「抑制しない政治」の兆しが見える②~政治がメディアを圧迫する時代とリベラルの憂鬱

前回8月24日付のポストで見たように、N国の立花孝志は、マツコ・デラックス叩きを通じて自分の宣伝にまんまと成功した。だが、そんなことよりもずっと重要なのは、弱小政党であってもバラエティー政治評論を黙らせることができることを示したことである。報道メディアもそれを傍観したため、政治による対メディア介入を助長する結果となってしまった。

今回のポストでは、今日の日本のメディアと政治の関係――メディア一般に対する政治の圧力、メディアの党派的政治性など――を概観し、それが所謂リベラル勢力にとって不利な状況を作り出していることを指摘する。

政治がメディアに圧力をかける状況は決して好ましい事態ではない。しかし、トランプのアメリカをはじめ、今日、世界中の民主主義国家で共通して見られる現象であることも否定できない事実だ。「こんな状況はけしからん」と批判するのは、実は現実逃避にすぎない。まずは現実を直視することから始めるしかない。

メディアを叩き始めた政治

戦後の長い間、第四の権力と言われるメディアには、政治的(党派的)に中立であることが求められてきた。その一方で、政治の側もメディアに圧力をかけることはタブーとされた。

もちろん、戦後政治においてメディアが政治的に完全に中立だったと言うつもりはない。政治が水面下でメディアに圧力をかけることもまったくなかったわけではない。だが、少なくとも建前としては、「メディアは党派的に中立であり、政治は報道に介入してはならない」という考え方が世の中に受け入れられてきた。今日でも日本ではまだそう信じている人が少なくない。

しかし、少なくとも自民党とメディアの関係に関する限り、21世紀に入ったあたりからこの建前は形骸化してきた。

その要因の一つは、冷戦後に旧田中・大平派連合から清和会支配へと党内権力の重心が移行したことに伴い、自民党が右傾化したこと。
2001年には従軍慰安婦関連の番組について当時官房副長官だった安倍晋三などが右翼的見地からNHKに注文を付けたことが知られている。

もう一つの理由は、2009年に下野した苦い経験から自民党が政権維持のためならなりふり構わぬようになり、メディアへの圧力もタブー視しなくなったこと。
2014年の総選挙の際には、自民党はNHKと民放各社に「公平中立、公正」な選挙報道を求める要望書を出す。安倍政権批判に偏ることのないよう選挙番組へのゲスト選定に配慮することなど、それまでになかった露骨な圧力が加えられた。その後もこの種の要望は選挙の度に出されている模様である。
2018年秋には、国政選挙でもない自民党総裁選に関してまで、安倍と石破を対等に扱う旨の細かな要望書を新聞各社に出している。石破有利の報道を行わないよう圧力をかけるためであった。

メディアの側も情けない。言うことを聞かなければ安倍に出演・取材拒否されて番組や記事が成立しなくなることを気にかけたり、安倍一強体制が続く中、あとで有形無形の嫌がらせを受けることを恐れたりした結果、自民党の要望に大筋で従ってきた。

このように、最近では政治がメディアに圧力をかけるということが、実際に起きている。しかし、メディアに圧力を効果的にかけることができたのは、これまでは自民党だけだった。野党の多くは政治がメディアに圧力をかけることを依然としてタブー視し続けている。メディアの側も、仮に野党から圧力をかけられても無視することができた。

今回、N国は政治がメディアに圧力をかけられる可能性を大きく広げた。たった一人の国会議員しかいなくても、声を荒げる、有名人や番組スポンサーを攻撃対象に選ぶ、ネット動画で拡散する、等の手法が当たれば、メディアーー少なくとも、ワイドショーの芸能政治評論くらいならーーに圧力をかけて黙らせることができるという実例を作ったのである。

リベラル野党には無理?

ここで断っておかねばならない。N国が今回、成功裡にメディアを叩いたからと言って、すべての政党(野党)が立花のように効果的にメディアを叩けるわけではない、ということだ。

一言で言えば、野党がメディアを叩こうと思えば、ガラがよくては駄目。知性はメディア批判の邪魔をする。立花だけでなく、トランプを見ても、安倍を見ても、そのことは一目瞭然であろう。

日本のリベラル系野党は、旧民主党系を筆頭に、知識偏重でひ弱だ。かつては暴力革命を唱えることもあった共産党でさえ、今やすっかり知識人政党になってしまった。今日、リベラル系野党が産経新聞を批判しても、あることないこと反論されて返り討ちとなるのがオチだ。支持率とメディアへの露出がある程度比例する今日、弱小野党には、「メディアと喧嘩してメディアとの関係が悪くなっては困る」という要らぬ計算も働く。

