消費税引き上げ対策の虚しさ~終わりはあるのか?

1月4日、安倍総理の年頭会見をテレビで見るともなく見た。安倍は「頂いた消費税を全て国民の皆様にお返しするレベルの十二分の対策」を講じると力をこめていた。私の奥方は「そんなことするくらいなら、消費税、上げなきゃいいじゃない?」と突っ込んだ。それが普通の反応というものだろう。

対策を打たなければ上げられない消費税ねぇ・・・。新年早々、虚しさを覚えた。今回はそれについて書く。

10月には消費税が10%になる

今年の10月から消費税が10%に上がることになっている。ただし、永田町には「安倍総理はまた延期するんじゃないか?」と半ば本気で疑う空気がある。

2012年8月に民主党(野田政権)、自民党、公明党が賛成して成立した法律どおりであれば、消費税は2015年10月に10%へ引き上げられていたはず。しかし、2014年11月になって安倍総理は引き上げ時期を2017年4月まで延期した。2016年6月には2019年10月まで再延期。2014年は衆議院の解散・総選挙、2016年は参議院選挙とセットの延期表明だった。今年も夏には参議院選挙がある。衆議院の解散も理論上はいつでもできる。議員心理としては、増税延期と選挙のセットを警戒するのもわからないではない。

とは言え、10月まであと9ヶ月しかない。レジ対策やポイント還元制度などを含む政府予算案も提出済みだ。予算が成立した後、春以降に「また延期する」となれば、経済界の対応は大混乱する。税収等の見通しや幼児教育無償化、災害に対応した公共事業等の実施にも甚大な影響が出る。いくら安倍でも、さすがにそれは許されまい。「今月後半の通常国会冒頭解散」も含め、無理筋だ。リーマン・ショック級の経済危機が来れば別だが、株が2万円を切ったくらいでは予定通り10月には消費税を上げざるをえない――。そう読むのが冷静な見方と言うべきである。

消費税「対策」の数々

消費税率10%への引き上げに伴う景気への悪影響を本気で心配してのことか、はたまた参議院選挙対策なのかは知らないが、昨年あたりから消費税引き上げ対策なるものの議論が政府・与党内でかまびすしくなった。昨年末には、「消費税率引き上げに伴う対応」なるものが経済財政諮問会議で決まる。その中には、最初に耳にしたとき、冗談かと思った施策も含まれていた。くどくど説明するつもりはないが、簡単にまとめるとざっと以下のような構図となる。

まず、消費税率の引き上げによる国民の負担増(=経済へのネガティブな影響と考えてよい)は、軽減税率分等を除くと5.2兆円。

これに対し、消費税の増収分によって国民――全員が等しく直接的な恩恵を受けるわけではないが――が被る利益は、幼児教育の無償化や低年金者対策、介護人材の処遇改善等で約3.2兆円。後は基本的には「社会保障の安定化」という名目で基本的には借金返しに使われるのが本来の姿だ。経済や財政にとっても中長期的には決して悪い話ではない。しかし、目先の話としては、差し引き年2兆円程度、景気にマイナスの影響を与える。足踏みを続ける日本経済の現状を考えると、自然体でこの悪影響を飲み込むことはむずかしい。

そこで、政府が支出を増やすことで当面の穴を埋めよう、というのが今回の消費税引き上げ対策だ。その規模や、合計2.3兆円。消費税率引き上げによって増加する国民の受益分3.2兆円と合わせると5.5兆円となり、国民負担の増加分5.2兆円を超える。安倍が「頂いた消費税をすべて(どころかそれ以上を)国民に返す」と述べる所以である。

政府が国民のため、日本経済のために使ってくれると言う、ありがたい2.3兆円の中身は以下のようなものだ。

〇ポイント還元=2,798億円。2019年10月から2020年6月までの間、中小小売業者等で買い物をしてキャッシュレス決済すれば、2%または5%のポイントを還元するもの。5%なら、消費税引き上げ分(2%)を凌駕する実質値引きとなる。政府主催のポイント還元大バーゲンセール、と言ったところ。

〇プレミアム付商品券=1,723億円。2019年10月から2020年3月までの間、低所得・子育て世帯向けに2.5万円の商品券を2万円で販売する。要するに政府が5千円恵んでやるから使いなさい、というものだ。1999年に子育て世代や高齢の低所得者へ一人当たり2万円(総額6,194億円)を配り、効果のないバラマキと批判された地域振興券を思い出す。いずれも公明党のアイディアなのだから、それも当然か。

〇すまい給付金の拡充=785億円。低所得の住宅購入者に対し、10~50万円程度を2021年12月まで延長して支給する。

〇次世代住宅ポイント制度=1300億円。省エネ性、耐震性、バリアフリー性能等を満たす住宅購入について、2020年3月までに契約すればポイント(新築で30万円分)がつく。

〇住宅ローン控除の期間を3年延長。消費税増税分(2%)を3年間にわたって2/3%ずつ税額控除することを認める。

〇自動車所得時・保有時の税負担軽減等。

ここまでは個人消費の落ち込みをにらんだ消費テコ入れ策と言ってよい。だが、最後に次の大物が控えている。

〇防災・減災、国土強靭化のための緊急対策=2019年度分で1兆3,475億円。何のことはない、2018年度から20年度までの3年間、総額7兆円(事業規模)の公共事業をやる、という話だ。最近の災害の頻発を考えれば、本当にやるべきものは消費税引き上げに関係なく取り組まれてしかるべき。しかし、中身をみると災害対策に便乗した不急のものも少なくなさそう。金に色はついていないから、消費税を財源にして公共事業の大盤振る舞いを正当化した、と言われても仕方がない。

こうして並べてみただけで消費税引き上げ対策の趣味の悪さや悪乗りぶりには辟易する。だが、一連の対策にはもっと根深い問題がある。

対策をやめられるのか?

消費税引き上げ対策と称する施策の数々。その根底には、今後1~2年程度の間にアベノミクスの第2の矢、つまり大規模な財政出動――大部分は公共事業で残りは個人消費刺激策だ――によって日本経済を自律的な回復軌道に乗せ、2021年度までには消費税引き上げが与えるマイナスの影響(2兆円強/年)を吸収できるようにする、という考え方がある。

しかし、6年間もアベノミクス(=超金融緩和と大規模財政出動)を続けた結果、低速巡航速度を維持するのがやっとこさというのが日本経済の実力だ。不況ではないが、潜在成長率は0.8%に満たない。安倍政権のピーク(2014年4Q~2015年1Q)ですら、日本経済の潜在成長率は0.91%だった。バブルの頃の4%程度には遠く及ばず、その4分の1に届くことさえ高望み、という有り様である。今回、消費税引き上げ対策という名の新たな財政出動を打てば、消費税2%引き上げの与えるマイナスの影響を吸収しながら日本経済が十分な成長を続けられる、と想定することは限りなく非現実的だ。

対策のうち、個人消費を刺激するものは来年3月か6月に終わる。防災関連の公共事業も再来年の3月には終わる。消費税の引き上げから半年強たてば景気に約5千億円のマイナス効果が出はじめ、1年半たてば2兆円弱のマイナス効果が顕在化する、ということにほかならない。来年後半以降、オリンピック(2020年7~8月)後の景気後退と消費税引き上げ対策終了がダブルで効いてくる可能性が大きいと思っておくべきであろう。(米中貿易摩擦の激化等の影響はまた別の要素としてある。)

