ロシア疑惑の終結――勝ったのはプーチン

3月22日、2016年米大統領選をめぐる「ロシア疑惑」を2年にわたって調査したロバート・モラ―特別検察官が調査報告書を司法省に提出した。24日、その概要がウィリアム・バー司法長官によって公表された。

報告書は、ロシア政府による選挙介入活動について「トランプ陣営のメンバーがロシア政府と共謀・連携した事実が、調査によって立証されることはなかった」と記述。ロシア疑惑の捜査をトランプが妨害したという疑惑についても、モラーが「大統領に犯罪行為があったと結論づけないが、無実とするわけでもない」としたのを受け、バーは証拠不十分という判断を下した。

これによって、ドナルド・トランプ大統領の弾劾につながるような疑惑は事実上解消した――それが言いすぎなら、少なくとも峠を越えた――と言ってもよい。

トランプにしてみれば、大統領就任以来はじめて、枕を高くして眠ることができるようになった、というところか。早速、民主党やメディアに謝罪を求めるなど、自らの勝利をアピールしている。しかし、トランプの「勝利」は米国内政局という局地戦における小さな勝利にすぎない。

トランプ本人やトランプ陣営のメンバーがロシアと共謀していようがいまいが、大統領という米国政治の最高指導者の選挙に外国政府(ロシア)が介入し、選挙結果に大きな影響を与えたという事実は動かない。それは既に米国政府も認めてきたことだ。プーチンは当然否定するが、バー司法長官が公表したモラー報告書の概要も次のように述べ、改めてロシアの選挙介入を認定した。

 特別検査官の調査によれば、2016年の大統領選に影響を与えるため、ロシアによる2種類の試みがあったことが判明した。
 第一は、ロシアの組織(インターネット調査機関、IRA)が社会的不和の種を蒔き、結果的に選挙へ介入する目的で米国内において偽情報の拡散やソーシャル・メディア活動を実施したことに関するものである。特別検察官はこれらの活動との関連で多数のロシア人とロシアの組織を刑事告訴した。(ただし、米国人やトランプ陣営の関与は発見されていない。)
 第二は、情報を収集・拡散して選挙に影響を与えるため、コンピューター・ハッキングを実施したロシア政府の活動に関するものである。特別検察官は、ロシア政府の関係者がコンピューターにハッキングを仕掛け、クリントン陣営と民主党組織の関係者から電子メールを得ることに成功し、ウィキリークスを含む様々な媒体を通じてこうした材料を拡散したことを発見した。こうした活動に基づき、特別検察官は、選挙への介入を目的とした米国内でのコンピューター・ハッキングを計画したことに対して多数のロシアの軍人を刑事告訴した。(しかし、ロシア側からはトランプ陣営を支援しようという多様な申し出があったにもかかわらず、トランプ陣営による共謀の事実は発見されなかった。)

2016年大統領選は、民主党候補だったヒラリー・クリントンが得票数と得票率ではトランプを上回るという大接戦だった。結果的にトランプはヒラリーよりも選挙人を77名多く獲得して勝利した。だが、トランプが得た選挙人のうち、46名は得票率の差が1%未満だった3州(ミシガン、フィラデルフィア、ウィスコンシン)からのもの。つまり、ロシアの選挙介入がなければ、ヒラリーが第45代大統領になっていた可能性は十分にあった、と考えられる。

国家の指導者であり、国民の代表を選ぶ選挙は、民主主義の根幹となる制度。選挙に外国が介入し、それがなければ負けていた可能性の高い人物(=ドナルド・トランプ)が国を率いている、というのは極めて由々しき事態。トランプ陣営がロシアと共謀していなかった――正確には、共謀したと断定できなかった――からと言って、トランプが大統領であることの正統性が揺らいだままであるという事実には、何の変わりもない。

