徴用工問題は仲裁委員会で政治決着を図るのが上策

9月3日9月8日の2回にわたり、徴用工問題をめぐる日韓関係について議論してきた。
日韓関係のもつれた糸をほぐそうとしても、日韓関係の現状は双方があまりに憎みあいすぎている。日韓が緊張緩和に向けた話し合いを今すぐに始めることは、なかなか期待できない。

それでも将来、日韓関係を改善しようと思えば、慰安婦問題と徴用工問題に何らかのケリをつけることが必要になる。特に、徴用工問題はどうしても避けて通れない。

形式から見た時、徴用工問題を決着させるには、①日韓二国間交渉による合意、②国際法廷での裁判、③日韓請求権協定に基づく仲裁委員会の裁定、という三つの方法がある。いずれも針の穴に糸を通すようなむずかしい話だ。しかし、最も現実的かつ意味のある解決となるのは、仲裁委員会を使うやり方であろう。

二国間交渉は解決につながらない

慰安婦に関しては、2011年に韓国大法院が韓国政府の無作為を咎める判決を下した。その後、2015年に安倍と朴槿恵の間で妥協が成立したが、文在寅によって一方的に反故にされたという経緯もある。
したがって、韓国政府が今後日本に再交渉を求めてきても、日本政府には「無視する」という選択肢がある。日韓関係に棘は残るが、慰安婦問題で在韓日本企業に賠償させることはできない。日本側が無理に動かなくても、目立った実害は出ない。

徴用工の方は、在韓日本企業に賠償責任を認めた韓国大法院の判決で出ており、このままでは実害が出る。今後、訴えられる在韓日本企業の数が増える可能性もある。
日本としては、この問題にケリがつかない限り、手打ちはできない。

1965年の請求権協定によって韓国国内の賠償については韓国政府が責任を持つと合意したのだから、韓国政府は約束を守れーー。これが日本政府の主張だ。
だが、韓国にも三権分立の建前がある。判決が出る前ならまだやりようがあったかもしれない。大法院の判決が確定した後、政府がそれを覆すというのは、文在寅政権でなくても無茶な話ではある。

それでも何らかの政治決着が図られるとすれば、日本政府や関係企業も一部資金負担して基金をつくり、日韓両国政府が共同して賠償に当たる、というような枠組みが考えられる。

とは言え、韓国政府が日本企業の負担を一部でも分担するということになれば、韓国世論は激高し、政権は崩壊しかねない。ましてや、文たちは反日の虜と言っても過言ではない。日本との表立った妥協など、考えたくもないだろう。

仮に日韓の間に妥協が成立し、日本国民の税金を一部でも使うことになれば、「日韓請求権協定で決着済み」という従来の日本政府の主張と矛盾する。国内(特に右寄りの人々)の説得が紛糾することは容易に想像がつく。

「両国政府が交渉を通じて妥協案に合意する」というスキームには、もう一つ大きな問題がある。苦労して合意しても、将来、韓国側にちゃぶ台返しを食らう可能性が――決して低くない可能性が――あることだ。
慰安婦問題も、村山談話とアジア女性基金、2015年の日韓合意など、何度も政府間で決着したと思ったにもかかわらず、蒸し返されてきたのが現実。徴用工問題についても、韓国政府は長年「日韓請求権協定で決着済み」と同意していたはずだが、手のひらを返した。

日本国民の間では、「韓国と何かに合意しても無意味。どうせまた、裏切られる」という絶望的なウンザリ感が共有されている。これは、政治家、官僚、国民のすべてのレベルで、右だろうと左だろうと、安倍政権を支持していようと支持していまいと、あてはまる。現時点で日本側に、韓国政府と交渉しようというエネルギーは湧きそうもない。

結論として、日韓二国間協議による解決は、無理かつ無意味ということになる。

国際司法裁判所という劇薬

当事者同士で有効な結論に達することができない場合、国内であれば次の選択肢は「出るところへ出る」こと。国際社会でその役割を担うのは、国際司法裁判所(ICJ)である。

国際法廷に委ねれば、いかなる判決が出ようと、日韓両国はそれに従うと期待してよい。(韓国については一抹の不安がないわけではないが、国際社会が韓国を支持しないことは明白だ。)
国際司法裁判所という第三者によって「譲歩させられる」という形をとるため、日韓両国政府国内的に言い訳をしやすい、というメリットもある。

国際司法裁判所は、1920年に国際連盟が創設した常設国際司法裁判所を前身とし、国連憲章(第14章第92~96条)に基づいて1945年に設置された国連傘下の常設の司法機関。裁判所はオランダのハーグに置かれ、国連総会と安全保障理事会の投票によって選ばれた15人の判事によって構成される。判事の経歴は、外務省の法律顧問、国際法の教授、大使や裁判官の経験者などが多い。同一の国から二人以上の判事が選ばれることは禁止されている。

ただし、徴用工問題を国際司法裁判所で裁くことについては、二点、押さえておかなければならないことがある。

1.  合意付託できるか

一つは、日本が望むだけでは、裁判が始まらないことだ。国内の裁判であれば、一方が他方を訴えれば、基本的には裁判が始まる。しかし、国際司法裁判はそうではない。制度的な詳しい説明は省略するが、徴用工問題を国際司法裁判所で争うためには、日韓が本件を国際司法裁判所へ付託することに合意し、その旨を記した特別合意書をハーグ法廷へ提出することが必要になる。

日本政府は戦後、領土問題を解決するために国際司法裁判所を利用しようとしたことが何度かある。韓国に対しては1954年、1962年、2012年の三回にわたって竹島の領有権問題を国際司法裁判所へ共同付託(合意付託)するよう提案した。ソ連に対しても、1972年に北方領土に関する共同付託を申し入れたことがある。しかし、いずれも韓国とソ連が拒否したため、国際法廷は開かれなかった。

昨年、徴用工問題で大法院判決が下ったことを受け、日本政府は国際司法裁判所への提訴(単独付託)も検討していると言われる。

相手国の同意がなくても、係争当事国の片方がハーグ法廷に訴え出ること自体はできる。その後、訴えられた方が自発的に付託に応じれば、裁判は始まる。ただし、そのようなケースは極めて稀だ。

特に、韓国は面子を重んじる国。単独付託され、後からそれに応じることは、まず考えられない。日本が単独提訴しても、「憂さ晴らし」にしかならない。韓国に下記の仲裁委員会設置を呑ませるためのカードの一つと位置付け、軽はずみなことはしないことだ。

国際司法裁判所で徴用工問題を実際に審理させたいのなら、事前に韓国と話し合って「合意付託」に持ち込むしかない。そのハードルは非常に高いが、モデル・ケースは存在する。

シンガポールの東方、マレーシアの南東方向の海上に三つの岩礁がある。その一つ、ペドラ・ブランカ島(マレーシア名はバトゥプテ島)は19世紀に英国が灯台を建て、その後はシンガポールが管理してきた。しかし、1979年にマレーシアがこれら三つの岩礁の領有権を主張し始め、その帰属問題は両国間で争いの種となった。
長年の交渉の末、両国はこの問題の解決を国際司法裁判所に委ねるという特別協定に調印し、2005年にハーグ法廷へ提訴した。2008年に国際司法裁判所の出した判決は、ペドラ・ブランカ島についてはシンガポール、その南方の岩礁についてはマレーシアの主権を認める一方、最南端の岩礁については周囲の海域を領海とする国(シンガポール、マレーシアに加え、インドネシアも絡む可能性がある)の領有という表現で先送りにした。シンガポール政府とマレーシア政府はそれぞれ、不満を述べつつも判決を受け入れた。

とは言え、韓国政府が徴用工問題で合意付託に応じるということは、大法院(最高裁)で勝訴が確定しているのに、わざわざ判決が覆るリスクを冒すということを意味する。それだけでも、韓国世論から売国的だと非難されかねない。ハードルが高いことに変わりはない。

2.  勝てないかもしれない

徴用工問題を国際司法裁判所で解決する場合、もう一つの注意点は、日本が勝てるか否か、見通せないことだ。

日本政府の主張は、1965年に締結した日韓請求権協定で解決済み、というもの。無償(3億ドル)・有償(2億ドル)援助等を行い、韓国の個人分については韓国政府が責任を持つ約束だったのに、反故にされたと韓国政府を批判している。
国家間で戦時の賠償問題が片付いても、個人による旧敵国への賠償請求権は残る、という考え方が国際法解釈の主流だ。韓国の個人分の補償については韓国政府が責任を持ち、日本政府はその分を含めて韓国に援助を行ったという主張が、どの程度通るのか。韓国側が人権問題を絡めてお得意のロビイングを仕掛けることを含め、日本に不利な判決が出る要素は、少なからずある。

2014年3月、オーストラリアとニュージーランドが南極海における日本の調査捕鯨を国際法違反だと提訴した裁判について、国際司法裁判所は「このままの形で捕鯨の許可を与えることはできない」という判決を下した。判決を受け、日本は南極海での調査捕鯨を中止せした。判決が出るまで、外務省は「絶対に勝てる」と楽観していたと言う。

国際司法裁判所ではないが、韓国が原発事故後、福島県などからの水産物輸入を禁止している問題について、今年4月、世界貿易機関(WTO)の上級委員会(第2審)は、韓国に是正を求めた小委員会(第1審)の判断を取り消す裁決を下した。この時も、外務省や農水省は「勝てる」と思っていたらしい。

負けるかもしれない、というリスクがあるのは、韓国にもあてはまる。
しかも、現状の大法院判決は韓国に有利なものだ。日本側は国際司法裁判所で負けても、「ダメ元」と言えなくもない。だが、韓国政府の場合は、国際司法裁判所で負ければ、文字通り洒落にならない。

国際司法裁判の場合、政治的な配慮よりも、法解釈の議論に基づいて判決が下される。その結果、負けた方にとっては、極めてきびしい結果になる可能性がある。
例えば、元徴用工への賠償責任は韓国政府にある、という判決が下れば、(日本側にとっては当然の判決であっても)韓国の政治は大混乱に陥るだろう。逆に、日本政府は元徴用工への賠償責任を幅広く負うべし、という判決であれば、賠償金額や対象となる人数は膨れ上がりかねない。

日韓双方の政治指導者がこうした不透明性を呑み込み、文字通り政治生命をかけて取り組むことができるのか? 両国の政治や世論はついてこられるのか?
そう考えると、国際司法裁判所における解決、というオプションも現実味は薄いか。

落としどころは仲裁委員会

日韓請求権協定には、両国の間に意見の相違が生じたときの紛争解決手段について、第3条に定めがある。
すなわち、日韓の間でまずは協議を通じて解決をめざす。それが駄目な場合は、日韓各1名と日韓が同意する日韓以外の1名(または日韓が同意する第三国の指名する1名)からなる仲裁委員会を設置し、案件を付託する。両国は仲裁委員会の決定に服さなければならない。

昨年、徴用工判決が出たあと、日本政府は韓国に外交協議を申し入れ、さらに仲裁委員会の設置を求めた。しかし、韓国政府が事実上拒否したため、設置は叶わなかった。

だが、仲裁委員会による解決には無視できないメリットがある。一度断られたからと言って諦めるのはもったいない。仲裁委員会による解決のメリットは二つ。

一つは、条約(国際協定)に基づくものであり、第三国(第三者)も関与する仕組みであるため、結論が出れば、韓国も決定に従わなければならないこと。ちゃぶ台返しはまずないと思ってよい。(ただし、仲裁委員会の設置まで行っても、結論が出ないケースはあり得る。)

二つめは、仲裁委員会とは言ってもベースにあるのは二国間協議であるため、日本または韓国が国内的にどうしても受け入れられないような決定には至らないこと。つまり、国際司法裁判所の判決よりも、日韓の間で一種の「引き分け」を実現させられる可能性が高い。

両国間に最低限の信頼関係もないまま、仲裁の「着地点」について下打ち合わせもしないまま、出たところ勝負のように仲裁委員会の設置を提案しても、韓国が受けるはずはない。水面下で日韓が妥協できる大体のラインを双方がイメージできてはじめて、仲裁委員会設置の可能性が出てくる。

私が抱く仲裁案のイメージは、先に二国間交渉の項で述べたようなものだ。日本の完勝は韓国が受け入れるはずがなく、韓国の完勝は日本が受け入れられない。そうであれば、着地できる範囲は誰が考えてもあまり広くない。

冷え切った日韓の間を取り持つよう、第三国――仲裁委員会が設置されれば、仲裁委員を出すことになる可能性が高い――に依頼することも重要になる。いや、もしかしたら、これが成否の鍵を握るかもしれない。

第三国として誰もが最初に思い浮かべるのは、日韓双方の同盟国である米国だろう。私もそれを否定するものではない。
ただし、今の「トランプのアメリカ」がよいかどうかは慎重に考えた方がよい。トランプが「善意の第三者」として振舞うかどうかに確証が持てないためだ。安倍とトランプの関係を韓国がどう見るか、ということもある。
もう一つ。米国に仲介役を頼めば、「米国というお目付け役のもとで日韓が協議させられている」という構図になってしまう。別な意味でこれは嫌だな。

中国に仲介役を頼む、というウルトラCも頭の体操としては面白い。だが、中国は韓国と同じく徴用工問題を抱える国だ。日本の国内世論が中国を仲介役として受け入れることに抵抗感を持つであろうことも障害になる。賢明ではあるまい。

とは言え、米国は「日米韓」、中国は「日中韓」という日韓を含んだトライラテラルな枠組みを持っている。日本との新ディール協議に入るよう、米国と中国から韓国へ働きかけてもらうことはとても意味がある。

ここは「近隣でない小国」という線で、過去に国際紛争の仲介役として実績を持つ国にあたってみてはどうか? いずれにせよ、日本外交の日頃の「交際力」が試される。外務省にはこういう時にいい仕事をしてもらいたいものだ。

 

安倍政権と文在寅政権の相互憎悪を考えれば、少なくともいずれかの国で指導者が交代しない限り、日韓が仲裁委員会の設置を含め、何らかの妥協策に合意できる可能性はないかもしれない。(理屈の上では、別な見方もできないわけではない。日韓が何らかの妥協案に到達した場合、それぞれの政府が国内世論を納得させる上では、「右寄りで政権基盤の磐石である安倍」と「左寄りで支持率の比較的高い文」の組み合わせは理想的なものである。)

国力の接近した日韓がナショナリズムを制御し、歴史問題を克服することは、生半可なことではできない。日韓の指導者は、冷静に自国の国益とは何かを理解し、文字通り政治生命をかけてこの難問に取り組むべきだ。さもなければ、日韓のルーズ・ルーズ・ゲームはいつまでも続く。

対韓圧力はやがて手詰まりに陥る可能性大――気がつけば「戦略的無視」から逸脱していた日本政府

前回の記事で、徴用工問題に端を発した日韓関係の悪化は、双方にとって損しかないものの、その損が致命的でないために「ナショナリズムの罠」から抜け出せず、いつまでも続きそうである、と述べた。

今の日本人の感覚は、「日韓関係なんか悪くても何も困らない。つき合っても不愉快になるだけだから無視すればいい」というのが最大公約数だろう。私も正直言って、韓国に関与することに疲れてしまった。しばらく放っておけばいい、という気分だ。

その後、ソウルやプサンでは教育機関や公共施設で「戦犯企業」の製品を買わないよう努力義務を課す条例を可決するなど、韓国側は情緒的対応をやめる気配を見せない。だが前回も述べた通り、彼らが何をやろうと、日本の措置を撤回しなければならないほどの圧力をこちらが感じることはない。韓国の行為は、我々の「ウンザリ感」を一層募らせ、「日本は絶対に降りるべきでない」という気持ちを募らせるだけだ。

しかし、冷静になってみると、この関係はどこかで着地点を見つけ、終わらせなければならない。今後の展開を考えたとき、この勝負、時間が経つにつれて日本は手詰まりになるのではないか、と思えてきたからだ。それはどういうことか? あまり言いたくはないが、書いておかねばならない。

この先の展開を読む

7月4日、日本政府は半導体製造に使われる3品目の韓国向け輸出を個別許可制に移行。7月のフッ化水素の対韓輸出は前月比で8割減少した。
8月28日には軍事転用の恐れが低い製品の輸出について審査不要のホワイト・リスト(グループA)から韓国をはずす政令も施行された。
こうした動きに対し、韓国側は日本政府のとった措置に直接対応する範囲を超えて対日報復措置をエスカレートさせ、GSOMIAの破棄まで通告してきた。

先日、李洛淵(イ・ナギョン)首相が韓国国会で「(対韓輸出規制強化など)日本の不当な措置が元に戻れば、わが政府もGSOMIAを再検討することが望ましい」と答弁した。訪韓した河村建夫元官房長官(日韓議員連盟幹事長)に対しても、李は同様の発言を繰り返している。事実上、「日本が韓国をホワイト・リストに戻せば、韓国はGSOMIAの破棄(11月から発効)を取り消してもよい」という観測気球なのだろう。

しかし、日本側の輸出管理厳格化は、安全保障上の理由という建前はさておき、韓国政府に徴用工問題への取り組みを促すことが目的だ。日本政府にとって、李の提案は「まったく次元の異なる問題(菅官房長官)」を意図的に混同させようとしたものでしかない。安倍も「徴用工問題の解決が最優先だ」と不快感を示し、乗るつもりはなさそうである。

ここまでは、日本ペースとまでは言わないが、韓国側の報復措置にもかかわらず、日本が韓国に対して攻勢に立っているように見える。だが、この先は果たしてどうなるのか?

