NHK経営委員会に「報道の自由」の敵が巣食う

前回まで3回のポスト(2月7日2月16日3月7日)で郵便局を舞台にしたかんぽ保険商品の不正営業事件について思うところを述べた。

そこでも簡単に触れたとおり、事件の過程で日本郵政は自らの不正営業問題が白日の下にさらされないよう、NHKに圧力をかけた。その際、NHK経営委員会が日本郵政の味方に付き、NHK会長に圧力をかけていたことが判明している。
これは「報道の自由」の崩壊を招く大問題だ。看過できない。

本ブログでもこの問題を取りあげようと思いながら手間取っていたところ、3月2日付の毎日新聞が「『番組の作り方に問題』 NHK経営委員長がかんぽ報道『介入』か 放送法違反の疑い」という記事を打った。

毎日新聞は昨年9月26日のスクープ以来、この問題の追及に熱心だ。毎日新聞の記事とNHK自身による検証記事を読めば、この問題の論点を追うことができる。

本ポストでは、遅ればせながら、私の意見を述べておきたい。

NHKのスクープと日本郵政の圧力

2018年4月24日――念のために言うが、2019年ではなく、2018年の話だ――、NHKのクローズアップ現代+は「郵便局が保険を“押し売り”!? 郵便局員たちの告白」という衝撃的なタイトルの番組を放映した。おそらく、郵貯グループの不適切営業に最初に切り込んだ番組だったと思う。これはアッパレだった。

7月になると番組側は続編を作るため、SNSで情報提供を呼びかけた。
これに対し、日本郵政、日本郵便、かんぽ生命が社長名でNHK会長宛に「内容が一方的で事実誤認がある」などと掲載中止を申し入れる。

この段階で既に郵貯内部で不適切営業は蔓延していた。
郵政側が「放送内容は間違っている」と思って抗議したのであれば、当時の3社長を含む経営幹部はよほどの無能か、裸の王様ということになる。
不正の存在を知りながら抗議したのであれば、もう背任に近い。

実態はおそらく後者であろう。日本郵政の鈴木・上級副社長は「圧力をかけた記憶は毛頭ない」と述べている。こういう時、本当に圧力をかけていなければ、「圧力をかけてなどいない」と言い切るもの。政治家の「記憶にございません」と同様、「記憶」という言葉を使って否定するのは後ろめたさの表れである。

日本郵政と手を組んだNHK経営委員会

ここまでは、「NHK」対「日本郵政」の戦いだった。

番組サイドが取材をやめないのに業を煮やした郵政側は、番組の担当者が『番組制作について会長は関与しない』と発言したことを問題視し、「放送法上、編集権は会長にあるはず。番組サイドの発言はNHKのガバナンス上、問題だ」とNHK経営委員会に訴えた。

日本郵政の言い分は、世間的には「言いがかり」の類いと言ってよい。
しかし、番組内容の真偽で争うと日本郵政にとって不利となるため、経営委から圧力をかけて現場を黙らせる、という手法を郵政側は選んだのだ。
(この戦術を考え出したのは、鈴木康夫・日本郵政上級副社長――郵政事業と放送行政の両方を所管する総務省の元事務次官――だった可能性がある。)

NHKの上田良三会長(当時)は常日頃、「我々は実際には、放送総局の方に分掌してやってもらっている。自主自律を堅持しながら、事実に基づいて、公平公正、不偏不党といいますか。そういう公共放送としての、守らなくちゃいけないスタンス。これをしっかり守るというのは、口を酸っぱくしてやっている。それを踏まえた上で、現場でやってくれ、と言っています」と表明していた。

番組内容が虚偽だったり取材手法に問題があったのならともかく、郵貯の不適切営業を取りあげた番組制作を止めなければならないとは、上田も考えていなかったに違いない。

だが、NHK経営委員会の石原進委員長(当時)や森下委員長代行(現委員長)から見れば、こうした上田の姿勢そのものに問題があった。
制作現場に任せ、政権批判をされては困る、ということだ。

石原は日本会議と関係があり、安倍政権と非常に近い。森下は安倍総理を囲む「四季の会」のメンバー。安倍が政権批判報道に神経を尖らせ、メディアに対して有形無形の圧力をかけてきたことは周知の事実である。
(脱線するが、石原を最初にNHK経営委員に任命したのは民主党政権(菅内閣)だった。「九州」枠で選ばれたと言うが、脇の甘さはこういうところにも表れる。)

こうして、戦いの構図は、「NHK」対「NHK経営委員会 + 日本郵政」に変わった。
(経営委員の全員が石原と森下に同調したわけではなさそうである。しかし、両名に反対して断固戦った者もいなかったようだ。NHK経営委の議事録的なものには、上田NHK会長に対する注意は、経営委員会の「総意」として行われたと書いてある。委員の一人でも頑強に抵抗すれば、この手の文書に「総意」という単語を載せることはできない。)

石原と森下は日本郵貯がつけた難癖に乗り、経営員会に上田を呼んで叱責した。
上田は抵抗するも、経営委員会には放送法に基づく「(NHK)役員の職務の執行の監督」権限があった。

2018年10月23日、NHK経営委員会は上田に厳重注意を行う。
立場上、上田も最後は経営委員会に逆らえない。最終的に上田は日本郵政側へ詫び状を出させられた。(実に子供じみている!)

こうした経緯を最初にすっぱ抜いたのが昨年9月26日の毎日新聞「NHK報道巡り異例『注意』 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期」という記事だった。

本来なら、石原や森下は自らの不適切営業を隠蔽したい郵政側を一喝し、NHKに対して「理不尽な抗議に屈するな」と激励する立場にあったはず。
だが、現実は違った。

2018年10月23日に行われた当該経営委員会の議事概要――当初、存在しないとされた――は、国会で批判されたことを受けて1年以上たった昨年11月1日に出てきた。
それは発言者が表に出してもよいと認めた発言のアウトラインであり、フルバージョンの議事録ではなかった。他の議題については発言者と発言内容がわかるのに、NHKのガバナンスに関する討議の部分だけ、発言者名が伏せられ、発言は極めて抽象的に要約してある。

議事概要には、議論の締めの部分だけ、「今回のことについて、いまだ郵政3社側にご理解いただける対応ができていないことについて、経営委員会として、誠に遺憾に思っている」という石原の具体的な発言が載せられている。
後段の「誠に遺憾」という発言を明らかにしたかったのだろう。だが、印象に残るのは、郵政に媚びへつらった前段の言葉遣いである。実に浅ましく、おぞましい。

11月13日の分の経営委員会に至っては、議事録の末尾に下記の文章が(昨年11月1日付で)追記されているのみだ。

○ NHKのガバナンスについて
平成30年11月7日付で、改めて日本郵政株式会社取締役兼代表執行役上級副社長より、NHK経営委員会宛に書状が届いたので、情報共有を行った。
会長に申し入れを行った内容のうち、本件の措置についての報告は求めないことを、経営委員会として確認した。

「情報共有」であって議論ではないから議事録は作りません、本件の措置については報告不要と確認したので議事録はありません、ということにしたかったのだろう。
こんな組織体が「NHKのガバナンス」を云々するとは、とんだ茶番である。

毎日新聞の記事が出ると、経営委員会による「放送現場への介入」という批判が(与党以外では)噴出した。

昨年10月11日、石原は国会に呼ばれ、「経営委員会は番組の内容や中身に立ち入ることは法律上禁止されている」という珍答弁を披露した。犯罪は法律によって処罰されるから、世の中に犯罪は起きない、と言っているのと同じだ。

この問題の追及に執念を燃やす毎日新聞は、この時の議事録に載っていなかった森下の言葉を取材によって復元した。それが冒頭で紹介した今年3月2日付の記事である。

毎日新聞によれば、2018年10月23日の経営委員会で森下は「郵政側が納得していないのは、本当は取材内容だ。本質はそこにあるから経営委に言ってきた」と述べていた。

森下は国会に呼ばれ、「いろいろと自由な意見交換をする中での言葉だったと思う」と自身の発言を事実上、認めた
番組編集への介入があったことは明らかであり、これを見逃すのであれば、何が放送法違反になるのか、私にはわからない。

森下の釈明は、「具体的な制作手法について指示したものではない。経営委員が番組編集に関与できないことは認識している」というもの。
具体的な制作手法について指示しなければ、日本郵政を怒らせない内容の番組にしろ、というニュアンスを伝えても、番組編集への関与にならないとでも言うのか?

こんな人物が今、経営委員長に収まっている。しかも、二代続けて、だ。

報道の自由を取り戻すために

2019年6月27日、かんぽ生命は2014年以降に不適切な契約が約2万4千件あったと発表し、7月10日にはかんぽ生命と日本郵便が第三者委員会を設置して調査することを表明した。

日本郵政の幹部はNHKに蓋をすることには成功したかもしれない。しかし、腐敗の実態は隠そうとしても隠しきれないほど、巨大かつ醜悪だったである。

その後、7月31日にNHK(クローズアップ現代+)は「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」というタイトルで続編を放映した。

今度は郵政側もさすがに抗議できなかった。2018年4月24日のクローズアップ現代+が間違っていなかったことも、事実によって証明されていた。

これを以って一件落着でよいのか? そんなわけがない。
一度大きく傷つけられた報道の自由を回復するためには、最低限、以下の三つのことを実現すべきだ。

第一は、森下俊三NHK経営委員長の解任。
その必要がないと言うのであれば、経営委は改ざんされていない議事録を公表し、毎日新聞の記事を否定すべきだ。

だが、先週3月5日に行われた衆議院総務委員会へ参考人として出席した森下は、議事録の公開を拒否した。

高市早苗総務大臣も、「より透明性を持った情報公開」を求めつつ、議事録公開を求めるところまでは踏み込まず。(そりゃあ、そうだろう。公開したら安倍のお友達を守れなくなる。)
一方、森下の発言については「現時点で放送法にただちに抵触するものではない」と庇ってみせた。

第二は、NHK経営委員会が上田NHK会長(当時)に行った厳重注意を取り消すこと。

日本郵便とかんぽ生命による大規模な不正営業の実態が明らかになり、クローズアップ現代+の番組が間違っていなかったことがわかった今も、2018年10月23日にNHK経営委員会が上田会長に対して行った厳重注意は取り消されていない。

これは「取材対象から抗議があった場合、NHK会長は取材対象の意向に沿うよう、番組制作上の指導を行うことが望ましい」と暗黙の裡に伝えたお達しが今も生きていることを意味する。
政権側から番組制作に関するクレームがあれば、NHK会長は時の権力者にご理解いただけるような対応をせよ、ということになりかねない。

昨年末、森下が石原の後任の経営委員長に選ばれた。ほぼ同時に、NHK会長には前田晃伸 元みずほファイナンシャル・グループ会長が就いた。前田も森下と同じく、四季の会のメンバーであった。

前田は就任時の会見で「どこかの政権とべったりということはない」と述べた。
だが、前田には、見かけによらず、食わせ者という評がある。件の厳重注意の趣旨を前田が体現し、「政権のためのNHK」にしないか、という危惧は少なからず残る。

そうした懸念を払しょくするためにも、根拠を失った――本当は最初から根拠などなかった――件の厳重注意は正式に撤回すべきだ。

最後に、NHK自身がNHK経営委員会の悪事を暴く検証番組を作り、世に問うこと。

報道の自由を守るためにある組織だと誰もが思っているNHK経営委員会が報道の自由を脅かした。その悪事を暴くことは報道機関であるNHKの務めであり、それを最もよく知る立場にあるのはほかならぬNHKである。

NHK自身にも、表に出したくない脛の傷がまったくないわけではないのかもしれない。クローズアップ現代+は、経営委員会による会長への厳重注意が番組制作へ影響したのではないかという疑念について、以下のように否定している。

去年(2018年)10月23日に、経営委員会が会長に行った厳重注意が、放送の自主・自律や番組編集の自由に影響を与えた事実はありません。前述のとおり、動画の更新作業や取材継続の判断は、去年(2018年)の7月から8月にかけて行われたものです。したがって、経営委員会による会長への厳重注意が番組の取材や制作に影響したことは時系列からみてもありえません。

しかし、これを額面どおり受け取ることはできない。
2018年7月から8月にかけて下した、取材継続をやめるという判断に日本郵政側の圧力は影響していなかったのか?
経営委員会による会長への厳重注意がなければ、クローズアップ現代+の続編放映は2019年7月ではなく、もっと早かったのではないか?

日本郵便とかんぽ生命の不正営業があまりに巨大であり、しかも、NHKは取材を通じてそれをいち早く察知していた。
続編が放映されて世間の関心が高まれば、日本郵便とかんぽ生命に騙される人は減ったはずであり、そのことはNHKの制作現場も痛いほど感じていたと思われる。

続編の放映が最初の番組放映から1年3ヶ月も後になった理由が「郵政のテーマを続編として深めて取り上げるには十分な取材が尽くされていなかったため」だと言われ、はいそうですか、と信じるほど世間は馬鹿じゃない。

NHKの制作現場は、悪いのはNHK経営委員会(特に石原と森下)だと思っていることだろう。それはほとんど正しい。

だが、その悪だくみを叩くことを毎日新聞任せにしている現状は、NHK側の落ち度だ。前田や幹部連中が押さえつけているのだろうか?

NHKが「経営委」化し、権力の犬になることだけは何としても避けなければならない。

 

NHKは今月1日から、ネット同時配信サービスを試験的に始め、4月には本格サービスへと移行する。受信料制度の抜本的な見直しも俎上にあがっていると言う。

NHK経営委員会を含めた広い意味でのNHKグループには、その前にやるべきことがある。自ら身をただすことだ。

日本郵政は解体すべきだ~③ユニバーサル・サービスの範囲を見直し、郵便局を「小さく」残せないものか?

今年1月17日に行われた記者会見。岩田一政 郵政民営化委員長は次のように述べた。

(かんぽ保険商品の不正営業によって)国民の信頼感を失ったことはこの長い歴史の中でとても悲しい出来事であったと思います。同時に、今回の問題を抜本的に改革することができれば、新しいステップ、本当に民営化してよかったというものにつなげていく可能性も秘めていると思っておりまして、例えば1月末に公表されます業務改善計画の中で抜本的なメスが入って、そのメスの中に(民営化後をにらんだ)新しいビジネスモデルになるようなものが出てくれば大変に望ましいと思っております。

何とも能天気なことだ。「規制緩和(民営化)すれば、経済はよくなる」という時代遅れのエコノミストとして、面目躍如と言ったところか。

日本郵政グループにおける不正営業問題は、全体像すら未だに把握しきれていない。それが収益面へ及ぼす悪影響も計り知れない。
にもかかわらず、不正営業問題がもう峠を越したかのごとく、岩田は「新しいビジネスモデルを!」とグループ各社の新経営陣に求めた。はっぱをかけられた新経営陣たちも鼻白んだに違いない。

日本郵政グループ各社の経営は、郵政民営化法が規定する「郵政民営化」の枠組みの中でしか行えない。法律の制定は2007年の小泉改革に遡り、2012年の改正を経て今日に至っている。

今日、既存の「郵政民営化」の枠組みの下で日本郵政グループが将来にわたって安定的に収益をあげることはできるのか――? 誰もが疑問に思い始めている。

苦境の中で無茶をした結果、かんぽ保険商品の不正営業問題(日本郵便とかんぽ生命)や投資信託の不適切販売(ゆうちょ銀行と日本郵便)が起きたと言えよう。
今、「郵政民営化」の枠組みそのものを見直すべき時が来ている。

だが残念ながら、郵政グループの経営形態を描き切るという大仕事は私の手に余る。
本稿では、現在の「郵政民営化」の枠組みが持つ問題点を明らかにし、見直しの方向性について若干の考えを述べるにとどめたい。

郵政「民営化」の実態

現在、小泉純一郎が企図した「郵政民営化」はその完成形に向かう途上にある。
しかし、「郵政民営化」の行きつく先と一般人が思い描くような民営化は大きく異なっている。

第一に、民営化が完了した時点でも、政府はグループの中核をなす「日本郵政」が発行する全株式の3分の1超を保有し続ける。これは法律に明記されていることだ。

持ち株比率が3分の1を超えていれば、株主総会で特別決議を否決することができる。したがって、「民営化」された日本郵政が定款の変更、解散、合併、事業譲渡などを行おうとしても、日本政府は拒否権を持つ。

現在の日本政府の持ち分(財務大臣名義)は約57%である。政府は昨年5月に主幹事証券会社を決定し、昨秋にも保有比率を(法律上の下限である)3分の1まで下げるつもりだった。しかし、保険商品の不正営業問題によって株価が下落したため、株式の売却も見合わせることになった。

法律上、日本郵政株の政府持ち分を3分の1超まで減らさなければならない期限は2022年度まで。だが、政府は今国会にも関連法律を再び改正し、この期限を2027年度まで延ばす考えだという。

昨年、政府が株式を売り出そうとしたのも、郵政民営化を進めるためというより、東日本大震災の復興財源を捻出するため、という側面が大きかった。今後は「法律上、政府の持ち株比率は3分の1なのだから、現状(57%)のままでよい」という意見が出てきても私は驚かない。

第二に、今も将来も日本郵政は日本郵便の全株式を保有し続ける。当然、日本郵便は非上場だ。そして、日本郵政と日本郵便にはユニバーサル・サービスの義務がかかる。

第三に、日本郵政はゆうちょ銀行とかんぽ生命の全株式を売却することになっており、二社は少なくとも株式保有面ではおそらく完全民営化される。
おそらく、と言うのはどういうことか?

民営化がスタートした時、ゆうちょ銀行とかんぽ生命は日本郵便と同様、日本郵政(=国が100%出資)の完全子会社であった。
その後、2015年11月に両社株式の11%が売り出され、かんぽ生命については2019年4月にも追加売却が行われた。
今日、日本郵政はゆうちょ銀行の89%、かんぽ生命の64.5%の株式を保有している。

小泉政権下で成立した郵政民営化法によれば、日本郵政はゆうちょとかんぽの全株式を2017年9月までに売却することになっていた。
しかし、2012年に民主党政権下で法改正された結果、2017年9月という時期は削られ、「できるだけ早期に」全株を売却すればよいことになった。努力義務規定のようなものだ。

自民党が政権に復帰して7年以上たつが、法律を再改正して全株売却の時期を明示しようという動きは微塵も見られない。2012年の法改正には、当時野党であった自民党や公明党も賛成したのだから、それも当然だ。小泉進次郎が「父親の改革をやり遂げる」と言っているのも聞いたことがない。
郵政民営化に対する熱狂は、小泉純一郎と共に来たり、小泉純一郎と共に去ったのである。

今や、ゆうちょとかんぽの株式売却に熱心なのは、その売却益を東日本大震災の復興財源にあてたい財務省だけだ。その財務省にも往年の力がないことは周知の事実。

ゆうちょ銀行とかんぽ生命の日本郵政持ち分がゼロになり、資本面で文字どおり民営化が実現する日は果たして来るのだろうか?
仮に形だけ民営化したとしても、旧特定郵便局長会、労働組合、総務(旧郵政)省、そして過疎地にも郵便局を残したい政治家たちが、あの手この手を使って既得権を温存しようと画策するに違いない。

「民は成功する」というカビ臭い信仰

ゆうちょ銀行とかんぽ生命に対する(日本郵政を通じた)国の出資がなくなれば、官であるが故の不自由さがなくなり、経営的にも自立していける――。それがいわゆる民営化論推進論者たちの描くシナリオ(=岩田の言うビジネスモデル)だ。

国営であればもちろん、直接・間接を問わず国の出資が残る限り、ゆうちょ銀行やかんぽ生命は「潰れることはない」と考えられるため、民間金融機関側はハンディを負う。官民の競争条件をそろえるため、ゆうちょやかんぽには他の民間金融機関にはない規制がかけられてきた。

「郵政民営化」のプロセスが動き出すと、国の出資割合が減るにつれてゆうちょ銀行やかんぽ生命にかかる規制も緩められた。最終的に国の出資がゼロになれば、規制は他の民間金融機関並みにまで下げられる。

例えば、民間の銀行であれば、預金保険の適用額は別にして、預金を受け入れる金額に制約はない。だが、郵便貯金への預入については、従来(=1991年以降の場合)1000万円の限度額が設定されていた。

「民営化」が進むと、2016年4月に預入限度額は1300万円まで増やされた。
さらに2019年4月以降、通常預金と定期性預金でそれぞれ1300万円、合計で2600万円となって今日に至っている。

同様に、かんぽ生命への加入限度額は1986年以降、ずっと1300万円だった。2016年4月、限度額は2000万円まで引き上げられた。

日本郵政を通した国の出資割合がゼロになれば、こうした限度額は撤廃される見込みだ。

では、ゆうちょ銀行やかんぽ生命が「完全民営化(=国の出資割合がゼロになる)」し、規制が大幅に緩和すれば、両社にはバラ色のビジネスモデルが待っているのか? そんなことを信じている者がいるとすれば、竹中平蔵や岩田くらいのものだ。