その先に何が来るのか? 来年か再来年、政府はまたぞろ大規模な経済対策を打つ羽目に陥り、その後も同じことを繰り返す、というのが最もありそうなシナリオだ。経済対策と称して財政出動がいつまでも続けば、いくら消費税率の引き上げによって社会保障の安定化(=借金返済)を進めても、日本の財政全体で見れば穴の開いたバケツ状態が続くことになる。

 

消費税を上げても増収分がブラックホールのように消費税対策に消えていく。しかも、対策の中身は悪趣味なものばかり。かと思えば、野党は「社会保障は充実させろ、消費税は上げるな」と矛盾だらけのことしか言わない。それくらいなら、消費税を上げないかわりに社会保障の充実や安定化を当面は我慢する、という政策の方がまだ筋が通っているんじゃないか。経済の身の丈に合わない社会保障制度をつくったところで、そんなものは所詮、長続きするわけがないのである。

海兵隊に頼る以外の選択肢~辺野古土砂投入に思う④

SACO合意(1996年)の頃には、在沖海兵隊の能力を維持することによって抑止力も維持される、という論理が成り立っていた。だが今日の安全保障環境の下では、いくら在沖海兵隊の能力を維持しても日本に対する侵略の抑止にはさほど役立たない。にもかかわらず、「日米間の約束事だから」という理由で日本政府が22年前の計画を完遂させようとひた走っているのはどうしたことか。間違った道をどんなに走っても、良くて徒労に終わり、悪ければ崖から落ちることになる。

四回シリーズの最後にあたる本ポストでは、海兵隊の海外移転という鳩山内閣よりもぶっ飛んだ提案を行う。ただし、左系の人たちと異なり、日本の自主防衛能力強化とのセットを条件とする。

発想の転換

過去20年余りの間、軍事の世界では情報技術と融合した兵器体系の革新が進み、戦域はサイバーや宇宙空間に広がった。その結果、遠く離れた場所からピンポイントでミサイル攻撃を行うことが可能なミサイル新時代が到来している。

人民解放軍は軍備の近代化を進めて自衛隊を質量ともに凌駕するに至り、その軍事能力は世界最強の米軍も真剣に憂慮せざるをえない水準に達した。北朝鮮についても、総合的な軍事能力こそ遅れているものの、核ミサイルの開発・配備によって「窮鼠猫を噛み殺す」事態を懸念しなければならなくなった。

このような新しい状況下では、前回見たとおり、これまで期待してきたほどの抑止力を在沖海兵隊に期待することはできない。日本にとって最も懸念される尖閣有事についても、海兵隊をはじめ、在日米軍が自衛隊と一緒に前線で戦ってくれる可能性は必ずしも高くない。

安倍総理や菅官房長官たちには、そのことが見えていないようだ。それどころか、「中国の脅威がますます募る中、在沖海兵隊という軍事力を沖縄に維持することが日本の安全保障にとってプラスになる」と信じこんでいるように見える。「軍隊がいれば安心、いなくなれば不安」という心理は人間の心に馴染みやすい。しかし、それに囚われて思考停止しているようでは、両人とも並みの政治家にすぎない。

では、どうすべきなのか? 決まっている。米軍があてにならないのなら、自助努力しかないではないか!

自前の抑止力に現実味が出てきた~22年前とのもう一つの違い

こういう発想がこれまで出てこなかったのも、やはりSACO合意の呪縛と言うべきだろう。戦後日本は憲法9条の下で専守防衛に徹することを国是とし、日米同盟は「米軍が矛、自衛隊が盾」の役割分担である、と考えてきた。SACO合意(1996年)やロードマップ(2006年)もその前提で在日米軍の再編計画を組み立てた。

相手の攻撃を抑止するためには、「攻めてきたらお前も痛い目にあうぞ」という脅しが効くことが必要だ。しかし、日本は戦後、憲法上の制約から海外派兵を禁止してきたうえ、能力的にも相手の領域を攻撃できるような兵器体系を持っていなかった。そこで、相手を攻める「矛」の役割は米軍が果たし、自衛隊は主に日本の領土内で防衛にあたる、すなわち「盾」の役割を果たす、という役割分担ができあがったのである。

この役割分担が不動である限り、普天間飛行場返還の条件である「抑止力維持」を満たすためには、米海兵隊の維持(=県内への飛行場の引っ越し)以外の結論はありえない。SACO合意の時もまさにそうだった。しかし、今は事情が随分変わってきている。

1992年に国際平和協力法が成立。以来、自衛隊は27の国連平和維持活動(PKO)に派遣された。その中には、南スーダンのように国際常識的には戦地とみなされる場所も含まれている。自衛隊派遣の実績は国連以外の枠組みでも積みあがってきた。2001年のテロ特措法によってインド洋上に、2003年のイラク特措法によってサマワに、それぞれ自衛隊が派遣されている。この間、一人も殺さず、一人も殺されていないとは言え、「戦わない軍隊」と呼ばれた自衛隊が着々と実戦経験を積んできたことは否定できない事実だ。2015年9月には安保法制が成立し、翌年3月から施行された。集団的自衛権行使の容認ばかりが注目されがちだが、これによって特別措置法をいちいち成立させる必要がなくなり、自衛隊海外派遣のハードルが下がったことの意味も非常に大きい。

自衛隊は、その兵器体系の面でも「矛」の要素を徐々に持ちはじめている。先月閣議決定した最新の防衛大綱では、事実上の空母――「多用途運用護衛艦」と呼ぶんだそうである――運用を打ち出した。ステルス性能の高いF-35Bを艦載すると言うから、南西方面での作戦能力は確実に向上するだろう。中国に逆転されていた航空戦力面でも、新型戦闘機F-35の配備予定数を従来の42機から約100機上積みした。さらに、スタンド・オフ・ミサイルの保有。ノルウェー製の対艦・対地ミサイル「JSM」は射程約500 km、米国製の対艦ミサイル「LRASM」と対地用ミサイル「JASSM」の射程は約900 kmだと言う。後者であれば、日本の領土内から撃って北朝鮮の全域に届き、沖縄から撃てば上海も射程に収めることになる。防衛省はそんな運用の仕方はしないと言っているが、少なくとも自衛隊がそれだけの能力を持つようになる、ということは紛れもない事実である。

二十数年前と比べれば、日本(自衛隊)は明らかに矛の役割を果たせるようになってきたと言える。もちろん、自衛隊に広大な中国本土を叩くことは不可能だ。(そんなことをすれば、大規模ミサイル攻撃が日本を襲うことになりかねない。)しかし、尖閣有事の際に中国側に大きな打撃を与えることは、自衛隊の能力増強とやり方次第によっては、十分に可能だろう。前回述べたように、中国が尖閣侵攻を企てるとすれば、局地戦を想定する可能性が高い。そこで手痛い反撃を受けると思わせるだけの能力を自衛隊が身につければ、自前で抑止力を向上させる芽が出てこよう。