今後も韓国政府が徴用工問題で何の手も打たなければ、日本側は意地でも輸出管理の厳格化を元に戻さない。
すると、韓国側は報復措置として既に発表済みの対日貿易制限措置を実行に移す。韓国の輸出管理上、日本をホワイト・リストからはずすことも今月中には始まるだろう。11月になれば、GSOMIAも完全に破棄される。

両国にとって、経済的にも、安全保障の観点からも、マイナスの影響が出ることは間違いない。だが、前回述べた通り、両国が蒙るマイナスは「致命的」というレベルにまでは達しない。

日本が7月以降に打ち出した輸出管理厳格化措置に対し、韓国は常軌を逸した反応を示した。そのことによって、我々は日本のとった措置が韓国にとって与えるダメージを実態以上に大きなものと受け止めてしまったようだ。

前回も述べたとおり、日本の輸出管理厳格化は手続き面の規制強化であって禁輸ではない。先月あたりから、輸出申請に対する個別許可も降り始めている模様だ。ホワイト・リストからの韓国除外についても同様のことが起きる。したがって、時間の経過とともに対韓輸出は、完全に元には戻らないまでも「正常化」していくことが予想される。

さらに、サムソン電子など韓国の半導体メーカーは、フッ化水素の韓国産化に取り組むなど対策に着手した。日本の制裁は長い目で見れば、日本の素材メーカーにとって不利なことになりかねない。

日本政府が韓国に課した経済措置は、安倍がトランプ流を模倣したものだ。しかし、スケールの点で両者の違いはあまりに大きい。
トランプは、中国からの輸入に対し、広範かつ大幅に関税を引き上げている。ファーウェイについては、米政府機関による調達、米企業による部品供給を禁止した。ファーウェイに対する規制の網は、米国企業のみならず、日本を含む同盟国の一部や多数の外国企業にも及ぶ。

しばらく時間がたてば、韓国は日本の輸出管理厳格化によってあまり痛みを感じなくなるだろう。
ではその時、徴用工問題はどうなっているか? 韓国政府が徴用工問題で日本に何らかの配慮を示しているとは考えられない。
つまり、徴用工問題は改善しないまま、日本側のとった対韓措置に韓国側が慣れる、という事態を迎える可能性が高いということだ。

手詰まりの予感

徴用工問題は、日韓の外交問題という側面もあるが、基本的には韓国司法の土俵の上にある、と言わざるをえない。
大法院(韓国最高裁)の判決は既に下り、日本製鉄(旧新日鉄住金)の資産は差し押さえられている。別の在韓日系企業を標的にして新たな訴訟を起こされれば、同様の判決が出るはずだから、賠償させられる企業が続出しかねない。
我々がそれを不当だと思っても、こちらに強制的に阻止する手立てはない。(戦前なら、「朝鮮出兵」を含む軍事的な手段で圧力をかけることも可能だった。しかし、今の時代にそんなことをすれば、日本は侵略国とみなされる。)

結局、日本が韓国に対して圧力をかけ続けようと思えば、経済面(関税引き上げ、政府調達からの韓国企業締め出し、金融制裁等)で新たな対抗措置を導入するしかない。だが、韓国相手に安全保障を理由にした規制を課すには自ら限度がある。無理にやれば、WTOで負ける。
また、日本の措置は(米国がやっているように)他国の政府や企業を巻き込んだものにはならない。韓国への打撃も限定的なものにとどまる。

一般論としても、ナショナリズム(歴史問題)が絡む問題を経済圧力によって解決することは非常にむずかしい。日本が圧力を強化すれば、韓国が徴用工判決の差し押さえ資産の現金化に踏み切るなど、徴用工カードを切ってくる可能性も考えられる。

少し脱線するが、安倍にとことんやるつもりがあるのなら、徴用工問題で訴えられる日系企業に韓国撤退を要請するくらいの覚悟を持たなければならない。トランプは中国に進出している米国企業に対し、撤退を要請している。
韓国側に戦犯と名指しされた日系企業は、いわゆる賠償金を支払ってでも韓国にとどまった方がよい、と考えているのか否か? 私はその本音を知らないので、これ以上のコメントは控える。

輸出管理規制の強化によって徴用工問題の本質的な解決をはかるという日本政府の計略。一見よさそうに見えたが、ここまでくると手詰まりに陥る可能性が高い。

安倍政権の最近の対韓政策は「戦略的無視」と言われてきた。だが皮肉にも、今夏発表した対韓輸出管理の厳格化は、この「戦略的無視」を逸脱した行動であった。
韓国側の過剰反応に対し、さらなる圧力で応じても先は見えない。日本としては当面、「戦略的無視」に戻るのが得策であろう。

韓国という国は、本当に面倒くさい国だ。しかし、韓国というクセのある隣国との確執にこだわり続けることも愚かな話。好きになれない国であっても、我が国の国益を極大化するうえで利用してこそ、日本の方が大人ということではないのか。

戦略的無視という言葉には、魅力的な響きがある。しかし、それをいつまでも続けることはできない。時間はかかっても、我慢に我慢を重ねてでも、日韓関係の改善に取り組むべきだ――。私はそう思う。

次の記事では、日韓関係改善の方策(=徴用工問題の解決策)について私の試論を述べてみたい。

日韓摩擦の泥仕合~ルーズ・ルーズ・ゲームは続く

徴用工判決が出た直後の昨年11月7日、「日韓関係、あと10年は駄目だろう」と本ブログで書いた。

案の定、その後の日韓関係は悪化した。今夏、日本政府がついに貿易面で韓国に圧力をかけたところ、韓国側は軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を含め、予想を上回る反発を示す。

今や、日韓のメディアが日韓関係悪化のニュースを報じない日はない。ワイドショーで「ジーソミア」などという言葉が飛び交う始末。日韓関係は単に泥沼化したのみならず、泥仕合になりつつあるようだ。

問題は、この泥仕合の向こうで日韓双方が国力を確実に摩耗させていること、そして、この泥仕合に終わりが見えないことである。

泥仕合化

日韓関係は、単に悪化するだけでなく、泥仕合の様相を呈してきた。

1. 日本のトランプ流採用と韓国の過剰反応

韓国大法院の徴用工判決が出たのは昨年10月30日。その後、日本政府は仲裁委員会の開催を要請するなど、日韓請求権協定の枠組みで問題を解決する体裁をとった。ここまでは日本側の冷静さ――内心は激怒していたのであるが――が際立った。

しかし、去る7月18日に韓国政府が仲裁委設置を事実上拒否したのを待って、日本側もついに「実力行使」に出た。韓国向け半導体部品の輸出規制、輸出管理におけるホワイト・リストからの韓国除外という措置を矢継ぎ早に発表したのである。これに対し、韓国側も報復措置をとり、日韓の対立は一気にエスカレートした。日韓双方は、政府も国民もナショナリズムの虜になってしまった感がある。

日本側の対韓輸出管理厳格化は、安全保障上の措置と言ってはいても、実際には徴用工問題への対抗措置にほかならない。韓国に対して「ウンザリ感」を募らせている日本人の中には、爽快に感じた向きも少なくなかっただろう。これ、世界は「安倍がトランプ流に倣った」と見ている。トランプが中国に対し、知的財産権や軍事戦略上の目的を達成するため、関税引き上げや貿易制限を恣意的に発動しているのと同じことを安倍が韓国に対してやった、というわけだ。

韓国側が日本政府の措置に対応した報復措置(日本をホワイト・リストからはずすなど、対日輸出管理の厳格化)をとったのは、まあ仕方のないことであろう。だが、韓国の動きはそれにとどまらなかった。日本からの石炭灰輸入に際して放射能検査を義務付ける措置、日本産食品17品目やプラスティック廃棄物等に対する放射能検査の強化など、輸入面でも報復措置を打ち出し、民間では日本製品不買運動や日韓航空便の運休・減便などが広がった。極めつきは、安全保障協力分野にまで飛び火させ、GSOMIAの破棄を通告した。まだ足りないと思ったのか、8月25日には竹島でイージス艦まで投入した軍事訓練を行い、米国防総省でさえ「生産的でない」と顔をしかめた。8月31日には韓国与野党の国会議員が竹島に上陸する。この国にバランス感覚というものを期待してはいけない、と思うのは日本人ばかりではあるまい。

米中貿易戦争においても、対米関税の引き上げ等、中国は対抗措置をとっている。だが、私に言わせれば、中国の対応の裏側には、まだ理性がある。中国は、自らの対抗措置が最初に米国がとった措置を超えないよう配慮し、事態のエスカレートを少しでも防ごうと努めているように見えるからだ。(それでも、トランプが追加措置を発動するので結局、エスカレートは止まらない。)それに対し、韓国の反応は、ただ感情をぶつけているだけにしか見えない。

今後、安倍はトランプよろしく、韓国に対してさらなる打撃を加えるのか? 私は、少なくともこのタイミングでは、新たな措置をとる必要はないと思っている。こちらの意思は、すでに二発の輸出管理強化で示してある。GSOMIA破棄や竹島上陸に反応して日本が追加制裁措置をとっても、後述するように効果はない。であれば、世界から「日本も本当にトランプ流でいくつもりだ」と思われてもつまらない。情緒不安定な韓国と同一視されるのも不愉快な話だ。

2. 感情的な言葉の応酬

日韓双方の政治レベルでの言葉の応酬が、泥試合の様相を一層強めている。

韓国側はトップの文在寅大統領が感情に任せた――あるいは、国内的な「受け」を意識した――発言を繰り返している。「加害者の日本が盗っ人たけだけしく大声をあげている」「北朝鮮との経済協力で平和経済を実現し日本に追いつく」などという発言は、一国の指導者として品格も戦略もあったものではない。韓国の与党議員に至っては、日本のメディアをわざわざ集めたうえで、「4歳児みたいな行動」「笑止千万」などという表現を使って日本の行動を批判した。

日本側は、安倍総理や菅官房長官がまだ抑制的なトーンを貫いているのが救いである。しかし、河野太郎外務大臣はまだお若いのか、マスコミのカメラが回っているところで韓国大使の発言を遮り、「きわめて無礼」と発言した。外務大臣がすぐに激するようでは落第だ。竹島についても、あの丸山穂高が「戦争で取り返すしかないんじゃないですか」とツィート。さらに、在日韓国大使館には銃弾と脅迫文が送られた。世界から見たら、韓国だけでなく日本も、「危なっかしい国」と映っているに違いない。

3. 主張は水掛け論

肝心の徴用工問題についても、日韓の主張のどちらが正しいのか、という点について冷静な議論は行われていない。

この間、日本政府の態度は一貫している。すなわち、両国間の賠償問題は1965年の日韓請求権協定によって「完全かつ最終的に」解決済みである、ということ。したがって、韓国大法院の判決は「国際法違反の状態を作り出した」ものであり、断固として認められない、となる。

多くの日本人が聞けば、実に説得力のある議論に聞こえる。だが実は、国家間で戦時の賠償問題が片付いても、個人による旧敵国への賠償請求権は残る、という考え方が国際法では主流。そこに人権問題が絡めば、日本政府の主張が国際社会で広く受け入れられるかは微妙なところである。安倍総理が国際法違反の中身にあまり立ち入らず、「韓国は国と国との約束を守ってほしい」と繰り返すのも、その辺が影響しているのではないか、と私などは勘ぐってしまう。いずれにせよ、多くの日本人は「韓国の国際法違反」という主張を信じて疑わない。

一方で、韓国側は当然、個人の請求権は日韓請求権協定によっても消滅していない、と論陣を張る。だが、韓国側にも弱みはある。2011年8月に韓国大法院が従軍慰安婦問題で韓国政府の無為を違憲とする判決を下すまで、韓国政府は日本政府に対して「賠償の問題は個人の分を含め、1965年の日韓基本条約と請求権協定で解決済みである」と40年以上にわたって認めてきた。その意味で、韓国政府の約束破りは明白だ。日本政府の方も業を煮やし、韓国政府が個人請求権については自ら責任を引き受けると述べていた「約束」を証拠として公開し始めている。ただし、韓国政府は過去の政府間合意について国内向けにはあまり語ろうとせず、「日本政府が悪い」の一点張りだ。

日本側は韓国の態度を「国際法違反」と決めつけ、韓国側も大法院判決の正当性を叫ぶだけ。両国の外務当局が協議に臨んでも、お互いに相手の説には耳を傾けることなく、自国の立場を一方的に繰り返すだけ。これを泥仕合と呼ばずして何と呼ぶのであろうか。

双方効果なし

泥仕合でも、我々が韓国側の行動を変えられるのであれば、まだ救いはある。韓国側の常軌を逸したような行動についても、それで日本に何らかの影響を与えられるのであれば、少しは理解できる部分もあるだろう。しかし、日韓双方のやっていることは、相手にほとんど影響を与えることはない。そもそも、経済制裁によってナショナリズムを押さえつけることは、よほど条件が整っていない限り、基本的には不可能だ。それが簡単にできるなら、北朝鮮はとっくに核開発をやめているし、米中貿易戦争もこんなに長期化していない。

〈日本→韓国〉

今回、日本政府が輸出管理規制を韓国に課した狙いは、言うまでもなく、徴用工判決をめぐって韓国に圧力をかけることにある。

安倍政権の中には、韓国政府が徴用工問題の政治的解決に取り組むよう、圧力をかけたいと考える強硬派もいるだろう。だがそれは、日本で言えば最高裁判決で有罪判決が出たあとに政府が介入して判決を無効にしようとするようなものだ。曲がりなりにも三権分立の韓国でそんなことは制度的にできない。無理にやれば、政権は倒れてしまう。したがって、日本が圧力をかけても、韓国政府が徴用工問題を考え直す、と期待するのは(残念ながら)見当はずれだ。

日本政府内には、韓国側に目に見える形で圧力をかけることによって、韓国側が差し押さえた在韓日本企業の資産を処分するなど、徴用工問題で次なる行動に出ることを牽制する意図があったと言われている。「日系企業の資産に手をつければ、さらなる制裁を実施するぞ」という無言の脅しをかけた形だ。だが、そうした効果を多少は期待できるとしても、それほど長続きするだろうか? 韓国の法制度に詳しいわけではないが、最高裁(大法院)判決が出た以上、いつまでも執行を止めておけるとは考えにくい。

では、日本政府の措置によって韓国の世論が軟化し、結果として徴用工問題で韓国側に何らかの変化が生まれることは期待できるだろうか? 日本では、文在寅大統領の対日姿勢に批判が高まっているという報道が目立つ。しかし、文の不支持率が5割を超えたのは、文が次期法相に据えようとする側近(チョ・グク元大統領府司法担当首席補佐官)のスキャンダルによるところが大きい。それに、文の支持率もまだ4割を超えており、まだまだ「追い込まれた」という状況ではない。

韓国の歴代政権は支持率が下がるほど、対日強硬姿勢をトーンアップさせてきた歴史を持つ。2012年8月に李明博大統領が竹島に上陸した時は、前月に実兄が収賄で逮捕され、支持率は2割を切っていた。大統領就任時は「未来志向」の日韓関係を追求した盧武鉉も、政権のレームダック化が進むにつれ、歴史問題等で対日姿勢を硬化させた。竹島(独島)が韓国領土であることを強調した特別談話を出して支持率を(一時的に)改善させたこともあった。文在寅についても、今後支持率が急低下したりすれば、ナショナリズム・カードを積極的に切ってくる可能性が大いにある。その時、日本側の追加制裁によって文を止めることは不可能だと思っておいた方がよい。