待ち受ける「茨の道」~金融機関 冬の時代

ゆうちょ銀行とかんぽ生命の業界内での位置づけを見ておきたい。

ゆうちょ銀行の貯金残高は昨年12月末時点で約184兆円。三菱UFJ銀行の預金残高が約181兆円(昨年9月末時点)だ。規模の面から見れば、ゆうちょ銀行は国内トップ・クラスの銀行と言えなくもない。
収益面では、2018年度決算で三菱UFJ銀行の当期利益は4,872億円(連結)だったのに対し、ゆうちょ銀行の数字は2,661億円。儲かってこそいるが、規模の割には見劣りしている。

かんぽ生命の2019年3月末時点の総資産は73.9兆円。数字としては十分に大きいが、ピークだった2002年3月末の126兆円に比べれば、何と4割以上も減っている。2018年には日本生命に抜かれ、長年君臨してきた首位の座から陥落した。
収益面でも、第一生命や日本生命が4,000億円超(連結)なのに対し、かんぽ生命は2,651億円と差をつけられている。

ゆうちょ銀行とかんぽ生命の業界内での位置づけは、「筋肉質でない巨人――かんぽ生命の場合、背丈の縮小が著しい――」と言ったところであろう。

ゆうちょ銀行とかんぽ生命が直面する困難には、①我が国の金融機関に共通の問題と、②ゆうちょ銀行とかんぽ生命に独特な問題、という二つの側面がある。

今日の日本の金融機関を取り巻く収益環境は、例外なく非常に悪い。
人口減少の続く日本では資金需要が弱く、預金だけが続く状況が長期間続いている。
加えて、金融とテクノロジーの融合が進み、金融機関はますます装置産業化、それに対応するために甚大なコストがかかる。
金融業で生き残るのは、どの金融機関にとっても大変な時代になった。

2019年3月期、地方銀行――地域においてゆうちょ銀行と地盤が重なっている――約100行のうち4割以上が本業で赤字だった。今年の3月期はもっと厳しいと思われる。大手行ですら、この数年間の収益は頭打ち。(例えば、三菱UFJ銀行はこちら。)
ゆうちょ銀行の低迷傾向はさらに顕著である。

こうした「金融機関・冬の時代」にあって、ゆうちょ銀行には収益の柱がなく、今後も見つかりそうにない。これはちょっと、絶望的と言える。

郵便貯金の時代は、全国津々浦々の店舗網を通して貯金を集め、国債で運用すれば利鞘が稼げた。貯金を多く集めれば集めただけ、収益もあがる、というビジネスモデルだった。
超低金利の続く今日、ゆうちょ銀行は(他の金融機関と同様に)運用難に苦しんでいる。

ゆうちょ銀行はもともと貸出し業務はやっていなかったため、昨年末時点で貸出し残高は4.7兆円(運用資産の構成比で2.2%)にすぎない。企業の資金需要が減る中、ノウハウに乏しいゆうちょ銀行が今後も貸し出しを伸ばすとは期待できない。

投資信託の販売手数料で稼ぐのはどうか? 日本中の銀行や証券会社が同じことをやっている。投信の知識が格別にあるわけでもない ゆうちょ銀行だけがガンガン数字を伸ばせるわけもない。そこで無理をした結果が、昨年表面化したゆうちょ銀行(及び日本郵便)による投信不正販売問題であった。

勢い、運用の中心は株式を含む有価証券投資となる。昨年末の有価証券残高は約137兆円(運用全体の64.4%)。
うち日本国債が53.2兆円を占めるが、10年ものでさえ利回りはマイナスだから、近年は残高の低下が著しい。
代わりに増えているのが外国証券で67.6兆円となっている。ただし、これもリスクと背中合わせだ。リスク・テイクが必ずしも悪いとは思わない。だが、資金運用益に過度に依存する収益構造が危うさを抱えていることは間違いない。

資金粗利鞘は低下を続け、2015年度に0.66%あったものが、2018年度には0.48%となった。
世界経済が順調に伸びていた時でさえ、日本はデフレで異次元の超低金利政策が続いた。今後、米中貿易戦争や新型コロナウイルスの蔓延など、世界経済はきびしい時代を迎える可能性が高い。報道によれば、ゆうちょ銀行が外部からスカウトした資金運用担当者も社外流出している模様だ。利鞘の一層の縮小は今後も避けられまい。

かんぽ生命の収益環境も良くない。

こちらは超低金利が続き、貯蓄性の高い養老保険の残高がはげ落ち、それを補うだけの商品開発力もないため、契約の残高自体が減少している。運用難は生命保険会社にもあてはまる。
こうした状況下で民営化(株式売り出し)を進めるため、日本郵政グループは無理なノルマを立て、郵便局を舞台にした保険商品の不正営業問題を招いた。

2020年3月期、かんぽ生命の当期利益は増える見込みだと言う。でもこれは、営業自粛及び業務停止の影響によって日本郵便(郵便局)へ支払う手数料が減った、というかんぽ生命独特の要因に依るもの。不正営業の代償は今後、(今期のプラス分以上を)間違いなく払わなければならない。「かんぽ生命=安心」というブランド・イメージも大きく傷ついた。

国の(間接)出資がゼロになり、民間金融機関との間で限度額や商品の品ぞろえに関するハンディがなくなれば、ゆうちょ銀行とかんぽ生命にとって経営上の自由度が増すのは確かだ。しかし、それだけで乗り越えられるほど、ゆうちょ銀行とかんぽ生命を取り巻く環境は甘いものではない。

今のまま「郵政民営化」を断行することは、国の関与という安全装置を捨て去り、嵐の中に帆船で漕ぎ出そうとしているようなものだ。ご苦労様、としか言葉が浮かばない。

郵便局との特殊なもたれあい

日本郵政が保有しているゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式をすべて売却すれば、ゆうちょ銀行とかんぽ生命は、資本面では国との関係が切れる。(下図参照。)

理論上、政府の間接出資から脱したゆうちょ銀行とかんぽ生命は、経営者の判断で他の金融機関と合併することも自由だ。株主が二社を別の金融機化に身売りし、売却益を得たいと考えても、資本の論理からは当然のこととなる。

一方で、2012年に郵政民営化法が改正され、日本郵政と日本郵便(郵便局)は「簡易な貯蓄、送金及び債権債務の決済」と「簡易に利用できる生命保険」をユニバーサル・サービスとして行う責務を負っている。(以下を含め、こちらの資料を適宜参照した。)全国あまねく郵便局において、銀行窓口業務と保険窓口業務を郵便窓口業務と一体で行わなければならない、というわけだ。

現在、郵便局では、ゆうちょ銀行が銀行窓口業務を、かんぽ生命が保険窓口業務を、郵便局(日本郵便)に委託することによってユニバーサル・サービスが維持されている。その際、ゆうちょ銀行とかんぽ生命は日本郵便に委託手数料を支払い、日本郵便にとってはそれが貴重な収入源となっている。

法律上はユニバーサル・サービス義務のかからない ゆうちょ銀行とかんぽ生命にしてみれば、過疎地の郵便局にまで委託手数料を支払うことは採算的に合わず、本来、資本の論理に反した行為である。
今は日本郵政が支配的な親会社だから、それを曲げさせることができる。だが将来、「完全民営化」してしまえば、ゆうちょ銀行やかんぽ生命の株主たちは何と言うだろうか?

採算のとれる郵便局だけに窓口を置くような「いいとこどり」を日本郵便側が認めることはない。
だが、郵便局と絶縁すれば、ゆうちょ銀行やかんぽ生命は広範な店舗網を失う。貯金も保険も残高が大幅に減り、運用難以前の問題として経営は苦しくなるだろう。

郵便局の方も、単独で銀行・保険の窓口業務を行うだけの人的リソースや資金力は持っていない。郵便・銀行・保険の三業務でユニバーサル・サービスを維持するためには、銀行と保険は他社に頼らざるをえない。

都市部で立地条件のよい郵便局であれば、他の銀行や生命保険会社に業務委託することもできようが、それ以外はむずかしいはず。過疎地も含めて銀行・保険の窓口を維持できなければ、ユニバーサル・サービスは維持できない。

このように見ると、資本関係が完全に切れたとしても、日本郵便とゆうちょ銀行、かんぽ生命は「持ちつ、持たれつ」の関係が終わるとは限らない。
だが、その関係が残る以上、「完全民営化」後のゆうちょ銀行やかんぽ生命を買収しようという金融機関は出てこないと思うべきだ。ゆうちょ銀行やかんぽ生命側が大規模な合併を追求する場合も、日本郵便との関係が障害となるのは間違いない。

ゆうちょ銀行やかんぽ生命が民営化されれば、サラリーは青天井で出せるようになるため、他の金融機関から有能な経営者を招聘すればよい、という議論がある。
しかし、本当に有能な経営者なら、いくら高いサラリーを積まれても、経営上の制約がこんなに大きい会社の経営を引き受け、失敗して経歴に傷をつけるような愚は犯さない。

ちょっと脱線する。
小泉純一郎と竹中平蔵がタッグを組んで推し進めた郵政民営化は、資本面の国の関与を弱めるという表面だけを取り繕ったものにすぎない。その奥にあった郵政ファミリーの既得権益との戦いには踏み込めなかった。
小泉は、郵政民営化の道筋をつければ、郵政ファミリーの既得権益構造も時間と共に自壊していく、と思っていたのかもしれない。しかし、そうであれば、小泉はもう少し総理大臣の座にとどまるべきであった。
「法律は往々にして、制定よりも実施の方が肝である」というのが永田町の鉄則。本当に結果を出したければ、政治家は淡白であってはならない。

ユニバーサル・サービスを問い直せ

小泉流の郵政民営化を予定通り断行しても、どでかい図体のゆうちょ銀行やかんぽ生命が生き残ることは中長期的に困難を極めるだろう。身売りするにしても、日本郵便との関係がネックになる。

かと言って、ゆうちょ銀行やかんぽ生命を国営に戻したところで、非効率が温存されるから儲けは減る。日本郵政グループを維持するためには、直接、間接を問わず税金投入を膨らませなければならない。

事ここに至っては、新しい改革と言うのだろうか、日本郵政グループのあり方をもう一度考え直すことが必要だ。

再考する際の出発点は、ユニバーサル・サービスの範囲である。

ユニバーサル・サービス自体は、税を投入してでも守り抜くべきである。
地方や過疎地に住んでいるという理由で都市部に住んでいる人よりも極端な不自由を強いられる、ということはあってはならない。
だが同時に、地方と都市部で同等のサービスが受けられる、というのも現実的ではない。
結局、問われるのは、地方でも保障されるべき「必要最低限のサービス」とは何か、ということ。

今日、郵便、簡易な貯金・決済、簡易な生命保険についてユニバーサル・サービスが義務化されていることは既に述べた。これを郵便と簡易な現金・決済機能のみに縮小すべきだ。

国際的に見ても、郵便はユニバーサル・サービスと位置づけられている国が多い。例えば、米国、英国、ドイツ、フランス、イタリアでは、郵便のみがユニバーサル・サービスの対象となっている。

民間の宅配便業者などが信書の配達を全国津々浦々まで低額で引き受けてくれるか、ユニバーサル・サービス込みで日本郵便を買収してくれれば、郵便事業をユニバーサル・サービスとして法律で規定する必要はない。
だが、そんな民間企業は現れそうにない。万一現れたとしても、当該民間会社から後になって「やっぱりユニバーサル・サービスは無理」と言われたら、大変なことになる。

ただし、郵便事業を今後もユニバーサル・サービスの対象とすることと、今の日本郵便のような会社形態をとって事業の多角化や拡大をめざすのがよいかは別問題だ。
狭義の郵便業務に特化し、事実上国営として当面存続させるという選択肢もある。

通信技術がさらに進み、同時に人口減少と過疎化が進行すれば、郵便事業が先細りになることは避けられない。手を広げない(むしろ、縮小する)かわりに赤字は(実質的に)税金で補填する、と発想を切り替えるのだ。

郵便料金の値上げや配達頻度の低下――「郵政民営化」の実施後に顕在化した合理化の一種である――など、税金投入を最小限にする手立ては引き続き講じるべきであろう。

銀行機能のうち、貯蓄(投信等を含む)については、自分の町に金融機関がなくなっても、近隣の市町村にある金融機関へ行ける。もちろん、不便にはなるが、生活できないとまでは言えない。申し訳ないとは思うが、我慢してもらうしかない。
今後、ネット取引がますます便利になれば、わざわざ金融機関の窓口へ行くことは、都会でも地方でもどんどん減っていく。

保険機能についても同様だ。自分の住む町に保険会社(窓口)がなくても、近隣から外交員が訪問することは今も行われている。

仮にゆうちょ銀行やかんぽ生命が過疎地や不採算地域での業務を縮小・廃止しても、(不便にはなっても)生活できなくなる、とまでは言えない。貯蓄や保険のような「享受する時間に比較的猶予のあるサービス」については、全国あまねく保証されるべき必要最小限のサービスとみなさなくてよい。

悩ましいのは、ゆうちょ銀行が担っている現金引き出し・決済機能である。

日本では、カード決済に対応できない住民や店舗がまだまだ多い。都会に住んでいる人でも、現金なしで生活できる人はほとんどいないはず。
キャッシュレス化社会になるまで、相当な長期間にわたって現金の引き出しや送金機能は必要であり続ける。

ゆうちょ銀行が完全民営化されれば、過疎地や地方の不採算店舗は縮小、廃止を免れない公算大だ。足りなくなった部分は、地方銀行、信用金庫、信用組合、農協、コンビニ等に期待するしかなくなる。しかし、他の地方金融機関も経営環境はきびしい。ゆうちょ銀行の穴を埋めるどころか、郵便局以外に金融機関のない町村――2015年時点で24あった――は今後も増え続けよう。

田舎(過疎地)に住んでいるのだから現金が引き出せなくても仕方ない、と言うわけにはいかない。したがって、簡易な現金・決済機能は少なくとも当分の間、全国あまねく維持されるべき「必要最小限のサービス」に含められるべきだと思う。

簡易な現金・決済機能をユニバーサル・サービスとして維持するとしても、そのためだけにゆうちょ銀行(またはゆうちょ銀行を買収した金融機関)に現在の店舗網――郵便局を通じた窓口機能を含む――を維持するよう求める、というのも非現実的だ。

郵便事業はユニバーサル・サービスが将来も義務化され続けるため、郵便局は(税投入してでも)過疎地を含めた市町村に将来も維持される。その郵便局やコンビニ、役場などへ他の金融機関のATMを置いてもらい、必要な経費は国が出す、というのも一つの方法だと思う。その際、過疎地ではATM取扱手数料を無料にする、くらいの配慮をしても罰は当たらない。

維持すべきは、簡易な現金・決済「機能」である。それを行う「窓口」ではない。

ユニバーサル・サービスとして全国あまねく維持されるべき業務を、現在の「郵便」「簡易な貯金・決済」「簡易な生命保険」から「郵便」と「簡易な現金・決済」に絞れば、「完全民営化」されたゆうちょ銀行とかんぽ生命が企業価値を高めるためのシナリオも様々に描ける。経営を効率化したうえで、合併や身売りの展望も開けてくる。

郵政民営化のあり方をかくも大胆に見直すのであれば、日本郵政がゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式を市場で売り出す、という現在のやり方も見直した方がよい。
合併や身売りを視野に入れ、政府の責任で提携相手先を見つける。条件次第では、相手が外資でも別に構わない。そして、日本郵政が持つ株式は相対でそこに売る。その方が、全株を市場に売り出すよりも、話は早い。

ゆうちょ銀行もかんぽ生命も、郵政公社の時代から旧郵政官僚、旧特定郵便局長、組合などがもたれあう構造を引きずっている。今回のかんぽ保険不正販売が拡大したのも、この構造が背景にあったからだ。
今のユニバーサル・サービスを維持したまま、市場を通じて株式を売り出して「完全民営化」しても、この構造はそっくり温存されかねない。

ユニバーサル・サービスを縮小することによって、ゆうちょ銀行とかんぽ生命をこの構造から切り離す。
そして、政府――総務省ではなく、金融庁か財務省が中心になる――の責任で身売り先を探し、完全な外部勢力である新経営陣の下で完全に生まれ変わる。

一方で、郵便事業は事実上国営で、郵便事業そのものが必要性を失うまで全国津々浦々に維持する。現金の引き出しや送金機能も同様に税金投入して最低限維持する。

民営化と国営化のハイブリッド――。それが私の考えた答だ。

日本郵政は解体すべきだ~②まるで他人事だった政府と民営化委員会

前回のポストでは、その不正営業について郵政グループ自身の責任を問うた。メディア情報を眺めていても、だいたいはそこで終わっている。だが、この問題で国に責任はないのか?

郵政グループは小泉改革によって「民営化」されたことになっている。しかし、その実態は「株式会社化」による「一部民営化」だ。
政府は今も日本郵政(=日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命などを傘下に持つ日本郵政グループ中核の持株会社)の発行済み株式のうち、約57%を保有している。日本郵政の出資比率は、日本郵便100%、ゆうちょ銀行89%、かんぽ生命64.5%となっている。半官半民よりも国有色が強い、と言えるだろう。

これが純粋な民間会社なら、大株主が経営に口出ししようがすまいが、私を含めて外野がとやかく言う筋の話ではない。しかし、日本郵政グループの場合、株式の過半を政府が出しているから、その経営がうまくいかなければ、株価の下落を通じて国民の資産が目減りする。過疎地などで住民が郵便・金融サービスを受けられなく可能性も出てくる。

圧倒的な大株主である国(政府)は、現場に一部いる不届き者や無能な経営陣をまるで他人事のように批判しているだけでは済まされない。

このポストでは、今回郵政グループで見られた不正営業問題について、監督機関であり同時に過半株主でもある国の責任を指摘したい。さらに、今後の郵政のあり方についても私見を述べる。

見て見ぬふりを決め込んだ政府

前回のポストでは、日本郵政グループでかんぽの保険商品販売をめぐって不正が横行し、それを経営陣が見て見ぬふり(あるいは、なす術もなく放置)したばかりか、隠蔽まで図ったことの責任を指弾した。(隠ぺい工作の詳細については次々回、NHK経営委員会の罪について書くときにきちんと述べる。)

では、国はこの間、何をしていたのだろうか?

国は、郵政の不正営業について二つの責任を有している。
一つは、監督官庁としての責任。郵政グループ全般に対しては日本郵政株式会社法に基づいて総務省が監督権限を持ち、いわゆる金融業務(銀行、投信、保険等)については金融庁が監督する。
もう一つは、日本郵政グループの実質的なオーナーとしての責任。これについては冒頭に書いたとおりである。

金融庁(対かんぽ生命及び日本郵便)と総務省(対日本郵政及び日本郵便)が昨年12月27日に行政処分を下した。
年が明けた1月10日の会見では、日本郵政の経営改革について麻生太郎財務大臣(兼金融担当大臣)は次のように述べている。

社風を一新しますとかね、一新しますなんて話は嘘八百なんだ。できっこないんだから、長い組織、しかも古い組織をね。そんな簡単に一新しますとかね、ちょっと辛抱強くやってもらわないかんということだと思います。

麻生らしい毒舌だが、そこにはどこか「他人事」という感じがつきまとっている。「悪かったのは郵政の連中、俺たちは監督機関としてちゃんと処分した。あとはちゃんとやってくれよ」とでも言いたいのだろう。

しかし、最終的に行政処分を下したからと言って、総務省や金融庁は責任をきちんと果たしてきた、と胸を張れるとは思わない。「1年遅かったんじゃないの?」ということだ。

2018年4月24日、NHKの『クローズアップ現代+』は「郵便局が保険を“押し売り”!? 郵便局員たちの告白」という番組を放映した。

この番組一つで金融庁が検査に入るべきだった、というのはさすがに乱暴かもしれない。だが、この頃、NHK以外にも郵便局で行われている不正を取り上げるメディアが出始めていた。

クローズアップ現代+が報じた内容は、金融機関としてあってはならない言語道断のものであり、事実なら郵政グループは金融機関として存続を許されないほど悪質なものだった。しかも、天下のNHKが何の根拠もなくこれだけの番組を流すわけがない、と思うのが普通の感覚である。

金融庁や総務省がよほど鈍感でない限り、遅くともこの時点では、不正を知る端緒をつかんだと考えてよい。であれば、この時点で郵政側に報告を求めるなど、何らかの警告を発するべきだった。

郵政の不正営業は、いつまでも「見て見ぬふり」を続けるには規模が大きすぎた。
しかも、2019年4月にかんぽ生命の株式を追加売却した後、不正営業の不祥事が表面化して株価が下がった。ここに至ってようやく、政府は重い腰を上げることになる。

実際に金融庁と総務省が郵政側に報告を求める命令を出したのは、2019年8月8日である。立ち入り検査に入ったのは、9月11日。
クローズアップ現代+から1年3~4ヶ月以上もの間、政府は何をボーっとしていたのか?