自前の防衛力強化と辺野古埋め立ては両立しない

自前の防衛力を強化するためには、言うまでもなく、カネがかかる。F-35を1機購入するのに100億円かかるとして、100機の追加購入だけでも単純計算で1兆円かかる。潜水艦を含め、ほかにも欲しい装備はいくらでもある。

日本の財政事情は22年前よりも一層悪化し、最近も好転の兆しを見せない。アベノミクスとやらが成功した(?)はずなのに、日本経済は今後も低成長が続くと誰もが予想している。一方で、少子高齢化に歯止めがかからず、社会保障費はまだ増え続けることが確実だ。増加する防衛費を捻出するための打ち出の小槌はどこにもない――。この状況下では、自前の防衛力強化と辺野古代替施設の建設を同時に追求することが矛盾をはらんでいることは火を見るよりも明らかだ。

辺野古の代替施設建設にかかる経費は、当初3,500億円程度と言われていた。だが、日本の公共工事が当初予算どおりで完成するわけがない。沖縄県は総工費を2兆5,500憶円――積算根拠は大雑把だが、結果的に大きくはずれてはいないだろう――と見積もる

これだけの巨額の金を注ぎ込んで辺野古に新飛行場をつくった挙句、海兵隊の提供する抑止力は低下し続け、本当に尖閣有事が起こった時に海兵隊が投入されるかどうか定かではない。何ともやりきれない話だ。

工費が仮に2兆円として、それだけあれば、自前の防衛力整備をどれだけ進めることができることか。兵器体系にお金を使えば、我が国の防衛力は確実に向上する。だが、海に土砂を投入しても、業者にカネを落とすだけ。日本政府、政治家、知識人たちには、こんな至極単純な現実がどうして見えないのか?

米軍に頼る以外の選択肢=海兵隊の海外移転と日本の自助努力

一月ほど前、テレビで辺野古に土砂を投入するダンプカーとブルドーザーの映像を見て何となく書き始めたこの論考。普天間・辺野古問題について私の提案を以下に述べ、ひとまず筆をおくことにする。

普天間の危険性の除去と抑止力の確保を両立させることを目的としている点において、私の提案は22年前のSACO合意と同じだ。ただし、普天間の危険性の除去は普天間飛行場の県内移設ではなく、在沖海兵隊全体の海外移駐による。抑止力の確保は在沖海兵隊の維持ではなく、日本の自前の防衛力増強によって実現する。提案は3つの柱からなる。

辺野古埋め立てを含む移設工事を中止し、自前の防衛力増強を進める

過ちては即ち改めるに憚ることなかれ。工事は日本政府が行い、費用も日本政府が持っているのだから、日本政府の決定によって工事は速やかに中止すべきだ。工事が進めば進むほど、政治的にも財政的にも引き返せなくなる。辺野古が八っ場ダムの二の舞になれば、悲劇だ。

同時に、工事中止で浮く費用を防衛予算の増額に回す。必要とあらば、ディールの一環として、米国からの武器調達を増やすことも考慮してよい。

短期的には、普天間飛行場へのクリア・ゾーン導入を米国に求める

辺野古につくられる新滑走路の長さは1,800メートル以下。そこで、現在2,740メートルある普天間飛行場滑走路の両端を短縮し、その短縮分と基地の敷地を利用してクリアゾーン(CZ)を導入する。(ただし、米国国内のCZ基準をそのまま当てはめると周辺住宅の立ち退き等の問題も出かねないため、普天間周辺の実情に合わせて柔軟に考える必要がある。)基本的には工事も不要のはず。
普天間に飛行場が残る限り、危険性はゼロにはならない。だが、普天間の危険性は確実に(かつ直ちに)減少する。ちなみにこれは、伊波洋一(現参議院議員)が宜野湾市長だった時に主張していたアイデアである。

在沖海兵隊について、10年後の海外移設を米国に要求する

県外であれ、県内であれ、今日の安全保障環境下で海兵隊を日本国内に置いておくことの意義は低下している。海兵隊の一体運用性を考慮すれば、普天間飛行場だけを切り離して県外(本土)や海外に移設するという選択肢はない。したがって、米国に求めるのは海兵隊全体の海外移設、ということになる。有事の際に海兵隊が来援できるよう、最低限の施設は(返還を求めずに)残しておくことは一考に値いしよう。
グアムか、ハワイか、オーストラリアか、米本土かなど、在沖海兵隊をどこに移設するかは米国が決めることだ。日本が関知する必要はない。
もちろん、上記の要求に米国が不快感を示す可能性は小さくない。いや、米国は間違いなく日本の約束違反を責め、民主党政権時代のように日米関係が悪化することも十分に考えられる。それでなくても、人間の感情として、「出て行け」と言われればいい気はしない。しかも、既に述べたとおり、米国にとって沖縄には海兵隊がグローバル展開する際の拠点としての重要な価値が今もあるのだ。
だが、我々も背に腹は代えられない。「約束を違えても自らの考える国益に正直であれ」と教えたのはトランプ大統領である。このまま、抑止力が落ちた海兵隊の引っ越しに兆円単位の金を費やすほど、今日の日本には余裕がない。中国は経済力のみならず、軍事力でも日本を追い越し、戦略的な膨張を続けている。北朝鮮の核・ミサイル問題は日本にとって何一つ解決しておらず、韓国との関係も冷却の一途を辿っている。抑止力の観点から費用対効果の低い海兵隊の引っ越しをとりやめ、その予算を自前の防衛力強化に回さないと、我が国の安全保障は本当に立ち行かなくなる。
中国が精密誘導ミサイルを実戦配備するに至った今日、沖縄という中国の近場にある、埋め立てられて固定された基地(=辺野古飛行場)は有事に際して脆弱なことこのうえない。日本近辺の守りについては自衛隊の役割を増やす一方、在沖海兵隊は狙われやすい沖縄から離れ、有事の際にのみ来援する、という戦略は米国にとっても検討の余地は十分にあると考えてもよい。

 

 

いわゆるリベラル系の人たちにとって私の議論は、安倍政権の推し進める辺野古埋立て以上に危険な考えと映るかもしれない。しかし、中国の平和的とは言えない台頭が続く限り、「米軍は出て行け、日本が防衛努力を増やす必要はない」というユートピア的な主張を唱えたところで、SACO合意やロードマップの代案とはならない。結果的に辺野古の埋め立てが止まることもない。

沖縄であれ、本土であれ、政治的にリベラルでない人たちはここらで発想を変え、自主防衛と海兵隊撤退をセットで政府与党に突きつけてやってはどうか? あとは覚悟の問題だ。

海兵隊の持つ抑止機能は低下した~辺野古土砂投入に思う③

20年以上前と現在とで、日本の安全保障にとって在沖米軍の存在意義は大きく変わったのか、それとも基本的には同じなのか? 比較論考の本筋に入っていきたい。

20年前:抑止の対象

1996年も今も、抑止の対象は中国と北朝鮮と言ってよかろう。ただし、中国や北朝鮮のもたらす(潜在的な)脅威の深刻さは、当時と今とでは大きく異なっている。私の記憶では、米国は21世紀を迎えてもしばらくの間、中国や北朝鮮を脅威と呼ばず、地域の安全保障環境に対する不透明性と呼んでいたはずだ。