私自身は、輸出管理強化に踏み切った日本政府の意図は、上述のような駆け引きの側面よりも、日本側の韓国に対するイライラ感の表明という側面の方が強かったと考えている。日本国民の多くが今回の政府の措置を評価しているのも、そこに共感したからだろう。韓国という国には、「下手に出れば、どこまでもつけあがる」という傾向がある。戦後の日韓関係の中で「文句を言い続ければ、最後には日本が折れてくれる」という甘えの構造をすっかり身につけてしまった。ホワイト・リストはずしの最大の意義は、「もう黙っていませんから、そのつもりで」というメッセージを日本から韓国へ送ったことにある。

〈韓国→日本〉

日本による対韓輸出管理の厳格化という一手に対し、過剰ともいえる反応を示した韓国。しかし、韓国がどれだけ過激な行動をとっても、日本政府が一度下した決定を覆す効果は期待できない。

安倍政権は、対韓輸出管理厳格化を(建前は安全保障目的だが実際には)徴用工問題に対応するカードと位置づけている。日本国民も主要政党も同様の認識だ。したがって、韓国側が「GSOMIA等の措置を取り消してほしければ、韓国をホワイト・リストから除外した措置を撤回せよ」と言ってきても、まったく噛み合わない。

しかも、韓国側の措置は、国家のプライドを曲げなければならないほどの痛みを日本に感じさせるものではない。もちろん、日韓貿易に関わる企業や、韓国人観光客の減った旅館・食堂・土産物屋等の関係者にとって、多かれ少なかれ、経済的打撃があるのは事実だ。しかし、彼らが日本政府に対して譲歩を求めるような雰囲気は皆無と言ってよい。

日本側の報道には自国に都合のよいニュースを取り上げがちであると先に述べた。その傾向は韓国側の報道にも見てとれる。枝野幸男立憲民主党代表が河野外務大臣を批判したニュースも、朝鮮日報が早速、誇張気味に伝えていた。だが、枝野を含め、立憲民主党、国民民主党、野田前総理のグループなど旧民主党系の野党は、いずれも徴用工判決を批判し、安倍政権が発動した貿易管理強化を支持している。民主党政権(野田内閣)時代、GSOMIA締結で合意していたにもかかわらず、協定締結の1時間前になって韓国側にドタキャンされた、という前代未聞の事件が起きた。彼らが「親韓」というのは相当古い認識だ。

リベラル系のハンギョレ新聞になると、もっとすごい。例えば、「安倍政府は日本市民の良心的な声に耳を傾けるべき」という社説。現実の日本では、リベラルの多くを含め、圧倒的多数の日本人が韓国に対して嫌悪感(ウンザリ感)を抱いている。その根の深さが韓国側にはなかなか伝わらないのかもしれない。こうしたバイアスのかかった報道を通じて、韓国側が「超強硬な対応策の効果があった」などと勘違いしないよう願うばかりだ。

終わりの見えないルーズ・ルーズ・ゲーム

かくして、日韓双方の行為は、相手の言動を変えるという点では、効果がない。一方で、相手の反感を高めて事態をエスカレートさせるという、作用・反作用の効果は確実に発揮されている。また、後述するように致命的なものではないが、日韓の経済活動にマイナスの影響を与えていることも否定できない事実だ。

かつて日中間では、両国関係をウィン・ウィンの関係にする、ということが盛んに言われた。ウィン・ウィンとは、「両国が協力しあえば(協力しないよりも)お互いに得になる、だから協力しましょう」という意味である。これに対し、「一方が損する分、他方が得をする」というのがゼロサム・ゲーム。そこでは、協力ではなく対立が行動の基調となる。

今日の日韓関係を見ると、一方の損が他方の得になっている、というわけでもない。例えば、日本の対韓輸出管理厳格化。韓国側が事務的、時間的に困るのはもちろんだが、だからと言って日本側の儲けが増えるわけではない。日本側も、手間が増えたり顧客を失ったり、いいことは一つもない。韓国側の措置についても同様。日本製品のボイコットによって当該日本企業(例えばユニクロ)の売り上げは少し落ちるだろう。代わりに、韓国の消費者は比較的安価で高品質な製品を買えなくなる。GSOMIAの破棄に至っては、日韓双方の安全保障にとってマイナスとなり、笑っているのは北朝鮮や中国である。「ルーズ・ルーズ・ゲーム」以外のなにものでもない。

双方にとってマイナスばかりなのであれば、そんな緊張関係は早く終わらせるのが理性的な判断であろう。だが、その理性的判断ができなくなるのがナショナリズムのナショナリズムたる所以。ましてや、現時点で日韓両国の対抗措置の応酬が及ぼす影響は、日本だけでなく、韓国にとっても、たいしたものではない。

日本側の措置は、あくまでも「輸出手続きの厳格化」であり、「禁輸」ではない。最初は事務手続き面で時間がかかるにせよ、日韓の業者は早晩適応するだろう。韓国側はヒステリックに反応したが、対韓輸出が大きく落ち込むような事態は起きないと思われる。

韓国側のとった措置も、輸出に関しては基本的に同様のことが言える。輸入面の措置についても、韓国一国が一部産品について制限をかけたところで、日本側が耐えられない事態にはほど遠い。

GSOMIAが破棄されることの影響はどうか? 日本にとって(韓国にとっても)安全保障に関わる情報の精度が落ちることは避けられない。また、日韓の防衛協力全般がギクシャクしているという対外的メッセージを発したのも同然であった。ただし、北朝鮮や中国の脅威を考えた時、米韓双方にとって圧倒的に重要なのは米軍の情報。日本も韓国も、米国との同盟関係は維持できている。

とは言え、これが一昨年であれば、韓国もGSOMIAの破棄にはとても踏み切れなかったであろう。当時は、トランプと金正恩がチキン・ゲームを続け、米朝開戦の可能性が真面目に懸念されていた。今も北朝鮮が核・ミサイル開発を継続していることは誰の目にも明らかだ。しかし、トランプと金正恩が相互に自重する密約を結んでいる現在、北朝鮮が日本や韓国を攻撃してくる兆候はない。そうであれば、GSOMIAも、あった方が安全保障上はよいに決まっているが、なくても致命的に困る、というほどのことではない。

では、日韓が今後、米中貿易戦争並みの関税引き上げ競争などにエスカレートさせれば、結果は変わってくるのか? 日韓の場合、国力が今やそれほどかけ離れていないうえ、経済的相互依存の構造も割と対称的になってきた。日韓の間で経済的手段によってナショナリズムを屈服させることは、ますます困難になったと考えなければならない。

まず、日韓のGDPと両者の規模を時系列で比較してみよう。

〈日韓のGDP比較〉

1980 1990 2000 2010 2018
日本 1,044.88 2,451.67 3,418.87 4,484.79 5,594.45
韓国 83.512 323.605 776.442 1,473.30 2,136.32
韓国/日本 8% 13% 23% 33% 38%
単位:10億米ドル(購買力平価)。 2018年の数字はIMFによる推計値。
(International Monetary Fund, World Economic Outlook Database, April 2019)

韓国が日本を着実にキャッチアップしていることは一目瞭然。ただし、これだけでは、韓国経済は日本経済の半分にも満たない、という見方もできよう。だが、次の表で一人当たりのGDPについて日韓を比較してみると、韓国はもうほとんど日本に並んでいる。IMFの推計では、2023年には日本を抜くという衝撃の事態が現実になりそうだ。

〈一人当たりGDPの日韓比較〉

1980 1990 2000 2010 2018 2023
Japan 8,948 19,861 26,956 35,149 44,227 51,283
Korea 2,191 7,549 16,517 29,731 41,351 51,418
単位:米ドル(購買力平価ベース)。 2018年以降の数字はIMFによる推計値。
(International Monetary Fund, World Economic Outlook Database, April 2019)

貿易相互依存度についても、日本が圧倒的に有利というわけではない。確かに、韓国の貿易には、半導体をはじめ、日本から輸入した素材、部品、製作機械などを組み立てて輸出するという構造がある。しかし、日本が対韓経済措置を強化すれば、韓国の方が先に音を上げるだろうか? そうはならなそうだ。

IMFのデータをもとに計算すると、昨年(2018年)段階で日本にとって韓国との貿易(輸出入)は全体の5.6%を占めた。 これに対し、韓国の貿易の7.5%が日本と間で行われている。日本の方が低いが、その差は絶対的なものではない。

これが昔であれば、話は違ったであろう。例として1990年時点の数字を見てみる。日本の対韓貿易が全体に占める割合は5.6%で現在と変わらない。だが、韓国の対日貿易は全体の21.9%を占めていた。対米貿易が全体の16.9%だったから、日本の存在感がいかに大きかったかわかる。当時と較べた時、現時点で韓国経済にとって日本の持つ意味は明らかに低下した。今後、日本が経済的対抗措置を追加発動しても、韓国が屈服するとは考えにくい。

現状は、双方の発動している経済措置は比較的軽微なものであるため、それぞれ相手にとって致命的な打撃を与えることはなく、日韓両国ともに十分耐えられる。仮に今後、日韓が経済的措置をエスカレートさせたとしても、マイナスの影響がどちらか一方に極端に偏ることはないため、どちらかが先に屈服する、ということは期待できない。むしろ、こうした措置の応酬は日韓両国でナショナリズムを煽るため、双方がやせ我慢を続けることになる可能性が高い。

我々に言わせれば、売られた喧嘩。しかし、向こうは逆の受け止めだろう。いずれにせよ、ルーズ・ルーズ・ゲームをいつまでも続けなければならないとは、愚かな話だ。

「抑制しない政治」の兆しが見える②~政治がメディアを圧迫する時代とリベラルの憂鬱

前回8月24日付のポストで見たように、N国の立花孝志は、マツコ・デラックス叩きを通じて自分の宣伝にまんまと成功した。だが、そんなことよりもずっと重要なのは、弱小政党であってもバラエティー政治評論を黙らせることができることを示したことである。報道メディアもそれを傍観したため、政治による対メディア介入を助長する結果となってしまった。

今回のポストでは、今日の日本のメディアと政治の関係――メディア一般に対する政治の圧力、メディアの党派的政治性など――を概観し、それが所謂リベラル勢力にとって不利な状況を作り出していることを指摘する。

政治がメディアに圧力をかける状況は決して好ましい事態ではない。しかし、トランプのアメリカをはじめ、今日、世界中の民主主義国家で共通して見られる現象であることも否定できない事実だ。「こんな状況はけしからん」と批判するのは、実は現実逃避にすぎない。まずは現実を直視することから始めるしかない。

メディアを叩き始めた政治

戦後の長い間、第四の権力と言われるメディアには、政治的(党派的)に中立であることが求められてきた。その一方で、政治の側もメディアに圧力をかけることはタブーとされた。

もちろん、戦後政治においてメディアが政治的に完全に中立だったと言うつもりはない。政治が水面下でメディアに圧力をかけることもまったくなかったわけではない。だが、少なくとも建前としては、「メディアは党派的に中立であり、政治は報道に介入してはならない」という考え方が世の中に受け入れられてきた。今日でも日本ではまだそう信じている人が少なくない。

しかし、少なくとも自民党とメディアの関係に関する限り、21世紀に入ったあたりからこの建前は形骸化してきた。

その要因の一つは、冷戦後に旧田中・大平派連合から清和会支配へと党内権力の重心が移行したことに伴い、自民党が右傾化したこと。
2001年には従軍慰安婦関連の番組について当時官房副長官だった安倍晋三などが右翼的見地からNHKに注文を付けたことが知られている。

もう一つの理由は、2009年に下野した苦い経験から自民党が政権維持のためならなりふり構わぬようになり、メディアへの圧力もタブー視しなくなったこと。
2014年の総選挙の際には、自民党はNHKと民放各社に「公平中立、公正」な選挙報道を求める要望書を出す。安倍政権批判に偏ることのないよう選挙番組へのゲスト選定に配慮することなど、それまでになかった露骨な圧力が加えられた。その後もこの種の要望は選挙の度に出されている模様である。
2018年秋には、国政選挙でもない自民党総裁選に関してまで、安倍と石破を対等に扱う旨の細かな要望書を新聞各社に出している。石破有利の報道を行わないよう圧力をかけるためであった。

メディアの側も情けない。言うことを聞かなければ安倍に出演・取材拒否されて番組や記事が成立しなくなることを気にかけたり、安倍一強体制が続く中、あとで有形無形の嫌がらせを受けることを恐れたりした結果、自民党の要望に大筋で従ってきた。

このように、最近では政治がメディアに圧力をかけるということが、実際に起きている。しかし、メディアに圧力を効果的にかけることができたのは、これまでは自民党だけだった。野党の多くは政治がメディアに圧力をかけることを依然としてタブー視し続けている。メディアの側も、仮に野党から圧力をかけられても無視することができた。

今回、N国は政治がメディアに圧力をかけられる可能性を大きく広げた。たった一人の国会議員しかいなくても、声を荒げる、有名人や番組スポンサーを攻撃対象に選ぶ、ネット動画で拡散する、等の手法が当たれば、メディアーー少なくとも、ワイドショーの芸能政治評論くらいならーーに圧力をかけて黙らせることができるという実例を作ったのである。

リベラル野党には無理?

ここで断っておかねばならない。N国が今回、成功裡にメディアを叩いたからと言って、すべての政党(野党)が立花のように効果的にメディアを叩けるわけではない、ということだ。

一言で言えば、野党がメディアを叩こうと思えば、ガラがよくては駄目。知性はメディア批判の邪魔をする。立花だけでなく、トランプを見ても、安倍を見ても、そのことは一目瞭然であろう。

日本のリベラル系野党は、旧民主党系を筆頭に、知識偏重でひ弱だ。かつては暴力革命を唱えることもあった共産党でさえ、今やすっかり知識人政党になってしまった。今日、リベラル系野党が産経新聞を批判しても、あることないこと反論されて返り討ちとなるのがオチだ。支持率とメディアへの露出がある程度比例する今日、弱小野党には、「メディアと喧嘩してメディアとの関係が悪くなっては困る」という要らぬ計算も働く。

フェイク・ニュースがはびこる今日、ナショナリズムと感性に訴える勢力の方が、理性や知性を重視する勢力よりも、政治やメディアの世界では有利である。
理由を簡単に説明しよう。

右寄りの政党がリベラルなメディアを攻撃する場合、テーマはナショナリズムが関わるものが多い。その際、右寄り政党は当該メディアの弱みを集中して突く。事実関係に異論があっても、ナショナリズムに結び付けて声高に叫べば、より多くの国民の共感を得ることは比較的簡単だ。しかも、右寄りのメディアもリベラル系メディア叩きに参戦する。この時点で、数のうえではリベラル勢力にとって「多勢に無勢」の状況が生まれる。一方、リベラル系メディアは、右寄りからの攻撃に対して事実関係の検証やコスモポリタニズム(または平和主義)の観点から反論しようとする。しかし、これは手間がかかるうえ、ナショナリズムの関わるテーマを論理だけで議論しても一般国民の共感は広がらない。共産党や社民党を別にすれば、リベラル系野党も国民感情に配慮して「どっちつかず」の態度をとることが多い。

右寄りメディアがリベラル系野党を批判するときは、まったく逆のことが当てはまる。敗戦後、平和主義や知性が幅を利かせた時代は終わり、リベラル系はメディアも政党も不利な立場に置かれているのが今日の実情である。

米国においても、民主党は知性を尊重する支持者を共和党よりも多く持ち、民主党の議員の間にもその傾向が見受けられる。実際、米国の民主党もトランプのフェイク・ニュース攻勢に対して守勢に回らされている。だが、米国の民主党は、日本のリベラル系野党ほど負け犬根性に支配されていないし、同党を支持するメディアを持っている(後述)。日本に比べれば、状況ままだマシと言ってよい。

日本のメディアの党派性

メディアの方も今や、政治的(党派的)中立性を維持しているかと言えば、微妙なところ情勢となった。「微妙」という言葉を使うのは、今日のメディアがすべからく政治的党派性を帯びている訳ではないからである。

我々は一般的な建前として、「新聞、テレビなどのメディアは政治的に中立・公正である」と無意識のうちに思っている。だが、現実はそうではない。

法規制上、テレビ局は前述の放送法で政治的公平性を要求されている。しかし、社の方針として特定政党を支持していても、当該政党に明白に有利な報道を連日繰り返すのでなければ、法的にはアウトとならない。毎週のように自局の番組に複数政党を出演させ、コメンテーター等が特定政党をヨイショするくらいのことは大目に見られる。