監督省庁がすぐに動くことはなかった。
一方でNHKは、2018年4月に上記番組を第一弾として放映した後、続編の制作にとりかかる。

ところが日本郵政グループの経営陣はNHKに事実上の続編中止を要求、それが認められないと知るや、NHK経営委員会を通じてNHK本体に圧力をかけた。はっきり言って、不正の隠ぺい工作である。
同年10月、経営委員会はNHK会長を厳重注意する。NHKによる第二弾の放映は2019年7月まで延期された。

身内の馴れ合い

この時期、郵政側の対応を主導したのは日本郵政上級副社長の鈴木康夫だったと言われる。と呼ばれた鈴木康夫だったと言われる。1973年に旧郵政省へ入省した鈴木は総務省事務次官まで昇りつめ、天下り後は「日本郵政グループのドン」と呼ばれた。当然、NHKに対しても睨みが効く。(総務省が放送行政を司っていることは説明するまでもないだろう。)

この鈴木という人物は相当癖のある御仁と見える。
NHKのクローズアップ現代+が続編を制作しようとしていたことに対し、「取材を受けてくれるなら(情報提供を呼びかけた)動画を消すなんて、そんなことを言っているヤツの話を聞けるか、と。それじゃ暴力団と一緒でしょ。殴っておいて、これ以上殴ってほしくないならもうやめてやる、オレの言うことを聞けって。バカじゃないの」と記者団に公言している。
郵政で行われていた不正を報道したというNHKの行為と、暴力団が因縁つけて殴るという行為を同一視するとは驚きだ。脛によほど大きな傷を持った人でないと、こうは言わない。

鈴木は古巣の総務相に対しても相当な発言力を持っていたらしい。
そのことが窺い知れる事件が昨年末に起きた。総務省の現職事務次官だった鈴木茂樹(1981年郵政省入省)が、こともあろうに郵政グループに科す行政処分の内容を事前に郵政側へ伝えていたことが判明、更迭の憂き目にあったのだ。
総務次官の鈴木が情報を漏洩した相手が郵政の鈴木である。

総務省による行政処分の内容が日本郵政側に漏れていた事件は、鈴木(郵政副社長)流に言えば、「警視総監が暴力団若頭に捜査情報を横流し」していたような、役人道にもとる不正だ。
監督官庁である総務省の情報が郵政側に駄々洩れとなっていたのは、この行政処分に関わるものだけだったのか?
鈴木副社長は総務省に対して自社に有利な取り扱い――NHKへの圧力を含む――を要望していたのではないか?
疑いは尽きない。

漏洩の発覚を受けて即刻、高市早苗総務大臣は鈴木茂樹次官を停職3ヶ月に処した。これは一見、果断な対応に見えた。しかし、鈴木は処分を受けて辞表を提出し、辞職が認められた。多少は減額されるのかもしれないが、退職金も支払われるのであろう。

人事院の指針には、「職務上知ることのできた秘密を故意に漏らし、公務の運営に重大な支障を生じさせた職員は、免職又は停職とする」とある。次官による情報漏洩がこの件(郵政に対する行政処分)にとどまらないのであれば、鈴木次官の行為は悪質と言わざるを得ない。免職もあり得たと思われる。

高市もそこまでは切り込めなかったようだ。高市は、次官が情報漏洩した理由について「聞いていない」と述べ、「同じ郵政採用の先輩後輩の中でやむえない状況があったのではないかと拝察」したと言う。これだけの一大事なのに、郵政の鈴木副社長へ総務省として聞き取りを行うこともしなかった。

総務省OB(特に旧郵政省OB)は相当数、日本郵政グループで勤務している。その実態を踏まえれば、「鈴木―鈴木」ルート以外で総務省から郵政側へ情報が漏洩していたのではないか、と疑うべきことは当然。しかし、高市は調査対象を拡大する必要性を認めなかった。

高市は後に、次官を処分した時のことを振り返り、「素人の女大臣が何を考えているのか」「情報漏洩じゃなくて情報共有じゃないか」と言われ、「総務省の職員全員を敵に回したんじゃないか、皆さんの力を借りて総務大臣の仕事を進められるのか。悩みに悩んだ」と告白している。何とも線の細い政治家でいらっしゃることか。

こう見ていくと、鈴木次官更迭劇も(バレたのは誤算だったにしても)新旧郵政官僚連合軍の「優勢勝ち」と判定する方がよいのかもしれない。

癒着は続く

鈴木次官による情報漏洩が明るみに出たことにより、総務(旧郵政)官僚の郵政グループへの天下り的な就職がなくなる、という期待が一部にあるようだ。

昨年12月20日の記者会見で高市は「郵政グループの取締役クラスに旧郵政省採用のOBが入ることはマイナスが大きい」「来年の郵政の人事のときに私が閣僚かは分からないが、認可するかどうかの基準として考えたい」と述べた。

これを受け、12月24日には菅義偉官房長官も「(高市)総務相が『日本郵政の取締役に総務省OBが就任するのは行政の中立性、公平性の確保の観点から適切ではない』と述べている。総務相の言う通りだ」と歩調を合わせた。

だが、こうした言葉を真に受けることはできない。
論より証拠、今年1月6日付で発足した日本郵政、日本郵便、かんぽ生命の人事は、ものの見事に旧郵政官僚を経営陣に温存(一部は抜擢)している。(前回のポストを参照。)政府側が本当に断固とした姿勢で総務省と日本郵政グループに天下った官僚OBとの癒着を断ち切るつもりがあるなら、ここから始めるべきだったはずだ。

日本郵政の鈴木副社長(当時)は官房長官の菅とも年に数回会っていたと言う。菅は郵政民営化法成立(2005年10月)後に郵政担当の副大臣を務め、2006年9月には総務大臣となって郵政民営化担当大臣を兼務した。二人の付き合いが当時に遡るであろうことは容易に想像がつく。

菅が鈴木に頼まれて郵政のために動いた、という証拠はない。
しかし、鈴木が対NHKや対監督省庁に対し、有力政治家の力を利用したという疑念は拭い去れない。金融庁や総務省が官邸への忖度から郵政の不正営業に関する検査等に躊躇した可能性もある。

総務官僚と日本郵政グループに天下った郵政(総務)官僚OBとの癒着――それは事実上、総務省と日本郵政の癒着にほかならない――はこれからも続くであろう。

お飾りの郵政民営化委員会

郵貯民営化の進捗を監視・検証するため、郵政民営化委員会が設置されている。5人の有識者から成り、委員長は岩田一政元日銀副総裁が務めている。

かんぽ保険商品の販売にまつわる日本郵政の不正は、民営化委員会にとって他人事だった。今年1月17日に行われた記者会見で岩田委員長が言いたかったことを要すれば、「私たちは関係ありません」というもの。イライラの募る内容だが、以下に会見のやりとりを一部紹介する。

○記者  かんぽ生命保険の不正ですけれども、一昨年、2018年4月のNHKの報道があって、(郵政民営化)委員会では一昨年5月に軽く触れた機会があったかと思いますが、その後も不正が拡大をしていたり、今、おっしゃったように、ガバナンスが全く機能していなかった。そういうことについて、委員会として見抜けなかった、見過ごしてしまったようなところについて、反省とかというものは何かおありなのかどうか。

○岩田  まず、郵政民営化委員会は直接、日本郵政を監督・指導するという権限を持っているわけではありませんで、基本的には民営化のプロセスが円滑に進行しているかどうかについての総合的な判断を行う。そして、それを総理までお伝えするのが基本的な役割であると思います。それで、個別の事案についてのそれぞれの監督ということは、基本的には総務省と金融庁がおやりになっておられるということかと思います。

岩田は「郵政グループの日々の経営に関わることは、自分たちの仕事ではない」と強調しているのだ。
冗談ではない。2月14日にかんぽ生命が発表したところでは、2019年4~12月期に個人保険の新規契約件数は前年同期比52.1%減の63万件、新契約年換算保険料も同47.4%減少して1438億円となった。10~12月に限れば、新規契約件数は1割程度に落ち込んである。さらに、不正営業の対象となった顧客の不利益解消経費として同期決算で40億円の引当金計上を余儀なくされた。
かんぽ保険商品の不正販売問題はかんぽ生命などの経営の屋台骨を揺るがす直接的打撃を与えている。これでも「郵政グループの日々の経営」だと言うのか?

実際には、クローズアップ現代+が最初に保険営業問題を報じた直後、民営化委員会で委員の一人(老川祥一 読売新聞グループ社長)がこの問題を取り上げていた。何故かその時の議事録がホームページに載っていないため、2019年7月29日の委員会議事録から老川の発言を以下に引用する。

当委員会において私は、昨年(2018年)5月24日の委員会で実情はどうなのだと、これがもし本当だと大変厄介なことだし、かんぽ生命保険に対する信頼を裏切ることになるから、そこら辺はどうなっているのですかと、かなり重大な問題だと思ったから質問しました。
当時のお答えは、信頼を損なうことのないように研修制度その他しっかりやっていきますと、こういう御説明で、私もそれで安心したのですが、何と1年後にこういう問題が出てきている。(中略)
一般の人たちに与えた不信感というのは大変なことだと思います。まさかこんなことが行われているというのは想像もしていなかっただけに、大変残念に思っています。

正直言って、これでは全然生ぬるい。だが、老川はまだ問題意識が高い方だ。
議事録を読んでみても、他の委員たちの発言から怒りや憤りを感じることはできない。郵政側に対して彼らがしたことは「質問」であり、「追及」ではなかった。

実はこの時、岩田委員長は「かんぽ生命株式を売却した4月時点で郵政側が実態を知っていたのか?」という重要な質問を発している。
これに対し、郵政側は「契約乗換に係る苦情等が発生していることに対して個別に調査して対処してきているということは、個別論としては把握しておりましたが、(中略)量感としてはこの4月の段階では認識していなかった」と回答した。

よほどのお人よしでない限り、「本当かよ?」と突っ込むだろう。しかし、それを聞いた岩田は「把握していなかったということですね」と納得している。

このやりとりは委員会の後で行われた記者会見で披露され、世間的にはこの説明がまかり通ることになった。穿った見方をすれば、初めからシナリオのできていた芝居だったと見ることも可能である。

奇妙なことだが、2018年4月11日(201回)以降、2019年5月19日(202回)まで、民営化委員会は1年以上も開催されていない。老川が触れている2018年5月24日の委員会もホームページ上では確認できなかった。この時期はかんぽ保険商品の不正営業問題が覆い隠そうにも隠せなくなっていく時期と重なっている。どうも胡散臭い。

郵政民営化委員会の事務方トップは総務省からの出向者が務める。委員会で行われた議論や委員の関心事項はすべて総務省に――ということは日本郵政にも――筒抜けになる。実態としては、日本郵政にとって都合の悪い運営はされないことが担保されている、と思ったほうがよい。委員も役所の振り付けに忠実な場合がほとんどだ。(役所はそういう人を委員に任命するものである。)

今回の郵政グループの不祥事は民営化のプロセスで発生した。
「民営化を進めるために株式を売り出さなければならない」→「各社が収益をあげる必要がある」→「無茶でも何でも高いノルマを設定する」→「収益環境が悪い中、ノルマを達成するには不正営業も仕方ない」という悪の循環である。

こんなことをバレずに長く続けられるわけがない。株価は不正営業の実態が表面化するのと並行するように下落、低迷した。かんぽ生命の株式は昨年4月に1株当たり2375円で売り出されたが、その後下がり続けて8月には1500円を割り込んだ。今年2月14日の終値も1837円と昨年4月の売り出し価格を大きく下回っている。

こんな有り様では、次回以降の株式売り出しに支障が出ることは明らかだ。
岩田自身、不正営業問題について「(郵便局の)信頼を裏切るような事例が出てしまったということは、大変に遺憾な事態だと。もちろん、民営化にとってもマイナスの材料だ」と認めている。

だが、そう思うのであれば、民営化委員会はもっと早い段階――例えば、昨年夏とか――に事態が深刻であると対外的に表明すべきであった。
民営化委員会には不正問題を実態調査するだけの事務処理能力はない。しかし、政府内でアラームを発することならできた。それこそが委員会に最も期待された役割だったのではないか?
民営化委の無為には、情けなさを通り越して空しくなる。

 

かんぽ保険商品の不正営業問題--。郵政グループの対応は論外として、見て見ぬ振りできなくなるまで動かなかった政府と最後まで何もしなかった民営化委もひどい。

至る所に無責任のピラミッドあり、ということだ。

日本郵政は解体すべきだ~①不正営業と無責任経営

1月31日、日本郵政、日本郵便、かんぽ生命の3社は監督官庁(金融庁と総務省)に業務改善計画を提出した。昨年末に業務停止及び業務改善命令を出され、1月末が改善計画書を提出する期限だったのである。

かんぽ保険商品の販売に際して日本郵便とかんぽ生命で不正営業が行われたことは、今や知らない者はない。しかし、昨年12月18日に特別調査委員会が出した調査報告書を読んでも、どんな不正がどれほどの規模で行われたのか、全体像は明らかにならない。先日、業務改善計画書が出された際に追加報告がなされたが、それも不正の全容解明と言うにはほど遠い。「トゥー・リトル、トゥー・レイト」が続いている。

確かに、3人の社長(長門正貢日本郵政社長、横山邦夫日本郵便社長、植平光彦かんぽ生命社長)と日本郵政のドンと言われた人物(鈴木康夫上級副社長)は辞職した。しかし、それも見ようによっては「逃げ得」と言える。

不祥事が起こるたびに繰り返し言われるのが「真相解明」「責任追及」「再発防止」という言葉。本来、最大の再発防止策は厳格な責任追及、すなわち責任者の処罰である。だが、責任を追及するには不正の真相解明が大前提となる。今回の不祥事では、上記が三位一体で曖昧なままに放置されている。

日本郵政グループは、郵便、貯金、保険を生業とするが、儲けの中心は金融業。金融業は信用を旨とする。それを失ったままに総括を終わらせるのであれば、日本郵政に金融業を続ける資格はもはやない。

本ブログでは、日本郵政グループの不正営業――日本郵政や日本郵政に忖度するメディアは「不適切」営業と呼ぶようだが、それに付き合うつもりはない――を私なりの視点で点検してみたい。

罷り通った不正、続く過小評価

日本郵政グループにおける不祥事の根本は単純だ。グループ各社で「顧客だまし」の不正営業が――おそらく長年にわたって――横行していたことである。

「かんぽ保険」及び(かんぽと委託契約を締結した)「日本郵便」では、高齢者など顧客に嘘の説明をしたり、顧客の支払い能力や年齢による制約を無視したりしながら、多額の保険商品が詐欺まがいの手法で販売されてきた。詳しくは郵政側が行った調査報告書(昨年12月18日)や業務改善計画書(今年1月31日)を参照してもらいたいが、これがまたわかりにくい。昨年12月27日付で金融庁が行政処分を下した際の「Ⅱ.処分の理由」を読む方が遥かに手っ取り早いだろう。もっと具体的に不正のイメージを掴みたければ、NHK西日本新聞の特集を見ることをお勧めする。

「かんぽ生命保険契約調査 特別調査委員会」の調査報告によれば、2014 年4月から2019年3月までの間に、法令又は社内規則に違反する疑いのある保険契約が1万2,836 件あった。そのうち、2019年12 月15 日現在で、法令違反と認められた事案(不祥事件)が48 件、社内規則違反と認められた事案 (不祥事故)は622 件にのぼった。こうした不正に関与した募集人――個人向け保険販売のほとんどは日本郵便(郵便局)の募集人に行われている――の数は、少なくとも5,797人に及んだ。(先月31日の発表では、不祥事件は 106 件、不祥事故は1,306 件に膨らんでいる。)

不正そのものを示すわけではないが、保険の新契約について顧客から苦情が寄せられた割合も、郵政の数字は他の民間保険会社と比べて異常に高い。民間4社は2017年で0.42%、2018年で0.32%なのに対し、郵政はそれぞれ2.15%と1.46%。郵政の保険営業では、顧客から苦情が来る比率が民間他社に比べて5.1~4.6倍も多い、ということだ。
この数字を見て、郵政は金融機関として「終わっている」と思うのは私だけだろうか。

しかし、郵政が行っている調査の本当の問題は、「これでは調査になっていない」ということである。こんないい加減な内容を恥ずかしげもなく調査と称して出してくるとは・・・。唖然とするほかない。

第一に、特別調査委員会は「氷山の一角」しか調査する気がない。同委員会が投網をかけたのは「顧客から苦情のあった契約」が中心だった。顧客が騙されたことに気づいていない契約は「不正の疑いがある」案件にならない。

昨夏になって郵政は過去5年分の全契約約3千万件の調査に取り組むと発表した。だが、約1,900 万人の顧客のうち、今年1月28日時点で回答があったのは約 100 万通にとどまる。お年寄りをはじめ、金融商品の説明など、よくわからない人も少なくない。また、おかしいと思っていても様々な事情から――例えば、家族に知られたくないとか、(特に田舎では)地域における郵便局の募集人との関係を慮ったりするとか――苦情を申し立てない人もいるだろう。

1月31日の記者会見で日本郵政の増田社長は全件調査に触れて改革姿勢をアピールしようとしていた。しかし、増田が述べたのは結局、「顧客の気付きを促す」取り組みでしかない。今後もあくまで顧客からの申し立てに基づいて調査を進めるつもりのようだ。

それだけではない。調査期間が過去5年間に限定されているのは何故なのか、についても納得できる説明はない。ゆうちょ銀行と日本郵便による投資信託の不正販売調査が中途半端なものに終わってしまった。郵政グループの調査は、どこまで行っても不正の実態を過小評価し続けるだろう。

第二に、郵貯側が不正の疑いがあるとした案件(=顧客から苦情が寄せられた案件)のうち、アウトと判定されたのは、募集人が「自認」したものだけだった。これまた、開いた口がふさがらない。募集人が不正を働いていたとして、不正を働いたかと聞かれて正直に「やりました」と認めるケースよりも、認めないケースの方が圧倒的に多いだろう、ということは容易に想像がつく。

警察や検察は自白がなくても他の証拠があれば逮捕・立件するし、裁判でも自白なしで有罪の判決が下ることは十分にあり得る。「自白しなければ無罪」という判定がまかり通るのは、もたれあいの蔓延した郵政一家の中だけである。

さすがに金融庁も切れたと見える。行政処分を下した際に「事故判定やその調査において、顧客に不利益が生じている場合であっても、契約者の署名を取得していることをもって顧客の意向に沿ったものと看做し、募集人が自認しない限りは事故とは認定せず、不適正な募集行為を行ったおそれのある募集人に対する適切な対応を行わず、コンプライアンス・顧客保護の意識を欠いた組織風土を助長した」と郵政側を厳しく批判している。

金融庁から行政処分を解いてもらうためには仕方ない、と考えたのだろう。郵政側も業務改善計画書には「自認に頼らない事実認定・事故判定の実施」という文言を入れてきた。だが、どこまで本気で取り組む気があるのか? これまでのゴマカシ体質を考えれば、俄かには信用できない。

現場の責任――どこまで処分されるか?

業務改善計画書によれば、郵政側はガバナンスの改善など、様々な不正の再発防止策を(金融庁などの指示をなぞる形で)講じることにしている。だが、この種の不祥事が起きた時に最も有効な再発防止策は、責任の所在を明らかにして厳格な処罰を行うことだ。それがなければ、どんなに模範解答的な文言を連ねても、「仏作って魂入れず」である。

業務改善計画では、保険募集人と(現場の)管理職の処分については、総論として以下のとおり言及されている。

① 募集人処分における「業務停止」及び「注意」の追加
募集人処分については、従前は「業務廃止」と「厳重注意」の二段階としておりましたが、一定期間募集を停止させる処分等を追加し、不適正募集の態様・程度に応じた処分を実施します。
② 管理者に対する処分
不適正募集を発生させた募集人の管理者については、部下社員の過怠の程度に応じた厳格な処分を日本郵便に対して要請します。

業務廃止と業務停止の違いを含め、抽象的でよくわからない、というのが正直なところだ。不正営業の主な舞台となった日本郵便は、「懲戒処分運用」という項目を設けてもう少し具体的に書いている。

(ア) 特定事案調査等の結果に基づく処分
特定事案調査の結果に基づき、非違の認められた社員及び管理者に対しては、厳格な処分を実施します。かんぽ生命と連携し、不適正募集を発生させた募集人や募集態様に課題がある募集人に対する研修カリキュラム等を策定し、募集再 開に向けた研修を実施します。
(イ) 管理者に対する処分
全ての金融関係管理者を「保険募集品質改善責任者」に指定し、その役割を明確化した上で、過怠があった場合に厳格な処分を実施します。

そもそも、不正の全容がはっきりしないままで適切な処分などできるのか、という疑問がある。
しかも、この前段には、募集人が自らの違反行為を申告したり、調査への十分な協力を行ったりした場合には、募集人に対する処分を本来よりも軽減又は免除する、といった司法取引まがいなことまでさらっと書いてある。それくらいしないと不正を発見できないという情けない話の裏返しなのであろう。だが、「免除」はありえない。「処分の厳格化」が聞いてあきれる。

民間の金融機関と異なり、郵政グループは政治や行政と密接につながっている組織だ。
旧特定郵便局長会は今も自民党の集票マシーンとして動き、2019年の参議院選挙では柘植芳文(前職は全国郵便局長会会長)、2016年の参議院選挙では徳茂雅之(前職は全国郵便局長会相談役)を自民党でトップ当選させた。
郵政グループの組合(JP労組)も難波奨二と小沢雅仁の二名を立憲民主党から参議院議員として国会に送り込んでいる。

日本郵政グループは経営幹部に旧郵政省の流れを汲む総務省OBを受け入れてきた。
昨年の配置は、日本郵政が鈴木康夫上級副社長(元総務次官)、かんぽ生命が千田哲也代表執行役副社長(旧郵政省出身)、ゆうちょ銀行が田中進副社長(旧郵政省出身)、日本郵便が衣川和秀(旧郵政省出身)と要所を抑えていた。
1月6日から始まった新体制も、日本郵政の新社長には増田寛也(旧建設省出身、元岩手県知事、元総務大臣)を迎え、日本郵便は衣川、かんぽ生命では千田がそれぞれ昇格して新社長に就いた。

日本郵政グループが政治にも行政にも政治力を働かせられることは、グループ内の人脈構成からも明らかだ。果たして身内に厳しい処分を科すことができるのだろうか?

