「抑制しない政治」の兆しが見える②~政治がメディアを圧迫する時代とリベラルの憂鬱

前回8月24日付のポストで見たように、N国の立花孝志は、マツコ・デラックス叩きを通じて自分の宣伝にまんまと成功した。だが、そんなことよりもずっと重要なのは、弱小政党であってもバラエティー政治評論を黙らせることができることを示したことである。報道メディアもそれを傍観したため、政治による対メディア介入を助長する結果となってしまった。

今回のポストでは、今日の日本のメディアと政治の関係――メディア一般に対する政治の圧力、メディアの党派的政治性など――を概観し、それが所謂リベラル勢力にとって不利な状況を作り出していることを指摘する。

政治がメディアに圧力をかける状況は決して好ましい事態ではない。しかし、トランプのアメリカをはじめ、今日、世界中の民主主義国家で共通して見られる現象であることも否定できない事実だ。「こんな状況はけしからん」と批判するのは、実は現実逃避にすぎない。まずは現実を直視することから始めるしかない。

メディアを叩き始めた政治

戦後の長い間、第四の権力と言われるメディアには、政治的(党派的)に中立であることが求められてきた。その一方で、政治の側もメディアに圧力をかけることはタブーとされた。

もちろん、戦後政治においてメディアが政治的に完全に中立だったと言うつもりはない。政治が水面下でメディアに圧力をかけることもまったくなかったわけではない。だが、少なくとも建前としては、「メディアは党派的に中立であり、政治は報道に介入してはならない」という考え方が世の中に受け入れられてきた。今日でも日本ではまだそう信じている人が少なくない。

しかし、少なくとも自民党とメディアの関係に関する限り、21世紀に入ったあたりからこの建前は形骸化してきた。

その要因の一つは、冷戦後に旧田中・大平派連合から清和会支配へと党内権力の重心が移行したことに伴い、自民党が右傾化したこと。
2001年には従軍慰安婦関連の番組について当時官房副長官だった安倍晋三などが右翼的見地からNHKに注文を付けたことが知られている。

もう一つの理由は、2009年に下野した苦い経験から自民党が政権維持のためならなりふり構わぬようになり、メディアへの圧力もタブー視しなくなったこと。
2014年の総選挙の際には、自民党はNHKと民放各社に「公平中立、公正」な選挙報道を求める要望書を出す。安倍政権批判に偏ることのないよう選挙番組へのゲスト選定に配慮することなど、それまでになかった露骨な圧力が加えられた。その後もこの種の要望は選挙の度に出されている模様である。
2018年秋には、国政選挙でもない自民党総裁選に関してまで、安倍と石破を対等に扱う旨の細かな要望書を新聞各社に出している。石破有利の報道を行わないよう圧力をかけるためであった。

メディアの側も情けない。言うことを聞かなければ安倍に出演・取材拒否されて番組や記事が成立しなくなることを気にかけたり、安倍一強体制が続く中、あとで有形無形の嫌がらせを受けることを恐れたりした結果、自民党の要望に大筋で従ってきた。

このように、最近では政治がメディアに圧力をかけるということが、実際に起きている。しかし、メディアに圧力を効果的にかけることができたのは、これまでは自民党だけだった。野党の多くは政治がメディアに圧力をかけることを依然としてタブー視し続けている。メディアの側も、仮に野党から圧力をかけられても無視することができた。

今回、N国は政治がメディアに圧力をかけられる可能性を大きく広げた。たった一人の国会議員しかいなくても、声を荒げる、有名人や番組スポンサーを攻撃対象に選ぶ、ネット動画で拡散する、等の手法が当たれば、メディアーー少なくとも、ワイドショーの芸能政治評論くらいならーーに圧力をかけて黙らせることができるという実例を作ったのである。

リベラル野党には無理?

