海兵隊に頼る以外の選択肢~辺野古土砂投入に思う④

SACO合意(1996年)の頃には、在沖海兵隊の能力を維持することによって抑止力も維持される、という論理が成り立っていた。だが今日の安全保障環境の下では、いくら在沖海兵隊の能力を維持しても日本に対する侵略の抑止にはさほど役立たない。にもかかわらず、「日米間の約束事だから」という理由で日本政府が22年前の計画を完遂させようとひた走っているのはどうしたことか。間違った道をどんなに走っても、良くて徒労に終わり、悪ければ崖から落ちることになる。

四回シリーズの最後にあたる本ポストでは、海兵隊の海外移転という鳩山内閣よりもぶっ飛んだ提案を行う。ただし、左系の人たちと異なり、日本の自主防衛能力強化とのセットを条件とする。

発想の転換

過去20年余りの間、軍事の世界では情報技術と融合した兵器体系の革新が進み、戦域はサイバーや宇宙空間に広がった。その結果、遠く離れた場所からピンポイントでミサイル攻撃を行うことが可能なミサイル新時代が到来している。

人民解放軍は軍備の近代化を進めて自衛隊を質量ともに凌駕するに至り、その軍事能力は世界最強の米軍も真剣に憂慮せざるをえない水準に達した。北朝鮮についても、総合的な軍事能力こそ遅れているものの、核ミサイルの開発・配備によって「窮鼠猫を噛み殺す」事態を懸念しなければならなくなった。

このような新しい状況下では、前回見たとおり、これまで期待してきたほどの抑止力を在沖海兵隊に期待することはできない。日本にとって最も懸念される尖閣有事についても、海兵隊をはじめ、在日米軍が自衛隊と一緒に前線で戦ってくれる可能性は必ずしも高くない。

安倍総理や菅官房長官たちには、そのことが見えていないようだ。それどころか、「中国の脅威がますます募る中、在沖海兵隊という軍事力を沖縄に維持することが日本の安全保障にとってプラスになる」と信じこんでいるように見える。「軍隊がいれば安心、いなくなれば不安」という心理は人間の心に馴染みやすい。しかし、それに囚われて思考停止しているようでは、両人とも並みの政治家にすぎない。

では、どうすべきなのか? 決まっている。米軍があてにならないのなら、自助努力しかないではないか!

自前の抑止力に現実味が出てきた~22年前とのもう一つの違い

こういう発想がこれまで出てこなかったのも、やはりSACO合意の呪縛と言うべきだろう。戦後日本は憲法9条の下で専守防衛に徹することを国是とし、日米同盟は「米軍が矛、自衛隊が盾」の役割分担である、と考えてきた。SACO合意(1996年)やロードマップ(2006年)もその前提で在日米軍の再編計画を組み立てた。

相手の攻撃を抑止するためには、「攻めてきたらお前も痛い目にあうぞ」という脅しが効くことが必要だ。しかし、日本は戦後、憲法上の制約から海外派兵を禁止してきたうえ、能力的にも相手の領域を攻撃できるような兵器体系を持っていなかった。そこで、相手を攻める「矛」の役割は米軍が果たし、自衛隊は主に日本の領土内で防衛にあたる、すなわち「盾」の役割を果たす、という役割分担ができあがったのである。

この役割分担が不動である限り、普天間飛行場返還の条件である「抑止力維持」を満たすためには、米海兵隊の維持(=県内への飛行場の引っ越し)以外の結論はありえない。SACO合意の時もまさにそうだった。しかし、今は事情が随分変わってきている。