1995年から96年にかけ、中国は台湾に圧力を加えるためにミサイル発射を繰り返していた。SACO合意の頃には既に、中国が東アジア・西太平洋地域の不安定化要因になるという漠然とした認識は既にあったと言えよう。しかし、当時の中国の軍事力は、冷戦後に名実ともに世界最強となった米軍の足許にも及ばないものだった。実際、クリントン政権が台湾海峡に空母を派遣すると中国は黙るしかなかった。この当時、尖閣諸島を巡って日中が衝突していれば、局地戦にとどまる限りは日本単独で中国側を撃退できたものと思われる。

北朝鮮はどうか? 遅くとも1990年代になると平壌が核兵器やミサイルの開発を行っていることはわかっていた。北朝鮮が地域の不安定化要因の一つであることは当時も明らかだった。だが、北朝鮮の経済的な停滞は誰の目にも明らかで、金王朝は早晩崩壊するという見方も少なくなかった。2006年になると北朝鮮は最初の小規模な核実験を実施した。しかし、核弾頭の小型化などを実現し、(わずか十数年後に)核ミサイルの実戦配備にまでたどり着くとは誰も本気で心配しなかった。北朝鮮のミサイル開発は(1998年のテポドン発射を除けば)スカッドやノドンが中心。米本土はおろか、ハワイ・グアムにも届かなかった。

20年前:海兵隊と抑止

1996年当時、在沖及び在日米軍は、自らは潜在的の攻撃から安全な場所に身を置きつつ、中国や北朝鮮の挑発的な動きに睨みを利かすことができた。在沖海兵隊も、その機能の一部である普天間飛行場が辺野古沖へ移動し、滑走路が短くなって運用上多少の制約が生じたとしても、どうということはなかった。もちろん、日本国内の引っ越し費用は日本政府が負担することになっていたので、米国政府の懐が痛むこともなかった。(海兵隊のグアム移転費用については、日米が分担することになった。)

現在:抑止の対象

今はどうか? 中国経済は2010年頃まで基本的には二桁成長を続け、最近も6%台後半の成長ペースを維持。それに伴って国防費も膨張した。この間、軍事と情報技術の融合がトレンドとなり、サイバーや宇宙分野を含め、中国は人民解放軍の近代化に熱心に取り組んだ。今や中国は第五世代と呼ばれる最先端の戦闘機を圧倒的な量で揃えたのみならず、自衛隊基地や在日米軍基地、さらには自衛隊や米軍艦船をピンポイントで正確にミサイル攻撃する能力を備えるに至った。現時点で人民解放軍の方が米軍よりも強い、と言うつもりはない。だが、万一両者が戦えば、米軍も相当な犠牲を覚悟しなければならない状況になっていることは確かである。

中国の軍事力が総合力で米国をキャッチアップしてきたとすれば、北朝鮮は核ミサイルという一点豪華主義で米国に対抗しようとしている。北朝鮮は近年、水爆実験さえ行ったと主張しており、核弾頭の小型化も相当進んだと考えられている。ミサイルもIRBMやICBMの実験を繰り返して行い、グアムやハワイのみならず米本土をも射程に含んだ可能性が高い。もちろん、米軍と北朝鮮軍の戦力差は歴然としており、両者が交戦状態に入れば、北朝鮮軍は米軍に蹴散らされることであろう。だが、緒戦段階で日韓両国や米本土までが核ミサイル攻撃を受ける可能性は厳然として残る。

では、この状況下で海兵隊を含む在沖米軍が提供してきた抑止力はどうなるのか? 想像力を具体的に働かせてみたい。

 現在:海兵隊と北朝鮮の抑止

北朝鮮による対日攻撃があるとすれば、基本的には米朝が何らかの理由で――偶発的な衝突がエスカレートした場合や、米国が北朝鮮の核・ミサイル能力を除去するための先制攻撃に踏み切った場合等が考えられる――交戦状態に入ったときだ。開戦が迫れば、北朝鮮が自らを攻撃する拠点となる在日米軍基地をミサイルで叩いておきたい、と考えることには軍事的な合理性がある。辺野古を埋め立てて造った滑走路を含め、固定された標的が狙われやすいことは言うまでもない。北朝鮮が複数のミサイルを同時発射してくれば、ミサイル防衛があっても防ぎきれないだろう。(ただし、通常弾頭ミサイルによる攻撃であれば、施設が破壊され尽くすというわけではない。)

ではこの時、沖縄に海兵隊基地があれば、北朝鮮は日本へのミサイル攻撃を思いとどまる――つまり、抑止される――だろうか? 平壌が日本攻撃に踏み切るとすれば、米軍による大規模攻撃――緒戦段階では、米軍の航空機による空爆や艦船からのミサイル攻撃が物量にモノを言わせる形で行われるだろう――が不可避だと思うからこそ、粟を食って(被害を少しでも減らそうと考えて)在日米軍基地を叩こうとするのである。数千人の海兵隊がいようがいまいが、金正恩の判断に影響はない。

 現在:海兵隊と中国の抑止

私は、中国が日本の領土に大々的な攻撃を仕掛けてくることはない、と思っている。だが、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス油田開発に絡んだ衝突が起こる可能性は否定できない。

軍事的に尖閣を獲りにくる場合でも、事態がエスカレートして日中の全面的な軍事衝突に発展しても構わない、とは中国も考えていないはず。在日米軍がいるからという以前の問題として、尖閣にそこまでの価値はないからだ。

偶発的な衝突を除いて、尖閣や油ガス田絡みで軍事行動を起こす場合、中国は自らの行動に対して米軍が軍事介入しないと考えている可能性が高い。米国は日米安保条約第5条が尖閣諸島に適用されることを繰り返し強調している。しかし、第5条の適用と米軍が中国軍と戦火をまみえるということは同義ではないうえ、尖閣諸島の領有権については米国も中立姿勢である。絶海の無人島をめぐって中国軍と戦い、自国兵士の生命を危険にさらすより、中国軍とは自衛隊に戦わせ、自らは後方に控えておきたい、と米国大統領が考えたとしても、少しも不思議ではない。

米国が尖閣有事に本格的に軍事介入すれば、沖縄のみならず日本中にある米軍基地が中国の攻撃にさらされる。米艦船でさえ、中国が持つ精密誘導ミサイルで攻撃されれば、防ぎきれないと考えられているのだ。米軍と互角ではないまでも十分に強くなった中国軍と戦うことは、タリバンやフセインのイラク軍、あるいはシリア軍と戦うのとはわけが違う。ロシアがクリミアを併合した時も、米国は軍事介入を検討していない。奇妙な話に聞こえるかもしれないが、尖閣有事が起きた場合、それを局地戦にとどめることに関して米中の利害は一致するかもしれないのである。

尖閣有事が局地戦にとどまるのであれば、在沖海兵隊が尖閣奪還を命じられることもない。在沖海兵隊が尖閣有事を抑止するというロジックは、まったく無意味とは言わないまでも、相当に説得力が低いと感じられるのだ。