フェイク・ニュースがはびこる今日、ナショナリズムと感性に訴える勢力の方が、理性や知性を重視する勢力よりも、政治やメディアの世界では有利である。
理由を簡単に説明しよう。

右寄りの政党がリベラルなメディアを攻撃する場合、テーマはナショナリズムが関わるものが多い。その際、右寄り政党は当該メディアの弱みを集中して突く。事実関係に異論があっても、ナショナリズムに結び付けて声高に叫べば、より多くの国民の共感を得ることは比較的簡単だ。しかも、右寄りのメディアもリベラル系メディア叩きに参戦する。この時点で、数のうえではリベラル勢力にとって「多勢に無勢」の状況が生まれる。一方、リベラル系メディアは、右寄りからの攻撃に対して事実関係の検証やコスモポリタニズム(または平和主義)の観点から反論しようとする。しかし、これは手間がかかるうえ、ナショナリズムの関わるテーマを論理だけで議論しても一般国民の共感は広がらない。共産党や社民党を別にすれば、リベラル系野党も国民感情に配慮して「どっちつかず」の態度をとることが多い。

右寄りメディアがリベラル系野党を批判するときは、まったく逆のことが当てはまる。敗戦後、平和主義や知性が幅を利かせた時代は終わり、リベラル系はメディアも政党も不利な立場に置かれているのが今日の実情である。

米国においても、民主党は知性を尊重する支持者を共和党よりも多く持ち、民主党の議員の間にもその傾向が見受けられる。実際、米国の民主党もトランプのフェイク・ニュース攻勢に対して守勢に回らされている。だが、米国の民主党は、日本のリベラル系野党ほど負け犬根性に支配されていないし、同党を支持するメディアを持っている(後述)。日本に比べれば、状況ままだマシと言ってよい。

日本のメディアの党派性

メディアの方も今や、政治的(党派的)中立性を維持しているかと言えば、微妙なところ情勢となった。「微妙」という言葉を使うのは、今日のメディアがすべからく政治的党派性を帯びている訳ではないからである。

我々は一般的な建前として、「新聞、テレビなどのメディアは政治的に中立・公正である」と無意識のうちに思っている。だが、現実はそうではない。

法規制上、テレビ局は前述の放送法で政治的公平性を要求されている。しかし、社の方針として特定政党を支持していても、当該政党に明白に有利な報道を連日繰り返すのでなければ、法的にはアウトとならない。毎週のように自局の番組に複数政党を出演させ、コメンテーター等が特定政党をヨイショするくらいのことは大目に見られる。

論より証拠、右寄りと言われるフジテレビの報道番組では、解説委員が露骨に安倍を支持したり、野党を叩きまくったりするが、それが放送法第4条違反だということにはなっていない。
一方で、保守系陣営から偏向報道だと批判されることの多いテレビ朝日は、安倍政権を批判する傾向が他局に比べて強いことは確かだが、自民党以外の特定政党(立憲民主党など)を支持しているという事実はない。政権批判はしても、野党にもケチをつける。教科書どおりに政治的中立であろうとしているのか、言ってみれば「おぼっちゃま」のようなテレビ局である。

NHKについては長い間、公共放送であるがゆえに民法とは別次元で政治的(党派的)中立性が求められる、と考えられてきた。しかし、NHKの番組制作に自民党や官邸が介入したらしいことは前述のとおり。安倍政権になってからは、百田尚樹、長谷川三千子、古森重隆から、安倍の家庭教師だった本田勝彦まで、安倍に近い右寄りの人物が経営委員に指名された。同じく安倍人脈の籾井勝人が会長に据えられていたことをはじめ、NHK本体の人事にも官邸の意向が反映されているという指摘は後を絶たない。

新聞になると、そもそも根拠法がないので、放送法第4条のように政治的中立を法的に求められているわけではない。右寄りで知られる産経新聞は2010年に綱領を改定して決定的に右旋回した自民党を明白に支持していると言ってよい。産経ほどではないが、読売、日経も伝統的に自民党寄りだ。
一方、朝日、毎日、東京はリベラル系と位置付けられ、自民党に批判的な論調で知られる。ただし、この3社が民主党政権時代、与党寄りだったかというとそんなことはない。権力(政権)に対して批判的なだけで、特定の政党支持を打ち出してはいない。安倍自民党が政権に返り咲いて以降は、安倍政権を礼賛した時期もあったし、評論家よろしく野党叩きに精を出すことも少なくなかった。日本のメディアは溺れる者は叩くが、強い者にはゴマをする習性があるのだ。

最近はネット・メディアも無視できない。「ネトウヨ」という言葉が示すように、この世界では右寄りの政党が支持される傾向が強い。例えば、ネット・メディアの代表格であるニコニコ動画は安倍応援団として知られている。安倍も選挙戦中の討論番組では、地上波テレビ局を差し置いてニコ動に優先的に出演する。リベラル系でニコ動に匹敵するメディアは存在しない。

