自由を振りかざすだけで自由は守れない――「表現の不自由」展の中止に思う

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が中止された。従軍慰安婦をテーマにして韓国人作家が作成した少女像が物議を呼び、右系の人たちからの脅迫や一部政治家の圧力が昂じたため、安全を確保できなくなったためだと言う。

私自身、この少女像を見たいとは思わないし、見ても気持ち悪いとしか思わないに違いない。しかし、だからと言って、人が何かを表現するのを脅迫や圧力でやめさせるようなことがまかり通れば、この国の自由は失われてしまう。企画展が中止に追い込まれたことは言語道断だ。

そのうえで言えば、日本人が自由のために戦う覚悟は、軽い。今、日本や世界を覆う不自由の空気がどれだけ重いかについての認識も、甘い。今回、つくづくそう思った。

今日、表現の自由を奪う力は、ナショナリズムと連合して力を増幅している。我々が教科書で習った「表現の自由」を振りかざすくらいでは、それに対抗することなどできない。芸術家やリベラルな人たちからは怒られるかもしれないが、国民の多数派を味方につける政治的戦略性がなければ、自由はどんどん失われていくだろう。

展示中止に至った顛末

8月1日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が開催された。わずか2日後、同芸術祭実行委員長の大村秀章愛知県知事はその中止を発表する。展示では、昭和天皇をコラージュした版画や「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句など、国内で展示や発表が中止された作品、旭日旗を連想するとして在米韓国人団体から抗議を受けた横尾忠則氏のポスターなど、様々な作品が出品されていたらしい。

その中に韓国人作家が従軍慰安婦をテーマに作成した「平和の少女像」などもあった。これが右翼系の人に限らず、反韓感情を持つ人を刺激した。放火をほのめかすなど、悪質な脅迫が相次いだそうである。菅官房長官や柴山文科大臣は同展への補助金の差し止めを示唆し、ポピュリスト政治家の河村たかし名古屋市長がこれに乗って企画展の中止を声高に求めた。大村知事もこれに抗しきれず、また、危機管理上の懸念も本当に感じたのであろう、企画展の中止を決めたというのが大筋の経過だ。

国民の反応は冷淡

こうした動きに対し、日本ペンクラブは展示の継続を求めて抗議声明を出した。朝日新聞(8月6日付社説:あいち企画展 中止招いた社会の病理)、東京新聞(8月7日付社説:「不自由展」中止 社会の自由への脅迫だ)、毎日新聞(8月6日付社説:「表現の不自由展」中止 許されない暴力的脅しだ)も、やはり報道の自由が失われることに危機感を露にした。

一方、産経新聞(8月7日付主張:愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か)は上記三紙とは異なる調子の社説を掲載。「暴力や脅迫は決して許されない」と形ばかり書いたあと、天皇を題材にした作品や少女像については「ヘイト行為」だと述べ、それは「表現の自由」か、と疑問を呈した。ヘイトに最も親和性の高い新聞らしい社説だが、この説を認めれば、産経新聞が主張する歴史認識は韓国人や中国人にとってはヘイト行為であり、産経新聞の表現の自由も許されない、ということになる。

社説の内容は、朝日などの言い分がまったく正しい。これが20世紀後半のことであれば、世の中は「表現の自由」封殺に対する批判の大合唱となっていただろう。

しかし、現実はどうか。世の中は大きな声をあげようとしない。いや、むしろ、河村や菅、ひいては産経新聞の主張の方が正しい、と感じる国民も決して少なくない。野党を含め、永田町だって、国会閉会中ということを勘案しても、静かなものである。

今回、少女像は展示すべきでなかった

日本国民のほとんどは、表現の自由の重要性を理解していると思う。皆が皆、産経新聞の言説に同意するわけでもあるまい。しかし、今回、少なからぬ国民は、少女像の展示を「表現の自由」の問題ではなく、「ナショナリズム」の問題として捉えた。その結果、「表現の不自由展・その後」は表現の自由を守るために少女像を展示し、表現の自由を後退させた。

それでなくても、経済は停滞、社会の較差も拡大して国民の間には閉塞感が募っているのが日本の現状。そこへもってきて、韓国が日本をナショナリズムの標的にし、日本もとうとう売られた喧嘩を買って韓国にナショナリズムの牙を向けた。日本人が――世界中で見られる傾向かもしれない――少しずつ右傾化(という言葉が不正確なら自国第一主義)の方向に向かっていることは紛れもない事実だ。そして、右も左も無党派も、日本人は韓国が嫌いになった。少なくとも、韓国に「ウンザリ」している人があふれている。