論より証拠、右寄りと言われるフジテレビの報道番組では、解説委員が露骨に安倍を支持したり、野党を叩きまくったりするが、それが放送法第4条違反だということにはなっていない。
一方で、保守系陣営から偏向報道だと批判されることの多いテレビ朝日は、安倍政権を批判する傾向が他局に比べて強いことは確かだが、自民党以外の特定政党(立憲民主党など)を支持しているという事実はない。政権批判はしても、野党にもケチをつける。教科書どおりに政治的中立であろうとしているのか、言ってみれば「おぼっちゃま」のようなテレビ局である。

NHKについては長い間、公共放送であるがゆえに民法とは別次元で政治的(党派的)中立性が求められる、と考えられてきた。しかし、NHKの番組制作に自民党や官邸が介入したらしいことは前述のとおり。安倍政権になってからは、百田尚樹、長谷川三千子、古森重隆から、安倍の家庭教師だった本田勝彦まで、安倍に近い右寄りの人物が経営委員に指名された。同じく安倍人脈の籾井勝人が会長に据えられていたことをはじめ、NHK本体の人事にも官邸の意向が反映されているという指摘は後を絶たない。

新聞になると、そもそも根拠法がないので、放送法第4条のように政治的中立を法的に求められているわけではない。右寄りで知られる産経新聞は2010年に綱領を改定して決定的に右旋回した自民党を明白に支持していると言ってよい。産経ほどではないが、読売、日経も伝統的に自民党寄りだ。
一方、朝日、毎日、東京はリベラル系と位置付けられ、自民党に批判的な論調で知られる。ただし、この3社が民主党政権時代、与党寄りだったかというとそんなことはない。権力(政権)に対して批判的なだけで、特定の政党支持を打ち出してはいない。安倍自民党が政権に返り咲いて以降は、安倍政権を礼賛した時期もあったし、評論家よろしく野党叩きに精を出すことも少なくなかった。日本のメディアは溺れる者は叩くが、強い者にはゴマをする習性があるのだ。

最近はネット・メディアも無視できない。「ネトウヨ」という言葉が示すように、この世界では右寄りの政党が支持される傾向が強い。例えば、ネット・メディアの代表格であるニコニコ動画は安倍応援団として知られている。安倍も選挙戦中の討論番組では、地上波テレビ局を差し置いてニコ動に優先的に出演する。リベラル系でニコ動に匹敵するメディアは存在しない。

世界の民主主義国家を見渡してみても、メディアが特定政党を支持する、というのは別に異常なことではない。むしろ、日本のようにメディアが政治的(党派的)に中立を装っていることのほうが珍しい。米国では、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNが民主党系、FOXは共和党系(と言うよりも最近はトランプ系)などとはっきり色分けされる。大統領選のたびにメディアの多くは自社が支持する候補を明らかにすると言う。

ただし、日本のメディアにおいては、(公言してはいないものの)自民党を明確に支持しているメディアは確かに存在する一方、(政権批判には熱心であっても)リベラル系の政党を本気で応援しているメディアはない。その結果、リベラル系政党は自分たちの主張や反論を伝えるうえでも、どうしても後手にまわる。

戦後、日本では(公明との連立も含めた)自民党一党支配が長期にわたって続き、二大政党制が根付いていないことも関係しているのだろうが、逆に言えば、現代日本政治においてリベラル政党が弱体である理由の一つとなっている。

リベラル陣営は立ち直れるか?

N国の立花がマツコ・デラックスに噛みついた事件は、与党・自民党でなくても政党がメディアを叩ける可能性の一端を垣間見せた。だが、メディアを効果的に叩く点においては、政権の座にあるか否かを別にしても、保守系政党の方がリベラル系政党よりも有利だ。しかも、リベラル系政党は、自民党が持っているような「御用メディア」を持っていない。

これでは、リベラル系野党が夢見る政権交代などまずあり得ない。万一、僥倖に恵まれて政権に就くことができたとしても、民主党政権よろしく短期間で下野することは間違いがない。リベラル系の野党は10年計画を立て、綺麗ごとでないメディア戦術を組み立てる必要があるだろう。

危機意識が足りない点では、リベラル系メディアも五十歩百歩。綺麗ごとを墨守するだけでは、このまま保守政党と右寄り行動派メディアにどんどん包囲され、「報道の自由」も何もあったものではなくなる。いつまで党派的中立性をくそ真面目に守り続けるつもりなのだろう?

リベラル勢力に頑張ってもらいたいとは思うが、楽観的展望は描けない。

「抑制しない政治」の兆しが見える①~マツコ・デラックスに噛みついた立花孝志

このところ、「NHKから国民を守る党(N国)」の立花孝志代表が芸能人のマツコ・デラックスの発言に噛みつき、話題になっている。立花一流の炎上商法に本ブログでコメントするのも馬鹿馬鹿しい――。そう思ってスルーするつもりだったが、よくよく考えてみると、この騒動の向こうに現代日本の(世界の、と言ってもよい)民主主義が直面する宿痾のようなものが見えてきた。

これまで日本では、自民党だけがメディアに圧力をかけられる存在であった。しかし、今、我々は、政治が一般的にメディアへ圧力をかけられる時代の入り口にいるのではないか。

マツコの発言は何が問題だったのか? 

7月29日に放映されたTOKYO MX(東京メトロポリタンテレビジョン)の「5時に夢中!」という番組で、マツコ・デラックスがN国について以下のように述べた。

「この人たちがこれだけの目的のために国政に出られたら迷惑だし、これから何をしてくれるか判断しないと。今のままじゃ、ただ気持ち悪い人たち」
「ちょっと宗教的な感じもあると思う」
「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」

これに対してN国代表の立花は「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒。「マツコ・デラックスをぶっ壊す!」と8月12日にマツコが出演中のMXに押しかけ、番組スポンサーである崎陽軒のシウマイについて不買運動を呼びかけたりした。その後、8月19日にもMXを訪れた立花は、崎陽軒不買運動とマツコ批判に終結宣言を出す。しかし、MXに対しては自らの番組出演を要望し、同局が見解を出すまで毎週押しかけ続けると述べた。

マツコの発言に戻ろう。
私は、マツコの発言で敢えて問題があるとすれば、N国が「これだけの目的」(=NHKのスクランブル化)のために参院選に出たことを「迷惑」と述べた部分だと思う。この発言は、シングル・イッシュー政党の存在意義を認めないことにつながる。ただし、「NHKをぶっ壊す」以外の法案賛否などについてN国の見解がわからないため、今後の言動をしっかり見定めたい、ということにマツコの真意があったのであれば、問題視するほどのこともない話だ。

芸能人ではない立花が、自分のことを「気持ち悪い」とか、「宗教的な感じ」がすると言われれば、不愉快な気持ちになったことは十分に理解できる。だが、マツコのこの感覚は少なからぬ人が抱いている感覚である。N国の候補者たちが政見放送で連日繰り返したパフォーマンスを見れば、そう思われてもまあ仕方がないだろう。しかし、マツコが思ったことをそのままに言ってはならないのは、それが誹謗中傷に当たる時のみ。今回のマツコの言葉を誹謗中傷とまで言うことはできない。(念のために付け加えると、マツコの「気持ち悪い」発言は、N国の候補者たちに向けられた言葉だと思われる。だが立花は、わざとかどうかは知らないが、これをN国に投票した人たちへ向けられた言葉と解釈しているようだ。)

結局、立花が最も問題視しているのは、N国へ投票した有権者が「冷やかし」や「ふざけ」によって投票行動を決めた、という部分なのであろう。この言葉に対して立花は、「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒してみせた。自分がケチをつけられたことに怒っているのではなく、一般有権者が侮辱されたことに対し、一般有権者のために怒っている、という体裁をとる。こういうところが立花は実にうまい。

立花は「発言は明らかに公平中立な放送をしなくてはならないという放送法4条違反」だと主張している。N国の上杉某なる幹事長も同様のことを述べ、だから、反論する機会を得るために――つまり、N国を公平に扱うために――立花をMXの番組に出演させろ、と要求している。だがこれ、ほとんど「いちゃもん」である。

放送法4条は放送番組の編集に際して以下の四点を要求している。

1.  公安及び善良な風俗を害しないこと。
マツコの発言が公安を害していないことは言うまでもない。N国の候補者たちが善良な風俗を害していないのであれば、マツコの発言も同様であろう。

2.  政治的に公平であること。
立花は、今回のマツコの発言を、一方的に特定の政治団体を誹謗中傷したものと批判する。だが、事実でもないのに「殺人者だ」「窃盗犯だ」と言われたのならともかく、この程度で「誹謗中傷」にはならない。また、立花が言うように今回の事例で政治的な公平さが損なわれたと解釈するのであれば、テレビでコメンテーターが政党を多少なりとも批判しようと思えば、その政党を必ず番組に呼ばなければならなくなる。これではテレビ局は政党について何も言えなくなってしまう。それは言論の自由の死を意味する。(ついでに言うと、放送法でいう政治的公平性を立花たちのように解釈すれば、ある政党を褒めても公平さを欠くことになるため、他の政党を呼んだ番組の中でしか許されない、ということにもなってしまう。)

何よりも、立花たちは、ここでいう政治的公平性の意味を(無知ゆえにか故意にか)間違って解釈している。政府が想定しているのは、「選挙期間中又はそれに近接する期間において殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合といった極端な場合」や「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が一方の政治的見解を取り上げず、殊更に他の政治的見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合」等だ。放送法第4条にいう政治的公平性は、マツコのような他愛のない発言について針の先のような形式主義をあてはめようとするものではない。

3. 報道は事実をまげないですること
マツコが「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」と述べたことに対し、立花は「みんな真剣に投票している」「誰がふざけて選挙の投票なんかするか!」と怒る。しかし、マツコは「N国に投票した人のすべてがふざけて入れた」と言ったわけではない。実際、「面白そう」というノリでN国に入れた人はいただろう。マツコの発言を虚偽と断定することはできない。それでも立花がマツコを批判したければ、ふざけてN国に投票した人が一人もいなかったことを立花たちが証明すべきだ。立花は「挙証責任はマツコの側にある」と主張するだろうが、それでは放送番組で政治を論じることは事実上できなくなる。

4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

これは例えば、外国人労働者の受け入れとか、カジノとか、憲法改正など、相反する意見がある重要課題について、多様な見解を紹介して一方的な議論にならないようにする、という意味。今回の件が当てはまらないことは言うまでもない。

結論としては、今回のマツコの発言が放送法4条に違反している、というN国の主張自体がフェイクである、ということ。マツコ発言には、立花が噛みつくような正当な問題など見当たらない。

バラエティー政治評論の限界

以上で述べたとおり、立花のマツコ批判は間違っている、と考えるのが正論だ。しかし、立花は自分の議論が正論かどうかなど歯牙にもかけていないだろう。マツコを叩くことによってN国の宣伝は十分に(かつ安上がりに)果たした。

もう一つ、マツコたたきで立花とN国が得たものがある。メディア、少なくともワイドショーのバラエティー政治評論の側に「N国を叩くと面倒なことになる」という気持ちを植え付けたことだ。

今回の顛末を通して、マツコやMX側がダンマリを決め込んでしまったのには少し拍子抜けした。マツコにしてみれば、「反論すれば立花の思う壺」と(それなりに)賢明な判断をしたつもりなのかもしれない。だが、そのために世間では「立花の主張の方に分がある」という見方が広がってしまった感がある。

マツコに限らず、吉本問題ではあれほど好き勝手に発言していたワイドナショーのコメンテーターや芸能人たちも――「爆笑問題」の太田光など一部の例外を除いて――、この件については歯切れが悪い。自分の見解を表明して立花の標的になることを怖れている、というのは考えすぎかもしれないが、彼らは明らかに「怯んで」いるように見える。(私はワイドショーをそんなに見ているわけではないので、あくまで漠然とした感想である。)

これまでワイドショーでキャスターやコメンテーター、わけても芸能人が政党や政治家を批判したり、おちょっくったりしても、今回マツコのように噛みつかれることは基本的になかった。特に、野党を批判しても、批判された側が彼らに牙をむいてくる心配は不要であった。(国会議員ではなかったが、橋下徹はメディアへの反論を厭わなかった。それでも橋本は知識人。反論は言論にとどまり、テレビ局に抗議に出向くようなことはなかった。) 言わば、自分の身は安全な場所に置いたまま、好きなことを言ってもよかった。

ところが今回、たった一人しか国会議員のいない「弱小」政党に軽口を叩いたところ、口汚く猛反発を食らったあげく、テレビ局にまで押しかけられ、スポンサー企業の不買運動まで口にされた。

単にすごむだけではない。芸能人には馴染みのない言葉(放送法第4条とか)を織り交ぜてくる。「崎陽軒に罪はない気がする」と軽いノリでツィートしたダルビッシュ投手は、N国幹事長の上杉から「崎陽軒に罪はないのならば、誰に罪があるのでしょうか?」と完全に議論をすり替えられ、「危機管理」「公共の電波」とむずかしそうな言葉を並べた反論を受けてしまう。少し知識のある人なら、上杉の議論など完全に反駁できるものだが、罪のないダルビッシュは謝罪に追い込まれてしまった。

米国などでは芸能人が支持政党を明確にし、政治的主張を行うことは珍しくない。彼らは、知識、意識、ディベート術もそれなりのレベルにある。政治家と対決することも辞さない。と言うか、その気がなければ表立って発言したりしない。だが、日本の芸能政治評論にそんな覚悟は見られない。立花に噛みつかれた途端、マツコや他の芸能人たちが怯んだのも当然である。

沈黙する報道メディアと政治

今回の一件では、もう一つ肩透かしをくったことがある。新聞を含めた既存メディアや政党(特に野党)がこの件についてあまり発信しなかったことだ。ワイドショーには娯楽色があり、あまり肩ひじ張って政治的公平性の話題を掘り下げろと言うのも酷なところがあるかもしれない。しかし、テレビの報道番組や、新聞までもが今回の騒動に目立った反応を見せていないことは理解に苦しむ。新聞やテレビ局にとっては、愛知トリエンナーレを社説で論じるのと同様の重要性があると思うのだが・・・。

お堅い政治評論の世界に住むお歴々は、芸能人やワイドショーを見下しているのかもしれない。N国とマツコ・デラックスの衝突など、高尚な政治テーマを扱う自分たちが関わる話題ではない、と思っているのかも。しかし、N国的な対メディア攻撃はいずれ、報道メディアにも向かう。(自民党による攻撃に対しては、すでに防戦一方となっている。)今回、報道メディアが黙っているのを見て、彼らもバラエティー政治評論とそれほどレベルは変わらないのだな、と思った次第である。

N国以外の政党からも、立花の言動に対して大きな異議の表明はなかった。私の知る限りでは、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)が「働いている場所までチームのスタッフを連れて行き、目の前で街宣活動するのは国会議員という権力者としてはやりすぎ」と述べたのが唯一である。ただし、松井は「テレビコメンテーターが批判する内容によっては、反論すべき」とも述べている。マツコの発言やそれに対する立花の見解に対する評価には踏み込んでいない。どっちつかず、でN国に対する遠慮さえ感じられる。

 

次回は議論を一歩進め、日本の政治がメディアに圧力をかけている現状を概観してみたい。今の時代にそれが与野党のパワーバランスにどのような影響を与えるかについても考えてみたい。

「NHKから国民を守る党」なる存在

7月21日に投開票のあった参議院選挙は稀にみる凡戦であったが、それゆえに合計してわずか3議席を獲得した二つの政党が注目を集めた。言うまでもなく、一つは「れいわ新選組」、もう一つは「NHKから国民を守る党(N国)」だ。れいわは2,280,253票(4.6%)で2議席、N国は987,885票(2.0%)で1議席を比例代表選挙で獲得した。

その後、N国代表の立花孝志は矢継ぎ早に――いかにも胡散臭そうな人物がここまでやるとは誰も予想していなかったはずである――動く。維新の党から除名され、国会で糾弾決議案を可決された丸山穂高を入党させ、今はもう皆が忘れていた渡辺喜美と共同会派を組んだのだ。最近は永田町関連のニュースが夏枯れ状態なこともあり、メディアは立花を時の人のごとく扱っている。

本ポストでは、N国が議席を獲得した意義、今後の展開、NHK政策の行方について少しばかり想像をめぐらせてみた。

シングル・イッシュー政党として初の国政進出

NHKを国民から守る党は、日本で最初に国会に議席を獲得した「シングル・イッシュー(単一争点)政党」として記憶にも記録にも残ることだろう。N国はNHK放送をスクランブル化することを唯一の公約として掲げた。これに対し、れいわの政策「消費税廃止」が話題になった。しかし、同党は「政府保証つき最低賃金1,500円」「奨学金チャラ」「原発即時禁止」「安保法制廃止」など、様々な分野で公約を発表している。政策のエキセントリックさという意味ではれいわもN国も似たりよったりのところがあるものの、れいわはシングル・イッシュー政党ではない。

なお、シングル・イッシュー政党というだけであれば、N国が初めてというわけではない。今回の参議院選でも「安楽死制度を考える会」はシングル・イッシュー政党と呼んでよかった。しかし、各得票数は233,441票(0.5%)にとどまり、議席獲得はならなかった。

N国が議席を獲得できた理由

なぜ、N国は比例代表で2百万票以上を獲得できたのか?