世界の民主主義国家を見渡してみても、メディアが特定政党を支持する、というのは別に異常なことではない。むしろ、日本のようにメディアが政治的(党派的)に中立を装っていることのほうが珍しい。米国では、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNが民主党系、FOXは共和党系(と言うよりも最近はトランプ系)などとはっきり色分けされる。大統領選のたびにメディアの多くは自社が支持する候補を明らかにすると言う。

ただし、日本のメディアにおいては、(公言してはいないものの)自民党を明確に支持しているメディアは確かに存在する一方、(政権批判には熱心であっても)リベラル系の政党を本気で応援しているメディアはない。その結果、リベラル系政党は自分たちの主張や反論を伝えるうえでも、どうしても後手にまわる。

戦後、日本では(公明との連立も含めた)自民党一党支配が長期にわたって続き、二大政党制が根付いていないことも関係しているのだろうが、逆に言えば、現代日本政治においてリベラル政党が弱体である理由の一つとなっている。

リベラル陣営は立ち直れるか?

N国の立花がマツコ・デラックスに噛みついた事件は、与党・自民党でなくても政党がメディアを叩ける可能性の一端を垣間見せた。だが、メディアを効果的に叩く点においては、政権の座にあるか否かを別にしても、保守系政党の方がリベラル系政党よりも有利だ。しかも、リベラル系政党は、自民党が持っているような「御用メディア」を持っていない。

これでは、リベラル系野党が夢見る政権交代などまずあり得ない。万一、僥倖に恵まれて政権に就くことができたとしても、民主党政権よろしく短期間で下野することは間違いがない。リベラル系の野党は10年計画を立て、綺麗ごとでないメディア戦術を組み立てる必要があるだろう。

危機意識が足りない点では、リベラル系メディアも五十歩百歩。綺麗ごとを墨守するだけでは、このまま保守政党と右寄り行動派メディアにどんどん包囲され、「報道の自由」も何もあったものではなくなる。いつまで党派的中立性をくそ真面目に守り続けるつもりなのだろう?

リベラル勢力に頑張ってもらいたいとは思うが、楽観的展望は描けない。

「抑制しない政治」の兆しが見える①~マツコ・デラックスに噛みついた立花孝志

このところ、「NHKから国民を守る党(N国)」の立花孝志代表が芸能人のマツコ・デラックスの発言に噛みつき、話題になっている。立花一流の炎上商法に本ブログでコメントするのも馬鹿馬鹿しい――。そう思ってスルーするつもりだったが、よくよく考えてみると、この騒動の向こうに現代日本の(世界の、と言ってもよい)民主主義が直面する宿痾のようなものが見えてきた。

これまで日本では、自民党だけがメディアに圧力をかけられる存在であった。しかし、今、我々は、政治が一般的にメディアへ圧力をかけられる時代の入り口にいるのではないか。

マツコの発言は何が問題だったのか? 

7月29日に放映されたTOKYO MX(東京メトロポリタンテレビジョン)の「5時に夢中!」という番組で、マツコ・デラックスがN国について以下のように述べた。

「この人たちがこれだけの目的のために国政に出られたら迷惑だし、これから何をしてくれるか判断しないと。今のままじゃ、ただ気持ち悪い人たち」
「ちょっと宗教的な感じもあると思う」
「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」

これに対してN国代表の立花は「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒。「マツコ・デラックスをぶっ壊す!」と8月12日にマツコが出演中のMXに押しかけ、番組スポンサーである崎陽軒のシウマイについて不買運動を呼びかけたりした。その後、8月19日にもMXを訪れた立花は、崎陽軒不買運動とマツコ批判に終結宣言を出す。しかし、MXに対しては自らの番組出演を要望し、同局が見解を出すまで毎週押しかけ続けると述べた。

マツコの発言に戻ろう。
私は、マツコの発言で敢えて問題があるとすれば、N国が「これだけの目的」(=NHKのスクランブル化)のために参院選に出たことを「迷惑」と述べた部分だと思う。この発言は、シングル・イッシュー政党の存在意義を認めないことにつながる。ただし、「NHKをぶっ壊す」以外の法案賛否などについてN国の見解がわからないため、今後の言動をしっかり見定めたい、ということにマツコの真意があったのであれば、問題視するほどのこともない話だ。

