「変えられない日本」が垣間見えた――英語民間試験の延期とマラソンの札幌開催

先週の金曜日(11月1日)、二つのニュースが駆け巡った。

一つは、来年から実施が予定され、来年からスタートすることになっていた大学入試への英語民間試験導入を見送ると文部科学省が発表したこと。
もう一つは、東京五輪のマラソン・競歩を札幌で開催することが最終的に決定したことである。

奇しくも同じ日に、既存の方針が変更される大決断が二つもなされたわけだ。しかし、この二つの変更には根本的な違いがある。

英語民間試験の場合、実施が5年後に延期され、その間に実施方法の改善が図られるとはいうが、実施するという大方針そのものは変わっていない。

これに対し、マラソン・競歩については、IOC(国際オリンピック委員会)の鶴の一声で札幌開催が決まり、東京で開催するという既存の方針は葬り去られた。

今回のIOCの独断と批判する声もあるが、東京五輪大会組織委員会、東京都、政府の三者だけであれば、東京でのマラソン開催をやめるなどという「乱暴だが正しい」答に行きつくことは絶対になかったであろう。

文科省(日本政府)といい、東京都といい、日本の組織は一度決められた方針を変えるのが苦手だ。このポストでは、二つのニュースを材料にしながら日本型思考の弱点について考えてみる。

1. 英語民間試験の延期

英語民間試験の源流

2013年10月31日、教育再生実行会議は第四次提言を取りまとめた。そこには「国は、TOEFL 等の語学検定試験やジュニアマイスター顕彰制度、職業分野の資格検定試験等も学力水準の達成度の判定と同等に扱われるよう大学の取組を促す」とある。この時、大学入試に民間の英語試験を活用するという方針はレールに乗った。

教育再生実行会議は2013年1月に閣議決定で設置が決まり、文科省ではなく官邸に置かれている。

「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を実行に移していくため、内閣の最重要課題の一つとして教育改革を推進する」ため、「内閣総理大臣、内閣官房長官及び文部科学大臣兼教育再生担当大臣並びに有識者により構成し、内閣総理大臣が開催する」ものだ。ただし、閣議決定を読んでもその権限ははっきりしない。

有識者は、安倍晋三(総理大臣)、菅義偉(官房長官)、下村博文(当時の文科大臣)が少なくとも否と言わない人が選ばれる。当然、会議の提言内容もスリー・トップの意に沿わないものは入らない。

以上から、教育再生実行会議とは官僚的な積み上げの意思決定プロセスをバイパスし、安倍や安倍に近い人たちの考え方に基づいて教育改革を進めるための装置であることが見てとれる。

この年(2013年)、教育再生会議は2月、4月、5月、10月と4回も提言を出した。いじめ問題への対応(2月の提言)は急を要したのだとしても、それ以外はいかにも付け焼き刃の印象を免れない。

第四次提言を了承した教育再生実行会議(10月31日開催)では、自民党が同年5月23日にとりまとめた『教育再生実行本部 第二次提言』が参考資料として配布された。興味深いことに、この自民党の提言には「TOEFL等の外部試験の大学入試への活用の推進」という項目がある。英語民間試験の源流はこの辺りにあるのだろう。(ちなみに、同本部の「大学・入試の抜本改革」部会には、主査として山谷えり子、副主査として西川京子、萩生田光一、薗浦健太郎という、安倍好みの右翼的な政治家がズラリ並んでいた。荻生田が現文科大臣であることは言うまでもない。)

制度的欠陥品

教育再生実行会議の提言は、制度設計を含めた入念な検討を経て導き出されたものとは到底思えないものだ。言葉は悪いが、思いつきに毛が生えた程度のものも散見される。提言の作成段階では蚊帳の外に置かれ、実行プランの作成を丸投げされた文部科学省もさぞかし困ったことだろう。

総理大臣が主催する会議の中には政権とともに自然消滅するものも少なくない。しかし、安倍一強が続くこの政権では、官邸直轄の会議が出した提言は非常に重い。文科省はこの間、中央教育審議会の答申を得る等のプロセスを経て、英語民間試験の実行プランを作り上げた。合わない辻褄を無理やり縫い合わせながら作ったものだから、突っ込みどころは満載。先週、延期が発表されるや、メディアは英語民間試験の制度設計がいかに杜撰だったかを、一斉に叩き始めた。

本ポストでいちいち取り上げることはしないが、最大の欠陥は受験生の英語能力を統一的に評価する制度的な担保がないことだ。難易度の異なる7種類の試験のどれを受けるかで事実上、受験生に有利不利が生じる。入試システムに求められる最も基本的な「性能」を欠いた欠陥品、と言わざるを得ない。

中止ではなく、延期

ほんの一週間前まで、官邸や文科省は、見切り発車と言われても来年から英語民間試験を実施する、と決めていた。だからこそ、新任の萩生田文科大臣――上述の通り、英語民間試験の導入の言い出しっぺの一人である——は、出演したテレビ番組で「自分の、あの、私は身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで、勝負してがんばってもらえば」と発言したのだ。

世間的には、この「身の丈」発言で風向きが変わり、官邸も英語民間試験の導入延期に傾いたと考えられている。もちろん、10月25日に菅原一秀経済産業大臣、10月31日には河井克行法務大臣がそれぞれ辞任したことも大きく影響したことは言うまでもない。9月に内閣を改造して早々につまずいた官邸としては、これ以上批判される材料を放置できなかったのだ。

だが逆に言えば、菅原、河井のスキャンダルと荻生田の「身の丈」発言がなければ、英語民間試験は多くの欠陥を抱えたまま、実行されていたはず。「一度レールに乗ったら変えずに突っ走る」力というのは、すさまじい。

11月1日に政府(文科省)が発表したのも、英語民間試験の導入「延期」であり、「中止」ではない。6年前に決められた既定方針はまだ生きている。

政府に英語民間試験を踏みとどまらせた、と胸を張っている野党四党(立憲民主、国民民主、社会民主、共産)でさえ、先月24日に提出したのは英語民間試験の延期法案である。
政府が延期を発表した途端、英語民間試験に対する批判をヒートアップさせたメディアからも、その廃止を求める声はあまり聞こえてこない。

政府や与党サイドが英語民間試験を導入するという既定方針をやめられない、というのは、安倍一強の政治力学から(同意はできないが)何となくわかる。だが、これだけ批判されているにもかかわらず、「英語民間試験なんかやめてしまえ」という思い切った主張が政府・与党の外からもあまり聞こえてこないのはなぜか?