ノルマが生んだ不正。それを放置した罪

それでも、募集人や現場の管理職に対し、最低限の責任追及と処分が行われることになろう。では、経営陣に対してはどうか? こちらは、逃げ切る可能性がかなりありそうだ。

金融庁は、日本郵政グループによる不正営業が行われた理由として、①過度な営業推進態勢、②コンプライアンス・顧客保護の意識を欠いた組織風土、③脆弱な募集管理態勢、④ガバナンスの機能不全、という四点を指摘している。ごく大雑把に言えば、①は「行き過ぎたノルマ営業の横行」ということであり、②から④は「広義のガバナンス欠如」に関係している。

ちなみに、金融庁の指摘は、法令順守やコンプライアンスの観点から不正営業の蔓延を問題視したものだ。しかし、日本郵政グループ経営陣の責任は、ビジネス面でも格段に重い。

いつからかも定かでないが、日本郵政グループでは目先の収益を追って不正営業が生まれた。悪事が大規模に行われれば、世間に漏れる。その結果、昨年7月にはかんぽ商品の販売を自粛(当初は8月末まで、その後年内一杯に延長)し、昨年末には3ヶ月間の業務停止処分まで食らった。収益上のマイナスは相当なものになろう。

何よりも、日本郵政グループは長年培ってきた世間の信用を失った。不祥事の発覚以来、株価も大きく下げている。
金融庁・総務省から処分を受けようが受けまいが、十分に大きな経営責任がある、と考えるのが普通の感覚というものだ。

過剰なノルマ営業について金融庁は、「営業目標として乗換契約を含めた新規契約を過度に重視した不適正な募集行為を助長するおそれがある指標を使用し続けた上に、経営環境の悪化により、営業実績が振るわないことが想定されるにもかかわらず、具体的な実現可能性や合理性を欠いた営業目標を日本郵便とともに設定してきた」と指弾している。

モーレツ営業で知られる住友銀行(現在は三井住友銀行)から日本郵便社長に転じた横山がノルマ営業を進めた、という指摘もあるようだ。
昔は郵便局員が国家公務員だった流れを汲む日本郵政グループの職員とモーレツなノルマ営業で知られた住友銀行員では、能力もモラルも違いすぎる。しかも、このところ低金利が続いて金融機関の収益環境は最悪、保険商品も売りにくい。
いくら高いノルマを課されても、現場で目標を達成できない事態が起きたとしても不思議はなかった。

いずれにせよ、無茶な目標が不正営業を生んだことは、一流銀行のバンカーだった横山にとって想定外のことだったに違いない。
私は、ノルマ営業が全否定されるべきだとは思わない。だが、それが不正を生んだところで横山たち経営陣は目標を見直すべきだったし、不正の根絶に向けて果断な対応を行うべきだった。
それをしなかった(できなかった)時点で横山のバンカーとしての倫理観は失われ、日本郵政のガバナンス崩壊に直結する責任を負い始めることになったのだと思う。

経営「無責任」の明確化

日本郵政で行われた不正営業の責任は、郵便局の募集人や(中間)管理職だけを処分すれば済む、という問題ではない。それは金融庁もよくわかっていると見える。行政処分を下した際、いの一番に「今回の処分を踏まえた経営責任の明確化」を求めた。

しかし、日本郵政側はその指摘を本当に深刻に受け止めているのだろうか? 1月31日付で提出された業務改善計画書(要旨)の末尾には、短く次のような記述がある。

今般の事態を招いた責任を明確化するため、日本郵政、日本郵便およびかんぽ生命の代表執行役社長等が辞任するとともに、役員の月額報酬の減額等を実施しました。

実にあっさりしている。「処分」という言葉も見当たらない。しかも、完了形だ。

今年1月5日に辞任したトップとは、日本郵政の長門(前職=シティバンク銀行会長)、かんぽ生命の植平(前職=東京海上ホールディングス執行役員)、日本郵便の横山(前職=三井住友銀行社長)の三名。さらに、「郵政のドン」とも言われた鈴木康夫日本郵政上級副社長(元総務省事務次官)も退いた。

彼ら4名の退任を以ってこの間の経営陣の責任を明確化する、というのはゴマカシ以外の何物でもない。グループ各社で役員を務めていた者の多くは留任し、昇格する者すらいる。

例えば、日本郵便の衣川新社長は日本郵政の専務執行役からスライド昇格を果たした。かんぽ生命の千田新社長が同社副社長から昇格したことは前述のとおり。日本郵便代表取締役副社長の米澤友宏上級副社長(金融庁出身)と執行役員副社長の大澤誠(元全国郵便局長会会長)は留任した。かんぽ生命代表執行役副社長の堀金正章(郵政省出身)も留任だ。全部は調べていないが、ざっとこんな具合である。

彼らが前体制の下で日本郵政グループの不正営業問題に関わっていなかった、なんてことはありえない。それでも出世しているんだから、「経営責任の明確化」ではなく、「経営責任をとらないことの明確化」だ。

役員の月額報酬を減額した、というのも意味がよくわからない。
報道によれば、2020年1月から6月までの半年間、代表執行役副社長や専務執行役(内部監査担当、コンプライアンス担当)の月額報酬の30%を減額し、常務執行役(経営企画担当)やその他の専務執行役、常務執行役なども5~20%減らす。かんぽ生命と日本郵便も副社長の月額報酬40%を削減するほか、その他の執行役も5~30%カットするという。

上記がすべてであれば、先般辞職した3社長や鈴木上級副社長はノー・ペナルティということになる。衣川や千田も同様だ。
これだけ大きな問題を起こしておいて、行政処分を受けるまで自らの役員報酬に手をつけてこなかったなんて、厚顔無恥にもほどがある。

経営陣が「知らなかった」は通らない

なぜ、こんなことがまかり通るのか? 経営陣を守るために使われているのが「だってボク、知らなかったんだもん」というロジックである。

辞職した長門正貢社長(日本郵政)は保険商品の不正販売を認識した時期について「郵政の取締役会で議論したのは(2019年)7月23日が初めてだ」と述べている。「(日本郵政の)取締役会に全く情報が上がってきていなかった」「現場から情報が上がってこないことには話が始まらない」とも不平を漏らした。

これだけ巨大な膿を伴う問題が長年にわたって起きていたのだ。長門たちが去年の夏まで問題をまったく認識していなかった、などというのは与太話にしか聞こえない。(万一真実なら、そんな無能な経営陣は全員クビだ。)

かんぽ商品の不正営業問題については、2018年4月24日にNHKの「クローズアップ現代+」が『郵便局が保険を“押し売り”!? 郵便局員たちの告白』という番組を放映し、大きな話題を呼んだ。

仮に郵政に鈍い経営者ばかりが集まっており、現場から悪い情報が上がってきていなかったのだとしても、遅くともこの時点では気づかなければならなかった。
2019年9月30日の会見でこの点を突かれ、長門は次のように答えている。

(2018年)4月24日の「クローズアップ現代(+)」、あれと、それから今年また2回目を放送されました。2回とも、昨日あらためて再び拝見させていただきました。おっしゃってる点は、今となってはまったくそのとおりだなと思っておりまして(略)。
今から見ればなんだったの、っていう議論はあると思いますけれども、(番組や意見募集のSNS広告が)やっぱり詐欺とか押し売りとか内部資料なんてとかっていうことで、これはちょっとひどいんじゃないか。みんなで議論して、みんなで思って、今から思うと少し不遜だったかもしれませんけれども、我々はこんなに募集品質問題、頑張ってきていて、ここまで成果があって、こんな成果が出てきて頑張っている最中なのに、僕らが悪のドクロ仮面のように、悪の権化かのようにワーッと言われるのはトゥーマッチじゃないか、という意見が出てきたので抗議しようというので抗議(した)。 

前半については失笑するしかない。
その一方で下線部の発言は、遅くとも2018年夏の時点で日本郵政が「募集品質問題」に取り組んでいたことを意味する。募集品質問題とは保険の不正営業問題を郵政内部でそう呼んでいたのであろう。
2019年7月まで経営幹部が不正営業の実態を認識していなかった、というのは嘘だと長門自身が告白しているわけだ。

郵政の経営陣は、この時点で既に不正営業問題を把握していた。だからこそ、番組を見て恐慌状態に陥ったと考えれば、納得がいく。結局、彼らはNHKの番組を奇貨として不正の是正に奔走するどころか、こともあろうにNHKに圧力をかけ、続編の制作と放送を止めさせようとしたのである。(この点については、本ブログで近いうちに取り上げるつもりだ。)

長門が「知らなかった」と言ったのには、自分たちの経営責任を免れるということ以外にも理由があった。
日本郵政グループは、2019年4月にかんぽ生命の株式を売り出している。その後、不正営業の問題が表面化してかんぽ生命の株価は大きく下落した。株式売却よりも前に不正営業のことを知っていて公表しなかった、ということになれば、長門たちは損失を被った株主から訴えられてしまう。

日本郵政の新経営陣は、辞任した4人の社長たちへの退職金支払いをどうするのだろうか?
また、昨年以前に受け取った報酬について役員たちに返還を求めることもしないのだろうか?
それを見れば、増田新社長がお飾りかどうかがわかる。
お咎めなしか、形ばかりの追加処分しか出てこなければ、日本郵政グループの腐りきった体質は今後も変わらない、ということだ。

日本郵政による「経営責任の明確化」を金融庁が今後どう判断するかも要注目である。(日本郵便とかんぽ生命に対して監督上の命令を出しているものの、郵政と腐れ縁の総務省には期待しても仕方がない。それでも、金融庁が突っ張れば、総務省だけがお茶を濁すというわけにはいくまい。)
金融庁は昨年末の行政処分ではそれなりにケジメを示した。しかし、郵政グループへの立ち入り検査に入ったのは昨年9月だ。「初動の鈍さ」を指摘されても仕方がない。

郵政グループに巣食う既得権益の塊――旧特定郵便局長、組合、旧郵政官僚など――は必死に生き残りを画策するはずだ。旧特定郵便局長会などは政治を動かして金融庁に圧力をかける可能性がある。かんぽ生命等の株式を追加売却して財源確保に充てたい財務省も弟分の金融庁に手を回し、軟着陸を求めるかもしれない。
だが一方で、この問題に毅然とした対応を貫けなければ、金融監督機関である金融庁は内外で信用と権威を失ってしまう。ここは金融庁の矜持に期待するしかない。

金融庁までもが日和ってしまうようなことがあれば、日本郵政グループ経営陣の責任を問うために残る方法は、株主代表訴訟くらいだ。
郵政の不正は、内部から正すには巨大すぎ、腐りすぎ、広がりすぎている。

「GSOMIA破棄」凍結後、日米韓中の四辺形はどうなるか?――激動の予感がする

韓国がGSOMIA(日韓軍事情報包括保護協定)を破棄すると通告していた前日の11月22日夕刻、韓国政府はGSOMIAの破棄を先送りすると発表した。

この顛末について、日本では「在寅政権の敗北」という受け止めが多い。
GSOMIA破棄騒動の顛末だけ見れば、私の印象も「文在寅政権が勝手に仕掛け、勝手にこけた」という感じだ。
しかし、一部メディアが伝えるようにこれが日本側にとっての「パーフェクト・ゲームだった」とまで言うのは自画自賛が過ぎよう。

今回の件で、日本政府の立場が韓国政府の立場よりも有利になった、というのは見当違いも甚だしい。

第一に、康京和(カン・ギョンファ)外相は「GSOMIAをいつでも終了させることができる」と述べており、今回の措置が永続的なものである保証はない。
韓国が将来GSOMIA破棄を再び決断するとしたら、米韓同盟関係の決定的な悪化を受け入れる、という覚悟をした場合に限られる。それでも、韓国側がこのカードをちらつかせることは今後も十分ありえる。

第二に、今回の件によって問題の焦点が安全保障問題から通商問題(日韓の輸出制限問題)や歴史問題(徴用工問題、従軍慰安婦問題)に移れば、日韓の勝負は必ずしも日本優位とはならない。米国も日本を一方的に支持することはなさそうだ。

第三に、今回の件で日韓関係と米韓関係が改善するわけではない。日米韓の協調は今後も綻びを見せ続ける。そこを北朝鮮や中国に突かれれば、「韓国に勝った、負けた」という次元ではなく、我が国にとってより深刻な状況が生まれかねない。

GSOMIA破棄のドタキャンをどう見るか?

2016年11月23日、日韓両政府は日韓GSOMIAに署名した。GSOMIAは毎年自動更新されるが、3か月前に事前通告すれば破棄する(更新しない)ことも可能である。
今年の8月22日、韓国政府はGSOMIAの破棄を通告してきた。

GSOMIA自体は、東アジアの安全保障環境が緊張する中、日米韓の安全保障協力を進めるために有益な仕組みだ。
日韓GSOMIAがなくなれば、例えば北朝鮮がミサイルを撃った時に日韓は機微な情報について米国を通じて交換しなければならない。GSOMIAがなくても、米国を介すればいいだけじゃないか、と思うかもしれない。だが、米国との間には時差があるから、どうしても情報の入手に遅れが生じる。ミサイル時代の有事において、この遅れは致命的なマイナスとなりかねない。
韓国が何と強弁しても、日韓GSOMIAがなくなれば、日本だけでなく、韓国も米国も実害を被るというのは事実である。

「日韓GSOMIAが破棄されていれば、『韓国が勝っていた』」という議論も、「日韓GSOMIAが事実上延長されたから、『日本が勝った』」という議論も、ピントが目一杯はずれている。
敢えて言えば、文在寅の面子がつぶれ、安倍晋三の面子が立った、というところか。だが、それすらもあまり意味のある議論ではない。(その理由は、このポストを読み終われば伝わるだろう。)

多くの人が指摘しているとおり、文の失敗は日韓GSOMIA破棄という安全保障上のテーマ、しかも米韓同盟に関わるテーマを対日交渉に持ち出したことにある。
9月3日付のポストを参考にして、この間の経緯を振り返ってみよう。

昨年10月、韓国大法院(最高裁)は徴用工裁判で新日鉄住金(今の日本製鉄)に賠償支払い金の支払いを命じた。その後、同社の在韓資産は差し押さえを受ける。
これに対し、今年7月になって日本は、フッ化水素など3品目の対韓輸出を包括許可から個別許可に改めたのに続き、簡略な輸出手続きを認める「ホワイト国」から韓国を除外する挙に出た。韓国もすぐさま日本をホワイト・リストからはずして対抗した。

ここで終わっていれば、「やられた分をやり返す」というレベルの話だった。だが、前述のように文政権はGSOMIA破棄というカードを切り、「やられた以上にやり返す」ことになる。前述のとおり、GSOMIA破棄は純粋に日韓二国間の問題ではなく、日米韓の問題である。結局、米国の猛反発を受けた韓国政府は、GSOMIAが失効するはずだった日の前日になって方針変更を余儀なくされる、という醜態をさらした。
冒頭で「文在寅政権が勝手に仕掛け、勝手にこけた」と述べたのはこのことを指している。

だが、今後の日韓の駆け引き、という文脈で見た時、GSOMIA破棄をキャンセルしたことで韓国側が決定的に不利な立場に追い込まれたとは言えない。
徴用工問題で韓国側は日本企業の在韓資産を差し押さえたまま。日本政府として有効な手を打てない状況は、今回のGSOMIA延長によっても何一つ変わらない。

韓国側からは、日韓の企業が資金を出し合って基金を作って原告側と和解する案や、それに両国政府も加わる案などが聞こえてくる。しかし、これは事実上、韓国の主張を認めるに等しいため、安倍も簡単には認められまい。かと言って、大法院(最高裁)の判決は確定しており、韓国側もなかったことにはできない。

日韓の貿易管理の問題も、今後両国政府が収拾に動くか否かは何とも言えない。今回のGSOMIA延長の裏で日韓両国が「落としどころ」に合意していればよいが、その後の両国の批判合戦を見る限り、とても話がついているとは思えない。

要するに、GSOMIA延長によって日韓の懸案は何一つ解決していない。徴用工問題や貿易管理問題で日本が有利になった、というわけでもない。

通商問題と歴史問題では米国の支持を当てにできない

韓国政府がGSOMIA破棄を(とりあえず)凍結したのは、米国からの圧力に抗しきれなくなったため、という見方が強い。おそらく、その通りであろう。

11月に入ってから、国防総省の高官たちが韓国を訪れたり、ポンペイオ国務長官が電話をかけたりするなど、米国政府はGSOMIAの維持を表立って求めた。
11月21日には米上院が決議435で韓国に対してGSOMIAを維持する――文言上は、GSOMIAの重要性を繰り返し強調したうえで、韓国に地域の安全保障上の協力を損なう事態に対処する――ことを強く求めた。

米国が韓国にGSOMIA破棄を考え直すよう圧力をかけたのは、韓国政府の行為が米国の外交安全保障上の利益を大きく損なうためだ。
北朝鮮や中国の動向をにらんだ時、米国を盟主とした日本、韓国との間で維持してきた(事実上の)三国同盟は維持しなければならない。ところが、日韓GSOMIAが破棄されれば、それに綻びが生じることになる。

韓国政府はGSOMIAの破棄を打ち出すことによって米国の逆鱗に触れた。それ故に、「米国・日本 対 韓国」という構図ができて韓国は追い込まれた。

だが今後、外交安全保障に直接かかわらない日韓の諸問題――具体的には通商(輸出管理)問題と歴史(徴用工、慰安婦)問題――については、米国が特に日本の肩を持ってくれることはなさそうだ。

韓国政府がGSOMIA破棄を凍結したのを受け、米国務省報道官は声明を出した。そこでは「歴史問題の永続的な解決を確実にするために誠実な議論を続けるよう(日韓両国政府に)促す」と述べられている。

先に触れた上院の決議も、「日韓両国政府に対し、信頼関係を再構築すること、二国間の摩擦の源を処理すること、重要な防衛・安全保障上の紐帯を他の二国間の課題から切り離すこと、朝鮮半島の非核化、市場に立脚した貿易・通商、インド太平洋の安定といった共有する利益について協調を追求することを促す」と謳っていた。

いずれも、呼びかけの対象は日韓両国であり、韓国だけに注文をつけているわけではない。

もちろん、文在寅政権が時折見せる反米的姿勢に対し、米国政府が不快感を抱いていることは想像にかたくない。だが、米国は今後、韓国だけではなく、日韓双方に圧力をかけてくる可能性が高い。

現時点では、GSOMIA破棄の効力を一時的に停止している、というのが韓国政府の立場。GSOMIA破棄を完全に取り下げるためには、ホワイト・リストからの除外など韓国を狙い撃ちにした貿易管理強化策を日本政府が取り消すべきだと主張している。

米国が最も重視する問題がGSOMIAの安定的な維持だとすれば、日本政府に貿易管理策を何らかの形で取り下げるよう求めてくる、というのもあり得る話だ。
先週、韓国政府がGSOMIA破棄を先送る決定を下したドタバタの中、米国が輸出管理問題で日本へ圧力をかけてくれるよう、韓国側が頼み込んでいたとしても私は驚かない。

歴史問題も同様だ。と言うよりも、GSOMIA破棄や輸出管理の問題を含め、日韓摩擦の根源に歴史問題があることは米国も十分承知している。
日米韓三国同盟の分断を招く事態を将来的にも防ぐためには、その火種である歴史問題を少なくとも改善しなければならない、と米国が考えても不思議ではない。

慰安婦問題については、米議会に対する韓国のロビイングの効果もあって、米国内で日本側の主張はあまり受け入れられていない。

私が知る限り、「徴用工判決を含めた韓国側の対応は国際法(日韓請求権協定)違反」という日本政府の主張も米政府は公式に支持していない。
9月9日付のポストでも書いたとおり、国家間で戦時の賠償問題が片付いても、個人による旧敵国への賠償請求権は残る、という考え方の方が国際法解釈の主流になってきている。

米国は、歴史問題で日本と妥協するよう韓国に圧力をかけるだろう。
ただし、大法院(最高裁)の判決は確定している。いくら米国が強く求めたとしても、韓国側が一方的に譲歩して問題をチャラにすることはできない。当然、米国は日本にも圧力をかけるはずだ。

韓国側からは、日韓の企業が資金を出し合って基金を作って原告側と和解する案や、それに両国政府も加わる案などが聞こえてきている。米国が三国同盟の盟主面をしてこれに乗る可能性はゼロではない。

もちろん、こうした案は韓国の主張を事実上認めることにつながる。安倍も簡単には認められないだろう。それでも、米国が駐留経費負担の増額や自動車関税などに搦めて圧力をかけてくれば、日本政府は相当追い込まれることになる。

ただし、以上の考察は、米国政府がかつてのように「政府としての体」をなしており、日韓関係の改善のために「誠実な調停者」として汗をかこうとする場合の話である。

あのトランプ政権が、しかも1年後に大統領選挙を迎える状況にあって、希少な外交的資源とエネルギーを日韓関係に割くとは考えにくい。
その場合は、日韓関係は双方が意地を張り合って着地点を見出せないまま、時間が過ぎてもおかしくはない。GSOMIA破棄の話が再燃することも十分あり得るだろう。

残念ながらその可能性が最も大きい、と私は思う。

中国はどう出るか?