1992年に国際平和協力法が成立。以来、自衛隊は27の国連平和維持活動(PKO)に派遣された。その中には、南スーダンのように国際常識的には戦地とみなされる場所も含まれている。自衛隊派遣の実績は国連以外の枠組みでも積みあがってきた。2001年のテロ特措法によってインド洋上に、2003年のイラク特措法によってサマワに、それぞれ自衛隊が派遣されている。この間、一人も殺さず、一人も殺されていないとは言え、「戦わない軍隊」と呼ばれた自衛隊が着々と実戦経験を積んできたことは否定できない事実だ。2015年9月には安保法制が成立し、翌年3月から施行された。集団的自衛権行使の容認ばかりが注目されがちだが、これによって特別措置法をいちいち成立させる必要がなくなり、自衛隊海外派遣のハードルが下がったことの意味も非常に大きい。

自衛隊は、その兵器体系の面でも「矛」の要素を徐々に持ちはじめている。先月閣議決定した最新の防衛大綱では、事実上の空母――「多用途運用護衛艦」と呼ぶんだそうである――運用を打ち出した。ステルス性能の高いF-35Bを艦載すると言うから、南西方面での作戦能力は確実に向上するだろう。中国に逆転されていた航空戦力面でも、新型戦闘機F-35の配備予定数を従来の42機から約100機上積みした。さらに、スタンド・オフ・ミサイルの保有。ノルウェー製の対艦・対地ミサイル「JSM」は射程約500 km、米国製の対艦ミサイル「LRASM」と対地用ミサイル「JASSM」の射程は約900 kmだと言う。後者であれば、日本の領土内から撃って北朝鮮の全域に届き、沖縄から撃てば上海も射程に収めることになる。防衛省はそんな運用の仕方はしないと言っているが、少なくとも自衛隊がそれだけの能力を持つようになる、ということは紛れもない事実である。

二十数年前と比べれば、日本(自衛隊)は明らかに矛の役割を果たせるようになってきたと言える。もちろん、自衛隊に広大な中国本土を叩くことは不可能だ。(そんなことをすれば、大規模ミサイル攻撃が日本を襲うことになりかねない。)しかし、尖閣有事の際に中国側に大きな打撃を与えることは、自衛隊の能力増強とやり方次第によっては、十分に可能だろう。前回述べたように、中国が尖閣侵攻を企てるとすれば、局地戦を想定する可能性が高い。そこで手痛い反撃を受けると思わせるだけの能力を自衛隊が身につければ、自前で抑止力を向上させる芽が出てこよう。

自前の防衛力強化と辺野古埋め立ては両立しない

自前の防衛力を強化するためには、言うまでもなく、カネがかかる。F-35を1機購入するのに100億円かかるとして、100機の追加購入だけでも単純計算で1兆円かかる。潜水艦を含め、ほかにも欲しい装備はいくらでもある。

日本の財政事情は22年前よりも一層悪化し、最近も好転の兆しを見せない。アベノミクスとやらが成功した(?)はずなのに、日本経済は今後も低成長が続くと誰もが予想している。一方で、少子高齢化に歯止めがかからず、社会保障費はまだ増え続けることが確実だ。増加する防衛費を捻出するための打ち出の小槌はどこにもない――。この状況下では、自前の防衛力強化と辺野古代替施設の建設を同時に追求することが矛盾をはらんでいることは火を見るよりも明らかだ。

辺野古の代替施設建設にかかる経費は、当初3,500億円程度と言われていた。だが、日本の公共工事が当初予算どおりで完成するわけがない。沖縄県は総工費を2兆5,500憶円――積算根拠は大雑把だが、結果的に大きくはずれてはいないだろう――と見積もる

これだけの巨額の金を注ぎ込んで辺野古に新飛行場をつくった挙句、海兵隊の提供する抑止力は低下し続け、本当に尖閣有事が起こった時に海兵隊が投入されるかどうか定かではない。何ともやりきれない話だ。

工費が仮に2兆円として、それだけあれば、自前の防衛力整備をどれだけ進めることができることか。兵器体系にお金を使えば、我が国の防衛力は確実に向上する。だが、海に土砂を投入しても、業者にカネを落とすだけ。日本政府、政治家、知識人たちには、こんな至極単純な現実がどうして見えないのか?