理由の一つは、英語をグローバル人材育成のためのツールと位置づけ、「読む・聞く」だけでなく「読む・聞く・話す・書く」の四能力を評価すべきだという意見に惑わされる人が多いことだろう。

しかし、試験の方法を変えれば英語力が伸びるわけではないし、TOEFLのスコアが高くても英語ができない日本人留学生も大勢いる。また、「読む・聞く」能力があれば、「話す・書く」能力は大学に入ってから英語漬けにすれば誰でも身につくものである。

二つめの理由は、「官から民へ=改革」という議論に弱い政治家や知識人が多いことである。

11月6日に開かれた衆議院予算委員会で安倍総理は「私は民間がやると悪くなる、民間はよこしまな考えを持っているという考え方はとらない。民間の活力や知恵を導入していくのは当然あってしかるべきだ。民間事業者などが手を挙げることを、最初から排除しなければいけないという考え方は間違っている」と述べた。こう言われると黙ってしまう政治家やメディア関係者は意外と多い。

安倍が言うとおり、「民間=悪」という考え方は間違いだ。しかし、「民間=善」という考え方も同じく間違っている。全国レベルで実施する英語入学試験の場合、民間の採用は明らかに不適切だ。

例えば、民間(NPO)の試験としてTOEFLだけを採用するのであれば、正当かつ公平な試験としての信頼性は担保される。しかし、受験料は1回あたり2万円台半ばになる。年間50万人という大量の受験生に対応することもむずかしいだろう。多くの受験生にとっては難易度が高すぎる、という問題もありそうだ。
かと言って、GTEC(ベネッセ)一本にしたのでは、予備校が入試本番の試験を実施する主体になってしまい、アンフェアな臭いがプンプンしてくる。率直に言って、試験としての権威も低い。

安倍総理には、英語試験は「民間でやれば悪くなる」ということに気づいてほしいものである。

既定方針を変えることのむずかしさ

組織が既定方針を「変える」ということにはむずかしさがつきまとう。

一つは、変えれば何でもいい、というわけではないこと。変える以上は、問題を解決(または改善)できなければ意味がない。

2012年12月から続いている安倍政権は、集団的自衛権の行使容認をはじめ、この国に様々な変化をもたらしてきた。そのすべてを否定するつもりは毛頭ない。だが、よく見ると、変化の細部に魂がこもっていないものが少なくないことも事実だ。集団的自衛権の行使容認ですら、過去の解釈と継ぎはぎだらけにしたため、日本の武力行使に対する制約は基本的に残ったままである。

もう一つのむずかしさは、一度方針を決めたら、それが機能しない現実が生じているにもかかわらず、既定方針のまま走り続ける傾向がいかなる組織にもある、ということ。

これは、何も日本の組織だけに見られるむずかしさではない。だが、強い忖度感情や組織に対する忠誠度の高さなどから、日本の組織で特に目立つ困難であろう。

英語民間試験については、以上の二つのむずかしさが同時に表面化した。

まず、英語民間試験の導入という考えそのものが、変化の方向性が間違っていた。安倍総理を含め、日本の教育を復古的方向に変えることに熱中した人たちが、英語試験でお遊びをした、というのは言い過ぎであろうか。

加えて、英語民間試験の実施プランを作成する過程で問題点が噴出し、このままでは受験生にとって大迷惑となり、本来狙った英語力向上という効果も見通せなくなったにもかかわらず、政府は当初予定通りの実施に向けて突っ走った。そして、英語民間試験の導入という方針そのものは今も生きている。

英語民間試験の問題は、これからが正念場だ。

 

2. マラソンの札幌開催

有無を言わせなかったIOC

英語民間試験の延期が発表されたのと同じ日、国際オリンピック委員会(ジョン・コーツ調整委員長)、東京五輪大会組織委員会(森喜朗会長)、東京都(小池百合子知事)、政府(橋本聖子五輪相)の4者が最終協議を行った。その結果、来年行われるオリンピック競技のうち、マラソンと競歩については札幌で開催することが最終的に確認される。小池は「合意なき決定」と述べたが、最初から都に決定権はなく、結論は決まっていた。この協議は都民の前で「怒れる都知事」を演じさせ、小池の面子を保つための儀式だったと言えよう。

マラソンと競歩の開催場所を東京で開催しない、という大ナタを振るったのは、IOCという日本外の組織である。東京五輪大会組織委員会、東京都、日本政府という国内の組織に決定権があったなら、お互いに牽制しあうか忖度しあう結果、IOCが下したような「無茶だが、正しい」変更は絶対にできていない。

やばくてもやるしかない

2013年9月7日、来年の7月下旬~8月初旬に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されると決まった。それから6年、準備は着々と進められてきた。

その一方で、最近の日本列島の夏は記録的な猛暑続き。多くの日本人の間で「真夏の東京でオリンピックやって大丈夫か?」という懸念が共有されるようになった。選手はもちろん、観客やボランティアを含め、熱中症でバタバタ倒れたらどうするのか、というわけ。

今年の9月27日から10月6日までドーハ(カタール)で開催された世界陸上は、そうした不安を増幅させるものであった。
女子マラソンは深夜11時59分のスタート時に気温32度、湿度74%。68人中、28人が途中棄権し、完走率は6割を割った。「昼やっていたら死人が出たのでは」という声すらあがっている。男子50キロ競歩も午後11時半のスタート時に気温31度、湿度74%。46人中18人が棄権し、完歩率は約6割だった。
この「惨状」を見て、テレビやお茶の間では「東京も危ないんじゃないか?」と心配する人の数がさらに増えた。

しかし、だからと言って、「マラソンを東京で開催しない」という選択肢が頭に浮かんだ日本人はほとんどいなかった。
私自身、「真夏の東京でマラソンはやばい」とは思っても、「マラソンは東京以外で開催すべき」とまでは露ほども考えなかった。
東京都や組織委員会、日本政府と同じく、「東京オリンピックなんだから競技は東京で」という思考の枠組みから一歩も出ていない。恥ずかしながら、「死人が出ても東京でやるしかない」と考えていたのと同じことだった。

組織委員会や東京都も馬鹿ではない。ドーハ世界陸上の前から、猛暑対策には危機感を募らせていたはずだ。

既に昨年12月、猛暑対策としてマラソンのスタート時間は当初予定されていた午前7時から午前6時に前倒しすることが決まっていた。これをもっと早めることくらいは、当然検討していただろう。実際、IOCから札幌移転の話が出ると、東京都はスタート時間を午前5時よりも前にすることを慌てて提案した。
このほかにも、都はマラソン・コースに遮熱性・保水性塗装を施すという公共事業にも注力してきた。(ただし、最近になって遮熱性塗装は逆効果だという指摘も出ている。)