ここで断っておかねばならない。N国が今回、成功裡にメディアを叩いたからと言って、すべての政党(野党)が立花のように効果的にメディアを叩けるわけではない、ということだ。

一言で言えば、野党がメディアを叩こうと思えば、ガラがよくては駄目。知性はメディア批判の邪魔をする。立花だけでなく、トランプを見ても、安倍を見ても、そのことは一目瞭然であろう。

日本のリベラル系野党は、旧民主党系を筆頭に、知識偏重でひ弱だ。かつては暴力革命を唱えることもあった共産党でさえ、今やすっかり知識人政党になってしまった。今日、リベラル系野党が産経新聞を批判しても、あることないこと反論されて返り討ちとなるのがオチだ。支持率とメディアへの露出がある程度比例する今日、弱小野党には、「メディアと喧嘩してメディアとの関係が悪くなっては困る」という要らぬ計算も働く。

フェイク・ニュースがはびこる今日、ナショナリズムと感性に訴える勢力の方が、理性や知性を重視する勢力よりも、政治やメディアの世界では有利である。
理由を簡単に説明しよう。

右寄りの政党がリベラルなメディアを攻撃する場合、テーマはナショナリズムが関わるものが多い。その際、右寄り政党は当該メディアの弱みを集中して突く。事実関係に異論があっても、ナショナリズムに結び付けて声高に叫べば、より多くの国民の共感を得ることは比較的簡単だ。しかも、右寄りのメディアもリベラル系メディア叩きに参戦する。この時点で、数のうえではリベラル勢力にとって「多勢に無勢」の状況が生まれる。一方、リベラル系メディアは、右寄りからの攻撃に対して事実関係の検証やコスモポリタニズム(または平和主義)の観点から反論しようとする。しかし、これは手間がかかるうえ、ナショナリズムの関わるテーマを論理だけで議論しても一般国民の共感は広がらない。共産党や社民党を別にすれば、リベラル系野党も国民感情に配慮して「どっちつかず」の態度をとることが多い。

右寄りメディアがリベラル系野党を批判するときは、まったく逆のことが当てはまる。敗戦後、平和主義や知性が幅を利かせた時代は終わり、リベラル系はメディアも政党も不利な立場に置かれているのが今日の実情である。

米国においても、民主党は知性を尊重する支持者を共和党よりも多く持ち、民主党の議員の間にもその傾向が見受けられる。実際、米国の民主党もトランプのフェイク・ニュース攻勢に対して守勢に回らされている。だが、米国の民主党は、日本のリベラル系野党ほど負け犬根性に支配されていないし、同党を支持するメディアを持っている(後述)。日本に比べれば、状況ままだマシと言ってよい。

日本のメディアの党派性

メディアの方も今や、政治的(党派的)中立性を維持しているかと言えば、微妙なところ情勢となった。「微妙」という言葉を使うのは、今日のメディアがすべからく政治的党派性を帯びている訳ではないからである。

我々は一般的な建前として、「新聞、テレビなどのメディアは政治的に中立・公正である」と無意識のうちに思っている。だが、現実はそうではない。

法規制上、テレビ局は前述の放送法で政治的公平性を要求されている。しかし、社の方針として特定政党を支持していても、当該政党に明白に有利な報道を連日繰り返すのでなければ、法的にはアウトとならない。毎週のように自局の番組に複数政党を出演させ、コメンテーター等が特定政党をヨイショするくらいのことは大目に見られる。

論より証拠、右寄りと言われるフジテレビの報道番組では、解説委員が露骨に安倍を支持したり、野党を叩きまくったりするが、それが放送法第4条違反だということにはなっていない。
一方で、保守系陣営から偏向報道だと批判されることの多いテレビ朝日は、安倍政権を批判する傾向が他局に比べて強いことは確かだが、自民党以外の特定政党(立憲民主党など)を支持しているという事実はない。政権批判はしても、野党にもケチをつける。教科書どおりに政治的中立であろうとしているのか、言ってみれば「おぼっちゃま」のようなテレビ局である。

NHKについては長い間、公共放送であるがゆえに民法とは別次元で政治的(党派的)中立性が求められる、と考えられてきた。しかし、NHKの番組制作に自民党や官邸が介入したらしいことは前述のとおり。安倍政権になってからは、百田尚樹、長谷川三千子、古森重隆から、安倍の家庭教師だった本田勝彦まで、安倍に近い右寄りの人物が経営委員に指名された。同じく安倍人脈の籾井勝人が会長に据えられていたことをはじめ、NHK本体の人事にも官邸の意向が反映されているという指摘は後を絶たない。

