令和の天皇が挑む試練――象徴ゆえの困難

昨日(2019年5月1日)、平成の天皇(明仁上皇)が退位し、令和の新天皇(先の皇太子徳仁親王、浩宮)が即位した。前回の御代代わりは昭和天皇の崩御に伴うものだったため、世の中は自粛ムードだった。しかし、今回は祝賀ムード一色と言ってよい。「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」と「即位後朝見(ちょうけん)の儀」も正装で行われた。不敬かもしれないが、私は戦後生まれの同世代として新天皇に親近感を抱いている。新天皇にとって、めでたい門出となったことをまずは素直に慶びたい。

だが、正直に言えば、慶びの裏には不安もある。昨年12月13日付のポスト(「次の代替わりに伴い、『天皇制のあり方』も変わる」)で、新天皇を試練が待ち受けることになる、と私は書いた。ここ数日の皇室特番をテレビで見ながら、新天皇を含め、これからの皇室は大変だな、という思いを改めて強くした。

象徴天皇は権力がない故に、その存在価値を国民の支持に見出すしかない。つまり、天皇制の将来はひとえに、天皇の人格、天皇の徳にかかっている、ということ。先の天皇(明仁上皇)はこの試練を見事に乗り越えたが、次もうまくいくとは限らない。

祝賀ムードの中、新天皇にとって試練の日々がいよいよ始まった。令和が始まったばかりだと言うのに、水を差すつもりは毛頭ない。むしろ、徳仁天皇にエールを送るつもりで私の思うところを書いてみる。

 

明仁天皇の危機感

平成における成功

平成が終わりを告げるまでの数週間、テレビなどは明仁天皇と美智子皇后の特集をものすごい勢いで放映した。そのすべてを見たわけではないが、先の天皇・皇后は本当に国民に敬愛されていた、というのが実感である。先月行われた時事通信の世論調査では、明仁天皇に対して「尊敬の念を抱いている」が44.0%、「好感を抱いている」が39.5%にのぼった。これは凄い数字だ。失礼な物言いではあるが、昭和天皇が崩御されたとき、明仁天皇がここまで国民に支持されることになると誰が思ったであろうか?

戦争に負けて大日本帝国は日本国となり、天皇の位置づけも戦前とは大きく変わった。明治天皇、大正天皇、終戦までの昭和天皇は、間違いなく政治権力を持っており、現人神として神聖化された存在であった。大日本帝国憲法の第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定め、第3条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定していた。ただし、第4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあるとおり、天皇は絶対君主だったわけではない。明治から戦中にかけて、政治の実権は元老たちや軍部が握っていた。だが彼らも、天皇の意向をまったく無視できたわけではない。戦前の天皇は厳然たる政治的影響力を持っていた。

戦後、新憲法の下で天皇は日本国の「象徴」という曖昧な概念として存続することになった。裕仁天皇は人間宣言を行い、政治的な発言も慎まざるを得なくなる。とは言え、同じ人格を持つ天皇がある時点を境に完璧に変わることなどありえない。昭和天皇の話し振りなどからは、最晩年においても高い目線が感じられたものである。それでも、国民の多くは昭和天皇に対し、現人神と権力者の残滓を見ていた(前回のポスト参照)から、天皇の権威は保たれた。

その意味で、名実ともに象徴天皇となった最初の天皇は明仁天皇だった。そして明仁天皇は、象徴天皇として国民の敬愛を集め、見事なまでに成功をおさめる。しかし、その成功は決して最初から約束されていたものではなかった。

象徴天皇制のきびしさ

考えてみれば、「象徴天皇」とは心もとないものだ。天皇が(たとえ絶対的なものでなくても)政治権力を持っていれば、天皇一個人の能力や徳にかかわらず、天皇の地位はまず安泰である。だが、今日の象徴天皇制の下で天皇は政治権力を持たない。神事に携わっているとはいえ、戦前のような神性も失われた。それどころか、憲法第1条は天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」と明言している。国民主権の時代に象徴天皇制を存続させるためには、国民の支持を得続けることが必須というわけだ。

現人神でもなく、権力者でもない天皇が国民から支持されるか否かは、天皇個人の資質にかかる部分が大部分である。

これが一国の宰相であれば、人徳に多少欠けていても、政治経済の運営実績を残し、選挙に勝利すればその地位を守ることができる。企業でも、同族による株式支配や好業績の達成に助けられ、性格に難のある経営者がその地位に居続けることも珍しくはない。しかも、大臣であれ、経営者であれ、本当に資質がなければ、別の誰かに代わればよいだけの話だ。