芸能人ではない立花が、自分のことを「気持ち悪い」とか、「宗教的な感じ」がすると言われれば、不愉快な気持ちになったことは十分に理解できる。だが、マツコのこの感覚は少なからぬ人が抱いている感覚である。N国の候補者たちが政見放送で連日繰り返したパフォーマンスを見れば、そう思われてもまあ仕方がないだろう。しかし、マツコが思ったことをそのままに言ってはならないのは、それが誹謗中傷に当たる時のみ。今回のマツコの言葉を誹謗中傷とまで言うことはできない。(念のために付け加えると、マツコの「気持ち悪い」発言は、N国の候補者たちに向けられた言葉だと思われる。だが立花は、わざとかどうかは知らないが、これをN国に投票した人たちへ向けられた言葉と解釈しているようだ。)

結局、立花が最も問題視しているのは、N国へ投票した有権者が「冷やかし」や「ふざけ」によって投票行動を決めた、という部分なのであろう。この言葉に対して立花は、「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒してみせた。自分がケチをつけられたことに怒っているのではなく、一般有権者が侮辱されたことに対し、一般有権者のために怒っている、という体裁をとる。こういうところが立花は実にうまい。

立花は「発言は明らかに公平中立な放送をしなくてはならないという放送法4条違反」だと主張している。N国の上杉某なる幹事長も同様のことを述べ、だから、反論する機会を得るために――つまり、N国を公平に扱うために――立花をMXの番組に出演させろ、と要求している。だがこれ、ほとんど「いちゃもん」である。

放送法4条は放送番組の編集に際して以下の四点を要求している。

1.  公安及び善良な風俗を害しないこと。
マツコの発言が公安を害していないことは言うまでもない。N国の候補者たちが善良な風俗を害していないのであれば、マツコの発言も同様であろう。

2.  政治的に公平であること。
立花は、今回のマツコの発言を、一方的に特定の政治団体を誹謗中傷したものと批判する。だが、事実でもないのに「殺人者だ」「窃盗犯だ」と言われたのならともかく、この程度で「誹謗中傷」にはならない。また、立花が言うように今回の事例で政治的な公平さが損なわれたと解釈するのであれば、テレビでコメンテーターが政党を多少なりとも批判しようと思えば、その政党を必ず番組に呼ばなければならなくなる。これではテレビ局は政党について何も言えなくなってしまう。それは言論の自由の死を意味する。(ついでに言うと、放送法でいう政治的公平性を立花たちのように解釈すれば、ある政党を褒めても公平さを欠くことになるため、他の政党を呼んだ番組の中でしか許されない、ということにもなってしまう。)

何よりも、立花たちは、ここでいう政治的公平性の意味を(無知ゆえにか故意にか)間違って解釈している。政府が想定しているのは、「選挙期間中又はそれに近接する期間において殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合といった極端な場合」や「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が一方の政治的見解を取り上げず、殊更に他の政治的見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合」等だ。放送法第4条にいう政治的公平性は、マツコのような他愛のない発言について針の先のような形式主義をあてはめようとするものではない。

3. 報道は事実をまげないですること
マツコが「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」と述べたことに対し、立花は「みんな真剣に投票している」「誰がふざけて選挙の投票なんかするか!」と怒る。しかし、マツコは「N国に投票した人のすべてがふざけて入れた」と言ったわけではない。実際、「面白そう」というノリでN国に入れた人はいただろう。マツコの発言を虚偽と断定することはできない。それでも立花がマツコを批判したければ、ふざけてN国に投票した人が一人もいなかったことを立花たちが証明すべきだ。立花は「挙証責任はマツコの側にある」と主張するだろうが、それでは放送番組で政治を論じることは事実上できなくなる。

4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

これは例えば、外国人労働者の受け入れとか、カジノとか、憲法改正など、相反する意見がある重要課題について、多様な見解を紹介して一方的な議論にならないようにする、という意味。今回の件が当てはまらないことは言うまでもない。

結論としては、今回のマツコの発言が放送法4条に違反している、というN国の主張自体がフェイクである、ということ。マツコ発言には、立花が噛みつくような正当な問題など見当たらない。

バラエティー政治評論の限界

以上で述べたとおり、立花のマツコ批判は間違っている、と考えるのが正論だ。しかし、立花は自分の議論が正論かどうかなど歯牙にもかけていないだろう。マツコを叩くことによってN国の宣伝は十分に(かつ安上がりに)果たした。

もう一つ、マツコたたきで立花とN国が得たものがある。メディア、少なくともワイドショーのバラエティー政治評論の側に「N国を叩くと面倒なことになる」という気持ちを植え付けたことだ。

今回の顛末を通して、マツコやMX側がダンマリを決め込んでしまったのには少し拍子抜けした。マツコにしてみれば、「反論すれば立花の思う壺」と(それなりに)賢明な判断をしたつもりなのかもしれない。だが、そのために世間では「立花の主張の方に分がある」という見方が広がってしまった感がある。