ソ連の崩壊によって米ソ冷戦は終わり、「共産主義」対「民主主義」というイデオロギー対立の時代は終わった――。我々はそう思ってきた。しかし、KGBの情報将校だったウラジーミル・プーチンは今、「権威主義」対「民主主義」という(矮小化されてはいるが)新たなイデオロギー戦争を戦っているのかもしれない。プーチンは電子的な手段を使って2016年の大統領選挙に介入し、民主主義の総本山とも言うべきアメリカの民主主義に対する信頼性を国内的にも国際的にも大きく貶めた。

プーチンの工作が標的としたのは、イデオロギー面だけではない。米国の外交政策にネガティブな影響を与え、米国の国力そのものを削ぐことも射程に入っている。

米国の外交政策がトランプ政権の下でロシア寄りになったという明白な事実はない。だが、プーチンを嫌っていたヒラリー・クリントン大統領が誕生していれば、米国の対露政策が今よりももっと厳しいものになっていたであろうことはほぼ疑いがない。選挙介入によってロシアは少なくとも、最悪の事態を防いだことになる。

さらにロシアは、偽情報の拡散によって有権者の反ヒラリー感情を煽り、単に選挙結果に影響を与えたのみならず、民主党と共和党の間や民主党内部での対立を激化させることにも成功した。トランプが大統領に選ばれた後は、ロシアが直接介入しなくてもトランプ自身が進んで米国社会の分断を深めた。

パリ協定からの離脱、保護貿易主義の強調、INF(中距離核戦力全廃条約)の効力停止、露骨な親イスラエルの姿勢などによって、国際社会がトランプの米国を国際社会のリーダーと仰ぐことはめっきり減少した。安倍政権は数少ない例外と言えるが、その安倍ですら、トランプ路線に全面的に同調しているわけではない。

モラーの報告書が公表され、歯噛みして憤る民主党の関係者。
ホワイトハウスで心底ホッとした後、高笑いするトランプ。
その様子を窺ってクレムリンでほくそ笑むプーチン。
勝者が誰かは明らかである。

最初の引見がトランプでは新天皇に申し訳ない

トランプ大統領が5月下旬に来日することがいよいよ本決まりとなったようだ。6月のG20にも出席すれば、「短期間で二度の訪日となって前例がない(=すごいことだ)」という論調でメディアが伝えている。外務省や官邸のブリーフを鵜呑みにしてのことだろう。

アメリカって日本の宗主国だったのか? アメリカ大統領が来る、来ないで大騒ぎするメンタリティーからは、いい加減もう卒業できないものか、といつもながら思ってしまう。

トランプの来日は私にとって、別にどうでもいいことである。しかし、トランプをわざわざ5月に呼ぶのが、「51日に即位される新天皇に『国賓として最初に』会っていただくため」と聞けば、これは黙っていられない。

今上天皇が即位された際、外国要人の引見はどのように行われたのか? 宮内庁のホームページで調べてみた。

今上天皇の即位は1989年(平成元年)17日。大喪の礼は224日に執り行われた。221日にフィンランド大統領夫妻と会見されたのを皮切りに、天皇は27日までの間に大勢の外国元首を引見された。ブッシュ(父)大統領とは25日に会われている。

大喪の礼と切り離したものとしては、44日にイタリア首相を、413日には中国の李鵬首相を、いずれも公賓(国費で接遇する行政府の長など)として引見された。国賓(国費で接遇する国家元首)として最初に引見されたのは、10月のジンバブエ大統領であった。

公賓としての最初の引見が中国の首相になることは避ける、という配慮はあったかもしれない。だが、平成の代替わりに当たり、天皇が最初に引見する国賓・公賓の選択は、大喪の礼という特殊事情があったとは言え、比較的自然体でなされたように見える。

今回、新天皇が国賓として最初に引見される外国要人をトランプ大統領にしたいと政府が考えているのは、安倍のトランプに対するゴマスリだろう。ネット上では、それで日米貿易交渉などが有利に運ぶのではないか等の思惑が紹介されている。トランプが虚栄心をくすぐられて喜ぶのは間違いない。だが、ディールはディールで実利を重視するのがトランプという男だ。