我々は徴用工問題やGSOMIAを日韓二国間の問題と捉えている。だが、日本と韓国以外の国々も日韓関係を別の意味で注視していることも忘れてはならない。

日韓のシニアな同盟国である米国のことは、改めて言うまでもなかろう。
日韓の隣国である中国、北朝鮮、ロシアもまた、日韓の動向が自国の外交戦略にどのような影響を与えるか、どのように利用できるか、という観点で注視しているはずだ。

ここでは東アジアにおける最大のキー・プレイヤーである中国に焦点を絞り、中国の目に映る日韓関係について想像を巡らせてみたい。

今の局面で中国が東アジア戦略を策定しようとする時、日韓関係に関連するどのような要素を考慮するか?

第一に、日韓関係の悪化が長期化するであろうこと。これについては既に述べたとおりである。

第二に、日韓はそれぞれ、米国との関係も緊張含みとなりそうなこと。
対米同盟の動揺は特に韓国についてより深刻なものとなるだろう。
だが、トランプ政権は日本に対しても在日米軍駐留経費の増額や自動車輸入関税の引き上げといった「ディール」を持ち出している。大統領選挙の年となる来年は日米交渉にも刺々しい空気が漂う可能性が高い。(10月3日付のポスト参照。)

第三に、トランプ政権はウクライナ疑惑などに手足をとられ、日米韓三国同盟のメンテナンスに対しては(今回、韓国にGSOMIA破棄を回避させたように)必要最小限のエネルギーしか費やさないであろうこと。

今、中国が最も頭を悩ませている外交問題は、米国に喧嘩を売られていることだ。これに経済成長の鈍化、香港問題などが加わり、中国の指導部は相当な危機感を持っているはず。このことは11月21日付のポストで述べたとおり。

そんな中国にとって、日米韓をめぐる上述の三つの要素は、格好の「つけ込みどころ」と映っているのではないか。

米中対立に苦慮する中、日米韓が一枚岩なら、米ソ冷戦よろしく、中国は外交的にも軍事的にも包囲されることになる。しかし、日米韓がバラバラなら、米国の力は弱まる。韓国や日本との関係が改善すれば、中国には(少なくともある程度は)「逃げ道」ができる。

ここで中国には、日本や韓国に対して北風(=圧力をかける)で行くか、太陽(=宥和的態度をとる)で行くか、という選択肢がある。

北風路線で来れば、日本政府は米国との同盟強化に走るだろうし、文在寅政権も米国離れのスピードを遅らせざるをえない。

逆に、中国が日韓に対して思い切った太陽路線に出れば、東アジアの外交的なバランスは一気に流動化する可能性もある。

トランプ政権が誕生して以降、中国は日本に対し関係改善の方向に舵を切った。
日中は戦略的にライバル関係にあるうえ、尖閣問題をはじめ、いくつもの懸案を抱えているため、蜜月になることはない。だが、野田政権による尖閣国有化から安倍政権前半までの刺々しい日中関係に比べれば、最近の日中関係は明らかに安定している。

日本にしてみれば、一息ついた形だ。他方で、日中関係の改善は中国にとっても実利がある。例えば、香港問題をめぐって米国が人権法案等で中国批判のボルテージを上げても、日本政府はダンマリを決め込んでいる。

朴槿恵大統領の下で接近ぶりが一時際立っていた中韓関係は、米国がTHAAD(高高度ミサイル迎撃システム)の韓国配備を求め、これに中国が猛反発することで摩擦が目立つようになる。

2016年7月、大統領に就任したばかりの文在寅は、北朝鮮による長距離弾頭ミサイル実験の過激化を受けてTHAADの配備に同意した。
中国は事実上の経済制裁を科して韓国に撤回を迫る。韓国を訪れる中国人旅行者の数は2016年の約8百万人から翌年には半減し、2018年も元に戻らなかった。(下記グラフ参照。)

(単位:人)

結局、2017年10月に韓国が「三つのノー(①米国のミサイル防衛に加わらない、②日米韓の安保協力を同盟関係にしない、③THAADの追加配備をしない)」を約束して中韓の緊張は収拾に向かった。

韓国経済の対中依存は桁違いに大きい。下記の二つのグラフは、1991年以降の中国、日本、米国と韓国の輸出及び輸入額の推移を示したもの。THAAD配備をめぐって2016年の数字は落ち込んでいるが、中国との貿易量は日米との貿易量を遥かに凌駕している。

(単位:百万ドル)

その後も韓国は中国に対して気を使わざるを得ない状況が続いている。だが、中国に対して韓国政府が快く思っているはずもない。相当に屈折した感情だと想像される。

一方で、韓国は安全保障面では米国に気を使わなければならない。今回、韓国がGSOMIAの放棄をドタキャンしたのも、米国の圧力に耐えかねたせいだ。
文在寅政権が「米国の圧力で面子をつぶされた」というしこった感情を抱いていても不思議ではない。

トランプ政権は韓国政府に対し、在韓米軍駐留経費の韓国負担額を来年は5倍にしろ、と要求している。これも、韓国側にとって理不尽極まりない話だ。(米国は日本にも同様の要求を突きつけており、安倍政権も困惑している。)

日本は今、韓国との関係こそ最悪だが、トランプの米国とは(表面的に)良好な関係にあり、前述のとおり日中関係も小康状態。一方で韓国は、日本、米国、中国とすべての国と関係が悪いか良くない。

この局面で中国が韓国に対して本格的に南風を吹かせれば、文在寅政権が中国になびく可能性は十分にある。
観光客にせよ、貿易・投資にせよ、政府がコントロールできるのも中国の強みだ。
経済的にも苦境にある韓国にとって、中国が微笑み外交を仕掛ければ、魅力は大きい。

中韓接近が具体化すれば、駐留米軍経費負担やINF配備をめぐる対米交渉での韓国政府の姿勢にも影響を与えることになるだろう。その結果、米韓関係が悪化すれば、在韓米軍の撤退(縮小)が現実のものとなる可能性も排除できない。

そこまで行けば、米韓同盟は空洞化し、中国外交の大勝利と言ってよい。もちろん、東アジアの安全保障環境も動転する。

2016年11月に日韓GSOMIAが締結された際、中国は「関係国が冷戦思考に固執して軍事情報の協力を強化することは朝鮮半島の対立を激化させる」と強く反発した。
その論で行けば、韓国が先週、GSOMIA破棄を延期したことに対して中国政府が批判するなり、不快感を示してもおかしくはないところだ。

しかし、今のところ中国からの公式な反応はない。中国の沈黙は、日米に対する配慮であると同時に、国内的に苦しい立場に追い込まれた韓国政府に対する配慮でもあるのだろう。

8月21日に北京で3年ぶりに開かれた日中韓外相会談では、王毅国務委員兼外相が日韓両国に「問題解決の方法」を見いだすよう促す場面もあったと言う。

将来、日本との間で歴史問題を抱えているはずの中国が日韓の歴史問題で「誠実な仲介者」を演じる意欲を示したら、どうか? その時、米国が日韓関係の悪化を放置していれば、日米韓中の国際関係は大きく変わりかねない。

おわりに

今回のGSOMIA破棄騒動について、日韓のゼロサム・ゲームと言う小さな視点からのみ眺めていると、日米中韓の四辺形で起こりつつある大変化は見えてこない。

韓国がGSOMIA破棄を延期したのを見て、「韓国に一泡吹かせた」と喜んでいる場合でも、もちろん、ない。

我々は、「もしかしたら今、東アジアの戦略環境における冷戦終結以来最大の岐路に立たされている」という自覚を持っておくべきだ。

11月21日付のポストで、私は日本外交が現在の中国の苦境に付け込んでビッグ・ディールを仕掛けるべきだと述べた。

こちらが先にやらなければ、向こうに先にやられる。

日本外交は今、主体性、構想力、行動力を試されている。

今こそ、中国とのディールに取り組むチャンスだ ~ EEZ画定のすすめ

最近、中国の勢いに翳りが見える。
日本人の本音としては、半ばホッとし、半ば「ざまあみろ」という感じだろう。

だが、日本政府までそれでいいのか?
外交の世界では、相手が弱みを見せれば、それにつけ込んで少しでも自分に有利な状況を作り出そう、と考えるのが常識のはず。私の目には、日本外交が千載一遇のチャンスを目の前にして無為に時を過ごしているように見える。

日中間のパワー・バランスとその趨勢を考えた時、中国と少しでも有利なディールを行おうと思えば、米中関係がギクシャクしていることに加え、香港問題をはじめ中国政府が国内的にも揉め事を抱えている現在は絶好の機会である。

「ディール」という言葉をトランプの専売特許にしてはならない。

日中の国力格差

21世紀の日本にとって、最大の国家的脅威の一つが中国であることにあまり異論はないだろう。しかし、日中の国力の趨勢を比較してみたとき、見えてくる状況は日本にとって極めて不利だ。
ここでは経済、技術、軍事の面で代表的な指標をとりあげ、簡単な日中比較を行ってみよう。

まず、経済力の代表的指標であるGDP。
中国のGDPは米ドル換算(グラフ上段)で2010年に日本のGDPを抜き、以後もその差は開く一方である。購買力平価ベース(グラフ下段)で見れば、日中のGDP総額が逆転したのはもっと前になり、日中経済の格差は一層拡大する。

単位:十億米ドル
出典:International Monetary Fund, World Economic Outlook Database, October 2019

経済に限った話ではないが、規模が大きいばかりで質が伴わなければ、評価は下がる。技術力の面で、日中の相対的力関係はどうなっているのか。

技術力の優劣を示す指標としての使われるものの一つが論文数だ。中でも注目されるものとして、Top10%補正論文数(ある分野で発表された論文のうち、他で引用された回数が上位10%に入る論文の数に補正を加え、時系列の比較ができるようにしたもの)を取りあげる。
下記は日中のTop10%補正論文数推移をグラフ化したものだ。

出典:文部科学省科学技術・学術政策研究所、科学技術指標2018、調査資料-274、2018年8月

今や、中国が凄いのは規模だけ、と言ってすませることはできないことが一目瞭然だ。中国側の数字が驚異的なペースで伸びているだけでなく、日本側の数字が停滞気味であることも気になる。

次は軍事。下記のグラフは米ソ冷戦終了後の日中の軍事費を比較したものだ。

単位:百万米ドル/2017年。
出典:SIPRI Military Expenditure Database 

差は歴然としている。10年位前までは、量では中国が遥かに凌駕していても、質の面では海空戦力を中心に自衛隊の方が上回っているという評価ができた。
しかし、経済の急速かつ持続的な成長の結果、最近では、軍事技術の面でも中国がリードしている分野が多いと言われている。中距離ミサイルの命中精度、宇宙、サイバーなどでは、はっきり言って日本は太刀打ちできないのが現状である。

もちろん、指標を選べば、日中の較差がこれほどでなかったり、日本の方が優位だったりする絵を描くことも可能だ。しかし、そんな小細工に意味はない。代表的な指標が示すのは、中国の力が日本を逆転し、その差をますます広げている、という現実。
日本はこの客観状況の下で対中外交を展開しなければならない。

中国の苦境

同時に、最近の中国は決して順風満帆の状況にはない。代表的な「変調」を経済面と政治面から見てみよう。

1. 経済成長率の鈍化

鄧小平の改革開放が始まったのが1978年。以来、1989年の天安門事件を受けて数年間低成長に陥った――1989・90年の経済成長率は4%前後――ことはあるものの、中国経済は驚異的な成長を続けてきた。しかし、成長率は2007年の14.3%でピークアウト、2015年以降は7%割れが常態化している。
下記のグラフは1980年以降の中国の経済成長率を示したもの。中国の統計が信じるに足るか、という問題には目をつぶったとしても、最近の中国経済の「不調」ぶりは一目瞭然だ。

縦軸は%。
出典:International Monetary Fund, World Economic Outlook Database, October 2019

中国の経済成長が頭打ちとなっている背景にあるのは、中国経済の成熟化、債務調整の継続、人口ピークアウト、格差の拡大といった構造問題。最近ではトランプ政権の仕掛ける経済・投資戦争が追い打ちをかけている。米中経済戦争を含め、すべてが一過性、周期性の要因ではない、というところが中国にとって頭の痛いところ。今年(2019年)に入ってからも中国の経済成長率は、1~3月=6.4%、4~6月=6.2%、7~9月=6.0%となっている。今後は5%台突入も避けられない、というのが大方の見方だ。

もちろん、中国の経済成長率は、低下したとは言え、日本経済の成長率よりも遥かに高い。(したがって、日中経済の格差は今後も拡大する。)2018年の+7.3%という数字(実質成長率)も、国際的に見れば十分すぎるほど高い。米国の+2.9%はもちろん、インドの+6.8%さえ凌駕している。

だが問題は、これ以上経済成長率が下がった時——その可能性は前述のとおり、非常に高い——、約14億人の中国人に対して共産党による一党独裁を正当化し続けることができるか否か。中国の指導部が怖れているのはそこだ。

2. 米中関係

中国共産党指導部は、過去も現在も経済建設を最優先の国家課題と位置づけ、その邪魔になるような「米国との衝突」は避ける、という外交戦略をとってきた。それは基本的には習近平指導部でも変わらない。
ところが、トランプという米国大統領の方が「中国との衝突」をディールの材料にする、という驚きの事態が生まれた。

確かに、トランプ政権の下、言葉の面でも行動の面でも、米国の対中政策は従来越えることのなかった一線を越えた。(本年5月12日付のポスト参照)
米中経済戦争と呼ばれる関税引き上げの応酬。Huaweiなど中国企業を先端技術分野から締め出すために出された米政府の指示。中国の南シナ海進出への警告。ペンス副大統領による台湾支援の明言等々・・・。
米ソ冷戦と同一視すべきではない(本年4月21日のポスト参照)にせよ、中国を警戒する米国の姿勢は明らかだ。

トランプ大統領が再選されなければ(再選されたとしても2025年以降は)、米国の対中政策が敵対でなくなるのなら、まだよい。
しかし、米国政府が中国に対して警戒感を強め、強硬策を打ち出し始めたのは、実はオバマ政権の後期からである。
民主党の大統領選候補の面々も、中国に対して宥和的な候補出ないことを示すことに汲々としている。エリザベス・ウォーレンやバーニー・サンダースに至ってはトランプ同様、米中貿易戦争も辞さない、という立場だ。

米中対立が激化すれば、屈服するのが中国の方だと決まっているわけではない。だが、米国と激しく対立することは、中国にとって決して望ましいことではない。
上述のとおり、経済面では、それでなくても鈍化している経済成長率の低下に拍車がかかる。軍事面でも中国側のキャッチ・アップは急だが、現時点ではまだまだ米国の方が有利、と言わざるを得ない。

3. 香港問題

習近平は鄧小平以降の中国の指導者の中では、最も短期間で自らの権力基盤を固めることに成功した指導者である。毛沢東を除けば、習ほど強く共産党を掌握した者はいないとさえ言われる。しかし、この夏あたりから習(と言うよりも共産党指導部)は政治基盤の思わぬ揺らぎを見せ始めた。今も収拾のめどが立っていない、香港の動乱のことだ。

1997年に香港が返還された際、中国は50年間にわたって香港の政治体制を変更しない(ただし、外交と国防を除く)と約束した。しかし、現実には中国共産党政権による政治介入が相次ぎ、「一国二制度」と香港の民主主義は徐々に侵食されてきた。

今年の7月1日、香港の犯罪容疑者を中国本土へ引き渡せるようにする「逃亡犯条例」改正案に反対するデモ隊と警察が衝突する。これまでもデモ隊と警察の衝突は繰り返されてきたが、今回はどうも様相が異なる。中国側(実際にはその代理人である行政長官)は逃亡犯条例の改正を取り下げたが、デモ隊側は要求項目を増やして妥協に応じない。それどころか、警察の弾圧によって死者が出たため、デモ隊側の怒りはますます増幅している。

中国政府は板挟みの状況にある。

デモを本当に強権的に弾圧すれば、国際的な非難を受けることは間違いない。1989年の天安門事件の際も中国は国際的に孤立して経済的にも外交的にも苦労した。
香港を弾圧した時、味方になるのはプーチンのロシアくらい。米国との貿易交渉は頓挫し、日本や欧州など、対中貿易戦争ではトランプ政権と距離を置く国々もある程度は米国の対中包囲網につき合う可能性が高い。経済成長が鈍化している今、国際経済と相互依存関係の進んだ中国経済が外的要因から更なる打撃を受ければ、共産党一党支配の正当性が揺らぐであろうことは既に述べたとおりだ。
平和的な台湾統一にも悪影響が出ることは避けられない。

では、デモ隊に妥協して自治の拡大を香港に認めればよいのか? それはそれで、中国本土における民主化要求を刺激し、共産党支配を動揺させる。ウイグルやチベットなど少数民族が自治や独立の要求を強めかねない。

そもそも、デモ隊を強権的に弾圧しようが、彼らの要求を呑んだ宥和的な態度をとろうが、デモに参加する人たちが中長期的に矛を収める保証はない。
今香港で起こっている騒動は、単に民主化や自治の問題を超え、住民のアイデンティティの問題となっているからだ。香港大学が行った調査によれば、香港に在住する人の15%だけが自分を「中国人」だと考えており、残りは自分を「香港人」と考えている。18~29歳に限れば、自分は中国人だと考えている者は3%しかいない。

香港のデモが中国共産党の喉元に突きつけている問題は、それほど根が深い。今回収まったとしても折にふれて指導部を悩ませ続けることだろう。

中国の苦境をチャンスと捉えよ

冒頭で見たとおり、今日の日中の国力を比較すれば、状況は明らかに中国有利と言わざるをえない。しかも、時間が経過するにつれて国力の較差は日本にとって一層不利なものとなる。中国の経済成長率が低下してきていると言っても、日本の経済成長率がいかんせん低すぎるためだ。生産性の面でも人口動態の面でも、日本経済の将来に対しては悲観的な見方の方が圧倒的に多い。

この大きな潮流を考慮した時、日本外交が中国と互角に渡り合おうと思えば、タイミングを見て相手の弱みに付け込む、という発想が不可欠となる。
つまり、中国側が(一時的)苦境に陥った局面を逃さず、日本にとってより良い条件でディールを切り結ぶ、ということだ。

国の状況が困難な時、その国が必ず宥和的になるとは限らない。むしろ、ナショナリズムを強める場合があるのも事実だ。
しかし、国の状況が困難な時に中国が大局的観点からビッグ・ディールを結んだ例は少なからず存在する。例えば、毛沢東と周恩来が踏み切った米中の国交正常化もその一つ。

中国が1990年代に周辺諸国との間で多くの国境問題を解決したのも、天安門事件後、中国指導部が国内的には共産党支配の動揺、対外的には西側諸国による経済制裁と国際的な孤立という深刻な危機に直面していたことが強く影響した。
国境の確定を通じて近隣諸国との関係を改善・強化し、人民解放軍を旧ソ連国境から引きはがして国内の治安維持に使えるようにしておくことは、共産党指導部にとって大きなメリットだったのである。

中ロ国境については、ロシアの方が中国よりもさらに苦境にあったため、中国よりもロシアの情報の方が大きいと言われる。一方、中央アジア方面での国境画定では、中国が諦めた面積の方が相手方よりも多いケースも少なくない。