では、尖閣有事が日中の全面戦争にエスカレートする場合はどうか? その時は在日米軍基地がある故に米国も軍事介入を決断せざるをえない可能性が高まる。ただし、在沖海兵隊の有無によって米国大統領が下す決断の内容が変わることはない。(米国にとってより重要な基地はほかにいくつもある。)

中国にしても、事態をエスカレートさせるか否かを考える際に考慮すべき米軍兵力は、嘉手納(空軍)や横須賀(海軍)であり、在沖海兵隊1万数千人(グアム移転後)は大きな要素ではあるまい。普天間飛行場(将来は辺野古代替施設)や佐世保基地を集中的にミサイル攻撃すれば、海兵隊の機能は麻痺する。いずれにしても、中国との戦いでモノを言うような陸上兵力は米本土から(陸軍と海兵隊を)持ってこないと話にならない。

在沖海兵隊の存在によって中国の尖閣攻撃を抑止できる、というロジックはここでも分が悪そうに見える。

ついでにもう一言。台湾や南シナ海で米中が軍事諸突すれば、日本が巻き込まれる可能性はもちろん、ある。しかし、台湾問題で中国が武力行使に踏み切るのは、台湾が独立志向を強め、放置すれば中国共産党の正統性が揺らぐ時である。いわば面子の問題であり、米軍との勝ち負けは主要な判断材料にならない可能性が高い。沖縄駐留の海兵隊を怖がって手出しをやめる、ということも当然ない。南シナ海有事についても、多かれ少なかれ、同様のことが言える。

なぜ、辺野古埋立てなのか?~辺野古土砂投入に思う②

辺野古土砂投入を受け、前回は主に政治的観点からの感想を書いた。本ポストからは、辺野古を埋め立てて米海兵隊用の海上飛行場をつくることの軍事的合理性について考えてみる。

日米両政府とも、辺野古の埋め立てが唯一の実現可能な解決策だと主張してきた。我々もそれを大枠で受け入れてきた。しかし、ここ数年来の軍事技術の進展と西太平洋地域における安全保障環境の変化はめまぐるしい。

20年以上前に下した決定は、今も唯一の現実的な選択肢なのだろうか?

 危険性除去と抑止力維持

まず、辺野古に米海兵隊のための飛行場を作る目的をおさらいしておきたい。

歴代政権が強調してきたのは、米海兵隊が運用する普天間飛行場の危険性を除去することだ。行ってみればわかるし、Googleの航空写真を見ても十分にわかるとおり、小学校を含め、無数の家屋が飛行場を取り囲むように建っている。騒音は言うまでもなく、万一事故が起きれば、大惨事になることは想像にかたくない。2003年にラムズフェルド国防長官(当時)が世界一危険な米軍施設だと言ったのも十分に頷ける。

1995年9月に起きた米兵(海兵隊と海軍)による少女暴行事件を受け、沖縄県民の反基地感情が高揚した。翌年12月、橋本龍太郎政権の時に日米両政府は所謂SACO合意を結び、普天間飛行場を沖縄本島東海岸沖に移設した後、返還することが決まる。言葉は悪いが、日米両政府は沖縄県民を懐柔するために「普天間飛行場の引っ越し」を決めたのだ。

しかし、この「引っ越し」には条件が付いた。「普天間飛行場の重要な軍事的機能及び能力は今後も維持すること」である。これを称して「抑止力の維持」という言葉が頻繁に使われるようになった。

在沖海兵隊は、普天間飛行場に加え、地上戦闘部隊、兵站基地、司令部、演習場が一体となって機能している。飛行場のみを遠くへ持って行っても軍事的に意味をなさない。こうして、「普天間飛行場は引っ越さなければならない」→「でも、抑止力は落とさない」→「新しい飛行場は沖縄県内でなければならない」→「 陸上に適地がない以上、海を埋め立てるしかない」→「辺野古が唯一の実現可能な選択肢」という論理の鎖が出来上がった。

なお、正確を期するために言えば、辺野古への移設によって在沖海兵隊の能力はいくらか低下する、と見るのが本当は正しい。在沖海兵隊の規模縮小もさることながら、辺野古につくる滑走路が普天間よりも短くなり、運用上の制約が加わるためである。

太田昌秀知事(当時)はSACO合意の内容を聞かされた時、「嬉しく思う反面、県内への代替施設が必要と聞いて、喜びが半減せざるを得なかった」と思ったという。沖縄県民のすべてが合意を歓迎したわけではないが、一歩前進という見方もできた。SACO合意を正面から否定することはできない、という雰囲気が沖縄にもあったことは否定できない。

一方、本土の人々は当時、諸手をあげてSACO合意を歓迎した。特に永田町では、「普天間飛行場の危険性の除去」は政治的な意味における「錦の御旗」になった。SACO合意を支持することは日米安保体制を支持することを意味した。代替施設の建設に反対すれば、「海兵隊の普天間居座りを許すつもりか?」と批判されて口ごもらざるをえないという構図も生まれた。県外移設を希求した鳩山由紀夫も、「普天間飛行場の引っ越し」という意味ではSACO合意の延長線上でもがいたにすぎない。この流れは今も続き、安倍政権は言うに及ばず、現在野党第一党の立憲民主党もSACO合意に両足を突っ込みながら洞が峠を決め込んでいるのが実情だ。

2006年5月のいわゆる「日米ロードマップ」によって、普天間の代替飛行場は辺野古を埋め立ててつくることが決まった。それは、「普天間飛行場の危険性の除去」という政治的な錦の御旗と「在沖海兵隊の抑止力維持」という軍事的な錦の御旗を掲げた結果にほかならない。

問題意識=20年前の前提は現在も生きているのか?

人口密集地にある普天間飛行場の危険性は除去しなければならない。中国の軍事的台頭や北朝鮮の度を越した挑発行動を見れば、米軍の抑止力は維持しておきたい――。だから私も長い間、辺野古の埋め立ては「仕方がない」と思ってきた。でも、最近は何かモヤモヤ感が出てきた。

考えてみれば、SACO合意は1996年12月。今から22年も前に決めたものだ。普天間飛行場の代替施設の完成と同飛行場の返還も5年から7年後、つまり、どんなに遅くても2005年までには実現することになっていた。「危険性除去と抑止力維持」のロジックに隙がないと思ったのは、当時の安全保障環境を前提にしていたからにほかならない。

安倍政権になって埋め立て工事に着工したとはいえ、普天間飛行場代替施設の完成は2025年以降になると見込まれている。今日の安全保障環境は22年前に比べて大きく変化している。今後はもっと大きく変わるだろう。絶対に正しいと思われてきた「危険性除去と抑止力維持」のロジックで今も突き進んでいいのか、というのは正当かつ根本的な疑問であるはずだ。

もちろん、20年たったからと言って、普天間飛行場の危険性を放置してもよい、ということにはならない。しかし、在沖海兵隊の抑止力維持はもはや錦の御旗たりえないのではないか――? 私はそう思い始めている。

