と整理してきた。しかし、憲法学者の一部を含め、政府の見解に疑義を示す声もあり、議論は完全な決着を見るに至っていない。

秋篠宮発言は、我々が見て見ぬふりをしてきた「曖昧な決着(未決着)」を白日の下にさらした。しかも、秋篠宮が言うように内廷会計を充てれば、質素倹約になる。世間の受け止めは決して悪くない。秋篠宮発言を表だって批判しているのは、伝統的な天皇制護持を信奉する右翼勢力など一部にとどまっている。

イスラエルやイランのような政教一致国家は特別としても、米国ではトランプ政権と福音派の蜜月、日本では公明党の政権参加など、今日の民主主義国家では政治と宗教の癒着が進行している。秋篠宮の問題提起はこのトレンドに逆行し、政治と宗教の分離を貫こうとするものである。そのこと自体、私には新鮮な驚きであった。

しかし、批判された宮内庁をはじめ、政府は秋篠宮発言に内心、不快感を持っている。安倍総理も秋篠宮の問題提起を無視するつもりに違いない。自公はもちろん、野党もこの問題に深入りする気配は見せていない。世間も程なく、この問題を忘れ去り、次の代替わりの時まで思い出すことはなさそうだ。秋篠宮が投じた一石の波紋は短命に終わるであろう。

秋篠宮発言の政治性

秋篠宮発言には、もう一つ、憲法に抵触しかねない問題があった。秋篠宮が政府の決定を批判したという行為そのものが、天皇(皇室)による政治的影響力の行使とみなされ得る、ということだ。

政府は、秋篠宮発言について「既に閣議で口頭了解されている事項について、記者からの質問に対して、あくまでも殿下ご自身のお考えを述べられたものである」(11月30日、西村官房副長官)と捉え、コメントを控える――と言うことは、黙殺する、という意味でもある――としている。要するに、①秋篠宮発言が記者からの質問に答えたものであり、②政府の方針は既に決まっていたことから、秋篠宮発言に憲法上の問題はない、というロジックなのだろう。しかし、こんなものはロジックとは呼べない。

まず、自ら口火を切らず、質問に答える形ならよいのか。そんな言い草が通れば、何でも喋ってよいことになる。しかも、秋篠宮さまの場合にどうだったかは知らないが、記者会見で記者に特定の質問を仕込んでおくことは、少なくとも永田町では日常的に行われている。

次に、閣議等で既に決定がなされたことに個人的見解を述べても問題ない、と見逃すのであれば、ザルもいいところだ。例えば、2016年3月から施行されている安全保障法制について、天皇陛下や皇太子殿下、秋篠宮さまなどが、記者の質問に答えるかたちで「個人的見解」と断って「賛成」または「反対」を表明してもよいことになる。外国人労働者受け入れ拡大法案(出入国管理法改正案)に至っては、国会で審議中の今現在、賛否を表明することは不可、しかし、来週になれば法案が成立しているから可、という訳のわからないことになる。

秋篠宮発言は、政治性を問われる可能性があることを承知したうえでなされたものだと思う。そのうえで、自身の発言が憲法に抵触する政治的発言ではないことについて、秋篠宮は政府とは別のロジックを心中に用意されていたと推察する。

大嘗祭を含め、代替わりの儀式は、それが宗教性を持つか否か、公的な性格を持つか否かにかかわらず、天皇家の行事である。それは誰も否定できない。自らが属する天皇家の行事について当事者として意見を述べたというのであれば、秋篠宮発言は政治的なものではない、と主張する余地が生まれよう。

今回、興味深かったのは、秋篠宮の発言を政治的なものだとして問題視するかどうかが、発言の内容をどう受け止めるかに大きく左右されていたことだ。伝統的な天皇制の復活に向け、国家による関与を増大させたいと考える右翼の一部は、秋篠宮の発言は間違った政治的発言にほかならない、と考えた。一方で、大嘗祭への公費支出を憲法上問題があると主張してきた左派系の一部には、秋篠宮発言の持つ政治的要素にあまり目くじらを立てない傾向が見て取れた。

これはもちろん、ご都合主義もいいところだ。仮に秋篠宮が政府による大嘗祭への支出の増額を要求していれば、どうだったのだ? 右翼は「そうだ、そうだ」と叫びまくり、左派は「皇室の政治発言は絶対に許されない」と抗議しただろう。皇室が発言された内容によってそれを政治的発言とみなすかどうかが変わるなど、あってはならない。

本日3日の会見で宮内庁の西村次長は、秋篠宮さまが「(自身の考えに宮内庁が)聞く耳を持たなかった」と発言されたことについて、「閣議で了解された事項への反対をなさっているものではなく、宮内庁に対するご叱責と受け止めている」と述べたそうだ。閣議了解への反対なら政治的発言となり得るが、宮内庁を叱ったのであれば違いますね、と言いたいらしい。

宮内庁は秋篠宮発言の政治性を指摘する声から秋篠宮を守ろうとしているのか?
それとも、大嘗祭の宗教性を問題提起した秋篠宮を無視しようとしているのか?
おそらく両方なのであろう。

皇室の政治的な発言はどこまで許されるのか?

私は、天皇及び皇室がいかなる政治的発言をも慎むべきだとは思わない。

例えば、一昨年8月、天皇陛下が事実上退位の希望を述べられたのは、紛れなく政治的な発言だった。ただし、陛下は「天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たこと」を伝え、「国民の理解を得られることを切に願」うと締め括られた。陛下の希望を受け入れるかどうかや、退位にかかる具体的な取り決めは、国民(国会)に委ねられており、許容されるべき政治的発言だったと考える。

もちろん、天皇の地位に鑑みれば、自らの考えを示すこと自体、政治的な意味合いを持つという意見もあるだろう。確かに、国会で審議する法案について天皇が自らの所感を述べるのであれば、考えを述べただけでもアウトだ。

しかし、日本国の象徴として天皇の地位に就くことができるのは只一人、明仁殿下のみ。にもかかわらず、天皇が80歳を超えても激務を続けなければならないというのは、皇室典範の制定当時には想定されなかった事態である。その「不備」を放置したまま、明仁殿下を天皇の地位に縛り付けておこうとしてきたことは、政府と国会の不正義であった。そんな状況の下で天皇陛下が自らの考え(退位の希望)を国民に伝えても、誰が咎められようか?

事実上、退位のご希望を述べられた天皇陛下に対して、(一部の教条的な右翼を除けば)大多数の国民が共感を寄せた。陛下の高齢と健康状態という客観状況に加え、天皇でなければ全国民誰もが職業選択の自由を持つ中、いつ辞めるかさえ自分で決められないのはおかしい、というのが一般的な受け止めだったと思う。

国民が支持すれば皇室は政治的発言をしてもよい、と言うわけでは全くない。だが、この時の天皇陛下のお言葉は、実に計算され尽くされていたと改めて思わざるをえない。専門家を交え、相当入念に準備されたのに違いない。

翻って、今回の秋篠宮発言は許容できるものなのか? 率直に言って、天皇退位発言に比べて許容度はずっと低い。天皇家の行事に対して秋篠宮が天皇家の一員として意見を述べたのだとしても、皇室行事への政府支出というトピック自体、より一般政治領域に近いテーマであることは否定できない。

今回、秋篠宮発言は大嘗祭への国費支出に批判的な意見だったため、その政治性がカモフラージュされている部分がある。だが、発言内容が大嘗祭への国費支出拡大を主張するものであったなら、政治色は明らかだ。私としては、秋篠宮発言を許容すべきとは言いにくい。

天皇陛下の退位発言は、安倍総理を含めた政府の重い腰を上げさせることに成功した。これに対し、大嘗祭についての秋篠宮発言は政府の行動に何の影響を与えることもないだろう。何のためにわざわざ発言されたのかも不明だ。どれほど周到に準備された言動だったのか、疑問が残る。

外国人労働者をどれくらいまで受け入れるのか?――核心はここだろうよ

25日のポストで、「一定数の外国人が一定期間、日本国内に滞在すれば、日本人の生活や社会制度に大きな影響が出る」という問題意識を述べ、「期間」については1年を基準にすべきだと主張した。今日は「数」の問題を論じる。一体、何人まで、あるいは総人口の何割までなら、日本国に外国人を受け入れるのか?