先述の「三つの苦境」があるとは言え、今の中国が置かれた立ち位置は、天安門事件後に比べれば、まだ良い状況である。日本が対中ディールを追求しようと思えば、中国に全面譲歩を迫るというのは現実的でない。「ウィン・ウィン」を標榜しながら、いかに「引き分け」から「少し勝ち」に持ち込むか、という手腕が問われよう。

日中EEZをめぐる「ディール」

今、日本が中国との間で具体的にどのようなディールを追求すればよいのか?
少しばかり私案を述べてみたい。

日中間で軍事紛争が起きる可能性は低い、と私は思う。
それでも、万一あるとすれば、尖閣諸島と東シナ海ガス油田開発をめぐって(偶発的なものを含めて)日中間に何らかの衝突が起こり、それがエスカレートする場合が最も考えられる。

日本と中国は海を介して隣接している。日中が海で衝突する確率を下げるための「ディール」を結ぶことができれば、その意義はとてつもなく大きい。

尖閣諸島については、中国公船による領海及び接続水域の侵犯はあるものの、日本側が実効支配している。そこでの共同開発等となると(やってはならないというわけではないが)国内的に強い反発が予想される。その点、東シナ海のガス油田の方がディールに向けた障害はまだ少ないと考えられる。

東シナ海のガス油田開発をめぐる日中対立

東シナ海には天然ガスや石油の埋蔵が見込まれる海域があり、中国側が一方的に試掘等を行って日中が対立していることは周知の事実だ。

この問題を司る国際法は国際海洋法条約になるのだが、これが全然単純な話ではない。と言うのも、同条約は200カイリ(約370㎞)に及ぶ排他的経済水域(EEZ)を沿岸国に認める一方で、大陸棚における鉱物資源の採掘権を大陸側の国家に認めている。言わば、国際法自体にダブル・スタンダードが組み込まれているようなもの。
東シナ海の場合、日中の沿岸から200カイリとなると相互に重複が生じる。日本政府は当初、双方の中間線をベースに日中間のEEZを画定すべきだと主張していた。

しかし、中国はそれを逆手にとった。
日中間でEEZが画定されていないにもかかわらず、1990年代から中間線の中国側で天然ガスや石油の試掘を始めたのである。(大陸国家である中国は「大陸棚延長論」に基づいて採掘権を主張することも忘れていない。)
このうち、2003年に着工された春暁(日本名=白樺)は中間線からたった5㎞しか中国側に寄っておらず、天然ガスや石油の埋蔵地域が地下を通じて日中中間線の日本側にまで広がっている可能性が高い。これは見過ごせない、と我が国は激しく抗議した。

2008年5月に胡錦涛主席が来日し、この問題は一旦沈静化したかに見えた。胡が離日した直後の6月18日、日中両政府はガス油田問題で部分的な合意に達する。
そこでは、春暁(日本名=白樺)の開発に日本が参加すること、日中中間線をまたぐ一定海域(地図で見るとかなり限定されている)での日中がガス油田の共同開発を行うことが謳われた。

しかし、この合意は中国国内ではあまり評判がよくなかったようだ。その後、今日に至るまで2008年6月の合意内容は何一つ具体化していない。中国がこの海域で独自にガス油田開発を進める動きも相変わらず続いている。

東シナ海におけるディールの可能性

東シナ海のEEZをめぐって中国との間でディールを追求するとしたら、どのようなものが考えられるだろうか? 二つほど私案を示してみたい。

① 2008年6月合意の具体化

第一案は、2008年6月の合意を実現すること。
10年以上ストップしていたことを前に進められれば、日中関係の雰囲気が良くなることは間違いない。決して悪くないディールだ。ただし、注意すべき点も二つある。

まず、春暁(白樺)にせよ、指定海域の共同開発にせよ、現在のエネルギー情勢の下で採算がとれるのか、という切実な問いに対してはっきりした答が出ていない。ガスや油の質がどの程度のものなのか、日中中間線付近からパイプラインで中国側へ持っていく――素人考えだが、日本側へ運ぶ方が難易度は高そうである――コストを回収できるのかなど、課題は少なくないと思われる。

もう一つは、2008年6月の合意がカバーするのは、春暁と一部海域の将来的な共同開発に限定されることだ。別な言い方をすれば、この合意を履行したとしても、中国側は広大な海域で「勝手に」試掘等を行うことができる。と言うことは、将来、そこで日中間に不測の衝突が起きる可能性もまた、残ることになる。

② 日中EEZの画定

そこで検討すべきなのが第二案、すなわち日中EEZの画定だ。
もちろん、尖閣諸島の周辺は無理だから除外するしかない。
日中間で協議してもEEZを確定できないようなら、両国が同意して国際司法裁判所(ICJ)へ持ち込む、というのも一つの知恵だ。

2008年6月の合意と比べて係争海域を大幅に減らすことができるので、日中間で将来、紛争が起きる芽を包括的に摘むことができる――。それがこのディールの最大のメリットである。

ただし、EEZを画定しようと思えば、中国のみならず日本側も譲歩は覚悟せざるを得ない。はっきり言って、日中中間線での合意は無理だ。
日中と似たようなケースにおけるICJの判例を見ても、中間線を大陸棚の延伸方向に――つまり、中国のEEZを広げる形で沖縄の方向に――少しずらす形で境界線が引かれる可能性が高い。その結果、現在中国が試掘しているガス油田はすべて中国側に権利が認められることになるだろう。

私に言わせれば、東シナ海のガス油田を少なくとも日本側から商業ベースに乗る形で開発することは、まずできない。そんなものにこだわるよりも、名を捨ててEEZの画定を優先させ、将来日中間で紛争が起きにくいようにする方がずっと賢い。
どうしても、というのであれば、中国が東シナ海で行うガス油田開発については日本の一部出資に優先的配慮を行う、という覚書でも交わしたら十分だろう。

中国国内には、沖縄の間近まで大陸棚が延伸していると主張し、東シナ海におけるべらぼうに広大な海域で中国が独占的に鉱物資源を開発できる、という意見だってある。「中間線+α」(日本側から見れば「中間線-α」)で決着をつけることは、中国にとっても大きな妥協なのだ。

おわりに

今日で安倍総理の総理在任期間は憲政史上最長となった。
「長いだけだよ」と言われないためにも、安倍外交の総仕上げとして日中の画期的なディールに取り組んだらどうだろう?

東シナ海における日中のディールは、安倍総理がプーチン大統領との間で進めようとした――まだしているのか?――北方領土交渉よりも実現可能性は遥かに高い。
日本の安全保障上の不確定要素を減らすという意味からも、国益に資するところが極めて大きい。

来春、習近平国家主席が国賓として来日する。これほど大きなチャンスはない。
日本政府は習の来日を単なるセレモニーに終わらせることなく、大きなディールの実現に向け、全力を傾けるべきだ。

「変えられない日本」が垣間見えた――英語民間試験の延期とマラソンの札幌開催

先週の金曜日(11月1日)、二つのニュースが駆け巡った。

一つは、来年から実施が予定され、来年からスタートすることになっていた大学入試への英語民間試験導入を見送ると文部科学省が発表したこと。
もう一つは、東京五輪のマラソン・競歩を札幌で開催することが最終的に決定したことである。

奇しくも同じ日に、既存の方針が変更される大決断が二つもなされたわけだ。しかし、この二つの変更には根本的な違いがある。

英語民間試験の場合、実施が5年後に延期され、その間に実施方法の改善が図られるとはいうが、実施するという大方針そのものは変わっていない。

これに対し、マラソン・競歩については、IOC(国際オリンピック委員会)の鶴の一声で札幌開催が決まり、東京で開催するという既存の方針は葬り去られた。

今回のIOCの独断と批判する声もあるが、東京五輪大会組織委員会、東京都、政府の三者だけであれば、東京でのマラソン開催をやめるなどという「乱暴だが正しい」答に行きつくことは絶対になかったであろう。

文科省(日本政府)といい、東京都といい、日本の組織は一度決められた方針を変えるのが苦手だ。このポストでは、二つのニュースを材料にしながら日本型思考の弱点について考えてみる。

1. 英語民間試験の延期

英語民間試験の源流

2013年10月31日、教育再生実行会議は第四次提言を取りまとめた。そこには「国は、TOEFL 等の語学検定試験やジュニアマイスター顕彰制度、職業分野の資格検定試験等も学力水準の達成度の判定と同等に扱われるよう大学の取組を促す」とある。この時、大学入試に民間の英語試験を活用するという方針はレールに乗った。

教育再生実行会議は2013年1月に閣議決定で設置が決まり、文科省ではなく官邸に置かれている。

「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を実行に移していくため、内閣の最重要課題の一つとして教育改革を推進する」ため、「内閣総理大臣、内閣官房長官及び文部科学大臣兼教育再生担当大臣並びに有識者により構成し、内閣総理大臣が開催する」ものだ。ただし、閣議決定を読んでもその権限ははっきりしない。

有識者は、安倍晋三(総理大臣)、菅義偉(官房長官)、下村博文(当時の文科大臣)が少なくとも否と言わない人が選ばれる。当然、会議の提言内容もスリー・トップの意に沿わないものは入らない。

以上から、教育再生実行会議とは官僚的な積み上げの意思決定プロセスをバイパスし、安倍や安倍に近い人たちの考え方に基づいて教育改革を進めるための装置であることが見てとれる。

この年(2013年)、教育再生会議は2月、4月、5月、10月と4回も提言を出した。いじめ問題への対応(2月の提言)は急を要したのだとしても、それ以外はいかにも付け焼き刃の印象を免れない。

第四次提言を了承した教育再生実行会議(10月31日開催)では、自民党が同年5月23日にとりまとめた『教育再生実行本部 第二次提言』が参考資料として配布された。興味深いことに、この自民党の提言には「TOEFL等の外部試験の大学入試への活用の推進」という項目がある。英語民間試験の源流はこの辺りにあるのだろう。(ちなみに、同本部の「大学・入試の抜本改革」部会には、主査として山谷えり子、副主査として西川京子、萩生田光一、薗浦健太郎という、安倍好みの右翼的な政治家がズラリ並んでいた。荻生田が現文科大臣であることは言うまでもない。)

制度的欠陥品

教育再生実行会議の提言は、制度設計を含めた入念な検討を経て導き出されたものとは到底思えないものだ。言葉は悪いが、思いつきに毛が生えた程度のものも散見される。提言の作成段階では蚊帳の外に置かれ、実行プランの作成を丸投げされた文部科学省もさぞかし困ったことだろう。

総理大臣が主催する会議の中には政権とともに自然消滅するものも少なくない。しかし、安倍一強が続くこの政権では、官邸直轄の会議が出した提言は非常に重い。文科省はこの間、中央教育審議会の答申を得る等のプロセスを経て、英語民間試験の実行プランを作り上げた。合わない辻褄を無理やり縫い合わせながら作ったものだから、突っ込みどころは満載。先週、延期が発表されるや、メディアは英語民間試験の制度設計がいかに杜撰だったかを、一斉に叩き始めた。

本ポストでいちいち取り上げることはしないが、最大の欠陥は受験生の英語能力を統一的に評価する制度的な担保がないことだ。難易度の異なる7種類の試験のどれを受けるかで事実上、受験生に有利不利が生じる。入試システムに求められる最も基本的な「性能」を欠いた欠陥品、と言わざるを得ない。

中止ではなく、延期

ほんの一週間前まで、官邸や文科省は、見切り発車と言われても来年から英語民間試験を実施する、と決めていた。だからこそ、新任の萩生田文科大臣――上述の通り、英語民間試験の導入の言い出しっぺの一人である——は、出演したテレビ番組で「自分の、あの、私は身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで、勝負してがんばってもらえば」と発言したのだ。

世間的には、この「身の丈」発言で風向きが変わり、官邸も英語民間試験の導入延期に傾いたと考えられている。もちろん、10月25日に菅原一秀経済産業大臣、10月31日には河井克行法務大臣がそれぞれ辞任したことも大きく影響したことは言うまでもない。9月に内閣を改造して早々につまずいた官邸としては、これ以上批判される材料を放置できなかったのだ。

だが逆に言えば、菅原、河井のスキャンダルと荻生田の「身の丈」発言がなければ、英語民間試験は多くの欠陥を抱えたまま、実行されていたはず。「一度レールに乗ったら変えずに突っ走る」力というのは、すさまじい。

11月1日に政府(文科省)が発表したのも、英語民間試験の導入「延期」であり、「中止」ではない。6年前に決められた既定方針はまだ生きている。

政府に英語民間試験を踏みとどまらせた、と胸を張っている野党四党(立憲民主、国民民主、社会民主、共産)でさえ、先月24日に提出したのは英語民間試験の延期法案である。
政府が延期を発表した途端、英語民間試験に対する批判をヒートアップさせたメディアからも、その廃止を求める声はあまり聞こえてこない。

政府や与党サイドが英語民間試験を導入するという既定方針をやめられない、というのは、安倍一強の政治力学から(同意はできないが)何となくわかる。だが、これだけ批判されているにもかかわらず、「英語民間試験なんかやめてしまえ」という思い切った主張が政府・与党の外からもあまり聞こえてこないのはなぜか?

理由の一つは、英語をグローバル人材育成のためのツールと位置づけ、「読む・聞く」だけでなく「読む・聞く・話す・書く」の四能力を評価すべきだという意見に惑わされる人が多いことだろう。

しかし、試験の方法を変えれば英語力が伸びるわけではないし、TOEFLのスコアが高くても英語ができない日本人留学生も大勢いる。また、「読む・聞く」能力があれば、「話す・書く」能力は大学に入ってから英語漬けにすれば誰でも身につくものである。

二つめの理由は、「官から民へ=改革」という議論に弱い政治家や知識人が多いことである。

11月6日に開かれた衆議院予算委員会で安倍総理は「私は民間がやると悪くなる、民間はよこしまな考えを持っているという考え方はとらない。民間の活力や知恵を導入していくのは当然あってしかるべきだ。民間事業者などが手を挙げることを、最初から排除しなければいけないという考え方は間違っている」と述べた。こう言われると黙ってしまう政治家やメディア関係者は意外と多い。

安倍が言うとおり、「民間=悪」という考え方は間違いだ。しかし、「民間=善」という考え方も同じく間違っている。全国レベルで実施する英語入学試験の場合、民間の採用は明らかに不適切だ。

例えば、民間(NPO)の試験としてTOEFLだけを採用するのであれば、正当かつ公平な試験としての信頼性は担保される。しかし、受験料は1回あたり2万円台半ばになる。年間50万人という大量の受験生に対応することもむずかしいだろう。多くの受験生にとっては難易度が高すぎる、という問題もありそうだ。
かと言って、GTEC(ベネッセ)一本にしたのでは、予備校が入試本番の試験を実施する主体になってしまい、アンフェアな臭いがプンプンしてくる。率直に言って、試験としての権威も低い。

安倍総理には、英語試験は「民間でやれば悪くなる」ということに気づいてほしいものである。

既定方針を変えることのむずかしさ

組織が既定方針を「変える」ということにはむずかしさがつきまとう。

一つは、変えれば何でもいい、というわけではないこと。変える以上は、問題を解決(または改善)できなければ意味がない。

2012年12月から続いている安倍政権は、集団的自衛権の行使容認をはじめ、この国に様々な変化をもたらしてきた。そのすべてを否定するつもりは毛頭ない。だが、よく見ると、変化の細部に魂がこもっていないものが少なくないことも事実だ。集団的自衛権の行使容認ですら、過去の解釈と継ぎはぎだらけにしたため、日本の武力行使に対する制約は基本的に残ったままである。

もう一つのむずかしさは、一度方針を決めたら、それが機能しない現実が生じているにもかかわらず、既定方針のまま走り続ける傾向がいかなる組織にもある、ということ。

これは、何も日本の組織だけに見られるむずかしさではない。だが、強い忖度感情や組織に対する忠誠度の高さなどから、日本の組織で特に目立つ困難であろう。

英語民間試験については、以上の二つのむずかしさが同時に表面化した。

まず、英語民間試験の導入という考えそのものが、変化の方向性が間違っていた。安倍総理を含め、日本の教育を復古的方向に変えることに熱中した人たちが、英語試験でお遊びをした、というのは言い過ぎであろうか。

加えて、英語民間試験の実施プランを作成する過程で問題点が噴出し、このままでは受験生にとって大迷惑となり、本来狙った英語力向上という効果も見通せなくなったにもかかわらず、政府は当初予定通りの実施に向けて突っ走った。そして、英語民間試験の導入という方針そのものは今も生きている。

英語民間試験の問題は、これからが正念場だ。

 

2. マラソンの札幌開催

有無を言わせなかったIOC

英語民間試験の延期が発表されたのと同じ日、国際オリンピック委員会(ジョン・コーツ調整委員長)、東京五輪大会組織委員会(森喜朗会長)、東京都(小池百合子知事)、政府(橋本聖子五輪相)の4者が最終協議を行った。その結果、来年行われるオリンピック競技のうち、マラソンと競歩については札幌で開催することが最終的に確認される。小池は「合意なき決定」と述べたが、最初から都に決定権はなく、結論は決まっていた。この協議は都民の前で「怒れる都知事」を演じさせ、小池の面子を保つための儀式だったと言えよう。

マラソンと競歩の開催場所を東京で開催しない、という大ナタを振るったのは、IOCという日本外の組織である。東京五輪大会組織委員会、東京都、日本政府という国内の組織に決定権があったなら、お互いに牽制しあうか忖度しあう結果、IOCが下したような「無茶だが、正しい」変更は絶対にできていない。

やばくてもやるしかない

2013年9月7日、来年の7月下旬~8月初旬に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されると決まった。それから6年、準備は着々と進められてきた。

その一方で、最近の日本列島の夏は記録的な猛暑続き。多くの日本人の間で「真夏の東京でオリンピックやって大丈夫か?」という懸念が共有されるようになった。選手はもちろん、観客やボランティアを含め、熱中症でバタバタ倒れたらどうするのか、というわけ。

今年の9月27日から10月6日までドーハ(カタール)で開催された世界陸上は、そうした不安を増幅させるものであった。
女子マラソンは深夜11時59分のスタート時に気温32度、湿度74%。68人中、28人が途中棄権し、完走率は6割を割った。「昼やっていたら死人が出たのでは」という声すらあがっている。男子50キロ競歩も午後11時半のスタート時に気温31度、湿度74%。46人中18人が棄権し、完歩率は約6割だった。
この「惨状」を見て、テレビやお茶の間では「東京も危ないんじゃないか?」と心配する人の数がさらに増えた。

しかし、だからと言って、「マラソンを東京で開催しない」という選択肢が頭に浮かんだ日本人はほとんどいなかった。
私自身、「真夏の東京でマラソンはやばい」とは思っても、「マラソンは東京以外で開催すべき」とまでは露ほども考えなかった。
東京都や組織委員会、日本政府と同じく、「東京オリンピックなんだから競技は東京で」という思考の枠組みから一歩も出ていない。恥ずかしながら、「死人が出ても東京でやるしかない」と考えていたのと同じことだった。

組織委員会や東京都も馬鹿ではない。ドーハ世界陸上の前から、猛暑対策には危機感を募らせていたはずだ。

既に昨年12月、猛暑対策としてマラソンのスタート時間は当初予定されていた午前7時から午前6時に前倒しすることが決まっていた。これをもっと早めることくらいは、当然検討していただろう。実際、IOCから札幌移転の話が出ると、東京都はスタート時間を午前5時よりも前にすることを慌てて提案した。
このほかにも、都はマラソン・コースに遮熱性・保水性塗装を施すという公共事業にも注力してきた。(ただし、最近になって遮熱性塗装は逆効果だという指摘も出ている。)

「暑い東京でマラソンを実施する」という枠組みの中で、都も組織委員会も考えられる手は打ってきた。それは認めよう。しかし、道路に遮熱性塗装を施し、スタート時間をいくら早めたところで、焼け石に水。最近の東京の猛暑は対策してどうにかなるレベルを超えている。

考え得る最大限の努力を払っても、競技の最中に選手たちが体調を崩して大量に棄権する——最悪の場合は選手の生命が危険にさらされる——事態が来年、相当の確率で起こりうる。これを黙認することは、「健全なコンディションの下で安全に競技を実施する」というスポーツの常識、人間界の良識に照らして考えた時、不道徳の極みだ。結果的に来年が冷夏となり、取り越し苦労と笑われることになったとしても、放置するには大きすぎるリスクを放置することは、決して許されない。

ところが、「東京でマラソンをやる」という前提の下に立つ限り、日本ではしっかりした組織や有能な人ほど、「リスクがあってもやるしかない」「できることはすべてやろう」「そのうえで、リスクが残るのは仕方がない」という発想になる。既存方針の枠組みそのものを変えよう、という発想は出てきにくい。

枠組みから出れば解決法はあった

ドーハの世界陸上を見て、「東京でマラソンや競歩をやったら、非人道的な事態が起こる可能性が高い」と懸念し、「それは許されない」から「東京以外のもっと涼しいところに変える」という思考回路で判断を下したのがIOCだった。その結論が札幌開催である。