在沖海兵隊の存在意義

そもそも、在沖海兵隊の存在意義は何なのか? 日本では「抑止力」が独り歩きしているが、米国にとって(在沖海兵隊に限らず)在日米軍基地の軍事的な意義は、大きい順に①グローバルな兵力展開拠点、②抑止、③日本防衛、である。ちなみに米ソ冷戦期は、極東ソ連軍(特に核ミサイル搭載潜水艦)の封じ込めが最重要の任務であった。

米軍は、かつてはベトナム、近年はアフガニスタン、イラクを含む中東など、世界各地で作戦行動に従事している。在日米軍基地は米本土等から作戦対象地域へ派遣される四軍の中継、兵站基地の役割を担ってきた。フィリピンにあった海軍基地と空軍基地から撤退して以降、中東方面とハワイ・米国太平洋岸の間で米軍が信頼を置ける基地は、日本以外には存在しない。(在韓米軍基地の任務は韓国防衛の比重が高い。)単に地理だけの問題ではない。日本が提供する優れた工業技術力は米兵力のメンテナンスにとって極めて有用だ。兵士や家族の生活環境という面でも、日本は申し分がない。さらに、駐留経費の8~9割を日本側が負担しているため、エコノミーでもある。

海兵隊に関しては、米本土を含めたローテーションの中で沖縄に集結し、広大な演習場等を使って訓練を積み、練度をあげてから実戦に投入される。一定期間戦ったら、沖縄(や米本土)に戻って休息をとる。在沖海兵隊は、飛行場(普天間)、地上戦闘部隊等(キャンプ・ハンセン、キャンプ・レスター、)、兵站基地(キャンプ・シュワブ、キャンプ・キンザー)、司令部(キャンプ・コートニー)、演習場(北部演習場等)が比較的狭い区域にまとまっていなければならない、と先に述べた。その最大の目的は米軍のグローバル展開のため、というのが本当は正しい。

では、在沖海兵隊の持つ抑止力とは何か? 抑止とは、潜在的な敵国がこちら(この場合は日本)を攻撃したら、米軍が大規模な報復を加えると思わせることによってその攻撃を未然に防ぐこと。一旦攻撃されてしまえば、抑止とは言わず、防衛の段階に移行する。要するに、在日米軍基地が存在するが故に、日本のみならず西太平洋地域で潜在的な敵国は「わるさ」をすることを思いとどまる、と期待されているのが抑止力だ。

在日米軍基地がなければ、アフガニスタンを含めた中東での作戦行動に大きな支障が生じる。米国にとって、米軍のグローバル展開のためのプラットフォームとしての役割が最も重要だ。米国で識者連中に聞けば、ほぼ全員がこのことに同意する。しかし、そのことを強調すれば、「在日米軍基地は一義的には米国のために存在する」ということになって日米の外交防衛当局にとっては塩梅が悪い。そこで、「在日米軍は日本への攻撃を抑止し、一旦有事になれば日本を防衛するために存在する」ということが強調されてきた。

在沖海兵隊にせよ、嘉手納空軍基地にせよ、兵力展開拠点、抑止、防衛といった役割のうち、どれか一つだけを持っているわけではない。兵力展開が最重要であっても、米軍の存在が抑止力となり、攻撃を受けたら日本防衛の任にあたることになる。在日米軍基地が日本攻撃に対する抑止力となっているという議論そのものは、嘘ではない。

本当の問題は別のところにある。今日、在沖米軍の持つ抑止力の意味付けや効能そのものが大きく変わりつつあり、将来はもっと変わっていくに違いない。それなのに、22年前の計画を惰性で進めてしまってよいのか――? それこそが問われるべきだ。

辺野古土砂投入に思う~政治編

12月14日、政府は辺野古埋め立ての土砂投入を開始した。10月8日のポストで、辺野古の埋め立て阻止は茨の道だと書いたが、事態はまさにその通りに進行している。
ダンプカーが土砂を運び、ブルドーザーがそれを辺野古の海に向けて落とすニュース映像を見てから1週間。この間に思ったことがあるので、今回は政治の視点、次回は軍事戦略の視点で書き留めておきたい。

沖縄の民意を無視しても許される政治 

何とあっけないことか――。辺野古土砂投入の報に接して最初に持った感想である。かつては、沖縄の民意が辺野古の埋め立てに反対しているのに土砂投入を強行するなど、政治の常識として考えられないことだった。それがどうだ? 今や、政府が沖縄の民意を無視することは当たり前のように行われる時代となってしまった。

普天間飛行場の代替基地は辺野古を埋め立てて建設する、という現行案は2006年5月の「日米ロードマップ」で決まった。その後、沖縄県が容認しない限り、政府は埋め立て工事を強行することはできない、と長らく考えられていた。

一つは技術的な理由。埋め立てには県知事の承認が必要。仲井眞弘多知事(当時)の本音は埋め立て賛成だったが、県内世論を慮って承認に踏み切れない状態が続いた。

もう一つは政治的な理由。小選挙区制の導入や参議院での与野党逆転により、政権交代の可能性が常に現実のものと考えられていた時代。沖縄の民意を無視して埋め立てを強行すれば、時の政権は沖縄のみならず全国的な世論の批判を受け、立っていられなくなるとほとんどすべての政治家が信じていた。

前者については、2013年12月に仲井眞がついに埋め立てを承認し、一時的にクリアされた。だが、その1年後に翁長雄志(故人)が仲井眞を大差で破って知事になると沖縄県(知事)は辺野古の埋め立て反対に立ち戻った。その姿勢は現在の玉城デニー知事にも受け継がれている。

沖縄の民意を考えれば、仲井眞の退場によって辺野古の基地建設は再び停滞してもおかしくなかった。だが、安倍政権は違った。沖縄防衛局が埋め立て着工に向けて調査や準備を進めたのに対し、翁長は何度も執行停止をかけたが、政府は行政不服審査請求を行って沖縄県による執行停止を次々と無効にした。去る9月、沖縄県がついに埋め立て承認を撤回した際も同様の措置がとられた。先週の土砂流入はこの時点でもう既定路線になっていた。

沖縄の民意を無視できる理由

なぜ、安倍政権はここまで沖縄の民意――すべての沖縄県民が辺野古基地建設に反対しているわけではないが――を無視できるのか? 菅官房長官や安倍総理に言わせれば、普天間飛行場の危険性除去のためには、不退転の覚悟で辺野古基地建設に邁進するしかない、ということになるのだろう。だが、その説明は綺麗ごとにすぎる。

安倍政権の愚民思考

安倍政権の根っこには、「既成事実を作れば、沖縄は諦め、最後は従う」という考えがある。安保法制の時も、「法案を成立させてしまえば、今は反対している国民もやがては受け入れる」と考えていた。長いものに巻かれやすい日本人の国民性を見越した、一種の愚民思考とも言える。

安倍たちの思惑どおり進んでいる部分のあることは、残念ながら否定できない。フランスではマクロン政権による燃料税引き上げへの反発から1か月以上もデモが続き、一部は暴徒化してマクロン大統領も譲歩を余儀なくされた。日本では安保闘争以来、そんな激しい抗議活動は起きていない。

本土の無関心

12月14日の土砂投入は、沖縄県民が何度も示してきた民意を決定的に裏切る行為だ。しかし、本土のメディアは比較的冷静にそのニュースを伝えていたように思う。あれからまだ1週間も経っていないが、新聞やテレビが土砂投入の現状を詳しく報道することは(私が知らないだけかもしれないが)早くもなくなっている。