象徴天皇は違う。権力を持たない以上、天皇に政治的な実績をあげることは不可能。神として崇めたてられることもない。結局、天皇や皇后の人徳、人格で勝負するしかない。天皇という個性が国民に受け容れられなければ、自ら交代することも許されず、天皇制そのものの存続が危ぶまれる事態となる。考えようによっては、象徴天皇制とは、実にきびしい制度だ。

そのことを誰よりもわかっていたのは、ほかならぬ明仁天皇ご自身だったのではないだろうか? 昨年12月20日に行われた会見で「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と明仁天皇は述べられた。

即位以来、象徴天皇が置かれた立場のきびしさを自覚しながら、言ってみれば日々、崖っぷちに立たされたような気持ちで公務に取り組まれていたのであろう。去る2月24日に行われた即位30年記念式典で明仁天皇は「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と述べられた。「果てしなく遠く」という部分に天皇制存続に対する危機感の反映を感じ取るのは私だけだろうか。

政治との距離

明仁天皇はいかに象徴天皇として国民の支持を獲得できたのか? 本人や皇后の人格、天皇の公務に対する責任感が最大の理由であろうが、それらは私の目で観察することができない。ここでは、明仁天皇の慎重さ(戦後憲法に忠実であろうとする姿勢)と、平成という災害の時代が天皇に迫った対応の二点によって、多くの国民が象徴天皇を支持するようになったという事実を指摘しておく。

明仁天皇はリベラルな考え方の持ち主と言われている。しかし、ご本人は国民主権を定める戦後憲法を厳格に解釈し、政治的な発言を厳に慎まれた。お気持ちが滲むような発言をされたことは幾度かあるが、その場合も言葉を選ばれており、天皇が政治的な発言を行ったとは言いがたいものであった。なお、2016年8月に生前退位の意向を事実上表明されたことを取り上げ、政治的発言と批判する向きもあるようだが、それは天皇を憲法の奴隷とみなす極論である。

重要なことは、明仁天皇が特定の政治家や政党を支持したり、批判したりすることから完璧なまでに距離を置いたことだ。平成のほとんどの期間、自民党政権(またはその連立政権)が続いたが、リベラルな思考の持ち主である天皇が政権を批判したことはなかった。比較的リベラルな民主党政権ができた時も、天皇が政権に親近感を表明することは微塵もなかった。平成の最後の6年余り、「戦後レジームの解体」という天皇の価値観を真っ向から反する考え方を持つ安倍晋三が総理大臣を務めても、天皇は政治の動きに対し、黙して語らなかった。もしも、2009年に政権交代が実現した時に天皇がそれを歓迎する発言をしていれば、あるいは、憲法の解釈改憲を行った安倍を明確に批判していれば、右寄り、あるいは保守層の反発を招いていたに違いない。一方で、リベラル系の国民は明仁天皇がリベラルな思考の持ち主であることを知っており、戦前のイメージを引きずる昭和天皇に対して持ったような反感を明仁天皇に抱くことはなかった。価値観の多様化した現代において天皇が奇跡的に広範な国民の支持を得られたのは、政治的発言を厳に慎むという明仁天皇の慎重さに負う部分が少なからずあった。

新しい役割としての被災地訪問

もう一つ、誤解を怖れずに敢えて言うと、平成が頻繁に大災害に見舞われた時代であったことが、天皇に象徴天皇としての新たな――かつ、国民の目に見える――役割を与え、結果的に象徴天皇に対する国民の支持を集めさせることになった。

象徴天皇の役割には様々なものがある。

内閣総理大臣の(形式的な)任命、解散詔書の作成、栄典の授与など、憲法に由来する「国事行為」。はっきり言って、これらは一般国民にとっては関係のないことである。

国家の安寧・繁栄、五穀豊穣などを祈る「祭祀」。これも一部の右寄りの人を除けば、興味のないことだ。第一、天皇が祈りを捧げている姿を国民は目にすることがない。

それ以外の公務。終戦後、昭和天皇は敗戦に打ちひしがれた国民を励ますため、全国行幸を行ったほか、戦没者の慰霊活動も行った。国民体育大会や植樹祭など様々な行事にも皇族が分担して参加している。外国訪問や来日した外国要人との面会といった皇室外交も重要な仕事のひとつだ。これらは平成の皇族にも引き継がれてきた。