何よりも、この程度のことに新天皇を利用すれば、天皇の権威や天皇制の意義を政府自らが貶めることになる。頓珍漢にも天皇の謝罪を求めている韓国国会議長などは「日本政府は米国に対しては天皇を外交カードにしているんだから、韓国に対してもそうすべきだ」と言い出しかねない。

もっと率直に言おう。新天皇が最初に引見する外国要人(国賓・公賓)としてトランプを選ぶことに反対する最大の理由は、相手がトランプだからである。米国大統領だから、ということでは必ずしもない。米国はわが国の唯一の同盟国。本来なら、天皇陛下が最初に謁見する外国首脳(国賓)が米国大統領になる、ということに目くじらを立てる必要は特にない。だが、トランプとなると話は違ってくる。

トランプのことだ、自分が新天皇に会った最初の外国要人であることを(ツイッターか、記者会見かはともかく)軽々しく自慢するに違いない。反・地球温暖化(パリ協定離脱)、反・自由貿易(TP協定離脱、鉄鋼アルミ追加関税)、反・核軍縮(INF条約破棄通告、イラン核合意離脱)など、トランプの考えに対する新天皇の受け止めを私なりに慮った時、トランプが新天皇を使って自らをアピールするのを見ることは何とも忍びない。

少なくとも現時点では、浩宮が自分の気持ちを表に出したりすることはないだろう。しかし、それをいいことに政府が新天皇をここまで露骨に外交カードとしてよいのか? 安倍総理か、安倍総理とトランプ大統領に忖度する官僚かは知らないが、代替わりを迎えられた新天皇の門出に泥を塗るような真似は厳に慎んでもらいたい。

では、新天皇が即位後最初に引見する外国要人(国賓・公賓)は誰がふさわしいのか? 一つの考え方としては、隣国の首脳という選択肢がある。しかし、同盟国である米国に間違ったメッセージを発することになりかねないというだけでなく、トランプが駄目だというのとよく似た思想上の理由から、習近平もNGだ。文在寅に至っては、新天皇が引見することはもちろん、国賓として迎えることにさえ、誰も賛成しない。

結局、注目されるが故に、新天皇が即位後最初に引見する外国要人(国賓・公賓)はあまり目立たない国の首脳とするのがよさそうだ。今回の代替わりとは事情が異なっていたとは言え、平成の代替わりの際に発揮された知恵に学ぶべきことは決して少なくない。

 

統計問題を受けての雑感

統計問題の三つの罪

統計問題の発覚から大分時間がたった。毎月勤労統計をはじめとした統計問題は、確かにひどい話だ。でも、世間での批判を耳にするたび、「ポイントはそこなんだろうか?」と何か引っかかるものを感じてきた。毎月勤労統計の間違いを私流に整理すれば、大きく言って三つ指摘できる。

一つは、厚労省が総務省への届け出に反して大規模事業所の東京分について全数調査をしていなかった、という手続き的な問題。総務省に届け出た以上、厚労省は(それを訂正しない限り)その通りに調査しなければ法律違反になる。官僚が法律違反では話にならない。そのうえで言えば、大規模事業所の分を全数調査するという最初の判断の是非についても再検証がなされるべきだと私は思う。全数を調査するんなら、統計学という学問なんかいらない。最初から大規模事業所の分も抽出調査することにして総務省に届け出るべきだった、と私は思う。何で全数調査することにしてしまったのか、謎だ。

二つめは、その全数調査を行わずに抽出調査したデータについて、統計学的に当然かけるべき補正をかけていなかったという、およそ考えられない初歩的なミス。これさえやっていれば、一番目の法律違反という批判は避けられなかったにせよ、失業給付等の額が(大きく)変わることはなかったはずである。厚生労働省はここまで無能だったのか、とあきれるほかない。個人的には、最も大きなショックを受けたのもこの点であった。