政府案に外国人受け入れ数の天井はない

今、国会で審議されている外国人労働者受け入れ拡大法案(出入国管理法改正案)には、受け入れ人数に関する規定がない。その意味では、法律上の受け入れ数は青天井だ。山下法務大臣も「数値として上限を設けることは考えていない」と答弁した。

一方で安倍総理は、「当初5年間で最大約34.5万人」という政府の受け入れ想定人数を「上限として運用する」と述べた。ただし、国会答弁は法律ではない。変えようと思えば、後からいくらでも変えられる。

案の定、山下は「大きな経済情勢の変化があれば、例外的に対応を迫られる場合がある」と述べ、期間内での上限引き上げに余地を残して見せた。自民党の田村憲久政調会長代理(元厚労大臣)に至っては、11月18日のNHK討論で「(外国人労働者の数が)足りなければ、またさらに増やすことになる」と事もなげに言ってのけた。

外国人はどれくらい増えるのか? 

一方で、政府は「日本における外国人労働者と在留外国人の将来像」について一切語ろうとしない。であれば、こちらで考えるしかない。私に精緻な計算を行う能力はないが、それでも、日本社会の将来像について大まかなイメージをつかむためには、荒い試算でも示さないよりはよいと思う。以下の数字は、そういう前提で読んでいただきたい。

前回も述べたが、5年後に見込まれる145.5万人の人手不足分をすべて外国人労働者で賄うことになれば、日本に住む外国人の数は現在の256.2万人から401.7万人に5割も増加する。総人口に占める外国人の比率も、現在の2%から3.2%に上昇する。

別の試算方法をとれば、数字はもっと大きくなる。2017年末の在留外国人数――外国人労働者を含む――は256.2万人、過去5年間で52.8万人増えている。毎年10.6万人、年率4.7%の増加率だ。この増加率が今後も維持されれば、2027年末の在留外国人数は406.5万人、2037年には644.9万人となる。日本の総人口に占める在留外国人の比率(日本の将来人口推計(平成29年)から計算)は、それぞれ3.4%と5.7%に上昇する。

2008年に自民党の外国人材交流推進議員連盟は、今後50年間で1000万人の移民(通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも 12 ヵ月間当該国に居住する人)を受け入れるべきという提言を出した。これが実現すれば、2058年に日本の総人口に占める在留外国人比率は、単純計算で12.8%となる。(移民が日本にとどまるという前提に基づき、[2008年末の在留外国人数(214.5万人)+1,000万人]/ 9,470万人として計算。)

この数字、当時は夢物語のような数字と笑い飛ばされ、あまり深刻に考えられることはなかった。しかし、過去5年間の増加ペース(年率4.7%増)が30年続けば、2047年の在留外国人数は1,016.2万人、総人口の9.7%を占めることになる。今となっては、決してありえない数字とは言えない。ゾッとする。

欧米諸国との比較

では、いったいどれくらいまでなら、外国人の受け入れ増加を認めるのか? 検討のための材料として、OECDの統計から「移民が総人口に占める比率」を下記に抜き出してみた。なお、OECDは移民について、「1年以上滞在する外国籍の人」という定義と「外国生まれの人」(この場合、帰化していても一世であれば、移民にカウントされる)という二種類の定義を用いている。日本の場合、後者の定義は馴染みもなければ、統計も存在しない。前者の定義であれば、日本における在留外国人とほぼ同義と考えても構わないだろう。

移民が総人口に占める比率(%)
(上段は「1年以上滞在する外国籍人口」、下段は「外国生まれ人口」の比率)

2007年 2009年 2011年 2013年 2015年 2017年
ドイツ 8.3 8.4 8.4 9.0 10.1 12.2
12.9 13.2 13.2 12.5 13.5 15.5
オーストリア 9.7 10.3 10.8 11.8 13.4 15.4
14.6 15.1 15.4 16.1 17.4 19.0
ハンガリー 1.6 1.8 2.1 1.4 1.5 1.6
3.4 3.9 4.4 4.3 4.8 5.3
フランス 6.0 6.1 6.3 6.5 6.8 7.1*
11.4 11.6 11.8 12.1 12.3 12.6*
オランダ 4.1 4.3 4.6 4.7 5.0 5.7
10.5 10.8 11.2 11.5 11.8 12.5
英国 6.3 7.0 7.6 7.7 8.6 9.3
9.4 10.7 11.8 12.3 13.1 14.2
米国 7.2 7.1 7.2 7.0 6.9 6.9
12.4 12.4 12.8 12.8 13.2 13.5
日本 1.6 1.7 1.7 1.6 1.7 1.9

International Migration Outlook 2018 (OECD)より抜粋)
*は2016年。日本について「外国生まれ人口」の統計はない。

この数字を眺めて明らかに言えるのは、日本の「移民」(1年以上滞在する外国籍の者)受け入れ水準が欧米対比で非常に低い、ということ。

一方で、この数字だけを見て、「移民」の受け入れ割合がこのあたりを超えたら社会が不安定化する、という一般的な水準を見出すことは困難だ。一国の社会的安定度に影響を与える要素が移民の数だけでないことを考えれば、それも当然であろう。

とはいえ、欧米における移民の増加が社会不安を増大させていることを疑う者はいない。ヒラリー・クリントンやトニー・ブレアなどでさえ、欧州諸国は移民を制限しないと(社会不安を養分とする)ポピュリズムを止められない、と主張するようになったほどだ。

上限は保守的すぎるほど保守的でよい

移民と呼ぼうが、外国人労働者と呼ぼうが、一旦受け入れれば、減らすことはまずできない。日本人にとって、多文化共生という美辞麗句も幻想であろう。「とりあえず増やしてみて、問題が出たら考える」という発想は駄目だ。日本の受け入れ可能な「移民または在留外国人」の水準を検討する際には、極めて保守的な態度で臨む必要がある。

日本が受け入れるべき在留外国人(1年以上生活する者)数が総人口に占める割合は、5%でも十分に高すぎる。5%と言えば、現在の2.5倍の水準だ。

増加のペースも考慮しなければならない。前述のとおり、5年後に見込まれる145.5万人の人手不足分をすべて外国人労働者で賄えば、日本に住む外国人の数は現在の256.2万人から401.7万人に増加し、総人口に占める割合は3%強となる。この水準を5年で実現すれば、5年で5割増という急激な増加ペースだ。それでは社会的なインパクトが大きすぎる。

今後10年から20年で徐々に増やして3%程度、というのが良い線ではないか。もちろん、その間に少子化対策なり、女性や高齢者の労働参加率引き上げなり、技術革新による労働生産性の引き上げなり、打つべき手を本気で打たないとドン詰まりだ。経済の停滞を甘受するか、移民(在留外国人)の増加によって社会を不安定化させるかの選択に追い込まれる。

十分に保守的な上限を法律に明記すること。それを実現することなく、出入国管理法改正案に賛成する自民、公明、維新はとんでもない。それを明記した対案を出せない野党も情けない。