IOCの決定について、「もっと早く言え」とか「関係者とちゃんと話し合え」という批判が出ることは理解できる。東京開催を前提に準備してきた選手や関係者の努力を無にするものだ、という同情の声も当然、出てきた。

しかし、IOCは初めからそこは割り切っていた。この時期に札幌開催へ変更することについて批判が出たところで、来年の本番を東京で行って選手たちに大トラブルが起きるリスクに比べれば、大したものではない、と。

変えるのならもっと早く変えるべきだった、と言われても、過ぎ去った時間は取り戻せない。
関係者と話し合っても、反対されて時間が過ぎるだけ。
選手や関係者の声なら、世界中で見れば会場変更を歓迎する声の方がおそらく多い。
東京都の自分勝手な言い分に気を使った結果、選手が健康を害するリスクを甘受することは、IOCにとって論外だったであろう。

「東京開催という前提で安全が確保できないのなら、東京開催という前提を見直す」というIOCと、「東京開催という前提で努力してきたのだから、東京開催は譲れない」という東京都。IOCに最終的な決定権限があるという契約上の問題だけでなく、論理の面でも勝負は初めから見えていた。

報道によれば、10月30日に行われた調整委員会の席上、小池知事は「(東京開催に向けて準備を進めてきた)選手や地元の人の気持ちをないがしろにはできない。ワンチームで大会を成功させたいという強い思いは、この場におられる皆さんの共通の思いだ」とコーツ委員長を睨みつけたという。「東京で開催しても選手や観客の安全は守られる」と主張できない小池は哀れであった。(この文脈で「ワンチーム」という言葉を使うのもラグビーの日本チームに失礼だと思った、というのは余談である。)

私も偉そうなことは言えないが、東京以外――札幌でなくてもよい――でのマラソン開催を日本側から提起していれば、と思わずにいられない。後から気づいたことだが、東京オリンピックの本番でも、競技のうちいくつかは、東京都どころか関東以外の会場で行われることになっている。例えば、サッカーの一部は札幌、宮城、埼玉などで予選が開催される。

「オリンピックの花」と呼ぶ人もいるマラソンをサッカーの予選なんかとは一緒にできない——。こうした「傲慢な常識」が、関係者を既存の枠組みに閉じ込めてしまったのであろうか。

変えられない国、ニッポン

日本の組織は、既定方針の下で頑張るのは概して得意だ。ラグビー・ワールドカップでは、台風など自然災害の襲来はあったものの、結果的には決められた枠組みの中で運営されたため、協会、地方の協力自治体、ボランティアなどの献身的サポートによって日本大会の運営は大成功を収めた。(日本をはじめとした各国選手の奮闘ぶりは言うまでもない。)

一方で、既定方針の下でいくら頑張っても駄目な時にその既定方針を見直すことは、日本の組織が苦手とするところだ。戦前の日本の指導部(軍部・政府)も、米国に勝てるとは思わないまま、米英との対決路線を変えることはなかった。英語民間試験についても、同じ構図が見てとれる。マラソン・競歩の開催場所を東京から札幌に変えたのがIOCという日本外の組織だったことは、実に象徴的であった。

既存の秩序が国際的にも国内的にも大きく揺らぎ始めた今日、既存の方針が機能しないときにそれを変える力の有無は日本の将来を大きく左右するはずである。

普天間飛行場の辺野古移設もそうだ。その基本方針は23年前に決まり、工事はようやく始まったものの、軟弱地盤の問題も出てきて未だ完成のめどは立たず。何よりも、当時と今では安全保障環境が激変した——主には中国の軍事力が急伸したことと米国のコミットメントが不透明化したこと——のに、3兆円以上の金をかけるべきプロジェクトなのか、という根本的問題がある。だが、日本側は誰も方針の見直しを言い出そうとしない。変える覚悟を感じられないのは、野党や沖縄県も同じだ。

マラソン・競歩の開催地変更にまつわる顛末は、スポーツのみならず、日本型組織全般の「変えられない」体質を浮き彫りにした。
我々はそこから何かを学び取れるのであろうか。

蛇足――IOCに挑戦せよ

IOCはマラソン・競歩のコースを東京から札幌へ変更するに当たり、「アスリート・ファースト」を強調した。
世界的に異常気象が常態化しつつある時代にあって、夏季オリンピックに立候補できる都市は今後、日本に限らず、限定される可能性が出てくる。だが本来、オリンピックはどこの国(都市)でも立候補できるのが当然だろう。それができなくなるのなら、「オリンピックは真夏に開催する」という現在のIOCの枠組みは変えた方がよい。

今回の騒動を受けて、オリンピックを真夏に開催するのがそもそもの問題、という指摘が日本国内からも出てきている。小池をはじめとする関係者に「煮え湯を飲まされた」という思いがあるのなら、なおのこと日本(JOCや日本政府)は、オリンピックの開催時期見直しを声高に主張すべきだ。

もちろん、ただ主張するだけでは既存の枠組みは変わらない。7~8月にオリンピックを開催するのは、巨額の放映料を支払う米テレビ局の意向に沿ったものだと言われている。日本だけがいくら正論をぶってみても、一顧だにされまい。一国で敵わなければ、仲間をつくるしかない。欧州諸国、そしてアジアで同じような緯度に位置する中国、韓国などとタッグを組む、という発想が必要になるだろう。

実際には、日本政府やJOCは「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で何もしない可能性の方が高い。既存の枠組みの中で頑張るのが日本らしさ、と言えばそれまで。でも、「日本らしさ」にも進化は求められるはずだ。動き出したい。

立憲的改憲の限界~山尾案と安倍案はよく似ている

安倍政治の次の焦点は憲法改正、とメディアがはやしている。だが私は、安倍からも自民党からもそこまでの熱気を感じない。世の中もまったくと言っていいほど盛り上がっていないのではないか。

自民党は2012年4月に憲法改正草案を発表した。その評価はともかく、一つの提案だったことは事実。ところが、2017年5月に安倍晋三総理(自民党総裁)が自衛隊追記案を提案するや、自民党はあっという間に従来の憲法草案を捨て去り、安倍案を追認した。「長いものには巻かれろ」ということか、「改憲できれば何でもいい」ということか、いずれにしてもいい加減な話である。

一方で、野党の方からも対案の類いは聞こえてこない。共産党や社民党は「護憲」だからまあ許せる。しかし、立憲民主党や国民民主党は「安倍政権の下での改憲には反対」と言うばかり。例によって、何がしたいのかさっぱりわからない。
と思っていたら、山尾志桜里衆議院議員が『立憲的改憲』という著書の中で独自の9条改正試案(私案)を発表しているのに気がついた。本の題名からは、憲法によって権力を縛ることを重視した改憲論、という意気込みが窺われる。

山尾と言えば、私生活の面でいろいろ注目され、政治家として毀誉褒貶の激しい人だが、その点にコメントするつもりはない。党(立憲民主党)の迷惑を顧みずに9条改正試案を発表した一事から見る限り、政策論については真面目な人なのだろうとは思う。そこに敬意を表しつつ、本ポストでは山尾がせっかく出した9条改正試案を俎上に載せてみたい。

今回は「安倍の自衛隊追記案との比較」という視点を意識して山尾試案を検証することにした。両案は共に現行9条への加憲という形式をとっているうえ、山尾自身が安倍案を相当意識しているように見えるからだ。

以下では、現行9条、安倍の自衛隊追記案、山尾案と順を追って解説していく。

現行9条~議論の前提

現行の憲法9条はもうお馴染みであろう。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を子供たちが普通に読めば、日本は軍隊を持てないんだ、と思う。私も子供の時はそうだった。現実にも、1947年5月に憲法が施行されてから3年余りの間、日本には自衛隊類似の組織を含めて軍隊らしきものは存在しない時代があった。

しかし、1950年6月に朝鮮戦争が起きると、米国政府(GHQ)は「日本がいつまでも武装解除のままでは不都合だ」と思うに至り、自衛隊の前身となる警察予備隊等の創設を命じた。もちろん、それまでの解釈に従えば憲法違反だ。

そこで当時の日本政府(内閣法制局)がひねり出したのが、「憲法には書いてないけど、国家は自然権として自衛権を持っている。個別的自衛権の一部は憲法が禁止している武力の行使に含まれない。だから、その限りにおいて軍隊のように見える組織(自衛隊)を持つことは憲法違反じゃないんだよ」という屁理屈。その後、2014年7月になって「集団的自衛権の一部も憲法が禁止している武力の行使に含まれない」という解釈変更がなされたことは周知の事実であろう。

子供の素直な感覚ではヘンテコにしか思えない理屈でも、それを認めない限り、自衛隊は憲法違反になってしまう。永田町や霞が関では長い間、このヘンテコな理屈に疑問を挟むことはタブーとされてきた。

安倍の自衛隊追記案 ~「現行解釈を変えない」と言うけれど・・・

2015年9月に安保法制を成立させた時、安倍総理は上記の理屈の上に立ったうえで集団的自衛権の行使を部分的に容認した。ところがその1年半後、安倍は「自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば命を張って守ってくれ、というのはあまりにも無責任だ」と述べて、9条1項、2項を残しつつ、自衛隊の存在を明文で書き込む憲法改正を提案した。自民党はこれを追認し、自衛隊追記案は現在の「改憲4項目」の一つとなっている。条文的には、概ね以下のようなイメージだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

これを初めて見たときの感想は、醜い構成だな、というもの。元々ある1項で「国権の発動たる武力の行使」を放棄しておいて、1項の例外として自衛権の行使はできる、と追記するわけだが、例外が大きすぎて何とも不格好。言うまでもなく、自衛権の行使は「国権の発動」以外のなにものでもない。これを例外扱いにしたら、1項で禁ずる中身はスカスカ。安倍改憲後の9条の下で禁止されるのは、あからさまな侵略戦争くらいだ。自ら「侵略戦争だ」と言って戦争する国はない。9条が「戦争の放棄」を謳っている、と説明するのはしんどくなるだろう。

一方、永田町では、安倍が自らの改憲提案について「自衛隊の任務や権限に変更が生じることはない」と説明していることに反応が集まっている。

第1は、安倍が説明するとおり、改憲しても何も変わらないのであれば、単に自衛隊の存在を明記するだけではないか、という右サイドの失望。
わざわざ改正するのだから、自衛権行使の幅をもっと拡大できるようにしなければ意味はない、というのである。

第2は、安倍が説明するとおり、改憲しても何も変わらないということは、「安倍の自衛隊追記案に賛成すること」イコール「集団的自衛権の一部容認を認めること」になる、という左サイドからの批判。

第3は、条文を変えておいて、9条の解釈が従来の解釈のまま変わらない、と説明するのは通用しない、という疑念。
安保法制を通したとき、憲法9条を変えることなく解釈を変え、それまで許されなかった集団的自衛権の行使を一部可能にしたのは、ほかならぬ安倍であった。
「自衛隊の存在を明記するだけで、何も変わらない」と言いながら自衛隊追記案を認めさせて改憲を実現したとしよう。さすがに安倍の任期中は現行の解釈を維持したとしても、将来の総理大臣が解釈を変えない保証はどこにもない。その時、条文が変わっていれば解釈変更のハードルも当然下がる。

第3の疑念は、「安倍の自衛隊追記案で9条が改正されれば、フルスペックの集団的自衛権行使を可能にする解釈が生まれる」という批判につながる。この点については、山尾の前掲書における対談で阪田雅裕元内閣法制局長官(2004年8月~2006年9月)が述べているとおりであろう。

山尾の9条改正試案~個別的自衛権と交戦権の明記

山尾の改憲案も安倍と同様に現行9条に加憲する形式をとる。現行9条と並べれば以下のような感じだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2 ① 前条の規定は、我が国に対する急迫不正の侵害が発生し、これを排除するために他の適当な手段がない場合において、必要最小限度の範囲内で武力を行使することを妨げない。
② 前条第2項後段の規定にかかわらず、前項の武力行使として、その行使に必要な限度に制約された交戦権の一部にあたる措置をとることができる。
③ 前条第2項前段の規定にかかわらず、第①項の武力行使のための必要最小限度の戦力を保持することができる。
④ 内閣総理大臣は、内閣を代表して、前項の戦力を保持する組織を指揮監督する。
⑤ 第①項の武力行使に当たっては、事前に、又はとくに緊急を要する場合には事後直ちに、国会の承認を得なければならない。
⑥ 我が国は、世界的な軍縮と核廃絶に向け、あらゆる努力を惜しまない。

9条の2にある④、⑤、⑥項は、山尾改正の本筋ではない。

④は自衛隊——何と呼んでもよいが——の司令官が総理大臣、という現状を明記したもの。⑤の自衛隊の武力行使に国会承認が必要、ということは、半世紀以上も前から自衛隊法に書いてある。どちらの項目も自民党改憲草案や安倍の自衛隊追記案に似た記述があり、大きな議論とはなるまい。

⑥項は、それまで戦力を規定してきたところで急に国家の意思表明が出てくる形となっており、個人的には違和感がある。その実現に向けて行動するわけでもないのに文字面だけ理想を書き込んで自己満足したがる、という日本のリベラルの悪い癖が出た。中国の軍事的台頭や朝鮮半島情勢を考えれば、日本は近い将来、防衛費を漸増させざるをえないから、矛盾が生じる可能性が大きい。
ただし、この表現は努力目標にとどまるため、どうにでも解釈できる。したたかな憲法改正派なら、「憲法改正の国民投票を実現するための取引材料に使ってもいい」くらいに考えるかもしれない。

山尾案の核心は、①項、②項、③項にある。

第①項に書きこまれているのは、我が国に対する急迫不正の侵害、排除する適当な手段が他にない、必要最小限度、という武力行使の旧三要件だ。山尾は「現行安保法制のように集団的自衛権の一部を解除する解釈を厳に禁ずる」と述べる一方で、個別的自衛権の一部行使が可能であることを明記する。

第③項は、第①項の帰結として武力行使を行う組織を規定している。すなわち、9条で「陸海空その他の戦力は持たない」と言っているが、上記旧三要件を満たす武力行使にあたる軍隊は持ってもいいんだよ、と書いたものだ。これで自衛隊の存在が憲法に明記される。安倍の自衛隊追記案と構造は同じである。

第②項は、山尾の生真面目さが出ている条項案。現行9条が「交戦権の否認」を明記しているのに対して、上記三要件を満たす武力行使の際には限定的な交戦権が認められる、と定めた。ここで言う交戦権は、「交戦する権利」という意味ではなく、交戦国が国際法上持つ権利の総称。これを認めないと、自衛権の行使を認めても、相手兵力の殺傷・破壊、占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕などができない。ちなみに、2015年の安保法制及びその前提となる憲法解釈の変更もこの点は乗り越えていない。

安倍の自衛隊追記案は交戦権について何も触れていない。つまり、放棄したままだ。少なくとも当面、交戦権は認めないということだろうか。

山尾が自衛権行使に伴ってどの程度の交戦権を認めるべきだと考えているのかは不明である。だが少なくとも、交戦権を限定的に認める山尾案の方が安倍案よりも武力行使の幅を広げる、という部分があることは間違ない。

山尾案でも集団的自衛権は行使できる

山尾の意図するところは、「時の権力者が恣意的な解釈によって集団的自衛権の行使容認を可能にすることがないよう、自衛権行使の旧3要件を条文に入れた」ということなのであろう。しかし、政治家というより法律家としての視点から議論しすぎたせいであろうか、山尾は落とし穴にはまったように見える。つれない言い方になるが、山尾の生真面目な考え方が生きるのは、彼女または彼女と同じ考え方の者が総理大臣か内閣法制局長官の座にある時だけだ。

旧3要件は憲法9条の下で個別的自衛権(の一部)を行使する際の条件を厳格に定めた解釈である。しかし、それを憲法の条文に落とし込んだ瞬間、旧3要件は解釈される対象になる。

山尾のような真面目な法曹関係者が解釈するのであれば、従来の解釈は変わらないと期待してもよかろう。だが、最も重要な憲法解釈は、法律ではなく政治の文脈において決まる。政治が「変える」と決めたら、法律家はついていかざるをえない。朝鮮戦争の際に自衛権と自衛隊(の前身)を正当化する解釈が生まれたのも、作成者は内閣法制局かもしれないが、それを作らせたのは当時の日本政府。その裏に米国政府(GHQ)の命令があったことは言うまでもない。

意外に思われるかもしれないが、2014年7月に新3要件を閣議決定した際、果断さと小心の同居する安倍は過去の政府解釈との連続性を完全に断ち切る決断をせず、集団的自衛権の行使は限定容認にとどまった。将来、「過去の政府解釈にはまったくこだわらない」と本当に割りきる政治指導者が出てくれば、どんな解釈も可能になるだろう。現代はドナルド・トランプが米国大統領になるオルタナファクトの時代だ。過去の法律論議の積み重ねの上に憲法解釈が行われる、という想定の下で憲法改正に取り組むのは、甘い。

「条文化された3要件」をどのように解釈すれば、集団的自衛権の行使が認められるか、少し頭の体操をしてみる。現実の安全保障論と法律論をミックスさせれば、さほどむずかしいことではない。

山尾案が書き込んでいる旧3要件のうち、最も重要な制約となるのは「『我が国』に対する急迫不正の侵害が発生していること」である。「我が国が攻撃されていない」状況下で(我が国と密接な関係にある)他国が攻撃された時に行使されるのが集団的自衛権である以上、この要件があれば当然排除される、というのが山尾の論理であろう。それは従来、正しかった。だが、今はどうだろうか?

ここで、朝鮮半島において北朝鮮と米韓が軍事衝突し、今現在、日本の領土は攻撃されていないケースについて考えてみよう。日本国内に米軍基地が存在し、北朝鮮が日本を射程に収めるミサイルを数百基保有していることを考えれば、日本はいつ攻撃されてもおかしくない。しかも、北がミサイルを発射すれば数分から長くても10分以内に甚大な被害が生じ得る。(ミサイル防衛で北のミサイルをすべて撃ち落とせると考えるのは現実的でない。)

山尾はおそらく、朝鮮半島有事については「日本が攻撃されていない事態を含め、個別的自衛権の行使で対応できる」という主張するのであろう。(そうでなければ、集団的自衛権の行使を認めない、という主張を国民が受け入れることはない。)

旧3要件が認める個別的自衛権の行使は、「日本が攻撃を受けて被害が出るまで待て」という趣旨のものでは決してない。我が国への攻撃が切迫していれば、相手側に武力攻撃の「着手」があったとみなして自衛権を行使することは可能だ。

ただし、何を以って「着手」とみなすかは従来、曖昧であった。かつては「ミサイルへの燃料注入が行われる」等の例示があったが、そんなもの、わかるとは限らないし、仮にわかったところで、数分後に日本へ着弾することを考えれば、完全に手遅れだ。固形燃料のミサイルについては、そもそも当てはまらない。

我が国の直面する最大の脅威がミサイル攻撃であるという現実を考えれば、「個別的自衛権で朝鮮半島有事に対応できる」と主張するためには、「着手」を柔軟に認めることが必要だ。逆に言えば、それさえやれば、我が国が攻撃されていない事態を含め、朝鮮半島有事に個別的自衛権で対応するという主張は一応、成り立つ。

ところがこの事態、裏から見て「個別的自衛権だ」と言っても、表から見れば「集団的自衛権以外のなにものでもない」ということになる。いや、日本が目に見える形で攻撃される前に米韓が攻撃された際の武力行使であれば、国民の多くは個別的自衛権ではなく、素直に集団的自衛権の行使と理解するだろう。

このようなケースでは、「我が国に対する急迫不正の武力侵害の発生」の解釈として新3要件を引用し、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合を含む、としても大きな異論は出ないと思われる。

旧3要件が条文化された場合、「急迫不正の侵害がミサイルや砲弾など従来型の「武力攻撃」に限定されるのか」という観点からも解釈の柔軟化が進む可能性がある。

例えば、我が国に対するサイバー攻撃。今日の国際法の流れに従えば、航空機の管制システムがハッキングされて航空機が墜落させられた場合や、厳冬期に電力システムをダウンさせられた結果、多数の死者が出た場合などでは、武力によって相手国を叩くことが正当化されるであろう。
山尾自身がどう考えているかはわからないが、相当規模の人的被害をもたらすサイバー攻撃は「我が国に対する急迫不正の侵害」に該当しうる、と解釈を拡大(または補強)しても決して不自然なことではない。

立憲的改憲の限界

たった一回のブログで山尾の改憲試案を語りつくすことはできない。

今回はあまり触れなかったが、山尾案は交戦権の一部を明記することから、我が国に可能な軍事行動を今以上に——そして安倍案以上にも——拡大させる側面を持っている。いわゆるリベラルの中には、山尾試案を危険視する人も少なくないはずだ。
もっとも、法律家として現実的対応を心掛ける山尾のことだから、そんな批判は「どこ吹く風」に違いない。