マツコに限らず、吉本問題ではあれほど好き勝手に発言していたワイドナショーのコメンテーターや芸能人たちも――「爆笑問題」の太田光など一部の例外を除いて――、この件については歯切れが悪い。自分の見解を表明して立花の標的になることを怖れている、というのは考えすぎかもしれないが、彼らは明らかに「怯んで」いるように見える。(私はワイドショーをそんなに見ているわけではないので、あくまで漠然とした感想である。)

これまでワイドショーでキャスターやコメンテーター、わけても芸能人が政党や政治家を批判したり、おちょっくったりしても、今回マツコのように噛みつかれることは基本的になかった。特に、野党を批判しても、批判された側が彼らに牙をむいてくる心配は不要であった。(国会議員ではなかったが、橋下徹はメディアへの反論を厭わなかった。それでも橋本は知識人。反論は言論にとどまり、テレビ局に抗議に出向くようなことはなかった。) 言わば、自分の身は安全な場所に置いたまま、好きなことを言ってもよかった。

ところが今回、たった一人しか国会議員のいない「弱小」政党に軽口を叩いたところ、口汚く猛反発を食らったあげく、テレビ局にまで押しかけられ、スポンサー企業の不買運動まで口にされた。

単にすごむだけではない。芸能人には馴染みのない言葉(放送法第4条とか)を織り交ぜてくる。「崎陽軒に罪はない気がする」と軽いノリでツィートしたダルビッシュ投手は、N国幹事長の上杉から「崎陽軒に罪はないのならば、誰に罪があるのでしょうか?」と完全に議論をすり替えられ、「危機管理」「公共の電波」とむずかしそうな言葉を並べた反論を受けてしまう。少し知識のある人なら、上杉の議論など完全に反駁できるものだが、罪のないダルビッシュは謝罪に追い込まれてしまった。

米国などでは芸能人が支持政党を明確にし、政治的主張を行うことは珍しくない。彼らは、知識、意識、ディベート術もそれなりのレベルにある。政治家と対決することも辞さない。と言うか、その気がなければ表立って発言したりしない。だが、日本の芸能政治評論にそんな覚悟は見られない。立花に噛みつかれた途端、マツコや他の芸能人たちが怯んだのも当然である。

沈黙する報道メディアと政治

今回の一件では、もう一つ肩透かしをくったことがある。新聞を含めた既存メディアや政党(特に野党)がこの件についてあまり発信しなかったことだ。ワイドショーには娯楽色があり、あまり肩ひじ張って政治的公平性の話題を掘り下げろと言うのも酷なところがあるかもしれない。しかし、テレビの報道番組や、新聞までもが今回の騒動に目立った反応を見せていないことは理解に苦しむ。新聞やテレビ局にとっては、愛知トリエンナーレを社説で論じるのと同様の重要性があると思うのだが・・・。

お堅い政治評論の世界に住むお歴々は、芸能人やワイドショーを見下しているのかもしれない。N国とマツコ・デラックスの衝突など、高尚な政治テーマを扱う自分たちが関わる話題ではない、と思っているのかも。しかし、N国的な対メディア攻撃はいずれ、報道メディアにも向かう。(自民党による攻撃に対しては、すでに防戦一方となっている。)今回、報道メディアが黙っているのを見て、彼らもバラエティー政治評論とそれほどレベルは変わらないのだな、と思った次第である。

N国以外の政党からも、立花の言動に対して大きな異議の表明はなかった。私の知る限りでは、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)が「働いている場所までチームのスタッフを連れて行き、目の前で街宣活動するのは国会議員という権力者としてはやりすぎ」と述べたのが唯一である。ただし、松井は「テレビコメンテーターが批判する内容によっては、反論すべき」とも述べている。マツコの発言やそれに対する立花の見解に対する評価には踏み込んでいない。どっちつかず、でN国に対する遠慮さえ感じられる。

 

次回は議論を一歩進め、日本の政治がメディアに圧力をかけている現状を概観してみたい。今の時代にそれが与野党のパワーバランスにどのような影響を与えるかについても考えてみたい。

「NHKから国民を守る党」なる存在

7月21日に投開票のあった参議院選挙は稀にみる凡戦であったが、それゆえに合計してわずか3議席を獲得した二つの政党が注目を集めた。言うまでもなく、一つは「れいわ新選組」、もう一つは「NHKから国民を守る党(N国)」だ。れいわは2,280,253票(4.6%)で2議席、N国は987,885票(2.0%)で1議席を比例代表選挙で獲得した。

その後、N国代表の立花孝志は矢継ぎ早に――いかにも胡散臭そうな人物がここまでやるとは誰も予想していなかったはずである――動く。維新の党から除名され、国会で糾弾決議案を可決された丸山穂高を入党させ、今はもう皆が忘れていた渡辺喜美と共同会派を組んだのだ。最近は永田町関連のニュースが夏枯れ状態なこともあり、メディアは立花を時の人のごとく扱っている。

