「抑制しない政治」の兆しが見える①~マツコ・デラックスに噛みついた立花孝志

このところ、「NHKから国民を守る党(N国)」の立花孝志代表が芸能人のマツコ・デラックスの発言に噛みつき、話題になっている。立花一流の炎上商法に本ブログでコメントするのも馬鹿馬鹿しい――。そう思ってスルーするつもりだったが、よくよく考えてみると、この騒動の向こうに現代日本の(世界の、と言ってもよい)民主主義が直面する宿痾のようなものが見えてきた。

これまで日本では、自民党だけがメディアに圧力をかけられる存在であった。しかし、今、我々は、政治が一般的にメディアへ圧力をかけられる時代の入り口にいるのではないか。

マツコの発言は何が問題だったのか? 

7月29日に放映されたTOKYO MX(東京メトロポリタンテレビジョン)の「5時に夢中!」という番組で、マツコ・デラックスがN国について以下のように述べた。

「この人たちがこれだけの目的のために国政に出られたら迷惑だし、これから何をしてくれるか判断しないと。今のままじゃ、ただ気持ち悪い人たち」
「ちょっと宗教的な感じもあると思う」
「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」

これに対してN国代表の立花は「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒。「マツコ・デラックスをぶっ壊す!」と8月12日にマツコが出演中のMXに押しかけ、番組スポンサーである崎陽軒のシウマイについて不買運動を呼びかけたりした。その後、8月19日にもMXを訪れた立花は、崎陽軒不買運動とマツコ批判に終結宣言を出す。しかし、MXに対しては自らの番組出演を要望し、同局が見解を出すまで毎週押しかけ続けると述べた。

マツコの発言に戻ろう。
私は、マツコの発言で敢えて問題があるとすれば、N国が「これだけの目的」(=NHKのスクランブル化)のために参院選に出たことを「迷惑」と述べた部分だと思う。この発言は、シングル・イッシュー政党の存在意義を認めないことにつながる。ただし、「NHKをぶっ壊す」以外の法案賛否などについてN国の見解がわからないため、今後の言動をしっかり見定めたい、ということにマツコの真意があったのであれば、問題視するほどのこともない話だ。

芸能人ではない立花が、自分のことを「気持ち悪い」とか、「宗教的な感じ」がすると言われれば、不愉快な気持ちになったことは十分に理解できる。だが、マツコのこの感覚は少なからぬ人が抱いている感覚である。N国の候補者たちが政見放送で連日繰り返したパフォーマンスを見れば、そう思われてもまあ仕方がないだろう。しかし、マツコが思ったことをそのままに言ってはならないのは、それが誹謗中傷に当たる時のみ。今回のマツコの言葉を誹謗中傷とまで言うことはできない。(念のために付け加えると、マツコの「気持ち悪い」発言は、N国の候補者たちに向けられた言葉だと思われる。だが立花は、わざとかどうかは知らないが、これをN国に投票した人たちへ向けられた言葉と解釈しているようだ。)

結局、立花が最も問題視しているのは、N国へ投票した有権者が「冷やかし」や「ふざけ」によって投票行動を決めた、という部分なのであろう。この言葉に対して立花は、「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒してみせた。自分がケチをつけられたことに怒っているのではなく、一般有権者が侮辱されたことに対し、一般有権者のために怒っている、という体裁をとる。こういうところが立花は実にうまい。

立花は「発言は明らかに公平中立な放送をしなくてはならないという放送法4条違反」だと主張している。N国の上杉某なる幹事長も同様のことを述べ、だから、反論する機会を得るために――つまり、N国を公平に扱うために――立花をMXの番組に出演させろ、と要求している。だがこれ、ほとんど「いちゃもん」である。

放送法4条は放送番組の編集に際して以下の四点を要求している。

1.  公安及び善良な風俗を害しないこと。
マツコの発言が公安を害していないことは言うまでもない。N国の候補者たちが善良な風俗を害していないのであれば、マツコの発言も同様であろう。

2.  政治的に公平であること。
立花は、今回のマツコの発言を、一方的に特定の政治団体を誹謗中傷したものと批判する。だが、事実でもないのに「殺人者だ」「窃盗犯だ」と言われたのならともかく、この程度で「誹謗中傷」にはならない。また、立花が言うように今回の事例で政治的な公平さが損なわれたと解釈するのであれば、テレビでコメンテーターが政党を多少なりとも批判しようと思えば、その政党を必ず番組に呼ばなければならなくなる。これではテレビ局は政党について何も言えなくなってしまう。それは言論の自由の死を意味する。(ついでに言うと、放送法でいう政治的公平性を立花たちのように解釈すれば、ある政党を褒めても公平さを欠くことになるため、他の政党を呼んだ番組の中でしか許されない、ということにもなってしまう。)

何よりも、立花たちは、ここでいう政治的公平性の意味を(無知ゆえにか故意にか)間違って解釈している。政府が想定しているのは、「選挙期間中又はそれに近接する期間において殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合といった極端な場合」や「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が一方の政治的見解を取り上げず、殊更に他の政治的見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合」等だ。放送法第4条にいう政治的公平性は、マツコのような他愛のない発言について針の先のような形式主義をあてはめようとするものではない。

3. 報道は事実をまげないですること
マツコが「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」と述べたことに対し、立花は「みんな真剣に投票している」「誰がふざけて選挙の投票なんかするか!」と怒る。しかし、マツコは「N国に投票した人のすべてがふざけて入れた」と言ったわけではない。実際、「面白そう」というノリでN国に入れた人はいただろう。マツコの発言を虚偽と断定することはできない。それでも立花がマツコを批判したければ、ふざけてN国に投票した人が一人もいなかったことを立花たちが証明すべきだ。立花は「挙証責任はマツコの側にある」と主張するだろうが、それでは放送番組で政治を論じることは事実上できなくなる。