三つめは、厚労省が間違いに気付いた後、それを何年も公表しなかったこと。担当部署では昨年1月分から間違いを補正する作業に取り掛かっていたと言う。「不正」が意図的に始まったものか否かはさておき、上記二つの問題は相当以前から認識されていたと考えられる。ところが、昨年12月に統計委員会が指摘するまで事態は表面化しなかった。間違いがあってもそれが表に出る、という透明性が確保された組織であれば、まだ救いはある。しかし、間違った者がそれを隠すようでは、その組織は腐っている。

高度成長期の頃までは、「官僚一流、経済二流、政治三流」と言われたものだ。しかし、森友・加計問題の財務省、南スーダン日報問題を隠蔽した防衛省・自衛隊、今回の厚労省――かつては「消えた年金」問題もここだった――とくれば、能力面でも職業倫理のうえでも「官僚三流」と言わざるをえない。その分、経済や政治がレベルアップしたわけではない。日本は大丈夫なのか、と心配になる。

国会論戦の不毛

国会では、毎月勤労統計をはじめとする統計問題をめぐり、与野党の論戦(凡戦)が続いている。これが実につまらない。

野党は「正しい数字に基づいて計算すれば実質賃金はマイナスになる」と政府を責め、統計問題をきっかけにアベノミクスの失敗を印象付けようとしている。だが、この6年間で改善した数字も少なくないため、水掛け論に終わるのが関の山だろう。予算委員会では野党議員が「統計不正はアベノミクスに有利な数字をつくるための官僚による忖度だったのではないか」と安倍総理に質問していた。根拠や証拠もなくそんなことを言われても、政府を攻めきれない苦し紛れから言いがかりをつけているようにしか聞こえない。

政府・与党もひどい。賃金統計が過大に計上されていた以上、それを修正すれば賃金に関する従来の数字が下がることは避けられない。「実質賃金はマイナスだった」と素直に認めればいいものを、経済状況を判断する際に実質賃金を参照するのは適切ではない、などと論点をすり替え、アベノミクスを執拗に礼賛する。閣僚や与党議員たちは安倍へのゴマすりに血道を上げ、茂木敏充経済再生大臣に至っては、ゴロツキのような口調で野党議員に噛みついていた。

多くの国民にとって、アベノミクスの評価は既に定まりつつあると思う。マイナス成長からの脱却には成功したという評価と、安倍の公約していた2%成長は実現できないという失望のミックス、と言ったところだろう。統計問題が出てきたのを材料にして、アベノミクスは失敗だ、いや成功だ、と政治家たちが力むだけでは、国民は白けるばかりだ。もう少し面白い質問はできないもんだろうか?

例えば私などは、「間違いは許せないが、だからと言って追加給付が百円玉数枚という人にまで税金を使って対応する必要はないだろうよ」と不謹慎なことを考えてしまう。「勤労統計の間違いを受けて発生する追加給付について、千円以下については支払わないよう特別立法を検討してみないか」という質問でもしてくれれば、国会中継の視聴率も少しは上り、NHKも喜ぶに違いない。まあ、質問した議員は炎上必至ではあるが・・・。

孫正義の「やったふり」~ムハンマド皇太子との投資ファンドは継続

サウジアラビアのカショギ氏が惨殺されたのは10月2日。その後、俺は「孫正義の言葉が聞きたい」という記事をアップした。そして昨日、孫は公の席ではじめて事件について語った。ソフトバンクの決算発表だったので、さすがに逃げきれなかったようだ。

俺の感想は、予想通りだったとは言え、「失望」の一語に尽きる。自分が良心を備えた「正しい人」だとアピールする一方、「悪い人」との金儲けは今後も続けていく、と表明されても拍手はできない。

