秋篠宮さまの大嘗祭発言

先月30日に秋篠宮さまが53歳になられ、事前に収録された記者会見の様子が公開された。その際、秋篠宮は来年予定されている大嘗祭について「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と述べられた。皇族が政府の決定を公の席で批判することは極めて異例であったため、物議を醸している。

直接的な論点は二つ。大嘗祭の宗教性と皇室の政治的発言だ。

秋篠宮の問題提起=大嘗祭の宗教性

最初に秋篠宮発言を聞いたとき、「虚を突かれた」思いがした。象徴天皇制がすっかり定着したせいか、昨今の日本社会の保守化が影響しているのか、大嘗祭への国費支出について騒ぐのは、今や共産党やいわゆる左派系の人たちの一部くらいだ。大嘗祭を含め、代替わりの儀式が公費で賄われることに私は疑問を抱いていなかった。

憲法第20条は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。天皇家の行事――特に、皇室典範等による既定のない行事――に宗教的色彩が強いことは否定できないため、大嘗祭への公費支出は控えるべきではないのか、というのが秋篠宮の問題提起である。

これに対して政府は、天皇制が世襲であることから、大嘗祭には公的性格があると考え、宮廷費からの支出に問題はない、と整理してきた。しかし、憲法学者の一部を含め、政府の見解に疑義を示す声もあり、議論は完全な決着を見るに至っていない。

秋篠宮発言は、我々が見て見ぬふりをしてきた「曖昧な決着(未決着)」を白日の下にさらした。しかも、秋篠宮が言うように内廷会計を充てれば、質素倹約になる。世間の受け止めは決して悪くない。秋篠宮発言を表だって批判しているのは、伝統的な天皇制護持を信奉する右翼勢力など一部にとどまっている。

イスラエルやイランのような政教一致国家は特別としても、米国ではトランプ政権と福音派の蜜月、日本では公明党の政権参加など、今日の民主主義国家では政治と宗教の癒着が進行している。秋篠宮の問題提起はこのトレンドに逆行し、政治と宗教の分離を貫こうとするものである。そのこと自体、私には新鮮な驚きであった。

しかし、批判された宮内庁をはじめ、政府は秋篠宮発言に内心、不快感を持っている。安倍総理も秋篠宮の問題提起を無視するつもりに違いない。自公はもちろん、野党もこの問題に深入りする気配は見せていない。世間も程なく、この問題を忘れ去り、次の代替わりの時まで思い出すことはなさそうだ。秋篠宮が投じた一石の波紋は短命に終わるであろう。

秋篠宮発言の政治性

秋篠宮発言には、もう一つ、憲法に抵触しかねない問題があった。秋篠宮が政府の決定を批判したという行為そのものが、天皇(皇室)による政治的影響力の行使とみなされ得る、ということだ。

政府は、秋篠宮発言について「既に閣議で口頭了解されている事項について、記者からの質問に対して、あくまでも殿下ご自身のお考えを述べられたものである」(11月30日、西村官房副長官)と捉え、コメントを控える――と言うことは、黙殺する、という意味でもある――としている。要するに、①秋篠宮発言が記者からの質問に答えたものであり、②政府の方針は既に決まっていたことから、秋篠宮発言に憲法上の問題はない、というロジックなのだろう。しかし、こんなものはロジックとは呼べない。

まず、自ら口火を切らず、質問に答える形ならよいのか。そんな言い草が通れば、何でも喋ってよいことになる。しかも、秋篠宮さまの場合にどうだったかは知らないが、記者会見で記者に特定の質問を仕込んでおくことは、少なくとも永田町では日常的に行われている。

次に、閣議等で既に決定がなされたことに個人的見解を述べても問題ない、と見逃すのであれば、ザルもいいところだ。例えば、2016年3月から施行されている安全保障法制について、天皇陛下や皇太子殿下、秋篠宮さまなどが、記者の質問に答えるかたちで「個人的見解」と断って「賛成」または「反対」を表明してもよいことになる。外国人労働者受け入れ拡大法案(出入国管理法改正案)に至っては、国会で審議中の今現在、賛否を表明することは不可、しかし、来週になれば法案が成立しているから可、という訳のわからないことになる。

秋篠宮発言は、政治性を問われる可能性があることを承知したうえでなされたものだと思う。そのうえで、自身の発言が憲法に抵触する政治的発言ではないことについて、秋篠宮は政府とは別のロジックを心中に用意されていたと推察する。