「移民」論争の不毛と本質

国会では27日(火)にも出入国管理法改正案が衆議院を通過する見込みと言う。だが、国会での議論はいつもの通り、何も深まっていない。逃げる政府、問題を見て見ぬふりの与党、批判に終始する野党、というお馴染みの構図にはウンザリ。だが、何が問題か、突き詰めることまで諦めてならない。

外国人労働者受け入れ拡大法案については、11月13日15日の2回に分けて書いた。その間も「なぜ、抵抗感が消えないのか?」と考えてみたが、突き詰めると、外国人労働者の受け入れ増加が日本社会の安定性を突き崩すのではないか、という不安が消えないのである。その意味で、これはやっぱり移民問題なんだ、と思う。今回と次回はそのことについて書く。

国会での「移民」質疑――論争になっていない

安倍のブレを追及しても・・・

法案審議が始まって以来、野党は外国人労働者受け入れ拡大法案を移民法案と呼んできた。だが野党側の矛先は、安倍総理が以前、「移民政策はとらない」と言っていたことを引き合いに出し、「この法案は実質的に移民拡大法案じゃないか。総理は前言を翻した」という点に向きがちだ。

これに対して安倍は、今回の法案は「永住する(外国)人がどんどん増える政策」ではないから移民政策ではない、したがって、自分がブレたわけではない、と反論。
「言った、言わない」みたいな議論に終始して本質論に入らないから、安倍は却って安堵しているのではないか。

すれ違う「移民の定義」

言葉遊びの世界に嵌っているのは、移民の定義をめぐるやり取りも同じこと。

政府の方は、移民の定義を問われても答弁しない。代わりに、「移民政策」については、「国民の人口に比して、一定程度の規模の外国人を家族ごと期限を設けることなく受け入れることによって国家を維持していこうとする政策」ととりあえず定義している。とりあえず、というのは、このままでは意味を持たない定義だからだ。一定規模と言ったって、国民の人口に比して何%を超えるまではよいのか? 家族を帯同しなければよいのか? 例えば10年、更新可能でも期限がついていれば受け入れし放題なのか? 解釈は伸縮自在。政策を示すと言う点では無意味である。

これに対して野党は、移民について別の定義を持ち出し、外国人労働者は移民だと主張する。よく引用されるのが国連経済社会局の次の言及だ。
「国際(国境を越えた)移民の正式な法的定義はありませんが、多くの専門家は、移住の理由や法的地位に関係なく、本来の居住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意しています。3カ月以上12カ月未満の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住と呼んで区別するのが一般的です。」

一方、国際移住機関は、移民を「当人の (1) 法的地位、(2) 移動が自発的か非自発的か、(3) 移動の理由、(4) 滞在期間に関わらず、本来の居住地を離れて、国境を越えるか、一国内で移動している、または移動したあらゆる人」と定義する。

なるほど、これらの定義をあてはめれば、政府が受け入れを拡大しようとしている外国人労働者はれっきとした移民、ということになる。

このような野党の追及に対し、政府は、万国共通の移民の定義はないと述べ、日本政府の定義を繰り返す。ここでも、「あっちではこう書いてある」「こっちの考え方は別物だ」と水掛け論の応酬となり、結論が出ることはない。

多くの日本人が「移民」という言葉から思い描くイメージに比べて、上述の国際的な定義はかなり「緩い」ということも、政府が論戦から逃げるのを手助けしている。3ヶ月で一時的移住と言われたら、えっ?と思う人の方が圧倒的に多いだろう。逆に、安倍が口走る「永住する(外国)人」の方が一般国民のイメージには近い。

自分たちの移民政策について述べる党が一つもない

「現下の移民政策はいかなるものか」と問われ、「今回の外国人労働者受け入れは移民政策ではありません」とすれ違い答弁しかできない政府・与党。お粗末の極みである。

だが、野党各党が「今回の法案は実質、移民拡大法案だ」と攻撃しても、迫力はまったく感じられない。その最大の理由は、野党各党が移民政策に関して自らの考えを明らかにしていないからだ。移民の定義として国際機関の定義を採用するのならそれでも結構。その定義に従って、○○党は移民増加に賛成なのか、反対なのか。どの程度の規模までなら受け入れてもいいと考えているのか――。国会質疑を聞いていても、野党の考えはほとんど伝わってこない。

今の国会質疑に比べれば、竹光を使った時代劇のチャンバラの方がよっぽど真剣勝負だ。嘆かわしい。

移民と呼ばなくても、在留外国人は無視できない

問題は、外国人労働者を「移民」と呼ぶべきかどうかではない。彼らを移民と呼ばないにしても、彼らの数が増えれば、国民生活や社会制度に大きな影響を及ぼす。それこそ、論争すべきポイントなのである。

安倍総理は、「永住じゃないから問題ない」と言う。つまり、今回の法案で外国人労働者に付与することになる資格は、5年なり何なり、期限がついている。だから、永住ではない、という理屈である。これに対し、資格に期限があっても、延長されればどんどん永住に近づいていく、という批判はもちろん、正しい。だが、これもまた、永住かどうかの水掛け論になり、本質に近づかない。

本質論に入るためには、「外国人労働者は(少なくとも制度上、)永住ではない」と敢えて認めてしまおう。そのうえで、移民という言葉を使わずに、問えばよい。
「5年以内しか滞在しない外国人労働者が2千万人、日本の人口の約2割になっても、構わないのか?」あるいは、「5年間以内しか滞在しない外国人労働者が1千万人、日本の人口の約1割であれば、構わないのか?」と。

本来、ナショナリストの安倍が「構わない」とは言うまい。まさか、この問いからも逃げるようなら、売国奴のような総理である。

一定数の外国人が一定期間、日本国内に滞在すれば、日本人の生活や社会制度に大きな影響が出る。だからこそ、前出のとおり、政府も「移民政策」を「国民の人口に比して、一定程度の規模の外国人を家族ごと期限を設けることなく受け入れることによって国家を維持していこうとする政策」と定義せざるをえなかったのだ。

ここで問題となるのが、「一定数」と「一定期間」。数の問題は次回に譲り、今回は期間の問題について私の考えを述べたい。

1年以上滞在すれば、大きな影響がある

少なくとも、政府が問題視する外国人労働者のラインは甘すぎる。

今回新設される特定技能1号は在留期限が通算5年で延長できない。2号は期限こそあるものの、業種によってまちまちで更新可能、家族も帯同できる。いずれも、労働力としての外国人がほしい経営サイドの要求を、「移民増加政策はとらない」という政府の建前の下で無理やり法制化した仕組み。外国人労働者の受け入れ増加と社会的安定性との関係など、真剣に考えられてはいない。

特定技能1号は5年で帰るという立てつけだが、仮に在留期限を超えて不法残留する者がゼロだとしても、根本的な問題が残る。せいぜい数週間程度しか滞在しない外国人旅行者が増えるにつれ、彼らの行状に眉をひそめる人も増えている。5年で定住する外国人労働者であれば、もっと様々な摩擦が起きても不思議ではない。

外国人労働者の行状が不良だと決めつけるつもりはまったくない。だが、彼らの生活習慣や価値観は、当然のことながら日本人とは違う。生活に支障のない程度の日本語能力、というのも極めていい加減だ。「違い」をストレスに感じるのは、迎える側の日本人も来る側の外国人も同じはず。今回の法案が成立し、外国人労働者が従来以上のペースで増加した時、日本人も外国人も相手に対して適応できないケースが増えるに違いない。