本ポストでは、N国が議席を獲得した意義、今後の展開、NHK政策の行方について少しばかり想像をめぐらせてみた。

シングル・イッシュー政党として初の国政進出

NHKを国民から守る党は、日本で最初に国会に議席を獲得した「シングル・イッシュー(単一争点)政党」として記憶にも記録にも残ることだろう。N国はNHK放送をスクランブル化することを唯一の公約として掲げた。これに対し、れいわの政策「消費税廃止」が話題になった。しかし、同党は「政府保証つき最低賃金1,500円」「奨学金チャラ」「原発即時禁止」「安保法制廃止」など、様々な分野で公約を発表している。政策のエキセントリックさという意味ではれいわもN国も似たりよったりのところがあるものの、れいわはシングル・イッシュー政党ではない。

なお、シングル・イッシュー政党というだけであれば、N国が初めてというわけではない。今回の参議院選でも「安楽死制度を考える会」はシングル・イッシュー政党と呼んでよかった。しかし、各得票数は233,441票(0.5%)にとどまり、議席獲得はならなかった。

N国が議席を獲得できた理由

なぜ、N国は比例代表で2百万票以上を獲得できたのか?

第一は、唯一訴えた政策が国民の琴線に触れるものだったこと。テレビを持っていればNHKの番組を見なくても受信料を支払わなければならないという仕組みが法律のみならず最高裁でもお墨付きを得ていることに対し、理不尽だと思う国民は決して少なくない。しかも、主要政党はその不満を代弁する気配すら見せようとしない。「NHKをぶっ壊す」というN国の公約はそこを突いた。

第二は、代表の立花孝志なのか、彼の周辺にいる人物なのかは知らないが、同党がネット(特に動画)戦術に長けていること。政見放送を聞く限り、NHKをぶっ壊さなければならない理由は「NHKの男女のアナウンサーが不倫路上カーセックスをしたのに、NHKはその事実を隠蔽しているから」ということにあるそうだ。こういう馬鹿馬鹿しさも拡散には役に立ったのであろう。(私には理解できないが・・・。)

第三は、N国は今回の参議院選で「ぽっと出」の政党ではなく、ここ数年、地方議員選挙に候補者をたてており、参議院選前で首都圏を中心に27人の地方議員を輩出するに至っていた。ネット選挙は空中戦だが、N国は最低限の地上部隊も持っていたのではないか。

第四に、NHKを叩く立花の主張は右翼及び右翼的思考の持ち主の一部と共鳴する。2001年にNHKが戦時性暴力に関する番組を放映したあたりから、安倍を含む自民党右派や右翼団体の一部はNHKを敵視するようになった。先に指摘した国民の根源的な不満に加え、日本社会全体の右傾化に伴い、NHKをぶっ壊すという主張は受け入れられる素地が拡大しているものと考えられる。

第五に、国民民主党に行くはずの比例票が一部按分されてN国に流れた可能性もある。今回、国民民主は略称を「民主党」で届け出た。旧民主党や立憲民主党の支持者が間違って投票してくれることを期待したとも言われている。その結果、国民民主に入れるつもりで有権者が「国民」と書いた票は、「NHKを国民から守る党」と按分されたというのだ。まあ、これは検証のしようがない話なので、話半分で。

スクランブル化の議論に火がついた

次に、N国が国会に議席を獲得したことは、NHKの今後にどのような影響を与えるだろうか?

N国が掲げているのは、NHK放送をスクランブル(暗号)化し、受信料を支払うことに同意した人のみがスクランブルを解除してNHK番組を見られるようにする、というもの。現在、地上波デジタル放送は(NHK以外は)無料でB-CASカードがもらえてスクランブルを解除しているが、N国はNHKに関してWOWOWと同じように有料で解除する仕組みを導入すべきだと主張している。

これ、NHKを観たい人のみから受信料をとる、という仕組みであり、一見とてもよい。こういう受けのよい政策を他の政党は考えつかなかったのか、と疑問に思って調べてみたら、やっぱりあった。日本維新の会だ。詳細は不明ながら、マニフェストに「NHK改革。防災情報など公共性の高い分野は無料化し、スマホ向け無料配信アプリを導入。有料部分は放送のスクランブル化と有料配信アプリの導入。」と書いてある。ただし、維新は選挙戦の期間中、ほとんど強調しなかったので世の中の耳目を引くことはなかった。

これからは全政党がNHK政策をどうするのか、明らかにしなければならなくなる。N国なる存在がこれだけ注目を集めてしまった以上、(NHK以外の)マスコミは各党に対し、「NHKのスクランブル化についてどう考えるか?」と問うに決まっているからだ。

