杉田水脈「論文」とLGBT差別、そして同性婚

昨年夏、杉田水脈とか言う自民党国会議員がLGBTをバッシングして逆に世間から集中砲火的な批判を浴びた。杉田の主張に便乗した雑誌『新潮45』は廃刊に追い込まれるという醜態まで見せた。しかも、近年の世論調査では、同性婚への賛成が反対を上回るようになっている。こうした情勢だけを見れば、日本でも今後はLGBTの権利が順調に拡大し、同性婚の実現する日も遠くないという予測が立てられても不思議ではない。だが、現実はそれほど単純には動かない。

本ポストでは、昨夏の杉田「論文」を手がかりにしながら、日本で同性婚を認めるべきか否か、政治的に認められるものか否かを論じてみる。なお、最初に断っておくが、私の立場は「LGBT差別禁止には賛成だが、同性婚には反対」というものである。

杉田水脈「論文」について

最初に、『新潮45』2018年8月号に載った杉田水脈の雑文について、私の受け止めを述べておく。

読後の第一印象は、「この人、何がなんでも朝日新聞を批判したかったんだろうな」ということ。朝日新聞をけなして留飲を下げるのが好きな右系の人たちの「受け」をねらった営業文書にしか見えなかった。

だが、こうやって切り捨てるだけでは論が深まらない。半分馬鹿馬鹿しいと思いながらも、中身に立ち入ってみようか。

LGBTは差別されていない?

明らかに間違っていると思ったのは、LGBT差別に対する杉田の現状認識だ。引用と批評を並べてみよう。

「LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか」

杉田自身が差別的な言説を寄せておいて、そんなに差別されていないでしょ、と言うのだから開いた口が塞がらない。

「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます」

杉田は「非国民と言われるかどうか」で差別の有無を論じているが、これはもちろん妄言である。その基準によれば、人種や国籍にかかるもの以外に差別は存在しなくなる。ところが杉田は、他国では「白い目で見られてきたかどうか」で差別の有無を判断する。これでは論理にならない。日本でもLGBTが白い目で見られているという現実がある以上、日本にLGBT差別は厳然としてある、という結論にならなければ、おかしいだろう。

「(日本では)LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか」

こうまで論理が飛ぶと、「???」と反応するしかない。親がLGBTを受容すれば、杉田みたいな輩が差別しても問題にはならない、と言いたいのだろうか。それは、やっぱり日本にLGBT差別がある、と言っているに等しい。

こんな調子の幼稚な議論を大仰に「論文」と呼んだ新潮社(新潮45)の知的水準にもすっかり脱帽せざるをえない。

「生産性がない」発言

世の中で大きな問題になったのは、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がない」という部分だ。この発言に関しては、私の批判のポイントは、当時繰り広げられた批判とは少し異なる。

LGBTの人が(すべてではないにせよ)子供を作らない、という議論そのものは基本的には正しい。もちろん、それを「生産性がない」と形容することは、言われた方は嫌な思いをするだろうし、品のない言い方だ。しかしながら、言い方を変えれば杉田の言っていることは事実であり、ロジックとしては決して間違っていない。

ただし、LGBT問題で行政(または政治)が役割を果たすべきか否かについて述べるとき、杉田のロジックはここでも脱線してしまう。まずもって杉田は、行政がある問題に取り組むべきか(=税金を投入すべきか)否かは「子供がつくられるかどうか(生産性に資するかどうか)」によって決められるべきである、という前提に立つ。これはもちろん、滅茶苦茶な話だ。そんなことを言えば、社会保障も公共事業も国防も子供をつくるためのものではないから、全部やめなければいけなくなる。こんなロジックをいくら振りかざしても、LGBT問題を政治や行政が取り組むことの正当性を否定することはできない。

新潮45の廃刊

その後、『新潮45』は10月号で「そんなにおかしいのか杉田論文」という特集を組む。最初は「新潮社はこの問題でとことん勝負に出るつもりなのか?」と訝った。だが、批判が殺到すると『新潮45』はあっさりと廃刊になる。

新潮社の「自爆」を受け、LGBT問題は杉田の主張が負けて決着したかのような雰囲気が世の中には漂っている。しかし、「LGBTにどう向かい合うか」というテーマに対して日本社会は何一つ決着をつけていない――。それが現実だ。

同性婚というテーマ

ここまで、杉田の主張の「いかれぶり」を指摘してきた。だが、杉田の主張の中には、少なからぬ人にとって「確かにそうだ」と思わせるものがないわけではない。それは同性婚への反対である。

私は杉田と異なり、日本でもLGBTに対する差別は厳然としてあると思うし、LGBT差別禁止法もちゃんとしたものを早期に成立させるべきだと考えている。しかし、同姓婚になると「ちょっと待ってくれ」という声が心の奥底から湧き上がってくる。

「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。・・・「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません」

ここでも杉田は「同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません」と論理を飛躍させている。だが、同性婚の問題にとどまるとしても、私はそれを容認してよいと思わない。なぜなら、私も杉田同様、同性婚に「秩序が壊れることに対する恐れ」を感じ取るからだ。

とは言え、私と杉田では、維持したい「秩序」の中身が異なる。杉田が崩壊を恐れる「秩序」は、突き詰めれば、家父長的な「家」制度に行きつくであろう。私は、家族は大事だと思っても、戦前の家父長的な「家」には価値を見出さない。夫婦別姓にも賛成する。しかし、自然の摂理としては雄雌、人間界では男女のペアリングが本来の「あるべき姿」だと思う。それに沿えない人が差別されたり、迫害されたりすべきではないが、同性婚を異性婚と同列に社会制度化して「あるべき姿」と認めることはできない。(こうした考え方自体が差別的だと言う人もいるのだろう。でも、私の価値観について妥協する気にはなれない。)

