国会では27日(火)にも出入国管理法改正案が衆議院を通過する見込みと言う。だが、国会での議論はいつもの通り、何も深まっていない。逃げる政府、問題を見て見ぬふりの与党、批判に終始する野党、というお馴染みの構図にはウンザリ。だが、何が問題か、突き詰めることまで諦めてならない。
外国人労働者受け入れ拡大法案については、11月13日と15日の2回に分けて書いた。その間も「なぜ、抵抗感が消えないのか?」と考えてみたが、突き詰めると、外国人労働者の受け入れ増加が日本社会の安定性を突き崩すのではないか、という不安が消えないのである。その意味で、これはやっぱり移民問題なんだ、と思う。今回と次回はそのことについて書く。
国会での「移民」質疑――論争になっていない
安倍のブレを追及しても・・・
法案審議が始まって以来、野党は外国人労働者受け入れ拡大法案を移民法案と呼んできた。だが野党側の矛先は、安倍総理が以前、「移民政策はとらない」と言っていたことを引き合いに出し、「この法案は実質的に移民拡大法案じゃないか。総理は前言を翻した」という点に向きがちだ。
これに対して安倍は、今回の法案は「永住する(外国)人がどんどん増える政策」ではないから移民政策ではない、したがって、自分がブレたわけではない、と反論。
「言った、言わない」みたいな議論に終始して本質論に入らないから、安倍は却って安堵しているのではないか。
すれ違う「移民の定義」
言葉遊びの世界に嵌っているのは、移民の定義をめぐるやり取りも同じこと。
政府の方は、移民の定義を問われても答弁しない。代わりに、「移民政策」については、「国民の人口に比して、一定程度の規模の外国人を家族ごと期限を設けることなく受け入れることによって国家を維持していこうとする政策」ととりあえず定義している。とりあえず、というのは、このままでは意味を持たない定義だからだ。一定規模と言ったって、国民の人口に比して何%を超えるまではよいのか? 家族を帯同しなければよいのか? 例えば10年、更新可能でも期限がついていれば受け入れし放題なのか? 解釈は伸縮自在。政策を示すと言う点では無意味である。
これに対して野党は、移民について別の定義を持ち出し、外国人労働者は移民だと主張する。よく引用されるのが国連経済社会局の次の言及だ。
「国際(国境を越えた)移民の正式な法的定義はありませんが、多くの専門家は、移住の理由や法的地位に関係なく、本来の居住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意しています。3カ月以上12カ月未満の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住と呼んで区別するのが一般的です。」
一方、国際移住機関は、移民を「当人の (1) 法的地位、(2) 移動が自発的か非自発的か、(3) 移動の理由、(4) 滞在期間に関わらず、本来の居住地を離れて、国境を越えるか、一国内で移動している、または移動したあらゆる人」と定義する。
なるほど、これらの定義をあてはめれば、政府が受け入れを拡大しようとしている外国人労働者はれっきとした移民、ということになる。
このような野党の追及に対し、政府は、万国共通の移民の定義はないと述べ、日本政府の定義を繰り返す。ここでも、「あっちではこう書いてある」「こっちの考え方は別物だ」と水掛け論の応酬となり、結論が出ることはない。
多くの日本人が「移民」という言葉から思い描くイメージに比べて、上述の国際的な定義はかなり「緩い」ということも、政府が論戦から逃げるのを手助けしている。3ヶ月で一時的移住と言われたら、えっ?と思う人の方が圧倒的に多いだろう。逆に、安倍が口走る「永住する(外国)人」の方が一般国民のイメージには近い。
自分たちの移民政策について述べる党が一つもない
「現下の移民政策はいかなるものか」と問われ、「今回の外国人労働者受け入れは移民政策ではありません」とすれ違い答弁しかできない政府・与党。お粗末の極みである。
だが、野党各党が「今回の法案は実質、移民拡大法案だ」と攻撃しても、迫力はまったく感じられない。その最大の理由は、野党各党が移民政策に関して自らの考えを明らかにしていないからだ。移民の定義として国際機関の定義を採用するのならそれでも結構。その定義に従って、○○党は移民増加に賛成なのか、反対なのか。どの程度の規模までなら受け入れてもいいと考えているのか――。国会質疑を聞いていても、野党の考えはほとんど伝わってこない。
今の国会質疑に比べれば、竹光を使った時代劇のチャンバラの方がよっぽど真剣勝負だ。嘆かわしい。
移民と呼ばなくても、在留外国人は無視できない
問題は、外国人労働者を「移民」と呼ぶべきかどうかではない。彼らを移民と呼ばないにしても、彼らの数が増えれば、国民生活や社会制度に大きな影響を及ぼす。それこそ、論争すべきポイントなのである。
安倍総理は、「永住じゃないから問題ない」と言う。つまり、今回の法案で外国人労働者に付与することになる資格は、5年なり何なり、期限がついている。だから、永住ではない、という理屈である。これに対し、資格に期限があっても、延長されればどんどん永住に近づいていく、という批判はもちろん、正しい。だが、これもまた、永住かどうかの水掛け論になり、本質に近づかない。