特定技能2号の方は、定義からしてより「移民」に近い。とは言え、政府の考え方に従えば、特定技能2号で資格を何度も更新し、日本に何十年も生活した外国人が資格も持ったまま日本で亡くなっても、永住ではなかった、と済ませられてしまう。まさに法匪の論理である。

国際機関では、滞在期間が1年を超える外国人を「移民」とみなすことが多い。前出の国際移住機構もそうだし、OECDもそうだ。例えば、OECDの移民の定義を一般化すると、「他国に在住していた人が、通常の住居をある国の領域内に一定期間――最低12カ月の場合が多い――定める行為」というもの。少なからぬ国際的機関が外国人の在留期限として1年をメルクマールにしているということは、やはり、意味があるのだろう。

「移民」という言葉と結びつけなければ、1年というのは感覚的にもそれほど無理なく受け入れられよう。先ほどの質問も、「1年未満で帰る外国人労働者が1千万人」であれば、多くの人にとって抵抗感はかなり薄れるに違いない。

最初は1年を基準に考えてみて、もっと長期でも大丈夫そうだ、ということになって延ばすのならまだよい。しかし、最初から5年、あるいは永住でなければよい、という大甘の基準で始めるのは危険すぎる。一旦受け入れてしまえば、外国人であっても簡単に追い出すわけにはいかない。

今後は、日本の在留外国人について、他国との国際比較を通して考えるべきケースも増加するに違いない。その意味でも、在留期間1年超の外国人――移民と呼んでもいいだろうが、抵抗があるのなら、「長期在留外国人」でも何でも、好きな呼び方をすればいい――を特別のカテゴリーとして認識することが不可欠である。

余談~右翼の抗議を見て思ったこと

先週木曜日の夕方、帰宅する途中で日の丸が林立しているのを見た。何かと思ったら、右翼団体が外国人労働者受け入れ拡大法案(出入国管理法)に反対する街頭活動だった。看板には「がんばれ、安倍政権」と書いてあったが、この法案には反対なのだろう。日本国民の負担で外国人家族の社会保険を見るなんて言語道断、みたいなことを言っている。右翼じゃない一般国民もそこはまったく同意するだろう、と思いながら通り過ぎた。

だが、よくよく考えてみれば、右翼が外国人家族の社会保険負担の問題を強調しすぎていいんだろうか。その論を逆手に取られれば、外国人家族に対する社会保険サービスの提供を制限する法律を作れば、外国人がいくら入ってきてもよい、ということになりかねない。

右翼たるもの、外国人労働者――外国籍の国内生活者でもある――という名の移民が増えて日本の国柄や社会の安定性が脅かされる、という点をもっと強調してほしい。普段はどちらかと言えば右翼嫌いの私がそう思っているのに気づき、内心笑ってしまった。

ワイドショー化した領土交渉~北方領土をめぐる日露協議の非常識

こんなにオープンな領土交渉も珍しい。北方領土について、日露双方の指導者・政権幹部がマスコミの前で自らの考えを公言し、それを両国のテレビ番組が面白おかしく囃し立てている。

9月12日   プーチン大統領=前提条件なしでの平和条約締結を提案。
11月15日 安倍総理=日ソ共同宣言を基礎に領土交渉を加速することでプーチン大統領と合意した、と発表。
11月15日 プーチン大統領=日ソ共同宣言は二島の主権には言及していない、と主張。
11月16日 菅官房長官=(色丹・歯舞の)二島が返還されれば、日本の主権も確認される、と反論。
11月19日 ペスコフ ロシア大統領報道官=(色丹・歯舞の)二島が自動的に引き渡されるものではない、と発言。

こうしたやり取りを見る限り、日露双方が交渉を巧みに管理すべく意思合わせを行っている様子は窺えない。これでは駄目だ。うまくいくわけがない。

10月23日11月17日のポストで、ロシア側のメリット・デメリットなどを考慮すれば、二島返還を含め、北方領土交渉は日本にとって非常にきびしいものになると指摘した。だが、交渉のあり方からしても、待っているのは失敗だけだと予感せざるを得ない。

領土問題を解決するならば秘密交渉が常識~中露国境交渉の教訓

領土問題を交渉によって成功裏に解決するためには、少なくとも交渉の峠を越えるまでの間は事を秘密裏に運ぶことが鉄則だ。

1991年、中国とソ連は珍宝島(ダマンスキー島)を含む国境交渉で合意に達した。中国の領土問題を研究したテイラー・フレーヴェルは、この交渉がうまくいった理由の一つとして、交渉が妥結するまでの間、秘密が保たれ、両国政府とも国内に存在する反対グループへの根回しを静かに行えたことがある、と指摘している。
もちろん、当時の中国とソ連は今日に比べてはるかに閉鎖的な社会だったし、権威主義的な政治体制下にあった。それでも、秘密外交でなければ、国内の説得は困難だったのである。

交渉事には大なり小なり、ギブ・アンド・テークがつきもの。領土問題も例外ではない。交渉が粗方まとまった後であれば、譲る部分と得る部分をセットにして国民や関係団体に示すことが可能だ。その結果、政治指導者が議会、関係団体や国民を説得できる可能性は増大する。
ところが、途中経過が表に出ると、どうしても自国が妥協するポイントだけに焦点が当たってしまう。すぐさま、愛国主義に燃えるグループや利害関係を持つ団体(地元や漁業関係者など)が騒ぎ出し、メディアやネットを通して政府批判が燃え上がる。野党や政府与党内の反主流派(指導者の政敵など)などから、指導者の足を引っ張る動きが出てきても不思議ではない。

しかも、どちらかの国(A国)で情報が漏れれば、そのことは瞬く間に相手方(B国)にも伝わる。B国の世論はA国が得る部分、すなわちB国政府が譲ろうとしている部分に反発する可能性が高い。勢い、B国は交渉の席でA国に厳しく当たらなければならなくなる。そのことが表沙汰になれば、今度はA国の中で反発が高まる。
この作用・反作用の結果、ギブ・アンド・テークは困難となり、領土交渉が暗礁に乗り上げてしまうのである。

秘密交渉が困難な時代ではあるが・・・

情報化の進んだ今日、領土交渉に限らず、外交交渉を秘密裏に行うことは極めて困難になっている。マスコミの取材合戦は往々にして過熱し、取材される側もブリーフと称してマスコミに何かと解説してやる政治家・官僚が増えた。国内的に根回しを受けた者も皆が皆、口が堅いとは限らない。かくして、交渉の途中経過は(フェイクも含めて)外に漏れ、テレビやネットで瞬く間に拡散しがちである。

「外交の民主化」を求める声があるのも確かだ。なるほど、「国家にとって死活的に重要な領土問題に関する交渉である以上、政府は途中経過を国民に説明すべきである」という主張は理屈の上ではまったく正しい。だが、透明性を高めれば高めるほど、領土問題を交渉によって解決できる余地は失われる。このあたりの事情は、会社の合併交渉に相通じる。株主の立場からは、経過を説明せよと要求するのは当然のことだが、それが中途半端な形で表に出れば合併交渉そのものが頓挫し、株主の利益も失われることが往々にしてある。

現代社会は、日本もロシアも秘密外交が困難な時代になっている。しかし、だからと言って、外交交渉の途中経過を秘密にすることが今日まったく不可能というわけでもない。例えば、2014年11月、日中首脳会談が3年間も途絶えていた状況を打開するため、日中両国は4項目の合意文書を発表したが、これなどは途中経過があまり漏れなかった。領土交渉をまとめる気が本当にあるなら、「外交の民主化」という建前も封印するのが当然だ。