「暑い東京でマラソンを実施する」という枠組みの中で、都も組織委員会も考えられる手は打ってきた。それは認めよう。しかし、道路に遮熱性塗装を施し、スタート時間をいくら早めたところで、焼け石に水。最近の東京の猛暑は対策してどうにかなるレベルを超えている。

考え得る最大限の努力を払っても、競技の最中に選手たちが体調を崩して大量に棄権する——最悪の場合は選手の生命が危険にさらされる——事態が来年、相当の確率で起こりうる。これを黙認することは、「健全なコンディションの下で安全に競技を実施する」というスポーツの常識、人間界の良識に照らして考えた時、不道徳の極みだ。結果的に来年が冷夏となり、取り越し苦労と笑われることになったとしても、放置するには大きすぎるリスクを放置することは、決して許されない。

ところが、「東京でマラソンをやる」という前提の下に立つ限り、日本ではしっかりした組織や有能な人ほど、「リスクがあってもやるしかない」「できることはすべてやろう」「そのうえで、リスクが残るのは仕方がない」という発想になる。既存方針の枠組みそのものを変えよう、という発想は出てきにくい。

枠組みから出れば解決法はあった

ドーハの世界陸上を見て、「東京でマラソンや競歩をやったら、非人道的な事態が起こる可能性が高い」と懸念し、「それは許されない」から「東京以外のもっと涼しいところに変える」という思考回路で判断を下したのがIOCだった。その結論が札幌開催である。

IOCの決定について、「もっと早く言え」とか「関係者とちゃんと話し合え」という批判が出ることは理解できる。東京開催を前提に準備してきた選手や関係者の努力を無にするものだ、という同情の声も当然、出てきた。

しかし、IOCは初めからそこは割り切っていた。この時期に札幌開催へ変更することについて批判が出たところで、来年の本番を東京で行って選手たちに大トラブルが起きるリスクに比べれば、大したものではない、と。

変えるのならもっと早く変えるべきだった、と言われても、過ぎ去った時間は取り戻せない。
関係者と話し合っても、反対されて時間が過ぎるだけ。
選手や関係者の声なら、世界中で見れば会場変更を歓迎する声の方がおそらく多い。
東京都の自分勝手な言い分に気を使った結果、選手が健康を害するリスクを甘受することは、IOCにとって論外だったであろう。

「東京開催という前提で安全が確保できないのなら、東京開催という前提を見直す」というIOCと、「東京開催という前提で努力してきたのだから、東京開催は譲れない」という東京都。IOCに最終的な決定権限があるという契約上の問題だけでなく、論理の面でも勝負は初めから見えていた。

報道によれば、10月30日に行われた調整委員会の席上、小池知事は「(東京開催に向けて準備を進めてきた)選手や地元の人の気持ちをないがしろにはできない。ワンチームで大会を成功させたいという強い思いは、この場におられる皆さんの共通の思いだ」とコーツ委員長を睨みつけたという。「東京で開催しても選手や観客の安全は守られる」と主張できない小池は哀れであった。(この文脈で「ワンチーム」という言葉を使うのもラグビーの日本チームに失礼だと思った、というのは余談である。)

私も偉そうなことは言えないが、東京以外――札幌でなくてもよい――でのマラソン開催を日本側から提起していれば、と思わずにいられない。後から気づいたことだが、東京オリンピックの本番でも、競技のうちいくつかは、東京都どころか関東以外の会場で行われることになっている。例えば、サッカーの一部は札幌、宮城、埼玉などで予選が開催される。

「オリンピックの花」と呼ぶ人もいるマラソンをサッカーの予選なんかとは一緒にできない——。こうした「傲慢な常識」が、関係者を既存の枠組みに閉じ込めてしまったのであろうか。

変えられない国、ニッポン

日本の組織は、既定方針の下で頑張るのは概して得意だ。ラグビー・ワールドカップでは、台風など自然災害の襲来はあったものの、結果的には決められた枠組みの中で運営されたため、協会、地方の協力自治体、ボランティアなどの献身的サポートによって日本大会の運営は大成功を収めた。(日本をはじめとした各国選手の奮闘ぶりは言うまでもない。)

一方で、既定方針の下でいくら頑張っても駄目な時にその既定方針を見直すことは、日本の組織が苦手とするところだ。戦前の日本の指導部(軍部・政府)も、米国に勝てるとは思わないまま、米英との対決路線を変えることはなかった。英語民間試験についても、同じ構図が見てとれる。マラソン・競歩の開催場所を東京から札幌に変えたのがIOCという日本外の組織だったことは、実に象徴的であった。

既存の秩序が国際的にも国内的にも大きく揺らぎ始めた今日、既存の方針が機能しないときにそれを変える力の有無は日本の将来を大きく左右するはずである。

普天間飛行場の辺野古移設もそうだ。その基本方針は23年前に決まり、工事はようやく始まったものの、軟弱地盤の問題も出てきて未だ完成のめどは立たず。何よりも、当時と今では安全保障環境が激変した——主には中国の軍事力が急伸したことと米国のコミットメントが不透明化したこと——のに、3兆円以上の金をかけるべきプロジェクトなのか、という根本的問題がある。だが、日本側は誰も方針の見直しを言い出そうとしない。変える覚悟を感じられないのは、野党や沖縄県も同じだ。

マラソン・競歩の開催地変更にまつわる顛末は、スポーツのみならず、日本型組織全般の「変えられない」体質を浮き彫りにした。
我々はそこから何かを学び取れるのであろうか。

蛇足――IOCに挑戦せよ

IOCはマラソン・競歩のコースを東京から札幌へ変更するに当たり、「アスリート・ファースト」を強調した。
世界的に異常気象が常態化しつつある時代にあって、夏季オリンピックに立候補できる都市は今後、日本に限らず、限定される可能性が出てくる。だが本来、オリンピックはどこの国(都市)でも立候補できるのが当然だろう。それができなくなるのなら、「オリンピックは真夏に開催する」という現在のIOCの枠組みは変えた方がよい。

今回の騒動を受けて、オリンピックを真夏に開催するのがそもそもの問題、という指摘が日本国内からも出てきている。小池をはじめとする関係者に「煮え湯を飲まされた」という思いがあるのなら、なおのこと日本(JOCや日本政府)は、オリンピックの開催時期見直しを声高に主張すべきだ。