米軍に頼る以外の選択肢=海兵隊の海外移転と日本の自助努力

一月ほど前、テレビで辺野古に土砂を投入するダンプカーとブルドーザーの映像を見て何となく書き始めたこの論考。普天間・辺野古問題について私の提案を以下に述べ、ひとまず筆をおくことにする。

普天間の危険性の除去と抑止力の確保を両立させることを目的としている点において、私の提案は22年前のSACO合意と同じだ。ただし、普天間の危険性の除去は普天間飛行場の県内移設ではなく、在沖海兵隊全体の海外移駐による。抑止力の確保は在沖海兵隊の維持ではなく、日本の自前の防衛力増強によって実現する。提案は3つの柱からなる。

辺野古埋め立てを含む移設工事を中止し、自前の防衛力増強を進める

過ちては即ち改めるに憚ることなかれ。工事は日本政府が行い、費用も日本政府が持っているのだから、日本政府の決定によって工事は速やかに中止すべきだ。工事が進めば進むほど、政治的にも財政的にも引き返せなくなる。辺野古が八っ場ダムの二の舞になれば、悲劇だ。

同時に、工事中止で浮く費用を防衛予算の増額に回す。必要とあらば、ディールの一環として、米国からの武器調達を増やすことも考慮してよい。

短期的には、普天間飛行場へのクリア・ゾーン導入を米国に求める

辺野古につくられる新滑走路の長さは1,800メートル以下。そこで、現在2,740メートルある普天間飛行場滑走路の両端を短縮し、その短縮分と基地の敷地を利用してクリアゾーン(CZ)を導入する。(ただし、米国国内のCZ基準をそのまま当てはめると周辺住宅の立ち退き等の問題も出かねないため、普天間周辺の実情に合わせて柔軟に考える必要がある。)基本的には工事も不要のはず。
普天間に飛行場が残る限り、危険性はゼロにはならない。だが、普天間の危険性は確実に(かつ直ちに)減少する。ちなみにこれは、伊波洋一(現参議院議員)が宜野湾市長だった時に主張していたアイデアである。

在沖海兵隊について、10年後の海外移設を米国に要求する

県外であれ、県内であれ、今日の安全保障環境下で海兵隊を日本国内に置いておくことの意義は低下している。海兵隊の一体運用性を考慮すれば、普天間飛行場だけを切り離して県外(本土)や海外に移設するという選択肢はない。したがって、米国に求めるのは海兵隊全体の海外移設、ということになる。有事の際に海兵隊が来援できるよう、最低限の施設は(返還を求めずに)残しておくことは一考に値いしよう。
グアムか、ハワイか、オーストラリアか、米本土かなど、在沖海兵隊をどこに移設するかは米国が決めることだ。日本が関知する必要はない。
もちろん、上記の要求に米国が不快感を示す可能性は小さくない。いや、米国は間違いなく日本の約束違反を責め、民主党政権時代のように日米関係が悪化することも十分に考えられる。それでなくても、人間の感情として、「出て行け」と言われればいい気はしない。しかも、既に述べたとおり、米国にとって沖縄には海兵隊がグローバル展開する際の拠点としての重要な価値が今もあるのだ。
だが、我々も背に腹は代えられない。「約束を違えても自らの考える国益に正直であれ」と教えたのはトランプ大統領である。このまま、抑止力が落ちた海兵隊の引っ越しに兆円単位の金を費やすほど、今日の日本には余裕がない。中国は経済力のみならず、軍事力でも日本を追い越し、戦略的な膨張を続けている。北朝鮮の核・ミサイル問題は日本にとって何一つ解決しておらず、韓国との関係も冷却の一途を辿っている。抑止力の観点から費用対効果の低い海兵隊の引っ越しをとりやめ、その予算を自前の防衛力強化に回さないと、我が国の安全保障は本当に立ち行かなくなる。
中国が精密誘導ミサイルを実戦配備するに至った今日、沖縄という中国の近場にある、埋め立てられて固定された基地(=辺野古飛行場)は有事に際して脆弱なことこのうえない。日本近辺の守りについては自衛隊の役割を増やす一方、在沖海兵隊は狙われやすい沖縄から離れ、有事の際にのみ来援する、という戦略は米国にとっても検討の余地は十分にあると考えてもよい。