孫はカショギ事件について「決してあってはならない、大変悲惨な事件だと認識している」と述べ、「真相解明と、責任ある説明がなされることを願う」と弁護士と打ち合わせたのであろう通りに答えた。事件の首謀者とされるムハンマド皇太子に会い、自らの懸念を直接伝えたそうだが、それも会見でのパフォーマンス向けとことは見え見えだ。で、結論はと言うと、サウジの出資を受けた投資会社は継続するというもの。何でも、サウジ経済の多様性をすすめる責務があるんだそうな。裏を返せば、報道の自由や政治面における多様性に対する責務はないという宣言だわな。

ムハンマドの機嫌を損ねて5兆円を引き上げられたら、孫やソフトバンクには再起不能なくらいの大打撃になるだろう。多少の良心なんか犠牲にしたって、ファンドや会社を守るため、孫は経営者として苦渋の決断をくだしたという見方もできるかもしれない。でも俺に言わせれば、儲けに目がくらんで毒饅頭を食った孫に同情の余地はない。

みじめなり、孫正義。あんたのファーストネームが泣いているよ。

枝野代表の「失敗した当事者ともう1回政権交代を」発言

立憲民主党の枝野幸男代表が昨日の講演で、「あのとき、失敗の当事者意識をもっている人間が現役で最前線でやっている間に、もう1回政権交代をする。そして今度は、少なくとも政権運営という意味では成功させる。その責任が私はあると思っています」と語ったそうな。あのとき、というのが民主党政権時代を指すことは言うまでもない。

敗れた戦から教訓をくみ取り、敗軍の将が有能な将軍になる事例があることは否定しない。政治の世界では、安倍晋三がまさにその例だ。第一次安倍内閣(2006年9月~2007年8月)では、お友達内閣で「消えた年金」問題に振り回され、自身の健康管理も思うに任せずに退場。2012年12月に安倍が総理として返り咲いたときも、多くの人が「どうせすぐにボロを出す」と冷笑していた。ところが、第二次安倍内閣では、菅義偉という強面の官房長官を内閣の中心に据える一方、麻生太郎を除けば重量級の閣僚を置かず、官邸による親政を実現する。自民党をも完全に掌握し、自民一強どころか、安倍一強の状況を生み出した。(もちろん、安倍一強が成立したのには、他にも様々な理由がある。)

枝野が、民主党政権時代の失敗を踏まえ、汚名をそそぎたいという気持ちを持っていることは、わからんでもない。2009年から3年3か月の民主党政権誕生は、選挙を通した政権交代という意味では、戦後はじめての出来事だった。東日本大震災と原発事故の同時発生という未曽有の危機もこの政権を襲った。不馴れな民主党の閣僚たちが右往左往としても無理からぬ部分はある。

しかし、だ。国民は「もう一回、当時の民主党政権の経験者にチャンスを与えてみたい」と思っているだろうか? 冗談も休み休み言ってもらいたい。鳩山時代の普天間騒動と「子供手当」問題、菅時代の尖閣騒動と原発事故対応、野田時代の党分裂。国民はこれでもかと言うくらい、見たくもない醜態を繰り返し見せつけられた。今、枝野にそんなことを言われても、しらける国民の方が圧倒的に多いだろう。

枝野が「もう一度やらせてくれ」と言いたいんなら、「今度は政権を運営できる」というところを示してもらわないと困る。それには、枝野自身が野党共闘をまとめあげるか、立憲民主を大きくして枝野自身の力を示すか、いずれかしかない。野党の運営もできなくて、政権運営できます、なんて言ったところで、誰が信じるものか。今の野党議員の顔ぶれを見渡しても、パッとしない。先日亡くなった仙谷由人クラスの議員がただの一人でもいるのか?