逆に言えば、今のように両国の指導者や外交当局が好き勝手なことを言い合っている間は、北方領土交渉が着地することはないと考えてよい。本当に何かが動く時は、その前に日本とロシアが不気味に沈黙を保つ時期があるはずだ。

領土交渉を人気取りに使えば、悲惨な結果が待っている

FNNの世論調査によれば、日露首脳会談を「評価する」と答えた人が64.9%だったのに対して、「評価しない」は27.3%に過ぎなかったと言う。内心諦めていた二島返還に向けて交渉が動き出した、という漠然とした期待が日本国民の中に生じたのであろう。

北方領土交渉の進展にかけらも幻想を抱いていない私にとって、上記の世論調査結果は驚きだった。だが同時に、なるほどね、とも思った。国内的な人気取りが目的なら、交渉の入り口で日露双方が自国民向けに都合のよいことを言い合うのは、安倍にとってもプーチンにとっても決して悪い話ではない。
安倍にとっては、日本国民の間で二島返還に対する期待が高まれば、安倍政権が外交的に頑張っている、という評価につながる。プーチンにとっては、日本が勝手に盛り上がっているのに冷や水を浴びせ、「毅然たる国家指導者」を演出できる。

北方領土問題で前向きなニュースが出たとたん、永田町からは「来年夏は北方領土交渉の成果を掲げて衆参同日選挙だ」などという声が聞こえてきた。一昨年の夏、安倍がプーチンを下関に招くと言った時も、北方領土で劇的な進展が見られ、安倍が解散を打つ、という見方がまことしやかに語られた。日本の政局ではなぜか、北方領土と選挙を結びつけたがる人が後を絶たない。
だが現実には、外交的な成果を利用して選挙をやるには、よほどの偶然と幸運に恵まれていなければならない。(もっと言えば、外交で成果を出しても、経済など内政が芳しくなければ、選挙に勝てるとは限らない。ブッシュ(父)大統領は冷戦に勝利したにもかかわらず、米経済の低迷を批判されて再選を逃した。)

仮に日露交渉が進展するとすれば、良くて二島返還、より現実的には二島返還マイナス・アルファという答になる。(まったく進展しない可能性も十分にある。)四島返還を求める人たちや、現段階で二島返還が実現すると期待値を高めてしまった人たちが、それを評価するとは限らない。かと言って、日本側が二島プラス・アルファの着地にこだわれば、ロシア側から色よい返事は望めない。安倍自身が高めた日本国民の期待は失望に変わってしまいかねない。

逆にプーチンの方は、安倍に付き合って、ロシア国内で批判されるような線で決着する必要性を微塵も感じていないだろう。何せ、ロシアは四島を完全に実効支配しているのだから、来夏までに合意できなくても不都合は何もない。一島でも二島でも譲り渡してもよい、と思える十分なメリットを日本側が示してきたときにのみ、交渉を具体的に前進させればよい。さもなければ、可能な限り領土部分の答は出さず、平和条約の締結のみをかすめ取ることができたら最高、と考えているに違いない。

このように醒めた目で見ると、日露交渉の構図は日本側に不利、ロシア側に有利なものになっている。それは必ずしも安倍のせいではなく、ロシアが四島のすべてを実効支配している、という「立場の違い」によるところが大きい。

オープンに交渉する不利と、立場の違いからくる不利。加えて、安倍が来夏の参議院選挙までに何らかの成果を出そうと焦れば、最悪の結果が待っているだろう。

「二島返還」狂想曲を嗤う~日露首脳会談を受けて

11月14日、シンガポールで安倍総理とプーチン大統領が会談し、安倍は「1956年共同宣言を基礎として、平和条約交渉を加速させる。本日そのことで、プーチン大統領と合意いたしました」と述べた。国内(というか永田町)では「すわ、二島先行返還か」と興奮が走る。ところが翌日、今度は「日ソ共同宣言には平和条約の締結のあとに2つの島を引き渡すと書かれているが、引き渡す根拠やどちらの主権のもとに島が残るのかは書かれていない。これは本格的な検討を必要とする」というプーチン発言が伝えられ、少し冷や水を浴びせられた形となった。

北方領土と平和条約に関する私の考え方は、10月23日付のポスト「プーチンの平和条約発言――もう、夢からさめよう」に書いたとおり。今回の首脳会談の後も変わっていない。だが、ここ数日の報道ぶりを見ていると、日本人はまだ夢からさめていない、とつくづく思った。水をかけるようで申し訳ないが、日露首脳会談後の喧騒について少しばかり感想を書いておきたい。

2島返還は既定の事実でもなんでもない

今回のマスコミや永田町の興奮ぶりを見て、多くの日本人が(頭ではわかっていても)無意識に勘違いしているなあ、と改めて思ったことがある。

それは、「2島返還なら確実」という思い違い。日本は過去60年以上、四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)返還を求めてきた。日本側が譲歩してハードルを色丹、歯舞の2島返還に下げてやれば、ロシア側は必ず呑む。なぜなら、向こうは日ソ共同宣言(1956年)で色丹島と歯舞群島の返還を約束しているのだから――。という思考のラインである。気持ちはよくわかるが、事実を反映した考え方とは言えない。

まず、日ソ共同宣言の記述をチェックしてみなければならない。北方領土に関する下りを抜粋すると次のとおりだ。

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

この条文、一見すると歯舞と色丹の返還にロシア側(当時はソ連)が同意したように見える。しかし、落とし穴がある。歯舞と色丹は「引き渡す」と書いてあり、「返還する」とは書いてないのだ。1956年当時、ロシア側は「返還」という言葉に強く反対し、こうなったと言われている。

「返還」であれば、暗黙の前提として「二島の主権は日本のものであり、それを日本に返す」と読むことができる。しかし、「引き渡す」であれば、ロシア側は「二島の主権はロシアのものであり、それを日本側に使わせてあげる。でも、主権は別だよ」と主張することができる。

昨日の記者会見で菅官房長官は「返還されることになれば当然、日本の主権も確認される」と述べたそうだ。菅がどういうつもりで言ったのかはわからないが、官房長官発言はとても正確な表現である。二島が返還されるのであれば、日本の主権も認められる、というのは上述のとおり。しかし、二島が「引き渡される」のであれば、二島の主権は今後の交渉事となる。日本の主権が認められる保証はない。もちろん、日露首脳が日ソ共同宣言を基礎とすることに合意したということは、二島は引き渡される前提で交渉される、という意味である。いずれにしても、菅の言い方であれば何も間違っていない。

冒頭に紹介したプーチン発言。こうした背景を理解して聞くと、別にヤクザが因縁をつけているわけではないことがわかる。二島先行返還はもちろん、二島のみ返還であっても、いかに波の高い話かは言うまでもない。

今回、安倍がプーチンに対して1956年の日ソ共同宣言を基礎として交渉することを認めさせたのを、あたかも安倍が一本取ったかのように――つまり、二島返還に向けてポイントを稼いだかのごとく――報じたメディアもあったようだ。それはまったく違う。

ロシアはそんなに平和条約を結びたがっているのか?

