皇室の政治的発言は今後増えていく

政治的色彩を帯びた発言を皇室が行うことは、先日の秋篠宮で打ち止めになることはない――。口に出してこそ言わないが、誰もが内心そう思っているのではないか。それはおそらく正しい。

前回のポストで、秋篠宮さまの大嘗祭発言についてややネガティブな意見を書いた。一方で私は、この種の発言が将来的に増加することは避けられない、と諦観している。

来年の代替わりを経て、皇室が国民とのコミュニケーションをより活発化させ、情報発信を増やしていくことは当然の流れ。それに伴い、天皇及び天皇家(の行事)に関わる件については、皇室が自らの意見を今まで以上に述べられるようになることも必然であろう。一般的な政治・政策課題について意見や感想を述べることですら、まったく想定できない事態ではない。

私がそう考える理由や背景は、大きく言って四つ。順に説明してみたい。

情報化の進展

時代の変化と言うべきか。情報化が著しく進んだ今日、政治の世界を含めて日本社会はかつてないほどオープンになった。皇室だけがこの波から逃れられるはずもない。
    戦前は天皇の肉声を国民(臣民)が聞くことさえ憚られた。終戦時の玉音放送も天皇が自由に流したものではない。受け手の国民にとっても、非常に聞き取りづらいものだった。
    戦後、テレビの時代になり、皇族の様子は普通にお茶の間に流されるようになった。テレビや雑誌が皇族のニュースを芸能ネタのように取り扱うような風潮さえ生まれている。それでも、生放送に出演しない限り、皇族の声がリアルタイムで流れることはなかったし、出演の頻度自体も限られていた。しかし、今上天皇が事実上の退位を要請された生中継はインパクトを与えた。テーマの重さのみならず、天皇が(政府を通り越して)国民に直接、リアルタイムで語りかけたことは、皇室と国民との間のコミュニケーションのあり方に大きな一石を投じたと言える。
    今や、インターネットやSNSの時代になった。その気になればリアルタイム、ノーチェックでの発信は簡単にできる。アメリカ大統領でさえ、実に軽々しく肉声を文字にして送信するあり様だ。近い将来、天皇陛下や皇太嗣殿下、あるいは皇族の方々がトランプのような形でツイッターを使われるようになることも、全く想定されない話ではない。少なくとも、どなたかが意志を持って始められたら、止めようがないだろう。

世代(価値観)の変化

  30年を一世代とすれば、次の天皇や皇太嗣は今上天皇よりも一世代、昭和天皇よりも二世代以上もお若い。皇室のあり方に対する浩宮や秋篠宮の考え方が先代や先々代と同じ、ということはありえない。
  現在の皇太子殿下は1960年(昭和35年)生まれ、秋篠宮殿下は1965年(昭和40年)生まれ。「もはや戦後ではない」時代のさらに後、ということになる。これに対し、昭和天皇は1901年(明治34年)、今上天皇は1933年(昭和8年)と戦前のお生まれである。ただし、戦後の昭和天皇と今上天皇は、戦後民主主義の何たるかを(政治家以上に)深く理解されていた。民主主義国家・日本における象徴天皇のあり方を模索、実践されるという点において、天皇家の四人の方々に違いはない。だが、模索と実践の中身は変わり得る。
   昭和天皇と今上天皇は、象徴として、政治にかかわることに非常な謙抑的な態度を取られた。終戦直後を別にすれば、昭和天皇が政治的な発言を行うことは基本的になかった。今上天皇が事実上の退位を表明されたのも、やむにやまれぬ例外的な判断だったと思われる。
    戦後生まれの浩宮と秋篠宮は、皇室と国民の間のコミュニケーションのあり方について、もっと積極的な姿勢をとるのではないか。情報公開を重んじ、象徴天皇であっても――あるいは、象徴天皇であるが故に――自らの考えをもっと率直に国民に伝えるべきだと考えられる可能性は十分にある。

秋篠宮という個性

    皇室情報の対外発信について、皇太嗣になる予定の秋篠宮は特に積極的になりそうだ。
    浩宮と秋篠宮は5歳しか違わないが、お二人は同一人格ではない。浩宮は皇太子として育てられ、天皇になるべく教育されてきた。したがって、ご自身の考えを国民に伝えることについても、昭和天皇や今上天皇のような謙抑的姿勢をある程度は引き継がれるだろう。皇太子時代の浩宮の発言からも、そうした慎重さは窺える。
    一方、二男の秋篠宮は皇太子でない分、比較的自由に育てられた。言動も浩宮に比べて奔放なところがある。代替わりに伴って皇太子と呼称されることに難色を示した結果、皇太嗣になったとも言われている。ご自身の考えに対する「こだわり」も強いように見える。