平成になると、阪神淡路大震災、東日本大震災をはじめ、大規模な地震が頻発し、近年は豪雨・豪雪災害が毎年のように全国各地を襲った。被災地訪問は昭和の時代にもあったが、平成において天皇の公務の中で最も重要なものになったと言ってよい。

もちろん、天皇が災害を利用したと言いたいのではない。天皇は、日本国の象徴、日本国民統合の象徴としての責任感に駆られて、やむにやまれぬ気持ちで公務に携わられたはずだ。

被災地訪問に向けた天皇の献身は、その頻度と回数のみならず、姿勢の面でも昭和と区別されるものだった。昭和天皇も種々の慰問活動をされたが、立ったまま、上から目線の残る言葉――「あ、そう」は流行語となった――をかけていた。しかし、明仁天皇と美智子皇后は違った。自ら膝をついて被災者と同じ目線になり、予定時間を超えても被災者の声に耳を傾けた。今では当たり前に思うようになったが、天皇が一般国民に丁寧語で語りかけるのをはじめて聞いた時、違和感さえ覚えたものである。

平成の30年あまりの間、天皇は被災地を慰問し続けた。天皇が自ら国民の中に入り、国民と苦難を分かち合おうとする姿に国民は感動をおぼえた。今や、国民が天皇に期待する役割のうち、「被災地訪問などで国民を励ます」が最も多い66%(複数回答)にのぼる。被災地訪問は天皇の公務として高く評価されるようになっている。

 

令和以後、象徴天皇制が抱える課題

以上のように、明仁天皇は象徴天皇として国民の支持を集めることに見事成功した。だが、問題は令和以後どうなるか、である。国民の歓呼の中で即位した徳仁天皇は、父が抱えた以上に大きな課題と直面することになると思われる。

国民の支持

共同通信社が実施した緊急電話世論調査によると、徳仁天皇に対して「親しみを感じる」と回答した者が82.5%にのぼった。まずは順調なスタートだと言える。しかし、「親しみを感じる」ことと新天皇を「支持する」ことはまた別だ。明仁天皇が国民に支持されたからと言って、徳仁天皇も自動的に国民に支持され続ける保証はどこにもない。

令和の時代、徳仁天皇と雅子皇后は、象徴天皇としていかに国民の支持を得ていくのか? 令和の天皇ご夫妻と平成の天皇ご夫妻の人徳を比べることは私にはできない。だが、明仁天皇夫妻が国民に敬愛されている分、徳仁天皇夫妻が越えるべきハードルも高くなることだけは確かであろう。

明仁天皇が「開拓」した被災地の訪問は令和の天皇も継続することになる。しかし、東日本大震災級の大災害が令和の時代も引き続いて起こるとは願いたくない。新時代が災害の面で安寧であれば、天皇の役割が失われる、というのはやはり矛盾している。

明仁天皇は被災地訪問を通じて、国民に近しい皇室という昭和天皇とは異なるスタイルを自ら作り上げた。それは昭和天皇が戦前の天皇像を部分的に残し、国民も昭和天皇に戦前の天皇像の残滓を見ていた時代の後だったからこそ、強いインパクトがあった。一方、5月1日の即位後朝見の儀で徳仁天皇は「常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たす」と誓った。前天皇の姿勢を継承すると言ったわけだ。だが、前天皇と同じことをしても、前天皇と同じくらい評価されるものか否か? 今しばらく様子を見ないとまだ何とも言えない。

雅子皇后の健康状態が激務に耐えられるのか、という懸念も残る。皇室の仕事は長く続くものなのだから、新皇后には最初から無理されることのないよう、是非とも謹んでほしい。確かに、雅子皇后が健康状態故に公務を減らされれば、批判が多少なりとも出てくることは覚悟せざるをえない。だが、そうした批判に対しては別の批判も出てくるはず。プレッシャーの中で徳仁・雅子流の皇室像を作れるかどうかを国民は注視している。

雅子皇后が外交官出身ということもあり、新天皇・新皇后に対し、これまでとは一味違った皇室外交を期待する声も聞こえてくる。私も、そうした期待を抱かないわけではない。だが、令和の皇室外交は安全運転、かつペースを抑えて行うべきだ。被災地訪問など国内の公務よりも皇室外交に熱心である、と見られるようなことがあれば、新天皇に対する風当たりは一気に強くなりかねない。また、皇室外交が親善を超えて中身を伴うものになれば、天皇は知らず知らずのうちに政治の世界に足を踏み入れることになる。そうなれば、皇室外交を支持する国民もいる一方、批判する国民も必ず出てくる。天皇が政治的発言を行えば、象徴天皇制に対する国民の支持は必ず減ることになろう。