本質論に入るためには、「外国人労働者は(少なくとも制度上、)永住ではない」と敢えて認めてしまおう。そのうえで、移民という言葉を使わずに、問えばよい。
「5年以内しか滞在しない外国人労働者が2千万人、日本の人口の約2割になっても、構わないのか?」あるいは、「5年間以内しか滞在しない外国人労働者が1千万人、日本の人口の約1割であれば、構わないのか?」と。
本来、ナショナリストの安倍が「構わない」とは言うまい。まさか、この問いからも逃げるようなら、売国奴のような総理である。
一定数の外国人が一定期間、日本国内に滞在すれば、日本人の生活や社会制度に大きな影響が出る。だからこそ、前出のとおり、政府も「移民政策」を「国民の人口に比して、一定程度の規模の外国人を家族ごと期限を設けることなく受け入れることによって国家を維持していこうとする政策」と定義せざるをえなかったのだ。
ここで問題となるのが、「一定数」と「一定期間」。数の問題は次回に譲り、今回は期間の問題について私の考えを述べたい。
1年以上滞在すれば、大きな影響がある
少なくとも、政府が問題視する外国人労働者のラインは甘すぎる。
今回新設される特定技能1号は在留期限が通算5年で延長できない。2号は期限こそあるものの、業種によってまちまちで更新可能、家族も帯同できる。いずれも、労働力としての外国人がほしい経営サイドの要求を、「移民増加政策はとらない」という政府の建前の下で無理やり法制化した仕組み。外国人労働者の受け入れ増加と社会的安定性との関係など、真剣に考えられてはいない。
特定技能1号は5年で帰るという立てつけだが、仮に在留期限を超えて不法残留する者がゼロだとしても、根本的な問題が残る。せいぜい数週間程度しか滞在しない外国人旅行者が増えるにつれ、彼らの行状に眉をひそめる人も増えている。5年で定住する外国人労働者であれば、もっと様々な摩擦が起きても不思議ではない。
外国人労働者の行状が不良だと決めつけるつもりはまったくない。だが、彼らの生活習慣や価値観は、当然のことながら日本人とは違う。生活に支障のない程度の日本語能力、というのも極めていい加減だ。「違い」をストレスに感じるのは、迎える側の日本人も来る側の外国人も同じはず。今回の法案が成立し、外国人労働者が従来以上のペースで増加した時、日本人も外国人も相手に対して適応できないケースが増えるに違いない。
特定技能2号の方は、定義からしてより「移民」に近い。とは言え、政府の考え方に従えば、特定技能2号で資格を何度も更新し、日本に何十年も生活した外国人が資格も持ったまま日本で亡くなっても、永住ではなかった、と済ませられてしまう。まさに法匪の論理である。
国際機関では、滞在期間が1年を超える外国人を「移民」とみなすことが多い。前出の国際移住機構もそうだし、OECDもそうだ。例えば、OECDの移民の定義を一般化すると、「他国に在住していた人が、通常の住居をある国の領域内に一定期間――最低12カ月の場合が多い――定める行為」というもの。少なからぬ国際的機関が外国人の在留期限として1年をメルクマールにしているということは、やはり、意味があるのだろう。
「移民」という言葉と結びつけなければ、1年というのは感覚的にもそれほど無理なく受け入れられよう。先ほどの質問も、「1年未満で帰る外国人労働者が1千万人」であれば、多くの人にとって抵抗感はかなり薄れるに違いない。
最初は1年を基準に考えてみて、もっと長期でも大丈夫そうだ、ということになって延ばすのならまだよい。しかし、最初から5年、あるいは永住でなければよい、という大甘の基準で始めるのは危険すぎる。一旦受け入れてしまえば、外国人であっても簡単に追い出すわけにはいかない。
今後は、日本の在留外国人について、他国との国際比較を通して考えるべきケースも増加するに違いない。その意味でも、在留期間1年超の外国人――移民と呼んでもいいだろうが、抵抗があるのなら、「長期在留外国人」でも何でも、好きな呼び方をすればいい――を特別のカテゴリーとして認識することが不可欠である。
余談~右翼の抗議を見て思ったこと
先週木曜日の夕方、帰宅する途中で日の丸が林立しているのを見た。何かと思ったら、右翼団体が外国人労働者受け入れ拡大法案(出入国管理法)に反対する街頭活動だった。看板には「がんばれ、安倍政権」と書いてあったが、この法案には反対なのだろう。日本国民の負担で外国人家族の社会保険を見るなんて言語道断、みたいなことを言っている。右翼じゃない一般国民もそこはまったく同意するだろう、と思いながら通り過ぎた。
だが、よくよく考えてみれば、右翼が外国人家族の社会保険負担の問題を強調しすぎていいんだろうか。その論を逆手に取られれば、外国人家族に対する社会保険サービスの提供を制限する法律を作れば、外国人がいくら入ってきてもよい、ということになりかねない。
右翼たるもの、外国人労働者――外国籍の国内生活者でもある――という名の移民が増えて日本の国柄や社会の安定性が脅かされる、という点をもっと強調してほしい。普段はどちらかと言えば右翼嫌いの私がそう思っているのに気づき、内心笑ってしまった。