第一は、唯一訴えた政策が国民の琴線に触れるものだったこと。テレビを持っていればNHKの番組を見なくても受信料を支払わなければならないという仕組みが法律のみならず最高裁でもお墨付きを得ていることに対し、理不尽だと思う国民は決して少なくない。しかも、主要政党はその不満を代弁する気配すら見せようとしない。「NHKをぶっ壊す」というN国の公約はそこを突いた。

第二は、代表の立花孝志なのか、彼の周辺にいる人物なのかは知らないが、同党がネット(特に動画)戦術に長けていること。政見放送を聞く限り、NHKをぶっ壊さなければならない理由は「NHKの男女のアナウンサーが不倫路上カーセックスをしたのに、NHKはその事実を隠蔽しているから」ということにあるそうだ。こういう馬鹿馬鹿しさも拡散には役に立ったのであろう。(私には理解できないが・・・。)

第三は、N国は今回の参議院選で「ぽっと出」の政党ではなく、ここ数年、地方議員選挙に候補者をたてており、参議院選前で首都圏を中心に27人の地方議員を輩出するに至っていた。ネット選挙は空中戦だが、N国は最低限の地上部隊も持っていたのではないか。

第四に、NHKを叩く立花の主張は右翼及び右翼的思考の持ち主の一部と共鳴する。2001年にNHKが戦時性暴力に関する番組を放映したあたりから、安倍を含む自民党右派や右翼団体の一部はNHKを敵視するようになった。先に指摘した国民の根源的な不満に加え、日本社会全体の右傾化に伴い、NHKをぶっ壊すという主張は受け入れられる素地が拡大しているものと考えられる。

第五に、国民民主党に行くはずの比例票が一部按分されてN国に流れた可能性もある。今回、国民民主は略称を「民主党」で届け出た。旧民主党や立憲民主党の支持者が間違って投票してくれることを期待したとも言われている。その結果、国民民主に入れるつもりで有権者が「国民」と書いた票は、「NHKを国民から守る党」と按分されたというのだ。まあ、これは検証のしようがない話なので、話半分で。

スクランブル化の議論に火がついた

次に、N国が国会に議席を獲得したことは、NHKの今後にどのような影響を与えるだろうか?

N国が掲げているのは、NHK放送をスクランブル(暗号)化し、受信料を支払うことに同意した人のみがスクランブルを解除してNHK番組を見られるようにする、というもの。現在、地上波デジタル放送は(NHK以外は)無料でB-CASカードがもらえてスクランブルを解除しているが、N国はNHKに関してWOWOWと同じように有料で解除する仕組みを導入すべきだと主張している。

これ、NHKを観たい人のみから受信料をとる、という仕組みであり、一見とてもよい。こういう受けのよい政策を他の政党は考えつかなかったのか、と疑問に思って調べてみたら、やっぱりあった。日本維新の会だ。詳細は不明ながら、マニフェストに「NHK改革。防災情報など公共性の高い分野は無料化し、スマホ向け無料配信アプリを導入。有料部分は放送のスクランブル化と有料配信アプリの導入。」と書いてある。ただし、維新は選挙戦の期間中、ほとんど強調しなかったので世の中の耳目を引くことはなかった。

これからは全政党がNHK政策をどうするのか、明らかにしなければならなくなる。N国なる存在がこれだけ注目を集めてしまった以上、(NHK以外の)マスコミは各党に対し、「NHKのスクランブル化についてどう考えるか?」と問うに決まっているからだ。

まず、他の野党はどうだろうか。国民に受けがよく、選挙で票になることが証明されたこのテーマについて、「うちは反対」とにべもなく言い切れる党がどれだけあることやら? まあ、野党が揃ってNHKスクランブル化を言い立てたところで、今の国会の議席状況を考えれば、野党の力でスクランブル化が実現する可能性はありえない。

一方、自民党と公明党は政権与党はこれまで政策、そして今ある法律に縛られる。スクランブル導入に乗ると言っても、責任与党としての立場を考えれば、後述するように簡単な話ではない。むしろ、密かに注目すべきは、今すぐではないにせよ、自民党内でもポスト安倍に絡んで有力な総裁候補がNHKスクランブル化を持ち出したりする可能性。ひょっとすればひょっとしかねない。そうなれば、たった1議席を獲っただけのシングル・イッシュー政党が及ぼす影響は信じられないくらい大きなものになるわけだ。

ただし、スクランブル化が大きな政策的焦点になり、N国以外もそれを叫びはじめた瞬間、N国の存在意義はほとんど消滅する。シングル・イッシュー政党がシングル・イッシュー政党のままでいる限り、それは事の理である。その時、立花という人は別のイッシューを見出して時代の寵児であり続けようとするのだろうか?

追い込まれるNHK

さて、立花は、国会議員になってもNHK受信料を踏み倒す、と宣言している。本人は炎上商法のつもりだろうから、騒ぎになればなるほど成功だと思っているんだろう。

これを受け、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)は「現職国会議員の受信料未払いをNHKが認めるなら、大阪市もやめさせてもらう」と表明したと言う。同じくの維新の吉村洋文大阪府知事と永藤英機堺市長も、NHKの対応次第では、府または市として受信料の支払いを拒否する、と述べた模様だ。立花の不払いに対し、国会議員だからといって特例を認めるなよ、とNHKに圧力をかける意味合いだと思いたいが、ポピュリスト維新のことだから、その真意は奈辺にあるのやら? いずれにせよ、「あいつが法律守らなくていいんなら、俺も法律守らないよ」とご立派な政治家さまが揃って仰るのは、子供たちにとても見せられた光景ではない。

そういえば、国民民主党の玉木雄一郎代表まで「法律に定められている義務を果たさず、平気でいるのであれば、国民民主党も払いたくない」と述べたとか。玉木は結局、「支払うべきだ」と言っているようでもあるが、あまり考えたうえでの発言ではなさそうである。

国会議員たちが政治の世界における倫理の崩壊を食いとどめたいと本気で思うのであれば、彼らにはやるべきこと、できることがある。秋の臨時国会で「国会議員が不法行為に及び、また奨励すること」を以って、立花に対して糾弾決議を行うのだ。(そうすると、N国は糾弾決議を受けた議員の集まりになる。)

誤解のないよう言っておくが、私はNHK受信料制度を改革することは大賛成だ。しかし、国会議員が現行法を守ったうえで法改正を提案する、というのならともかく、国会議員が違法行為を行うと堂々宣言するわけだから、これを「オモロイやないか」と笑ってすませるのは変だ。

いずれにせよ、N国が火をつけたスクランブル化の議論は、理屈を超えてNHKへ圧力をかけることになる。そこでNHKはどう動くか?

まず考えられるのは、国民の反発をやわらげるため、受信料の値下げに動くこと。NHKはこれまで何だかんだと理由をつけて意味のある値下げは避けてきた。来年度のNHK予算をどう組むか、注目が集まるだろう。

それ以上に安易、かつNHKの自殺につながりかねない道は、政治に助けを求めること。結果として、官邸や政権与党への忖度が今以上に強まることは言うまでもない。これは外からはなかなか見えにくい話であり、我々はリークによってのみ気づくことができよう。

筋から言えば民営化

スクランブルを導入すれば、NHK番組を見たい人だけが受信料を払ってスクランブルを解除して見る、ということになる。ほとんどの視聴者がスクランブルを解除するために受信料を払い続ければ、NHKの経営にそれほど大きな影響は出ない。受信料を払いたくない人が払わなくてすむだけで、害の方は表面化しない。しかし、相当数の人が「払わなくていいんなら、払わない」と考えれば、NHKの受信料収入は大きく落ち込む。こうなれば、受信料を払い続ける人には受信料値上げの形で跳ね返ってくることは避けられない。

確かに、NHKのドキュメンタリーやドラマなどは、金をかけているせいもあって、質は高いというのが一般的な評価だろう。朝から晩までやっているバラエティーも、視聴率は比較的好調のようだ。しかし、問題は、民放をタダで観られる時に、金を払ってまでNHKを見る人がどれだけいるか、ということ。直感的に考えれば、目に見える形で減る可能性が高い。そうなると、スクランブル化したうえに大幅な受信料引き下げに追い込まれ、経営への影響も出てくるだろう。そもそも今、放送法でテレビを持っていればNHKの受信料を支払わなければならないと義務付けているのも、そうしなければ払ってもらえないからである。

しかし、NHKを観たかろうが観たくなかろうが、受信機を持っていれば問答無用で受信料を支払わされる、という現行の仕組みは、中世じみた理不尽な制度だ。現状維持は不正義と言うべきであろう。

ここはやっぱり、スクランブルなんかじゃなく、NHKの分割民営化だ。教育テレビは国営にして税金で運営する。これだけのために受信料制度を残しても、徴収コストがバカにならないし、どうせまた立花のようなに難癖を付けて支払わない人間が出てくるに違いない。

今日、NHKを民営化しても、大きな問題は出てこない。世界を見回してみても、米国をふくめ、民主主義国家で国(政府)が放送機関を所有していない例はいくらでもある。かつては、NHKの制度を正当化するのに「報道の中立性」ということが言われていた。だが、今の制度がNHKに政治的中立性をもたらしているのかと問われれば、首を傾げざるをえない。法律で受信料収入を担保され、予算や経営委員を国会で議決されるからこそ、NHKは政治の介入に脆くなってきた。昔の政治家はともかく、今の自民党右派なんかはNHKへ圧力をかけることは当たり前くらいにしか思っていない。

小泉純一郎が唱えた郵政民営化と違って、民営化したら地方にテレビ放送がなくなる、ということも起こらない。郵便局がなくては郵便の集配はできないし、過疎地では決済・金融仲介機能が失われてしまう。しかし、受信機さえ各家庭にあれば、電波は空を飛んでいく。

唯一、問題があるとしたら、NHKという鯨が解き放された結果、民放が1~2社つぶれることか。だが、つぶれるテレビ局や関係者にとっては死活問題でも、国全体で見た時には不要なものがなくなるだけの話にすぎない。どのチャンネルを回しても同じような番組ばかりということは、供給側が需要側のニーズを満たすことができないということの裏返しである。もっと言えば、今後放送とインターネットの融合が進む中で、放っておいても今ある放送局のすべてが生き残るということは考えにくい。

さあ、どの政党が最初にNHK民営化論をぶちあげるだろうか? 言っておくが、NHKからも民法からも目の敵にされるから、覚悟して打ち上げたほうがいい。ただし、政策としての筋は悪くないし、国民の支持は得られると思う。NHKの中にも、スクランブル化の影に怯えて今以上、政治への忖度を強めることになるくらいなら、民営化して独立した報道をやりたい、と思う人もいるだろう。私は、その方が健全だと思う。

「スクランブルの見返りに改憲」というディールはない 

一部メディアでは、先の参議院選挙で改憲発議に必要な2/3議席を自民・公明の与党と維新等で確保できなかったため、立花が安倍と「安倍がNHKのスクランブル化に同意する見返りにN国が安倍の改憲に手を貸す」のではないか、という見方が出ているようだ。しかし、それはないだろう。

N国はNHKのスクランブル化以外に公約がない。NHK問題以外の採決等では党議拘束もないそうだし、将来的には国政事項は国民投票で決めるというようなことを言っている。逆に言えば、フリーハンドであり、改憲を含め、政権にすり寄ることにも抵抗はない。

だが、安倍(自民党)は政府を率いている。ただ2/3が欲しくてNHKのスクランブル化を飲む可能性はほとんどないと思われる。安倍がNHKを嫌いだったのは、NHKが自分に噛みついたり、戦後レジームの復活に盾ついたりするような番組を制作したからだ。安倍政権も7年目を迎え、人事面でも随分自分たちにとって都合のよいNHKになってきている。「N国からNHKを守る」というポジショニングをとることは、今の安倍にとっては決して損な話ではないだろう。

何よりも、憲法改正は、2/3という数があれば自動的に改憲できる、というような単純な話ではない。ただ2/3があればよいのなら、前回(2016年)の参議院選挙以降、とっくに改憲は実現しているはず。今現在でも、野党の中にいる隠れ改憲派を個別に口説き落とせば、立花のような胡散臭い議員に声をかけずとも2/3は達成可能であろう。現実には、2/3の内実は公明党を含んだ数字であり、虚ろなものにすぎない。よほど世論をうまく操縦するためのきっかけを掴まない限り、表面的に2/3を得たところで改憲はなるまい。安倍はそのことがわかっているはずだ。

 

N国なる政党と立花孝志なる代表。私には、日本でポピュリズムが勃興しはじめた時代に咲いた仇花のように見えてならない。

自由を振りかざすだけで自由は守れない――「表現の不自由」展の中止に思う

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が中止された。従軍慰安婦をテーマにして韓国人作家が作成した少女像が物議を呼び、右系の人たちからの脅迫や一部政治家の圧力が昂じたため、安全を確保できなくなったためだと言う。

私自身、この少女像を見たいとは思わないし、見ても気持ち悪いとしか思わないに違いない。しかし、だからと言って、人が何かを表現するのを脅迫や圧力でやめさせるようなことがまかり通れば、この国の自由は失われてしまう。企画展が中止に追い込まれたことは言語道断だ。

そのうえで言えば、日本人が自由のために戦う覚悟は、軽い。今、日本や世界を覆う不自由の空気がどれだけ重いかについての認識も、甘い。今回、つくづくそう思った。

今日、表現の自由を奪う力は、ナショナリズムと連合して力を増幅している。我々が教科書で習った「表現の自由」を振りかざすくらいでは、それに対抗することなどできない。芸術家やリベラルな人たちからは怒られるかもしれないが、国民の多数派を味方につける政治的戦略性がなければ、自由はどんどん失われていくだろう。

展示中止に至った顛末

8月1日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が開催された。わずか2日後、同芸術祭実行委員長の大村秀章愛知県知事はその中止を発表する。展示では、昭和天皇をコラージュした版画や「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句など、国内で展示や発表が中止された作品、旭日旗を連想するとして在米韓国人団体から抗議を受けた横尾忠則氏のポスターなど、様々な作品が出品されていたらしい。

その中に韓国人作家が従軍慰安婦をテーマに作成した「平和の少女像」などもあった。これが右翼系の人に限らず、反韓感情を持つ人を刺激した。放火をほのめかすなど、悪質な脅迫が相次いだそうである。菅官房長官や柴山文科大臣は同展への補助金の差し止めを示唆し、ポピュリスト政治家の河村たかし名古屋市長がこれに乗って企画展の中止を声高に求めた。大村知事もこれに抗しきれず、また、危機管理上の懸念も本当に感じたのであろう、企画展の中止を決めたというのが大筋の経過だ。

国民の反応は冷淡

こうした動きに対し、日本ペンクラブは展示の継続を求めて抗議声明を出した。朝日新聞(8月6日付社説:あいち企画展 中止招いた社会の病理)、東京新聞(8月7日付社説:「不自由展」中止 社会の自由への脅迫だ)、毎日新聞(8月6日付社説:「表現の不自由展」中止 許されない暴力的脅しだ)も、やはり報道の自由が失われることに危機感を露にした。

一方、産経新聞(8月7日付主張:愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か)は上記三紙とは異なる調子の社説を掲載。「暴力や脅迫は決して許されない」と形ばかり書いたあと、天皇を題材にした作品や少女像については「ヘイト行為」だと述べ、それは「表現の自由」か、と疑問を呈した。ヘイトに最も親和性の高い新聞らしい社説だが、この説を認めれば、産経新聞が主張する歴史認識は韓国人や中国人にとってはヘイト行為であり、産経新聞の表現の自由も許されない、ということになる。

社説の内容は、朝日などの言い分がまったく正しい。これが20世紀後半のことであれば、世の中は「表現の自由」封殺に対する批判の大合唱となっていただろう。

しかし、現実はどうか。世の中は大きな声をあげようとしない。いや、むしろ、河村や菅、ひいては産経新聞の主張の方が正しい、と感じる国民も決して少なくない。野党を含め、永田町だって、国会閉会中ということを勘案しても、静かなものである。