野党も概して「ぬるい」対応だった。立憲民主党と国民民主党は、記者会見で憤りを表明したが、「来年2月の住民投票の結果を待て」というニュアンスの弱い反対姿勢。共産党は緊急街宣、社民党は党声明で反対を訴えたが、維新の党や希望の党のホームページには何も載っていない。

沖縄の沈黙

 辺野古土砂投入に対する沖縄県内の反応でさえ、私個人の印象では比較的穏やかなものに見える。それは沖縄県民の絶望の裏返しかもしれないのだが、本土の人たちが沖縄の基地問題をニンビー(Not In My Backyard)とみなす傾向に拍車をかけていることも事実だ。

安倍一強

国会の政治状況も安倍に味方している。与野党が国会で伯仲状況にあったり、次の選挙で衆議院の過半数割れを危惧せざるをえない状況だったりすれば、政府が行政不服審査請求を行って沖縄県の権限を無効にするという無理筋のやり方を繰り返すことなど論外だったはず。しかし、自民党が国会で圧倒的な多数を占め続け、野党は魅力に乏しいうえにバラバラ、自民党内にも安倍の有望なライバルが見当たらないという状況が続いているため、安倍は沖縄問題で世論の反発に鈍感でいられる。現在、沖縄における自民党の国会議員は3名――衆議院選挙区1名、比例復活2名。参議院議員はいない――のみ。仮にゼロになっても、安倍一強はびくともしない。

全国レベルの世論調査では、辺野古土砂投入について反対が5割弱から6割、賛成が3割前後といったところ。だが、この5割弱から6割の反対意見の持ち主は、フランスのようにデモを行うわけでもなければ、次の選挙で非自公候補に投票するわけでもない。その意味で世論調査が示す数字は、安倍にとって痛くも痒くもないだろう。

政治的タブーのない政治へ向かう

かくして、安倍は沖縄県の意向にお構いなく、埋め立てを強行できる状況が続いている。それが止まる兆候はまったく見られない。

トランプが登場して非常識と思われる公約を打ち上げた時、「そんなこと、できるわけがない」と多くの人が思った。今や、トランプの「変な政策」が実行されても、我々はいちいち驚かなくなっている。だが日本でも、トランプ大統領が登場するよりも前から徐々に同じことが起こりつつあったのだ。12月14日の土砂投入を目の当たりにした国民の多くも、「ついに来たか」という醒めた感覚だったと思う。

政治的に正しいかどうかの常識が日本でも崩れてきた――。辺野古に土砂を流し込んだダンプカーとブルドーザーはそのことを象徴していた。そして、納得のいかない政策は沖縄県民だけに降りかかるわけではない。
安保法制が制定される過程で、憲法改正ではなく、解釈変更で集団的自衛権の行使を容認するという滅茶苦茶がまかり通ったことはまだ記憶に新しい。イージス・アショアの導入をめぐっては、秋田県や山口県の人たちは、今の沖縄県とよく似た立場に追い込まれるだろう。

この政治潮流を我々は押しとどめることができるか? おそらく呑みこまれてしまう可能性の方が高いのだろう。

次の代替わりに伴い、「天皇制のあり方」も変わる

 これから天皇家と象徴天皇制が大きな変動の時代に入るのではないか――? 
 前々回前回、ブログの記事を書きながら、そんな予感を抱くようになった。

  半年後に控えた天皇の代替わりは、現在の象徴天皇制になってから二回目。大多数の国民は、来年行われる天皇の代替わりを一種の「儀式」ないしは「行事」と受け止めている。それが終われば、「天皇が明仁陛下から徳仁陛下に替わり、上皇と皇太嗣という新しい呼称ができるものの、その顔ぶれは今と同じであり、現在とあまり変わらない天皇家の日常に戻る」というのが漠然とした感覚であろう。
  確かに、前回の代替わりでは、変化よりも継続の面が目立った。天皇が裕仁陛下から明仁陛下に替わり、元号も昭和から平成になったが、「天皇制のあり方」や「天皇と国民の関係」は前の時代と大きく変わらなかった。だが、次の代替わりでは、変化がもっと前面に出てくるような気がする。先日の秋篠宮発言はそのことをいち早く示唆した鏑矢だったのではないか。

  本ブログは、秋篠宮さまの大嘗祭発言を受けて書き始めたシリーズの三回目にして、とりあえずの最終回となる。テーマは、来る天皇の代替わりを受け、「天皇制のあり方」がどのように変化するか、について考えること。
  新しい元号の時代になれば、天皇陛下が代替わりされ、元号が変わる以外に、何が変わるのか? 国民の側と皇室の側に分け、整理してみよう。

消える「現人神の残滓」

    来年の代替わりに伴い、国民の側で確実に起こることがある。それは、戦前の天皇制に関する記憶がほぼ消滅することだ。
    明治、大正、戦前の昭和にわたり、天皇は「現人神(あらひとがみ)」であった。もちろん、戦前の日本人全員が天皇を神と信じていたわけではない。(私の父も「天皇陛下が本物の神様だとは思っていなかった」と話していたものだ。)しかし、明治憲法上の下で天皇が神聖化され、政治も(実態はともかく)天皇の名において行う建前であったことは紛れもない事実。「天皇陛下万歳」と言って戦死した日本兵が多数いたことの示す通り、天皇は神のごとく、国民(臣民)の思考や行動を深く規定していた。
    その後、終戦(敗戦)によって昭和天皇は「人間宣言」を行い、神の座から降りた。しかし、終戦までの時代を生きた日本人にとって、現人神であった天皇の記憶が一瞬で消え去ることはなかった。戦後も多くの国民は心のどこかで天皇を「ありがたい」存在とみなしてきた。
    平成元年(1989年)に即位した今上天皇に現人神だった時間はない。だが、1933年の誕生から「人間宣言」までの約12年間、明仁殿下は現人神の子であった。平成63年時点において、終戦時に2歳以上だった(=当時45歳以上の)国民は全人口の三分の一以上、36.3%を占めていた。今上天皇も単なる象徴を超えた特別な存在であり続けた、と言ってよかろう。
    これに対し、昭和天皇の孫である浩宮や秋篠宮は、昭和天皇の人間宣言の後に生まれた。二人とも、「神の孫」であった時間はない。しかも、今年11月現在、終戦時に2歳以上だった(75歳以上の)国民の数は全人口の14.3%にまで減少している。終戦時に12歳以上だった国民に至っては、全人口の4.5%にすぎない。天皇が神であった時代の記憶を持った国民は早晩いなくなる。浩宮や秋篠宮は名実ともに人間である最初の天皇となるのだ。
    戦後の昭和天皇と今上天皇は、相当数の国民にとっては一定の神性を残しながら、災害時の慰問や平和式典、文化的行事などへの出席など、国民への献身によって広く尊崇の念を集めてきた。次の代替わりの後、一部の右翼を除けば、日本国民が天皇を現人神の記憶と結び付けて尊崇することは基本的になくなる。神性を失ったとき、天皇の権威は下がると考えるのが自然であろう。
    新天皇と皇族は、災害慰問などの活動のみによって国民から今のような尊崇の念を集め続けることができるのか? 新皇后となられる雅子妃のお務めは健康状態を考慮しながら行わざるをえず、無理はできまいし、されるべきではない。当面は上皇(現在の今上天皇)がいらっしゃるとは言え、その助けを借りられる時間には限りがある。新天皇家がご苦労されるであろうことは想像にかたくない。