もちろん、ただ主張するだけでは既存の枠組みは変わらない。7~8月にオリンピックを開催するのは、巨額の放映料を支払う米テレビ局の意向に沿ったものだと言われている。日本だけがいくら正論をぶってみても、一顧だにされまい。一国で敵わなければ、仲間をつくるしかない。欧州諸国、そしてアジアで同じような緯度に位置する中国、韓国などとタッグを組む、という発想が必要になるだろう。

実際には、日本政府やJOCは「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で何もしない可能性の方が高い。既存の枠組みの中で頑張るのが日本らしさ、と言えばそれまで。でも、「日本らしさ」にも進化は求められるはずだ。動き出したい。

徴用工判決~日韓関係、あと10年は駄目だろう

もう落ちるところまで落ちないと良くなることはない、と思う。日韓関係のことだ。

限界にきた「韓国疲れ」

10月30日、韓国の最高裁判所にあたる大法院は新日鉄住金に対し、かつて徴用工として働かされた韓国人4名へ約4千万円の賠償を命じる判決を下した。元徴用工は21万人以上いると言うから、最悪の場合、韓国に進出している日本企業は5千億円以上の賠償金を支払わなければならない可能性が出てきた。

1965年の日韓関係正常化に伴い、日韓両国政府は請求権協定を締結した。日本が無償3億、有償2億ドルを韓国に供与する一方、両国及び両国民間の請求権問題は解決済みにするという取り決めだった。今回の判決を受け、日本側から「今さら、何なんだよ」という声があがるのは当然だ。

原告敗訴の高裁判決が差し戻された経緯を考えれば、今回の大法院判決の内容は広く予想されていた。だが、判決後に日本国内で沸き起こった反発は、想像以上に強烈なものだった。背景には、日本側に蓄積した「韓国疲れ」がある。2015年12月の慰安婦合意は韓国側によって破棄同然の扱い。2012年6月には、日韓GSOMIA(秘密軍事情報保護協定)の締結を韓国側が署名当日にドタキャン。同年8月には李明博大統領が竹島に上陸し、天皇陛下に謝罪要求まで行った。これらの出来事が積み重なった結果、日本国民の間には「いくら謝っても韓国は日本を許すつもりがない」「いくら歩み寄って和解しても何度でも蒸し返してくる」というウンザリ感が蔓延している。私も例外ではない。

冷静になって一つだけ指摘しておきたいことがある。今回の徴用工判決は韓国政府(文在寅政権)が日本叩きを意図して行わせたものではない、ということだ。韓国も民主主義国家で司法は独立しており、そんなことはやりたくてもできない。だが、最高裁判決が出た以上、韓国政府がこの判決に拘束されることになるのは間違いない。李明博大統領の時代にも、憲法裁判所が慰安婦問題に対する政府の無策を憲法違反と断ずる判決を出し、李が野田佳彦首相(当時)に慰安婦問題での善処を求めた結果、日韓関係は見る見る悪化した。日本側の「韓国疲れ」は、単に韓国政府に向けられたものと言うよりも、韓国社会全体に向けられたものと考えるべきであろう。

河野外相は「徴用工判決は国際社会への挑戦」と批判

今回の徴用工判決はとんでもない。しかし、感情的になるばかりでは韓国と同じだ。特に、河野太郎外相はキャンキャンうるさい。日本の立場を国際社会に示すために国際広報が重要、と言うのはわかる。でも、ロビイングとかもっと地道な努力を継続することの方が大事だろう。第一、河野の興奮した姿を見せつけられてばかりでは、日本も韓国同様に「感情の虜」なんだと思われかねない。

河野は国内向けパフォーマンスとして言っているのかもしれない。だが、「国際社会への挑戦」というのはいかにも言葉が躍っている。私の受け入れるところではないものの、「国家間協定で戦時求償権問題が解決した後も個人請求権は消滅しない」という考え方は韓国だけのものではない。中国もそうだし、ポーランドに至っては、過去に賠償請求を放棄したにもかかわらず、国家としてドイツに6兆円規模の賠償を求める動きが出ている。米国政府も(いつものことではあるが)求償権問題で日韓いずれかの肩を持つことは避けている。外務大臣の発言であればこそ、言葉はよくよく選ぶべきじゃないのか。

日本の対抗手段~国際司法裁判所、調停委員会、トランプ流の可能性?

もちろん、国際広報の強化だけでは話にならない。残念ながら、韓国(社会)は今、話し合いだけで物事を解決できるような状況にないので、何らかの圧力を加えることも避けられない。日本政府に何ができるのか?

<国際司法裁判所(ICJ)>

徴用工判決についてICJで争うには、韓国政府が付託に同意することが必要になる。韓国がそれに応じる可能性はない。だが、提訴だけでも国際世論の喚起にはつながる。見栄を気にする韓国はそれだけでもかなり嫌がる。

報道では「政府が一方的提訴の方針を決めた」みたいな記事を見たが、李明博の竹島上陸の時も結局見送られた。日本政府がどこまで本気かは不明だ。外務省が「裁判になれば必ず勝てる」と言っているという記事も見たが、話半分に聞いておきたい。捕鯨裁判の時も外務省は「絶対に勝てる」と言っていたが、結果は負けだった。

<仲裁委員会>

日韓請求権協定上、揉め事は(二国間の外交協議を経た後に)仲裁委員会で解決することになっている。ただし、第三国の仲裁委員を選定できるか等、実際の委員会設置にはハードルが残る。

<トランプ流>

最近、日本国内で韓国に対するイライラが高じているのを見ていると、従来考えられなかった禁じ手が将来は検討されるようになるんじゃないか、と思い始めている。何のことか? 徴用工問題の仕返しを貿易や金融取引面で行う、ということだ。

日韓の貿易構造は日本側の黒字であるため、トランプが中国に対して仕掛けている貿易戦争が日韓でそのまま再現できるとは思わない。(現代の貿易戦争は、「売らない」よりも「買わない」の方が有効である。)米国の通商拡大法のような立法措置も必要になるなど、簡単な話ではない。だが、国民も「トランプ流」を見慣れてきた。誰かが言い出せば、案外支持されるかもしれない。

もっと現実的なのは、「静かなトランプ流」であろう。表立っては言わずに、韓国を標的に圧力をかけるやり方だ。日本政府は韓国政府に対し、造船業界への補助金をめぐって二国間協議を要請し、韓国が応じなければWTO提訴に至る運びだと言う。徴用工問題を睨んだ圧力であることは明らかだ。今まで見送っていたこの種の措置を日本政府は繰り返すことになるのではないか。