新聞になると、そもそも根拠法がないので、放送法第4条のように政治的中立を法的に求められているわけではない。右寄りで知られる産経新聞は2010年に綱領を改定して決定的に右旋回した自民党を明白に支持していると言ってよい。産経ほどではないが、読売、日経も伝統的に自民党寄りだ。
一方、朝日、毎日、東京はリベラル系と位置付けられ、自民党に批判的な論調で知られる。ただし、この3社が民主党政権時代、与党寄りだったかというとそんなことはない。権力(政権)に対して批判的なだけで、特定の政党支持を打ち出してはいない。安倍自民党が政権に返り咲いて以降は、安倍政権を礼賛した時期もあったし、評論家よろしく野党叩きに精を出すことも少なくなかった。日本のメディアは溺れる者は叩くが、強い者にはゴマをする習性があるのだ。

最近はネット・メディアも無視できない。「ネトウヨ」という言葉が示すように、この世界では右寄りの政党が支持される傾向が強い。例えば、ネット・メディアの代表格であるニコニコ動画は安倍応援団として知られている。安倍も選挙戦中の討論番組では、地上波テレビ局を差し置いてニコ動に優先的に出演する。リベラル系でニコ動に匹敵するメディアは存在しない。

世界の民主主義国家を見渡してみても、メディアが特定政党を支持する、というのは別に異常なことではない。むしろ、日本のようにメディアが政治的(党派的)に中立を装っていることのほうが珍しい。米国では、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNが民主党系、FOXは共和党系(と言うよりも最近はトランプ系)などとはっきり色分けされる。大統領選のたびにメディアの多くは自社が支持する候補を明らかにすると言う。

ただし、日本のメディアにおいては、(公言してはいないものの)自民党を明確に支持しているメディアは確かに存在する一方、(政権批判には熱心であっても)リベラル系の政党を本気で応援しているメディアはない。その結果、リベラル系政党は自分たちの主張や反論を伝えるうえでも、どうしても後手にまわる。

戦後、日本では(公明との連立も含めた)自民党一党支配が長期にわたって続き、二大政党制が根付いていないことも関係しているのだろうが、逆に言えば、現代日本政治においてリベラル政党が弱体である理由の一つとなっている。

リベラル陣営は立ち直れるか?

N国の立花がマツコ・デラックスに噛みついた事件は、与党・自民党でなくても政党がメディアを叩ける可能性の一端を垣間見せた。だが、メディアを効果的に叩く点においては、政権の座にあるか否かを別にしても、保守系政党の方がリベラル系政党よりも有利だ。しかも、リベラル系政党は、自民党が持っているような「御用メディア」を持っていない。

これでは、リベラル系野党が夢見る政権交代などまずあり得ない。万一、僥倖に恵まれて政権に就くことができたとしても、民主党政権よろしく短期間で下野することは間違いがない。リベラル系の野党は10年計画を立て、綺麗ごとでないメディア戦術を組み立てる必要があるだろう。

危機意識が足りない点では、リベラル系メディアも五十歩百歩。綺麗ごとを墨守するだけでは、このまま保守政党と右寄り行動派メディアにどんどん包囲され、「報道の自由」も何もあったものではなくなる。いつまで党派的中立性をくそ真面目に守り続けるつもりなのだろう?

リベラル勢力に頑張ってもらいたいとは思うが、楽観的展望は描けない。

自由を振りかざすだけで自由は守れない――「表現の不自由」展の中止に思う

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が中止された。従軍慰安婦をテーマにして韓国人作家が作成した少女像が物議を呼び、右系の人たちからの脅迫や一部政治家の圧力が昂じたため、安全を確保できなくなったためだと言う。

私自身、この少女像を見たいとは思わないし、見ても気持ち悪いとしか思わないに違いない。しかし、だからと言って、人が何かを表現するのを脅迫や圧力でやめさせるようなことがまかり通れば、この国の自由は失われてしまう。企画展が中止に追い込まれたことは言語道断だ。