今朝のテレビ番組で鈴木宗男元衆議院議員が、いかにもロシアが平和条約を締結したがっているかのように話し、だから二島プラスアルファでの解決が可能だと力説していた。この人、民主党国会議員だった娘を自民党に入党させて比例優遇までしてもらった恩義や自分自身の次の選挙のことを考えた打算から、安倍のヨイショがすごい。北方領土問題に長年取り組んできたことは事実だが、この人の発言は鵜呑みにできない。

北方領土問題の解決を現実的に考えようと思えば、ロシアが四島すべてを実効支配しているという事実を出発点にする必要がある。それを無理やりひっくり返そうとすれば、軍事的手段に訴えるしかない。だが、日本人にそんな根性はないし、戦争を仕掛けても負ける。かくして、北方領土問題の解決は交渉によるしかない、という答になる。

その際、認識すべきもう一つの不愉快な真実がある。交渉上の日露の立場は五分五分ではない、ということだ。もっと正直に言えば、五分五分でないどころか、どんなに贔屓目に見ても八分二分といったところか。ロシアのみが四島を実効支配しているため、日本側がいくら正当な要求を持ち出しても、ロシア側が「ニエット(否)」と言う限り、日本の要求は1%たりとも実現することはない。結果、ロシアは好きなだけ四島の実効支配を続けることができる。

逆に、二島(色丹、歯舞)でも一島(歯舞)でも、主権だろうが施政権だろうが、交渉を通じて日本に譲歩すれば、その分だけロシアにとってはマイナスとなる。当然、プーチンは国内的に批判にさらされる。領土問題だけの文脈で考える限り、ロシアには一島の施政権のみであっても日本に譲る理由などない。

ロシアが北方領土に関して現状対比何らかのマイナスを受け入れることがあるとすれば、領土問題で譲歩するマイナスをしのぐプラスが日露関係の改善や平和条約の締結によって得られる場合だ。果たしてそんなことがあるのか。

ソ連崩壊直後、エリツィン大統領の時代には、ロシアが日本からの経済援助に涎を垂らした時期があった。だが結局、エリツィンは経済援助と引き換えに領土問題で譲歩するという方針を国内的に認めさせることができなかった。ロシアが曲がりなりにも一定の経済発展をとげた今日、プーチンが日本からの経済援助や日本との共同開発に目がくらむとは考えられない。

また、かつての中露国境と違い、北方領土をめぐって日露間に軍事衝突は一切ない。将来も起きないだろう。その意味では、平和条約を締結して国境を確定するメリットはロシアにとって相対的に小さい。日本からの投資拡大など経済関係の促進も、平和条約がなければできないわけではない。

では、ロシアは日本と戦略的な取引ができると考えているだろうか。かつてソ連が日ソ共同宣言に同意し、二島返還にも柔軟な姿勢を示したのは、冷戦下で日米を離間させる思惑があったためだ。今日で言えば、安倍が「日米安保条約を破棄し、日本から米軍基地をなくす」とでも言えば、プーチンは四島の返還をもっと真剣に考慮するかもしれない。しかし、日本政府が中国の台頭に直面して日米同盟の強化に邁進している今日、そんな提案はありえないだろうし、プーチンも期待していないだろう。

以上を勘案した時、プーチンにとって日本との平和条約は、「結んでもよいが、大きな対価を払うつもりはない」という程度の位置づけなのではないか。9月にウラジオストクで「いかなる前提条件もつけずに平和条約を締結しよう」と述べたのは、プーチンの素直な気持ちを述べたものだったと思えてならない。

 

この問題、来年6月にG20が大阪で行われ、7月頃には参議院選挙が行われるという政局カレンダーを睨みながら、永田町もメディアも囃し続けることになるのだろうか。実にバカバカしい。

人手不足は外国人労働者受け入れ拡大法案を通す「錦の御旗」か?

出入国管理法改正案(外国人労働者受け入れ拡大法案)が審議入りして2日目の11月14日、政府は対象となる14業種別に当初5年間の外国人労働者の受け入れ見込み数と5年後の人手不足の見込み数を国会に示した。

145万5千人の人手不足!

この数字がどういう根拠に基づくものかは、まだはっきりしない。しかし、そこで示された14業種の人手不足の現状と近未来像はなかなか衝撃的だ。

現時点で58万6千人不足しているのが、5年後には145万5千人に膨らむ。それを前提にして、当初5年間の外国人労働者の受け入れ数は累計で26万2700人から34万5150人の間になる見込みだと言う。

145万も人手が足りなくなるんだから、30万人くらい外国人を入れてもよいではないか――。そう言われたら、「まあ、仕方ないか」とついつい思ってしまう数字である。

焼け石に水

一方で、日本の労働人口は、女性や高齢者の労働参加が増えるため、2023年頃までは増加基調が続くと言う。だとすれば、14業種で人手不足が深刻化する要因は業種間のミスマッチにあると考えられる。有効なミスマッチ対策を打つことができなければ、外国人労働者を政府の見込みどおりに受け入れたとしても、5年後に110万人以上もの労働力が不足することになる。

145万が110万人程度に改善する、という程度のことを実現するため、外国人労働者という名の実質移民を増やし、社会的にも財政的にもコストを甘受しなければならないのか? どうにも納得できない。

外国人労働者の受け入れを増やすことが必要である、と言いたいがために政府が出してきたこの数字。私には、政府の「過去の無策」と「将来の無能」を示すものにしか見えない。

関連業界は歓迎――政治が本気で抵抗しない理由

当初5年間に14業種で受け入れる外国人の数(見込み)は、介護=6万人、ビル清掃=3.7万人、建設=4万人、飲食料品製造=3.4万人、外食=5.3万人などとなっている。農業=3.65万人、漁業=9千人と、外国人労働者が必要なのは一次産業も同様。農協や漁協が政府に働きかけた結果、14業種に入ったとみられる。

来年の参議院選挙に向け、自民党にとっては幅広い業界を網羅した選挙対策法案になっているというわけだ。野党の方も、政府案を糾弾する一方、外国人労働者の受け入れ拡大そのものについては玉虫色の態度をとっている。農家を含め、業界団体の声を無視できないのであろう。

小さく生んで、大きく育てる? 

安倍総理は、国会に示した外国人労働者の受け入れ見込み数を上限にして出入国管理法を運用する方針だ、と国会で答弁している。

この見込みを前提にしたとき、外国人技能実習生から新資格への転換などを無視した単純な足し算では、在留外国人の数は2017年末の256.2万人(法務省入国管理局発表)から、2023年末には290.7万人に増えることになる。総人口に占める外国人の比率は2%から2.3%に増える。(総人口の減少分は考慮せず、総務省の人口推計や在留外国人統計から計算したもの。11月13日付のポストで示した数字とは若干異なる。)

これで終わるのなら、そこまで目くじらを立てることはないかもしれない。だが、ここで終わるとはとても思えない。

出入国管理法の改正案には、外国人労働者を受け入れる上限数は一切書いてない。そうである以上、安倍が国会答弁で何を言おうと絶対ではなく、将来答弁を修正することもできる。仮に当初5年間は安倍の言ったとおりに運用したとしても、次の5年間の見込み数を示す際に大きな数字を示せば、いくらでも膨らませることができる。

また、14業種に漏れた業界は、追加指定されることを要望していると言う。14業種自体、法律に書かれているわけではないから、追加は簡単だ。もちろん、業種が追加されれば受け入れ見込みも増え、外国人労働者受け入れの上限数も増加することになる。

将来的な人手不足の見込み数が145万人からさらに増えれば、業種ごとの受け入れ見込みも増えると考えるのが普通だ。それどころか、今のままでは5年後も14業種で100万人以上の人手不足が見込まれるため、それをカバーするために外国人受け入れを現在の想定以上に増やす、という選択肢も十分にありえる。

業種間のミスマッチ対策の際たるものは賃金引上げや労働条件の改善だろう。しかし、人手不足であっても日本の企業経営者(第一次産業を含む)は賃金を上げたくない。安い労働者がほしいから、外国人なのだ。その「貧乏企業の論理」で考えれば、日本社会が不安定化しようがどうなろうが、彼らは「外国人をより多く働かせたい」と政治に要求し続けるだろう。