韓国は変わらない――少なくとも短期的には

日本政府は、韓国政府が原告に何らかの補償を行い、新日鉄住金などが賠償金の支払いや財産の差し押さえを免れることを期待している。日本政府が国際司法裁判所への単独提訴などを示唆するのも、韓国政府に何らかの手を打たせるための圧力だ。しかし、そううまく事が運ぶだろうか? 私の見立ては悲観的だ。

中国では2014年、戦時に「強制連行」された元労働者が三菱マテリアルを訴えて賠償を求めた。16年には和解が成立し、今年中にも一人160万円程度の支払いが行われる見込みだ。西松建設や鹿島建設なども同様の決着を見ている。韓国政府が肩代わりをして日本企業の負担をゼロにするというのは、韓国の国内政治上、実現可能性は低いと考えざるをえない。仮に韓国政府が一部肩代わり等で妥協を図ろうとしたり、原告側に差し押さえをやめさせたりしようとしても、原告の背後にいる活動家たちがそれに応じさせるかどうか、疑問だ。政府の都合や国益など、彼らの眼中にはない

日本政府が、上述したような「トランプ流」の圧力をかければ効果はあるのか? 中長期的にはともかく、韓国が直ちに膝を屈することは期待できまい。一般的に韓国人は「情」に身を任せること甚だしく、利害関係や価値観から大局的な政治判断をすることは不得手である。しかも、経済成長を遂げてG20のメンバーとなった今、韓国にとって日本経済――世界経済全体に占める割合(名目)も今や6%まで低下した――が持つパワーは限定的なものにすぎない。南北の緊張緩和も基本的には日本軽視を助長する要因となっている。

先行きは暗いが・・・

悲観的過ぎるかもしれないが、徴用工問題はまだまだ拗れると思っておくべきだ。それ以外の問題を含め、見通し得る将来にわたって日韓関係の改善は期待できない。

しかし、何年か先(あるいは十年以上先)には、日韓両国政府の間で懸案解決に取り組む機運が生まれる時もあるはずだ。問題は、その時に日韓の次の世代が「一緒に仕事のできる」関係を作りあげられるか否か。今どんなに関係が悪化していても、次の世代が憎しみや反感を乗り越えられるための種を蒔いておくことは我々の責務だ。

一つは若手国会議員の交流。冷戦が終わるくらいまで、日韓の議員間には癒着と呼べるくらいの深いパイプがあった。今は見る影もない。

もっと期待したいのは、学生など草の根の若者交流だ。国家・民族の憎しみや反感は世代を超えて受け継がれ、時に増幅される。そのことを我々は日韓関係から学ばなければならない。悪い連鎖を断ち切るためには、柔軟な若者に期待するしかないではないか。

圧力と対話と種まき――。なす術もなく悪化する日韓関係を前にして、思いつくのはこれくらいしかない。

プーチンの平和条約発言――    もう、夢からさめよう

まず平和条約を締結しよう。今すぐにとは言わないが、ことしの年末までに。いかなる前提条件も付けずに」「その後、この平和条約をもとに、友人として、すべての係争中の問題について話し合いを続けよう

9月7日、ウラジオストクで開かれた東方経済フォーラムでの一コマ。ウラジーミル・プーチン大統領はこう語り、同席していた安倍晋三総理を驚かせた。

 

北方領土返還をめぐる建前と現実

プーチン発言が伝わるや、メディアや国会議員は「ロシア側は北方領土問題の解決を棚上げし、平和条約の締結という『良いとこどり』をするつもりだ」と大騒ぎ。しかし、少なからぬ日本国民は、「ロシアに領土を返す気なんかない」と見切っていると思う。それを口にすれば「非国民」呼ばわりする輩がいて面倒くさいため、黙っているにすぎない。

せっかくプーチンが本音を漏らしてくれたんだ。これを機に、「4島がすべて返ってくることはない。2島ですらもきびしい」という不都合な真実を口にすることがタブーだなんて風潮は、もう終わりにした方がいい。

 

戦争もダメ、裁判もダメ

領土問題を解決する方法は、大きく分けて3つしかない。

第1は、武力行使。2014年のロシアによるクリミア併合も、形式的には住民投票を受けた措置だったが、プーチンが武装部隊を派遣した結果と見るのが常識。では、日本が北方領土を武力で奪い取れるのか? 戦前ならいざ知らず、今日の国際情勢と日露の軍事力格差を考えれば、その可能性はない。

第2は、裁判。国際司法裁判所で争うためには、日露双方が裁判に同意しなければならない。今現在、4島を実効支配しており、現状に何の不都合もないロシアが応じる可能性はほとんどない。万一裁判になれば、色丹島と歯舞群島に関しては、日本が勝てる可能性はそれなりにある。国後島と択捉島は・・・、ちょっと厳しい。

 

交渉もダメ~ロシアが首を縦に振らない理由

第3は、交渉。ソ連崩壊の直後、日本政府は経済支援と引き換えに北方領土を取り戻せると踏み、エリツィン大統領に攻勢をかけた。しかし、当初は前向きな感触を示したと言われるエリツィンも民族派の反発を抑えることができず、交渉は最終的に頓挫した。今も、将来も、交渉で4島が返ってくることは期待できない。

 

領土交渉がまとまるためには、当事国同士が様々な利害得失計算を行い、何らかの妥協に達することが必要だ。利害得失計算を行う際には、①領土問題を解決しないことのコスト、②領土問題の解決に伴って甘受すべきコスト、③領土問題の解決によって得られるメリット、が問題になる。①と③の合計よりも②の方が大きいと感じられてはじめて、ディールの芽が出てくる。

強面のロシアにも、領土問題を交渉によって解決した事例はある。例えば、1990年代から2000年代にかけて、中国との領土(国境)問題をすべて解決している。中露にとって国境問題は安全保障や国家運営に直結していた。1969年のダマンスキー島(珍宝島)事件では中国側に91人、ソ連側には2百人の死傷者を出し、長い国境線沿いに多数の軍隊を貼りつけておく財政的負担も膨張する。冷戦末期以降のロシア(ソ連)はこうした負担に耐えられなくなり、中国の要求に相当な譲歩を重ねてまで交渉を妥結させた。中露の場合、冷戦末期から上記の①と③が非常に大きくなり、②を凌駕するに至ったと考えてよい。