4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

これは例えば、外国人労働者の受け入れとか、カジノとか、憲法改正など、相反する意見がある重要課題について、多様な見解を紹介して一方的な議論にならないようにする、という意味。今回の件が当てはまらないことは言うまでもない。

結論としては、今回のマツコの発言が放送法4条に違反している、というN国の主張自体がフェイクである、ということ。マツコ発言には、立花が噛みつくような正当な問題など見当たらない。

バラエティー政治評論の限界

以上で述べたとおり、立花のマツコ批判は間違っている、と考えるのが正論だ。しかし、立花は自分の議論が正論かどうかなど歯牙にもかけていないだろう。マツコを叩くことによってN国の宣伝は十分に(かつ安上がりに)果たした。

もう一つ、マツコたたきで立花とN国が得たものがある。メディア、少なくともワイドショーのバラエティー政治評論の側に「N国を叩くと面倒なことになる」という気持ちを植え付けたことだ。

今回の顛末を通して、マツコやMX側がダンマリを決め込んでしまったのには少し拍子抜けした。マツコにしてみれば、「反論すれば立花の思う壺」と(それなりに)賢明な判断をしたつもりなのかもしれない。だが、そのために世間では「立花の主張の方に分がある」という見方が広がってしまった感がある。

マツコに限らず、吉本問題ではあれほど好き勝手に発言していたワイドナショーのコメンテーターや芸能人たちも――「爆笑問題」の太田光など一部の例外を除いて――、この件については歯切れが悪い。自分の見解を表明して立花の標的になることを怖れている、というのは考えすぎかもしれないが、彼らは明らかに「怯んで」いるように見える。(私はワイドショーをそんなに見ているわけではないので、あくまで漠然とした感想である。)

これまでワイドショーでキャスターやコメンテーター、わけても芸能人が政党や政治家を批判したり、おちょっくったりしても、今回マツコのように噛みつかれることは基本的になかった。特に、野党を批判しても、批判された側が彼らに牙をむいてくる心配は不要であった。(国会議員ではなかったが、橋下徹はメディアへの反論を厭わなかった。それでも橋本は知識人。反論は言論にとどまり、テレビ局に抗議に出向くようなことはなかった。) 言わば、自分の身は安全な場所に置いたまま、好きなことを言ってもよかった。

ところが今回、たった一人しか国会議員のいない「弱小」政党に軽口を叩いたところ、口汚く猛反発を食らったあげく、テレビ局にまで押しかけられ、スポンサー企業の不買運動まで口にされた。

単にすごむだけではない。芸能人には馴染みのない言葉(放送法第4条とか)を織り交ぜてくる。「崎陽軒に罪はない気がする」と軽いノリでツィートしたダルビッシュ投手は、N国幹事長の上杉から「崎陽軒に罪はないのならば、誰に罪があるのでしょうか?」と完全に議論をすり替えられ、「危機管理」「公共の電波」とむずかしそうな言葉を並べた反論を受けてしまう。少し知識のある人なら、上杉の議論など完全に反駁できるものだが、罪のないダルビッシュは謝罪に追い込まれてしまった。

米国などでは芸能人が支持政党を明確にし、政治的主張を行うことは珍しくない。彼らは、知識、意識、ディベート術もそれなりのレベルにある。政治家と対決することも辞さない。と言うか、その気がなければ表立って発言したりしない。だが、日本の芸能政治評論にそんな覚悟は見られない。立花に噛みつかれた途端、マツコや他の芸能人たちが怯んだのも当然である。

沈黙する報道メディアと政治

今回の一件では、もう一つ肩透かしをくったことがある。新聞を含めた既存メディアや政党(特に野党)がこの件についてあまり発信しなかったことだ。ワイドショーには娯楽色があり、あまり肩ひじ張って政治的公平性の話題を掘り下げろと言うのも酷なところがあるかもしれない。しかし、テレビの報道番組や、新聞までもが今回の騒動に目立った反応を見せていないことは理解に苦しむ。新聞やテレビ局にとっては、愛知トリエンナーレを社説で論じるのと同様の重要性があると思うのだが・・・。

お堅い政治評論の世界に住むお歴々は、芸能人やワイドショーを見下しているのかもしれない。N国とマツコ・デラックスの衝突など、高尚な政治テーマを扱う自分たちが関わる話題ではない、と思っているのかも。しかし、N国的な対メディア攻撃はいずれ、報道メディアにも向かう。(自民党による攻撃に対しては、すでに防戦一方となっている。)今回、報道メディアが黙っているのを見て、彼らもバラエティー政治評論とそれほどレベルは変わらないのだな、と思った次第である。

N国以外の政党からも、立花の言動に対して大きな異議の表明はなかった。私の知る限りでは、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)が「働いている場所までチームのスタッフを連れて行き、目の前で街宣活動するのは国会議員という権力者としてはやりすぎ」と述べたのが唯一である。ただし、松井は「テレビコメンテーターが批判する内容によっては、反論すべき」とも述べている。マツコの発言やそれに対する立花の見解に対する評価には踏み込んでいない。どっちつかず、でN国に対する遠慮さえ感じられる。

 

次回は議論を一歩進め、日本の政治がメディアに圧力をかけている現状を概観してみたい。今の時代にそれが与野党のパワーバランスにどのような影響を与えるかについても考えてみたい。

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