そのうえで言えば、日本人が自由のために戦う覚悟は、軽い。今、日本や世界を覆う不自由の空気がどれだけ重いかについての認識も、甘い。今回、つくづくそう思った。

今日、表現の自由を奪う力は、ナショナリズムと連合して力を増幅している。我々が教科書で習った「表現の自由」を振りかざすくらいでは、それに対抗することなどできない。芸術家やリベラルな人たちからは怒られるかもしれないが、国民の多数派を味方につける政治的戦略性がなければ、自由はどんどん失われていくだろう。

展示中止に至った顛末

8月1日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が開催された。わずか2日後、同芸術祭実行委員長の大村秀章愛知県知事はその中止を発表する。展示では、昭和天皇をコラージュした版画や「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句など、国内で展示や発表が中止された作品、旭日旗を連想するとして在米韓国人団体から抗議を受けた横尾忠則氏のポスターなど、様々な作品が出品されていたらしい。

その中に韓国人作家が従軍慰安婦をテーマに作成した「平和の少女像」などもあった。これが右翼系の人に限らず、反韓感情を持つ人を刺激した。放火をほのめかすなど、悪質な脅迫が相次いだそうである。菅官房長官や柴山文科大臣は同展への補助金の差し止めを示唆し、ポピュリスト政治家の河村たかし名古屋市長がこれに乗って企画展の中止を声高に求めた。大村知事もこれに抗しきれず、また、危機管理上の懸念も本当に感じたのであろう、企画展の中止を決めたというのが大筋の経過だ。

国民の反応は冷淡

こうした動きに対し、日本ペンクラブは展示の継続を求めて抗議声明を出した。朝日新聞(8月6日付社説:あいち企画展 中止招いた社会の病理)、東京新聞(8月7日付社説:「不自由展」中止 社会の自由への脅迫だ)、毎日新聞(8月6日付社説:「表現の不自由展」中止 許されない暴力的脅しだ)も、やはり報道の自由が失われることに危機感を露にした。

一方、産経新聞(8月7日付主張:愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か)は上記三紙とは異なる調子の社説を掲載。「暴力や脅迫は決して許されない」と形ばかり書いたあと、天皇を題材にした作品や少女像については「ヘイト行為」だと述べ、それは「表現の自由」か、と疑問を呈した。ヘイトに最も親和性の高い新聞らしい社説だが、この説を認めれば、産経新聞が主張する歴史認識は韓国人や中国人にとってはヘイト行為であり、産経新聞の表現の自由も許されない、ということになる。

社説の内容は、朝日などの言い分がまったく正しい。これが20世紀後半のことであれば、世の中は「表現の自由」封殺に対する批判の大合唱となっていただろう。

しかし、現実はどうか。世の中は大きな声をあげようとしない。いや、むしろ、河村や菅、ひいては産経新聞の主張の方が正しい、と感じる国民も決して少なくない。野党を含め、永田町だって、国会閉会中ということを勘案しても、静かなものである。

今回、少女像は展示すべきでなかった

日本国民のほとんどは、表現の自由の重要性を理解していると思う。皆が皆、産経新聞の言説に同意するわけでもあるまい。しかし、今回、少なからぬ国民は、少女像の展示を「表現の自由」の問題ではなく、「ナショナリズム」の問題として捉えた。その結果、「表現の不自由展・その後」は表現の自由を守るために少女像を展示し、表現の自由を後退させた。

それでなくても、経済は停滞、社会の較差も拡大して国民の間には閉塞感が募っているのが日本の現状。そこへもってきて、韓国が日本をナショナリズムの標的にし、日本もとうとう売られた喧嘩を買って韓国にナショナリズムの牙を向けた。日本人が――世界中で見られる傾向かもしれない――少しずつ右傾化(という言葉が不正確なら自国第一主義)の方向に向かっていることは紛れもない事実だ。そして、右も左も無党派も、日本人は韓国が嫌いになった。少なくとも、韓国に「ウンザリ」している人があふれている。