最悪の場合、「経済成長のためなら、人手が不足する分はすべて外国人で補ったらいい」という意見が産業界でも政治の世界でも強まる可能性があるのではないか。

仮に5年後に見込まれる145.5万人の人手不足分をすべて外国人労働者で賄えば、日本に住む外国人は2017年末の256.2万人から401.7万人へと1.57倍も増える。総人口に占める外国人の比率は、現在の2%から3.2%にまで上がる。外国人労働者を受け入れる業種が14からもっと増えたり、各業種の人手不足分が増加したりすれば、この比率はさらに上昇する。

人手不足をいくら言い募ったところで、量的な歯止めを設けないまま外国人労働者の受け入れを増やすことの免罪符にはならない。

外国人労働者の受け入れ拡大~EUの二の舞は御免こうむりたい

企業が頭を悩ませる労働力不足。それを解消する切り札として安倍政権が進めようとしているのが外国人労働者の受け入れ拡大である。今、「経済成長のためなら仕方ない」と切ったカードが将来、日本社会から安定性を奪うことにならないか、甚だ心配だ。

経済偏重の安易な政策の向こうにあるのが、安倍の言う「美しい国」なのか? 冗談じゃない。

安倍政権の出入国管理法改正

11月2日、単純労働者も含め、外国人労働者の受け入れを拡大するための法案(=出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律案)が閣議決定された。

法案は二種類の在留資格を新たに設け、比較的高度人材となる2号の方は無制限で更新可能。家族も帯同可能なうえ、10年滞在すれば永住権取得要件の一部を満たすことになる。1号は単純労働も認められ、有効期間は5年間。ただし、期限が切れたからと言って帰国する保証はない。

法案は今日(13日)、衆議院で審議入りした。早ければ来週中にも衆議院を通過し、どんなに遅くとも年内には成立すると見られている。来年4月に運用が始まれば、農業、介護、建設、造船、宿泊などの14業種で新たな在留資格が付与され、初年度は4万7千人程度の外国人労働者が入ってくる。

「日本は世界第4位の移民大国」ってフェィクじゃないか

今回、外国人労働者受け入れ法案について書くためにググってみたら、「日本は世界第4位の移民大国」というフレーズが目についた。しかし、世界第4位の移民大国、というのはいかにも肌感覚と合わない。で、どういうことなのかと思って元ネタ(OECD統計)を調べてみたら、羊頭狗肉であることがわかった。

OECD統計上の「移民」は国によって定義が異なり、我が国で一般にイメージされる「外国から来て永住している人」とは少し違っている。日本の場合、「国内に居住する外国人」をベースにカウントしているため、在日の特別永住者や外国人労働者、留学生などを含んだ数字である。一方で、米国の場合は「外国生まれの人」が移民としてカウントされている。米国市民権を得ていても、移民一世であれば「移民」扱いとなる。

以上を前提に、OECDは毎年、外国人が加盟国(及びロシア)へ流入した数を調査、公表している。2016年に日本へ入った外国人(旅行者と再入国許可者を除く)の数は42万8千人であった。この数字は、米国(232万人)、ドイツ(172万人)、英国(45万人)に次ぐものだ。そこから、日本は世界(正確にはOECD諸国とロシアの中で)第4位、ということになったものと思われる。

ちなみに、OECD統計は外国人の流出数も調べており、2016年には日本から23万4千人の外国人が退去している。つまり、2016年の日本における在留外国人の増加数(ネット)は19万4千人となる。

「日本は世界第4位の移民大国」が二重に誤解を与える表現であることはもう明らかだろう。第一に、外国人数のネットの増減ではなく、流入数だけを取り出して比較している。第二に――こちらの方がより本質的だが――、年次ベースで外国人流入数を並べてみても「今、ストックベースで外国人が何人いるか」を示すことにはならない。

ところで、同じOECD統計の中には、各国に在留している外国人の数と全人口に占める比率を比較した調査もある。在留外国人の社会的なインパクトを推し量るうえでは、後者の比率にこそ、注目すべきだ。

2017年末、日本国内に居住していた外国人数は238万人。10年前に比べて30万人も増えているが、在留外国人が全人口に占める比率は1.9%にとどまる。一方で、ドイツの在留外国人数は1千万人を超え、全人口の12.2%を占めている。オーストリアの場合、在留外国人数は134万人だが、全人口に占める比率は15.4%にのぼる。スイスでは人口の23.9%(203万人)が外国人だ。欧州では在留外国人比率が二桁の国は珍しくない。逆に、OECD加盟国の中でこの比率が日本よりも低いのは、ハンガリー(1.6%)、スロバキア(1.3%)、トルコ(1.0%)の三か国にすぎない。

今の日本が既に在留外国人を比率としても大量に受け入れているのであれば、「これから外国人労働者をもっと増やしても日本社会がそれほど大きな影響を受けることはない」と考えることも可能だろう。しかし、今日本が受け入れている外国人比率が国際的に少ない方なのであれば、今後それが増えることによって日本社会が欧州同様に不安定化するのではないかという懸念は、より深刻なものとなる。

外国人労働者をどこまで受け入れるのか?

とは言え、江戸時代ではあるまいし、鎖国は時代錯誤だ。国際化した現代を生きていくうえで外国人労働者を一切受け入れないという選択肢が現実的でないことくらい、私にもわかる。

問題は、現状から増やすべきか否か。増やすとすればどの程度まで許容するのか。青天井なのか、上限を設けるのか。上限はどれくらいが適切なのか。

従来は、外国人労働者の受け入れに総量規制は設けず、そのかわり、外国労働者の受け入れは高度人材に限る、というのが基本的な建てつけだった。言ってみれば、質で規制することによって数も制限される、という建前。ただし、技能実習生制度等によって事実上、単純労働の外国人も受け入れが進んでいたことは周知の事実である。

今回、新資格の導入によって単純労働の外国人受け入れが堂々と解禁される。しかも、山下法務大臣は「数値として上限を設けることは考えていない」と言っており、法律上は青天井ということになる。報道によれば、「2025年までに50万人以上の受け入れ増を見込む」という話もあるようだ。今日のニュースは、「最大で来年度1年間でおよそ4万7千人、5年間でおよそ34万人」という新たな想定を政府がまとめた、と伝えた。

しかし、何らかの見込み数字を閣僚が国会で答弁したとしても、それが歯止めになるわけではない。見込みは見込みだ。超えそうになれば、いくらでも増やせばよい。

かつて自民党の外国人材交流推進議員連盟は、今後50年間で1000万人の移民を受け入れるという大胆な計画をぶち上げたことがある。これが実現すれば、日本の全人口に占める移民比率は10%を超える。絶対的なレベルとしてはもちろん、増加のペースとしても、日本社会を不安定化させる可能性が非常に高い。

EUの教訓=社会の不安定化を招かないこと

EUを見よ。2010年代に入って中東方面からの移民――1年以上滞在する外国人の意味である――が急増した結果、社会の不安定化と分断を招き、ポピュリズム政党が台頭する土壌を作った。中国やベトナムなど、アジアから来た外国人であれば、増えても影響はないなどと考える理由はどこにもない。

外国人を一定水準以上受け入れれば、同じ国の出身者同士が集まるコミュニティができるのは不可避だ。古今東西、彼らは受け入れ国の社会に同化しようとするよりも、自己のアイデンティティを主張する傾向が強い。そうなれば、外国人に優しい政策は受け入れ国の人々の反感を買い、受け入れ国の人々に優しい政策は外国人の反感を買うという、欧州や米国で見られるようになった光景が日本でも見られるようになるだろう。