大嘗祭を含め、代替わりの儀式は、それが宗教性を持つか否か、公的な性格を持つか否かにかかわらず、天皇家の行事である。それは誰も否定できない。自らが属する天皇家の行事について当事者として意見を述べたというのであれば、秋篠宮発言は政治的なものではない、と主張する余地が生まれよう。

今回、興味深かったのは、秋篠宮の発言を政治的なものだとして問題視するかどうかが、発言の内容をどう受け止めるかに大きく左右されていたことだ。伝統的な天皇制の復活に向け、国家による関与を増大させたいと考える右翼の一部は、秋篠宮の発言は間違った政治的発言にほかならない、と考えた。一方で、大嘗祭への公費支出を憲法上問題があると主張してきた左派系の一部には、秋篠宮発言の持つ政治的要素にあまり目くじらを立てない傾向が見て取れた。

これはもちろん、ご都合主義もいいところだ。仮に秋篠宮が政府による大嘗祭への支出の増額を要求していれば、どうだったのだ? 右翼は「そうだ、そうだ」と叫びまくり、左派は「皇室の政治発言は絶対に許されない」と抗議しただろう。皇室が発言された内容によってそれを政治的発言とみなすかどうかが変わるなど、あってはならない。

本日3日の会見で宮内庁の西村次長は、秋篠宮さまが「(自身の考えに宮内庁が)聞く耳を持たなかった」と発言されたことについて、「閣議で了解された事項への反対をなさっているものではなく、宮内庁に対するご叱責と受け止めている」と述べたそうだ。閣議了解への反対なら政治的発言となり得るが、宮内庁を叱ったのであれば違いますね、と言いたいらしい。

宮内庁は秋篠宮発言の政治性を指摘する声から秋篠宮を守ろうとしているのか?
それとも、大嘗祭の宗教性を問題提起した秋篠宮を無視しようとしているのか?
おそらく両方なのであろう。

皇室の政治的な発言はどこまで許されるのか?

私は、天皇及び皇室がいかなる政治的発言をも慎むべきだとは思わない。

例えば、一昨年8月、天皇陛下が事実上退位の希望を述べられたのは、紛れなく政治的な発言だった。ただし、陛下は「天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たこと」を伝え、「国民の理解を得られることを切に願」うと締め括られた。陛下の希望を受け入れるかどうかや、退位にかかる具体的な取り決めは、国民(国会)に委ねられており、許容されるべき政治的発言だったと考える。

もちろん、天皇の地位に鑑みれば、自らの考えを示すこと自体、政治的な意味合いを持つという意見もあるだろう。確かに、国会で審議する法案について天皇が自らの所感を述べるのであれば、考えを述べただけでもアウトだ。

しかし、日本国の象徴として天皇の地位に就くことができるのは只一人、明仁殿下のみ。にもかかわらず、天皇が80歳を超えても激務を続けなければならないというのは、皇室典範の制定当時には想定されなかった事態である。その「不備」を放置したまま、明仁殿下を天皇の地位に縛り付けておこうとしてきたことは、政府と国会の不正義であった。そんな状況の下で天皇陛下が自らの考え(退位の希望)を国民に伝えても、誰が咎められようか?

事実上、退位のご希望を述べられた天皇陛下に対して、(一部の教条的な右翼を除けば)大多数の国民が共感を寄せた。陛下の高齢と健康状態という客観状況に加え、天皇でなければ全国民誰もが職業選択の自由を持つ中、いつ辞めるかさえ自分で決められないのはおかしい、というのが一般的な受け止めだったと思う。

国民が支持すれば皇室は政治的発言をしてもよい、と言うわけでは全くない。だが、この時の天皇陛下のお言葉は、実に計算され尽くされていたと改めて思わざるをえない。専門家を交え、相当入念に準備されたのに違いない。

翻って、今回の秋篠宮発言は許容できるものなのか? 率直に言って、天皇退位発言に比べて許容度はずっと低い。天皇家の行事に対して秋篠宮が天皇家の一員として意見を述べたのだとしても、皇室行事への政府支出というトピック自体、より一般政治領域に近いテーマであることは否定できない。

今回、秋篠宮発言は大嘗祭への国費支出に批判的な意見だったため、その政治性がカモフラージュされている部分がある。だが、発言内容が大嘗祭への国費支出拡大を主張するものであったなら、政治色は明らかだ。私としては、秋篠宮発言を許容すべきとは言いにくい。

天皇陛下の退位発言は、安倍総理を含めた政府の重い腰を上げさせることに成功した。これに対し、大嘗祭についての秋篠宮発言は政府の行動に何の影響を与えることもないだろう。何のためにわざわざ発言されたのかも不明だ。どれほど周到に準備された言動だったのか、疑問が残る。