では、北方領土返還交渉においてロシア側の利害得失計算はどうなっているのか? 以下に検討してみる。

<全面的に実効支配>

日露の場合、ロシアのみが70年以上にわたって4島の全域を実効支配しており、日本が実効支配する土地は1ミリもない。しかも、自衛隊が北方領土に軍事侵攻してくるという心配はまったくない。万一攻めてきても、簡単に撃退できる。ロシアにとって、居座るコスト(①)は基本的にゼロだ。

<手放せない戦略的価値>

ロシアは現在、択捉島と国後島に機関銃・歩兵師団3千5百人を駐留させ、地対艦ミサイルも配備している。その目的は何か? ロシアの対米核戦略上、ウラジオストクに配備された艦艇(特にSLBMを搭載した戦略原子力潜水艦)の行動の自由を確保するため、オホーツク海を要塞化することが至上命題。そして、オホーツク海の要塞化には択捉・国後が必要不可欠だ。

日ソ共同宣言(1956年)に向けて日ソが交渉を行っていた時、ダレス米国務長官は「日本政府が2島返還で手を打ち、残余の千島列島のソ連領有を認めるようなことがあれば、米国は将来にわたって琉球(沖縄)に居座る」と重光葵外相を脅した。その前にダレスは、米軍統合参謀本部議長から「択捉島と国後島はソ連にとって戦略的に重要」という書簡を受け取っている。ソ連が軍事的に重要な択捉・国後を手放すことはないとわかっていたからこそ、ダレスは日本政府に4島返還を要求させ、日ソ関係の改善に歯止めをかけたのだ。

米露の戦略的緊張は冷戦が終わっても完全に消えることはなかったし、今日また高まっている。択捉・国後を日本に渡せば、軍事戦略上の不利益(②)は致命的なものだ。色丹・歯舞についても、「隣接する区域を相手に渡せば、本丸も危うくなる」と危惧する軍人思考が働かないとは限らない。

少し脱線する。今年6月に行われた党首討論で、国民民主党の玉木代表が安倍総理に対し、「島が返ってきた時、『安保条約6条に基づく施設、基地は置かない』とトランプ大統領から確約を取れば、日ロの交渉は一気に進むと思うが、いかがか」と提案した。しかし、ロシアにとっては、返還後の両島に米軍基地が置かれるかどうか以前に、択捉や国後からロシア軍を撤退させることによって「オホーツクの要塞」に穴があくこと自体が大問題なのだ。素人が付け焼刃で専門家を気取っても、滑稽にしか見えないんだよな・・・。

<相当数のロシア人が居住>

北方領土には約1万7千人(国後島8千人、択捉島6千人、色丹島3千人)のロシア人が居住している。日本人居住者は半世紀以上も前に追放され、いない。領土問題は、無人島をめぐるものでさえ、ナショナリズムを掻き立てる。自国民が住んでいれば、さらに増幅されることは言うまでもない。

しかも、生身の人間がこれだけ住んでいれば、ロシア政府が「島は日本に譲り渡すことになった」と言って住民を強制移住させることなど、政治的に不可能だ。日本で言えば、大島と八丈島の全住民に強制退去を命じるような話。いくら補償金を積んだところで、応じてもらえるわけがない。無理に実行しようとすれば、島民のみならず、全国民から総スカンを食らって指導者は退陣を余儀なくされるだろう。国内政治上のコストという意味でも、②は膨らむ。

<見返りは経済援助>

昔も今も、日本政府の思い描くディールの基本構図は「日本が経済援助という飴をロシア側に提供し、ロシアはその見返りとして島を譲り渡す」というもの。ロシアが北方領土を返還することによって得られるメリット(③)は、「お金」だ。

①と③の合計が②を超えそうもないことは誰の目にも明らかだろう。しかも、ロシアがどうしようもない苦境にあった――すなわち、経済協力が最も魅力的だった――時代においてさえ、「領土を買う」ことはできなかった。エリツィンの時代よりも国力が回復した現在、ロシアとの北方領土交渉が日本側の満足する線で解決することは、なおさらありえない。それは、安倍がプーチンと何十回会ったとしても同じことだ。

 

「プーチンの指導力に期待」って何を?

安倍総理や外務省は「日露両首脳が築き上げてきた個人的関係を以ってすれば、領土問題の困難も必ずや解決できる」みたいなことを言っているようだ。

しかし、トランプがアメリカ・ファーストである以上に、プーチンはロシア第一主義者だ。安倍とプーチンの間に友情が芽生えたのかどうか、俺は知らない。仮に芽生えたとしても、プーチンは、友情をロシアのために利用することはあっても、友情の前にロシアを売り渡すようなことは絶対にしない人間だ。

二百歩譲って、プーチンに(一部の)島を譲り渡してもよいという気持ちがあったとしても、彼は内政上身動きがとれない。今やロシアの指導者は選挙で選ばれている。統治の正当性は、突き詰めれば国民の支持にしかない。「皇帝」と呼ばれるプーチンにも、領土の譲り渡し――それは島民の強制移住を伴う――という国民に不人気な政策の実行はハードルが高い。ましてや、今のプーチンに領土譲り渡しを決断するよう望むことはまったく問題外だ。ロシア政府は今年、年金の受給年齢を引き上げると発表した。途端に8割を超えていたプーチン大統領の支持率は3割台に急落、デモも多発した。慌てたプーチンは妥協案の発表に追い込まれたが、支持率は戻っていない。

 

いくつの島を取り戻そうと言うのか?

以上を踏まえたとき、日本は北方領土問題にどう取り組むべきか?

俺は、2島(色丹島と歯舞群島)返還が実現できれば、もうそれで日露間の領土問題には終止符を打つべきだと思う。国後島と択捉島は、継続協議に回したりせず、すっぱり諦める。三島とか面積折半(歯舞・色丹・国後+択捉の一部)という、未練たらしい選択肢も持ち出すべきではない。

2島返還の場合、陸地面積では4島合計の7%に過ぎない。しかし、岩下明裕先生によれば、排他的経済水域(EEZ)に着目すれば、4島の場合の20~50%が手に入ると言う。このまま1島も返ってこないことを思えば、2割でも「御の字」だ。

安倍総理も本音では「2島返還が実現すれば、平和条約を結んでもいい」と考えているという説がある。プーチンが「平和条約の発効と相前後して2島の主権と施政権を譲り渡す」と約束するのであれば、安倍は国会なんか放り出してモスクワに飛び、条約に署名すべき。ただし、批准は2島が返還される目途が立つまで待った方がよい。

断っておくが、「2島返還なら問題なく実現する」という見通しがあるわけではない。かつてプーチンは「引き分け」を狙うべきだと話したが、ウラジオストクでは「(北方領土問題は)われわれの国民にとって非常に敏感な問題であり、解決に当たっては慎重に対応する必要がある」と防御線を張った。「2島返還でもきびしい」というのが俺の正直な予想だ。

では、2島返還での決着を打診しても色よい返事が返ってこない時はどうするか?