2018年1月1日時点で、国内には統計上把握されているだけで6万6,498人の不法残留者がいる。新たな外国人労働者受け入れ制度の下、これが増加することは必至であろう。受け入れ総数が増えれば、法の網の目をくぐり抜けて残留する者の数も増えるのが道理だ。それに伴って、治安の悪化に対する懸念が高まらないわけがない。

また、現行の社会保険制度のまま、今回の出入国管理法改正案が成立すれば、外国人労働者の家族の医療費も我々が支払うことになる。しかも、日本に来ている家族の分だけならまだしも、母国に住む家族が払った医療費も日本の保険制度に請求できる。海外にいる家族の数を考慮した時、外国人労働者が何百万人単位で増えれば、数倍の人数分を日本の社会保険制度で負担しなければならなくなる。介護や年金についても同様のことが起こりえる。日本国民の間で反発が強まり、外国人コミュニティとの間で社会が分断化することは火を見るよりも明らかだ。

さすがにまずいと思ったのか、政府も外国人の社会保険利用については何らかの制限を考える、と言いだした。しかし、この国会に法案は出て来ず、来年4月にももちろん間に合わない。見切り発車もいいところだ。

外国人労働者の受け入れ拡大に対し、本質的な異議を唱える野党がいない

それにつけても、日本の政治は有権者に選択肢を示してくれない。

安倍政権が成立をめざす法案はひどい内容だ。将来問題を生む可能性が極めて高いことを覆い隠し、「とりあえず始めてみましょう」という態度は無責任極まりない。王道である少子化対策はまじめにやらず、外国人受け入れ増という安易かつ副作用の大きい政策を推進しようというのもふざけた話である。与党もこんな法案の提出を認めてしまった。情けない。自民党はもう、保守だの、右だの、言わないでもらいたい。

だが、見渡せば、野党の方も五十歩百歩か。先日のNHK討論で野党各党は安倍政権が提出した法案の批判に終始した。外国人労働者の受け入れ、あるいは移民政策について自らの立場をはっきり表明した政党は(共産党を含めて)ひとつもなかった。

ガッカリだ。政府批判は徹底的にやっても、経済界や農家などが労働力不足を訴えれば慌てて玉虫色の主張にすり替えるのか? インテリ揃いの野党は、「移民=改革」とでも思っているのか? それとも、トランプやEUのポピュリスト政党と同一視されるのが嫌なのか? そんな八方美人だから、今の野党には迫力がないのだ。

少し前、立憲民主党が「外国人労働者の受け入れ人数に上限を設ける一方、外国人労働者と家族に対する配慮を手厚くする」内容の対案を準備中だと報道されていた。しかし、肝心の受け入れ上限数が聞こえてこない。外国人労働者数の増加が数万人程度にとどまるのか、はたまた数百万人規模なのかによって、日本社会へのインパクトはまったく違ってくる。何百万人も受け入れてその家族の社会保険までわが国で面倒見る、というような「慈善家気取り」であれば、とても付き合っていられない。

せめて、在留外国人数(2017年末で256万人=特別永住者を含む)と不法残留者(同6.6万人)の合計が(例えば)300万人を超えないようにすると法律に明記し、それを超えたら新資格に基づく受け入れは停止する、くらいの修正案は出せないものか。あるいは、定住者と不法残留者の合計を制限したり、総人口に対する比率を指標にしたりするなど、バリエーションはあってもよい。

「在留外国人数+不法残留者≦300万人」を上限にした場合、在留外国人数が日本の全人口に占める比率は約2.3%になる。まあ、いい線ではないか。

高齢者や女性にもっと働いてもらうこと、AIを含めた技術革新に本気で取り組むこと、中長期的には少子化対策に資する大胆な財政投入と制度改革を行うことなどの対策をセットでとれば、労働力不足についても何とかなるだろう。いずれにせよ、外国人を増やして社会が不安定化するリスクを冒すくらいなら、ゼロ成長の方がマシだ。

 

私の議論はポピュリズムっぽいか? いや、転ばぬ先の杖だろう。

「徴用工」から「旧朝鮮半島出身労働者」に呼び方を変えたんだそうな

日本の統治下にあった朝鮮半島から日本に渡り、炭鉱や建設現場などで働いた人たちについて、日本政府は「旧民間人徴用工」や「旧民間徴用者」などとしてきた呼称を「旧朝鮮半島出身労働者」に改めたんだそうな。今朝のNHKニュースが言っていた。

安倍総理は今月1日の衆議院の予算委員会で呼称変更について言及した。前日の韓国大法院判決で日本側が敗訴したことを受けた対応とみられる。9日になって日経新聞がそのことを伝えたが、あまり注目されなかった。「それならやっぱりNHKだ」とばかり、官邸か自民党筋からNHKに対して何らかの「要請」があったのか、単に週末で政治絡みの記事がなかったのを埋めただけだったのか。NHKが今日になってこの新しくもないニュースを伝えた理由はわからない。

で、本題の呼称変更について。う~ん、国内的な受けはいいかもしれないが、はっきり言って愚策ではないか。韓国嫌いの人たちの溜飲は下げられても、日本の立場は良くならないか、悪くなりかねないと思う。

呼称変更は国際的に日本の印象を悪くする可能性あり

NHKは、呼称変更の理由を「すべての人が徴用されたわけではないことを明確にする必要がある」ためと伝えた。もちろん、「すべての人が徴用されなかった」のであれば、当然の話だが、そうではない。

「すべての人が徴用されなかったわけではない」という事実がある限り、韓国側は今回の呼称変更を日本政府のイメージダウンを図る国際的なロビイングに利用する可能性がある。曰く、「日本政府は徴用工という言葉を消し去り、『徴用がまったくなかった』と強弁しようとしている」と。

欧米の人権派は日本政府の言い分をよりも、韓国側の主張により賛同するんじゃないだろうか。何しろ、「旧朝鮮半島出身労働者」だけでは、間違ってはいないが、その中に徴用工がいたという含意がすっぽり抜け落ちてしまう。日本側が本来の徴用工についても反省する気がない、と言われれば、説得力のある反論はしにくい。(徴用工を含めて請求権問題は1965年に決着済み、ということと、歴史問題に反省の意を持つことは別次元の問題。「過去に対する反省の気持ちはあるが、請求権問題は決着済み」という主張でなければ国際的には通らないし、日本人の有り様としても正しくない。)

河野外相発言は、韓国の土俵に乗ることになりかねない

今回の呼称変更の理屈は、「日本政府が国民徴用令を朝鮮半島にも適用して現地の人を徴用したのは1944年。それ以前は、民間企業による『募集』や行政による『官斡旋』だった」ということのようだ。ちょっと不安なのは、国民徴用令以前の「募集」や「官斡旋」に実質的に徴用と判断される要素がなかったのか、ということ。これについては誰か詳しい人が教えてくれるだろう。

関連して気になったのは、9日の記者会見で河野太郎外相が大法院判決を受けて発した「原告は募集に応じた方で徴用された方ではない」という発言だ。これだけ聞けば、日本が大法院判決を受け入れられない理由は「原告が徴用工ではなかったから」と言っているように聞こえる。1944年以降の「徴用工」であれば日本政府も賠償に応じるべきだと考えているとか何とか、これも韓国側のキャンペーンに使われかねない。

 

徴用工から旧朝鮮半島出身労働者への今回の呼称変更。国内世論向けの内弁慶なのか、安倍さんや戦前の日本の植民地支配を否定する人たちへのお追従(ついしょう)か。外務省も悪手に乗ってしまった感じがする。

韓国の大法院判決に対する憤りは共有するが、一時の感情に任せて日本の不利になるような「独りよがり」に走るのはやめてもらいたい。