昨日、枝野は「立憲民主党の単独政権をめざす」とも述べたらしい。それを額面通りに受け取れば、野党共闘路線は枝野の念頭にはない、ということか。(昨年の「希望の党」騒動の際、枝野が味合わさせられた屈辱を思えば、それも宜なるかな、ではある。)立憲が単独政権を狙いに行くためには、「左を固める」という現在の戦略をどこかで――おそらく次の衆院選で三桁を取った後くらいに――ギアチェンジし、「左を固めたうえでセンターにウィングを広げる」ことが必要になる。それができた後に「もう一度チャンスを与えてください」と言うんであれば、枝野の言葉に聞く耳を持つ国民も出てくるだろう。

敗軍の将は敗軍の将のまま歴史から姿を消すことの方が多い。枝野はどうなんだろうか?

安田純平さんの解放と自己責任論

1025日、シリアで3年以上、武装勢力に拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が帰国した。本人やご家族には申し訳ないが、多くの日本人が「もう駄目だろう」と諦めていただけに、「よかった」というのが素直な気持ちだ。ところが、ネットやメディアでは「自己責任」論争なるものが早くも起きている、と言うのでびっくりだ。

そりゃあ日本政府が退避勧告まで出している国に敢えて行ったんだから、災難が降りかかっても自己責任であることは間違いない。だが、渡航自粛が出ていない国に観光で行って誘拐されても、「日本政府に責任があるわけではない」という意味では自己責任だ。(念のため言っておくが、拉致被害は自己責任とはまったく別次元の話。)

世に言う自己責任論はそれを言っているんじゃないみたい。ポイントは、政府の――ひいては日本国民の――責任論のようだ。安田さんは退避勧告が出ていることを承知でシリアに入ったのみならず、日本政府が安田さんの海外取材にいい顔をしないことを批判していたという。そんな安田さんを政府は助ける必要がある(あった)のか、ということ。

俺の意見を最初に書いておくと、日本政府が海外で自国民保護に全力を尽くすべきことは当然だし、被害にあった日本国民の思想信条や社会的地位によって助けたり、助けたりしないというのは間違いだと思う。今回、日本政府が安田さんの解放に向けてどの程度本気で動いたのか、俺は知らない。カタールが身代金を払ったという情報もあるようだが、事前・事後は別にしても日本政府との間に何らかの取引があったと考えるのが普通だろう。官邸はともかく、外務省の担当部局なり現地の担当者なりが必至で動いていなかったのだとすれば、ガッカリだね。

ところで、巷の自己責任論争を聞いていて、気づいたことがある。それは、自己責任論が「権利を主張するなら義務を果たせ」という議論に似ているということ。一般論として言えば、この議論そのものは正論と言うか、当たり前だと思う人が多いに違いない。俺もそうだ。義務を果たさずに権利ばかり主張する人を見ると不愉快になる。しかし、義務なり、法律なりを作るのは為政者であるという現実と併せて考えると、単純な話ではなくなる。「義務が先」論が濫用されると、弱者を切り捨てたり、思想信条的に為政者側と異なる意見を持つ人たちに服従を強いるロジックとして使われかねない。

自己責任論も同じだ。「政府が『行くな』と言っているのに逆らったんだから、自業自得。政府が国民の税金を使って助ける必要はない」という議論は、ロジックとしては筋が通っている部分もある。これを全否定すると、ジャーナリストは退避勧告や渡航自粛なんか守らなくていい、という暴論に振れかねない。だが、これを全部肯定するとどうなるか? 「政府に助けてほしかったら、政府が行くなと言ったら絶対に行くな」という程度なら、認める人も少なくないか。では、その先に「助けてほしかったら、日頃から政府の批判とかするんじゃないぞ」という風潮が生まれたら、これはもうヤバい。

俺の考えすぎか? でも、戦前はそうだったんだよな。そして安倍晋三は「戦後レジームの解体」を唱えている。安田さんの自己責任論をふりかざす人たちに、右というか、思想的に安倍政権寄りの人が多いような印象があるのも偶然ではないんだろう。