政府の優柔不断

    政府が天皇または皇室の発言を政治的なものと公式に断ずれば、天皇や皇室の動きは封じられる。だが、大きな政治問題を引き起こすため、政府としては否定的なコメントを発しにくいのが実情だ。
    今上天皇の事実上の退位要請も政治的発言以外の何ものでもなかったが、政府はそれを認めなかった。今回の大嘗祭に関する秋篠宮発言についても、政府は(少なくとも公式には)明確な反応を示していない。秋篠宮発言を「黙殺」したとも言えるが、裏を返せば、「お咎めなし」の扱いとも受け取れる。これでは有効な「規制」ないしは「圧力」となるまい。
    皇室が記者会見で話す内容を(宮内庁が事前に把握することはできても)政府が検閲できるわけではない。秋篠宮発言は収録されたものだったが、そのまま公開された。天皇や皇室の政治的発言をチェックする機能は、煎じ詰めれば皇室サイドの自主規制に委ねられているということ。今後、皇室サイドが意図的に政治的発言をしようと思えば、意味をなさなくなる。

皇室の政治的発言は本当に禁止されているのか?

    ここで少し横道に逸れ、皇室の政治的発言は本当に許されないのか、という「そもそも論」について考えてみたい。 
    憲法第4条には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とある。ここから、天皇が政治的発言を行うことは認められない、と一般的にも考えられてきた。
    ただし、皇位の継承や皇室のあり方など、「天皇家の問題」という側面を持つテーマについては、天皇や皇族の自律権が(程度はともかくとして)認められるべき、という学説もある。いずれにせよ、この点についての本格的な議論は行われてこなかったし、政府も明確な見解は示していない。
    天皇家の問題か否かに限らず、天皇が政治に関して何らかの発言をすれば、それで即、国政に関する機能を発揮したことになるのか、と疑問を呈することもできる。天皇が意見を表明しても、政府がそれを無視すれば、少なくとも結果としては政治的影響力が発揮されたことにならない、というわけだ。
    今回の秋篠宮発言についても、「政府が大嘗祭への公費支出を見直せば、秋篠宮が(発言が政府に影響を与えたという意味で)政治的発言を行ったことになる」という意見が政府内にあったと言う。秋篠宮の意見を黙殺するための方便だったとは思うが、この考え方を裏返して少し飛躍させれば、政府が無視すれば皇族は政治的発言にならない、というすごいことになってしまう。
    憲法や皇室典範は、天皇以外の皇族について「国政に関する機能を有しない」と書いていない。天皇はともかく、皇太嗣となる秋篠宮や他の皇族による政治的発言を法律上禁じる根拠は、実はないのではないか。 
    憲法解釈自体、従来ほど硬直的に考えなくてもよい、という雰囲気も生まれつつある。先鞭をつけたのは他ならぬ安倍総理だ。歴代内閣が憲法上許されないとしてきた集団的自衛権の行使を容認できるよう、9条の解釈を変更してみせた。天皇や皇室の政治的発言についての国会答弁や解釈は、集団的自衛権行使と比べてさほど積みあがっているわけではない。9条解釈の劇的変更が認められるのなら、曖昧な4条の解釈を変えるか新設することに大きな抵抗が起きなくても驚くべきではあるまい。
    「オルタナティブ・ファクト(もう一つの真実)」という言葉の流行が示すように、「既存の価値観に縛られる必要はない」という風潮が世界中で広まっている。その波は日本にも静かに押し寄せるだろう。誰かが「天皇や皇室が政策課題について意見を表明することは、憲法上禁止されていない」と言い出せば、案外多くの支持を集める日がくるかもしれない。

    天皇や皇族がある政策テーマに関して政府に何かをあからさまに要求すれば、さすがにそれは国政に関する機能を果たしているとみなされ、憲法上許されないと考えるべきであろう。しかし、政治的なテーマについて単に意見を表明するだけであれば、それを禁じるだけの強い法律的根拠はないように思われる。皇室や国民がそのことにハタと気付いた時、皇室の政治的発言は止めようがなくなる可能性が出てくる。