ゴシップ・ネタの類いだからあまり言いたくはないが、小室圭氏の母親の問題をはじめ、皇太嗣である秋篠宮家に関わる出来事も懸念材料だ。小室氏にまつわる話は何が本当なのか、私は知る由もない。だが、眞子内親王が小室氏と結婚すれば、将来の天皇の義兄やその母親が金銭トラブルを抱えたまま、説明責任すら果たさない、と少なからぬ国民は不快に思うだろう。もちろん、小室氏と眞子内親王は天皇家から独立した二つの人格である。好きあった二人が結婚するのは自由だ。しかし、世の中は、二人を独立した人格と見るのではなく、皇太嗣の娘、悠仁親王の姉とその彼氏、と見る。私の知り合いの中にも「こんな問題一つ解決できなくて、次の天皇家を信頼しろと言われても無理ですよね?」と言う人はいる。徳仁天皇は黙っていればよいと思うが、秋篠宮にとっては頭の痛い問題である。

後継者問題

政府は今秋以降、皇位継承問題の検討を進める意向のようだ。

現在、天皇の後継者は、皇位継承順位1位の皇太嗣(秋篠宮)、同2位の悠仁親王、同3位の常陸宮の3名のみ。常陸宮は徳仁天皇(59歳)の叔父で83歳だから、事実上、秋篠宮と悠仁親王の2名と言ってよい。秋篠宮は徳仁天皇の5歳年下であるため、仮に現天皇が80代で退位されれば、秋篠宮は前例のない高齢で即位することになり、在位の期間は短いと考えられる。先月20日付の朝日新聞は、秋篠宮がそのような事態においては皇位継承を拒否すると述べた、と伝えた。となると、皇位継承者は事実上、悠仁親王一人となる。徳仁天皇が80歳になる年に悠仁親王は34歳くらい。悠仁親王に男子がいなければ、天皇家は絶えてしまう。事態は深刻である。

今後の検討では、女性宮家の創設のみならず、女系天皇や女性天皇についても議論される可能性がある。今日発表された共同通信の世論調査では、女性天皇を認めることに賛成が79.6%、反対は13.3%であったと言う。実際には、保守派のすさまじい抵抗が予想されるため、女系天皇や女性天皇の実現は困難を極めると考えざるをえない。

令和以後の皇位継承の本当の問題は、皇位継承資格の拡大によって解決できる類いのものではないかもしれない。私の根本的な疑問は、悠仁親王であろうが、(女性天皇が認められた場合の)愛子内親王であろうが、果たして本人が天皇となることを望むのか、というものだ。明仁上皇や徳仁天皇までは、それが当たり前だったかもしれない。だが、21世紀に生まれ、現人神だった昭和天皇に会ったこともない若者が、周囲はすべて職業選択の自由を享受している中、一人、憲法や皇室典範の定めに従って天皇になる、という道を選ぶものだろうか? 例えば、悠仁親王が天皇に即位する場合は、30代から40年以上にわたって天皇の務めを果たさなければならない可能性が高い。親王がそれを望まないと考えたとしても、誰が責められようか?

保守派の中には、旧皇族の男系男子を皇籍復帰させるという解決策を提唱する者もいる。これをやれば、継承資格を持つ者の数は格段に増える。天皇になることを受け入れる者も探しやすくはなるだろう。でもそれは、大多数の国民にとって、どこの馬の骨だかわからない者が新天皇になる、ということを意味する。天皇に政治権力がない今、そんなやり方で天皇を選べば、象徴天皇制は国民の支持を失い、制度そのものが崩れ去るであろう。(少なくとも私は、そんな天皇を象徴と仰ぐ気にはなれない。)

象徴天皇制の下、皇位継承の問題は一義的には政府が考えるべきことだ。しかし、皇位継承は天皇家の存続の問題でもある。現実には、徳仁天皇も心を悩ませないわけにはいくまい。問題が議論される過程で、国内世論が分断されれば、象徴天皇に対する国民の支持が大きく揺るがされる可能性も排除できない。

 

以上、新天皇に対し、厳しいことばかり言いすぎたかもしれない。だが私は、徳仁天皇と雅子皇后を温かく、そして長い目で見守るつもりだ。

 

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