まず、他の野党はどうだろうか。国民に受けがよく、選挙で票になることが証明されたこのテーマについて、「うちは反対」とにべもなく言い切れる党がどれだけあることやら? まあ、野党が揃ってNHKスクランブル化を言い立てたところで、今の国会の議席状況を考えれば、野党の力でスクランブル化が実現する可能性はありえない。

一方、自民党と公明党は政権与党はこれまで政策、そして今ある法律に縛られる。スクランブル導入に乗ると言っても、責任与党としての立場を考えれば、後述するように簡単な話ではない。むしろ、密かに注目すべきは、今すぐではないにせよ、自民党内でもポスト安倍に絡んで有力な総裁候補がNHKスクランブル化を持ち出したりする可能性。ひょっとすればひょっとしかねない。そうなれば、たった1議席を獲っただけのシングル・イッシュー政党が及ぼす影響は信じられないくらい大きなものになるわけだ。

ただし、スクランブル化が大きな政策的焦点になり、N国以外もそれを叫びはじめた瞬間、N国の存在意義はほとんど消滅する。シングル・イッシュー政党がシングル・イッシュー政党のままでいる限り、それは事の理である。その時、立花という人は別のイッシューを見出して時代の寵児であり続けようとするのだろうか?

追い込まれるNHK

さて、立花は、国会議員になってもNHK受信料を踏み倒す、と宣言している。本人は炎上商法のつもりだろうから、騒ぎになればなるほど成功だと思っているんだろう。

これを受け、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)は「現職国会議員の受信料未払いをNHKが認めるなら、大阪市もやめさせてもらう」と表明したと言う。同じくの維新の吉村洋文大阪府知事と永藤英機堺市長も、NHKの対応次第では、府または市として受信料の支払いを拒否する、と述べた模様だ。立花の不払いに対し、国会議員だからといって特例を認めるなよ、とNHKに圧力をかける意味合いだと思いたいが、ポピュリスト維新のことだから、その真意は奈辺にあるのやら? いずれにせよ、「あいつが法律守らなくていいんなら、俺も法律守らないよ」とご立派な政治家さまが揃って仰るのは、子供たちにとても見せられた光景ではない。

そういえば、国民民主党の玉木雄一郎代表まで「法律に定められている義務を果たさず、平気でいるのであれば、国民民主党も払いたくない」と述べたとか。玉木は結局、「支払うべきだ」と言っているようでもあるが、あまり考えたうえでの発言ではなさそうである。

国会議員たちが政治の世界における倫理の崩壊を食いとどめたいと本気で思うのであれば、彼らにはやるべきこと、できることがある。秋の臨時国会で「国会議員が不法行為に及び、また奨励すること」を以って、立花に対して糾弾決議を行うのだ。(そうすると、N国は糾弾決議を受けた議員の集まりになる。)

誤解のないよう言っておくが、私はNHK受信料制度を改革することは大賛成だ。しかし、国会議員が現行法を守ったうえで法改正を提案する、というのならともかく、国会議員が違法行為を行うと堂々宣言するわけだから、これを「オモロイやないか」と笑ってすませるのは変だ。

いずれにせよ、N国が火をつけたスクランブル化の議論は、理屈を超えてNHKへ圧力をかけることになる。そこでNHKはどう動くか?

まず考えられるのは、国民の反発をやわらげるため、受信料の値下げに動くこと。NHKはこれまで何だかんだと理由をつけて意味のある値下げは避けてきた。来年度のNHK予算をどう組むか、注目が集まるだろう。

それ以上に安易、かつNHKの自殺につながりかねない道は、政治に助けを求めること。結果として、官邸や政権与党への忖度が今以上に強まることは言うまでもない。これは外からはなかなか見えにくい話であり、我々はリークによってのみ気づくことができよう。

筋から言えば民営化

スクランブルを導入すれば、NHK番組を見たい人だけが受信料を払ってスクランブルを解除して見る、ということになる。ほとんどの視聴者がスクランブルを解除するために受信料を払い続ければ、NHKの経営にそれほど大きな影響は出ない。受信料を払いたくない人が払わなくてすむだけで、害の方は表面化しない。しかし、相当数の人が「払わなくていいんなら、払わない」と考えれば、NHKの受信料収入は大きく落ち込む。こうなれば、受信料を払い続ける人には受信料値上げの形で跳ね返ってくることは避けられない。