今回、少女像は展示すべきでなかった

日本国民のほとんどは、表現の自由の重要性を理解していると思う。皆が皆、産経新聞の言説に同意するわけでもあるまい。しかし、今回、少なからぬ国民は、少女像の展示を「表現の自由」の問題ではなく、「ナショナリズム」の問題として捉えた。その結果、「表現の不自由展・その後」は表現の自由を守るために少女像を展示し、表現の自由を後退させた。

それでなくても、経済は停滞、社会の較差も拡大して国民の間には閉塞感が募っているのが日本の現状。そこへもってきて、韓国が日本をナショナリズムの標的にし、日本もとうとう売られた喧嘩を買って韓国にナショナリズムの牙を向けた。日本人が――世界中で見られる傾向かもしれない――少しずつ右傾化(という言葉が不正確なら自国第一主義)の方向に向かっていることは紛れもない事実だ。そして、右も左も無党派も、日本人は韓国が嫌いになった。少なくとも、韓国に「ウンザリ」している人があふれている。

このタイミングで少女像を展示すれば、言論や表現を弾圧する側がナショナリズムを利用し、大手を振って自由に圧力を加えることは、十分に予想できたはずである。

日本人は表現の自由を誰かと戦って勝ち取ったわけでは、基本的にない。敗戦と憲法によって与えられ、教科書で習ってきたにすぎない。だから、ひ弱なインテリが表現の自由を守ろうとして立ち上がるのはよいが、抑圧する側がナショナリズムと組んだら、ひとたまりもない。

理想を曲げることになろうとも、表現の自由を守りたいのであれば、今回は抑圧する側がナショナリズムと手を結びにくいテーマに絞るべきだった。むしろ、表現の自由を守る側がナショナリズムと手を結びやすいテーマを選び、表現の自由に対する国民の共感を得て自由のための橋頭保を築くくらいのしたたかさがあれば、と思う。「少女像」の展示は、そうやって国民の理解を得たうえで、もう少し日韓関係が落ち着いてからにすればよかった。(天皇を題材にした作品については、右系の人が騒いでも国民的な広がりを持つことはなかったであろう。今回、外すべきだったとは考えない。)

ここからは余談の部類を少し。
今回、芸術祭の主宰者や愛知県知事はわずか三日で展示の中止を決めた。もちろん、当事者にしかわからない恐怖や責任感もあったとは思う。だがそれにしても、「あっけなかった」というのが正直な感想だ。私の奥方も、「こんなもん出す以上、脅迫がくることは誰だって想定できたでしょう? 根性もないのにやって腰砕けだね」と首をかしげていた。

だがその一方で、実行委員会のメンバーが大村知事に公開質問状を出し、展示の再開を求めている模様だ。まあ、彼らにしてみれば、「大村や津田大介(芸術監督)はひよったが、我々は教科書に書いてあるとおりに正しい」と言いたいんだろう。とにかく正論にこだわるかと思えば、政治的に味方になるはずの人も公開の場で批判する。だから、日本のリベラルは駄目なんだ、と思わざるを得ない。正論を吐くがひ弱、というのは朝日の社説を読んでも思った。

 

今回、私が書いたことは、正論としては明らかに間違いだ。表現の自由は、それが犯罪行為にでもつながらない限り、絶対的に守られるべきものである。政治的な理由から韓国絡みの表現の自由をことさら目立たせるべきではない、という主張は、本来、表現の自由とは相いれない。

しかし、戦前を含め、純粋な正義が負けた例は歴史上、いくらでもある。戦前は、自由のために命をかけて戦っても、政府から弾圧され続け、戦争に負けるまで自由を得ることはできなかった。今の世の中、戦前と違うのは、国民を味方につけた方が勝つ、ということ。

だが逆に、正論だけ振りかざしても、国民を味方につけられなければ、自由は失われる。憲法で文字上、自由が保障されていても、自由が自動的に守られるわけではない。その主張がどんなに正しくても、国民が共感しなければ、国民は知らず知らずのうちに自由に背を向ける。

そう、国民は、自由にとって味方にも敵にもなる。自由を守りたければ、時には回り道も必要だ。

 

追伸:今日、吉村洋文大阪府知事が少女像などの提示を「反日プロパガンダ」と呼び、「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」「(大村氏は)知事として不適格じゃないか」とまで言ったらしい。この人、松井一郎大阪知事が変なことを言うとオウム返しで変なことを増幅して言うことが多い。

大村知事にどこまでの覚悟があったかは別にして、表現の自由の問題提起をすることに公金を使うのに、何の問題があるというのだ? 政府が補助金を出したくない、というのなら、勝手にすればよい。だが、大阪知事風情が便乗してこんなことを言うなんて、維新のポピュリスト政党的ないやらしさが全面に出ている。

政治戦略上の理由から少女像は展示すべきではなかった、と私は本ブログで述べた。しかし、松井や吉村がここまで言う以上、ガツンと反論しておかないと言論抑圧とナショナリズムの悪い結合が進みすぎてしまう。野党の国会議員も黙っていないで少しは大村知事に加勢してやったらどうだ? 立憲民主と国民民主は国会で統一会派とか言っているらしいが、あんまり国民に嫌われるのを怖がって沈黙していると、支持率で維新に抜かれる日が来るんじゃないのか。

参議院選挙が思い知らせた「選挙における政策論争の消滅」

7月21日(日)に参議院選挙が行われた。各党の議席数は報道されているとおりである。とても醒めた言い方になるが、れいわ新選組やNHKを国民から守る党が議席を獲得したことを含め、あまり驚きのない結果であった。

各党の勢いを見るため、今回の参院選と前回(2017年10月)の衆議院選で主要政党が獲得した得票率を並べてみよう。

〈主要政党の比例得票率〉 (単位%)

自民 公明 立憲 維新 希望 国民 共産 れ新
前回

衆院選

33.3 12.5 19.9 6.1 17.4 7.9
今回

参院選

35.4 13.1 15.8 9.8 7 9 4.6

絶対的な得票数は落ちていても、与党は得票率を増やしている。自民は35%で野党第一党の立憲に対してダブル・スコア以上の大差をつけた。自公の合計は48%超。半分を切っているという見方もできるが、やっぱり強い。

一方、立憲民主は2年前から得票率を落とし、党勢にブレーキがかかっていることを窺わせる。2年前の支持層の一部は山本太郎のれいわ新選組に流れたのかもしれない。だが、前回衆院選で自公や希望に行った票――総投票数の約63%に及ぶ――をこの2年間、ほとんど取り込めていないという現実の方が深刻だ。せめて2割近くを握っていないと、立憲が野党の核になることも、野党全体で与党に対抗することも望めない。

維新の会は小躍進した。この春に仕掛けた大阪府知事と大阪市長のスライド選挙という賭けが吉と出て、関西圏(及び首都圏)で久しぶりに風が吹いた、というところだ。

現状、野党に国民の支持が大きく集まる気配は見られない。政権交代はおろか、与野党がある程度伯仲して政権運営に緊張感をもたらすこともむずかしい――。それが偽らざる感想だ。

さて、今回の参議院選挙ほど、政策的争点のない選挙はなかった。だが私は、それを「野党がだらしないから」と簡単に言うべきではないと思う。国民に語るべき大きな政策を持たない点においては、与党も五十歩百歩だからである。素性の知れない人物の唱える「NHK放送のスクランブル化」というニッチな公約が一番目立った、という情けない事実がそのことを如実に示している。

このブログでは、国民の関心が高かった経済(景気)と社会保障の分野において、参議院選挙を通じて各党がどのような政策を公約したか、少し復習してみたい。

経済政策

今回の参議院選挙の最大の争点は、10月に予定されている消費税率引き上げの是非だという見方が事前には強かった。確かにテレビの討論番組などでは司会者がこの問題を提起してはいた。しかし、多くの有権者がそれによって投票行動を決したとは思えない。その理由はいくつかある。

一つは、現在の政治状況からくる諦観。今日、衆参では与党が圧倒的多数を占めている。選挙前の世論調査でも自民党の支持率が4割前後なのに対し、野党第一党の支持率は10%以下。自民党には公明党(創価学会)という選挙上最強の後ろ盾もついている。しかも、小選挙区の衆議院ならともかく、中選挙区的な要素の混じり、半数しか改選されない参議院選挙では、政権交代や衆参の捻じれが実現することはありえない。

もう一つは、国民の意見が分かれていること。世論調査では、国民の半数近くが消費税率引き上げに反対と答える一方、賛成という国民も常に4割近くいる。反対と答えた国民でさえ、少子高齢化が止まらない中、社会保障や教育・子育て政策に充てるため、消費税率引き上げが必要だと言われれば、「消費税が上がるのは嫌だけど、仕方がない」と思う者が少なくない。他所の国ではどうか知らないが、日本人には真面目な人間が多いのだ。

次に、経済政策として争点となり得たアベノミクスはどうだったか?

安倍の政権復帰から6年経った今、アベノミクスはメッキの剥がれが相当目立ってきている。安倍政権はこれまで、株価など良好な指標のみを宣伝し、民主党政権の致命的なまでのガバナンスの悪さを思い起こさせることでアベノミクスの優位性を喧伝してきた。だが、安倍政権下で日本経済の平均成長率は+1.15%にすぎない。IMFの予測によれば、今年の経済成長率は+0.9%、来年も+0.4%と今後も低水準が続く。「悪夢の民主党政権」の3年間、東日本大震災を経験したにもかかわらず、日本経済が平均して年率+1.87%で成長した。国民もさすがに「アベノミクスも言うほどの成功ではない」と気づき始めている。

ところが、野党の側はアベノミクスを批判するだけで、対案を示せない状態が何年も続いている。特に、野党第一党の立憲民主党に骨太な経済政策が見あたらないのはつらい。

もっとも、野党にも(与党にも)同情すべき部分はある。人口減少が続く日本で、経済政策の妙案がおいそれと見つかるわけはないのだ。立憲民主などは、経済音痴であることを認めて開き直ればよいのに、と思う。「経済運営は政権交代しても基本的に変えない。低金利政策と財政出動は基本的に継続する」と言っておけば、経済界や多くの労働者は安心する。旧民主党政権も東日本大震災を受けて財政出動は十分にしていた。日銀が超低金利政策に転じたのも野田政権末期のことだった。経済政策は自公を引き継ぐことにして、それ以外の政策で与党と差別化を図る、というのも選挙戦略としてはありえるんじゃないかね?

立憲以外にも少し目を向けてみようか。維新は相変わらず、お題目みたいに規制緩和と言うだけ。昭和末期から平成初期に流行った議論だが、ある程度の経済成長を実現するには線が細い。国民民主は今回、高速道路千円、家賃補助、児童手当増額など、積極財政政策に舵を切った。こども国債という名目で現代貨幣理論(MMT)に乗ったようにも見える。ただし、選挙戦を通じてこうした政策が注目されることはまったくなかった。この党は政策以前に党としての信頼性獲得が課題かな? 共産党の経済政策は、アンチ・ビジネスと低所得者偏重が過ぎるので論評しないでおこう。

年金政策

もう一つの大きなテーマになると思われた年金政策はどうだったか?

参院選の直前、金融庁の審議会が「老後、公的年金だけでは足りないから2000万円の貯蓄が必要」というレポートを出し、選挙への悪影響を恐れた政府が受け取りを拒否するという珍事件が起きた。政府は「年金は百年安心」と言ってきた(と思われてきた)ため、国民の政権不信が一気に高まった。ある野党の政治家は「神風が吹いた」と喜んだそうだ。

しかし、結果的に神風はそよ風程度のものだった。野党はここでも対案を出せなかった。例は良くないが、イギリスのブレグシットも、「EUはけしからん」だけなら国民投票にたどりつくことはなかった。「EU残留」と「EU離脱」という2つの選択肢が示されてはじめて、国論を二分する一大争点になった。年金も選択肢が複数なければ論争にならない。

確かに、年金というテーマに国民の関心は非常に高い。しかし、国民の大多数を喜ばせ、納得させられる解決策は存在しない。誰だって、支給開始年齢は今のまま、支給額が増えるのがいいに決まっている。そして誰だって、保険料負担や消費税が上がるのは嫌だ。この2つの矛盾を解決するには、高齢化の進展以上の速度で労働力人口が増え続けるか、給料が上がり続けるしかない。それができたのは高度成長期のみであり、今はもう不可能だ。

結局、各党の提示しうる年金政策は、年金制度をやめないかぎり、

    1. 年金支給年齢の引き上げや年金支給額を減らしながら、現行制度を続ける
    2. 年金支給額を維持・増加するため、保険料や消費税率を引き上げる

のいずれかとならざるをえない。(それ以外にも、財政赤字を増やしてでも少子化対策を打つとか、移民を大幅に増やすと言った選択肢も考えられるが、今回は深入りしない。)

自公は①を称して「100年安心」と言っている。決して、現行の年金支給水準が100年続く、という意味ではない。給付水準を下げれば制度が維持されるのは当たり前。だから、嘘とは言い切れない。だが、国民が誤解するに任せていたのは「ズルい」話だ。ちなみに、金融庁の報告書が「2000万円必要」と言ったのは、①を前提にしたギリギリの生活が嫌だったらお金を貯めておいた方がいいですよ、という意味とも読める。

一方、年金の支給額が不十分だ、という野党の主張を政策にしようと思えば、②の方向へ行かざるをえない。ところが野党は、10月の消費税率引き上げにすら反対している。国民の負担増を公約として打ち出すことなど論外だ。勢い、その年金政策は曖昧となり、選挙戦の最中も政府・与党の隠蔽体質を批判するにとどまった。(公平を期すために言うと、野党は低年金者対策の充実についてはこの選挙で具体策を示していた。しかし、わずかの金額であるうえ、正当に保険料を支払った大多数の国民には関係がない話であったため、争点になることがなかったのも当然である。)

野党の参院選公約を見ると、立憲民主は最低保障機能の強化を謳っている。低年金者の給付額を上げるのだろうが、低年金者とそうでない人の線をどこで引くのか、受給額をいくらにするのかといった具体的な制度設計は示されていない。そこの議論に入れば、必要な財源と消費税率の引き上げ幅が表に出るためであろう。しかし、「最低保障機能の強化」だけ言われても国民は政策とは受け止めない。

一方、維新が提案しているのは積み立て方式の導入だ。一見魅力的に聞こえるが、既に何十年も賦課方式でやってきているため、新方式への切り替えには膨大な財源が必要になる。維新もそこについては口を閉ざしたままである。

私は、野党が公約で細かく財源を示す必要は全然ないと思っている。しかし、こと年金に関しては、そういうわけにはいかない。野党が年金の充実を公約するのなら、負担増についても説明すべきだ。ブレグジットの国民投票の際、離脱派は「EUから離脱すれば拠出金がなくなり、英国の社会保障に毎週(←毎年ではない)500億円使えるようになる」という主張――もちろん嘘だ――を展開し、多くの人がそれを信じた。日本でそんなことはやめてもらいたい。

ここからは少し脱線する。

上述した2つの年金政策は年金制度の存続を前提にしたものである。だが将来的には、「老後は自助努力で支える。その代わり、保険料も支払わない」という考え方に立ち、年金制度の廃止を掲げる政党が現れても驚くべきではない。年金保険料を一定期間以上支払った世代にとって年金廃止は損な話になるため、多数派を占めることはさすがに無理だろう。しかし、若い世代にとって今の年金制度は年寄り世代を支えるためのアンフェアな「持ち出し」にほかならない。シングル・イッシュー・パーティとして若者にターゲットを絞れば、複数議席の獲得は十分可能だと思う。

その結果、将来の日本の年金制度改革が、負担増による給付増(または給付維持)という方向に進むのではなく、負担減と給付減――足りない部分は自助努力で補う前提である――という方向に向かう可能性も出てくるのではないか。自助を強調する考え方は自民党の理念とも親和性が高い。そんな状況になったら、野党はどうするんだろうか?