このタイミングで少女像を展示すれば、言論や表現を弾圧する側がナショナリズムを利用し、大手を振って自由に圧力を加えることは、十分に予想できたはずである。

日本人は表現の自由を誰かと戦って勝ち取ったわけでは、基本的にない。敗戦と憲法によって与えられ、教科書で習ってきたにすぎない。だから、ひ弱なインテリが表現の自由を守ろうとして立ち上がるのはよいが、抑圧する側がナショナリズムと組んだら、ひとたまりもない。

理想を曲げることになろうとも、表現の自由を守りたいのであれば、今回は抑圧する側がナショナリズムと手を結びにくいテーマに絞るべきだった。むしろ、表現の自由を守る側がナショナリズムと手を結びやすいテーマを選び、表現の自由に対する国民の共感を得て自由のための橋頭保を築くくらいのしたたかさがあれば、と思う。「少女像」の展示は、そうやって国民の理解を得たうえで、もう少し日韓関係が落ち着いてからにすればよかった。(天皇を題材にした作品については、右系の人が騒いでも国民的な広がりを持つことはなかったであろう。今回、外すべきだったとは考えない。)

ここからは余談の部類を少し。
今回、芸術祭の主宰者や愛知県知事はわずか三日で展示の中止を決めた。もちろん、当事者にしかわからない恐怖や責任感もあったとは思う。だがそれにしても、「あっけなかった」というのが正直な感想だ。私の奥方も、「こんなもん出す以上、脅迫がくることは誰だって想定できたでしょう? 根性もないのにやって腰砕けだね」と首をかしげていた。

だがその一方で、実行委員会のメンバーが大村知事に公開質問状を出し、展示の再開を求めている模様だ。まあ、彼らにしてみれば、「大村や津田大介(芸術監督)はひよったが、我々は教科書に書いてあるとおりに正しい」と言いたいんだろう。とにかく正論にこだわるかと思えば、政治的に味方になるはずの人も公開の場で批判する。だから、日本のリベラルは駄目なんだ、と思わざるを得ない。正論を吐くがひ弱、というのは朝日の社説を読んでも思った。

 

今回、私が書いたことは、正論としては明らかに間違いだ。表現の自由は、それが犯罪行為にでもつながらない限り、絶対的に守られるべきものである。政治的な理由から韓国絡みの表現の自由をことさら目立たせるべきではない、という主張は、本来、表現の自由とは相いれない。

しかし、戦前を含め、純粋な正義が負けた例は歴史上、いくらでもある。戦前は、自由のために命をかけて戦っても、政府から弾圧され続け、戦争に負けるまで自由を得ることはできなかった。今の世の中、戦前と違うのは、国民を味方につけた方が勝つ、ということ。

だが逆に、正論だけ振りかざしても、国民を味方につけられなければ、自由は失われる。憲法で文字上、自由が保障されていても、自由が自動的に守られるわけではない。その主張がどんなに正しくても、国民が共感しなければ、国民は知らず知らずのうちに自由に背を向ける。

そう、国民は、自由にとって味方にも敵にもなる。自由を守りたければ、時には回り道も必要だ。

 

追伸:今日、吉村洋文大阪府知事が少女像などの提示を「反日プロパガンダ」と呼び、「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」「(大村氏は)知事として不適格じゃないか」とまで言ったらしい。この人、松井一郎大阪知事が変なことを言うとオウム返しで変なことを増幅して言うことが多い。

大村知事にどこまでの覚悟があったかは別にして、表現の自由の問題提起をすることに公金を使うのに、何の問題があるというのだ? 政府が補助金を出したくない、というのなら、勝手にすればよい。だが、大阪知事風情が便乗してこんなことを言うなんて、維新のポピュリスト政党的ないやらしさが全面に出ている。

政治戦略上の理由から少女像は展示すべきではなかった、と私は本ブログで述べた。しかし、松井や吉村がここまで言う以上、ガツンと反論しておかないと言論抑圧とナショナリズムの悪い結合が進みすぎてしまう。野党の国会議員も黙っていないで少しは大村知事に加勢してやったらどうだ? 立憲民主と国民民主は国会で統一会派とか言っているらしいが、あんまり国民に嫌われるのを怖がって沈黙していると、支持率で維新に抜かれる日が来るんじゃないのか。