 

 

いわゆるリベラル系の人たちにとって私の議論は、安倍政権の推し進める辺野古埋立て以上に危険な考えと映るかもしれない。しかし、中国の平和的とは言えない台頭が続く限り、「米軍は出て行け、日本が防衛努力を増やす必要はない」というユートピア的な主張を唱えたところで、SACO合意やロードマップの代案とはならない。結果的に辺野古の埋め立てが止まることもない。

沖縄であれ、本土であれ、政治的にリベラルでない人たちはここらで発想を変え、自主防衛と海兵隊撤退をセットで政府与党に突きつけてやってはどうか? あとは覚悟の問題だ。

辺野古土砂投入に思う~政治編

12月14日、政府は辺野古埋め立ての土砂投入を開始した。10月8日のポストで、辺野古の埋め立て阻止は茨の道だと書いたが、事態はまさにその通りに進行している。
ダンプカーが土砂を運び、ブルドーザーがそれを辺野古の海に向けて落とすニュース映像を見てから1週間。この間に思ったことがあるので、今回は政治の視点、次回は軍事戦略の視点で書き留めておきたい。

沖縄の民意を無視しても許される政治 

何とあっけないことか――。辺野古土砂投入の報に接して最初に持った感想である。かつては、沖縄の民意が辺野古の埋め立てに反対しているのに土砂投入を強行するなど、政治の常識として考えられないことだった。それがどうだ? 今や、政府が沖縄の民意を無視することは当たり前のように行われる時代となってしまった。

普天間飛行場の代替基地は辺野古を埋め立てて建設する、という現行案は2006年5月の「日米ロードマップ」で決まった。その後、沖縄県が容認しない限り、政府は埋め立て工事を強行することはできない、と長らく考えられていた。

一つは技術的な理由。埋め立てには県知事の承認が必要。仲井眞弘多知事(当時)の本音は埋め立て賛成だったが、県内世論を慮って承認に踏み切れない状態が続いた。

もう一つは政治的な理由。小選挙区制の導入や参議院での与野党逆転により、政権交代の可能性が常に現実のものと考えられていた時代。沖縄の民意を無視して埋め立てを強行すれば、時の政権は沖縄のみならず全国的な世論の批判を受け、立っていられなくなるとほとんどすべての政治家が信じていた。

前者については、2013年12月に仲井眞がついに埋め立てを承認し、一時的にクリアされた。だが、その1年後に翁長雄志(故人)が仲井眞を大差で破って知事になると沖縄県(知事)は辺野古の埋め立て反対に立ち戻った。その姿勢は現在の玉城デニー知事にも受け継がれている。

沖縄の民意を考えれば、仲井眞の退場によって辺野古の基地建設は再び停滞してもおかしくなかった。だが、安倍政権は違った。沖縄防衛局が埋め立て着工に向けて調査や準備を進めたのに対し、翁長は何度も執行停止をかけたが、政府は行政不服審査請求を行って沖縄県による執行停止を次々と無効にした。去る9月、沖縄県がついに埋め立て承認を撤回した際も同様の措置がとられた。先週の土砂流入はこの時点でもう既定路線になっていた。

沖縄の民意を無視できる理由

なぜ、安倍政権はここまで沖縄の民意――すべての沖縄県民が辺野古基地建設に反対しているわけではないが――を無視できるのか? 菅官房長官や安倍総理に言わせれば、普天間飛行場の危険性除去のためには、不退転の覚悟で辺野古基地建設に邁進するしかない、ということになるのだろう。だが、その説明は綺麗ごとにすぎる。

安倍政権の愚民思考

安倍政権の根っこには、「既成事実を作れば、沖縄は諦め、最後は従う」という考えがある。安保法制の時も、「法案を成立させてしまえば、今は反対している国民もやがては受け入れる」と考えていた。長いものに巻かれやすい日本人の国民性を見越した、一種の愚民思考とも言える。