今後の展開~有志連合と補正予算

参議院選挙が終わり、来週には臨時国会が開かれる。だが、これは参議院議長を選ぶための短期間。その後、秋に開かれるであろう臨時国会では、どのような政策が議論されることになるのだろうか? 少しばかり予想してみよう。

まず、マスコミが騒ぐ憲法改正はどうか? 安倍総理が何をやりたいのか、正直言って私にはよくわからない。自民党は4項目の改憲案を決めているが、選挙戦の最中、憲法のどこをどう変える、ということを安倍が力説したという印象はない。安倍が言っていたのは、憲法を変えたい、ということだけだった。しかも、選挙が終わった途端、自民党の案にはこだわらない、と言い出す始末だ。結局、安倍がほしいのは「はじめて憲法を改正した総理大臣」という名誉なのであろう。

そのうえで言えば、国民投票法の改正で野党に譲歩したうえで、野党を分断して憲法改正の土俵に引きずり込む、というのが最も考えられる安倍の改憲戦術ではないか。ただし、安倍は憲法改正の前にトランプが要求しているペルシャ湾の有志連合について、対応を決めなければならない。その分、改憲のスケジュールは後ろに倒れるだろう。

では、ペルシャ湾の有志連合に日本政府はどう対応するのか? 米国が期待しているようなことを自衛隊にさせるためには、新法の制定のみならず、9条解釈の再変更が必要となりかねない。仮に現行法で対応しようとすれば、ペルシャ湾の事態を存立危機事態と認定しなければならない。だが、今の時代にオイル・ショックが再現するようなシナリオには無理がありすぎる。

日本のタンカーが沈められて日本が当事者になってしまえば別だが、ペルシャ湾を理由に新法を通すのはなかなか骨の折れる仕事になる。今の危機は、イラン核合意からの離脱をはじめ、トランプの側にも責任があることは事実だ。「日本はトランプのマッチ・ポンプに付き合って自衛隊を派遣するのか?」という批判が出てくることも避けられない。解散・総選挙を視野に入れた時も、具合がよろしくないだろう。

加えて、安倍晋三は本来的に親米主義者というよりもナショナリストである、という要素についても考える必要がある。(ここで詳しくは述べないが、私は安倍の親米は本心からくるものではないと思っている。)安倍が「米国に付き合ってペルシャ湾くんだりで自衛隊員の血を流してもよい」と考えるかどうか? はっきり見えてこない。

次に、経済政策はどうか? ポイントは3つある。

一つ目は、この夏、米国との貿易協議がどう決着するか。程々の線で妥協して双方が自賛できればよし。ひどい譲歩を呑まされれば、安倍の解散戦略に制約が強まる。呑まないで交渉が長引けば、トランプが何をツィートするかわからず、それはそれで安倍にとって爆弾になる。

二つ目は、日本の景気動向全般に対しては、米中貿易・技術戦争の行方がから目が離せない。ただし、これは安倍政権が当事者能力を発揮できる問題ではない。日本政府に米中の仲介役が務まるとも思えない。まさに見守るしかないだろう。

三つ目にして当面の経済政策で最大の課題となるのは、消費税率引き上げをいかに軟着陸させるか、ということ。消費税が上がれば、消費は冷え込む。その分、政府支出を増やして景気の落ち込みを防がなければならない。実はこれ、今年1月17日のポストでも書いたとおり、日本政府は既に昨年度の補正予算と今年度の予算で手当てしている。だが、消費税率が上がると言うのにまだ駆け込み需要も見られず、景気の先行きは視界不良だ。そこでもう一丁、財政出動した方がいい、という意見が強まる可能性が高い。そうなれば、補正予算という話になる。

ここで問題は、何を名目に追加財政出動するか、ということである。ポイント還元やプレミアム付商品券といった消費税対策は、期間延長では当面の消費喚起にはならない。かと言って、今からポイントを拡大するなど制度をいじれば、混乱が大きい。

定番の公共事業はどうか? これについても、昨年度から来年度までの3年間、防災・減災、国土強靭化のための緊急対策として7兆円の公共事業を既に組んでいる。これには不要不急のものまで計上しているので、ここから増やすと言っても限度がある。結局、中途半端な補正を打ってお茶を濁す、ということになりそうだ。

安倍が補正予算で大玉を考えるとしたら、教育の無償化や児童手当の増額といった野党が主張している政策に手を出す可能性もないではない。これらは一旦始めれば恒久的に支出が続く政策だ。本来、消費税引き上げ対策として補正を組んで一時的にやるべきものではない。だが、安倍が国民民主の「子ども国債」に食いついたらどうか? 財務省は反対するだろうが、同省は安倍政権内での影響力が低下しているうえ、自民党内にもMMT支持派は一定数いる。まったくあり得ない話ではないだろう。

玉木代表は憲法改正をめぐる安倍の「釣り球」にもアッという間に飛びついたらしい。安倍総理のやり方次第では、憲法改正と子ども国債は野党分断の絶好の玉になりそうだ。

仁義なき選挙情報戦略~自民党の強さの秘密

参議院選挙の投票日まであと1週間。メディアでは「与党(自公)が優勢」という報道が躍っているようだ。今回の選挙、「争点が何なのか、よくわからない」「与党もパッとしないが、野党も批判ばかり」という声をやたらとよく耳にする。こうなると、自民党と公明党の組織力がものを言う。与党優位という情勢調査も当然かな、と思う。だが、与党有利の理由はそれだけではない。

我々有権者は、各党の政策や政治姿勢、あるいは政治家の人格等を判断して投票先を決めていると思っている。それこそが民主主義と選挙の建前でもある。しかし、正確に言えば、有権者は、各々が認識する「各党の政策や政治姿勢、あるいは政治家の人格等」を判断材料にして投票先を決めている。この部分、すなわち「有権者が各党をいかに認識するか」に大きな影響を与えるのが各党の情報戦略である。

ナチス・ドイツの例を持ち出すまでもなく、徹底的かつ巧妙な情報操作によって特定政党を支持するよう有権者を「洗脳」することは不可能なことではない。日本でそれを最も効果的にやれる立場にあるのは、資金力が豊富で長年権力を独占してきた自民党である。

自民党がこのことを理解し、既に実行に移しているとすれば? 政策をありのままに伝えることに重きを置く野党が、自民党に対抗するのは至難の業だ。それこそが近年の日本で起きていることだと思う。

中吊り広告による選挙応援?

先日電車に乗っていた時、ある中吊り広告を見ながら、「これでは自民党が強いわけだ」と妙に納得した。

私が見た中吊りは、高橋洋一著『安倍政権「徹底査定」』の広告であった。(中吊りそのものではないが、同書の新聞広告はこちら。)そこには、「安倍政権に80点をつける」とか、「若者の雇用が増えた」とか、「長期政権だから外交もよい」といった表現――記憶に基づくものなので正確ではない――が躍っていた。

面白いことに、6月の新聞広告に載っていた「だが、消費増税=景気後退なら大減点だ!」という大きな一行は、私の見た中吊り広告には見当たらなかった。安倍政権が10月の消費増税を掲げたまま選挙戦に入ったため、自民党(安倍政権)にネガとなる表現は避けたのだろう。その代わりに追加されていたのが、野党と(安倍政権に批判的な)メディアに対する批判である。ちなみに、出版元は悟空出版という2014年に設立された会社。ホームページを見る限り、ネトウヨ的な刊行物や安倍政権ヨイショの本が目立つ。

選挙期間中にこの中吊り広告を都内の地下鉄に掲載するのは、安倍政権(自民党)に対する選挙応援と受け取られても仕方ない。自民党がやれば、地下鉄なり、JRなりの自主規制コードにひっかかる可能性が高いだろう。しかし、高橋何某の書いた本の宣伝であれば、よほどのデタラメが書いてない限り、地下鉄会社も掲載を断ることはない。

アベノミクスの定量的な評価は、何の指標をとるかによって分かれる。たとえば、首相官邸の「『日本再興戦略』改訂2014」というホームページ――今は更新されていない――には、スーパーマンみたいなのが助走からホップ・ステップ・ジャンプよろしく空を飛んでいく絵が描いてあり、その先には「国内総生産成長率3%」とある。IMFによれば、日本の経済成長率は、2013年=2%、2014年=0.4%、2015年=1.2%、2016年=0.6%、2017年=1.9%、2018年=0.8%であった。ただの1年でさえ、目標を達成したことがなく、6年間のうち半分は1%を切っている。目標未達は明らかだ。だがそれでも、良い指標だけを取り出してアベノミクスはうまくいっている、と評価することを嘘とまでは言うことはできない。実際、自民党の公約パンフレットには、安倍にとって都合のよい数字だけが、これでもか、とばかりに載っている。

安倍外交についても評価は分かれる。厳しいことを言えば、安倍政権下でも拉致問題は前進せず、北朝鮮の核・ミサイル開発はさらに深刻化。中国公船による尖閣付近の領海及び接続水域への侵犯も減らず、北方領土交渉に至っては期待を振りまくばかりでプーチンから軽くあしらわれている。トランプにも振り回されているようにしか見えない。総理の外遊が増え、G7でも古顔になったのは事実だが、どんな具体的な成果が出たのかと問われると答に窮する。しかし、外交の評価は人それぞれだから、褒めようがこき下ろそうが、著者の自由と言える。民主党政権の時よりは良くなった、と言ってさえおけば、納得する人も少なくない。

書いてある内容の真偽のほどはさておき、この手の広告を通勤・通学の途中などに毎日、繰り返し目にしたら、どうだろう? 安倍政権が事実として十分な成果を出しているか否かにかかわらず、「安倍政権はよくやっている」「安倍政権を悪く言う野党やメディアは間違っている」ということを無意識のうちに刷り込まれる人が出てきてもおかしくはない。自民党が指示してやらせているか否かは不明だが、この手の広告が選挙期間中に打たれることで選挙戦上、自民党に有利に働くことは間違いない。

もちろん、安倍政権を礼賛し、野党を批判する書物ばかりが出版されているわけではない。安倍政権に批判的な人たちも様々な書物を著している。例えば、インターネットを見ていたら『「安倍晋三」大研究』(望月衣塑子&特別取材班 著、KKベストセラーズ)の広告に出くわしたりもする。

しかし、安倍政権礼賛・野党批判の書物(本、雑誌、新聞等)の方が、逆の本よりも遥かに多そうだ。雑誌や新聞、テレビも、安倍政権を攻撃する論調のところよりは安倍政権を擁護する論調のところの方が多い。NHKも安倍総理のお友達が会長(籾井勝人氏)や経営委員(百田尚樹氏など)が任命されていた。この勝負、物量的には安倍政権を批判する側に分が悪い。

ネットの世界でも自民党の一人勝ち

今日、活字の世界は縮小傾向なのに対し、ネットの世界が急速に拡張していることは言うまでもない。しかも、ネットの世界の方がフェイク・ニュースに寛容だ。当然、政治(政党)もネットの世界に注目し、自らの情報戦略に取り入れようと考える。ネット情報戦略の重要性にいち早く気づき、積極的に展開したのが自民党である。

その自民党が参議院選挙を前にネット戦略を刷新したと言う。人気ゲームや女性ファッション誌とコラボし、ネットやSNSを駆使して支持をよびかけるらしい。これなどは、自民党の政策や政治姿勢を対外的にネット配信するもの。ネット戦略の言わば「表の」部分であり、その中でも日の当たる分野だ。

公表されている自民党のネット戦略の中には、あまり目立たないかたちで行われているものもある。例えば、2013年のNHK報道は、自民党が業者に依頼して自民党や同党議員に関する書き込みを常時監視し、自民党にとって問題があれば、反論や削除要請を行っている様子を映像付きで流した。

最近はネット・ニュースの下の方にコメント欄がある場合も多い。自民党にとって都合の良いニュースであれば、自民党を持ち上げたり、野党をけなしたりする書き込みが、自民党にとって都合の悪いニュースであれば、自民党をフォローしたり、野党はもっとひどいと主張したりする書き込みも目に付く。もちろん、逆のケースもあるが、比率としては少ない。こうしたコメントは、純粋に個人の立場から書き込まれたものばかりではあるまい。自民党に依頼された業者によるものもあることは、上述のNHK報道からも明らかだ。

さらに、自民党には「自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)」というボランティアを組織した党公認のネット部隊が存在することが知られている。ネトウヨ系が多く、上記の書き込みを行う実働部隊とも目されているようだが、私はその実態をよく知らない。J-NSCは自民党のホームページ上で募集され、国会議員も参加する会議やオフ会も開かれているので相当に組織化されていると見てよかろう。

より攻撃的な情報戦略

刷新されたネット戦略を除けば、ここまで述べてきたネット情報戦略は自民党への他者の批判に対する防衛的な色彩が強いものだ。しかし、「攻撃こそ最大の防御」という言葉ある中で、自民党のネット情報戦略が防衛一色のものとは考えにくい。

ネットを使った攻撃的な情報戦略と言えば、2016年の米大統領の際にロシアが仕掛けたものが有名である。この時、ロシアはプーチン大統領の承認のもと、反ヒラリー・クリントンのフェイク・キャンペーンを大々的に仕掛けた。民主党本部へサイバー攻撃を仕掛けて盗み出した本当の情報を織り交ぜることによってヒラリーに不利となる偽情報の信ぴょう性を高め、自らの手で作ったサイトやウィキリークス、大手新聞に流して全米に拡散させた。多くの米国民がそれを信じた。開票の結果、僅差で大統領に選ばれたのは劣勢と言われたトランプであった。

違法性や悪質性の程度を問わなければ、この手の攻撃的なキャンペーンは昔から行われてきたことだ。共和党も民主党も、昔から多かれ少なかれ、真贋取り混ぜて相手候補に対する中傷合戦を行ってきた。例えば、「○○はユダヤ人だ」という噂を流すとか。日本でも、選挙期間中に候補者をめぐる怪文書が飛び交うと言う話は今日も聞く。だが、ロシアのやったことは、サイバー攻撃を交えたこと、ネットと伝統的メディアを組み合わせたこと、大衆心理把握の巧みさ、そして物量の点で、従来の攻撃的なキャンペーンとは一線を画す、積極的なものであった。

自民党はこの手の攻撃的キャンペーンをやっていないのだろうか? もちろん、やっていても公表するわけはないから、はっきりしたことを知ることはできない。だが、ネットでうかがい知ることのできるJ-NSC会員と自民党議員の会話が本当なら、自民党は当該会員がネットを通して野党などを攻撃することを奨励ないし黙認しているように見える。

報道によれば、参議院選挙公示の直前に自民党本部は、某インターネット・サイトの記事から引用、加筆、修正した内容を掲載した『フェイク情報が蝕むニッポン トンデモ野党とメディアの非常識』という冊子を自民党所属の衆参国会議員事務所に各25冊届けた。自民党所属の石破茂衆議院議員が「怪文書」と呼ぶほどのものだから、内容はフェイク・ニュースの類と言ってよいのだろう。一部の有志議員ならともかく、自民党本部がそんなものを配布したため、メディアでも話題になった。

この「怪文書」配布騒動が示唆することは、自民党がフェイクであろうが構わず、敵対する野党のイメージを貶めるために情報を積極的に流す偽情報キャンペーン(英語で言う「disinformation campaign」)を厭わないということである。

だが、自民党は偽情報キャンペーンをボランティアに任せているだけなのか? ロシアがやったようなサイバー攻撃まで使っているかどうかはわからないが、プロの集団に偽情報キャンペーンを含む攻撃的情報戦略を実行させている可能性は否定できない。偽情報キャンペーンはネット上だけで行われるとは限らず、新聞、雑誌、出版物からテレビまで、あらゆる媒体を通じて実行可能だ。違法なものでない限り、広告代理店が一括して請け負っていたとしても、私は驚かない。

フェイク・ニュースは自民党に有利

我々は、常に真実を受け入れ、嘘を退けるとは限らない。トランプのフェイクを真実だと信じるアメリカ人がたくさんいることからもわかるとおり、信じたいことを受け入れ、信じたくないことを退ける人は少なくない。

安倍政権に心酔する人たちは、安倍政権に批判的な人が安倍政権を批判しても、たいして影響を受けないだろう。逆に、枝野信者の人たちは、いくらネトウヨの人たちから批判されてもそれを信じることなく、立憲民主党を支持し続けるはずだ。

ただし、立憲民主党の支持者の方が中高年の割合が高いと言われている。特にかつて学生運動を経験した旧社民・共産支持者で立憲支持に変わった人たちの中には、いわゆるインテリ、知識人と呼ばれる人も少なくない。この人たちは理屈で考える傾向が強いため、相手方のネガキャンに対して比較的弱い。フェイクによる批判であっても、理屈や事実を示さないとなかなか納得しない傾向がある。「言いがかり」に対して理路整然と反論することは土台無理な注文だ。弱い支持層であれば、相手方のフェイク・ニュースによって切り崩される人も一定数出てこよう。

これに対し、自民党支持の人たちは相手陣営からの攻撃的情報戦略に接してもそれほど大きく動揺することはない。仮に安倍政権批判があっても、「野党や左翼メディアの言うことだから嘘!」と言われれば、それだけで納得し、安倍政権批判を信じないことにできる。フェイク・ニュースを交えた偽情報キャンペーンは、本質的に自民党を利する面の方が多い。

プロ集団を使ってフェイク・ニュースを交えた偽情報キャンペーンを大々的に行うためには、豊富な資金力を持った政党でなければならない。自民党の収入は250億円超え(うち、政党交付金が179億円)。これに対し、野党第一党の立憲民主党は政党交付金が収入の大半を占めると考えられるが、その額は今年で約32億円だった。これまで蓄えた額も考えれば、自民党の資金力は文字通り他党を圧倒しているはず。この点でも、自民党の有利は動かない。

その自民党が他党に先駆けて――遅くとも2009年に下野した時か、おそらくその前から――フェイク・ニュースも交えて攻撃的な選挙情報戦略に取り組んできたとしたら? 資金力的にもノウハウ的にも、他の政党が自民党の持つ先行者利得を切り崩すことは容易なことではないだろう。何よりも、自民党以外の政党は、フェイクを厭わないという仁義なき世界に足を踏み入れることに対する躊躇をなかなか捨てきれないと思われる。

 

私自身、各政党が偽情報を駆使した情報戦略にしのぎを削るような政治には強い抵抗がある。しかし、我々の生きている世界はすでにそういうものになっているのかもしれない。だとすれば、そんな状況下における民主主義なんて、一体どんな価値を持つのだろうか?