もちろん、「ジャーナリストなら許される」という議論も不快だ。でも、上述の人たちはこの不快感を利用して、右寄りの政府に従うべきという土壌を作っているのも事実。結局、自己責任に関する議論も100かゼロかみたいな話ではなく、どちらの崖にも落ちない道を行くことしかないんだろう。安田さんは近々、会見を開くと言う。その時、彼は自己責任論についてどんな言葉を吐き出すんだろう? 安田さんが過去の自分の言葉にこだわっても、はたまた「転向」しても、俺たちは崖に落ちないようにしないとな。

孫正義の言葉が聞きたい~カショギ氏殺害をめぐって

今月2日、アメリカ亡命中のサウジアラビア人ジャーナリスト、ジャマル・カショギ氏がトルコのサウジ領事館で惨殺された。国際的な批判の高まりを受けてサウジ政府は事件への関与を認めたが、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子の関与については否定している。カショギ氏は皇太子を含め、サウジの体制批判を繰り返してきた。サルマンが関与していたのであれば――サウジ政府の発表を鵜呑みにする人は少ない――事実なら、殺人はもちろん、報道の弾圧という意味でも、言語道断だ。

日本政府はどう出るのか? 常日頃、安倍は「自由、民主主義、人権、法の支配」を標榜しているが、それは中国を牽制するのが目的。安倍自身がこれらの価値観を普遍的なものとして信じているわけではあるまい。サウジが開き直って皇太子の関与を認めでもしない限り、「事実関係が明確でないのに軽々な判断はできない」とか何とか言って、うやむやにやり過ごしたいと思っているんだろうな。

何せ、日本は原油輸入の4割をサウジに頼っている。しかも、サウジは「イスラエルの敵であるイランの敵」、つまりトランプ政権のお友だちでもある。トランプ大統領が正義に目覚め、サウジに制裁をかけるような事態になれば、安倍も外務省・経産省もさぞかし困るに違いない。

もう一人、今何を考えているのか、語ってほしい人がいる。ソフトバンク・グループの孫正義氏だ。

孫が率いるビジョン・ファンドはサウジの政府系ファンドから約5兆円の出資を受け、サウジ側は投資額を倍増させる計画だと伝えられていた。サルマンの関与が表沙汰になったり、ならないまでもサルマン批判が今以上に燃え盛った場合には、孫が「サウジの出資を受け入れ続けるのか」が関心の的となろう。もちろん、サウジの出資を返せば、ファンドは解散同然の打撃を受ける。一方で、サウジの出資を受け入れたままだと、事件に不快感を抱く欧米の出資者は資金の引き上げを検討するかもしれないし、ソフトバンクの企業イメージは全世界的に悪化する。冗談抜きで孫は「存亡の危機」を迎える可能性がある。

だが、俺の関心は「孫が損するかどうか」ではない。日本を代表する経済人である孫正義の口から、報道の自由や人権などの価値観についてどう思っているのか、それと商売との関係はどうあるべきか、について聞いてみたい。

本当は、日本の経済人と称する人たちのすべてに、この問いの答を聞きたい。でも、日本の経済人は、「政経分離」とか言って、政治や価値観の話から逃げるのが常だ。まあ、サラリーマン経営者がこじんまりと経営している分にはそれも仕方がない。だが、孫は、叩き上げのワンマン経営者にして、トランプやサウジ王室に近づくなど、現代版の「政商」と言ってもよい人物。都合のよい時だけ、「政経分離」を口にすることは許されない。

孫さん、今月4日、トヨタ自動車との間で配車サービスなどの業務提携をまとめたあなたが、華々しく記者会見を行ったのを俺は覚えている。日本政府じゃあるまいに、孫さんほどの人が「このまま事態がうやむやのままに過ぎ、ほとぼりが冷めてくれればよい」とひたすら穴の中で願っている姿は想像したくない。 

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