このタイミングで少女像を展示すれば、言論や表現を弾圧する側がナショナリズムを利用し、大手を振って自由に圧力を加えることは、十分に予想できたはずである。

日本人は表現の自由を誰かと戦って勝ち取ったわけでは、基本的にない。敗戦と憲法によって与えられ、教科書で習ってきたにすぎない。だから、ひ弱なインテリが表現の自由を守ろうとして立ち上がるのはよいが、抑圧する側がナショナリズムと組んだら、ひとたまりもない。

理想を曲げることになろうとも、表現の自由を守りたいのであれば、今回は抑圧する側がナショナリズムと手を結びにくいテーマに絞るべきだった。むしろ、表現の自由を守る側がナショナリズムと手を結びやすいテーマを選び、表現の自由に対する国民の共感を得て自由のための橋頭保を築くくらいのしたたかさがあれば、と思う。「少女像」の展示は、そうやって国民の理解を得たうえで、もう少し日韓関係が落ち着いてからにすればよかった。(天皇を題材にした作品については、右系の人が騒いでも国民的な広がりを持つことはなかったであろう。今回、外すべきだったとは考えない。)

ここからは余談の部類を少し。
今回、芸術祭の主宰者や愛知県知事はわずか三日で展示の中止を決めた。もちろん、当事者にしかわからない恐怖や責任感もあったとは思う。だがそれにしても、「あっけなかった」というのが正直な感想だ。私の奥方も、「こんなもん出す以上、脅迫がくることは誰だって想定できたでしょう? 根性もないのにやって腰砕けだね」と首をかしげていた。

だがその一方で、実行委員会のメンバーが大村知事に公開質問状を出し、展示の再開を求めている模様だ。まあ、彼らにしてみれば、「大村や津田大介(芸術監督)はひよったが、我々は教科書に書いてあるとおりに正しい」と言いたいんだろう。とにかく正論にこだわるかと思えば、政治的に味方になるはずの人も公開の場で批判する。だから、日本のリベラルは駄目なんだ、と思わざるを得ない。正論を吐くがひ弱、というのは朝日の社説を読んでも思った。

 

今回、私が書いたことは、正論としては明らかに間違いだ。表現の自由は、それが犯罪行為にでもつながらない限り、絶対的に守られるべきものである。政治的な理由から韓国絡みの表現の自由をことさら目立たせるべきではない、という主張は、本来、表現の自由とは相いれない。

しかし、戦前を含め、純粋な正義が負けた例は歴史上、いくらでもある。戦前は、自由のために命をかけて戦っても、政府から弾圧され続け、戦争に負けるまで自由を得ることはできなかった。今の世の中、戦前と違うのは、国民を味方につけた方が勝つ、ということ。

だが逆に、正論だけ振りかざしても、国民を味方につけられなければ、自由は失われる。憲法で文字上、自由が保障されていても、自由が自動的に守られるわけではない。その主張がどんなに正しくても、国民が共感しなければ、国民は知らず知らずのうちに自由に背を向ける。

そう、国民は、自由にとって味方にも敵にもなる。自由を守りたければ、時には回り道も必要だ。

 

追伸:今日、吉村洋文大阪府知事が少女像などの提示を「反日プロパガンダ」と呼び、「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」「(大村氏は)知事として不適格じゃないか」とまで言ったらしい。この人、松井一郎大阪知事が変なことを言うとオウム返しで変なことを増幅して言うことが多い。

大村知事にどこまでの覚悟があったかは別にして、表現の自由の問題提起をすることに公金を使うのに、何の問題があるというのだ? 政府が補助金を出したくない、というのなら、勝手にすればよい。だが、大阪知事風情が便乗してこんなことを言うなんて、維新のポピュリスト政党的ないやらしさが全面に出ている。

政治戦略上の理由から少女像は展示すべきではなかった、と私は本ブログで述べた。しかし、松井や吉村がここまで言う以上、ガツンと反論しておかないと言論抑圧とナショナリズムの悪い結合が進みすぎてしまう。野党の国会議員も黙っていないで少しは大村知事に加勢してやったらどうだ? 立憲民主と国民民主は国会で統一会派とか言っているらしいが、あんまり国民に嫌われるのを怖がって沈黙していると、支持率で維新に抜かれる日が来るんじゃないのか。