トランプに「日米安保はフェアでない」と言われてダンマリか・・・

先月29日、G20で来日したドナルド・トランプ大統領の記者会見が大阪で開かれた。そこでトランプは、日米安保条約が不公平だと批判し、日米安保条約を改訂する必要があると述べた。その4日前、6月25日には、トランプが側近に対して日米安保破棄の可能性について漏らしていたというリーク報道があった。翌26日には、米フォックス・ビジネス・ネットワークとの電話インタビューでトランプが日米安保条約の片務性についてあからさまに不満を述べていた。現職の米大統領が日本に来る前後のタイミングで日米安保を批判したため、トランプ発言は大きな注目を浴びた。

しかし、日本の敷居をまたいだうえで「お前たちはフェアでない」と言われたのに、この国の政治からもメディアからも、目立った憤りの声は聞こえてこない。ああ、情けなや。

トランプの発言は、シンプルなメッセージでストレートに響く。同時に、それは短い中にもフェイクを交えていることが多い。日米安保に関する今回の一連の発言も例外ではない。しかし、聞こえてくるのは、やれ「トランプの真意は何か?」「今後、トランプは日本に何を要求してくるのか?」「日米同盟を維持するため、日本は米国を守るべきではないか?」という議論――しかも、とても中途半端な議論――ばかり。まさに、日本中が「トランプ劇場」にはまっていると言ってよい。

このポストではトランプ発言に潜むフェイクを指摘し、ついでに「少しはトランプに反論してみろよ」とお上品で頭でっかちなこの国の政治家さんたちに(無駄と知りつつ)注文をつけてみる。

日米安保に関するトランプ発言

トランプは何と言ったのか? 6月29日の大阪会見におけるトランプの発言は、以下のとおり。(英語を参照して、多少補足した。)

Q:大阪での安倍晋三首相との会談後、日米安保条約の破棄についてまだ考えていますか? また、首相はそれについて何を語りましたか?

トランプ大統領:いいえ、日米安保の破棄は全く考えていない。(日米安保条約は)不公平な合意である、と私は言っているだけだ。過去6カ月間、そのことについて安倍首相に話してきた。私が語ったのは「仮に誰かが日本を攻撃すれば、米国は日本に続いて戦闘に加わり、実際に全力で臨む」ということだ。我々は四つに組んで戦い、日本のための戦闘にコミットする。誰かが米国を攻撃しても、日本はそうする必要がない。これは不公平(unfair)だ。(日米安保条約の締結によって)我々が行ったディール(取引)はこのようなものだ。(中略)だが、私は安倍首相に対して、我々はそれを変えなければならない、と話した。なぜなら、誰も米国を攻撃することのないよう望むが、仮にそのようなことが起これば――その逆になる可能性の方がずっと大きいが――、誰かが米国を攻撃することが万一あれば、(逆のケースで)米国が日本を助けるのであれば、日本は我々を助けるべきだからだ。安倍首相はそのことを分かっている。米国を助けることについて、彼には何の問題もないだろう。

トランプは、日米安保条約を破棄する考えこそ、明確に否定した。しかし、現職の米国大統領が日米安保条約を「不公平(フェアでない)」と呼び、改訂すべきだと公の場で――しかも日本で――明言したことの意味は大きい。

1960年に改訂された日米安保条約はこう記す。

第 5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。(以下略)

第 6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。(以下略)

日本に対する武力攻撃があれば、米国は日本を守る(=第五条)。日本に米国を防衛する義務はないが、その代わりに米国は基地を日本の領土の置き、事実上自由に使ってよい(=第六条)。日米両国は過去半世紀以上にわたってこの考え方を共有し、「日米の責任分担はバランスがとれている」という見解を相互に確認してきた。今回、トランプはそれを真っ向から否定し、日米安保を「アンフェア」と呼んだのだった。

トランプが開けた「パンドラの箱」

政治の決めごとの中には、穏健で回りくどい説明が専門家や官僚たちの間で賢明とされる一方、一般人の感覚からすれば「どこかおかしい」と思われることが往々にしてある。そんな時、パンドラの箱ではないが、名のある指導者が一たびそれを「おかしい」と公言すれば、「そうだ、やっぱりおかしい」と思う人の数が一気に増えたりする。

米国の対北朝鮮政策もそうした例の一つだ。米朝が軍事衝突すれば、北朝鮮軍の射程に入っているソウル市民や在韓米軍に甚大な被害が予想される。そのため、米国が北朝鮮にかける圧力には限度があるというのが、長年にわたって米政府の考え方だった。ところがトランプ政権は、クリントン、ブッシュ、オバマのそうした北朝鮮政策をきびしく批判し、軍事的選択肢も排除しないとして「最大限の圧力」を北朝鮮にかける方向に舵を切った。今や、米議会は民主党も共和党も、金正恩と安易な妥協をせず、トランプが安易に圧力を緩めないよう圧力をかける側にまわっている。

「米国は日本を守るのに日本は米国を守らない」というトランプの主張は、様々な事情を省略すれば、米国人にとって直感的に否定しにくい。今回、現職の大統領が公の席で「日米安保は(米国にとって)アンフェア」だと言ってしまった以上、今後は「日米安保はアンフェア」だと思う米国人が確実に増えるだろう。そうなれば、将来、民主党の大統領を含め、トランプ以外の人が大統領になっても、トランプ以前のように「日米安保は不平等ではない」という見解をとるかどうかは疑問だ。

トランプ発言のフェイク~米国は本当に中国と戦うのか?

トランプは日米安保のどこがアンフェアだと言うのか? ここでおさらいしておこう。

アンフェアという意味についてなら、大阪での発言よりもその前に行われたフォックスとの電話インタビューの方が詳しい。

6月26日のインタビューでトランプは、「日本が攻撃されれば、米国は第3次世界大戦を戦う。我々は命と財産をかけて戦い、彼ら(日本人)を守る」と強調した。続けて、「しかし、我々(米国)が攻撃されても、日本は我々を助ける必要はない。彼らは(米国への)攻撃をソニーのテレビで見ていられる」と述べた。

実際に聞いてみると、当該電話インタビューの中心テーマは米中貿易摩擦であり、日本に関する発言はインタビューの中盤で飛び出したものだ。しかも、トランプはすぐに批判の矛先を欧州に移し、ドイツをこき下ろしている。私の印象では、トランプは最初から日米安保を批判するつもりだったというよりも、司会者に訊かれて咄嗟に発言したように思える。とは言え、同じ趣旨のことをトランプは大阪でも話しており、トランプの日米安保観がこういうものであることは間違いない。

フォックスのインタビューでは「日本が攻撃されれば、米国は第三次世界大戦を戦う」と言い、大阪の会見では「仮に誰かが日本を攻撃すれば、我々は日本に続いて戦闘に加わり、実際に全力で臨む」と語ったトランプ。だが、ここに既にフェイクが潜んでいる。

第三次世界大戦を戦う、という以上、トランプは暗黙の裡に「日本が中国に攻撃されれば、米国は中国と戦う」と言っていることになる。本当にそうなのか?

中国が万一、在日米軍基地を攻撃するようなことがあれば、それは米国に対する攻撃以外のなにものでもない。この場合、米国にとって中国と戦う以外の選択肢はない。中国が米国の同盟国である日本の大都市圏を攻撃しても、米国は中国が日本の次に(在日米軍基地を含む)米国を攻撃すると考える可能性が高い。この場合も、米国は中国と戦わざるをえないだろう。これで終わりなら、トランプの発言にフェイクはないことになる。

問題は、実際に日本が中国から攻撃されるとすれば、そのような「ハード・ケース」が現実のものになる可能性はまず想定できないということ。中国による日本攻撃があるとすれば――それですら確率的には決して高くないが――、最もあり得るのは局所的な戦闘である。

例えば、尖閣諸島周辺や東シナ海のガス油田付近で日中が衝突するケース。事態がエスカレートし、中国が本土の都市部にミサイルを撃ち込んできたりすれば別だが、自衛隊と人民解放軍の戦闘が東シナ海上にとどまれば、米軍が表に出てくることは期待薄だ。

日米安保条約をもう一度よく読んでみよう。第5条に書かれているのは、日本が他国から武力攻撃された時、米国は「自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動する」ということだけだ。NATOの場合は、加盟国が「国際連合憲章第五十一条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助する」と取り決めている。それに比べると日米安保の相互防衛条項は随分レベルが低い。

結局、日米安保条約で定められた「自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処する」ために米国がとる具体的な行動は、日本に対する攻撃が起きた際の様々な状況、被攻撃対象の重要性、米軍が軍事介入した時に予想される損害の程度等々を米国政府が総合的に解釈したうえで決まる、ということだ。

常識的には、尖閣諸島のような絶海の無人島のために「米国兵士の生命を失ってもよい」と考える米国大統領はまずいない。日中が尖閣周辺で衝突した場合、米国が一番避けたいのは戦闘がエスカレートし、在日米軍が巻き込まれて中国と戦わなければならなくなることだ。米国は日中双方に強く自制を求め、場合によっては戦闘を拡大しないよう日本に圧力をかけてくる可能性すらある。調停役を買って出ることはあっても、トランプが言うように第三次世界大戦を覚悟して最初から全力で戦闘に加わるとは到底考えられない。

尖閣有事で米軍が自衛隊と一緒に中国軍と戦ってくれる可能性は低い、というのが日米安保条約をめぐる現実。トランプが言ったようにはならない。つまり、トランプ発言はほぼフェイクと言うべきだ。

日本政府はトランプ発言を「見て見ぬふり」

トランプ発言に対する日本側の反応は、正論ではあるが陳腐なものだった。

6月27日の記者会見で菅官房長官は、先ほど紹介した、日米政府間でこれまで了解してきた日米安保条約に関する見解を繰り返した。

日米同盟というのはですね、この安保条約で第5条においてはわが国への武力攻撃に対して日米が共同で対処する。ここは定めています。そして、第6条において、米国に対してわが国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和と安全の維持に寄与するために、わが国の施設、区域の使用、これを認めている。5条、6条でですね、このようなことをしっかりとうたっています。

日米両国の義務、そういう意味において、同一ではなくてですね、全体として見れば、日米双方の義務のバランス、ここはとられているというふうに思っていますので、片務的ということは当たらない。片務的ではなくて、お互いにバランスをとれている、そういう条約であると思ってます。

安全保障の専門家が採点すれば、合格点をつけるに違いない模範解答である。しかし、トランプは論理性や官僚的な積み上げよりも直感とディール感覚で物事を判断する人間だ。こんな「屁理屈」に動かされることはない。現に、安倍は過去半年間、トランプを説得することができなかった。

私が何よりも驚いたのは、トランプに大阪という場所でこれまでの日米間の取り決めを否定する発言をされたにもかかわらず、日本政府が何事もなかったような反応に終始していることである。プライドも何もあったものではない。

トランプ政権の誕生後、安倍政権はトランプを刺激せず、トランプの要求があれば早い段階でそれを一部受け入れることによってトランプの「標的」にならないよう努めてきた。これまではその戦略が功を奏し、北朝鮮、中国、イランだけでなく、ドイツなど欧州諸国やメキシコ、カナダといった同盟国が次々とトランプの標的になる中、日本はその陰に隠れて比較的「うまく」立ちまわってきた。(トランプ政権によって最も優遇されている国がイスラエルであることは言うまでもない。)

今回も日本政府はトランプ発言を問題視せず、今後も米国に多少の譲歩を繰り返すことで「やりすごそう」と思っているのかもしれない。しかし、今回トランプが突きつけた日米安保の双務性に対する疑問は、誤魔化すには根本的すぎる。

日米安保に関するトランプの一連の発言があった後、駐日米国大使のウィリアム・ハガティはトランプ発言について「米国ほど軍事支出をしない(日本など)多くの同盟国へのいら立ちを表明した」と解説し、在日米軍駐留経費負担の増額や日本の防衛予算増額が必要になると示唆した。

日本の米軍駐留経費負担割合は約75%で同盟国中最も高いが、現在の協定は2021年3月に期限を迎えるため、再選されなくてもトランプ政権が交渉相手となる。しかし、トランプ政権は少なくとも内部的には、同盟国に対して米軍駐留経費総額の1.5倍以上を支払うよう求める「コスト・プラス50」方式を検討している模様だ。

トランプは日本やドイツなどの同盟国が安全保障面で米国にただ乗りしていると批判してきた。日本に対し、米国を防衛するための集団的自衛権の行使を求めるだけでなく、日本の防衛予算を大幅に増やすよう要求してきても何の不思議もない。日本が防衛予算を増やすということは、米製兵器をもっと買わせることを意味する。大統領再選に向けたアピールにもなって一石二鳥となろう。(トランプはこれまでも日本による大量のF-35購入を誉めそやしている。)

今後、トランプは日米安保の改訂を求めてくるのか? 日本に防衛予算や米軍駐留経費の増額を要求するのか? はたまた安保を材料に貿易協議での譲歩を迫るのか? いずれにしても、今のままトランプのペースが続けば、日本はいいように引っかき回され、ディールでも圧倒されることになるだろう。

トランプとやり合う気概を持った政治家も皆無

政府だけが反応が鈍いわけではない。与野党問わず、日本の政治家たちはトランプ発言に対し、おしなべて沈黙している。

私の知る限り、トランプにはっきり噛みついたのは共産党の志位和夫委員長だけだ。志位は「本当にやめるというなら結構だ。私たちは日米安保条約は廃棄するという立場だ。一向に痛痒を感じない」と啖呵を切ったらしい。だが、日本国民の大多数が共産党の主張する日米安保廃棄に共感するはずもない。トランプにとって志位さんの発言は、それこそ痛くも痒くもない。

他の与野党幹部に至っては、ダンマリか、菅官房長官と同じ小賢しい解説を繰り返すだけ。他国の政治家に自分の国(大阪)であんなことを言われ、まともに反論する政治家が出てこないなんて、ひどい話だ。

せめて、こんなツイートをする政治家はいないものか?

トランプさん、あなたの言うように防衛面のみで双務的な内容に日米安保条約を改訂し、そのうえで日本に米軍基地を置き続けたいと言うのであれば、我々はあなた方に地代を要求させてもらいますからね。

上記では長すぎるようなら、こんなのはどうだ?

トランプさん、あなたが 5条の改訂を求めるのなら、我々は 6条の改訂を求める。

言っていることは、従来の政府のスタンスの延長だが、トランプが反応するカネの話と結びつけているのが味噌である。

日本の有力な政治家がこんな発信をすれば、トランプや米国サイドは「米軍基地がなくなって困るのは日本だろう? 俺たちは出ていっても構わないんだぜ」とすごんでくるだろう。その時、怯まないで米国との議論に立ち向かえれば、日本の安全保障政策は一皮むけると思う。しかし、そんな度胸と知性を持った政治家が見当たらないのは実に淋しい。

そう言えば今は参議院選挙の期間だった。トランプが6月29日にあんなことを言ったのに、党首討論等で日米安保のあり方や日本外交が論争にならないなんて、この国の政治はもう呼吸すらしていないのではないか。

反米ではないが米国と渡り合う気概を持ち、軍事力の有用性をしっかり認識したリベラルがこの国に登場することを期待してはならないだろうか――? 今回は脱線したまま、この辺で終わりにする。