確かに、NHKのドキュメンタリーやドラマなどは、金をかけているせいもあって、質は高いというのが一般的な評価だろう。朝から晩までやっているバラエティーも、視聴率は比較的好調のようだ。しかし、問題は、民放をタダで観られる時に、金を払ってまでNHKを見る人がどれだけいるか、ということ。直感的に考えれば、目に見える形で減る可能性が高い。そうなると、スクランブル化したうえに大幅な受信料引き下げに追い込まれ、経営への影響も出てくるだろう。そもそも今、放送法でテレビを持っていればNHKの受信料を支払わなければならないと義務付けているのも、そうしなければ払ってもらえないからである。

しかし、NHKを観たかろうが観たくなかろうが、受信機を持っていれば問答無用で受信料を支払わされる、という現行の仕組みは、中世じみた理不尽な制度だ。現状維持は不正義と言うべきであろう。

ここはやっぱり、スクランブルなんかじゃなく、NHKの分割民営化だ。教育テレビは国営にして税金で運営する。これだけのために受信料制度を残しても、徴収コストがバカにならないし、どうせまた立花のようなに難癖を付けて支払わない人間が出てくるに違いない。

今日、NHKを民営化しても、大きな問題は出てこない。世界を見回してみても、米国をふくめ、民主主義国家で国(政府)が放送機関を所有していない例はいくらでもある。かつては、NHKの制度を正当化するのに「報道の中立性」ということが言われていた。だが、今の制度がNHKに政治的中立性をもたらしているのかと問われれば、首を傾げざるをえない。法律で受信料収入を担保され、予算や経営委員を国会で議決されるからこそ、NHKは政治の介入に脆くなってきた。昔の政治家はともかく、今の自民党右派なんかはNHKへ圧力をかけることは当たり前くらいにしか思っていない。

小泉純一郎が唱えた郵政民営化と違って、民営化したら地方にテレビ放送がなくなる、ということも起こらない。郵便局がなくては郵便の集配はできないし、過疎地では決済・金融仲介機能が失われてしまう。しかし、受信機さえ各家庭にあれば、電波は空を飛んでいく。

唯一、問題があるとしたら、NHKという鯨が解き放された結果、民放が1~2社つぶれることか。だが、つぶれるテレビ局や関係者にとっては死活問題でも、国全体で見た時には不要なものがなくなるだけの話にすぎない。どのチャンネルを回しても同じような番組ばかりということは、供給側が需要側のニーズを満たすことができないということの裏返しである。もっと言えば、今後放送とインターネットの融合が進む中で、放っておいても今ある放送局のすべてが生き残るということは考えにくい。

さあ、どの政党が最初にNHK民営化論をぶちあげるだろうか? 言っておくが、NHKからも民法からも目の敵にされるから、覚悟して打ち上げたほうがいい。ただし、政策としての筋は悪くないし、国民の支持は得られると思う。NHKの中にも、スクランブル化の影に怯えて今以上、政治への忖度を強めることになるくらいなら、民営化して独立した報道をやりたい、と思う人もいるだろう。私は、その方が健全だと思う。

「スクランブルの見返りに改憲」というディールはない 

一部メディアでは、先の参議院選挙で改憲発議に必要な2/3議席を自民・公明の与党と維新等で確保できなかったため、立花が安倍と「安倍がNHKのスクランブル化に同意する見返りにN国が安倍の改憲に手を貸す」のではないか、という見方が出ているようだ。しかし、それはないだろう。

N国はNHKのスクランブル化以外に公約がない。NHK問題以外の採決等では党議拘束もないそうだし、将来的には国政事項は国民投票で決めるというようなことを言っている。逆に言えば、フリーハンドであり、改憲を含め、政権にすり寄ることにも抵抗はない。

だが、安倍(自民党)は政府を率いている。ただ2/3が欲しくてNHKのスクランブル化を飲む可能性はほとんどないと思われる。安倍がNHKを嫌いだったのは、NHKが自分に噛みついたり、戦後レジームの復活に盾ついたりするような番組を制作したからだ。安倍政権も7年目を迎え、人事面でも随分自分たちにとって都合のよいNHKになってきている。「N国からNHKを守る」というポジショニングをとることは、今の安倍にとっては決して損な話ではないだろう。

何よりも、憲法改正は、2/3という数があれば自動的に改憲できる、というような単純な話ではない。ただ2/3があればよいのなら、前回(2016年)の参議院選挙以降、とっくに改憲は実現しているはず。今現在でも、野党の中にいる隠れ改憲派を個別に口説き落とせば、立花のような胡散臭い議員に声をかけずとも2/3は達成可能であろう。現実には、2/3の内実は公明党を含んだ数字であり、虚ろなものにすぎない。よほど世論をうまく操縦するためのきっかけを掴まない限り、表面的に2/3を得たところで改憲はなるまい。安倍はそのことがわかっているはずだ。

 

N国なる政党と立花孝志なる代表。私には、日本でポピュリズムが勃興しはじめた時代に咲いた仇花のように見えてならない。