いずれにせよ、山尾の改憲案でも集団的自衛権の少なくとも一部は行使可能、というのがこのポストの最も重要な結論だ。皮肉な話ではあるが、山尾が自分の改憲案について「集団的自衛権の行使は認められない」と説明すれば、安倍が自衛隊追記案について「何も変わらない」と説明するのと同じく、不誠実な言動になる。

山尾案の限界は「立憲的改憲」の限界でもある。憲法の条文によって権力を縛る、と言っても、それは背景に権力政治があってこそ、有効に機能する。
今の憲法9条も、日本を打ち負かした米国(GHQ)という絶対的な権力が日本政府や旧軍部という権力を縛ろうとしてできたものだ。
今日、憲法改正の流れが大きくなっているのも、民主党政権が崩壊した後、「安倍一強」「自民党一強」の政治状況が生まれたことによるところが大きい。

時の権力を制御する最も有効な手段は、それに対抗する権力を打ち立てること。この現実を直視せず、「憲法の条文で権力を縛る」といつまでも言い続けているようでは、リベラルが国民の信頼を得る日は永遠に来ない。

 

以上、山尾に一定の敬意を抱きながら、山尾試案を批判してみた。

ここまで批判しておいて言うのも気が引けるが、山尾案は、安倍案や自民党改正草案に比べれば、ずっと真面目に考えられている、という意味では力作と言ってよい。しかし、その山尾試案でさえ、安全保障論や政治論の観点からはこの程度の水準か、と失望したのも正直なところだ。

私は9条改正論者である。しかし、安倍案、自民党改正草案、山尾案を少し真剣に検討してみた結果、やっぱりもっと時間をかけた方がいいな、という気になったことを告白しておく。

来年は自動車と駐留米軍経費で日米ギクシャクか~貿易協定〈暫定〉合意の先に待つもの

9月25日、日米は貿易協定の締結に合意し、安倍総理とトランプ大統領がニューヨークで共同声明に署名した。報道ぶりはご大層なものだったが、「三文芝居を見させられているようだった」というのが私の感想である。

ミニ合意

今回の日米合意については、「日本政府はよくやった」という声もあれば、「トランプに押された」という批判もある。政治的には、安倍政権を支持する人は褒めるし、支持しない人はけなす。内容的には、トランプが突きつけた対米自動車輸出への関税引き上げを当面回避できたとみるか、TPPで合意していた自動車の関税引き下げを実現できなかったとみるかが評価の分かれ目となっている。

今回の合意を一言で言えば、日本が米国からの農畜産物をもっと買う(少なくとも、今買っている量を減らさない)ということに尽きる。その条件(関税)はTPP水準の範囲に収まっており、別に目新しいところはない。(正確に言えば、セーフガードを発動しない牛肉の輸入枠については新たに別枠をつくり、米国を特別扱いすることになった。)

今回の貿易協定についての米国側の報道ぶりは、「包括的な貿易協定の第一段階」という言い方で一致している。それはそうだろう。日本が最も恐れていた自動車に対する追加関税の発動は、先送りとなった。茂木外務大臣は追加関税を課さない旨、トランプが安倍に確認したと胸を張った。しかし、ライトハイザー通商代表は「現時点では」と釘を刺し、将来の追加関税に含みを残している。いずれにせよ、トランプの保証なんて詐欺師の保証みたいなもの。茂木の得意そうな顔は恥ずかしかった。

安倍とトランプのウィン・ウィン

共同記者会見の際に安倍は、今回の合意が日米双方にとって「ウィン・ウィン」だと述べた。図らずも、言い得て妙、である。

まずはトランプ。米中貿易交渉は長期化して先行き不透明になった。カナダ、メキシコとの間では新FTA(USMCA)を何とか締結したものの、民主党が多数を占める下院での批准に手間取り、いつ発効させられるかわからない。再選を狙うトランプとしては、支持基盤である米農家に現段階で何らかの実績を示したい。大統領権限で発効させられる日本(及びインド)との「ミニ」貿易協定を是が非でもまとめる必要があった。

一方の安倍。日米間の利害対立が表面化し、安倍が習近平のようにトランプの標的になれば、外交上手という評価は地に堕ち、安倍政権の求心力も急低下しかねない。10月からの消費税引き上げを控え、米中貿易戦争による悪影響に日米貿易摩擦が加われば、日本経済の先行きにますます暗雲が漂い、それこそ政権の命取りになりかねない。

目先の合意にすぎなかろうと、大した中身があろうがなかろうが、安倍とトランプにとって今回の日米合意がウィン・ウィンのディールだったことは間違いない。

日本の存在感低下

ミニと言われようと、先送りと批判されようと、日米の貿易協議がとりあえずまとまったことは事実だ。見通しのきかないまま、過激化の一途をたどる米中貿易戦争とはえらい違いである。しかし、前回のブログで述べたとおり、それは日米関係が良好だから、というわけではない。その背景にある最も大きな事実は、米国(と世界)にとって日本経済の存在感が大幅に低下したことだ。

今回の合意、「世界第一位と第三位の経済大国が結んだ貿易協定である」と言っても別に間違いではない。しかも、日本人は常に米国を中心に世界を見ているから、日米の貿易問題は一大事だと受け止める。だが、米国も同様の受け止めかと言うと、相当な温度差がある。

日米貿易摩擦が燃え盛った1980年代と今日では、米国の目に写る日本経済の大きさは、まったく異なっている。2018年、旧NAFTA締結国(カナダ、メキシコ)からの輸入が米国の総輸入に占める比率は26.2%だった。内訳はカナダからが12.5%、メキシコからが13.6%。単一の国ベースでは、中国からの輸入が21.2%で圧倒的に多い。一方、日本からの輸入は総輸入の5.6%。ASEAN全体の7.3%よりも小さい数字だった。

昔は違った。1989年に日本からの輸入が米国の輸入全体に占める比率は19.8%でトップ。ジャパン・アズ・ナンバーワンという言葉が流行し、やがては日本のGDPが米国のそれを凌駕すると多くの米国人が怖れていた。当時の米政府(レーガンから父ブッシュ政権)が日本に照準を定めたのも無理はなかった。

トランプが正面切って言うことはないだろうが、日本とのディールに本気で取り組むメリットは、それほど大きくないと考えるのが自然である。トランプは既にカナダ、メキシコと新協定(USMCA、ただし未批准)を締結したが、全体の2割以上を占める中国からの輸入をどうにかしないと、有権者への効果的なアピールにならない。

本丸=自動車と駐留米軍経費

先日合意が発表された——と言っても、まだ未署名だが——日米貿易協定により、日米関係は当座の小康状態を得ることになった。

しかし、日米貿易交渉の本丸は、今回先送りされた自動車分野だ。大統領イヤーの来年、トランプは日本のみならず、欧州や韓国も含め、米国が自動車を輸入する国々を叩きにくるはず。ロイターによれば、2017年の米国の自動車輸入は830万台で、メキシコが240万台、カナダが180万台、日本が170万台、韓国が93万台、ドイツが50万台となっている。トランプが本気なら、日本だけ特別扱い、ということにはならないだろう。

米中経済戦争ばかりが注目されているが、トランプのアメリカ・ファーストは同盟国にも、そして貿易以外の分野にも向けられている。特に、同盟国に対する防衛負担増はトランプにとって政治的に重要な公約だ。韓国は今年2月、今年度分の在韓米軍駐留経費負担を従来比8.2%増やすことに同意したが、トランプは来年以降も増額を求める構え。在日米軍駐留経費も聖域扱いされることはない。

ブルームバーグは今春、トランプ政権がドイツや日本などに対し、駐留経費全額プラス50%以上の支払いを求める方針だと伝えた。ボルトン大統領補佐官(安全保障担当、当時)に至っては、今年7月に来日した際、応対した日本側の担当者に「5倍増」を要求した、と朝日新聞が伝えている。

在日米軍駐留経費のうち、日本側が負担している比率は75%(2005年の米側試算)とも86%(2015年度の防衛省試算)とも言われる。実際にかかっている駐留経費以上を払え、というのだから、米側の要求は正気の沙汰とは思えない。だが、トランプにかかれば、狂気と正気の区別はなくなる。もちろん、交渉戦術として最初は大きな数字をふっかけておき、最終的には駐留経費の満額を同盟国に負担させれば上出来、と考えているのかもしれない。

いずれにせよ、我々にしてみれば、米軍駐留経費の満額を支払うなんぞ、冗談ではない。ナショナリスト・安倍晋三にとっても、駐留経費負担増額の受け入れは、沽券にかかわる問題のはずだ。

折悪く、現在の駐留経費負担協定の期限は2021年3月まで。次の5年分――期間は短縮される可能性もある——の交渉は、よりによって大統領選挙イヤーの来年、行わなければならない。

米中協議と大統領選がカギを握る

来年からかこの年末からか、日米交渉は上記2分野で本丸に入る。交渉のプロを自認するトランプのことだ、貿易交渉の枠組みの中で自動車とコメを絡めるといったチンケな戦術ではなく、自動車と在日米軍駐留経費をリンケージさせて日本政府を揺さぶる、くらいのことはいくらでもやってくるだろう。

今後の日米交渉はどうなるのか? 少し予想してみたい。

安倍総理にせよ、経産省、外務省、防衛相にせよ、米国との対立が表面化してでも守り切る、といった覚悟は持っていない。日本政府は米国に対して世界でも稀な腑抜けである。(一戦交える覚悟もなしに米国の虎の尾を踏んだ挙句、尻尾を巻いたのが鳩山由紀夫だった。)したがって日本政府の方は、従来のスタイルで何とか切り抜けたい、と思いながら交渉に臨むことになろう。

従来のスタイルとは、トランプの中で問題が大きくなる前に、トランプのご機嫌をとりながら小規模な譲歩を早めに見せ、日米交渉妥結が双方の政権にとってウィン・ウィンだと納得させる、というもの。問題は、来年という時期に、この2つのテーマで、それが通じるかだ。

可能性はゼロではない。古い数字だが、2004年に米国防総省が発表した数字では、米軍駐留経費のうち、日本の負担割合は74.5%と最大。韓国は40%、ドイツは32.6%にすぎなかった。日本はある意味、優等生だ。ある程度の負担増は仕方ないとしても、その伸び率は抑えられるはずだと日本側は期待しているかもしれない。

しかし、トランプを甘く見てはいけない。7月7日付のブログにも書いたが、トランプは6月29日にも「日米安保はアンフェア」と述べ、日本側を牽制した。駐留米軍経費をめぐる今後の交渉では、駐留経費交渉に日本の軍事的貢献や安保条約改定(日本による集団的自衛権行使の明記を含む)を絡めてくる可能性も十分あり得る。

私は、日米交渉の鍵を握るのは、今後の米中貿易交渉の行方と米大統領選の動向だと思っている。

今回、日米ミニ合意でトランプが手を打ったのは、来年の米大統領選で民主党候補に対して不利な予想が多い中、米中貿易交渉の先行きが見えないことが少なからず影響していた。これは既に述べた通り。

来年も米中貿易交渉がまとまらなければ、日本側は自動車や駐留経費の交渉で比較的小さな譲歩を示し、支持者向けに当座の成果を示したいトランプに高く売りつける余地が生じる。例えば、米国は鉄鋼・アルミニウムのように自動車輸入関税を広く引き上げるが、日本車については個別に適用除外されるケースを設けてもらう。あるいは、日本側の駐留経費負担は微増にとどめる一方、またぞろ米国からの大型武器購入を約束する、とか。

日本にとって最悪なのは、米中貿易交渉がとにもかくにもまとまり、それでも大統領選挙でトランプの苦戦が続く場合だろう。中国以外の標的として、日本たたきの優先順位が上がるかもしれない。焦るトランプがなりふり構わず日本に圧力をかけようとして、対日防衛コミットメントを揺るがすようなツイートを発信するようなことがあっても、私は驚かない。

今年は日韓関係の悪化が著しい年だった。来年は、今とても良いと言われている日米関係が外交上の焦点になる可能性がある。その影響は、日韓の比ではない。

 

それにつけても、日本外交は米国に対する「その場しのぎ」外交をいつまで続けるつもりなのだろうか? トランプが再選されても、別の大統領が生まれても、日米関係が劇的によくなることはもうない。永遠にその場しのぎ、というのは御免こうむりたい。

今日の日米関係は「良い」のか? 

中国は貿易戦争を仕掛けられ、EUは今月中にも報復関税を発動されることになった。メキシコやカナダはNAFTAの大幅改訂を飲まされた。それに比べれば、トランプの対日圧力はまだ「優しい」方だ、と感じている日本人は決して少なくあるまい。925日に日米が貿易協定の締結に合意したことを受け、「今日の日米関係はまあまあ良いんじゃないか」という思いを強くした人もいるだろう。

だが、ちょっと待ってほしい。日本が圧力を受けていないのならともかく、日本に対する圧力が他国に対するものほどきつくないことを理由に「日米関係は良好である」という結論に至るのは、まともな思考でははない。

「今日の日米関係は史上最強」説

政府・与党やメディアの多くは、現在の日米関係を「非常に良好」と表現する。今年5月にトランプが来日した際も、安倍は「親密な個人的信頼関係により、日米同盟のきずなは揺るぎようがない」と胸を張った。外務省のホームページに至っては、9月25日に行われた日米首脳会談で両首脳が「日米同盟が史上かつてなく強固であるとの認識を再確認」した、とまで書いてある。

米中の貿易戦争は今や投資の分野にまで拡大しつつあり、着地点が見えない。トランプはカナダ、メキシコ、欧州などの同盟国首脳をも口汚い言葉で罵り、従来考えられなかったような要求を突きつけては様々な二国間関係にストレスを生じさせている。

こうしたアメリカ・ファーストの姿勢は日本にも向けられている。今回の日米貿易協定もその反映だ。しかし、トランプの要求リストの本丸部分(自動車)について、日本は交渉の先送りを許された。安倍に向けられてきたトランプの言葉(ツイッターを含む)も、イスラエルを除く他国首脳に対するものと比べれば、明らかにゆるい。その意味では、今日の日米関係を良好と呼ぼうと思えば、呼べないことはない。

だが、今日の日米関係を良好と呼ぶのは、やっぱり何かしっくりこない。その理由をはっきりさせるため、21世紀に入ってからの日米関係を時系列でごく簡単に振り返ってみたい。

21世紀の日米関係を振り返る

〈小泉―ブッシュ時代〉

この時代の日米関係は、確かに良好だったと言える。

外交安全保障面では、9.11を受けて対テロ戦争の遂行を推進した米国に対して、小泉政権は自衛隊をインド洋(アフガン戦争)やサモア(イラク戦争)に派遣し、目に見える貢献を行った。自衛隊は前線に出て戦ったわけではないが、湾岸戦争で「トゥーリトル、トゥーレイト」「キャッシュ・ディスペンサー」と揶揄された日本とは大違いだった。

経済面でも、日本脅威論が喧伝され、1980年代のように日米貿易摩擦が燃え盛った時代はもう過去のものだった。バブル崩壊後の「失われた10年(←その後も続いた)」を経て日本経済の相対的地位が低下した一方、双子の赤字に苦しんでいた米国は、冷戦終結に伴う平和の配当とIT経済の急速な伸長によって経済大国としての自信を取り戻していたのである。

小泉とブッシュの個人的関係も良かった。二人のケミストリーが合っていたことはつとに有名である。小泉のカウンターパートがオバマやトランプであったなら、ここまで緊密な関係とはならなかったに違いない。ジャック・シラク(仏大統領)やゲアハルト・シュレーダー(独首相)はブッシュの単独行動主義をきびしく批判していた。ブッシュにとって、トニー・ブレア(英首相)と小泉純一郎は、単に気があるだけでなく、外交の世界における盟友でもあった。

〈政権交代前〉

小泉は2006年9月に首相を退任する。その後の3年間で首相を務めた安倍晋三(第一次)、福田康夫、麻生太郎の下でも、日米関係の基本は変わっていない。

ただし、2007年の参院選以降、「ねじれ国会」の状況によって日本政府は日米間の約束事を円滑に遂行することができなくなった。福田内閣はテロ特措法の更新に失敗し、インド洋で自衛隊が行っていた米軍艦船への給油活動は3か月以上中断した。ブッシュの方も政権2期目の後半では支持率が低迷し、レイムダック状態に陥った。

小泉以後の3人の日本の首相とブッシュの間に緊密な関係が生まれることもなかった。日本側の首相はほぼ一年おきに交代したうえ、ブッシュとの間でケミストリーが一致する性格の持ち主もいなかったためだ。

〈民主党政権時代〉

2009年1月に米国ではオバマ大統領が就任した。同年8月末に行われた総選挙の結果、日本では2012年12月まで民主党が政権を担うことになる。

民主党は選挙時のマニフェストで、地位協定の改定、普天間代替施設の再検討、駐留米軍経費の削減、東アジア共同体の創設などを訴えていた。こうした対米自立路線が日米同盟に緊張をもたらしたことは言うまでもない。特に、鳩山由紀夫総理が普天間代替基地の辺野古移設案を見直して「最低でも県外」を実現しようとしたことは、日米関係を一気に冷え込ませた。加えて、民主党政権の統治能力欠如が日本政府に対するオバマ政権の不信感を増幅した。

その後、菅直人、野田佳彦の両総理はマニフェストで掲げた対米政策を事実上、封印した。鳩山の躓きに懲りたことが直接の理由だが、2010年秋の尖閣船長事件やメドベージェフ露大統領による国後島訪問など、中国やロシアとの間で緊張が高まったことも彼らの背中を押した。しかし、民主党政権に対するオバマ政権の態度は最後まで醒めたままだった。

民主党政権の3人の首相とオバマ大統領の間に個人的信頼関係が築かれることもなかった。日本側にも問題があったのは事実だが、オバマ自身も外国首脳と個人的に親しくなるような性格ではなかった。

〈安倍―オバマ時代〉

2012年12月の総選挙で安倍・自民党が政権に返り咲く。

安倍は日米関係の立て直しを唱え、米側もそれを歓迎した。中国の軍事的台頭が顕在化する中、オバマ政権は(少なくとも公式には)アジアへのリバランス戦略を打ち出していたからだ。とは言え、「米国は世界の警察官ではない」と表明したオバマの米国は、国際秩序に積極的に関わるよりも内政を重視する傾向が顕著だった。また、安倍内閣の歴史認識や靖国参拝に対する態度はオバマ政権にとって不快かつ危険なものと映っていた。

経済面ではオバマ政権がイニシアチブをとったTPPに日本政府も乗り、共に自由貿易を推進しようとした。2018年3月にはTPP11協定の署名に漕ぎつけている。

安倍とオバマの個人的関係は緊密と呼べるものではなかった。オバマは実務的な人間だったし、右翼的志向を持つ安倍と基本的にはリベラルなオバマの相性が良いわけもなかった。

〈安倍―トランプ時代〉

2017年1月、ドナルド・トランプが米大統領に就任する。

トランプはアメリカ・ファーストを掲げ、中国のみならず、同盟国との間でも摩擦を起こすことを厭わない。現在までのところ、日本はトランプを持ち上げ、米国からの武器調達など早期にトランプの要求に応じることによって、トランプの標的となることから免れてきた。

ただし、トランプ政権は日本に対して在日米軍駐留経費の大幅増――ボルトン大統領補佐官(当時)は来日時に5倍増を吹っかけた――を要求している。北朝鮮に対しても、2018年春までは米朝間に軍事衝突を起こしかねないほど緊張を高めて日本側の懸念を高めていたが、今は北朝鮮が中距離以下のミサイル開発を進めるのを問題視しなくなり、別の意味で日本側を心配させている。客観的に見れば、安全保障面で日米同盟の平仄が合っているとはとても言えない。国際秩序に対するトランプ政権の軍事的なコミットメントも、(オバマがやらなかった)シリア空爆に踏み切った以外は概して消極的である。

トランプは経済面でも日米関係は緊張を持ち込んだ。トランプは就任するやTPPからの脱退を表明。二国間でより米国に有利な貿易協定を結ぼうと画策してきた。

安倍とトランプの個人的関係は、表向き良好ということになっている。だが、二人の間に盟友関係と呼ぶような強い紐帯があるのかは疑問だ。ただし、中国だけでなく多くの同盟国の首脳と仲が悪いトランプにとって、安倍は「仲間」を演出できる数少ない首脳の一人。安倍もトランプとの良好な関係をアピールすることによって米国の要求を値切ろうとしているように見える。二人はお互いに相手のことを「利用するのに都合のよい人物」と考えているのではないか。

 

こうして時系列で見ると、今日の日米関係が良好であるとはとても言えない。日米双方が――安倍もトランプも、両国の官僚たちも――同盟関係の綻びが表面化しないよう画策し、それが比較的うまくいっているだけの話だ。今日の日米関係を良好と呼ぶのに抵抗を感じるのは、当然のことであった。

日米関係はトランプ大統領の誕生によって変質したというわけでもない。米国が内向きになる兆候はオバマの時代から既に顕著だった。来年の大統領選挙でトランプが再選されなくても日米関係が元に戻ることはもうない、と思っておくべきだ。