同性婚に対する反対は、意外なことに世の中の多数派ではなくなっているらしい。近年の世論調査によれば、同性婚への賛成は反対を上回っている。2017年3月に行われたNHKの調査もそうだ。同性婚の支持は若い世代で反対を顕著に上回り、特に20代や30代では7~8割が賛成しているという、ちょっと信じられない数字が出ている。

ただし、この態度は深く考えた末の結論と言うよりも、雰囲気に流されたものである可能性が高い。また、安保法制然り、原発再稼働然り、日本の政治は世論の意向に逆らった政策を通すことも往々にしてある。

同性婚という社会制度に踏み込めば、日本会議の人たちを含め、いわゆる保守系の人々の多くは反発するに違いない。私のように、いわゆる保守でも右翼でもない人間の中からも、躊躇する者が相当数出てこよう。

彼らはしぶとい

杉田水脈は今後も、その低俗で極端な主張を変えることはなかろう。杉田の経歴を見ると、選挙区の有権者から強い支持を得て議員に当選したわけではなさそうだ。2012年12月の衆院選では兵庫6区から立候補し、関西での「維新の会」人気に助けられて比例復活。2014年11月には次世代の党から立候補し、あえなく落選。ところが2017年10月の総選挙では比例中国ブロックで自民党から立候補し、苦もなく当選した。ホームページを見ると櫻井よしこが応援しているようだし、安倍総理やその周辺の人たちとも仲がよさそう。だからこそ、自民党の比例単独で優遇されたと考えられる。

杉田が安倍たちから評価されてきたのは、その主張が封建的で右翼的だからである。LGBTの人たちや所謂リベラルな知識人、メディアに叩かれれば叩かれるほど、安倍たちの間で杉田の評価は上がる。結果として杉田の議員生命にとっても有利に働く。

一方、LGBTを認めたくない右の人たちの中でもう少し理論的かつ運動に長けた人たちは、同性婚反対を突破口にLGBT批判の論理を再構築してくる可能性がある。

『新潮45』10月号で杉田を擁護した藤岡信勝が副会長を務める「新しい歴史教科書をつくる会」の成功体験は示唆に富んでいる。当初は極論、暴論のオンパレードの教科書を作って一般人の口をアングリさせたが、問題個所を削除したり表現を丸めたりした結果、ついに検定に合格。「つくる会」の教科書は今、いくつかの学校で使用されるに至った。この人たち、柔軟というのか融通無碍というのか、運動をやりとげることについては馬鹿にできない実績を持っている。

トランプの巻き返し

LGBTの権利拡大や同性婚の容認は世界の流れ、という風に語られることが多い。だが、それは必ずしも正確ではない。トランプのアメリカを見るがいい。。

トランプ政権が発足して早々、職場でのLGBT差別を禁止するオバマの大統領令を撤回する動きが表面化した。結局、この大統領令は継続されると表明されたが、トランプ政権下でLGBT政策が徐々に後退していることは否定できない事実だ。トランスジェンダーの児童、生徒に対する学校での差別を禁止したオバマ政権時の通達は廃止され、トランスジェンダーの軍への入隊も大幅に制限されることになった。昨年10月には、米保健福祉省が法律上の性を生まれつきの生殖器で定義し、変更を認めない措置を検討していると報じられた。ペンス副大統領をはじめ、LGBTを嫌悪するキリスト教福音派の主張に寄り添う、ということを意味する動きだ。

いずれにせよ、トランプ政治が続く限り、米国でLGBT政策の揺り戻しは止まるまい。保守派の判事が増えていけば、同性婚を全米で合法とした2015年6月の米最高裁判決も近い将来、覆らないとは限らない。

タイム誌によれば、トランプの前任者であるオバマも同性婚に対する見解を大きく左右させている。当初、イリノイ州議会上院議員の時は同姓婚に賛成と言ったり、「未定」と答えたりしていた。しかし、2004年に(連邦)上院選に出馬した際には、同姓婚に反対と述べている。大統領に当選した後、2010年あたりからオバマは「意見が変わりつつある」とほのめかすようになった。そして2012年、大統領として初めて同性婚への賛成を公言するに至った。

オバマの場合、交友関係などが本人の考えに影響を与えたのかもしれないし、世論調査で同性婚への支持が過半を上回るようになったことなどによって政治的な計算を働かせたのかもしれない。リベラルな指導者として知られるオバマでさえ、これだけ迷い、悩んできたということは、LGBTへの政治の関り方が一筋縄でいかないものであることを示唆してあまりある。

 

LGBT運動に携わる人たちは、どこまでやるつもりなのだろうか? 差別禁止を求めるところまでで立ち止まるのか、それとも同性婚という形で異性婚と同じ社会的な認知を得るところまで要求を強めるのか?

私は、LGBTの人たちに「どうしろ」と言うつもりはない。杉田たちの運動に与するつもりも毛頭ない。ただ、同性婚まで求められたら、私の答はノーである。右系のグループも同姓婚反対を正面に出しながら、LGBTに対するネガキャンを巧妙に仕掛けてくるに違いない。

LGBTの差別禁止と権利拡大の政治闘争はこれから本番を迎えることになりそうだ。