安倍たちの思惑どおり進んでいる部分のあることは、残念ながら否定できない。フランスではマクロン政権による燃料税引き上げへの反発から1か月以上もデモが続き、一部は暴徒化してマクロン大統領も譲歩を余儀なくされた。日本では安保闘争以来、そんな激しい抗議活動は起きていない。

本土の無関心

12月14日の土砂投入は、沖縄県民が何度も示してきた民意を決定的に裏切る行為だ。しかし、本土のメディアは比較的冷静にそのニュースを伝えていたように思う。あれからまだ1週間も経っていないが、新聞やテレビが土砂投入の現状を詳しく報道することは(私が知らないだけかもしれないが)早くもなくなっている。

野党も概して「ぬるい」対応だった。立憲民主党と国民民主党は、記者会見で憤りを表明したが、「来年2月の住民投票の結果を待て」というニュアンスの弱い反対姿勢。共産党は緊急街宣、社民党は党声明で反対を訴えたが、維新の党や希望の党のホームページには何も載っていない。

沖縄の沈黙

 辺野古土砂投入に対する沖縄県内の反応でさえ、私個人の印象では比較的穏やかなものに見える。それは沖縄県民の絶望の裏返しかもしれないのだが、本土の人たちが沖縄の基地問題をニンビー(Not In My Backyard)とみなす傾向に拍車をかけていることも事実だ。

安倍一強

国会の政治状況も安倍に味方している。与野党が国会で伯仲状況にあったり、次の選挙で衆議院の過半数割れを危惧せざるをえない状況だったりすれば、政府が行政不服審査請求を行って沖縄県の権限を無効にするという無理筋のやり方を繰り返すことなど論外だったはず。しかし、自民党が国会で圧倒的な多数を占め続け、野党は魅力に乏しいうえにバラバラ、自民党内にも安倍の有望なライバルが見当たらないという状況が続いているため、安倍は沖縄問題で世論の反発に鈍感でいられる。現在、沖縄における自民党の国会議員は3名――衆議院選挙区1名、比例復活2名。参議院議員はいない――のみ。仮にゼロになっても、安倍一強はびくともしない。

全国レベルの世論調査では、辺野古土砂投入について反対が5割弱から6割、賛成が3割前後といったところ。だが、この5割弱から6割の反対意見の持ち主は、フランスのようにデモを行うわけでもなければ、次の選挙で非自公候補に投票するわけでもない。その意味で世論調査が示す数字は、安倍にとって痛くも痒くもないだろう。

政治的タブーのない政治へ向かう

かくして、安倍は沖縄県の意向にお構いなく、埋め立てを強行できる状況が続いている。それが止まる兆候はまったく見られない。

トランプが登場して非常識と思われる公約を打ち上げた時、「そんなこと、できるわけがない」と多くの人が思った。今や、トランプの「変な政策」が実行されても、我々はいちいち驚かなくなっている。だが日本でも、トランプ大統領が登場するよりも前から徐々に同じことが起こりつつあったのだ。12月14日の土砂投入を目の当たりにした国民の多くも、「ついに来たか」という醒めた感覚だったと思う。

政治的に正しいかどうかの常識が日本でも崩れてきた――。辺野古に土砂を流し込んだダンプカーとブルドーザーはそのことを象徴していた。そして、納得のいかない政策は沖縄県民だけに降りかかるわけではない。
安保法制が制定される過程で、憲法改正ではなく、解釈変更で集団的自衛権の行使を容認するという滅茶苦茶がまかり通ったことはまだ記憶に新しい。イージス・アショアの導入をめぐっては、秋田県や山口県の人たちは、今の沖縄県とよく似た立場に追い込まれるだろう。

この政治潮流を我々は押しとどめることができるか? おそらく呑みこまれてしまう可能性の方が高いのだろう。