歯舞群島だけでも返ってくるのなら、とりあえず受け取っておく。この場合、平和条約の締結までは応じざるをえないが、他の3島の返還問題は継続協議にする。(実際に他の3島が返還される可能性はほとんどないが、それは仕方ない。)

歯舞群島には居住者が基本的にはいないので、返還される可能性は他の3島よりも高いはずだ。少なくとも6つの小島から成る歯舞群島は、合計面積でわずか100㎢しかない。屈辱的な譲歩だと思う人もいるだろう。しかし、歯舞群島の戦前の漁獲高(主に昆布)は4島中最大規模を誇り、北海道全体の14.4%だったと言う。

歯舞すら駄目、という完全なゼロ回答であれば、早期の平和条約の締結には応じない。4島の返還要求も取り下げない。

 

平和条約締結は道具として使え

プーチンが提案した平和条約の締結は「前提条件なし」。これはふざけた話だ。乗り必要なんかない。

4島は戻ってこないにしても、1島~2島なら叶うのか? 平和条約締結というカードはその見極めのために使う、というのが俺の考え。ロシアが1島も返す気がない、ということがわかった場合には、条約は締結すべきではない。

ロシアにとっては、日本と平和条約を締結できれば、米国や中国を牽制するうえで一定の意味がある。しかし、日本にとっては、平和条約を締結しても格段のメリットはない。ソ連との戦争は法的にも1956年の日ソ共同宣言で既に終結している。経済面でも、日本企業にとって問題となるのはカントリー・リスクと収益性の方だ。かくして、平和条約の締結は日本がロシアに対して持つ、数少ない外交カードの一つとなりえる。

将来、世界や西太平洋地域の地政学的状況が大変化するなど、このカードを切るべき真のタイミングがやって来るかもしれない。その時は、領土返還要求を放棄しても構わないくらいの覚悟で、断固としてこのカードを切るべきだ。今は焦らず、時が来るのを待つのがよい。

 

玉城デニー知事誕生の希望と憂鬱

死せる翁長知事が安倍政権を走らせた今回の沖縄県知事選挙。
だが、その先に何が待っているのか・・・?
9月30日に沖縄県知事選挙が行われた。結果は、オール沖縄の玉城デニーが自民・公明などの推薦する前宜野湾市長・佐喜眞淳(さきまあつし)に8万票近くの大差をつけて大勝。8月8日に急逝した翁長雄志(おながたけし)知事の後を玉城が継ぐことになった。

仲井眞政治に後戻りしなくてよかった

 個人的には、玉城が知事になってよかったと手放しで喜ぶ気持ちにはなれない。その理由はあとで述べる。だが、佐喜眞が知事になるのはもっと嫌だった。佐喜眞が知事になっていれば、選挙の時は基地問題に口を閉ざしていたくせに、官邸と結託して辺野古埋め立てに協力し、補助金や公共事業を増やしたと誇るに違いなかった。それは、仲井眞県政の復活を意味していた。
 仲井眞弘多(なかいまひろかず)は2006年から2014年まで沖縄県知事を2期務めた。常に中央政局と県民感情を天秤にかけながら、基地建設の見返りに沖縄振興を進めてきた人物だ。本音は辺野古移設に賛成で、麻生内閣の時には埋め立て承認の寸前まで行った。民主党政権の間は埋め立て承認の言を左右にし、沖縄一括交付金の創設を含め、中央政府からの補助金増額に努めた。2010年の選挙では、辺野古移設をめぐる鳩山内閣の混乱を受けて県民世論が硬化したため、普天間の県外移設を公約に掲げて再選を果たした。しかし、自民党政権が復活して安倍一強が続くと見るや、2013年12月には一転(二転)して辺野古の埋め立てを承認。翌2014年度の沖縄振興費は前年比445億円増えて3,500億円を超えた。言うまでもなく、仲井真に対する安倍内閣の論功行賞であった。
 永田町あたりには、仲井眞のような政治家を「政治家として立派」と褒める者がワンサカいる。でも、俺は大嫌いだ。狡猾、陰険、胡散臭さが同居する沖縄政治はもう終わりにした方がいい。

玉城知事への不安

 佐喜眞が負けたことは、ひとまずよかったが、俺の心は晴れない。確かに、死せる翁長氏は玉城デニーを勝たせ、安倍政権や仲井眞たちに一矢を報いた。しかし、玉城やオール沖縄がこれからも続く中央政府との戦いに勝利できるのか――? 正直、暗澹たる気持ちになる。諸葛孔明は死して司馬仲達を走らせたが、孔明を失った蜀はその後、魏に滅ぼされたではないか。
 胆力や気概において、玉城新知事は翁長前知事に遠く及ぶまい。県庁という組織を運営する能力も疑問視される。元来が保守系の翁長と異なり、玉城にはリベラルのイメージがつきまとい、(大衆迎合という意味で)ポピュリスト的なところがある。県政与党の社民・社大・共産党に引っ張られてバランスや安定感に欠ける言動に走れば、県民の期待は失望と不安に変わるだろう。
 辺野古建設をストップさせる戦いは、トップに対して想像を絶するプレッシャーを容赦なくかけてくる。鳩山内閣はわずか9か月余りで自壊し、翁長前知事は文字通り命を削った。鳩山由紀夫がとったような言動を沖縄県民に二度と見せてはならない。玉城はプレッシャーに押しつぶされないだけの覚悟を持っているのか?
 この間、早くも不安を感じさせる光景があった。8月19日に県政与党や関係団体から出馬要請され、小沢一郎(自由党党首)に相談して決める、と玉城が答えた時だ。玉城は当時、自由党に所属する現職の国会議員で党の幹事長であり、立場上、小沢に相談するのは当然のことと言えなくはなかった。しかし、俺は「こいつ、大丈夫か?」と直感的に思った。玉城を含め、小沢と行動を共にする国会議員は皆、小沢の顔色を窺う「小沢依存」が習い性になっている。小沢が「やめておけ」と言っていれば、玉城は立候補しなかったのか? 今後間違いなく訪れる難局で見せる玉城の言動が、彼の覚悟のほどを明らかにするだろう。
 ところで、玉城知事が誕生した今、小沢一郎の「剛腕」は新知事の武器になるのか? ならない、と断言できる。小沢という男は、選挙や政局で戦う局面においては、時に恐ろしいほどの能力を発揮することがある。しかし、新進党や民主党時代の実績を検証してみると、統治する側に立った時の能力はパッとしない。本人もそれを自覚しているのか、選挙や大きな政局が終われば裏側に引き、総理や閣僚として矢面に立たないという妙な癖が、小沢にはある。鳩山が沖縄で躓いたときも、民主党幹事長だった小沢が鳩山に手を差し伸べることはなかった。玉城が県知事として行き詰まったとしても、他人事のように傍観するに違いない。しかも、小沢はウチナンチューではない。玉城が小沢に頼れば頼るほど、沖縄県民の心は玉城から離れていくと思う。

辺野古埋め立て阻止は茨の道

 玉城新知事は当選後、「埋め立て承認の撤回を支持し、名護市辺野古への移設反対をぶれずにやっていく」と抱負を述べた。だが、現実に玉城知事が辺野古埋め立てを阻止できる目途はまったく立っていない。
 安倍政権の強硬姿勢に対して、玉城は来春までに辺野古基地建設の是非を問う県民投票を実施する構えだと言う。実現すれば、県民の多くが「ノー」を突きつけることとなろう。しかし、県民投票自体に中央政府を拘束する力はない。知事選や県民投票の結果を受け、県知事の承認や認可など、今後必要になる行政手続きを沖縄県が拒否することはできる。それでも、安倍政権は裁判に訴えることを含め、様々な手を打つだろう。極論すれば、政府が特措法を制定し、沖縄県知事の行為を代執行することができるようにすれば、沖縄県には為す術がなくなる。
 民主党政権はもちろん、2009年以前の自民党政権は、沖縄県と決定的に対決することを避け、何とか沖縄県を「取り込もう」としてきた。安倍晋三は違う。「戦後レジームからの脱却」をめざし、戦前の日本に右翼的な郷愁を抱く安倍の思想を単純化して言えば、軍事優先と中央集権だ。官房長官の菅義偉も、師である梶山静六の遺志を継ぎ、辺野古埋め立ての実現に執念を燃やす。この二人が組んでいる限り、安倍政権は沖縄県と対決することに躊躇しない――。そう思っておいた方がよい。
 では、沖縄は米国を説得できるか? 知事になる前、玉城は「米国の血が私には2分の1流れている。だから私の言うことは(米国に)半分は聞いて頂く」と語っていた。だが、知事になった今、玉城は結果を問われる。
 確かに一時期、米議会で「辺野古は政治的に実現不可能だから、日米両政府は別の選択肢(プランB)を考えるべき」という意見が、先日亡くなったマケイン上院議員を含め、じわりと広がったことはある。ただし、それは辺野古基地建設をめぐる沖縄の世論が硬化、沖縄県は埋め立てを承認せず、中央政府も地元の反対を押し切ってまでは建設を強行できない膠着状況にあった時の話だ。
 その後、仲井眞知事が埋め立てを承認すると、翁長知事の抵抗にもかかわらず、日本政府は裁判に訴えてまで辺野古建設を強行してきた。工事の進展を受け、辺野古見直しを唱える声は米国でも小さくなっている。「日本政府がやると言い、実際に埋め立てが進んでいる以上、プランBの必要性はなくなった」というわけだ。プランBを策定するとなれば、海兵隊や軍部との利害調整にはじまり、グアムとの関係など、政治的に莫大なエネルギーを費やさなければならない。沖縄県知事が訪米して何を言っても、日本政府が辺野古の基地建設を進めている以上、米国政府の方から辺野古の見直しに同意する可能性は限りなくゼロに近い。

新知事への助言

 安倍政権あるいは日米の外務防衛官僚たちが狙うのは、民主党政権が八ッ場ダム建設を止められなかったのと同じ構図を再現することだろう。自民党政権が続く限り、工事は進んで既成事実が積みあがる。そして、工事が進めば進むほど、いかなる政権も辺野古の基地建設をやめにくくなる。これに対し、有効な対抗策は現段階で見えてこない。だが、道が開けるとすれば、翁長雄志の流れを汲む知事が安倍政権よりも長くその座に居続けることが最低限、必要になる。
 では、玉城県政が長続きするために必要なことは何か? 言うまでもなく、県民の信頼を得ることだ。では、県民の信頼は何を以って得られるのか? 統治に対する安心感を大前提に言えば、やっぱり実績になる。もちろん、辺野古の埋め立てを止めることができれば、大成果と言ってよい。しかし、その可能性が極めて低いことは既に述べた。翁長知事が存命で再選を果たしていたとしても、それは同じことだったろう。
だからこそ、玉城は辺野古以外で実績を示さなければならない。具体的には、県内の好調な経済状況を維持し、さらに活性化することだ。沖縄の経済発展モデルと言えば、仲井眞知事の頃までは「基地受け入れを材料にして振興予算を増やす」という考え方が根強かった。しかし、最近はインバウンドや人口増加による自立的発展モデルの可能性が出てきている。翁長前知事も「基地建設とリンクしない沖縄経済の発展」を目指した。
実際、2017年度の沖縄の経済成長率は+2.2%を達成し、18年度は+2.6%という予想だ。全国ベース(それぞれ、+1.5%と+1.4%)に比べて格段に良い。国内外から観光客が増え、建設関連も公共工事(基地建設を含む)に支えられて堅調だ。雇用情勢は本土復帰後最高の状態にある。百貨店・スーパーの売上高、自動車販売、住宅着工なども軒並み前年比プラスが続く。
 今回の選挙では、佐喜眞陣営や本土から応援に来た自民党の政治家たちが「翁長県政で弱った中央とのパイプを太くし、振興予算を増やしてもらう」と叫んだが、思ったほど県民にアピールしなかった。沖縄経済の好調ぶりを見れば、それも頷ける。沖縄経済が振興予算に頼らずに発展できるようになれば、沖縄県民が基地問題で中央政府に異議申し立てを行う力も大きくなる。玉城はこの流れを絶やしてはならない。
 無事これ名馬――。玉城さんよ、基地問題に逸る気持ちはわかるが、あなたには敢えてこの言葉を贈りたい。