情報発信の積極化~吉と出るとは限らない

    新時代における皇室サイドの変化については、前回、前々回のポストでも触れてきたつもりだ。
    昭和(戦後)と平成の天皇は、新憲法と戦後民主主義の流れを汲んで政治向きの発言や自己主張を控え、象徴としての役割に徹した。次の天皇や皇室は、今までよりも自己主張を増やす可能性が高い。特に、皇太嗣となる秋篠宮は、情報発信に積極的に取り組みそうな雰囲気を醸し出している。
    新天皇や皇族の方々が自己主張を増やされることは時代の流れ。否定されるべきことではない。皇族と国民との間のコミュニケーションの手段が、SNSを含め、変わっていくことも避けられまい。望ましいかどうかは様々な意見があると思うが、「開かれた皇室をアピールするため」あるいは「国民と直に繋がるため」に皇室が様々に試行錯誤されるであろうことは十分に予想できる。その際、留意すべきことが二つある。
    一つは、コミュニケーションの手段が変われば、皇族と国民の間のコミュニケーションのあり方も影響を受ける、ということ。 
    報道陣から予め質問を受け付けて文書で答えるのであれば、宮内庁の職員が模範解答を作り、慇懃無礼ながら木で鼻を括ったような答になりがちだ。これが記者会見になれば、先日の秋篠宮発言がそうだったように、宮廷官僚の作った想定問答ラインから外れようと思えば不可能ではない。そこに新しい情報発信の可能性も生まれる。録画会見なら、何か変わったことを言っても、それが表に出るまでの間に対応あるいは釈明を考える余裕はある。生中継なら、その辺のリスクは高まる。
    SNSになると状況はさらに変わる。衆人環視どころか誰にも見られることなく、誰からのチェックも受けずに自分の思ったままを書き込むことができる。それも短いフレーズで、何の遠慮も配慮もなく、ダイレクトに結論だけ書くことになる可能性が高い。あとはワンクリックで発信完了。あっと言う間に世の中に拡散される。うまくいけば好感度が高まる一方で、炎上のリスクも隣り合わせだ。秋篠宮の大嘗祭発言に対しても、ネット上で見られるのは好意的な反応ばかりではない。
    もう一つは、天皇や皇室が政治的な発言を行うことの微妙さ。
    前回のブログで述べたとおり、天皇や皇族の政治的発言が憲法上または法律上、どこまで禁止されているかについては、かなりグレーなところがある。だが、たとえクロでないとしても、天皇や皇族の自己主張が政治的領域にまで及ぶようなことになれば、天皇制を維持するうえではマイナスの方が大きい、と私は危惧する。
    価値観が多様化した現代社会において、すべての国民が支持する政策など、ありはしない。大嘗祭への公費支出についての見解も例外ではない。皇族が政治課題で何かを言えば、それを支持する人もいる一方で、反発する人も必ず出てくる。その結果、天皇は国民統合の象徴ではなく、国民分断の象徴となりかねない。
    もっと大きな懸念は、皇族が政治的と受け取られうる発言を行うになれば、政治の側にそれを利用しよういう動きが出かねないこと。そんなことが起きれば、憲法に抵触する可能性があるのみならず、民主主義はおかしくなってしまう。

浩宮さまを待ち受ける挑戦

    戦後六十数年、天皇は、国民の中に残っていた現人神の記憶に助けられつつ、災害慰問などによる無私の献身、絶妙のバランス感覚と政治的発言の抑制によって国民の支持を繋ぎ止めることに成功してきた。しかし、代替わり後の状況は変わる。
    ほとんどすべての国民が天皇や皇族を自分たちと同じ人間であると捉える状況下で、新天皇は国民統合の象徴としての役割を果たすよう求められる。皇室は国民に対する情報発信を積極化させるだろうが、新天皇や皇太嗣の広い意味における政治的手腕(statecraft)は未知数だ。
    代替わりの後、新天皇の時代は、天皇制にとって試練の時代となるだろう。浩宮さまが思慮深い性格だとしても、苦労は絶えまい。新時代の天皇制をつくる責任を皇室のみに押しつけることは間違いだ。我々もよくよく考えなければならない。

皇室の政治的発言は今後増えていく

政治的色彩を帯びた発言を皇室が行うことは、先日の秋篠宮で打ち止めになることはない――。口に出してこそ言わないが、誰もが内心そう思っているのではないか。それはおそらく正しい。

前回のポストで、秋篠宮さまの大嘗祭発言についてややネガティブな意見を書いた。一方で私は、この種の発言が将来的に増加することは避けられない、と諦観している。

来年の代替わりを経て、皇室が国民とのコミュニケーションをより活発化させ、情報発信を増やしていくことは当然の流れ。それに伴い、天皇及び天皇家(の行事)に関わる件については、皇室が自らの意見を今まで以上に述べられるようになることも必然であろう。一般的な政治・政策課題について意見や感想を述べることですら、まったく想定できない事態ではない。

私がそう考える理由や背景は、大きく言って四つ。順に説明してみたい。

情報化の進展

時代の変化と言うべきか。情報化が著しく進んだ今日、政治の世界を含めて日本社会はかつてないほどオープンになった。皇室だけがこの波から逃れられるはずもない。
    戦前は天皇の肉声を国民(臣民)が聞くことさえ憚られた。終戦時の玉音放送も天皇が自由に流したものではない。受け手の国民にとっても、非常に聞き取りづらいものだった。
    戦後、テレビの時代になり、皇族の様子は普通にお茶の間に流されるようになった。テレビや雑誌が皇族のニュースを芸能ネタのように取り扱うような風潮さえ生まれている。それでも、生放送に出演しない限り、皇族の声がリアルタイムで流れることはなかったし、出演の頻度自体も限られていた。しかし、今上天皇が事実上の退位を要請された生中継はインパクトを与えた。テーマの重さのみならず、天皇が(政府を通り越して)国民に直接、リアルタイムで語りかけたことは、皇室と国民との間のコミュニケーションのあり方に大きな一石を投じたと言える。
    今や、インターネットやSNSの時代になった。その気になればリアルタイム、ノーチェックでの発信は簡単にできる。アメリカ大統領でさえ、実に軽々しく肉声を文字にして送信するあり様だ。近い将来、天皇陛下や皇太嗣殿下、あるいは皇族の方々がトランプのような形でツイッターを使われるようになることも、全く想定されない話ではない。少なくとも、どなたかが意志を持って始められたら、止めようがないだろう。

世代(価値観)の変化

  30年を一世代とすれば、次の天皇や皇太嗣は今上天皇よりも一世代、昭和天皇よりも二世代以上もお若い。皇室のあり方に対する浩宮や秋篠宮の考え方が先代や先々代と同じ、ということはありえない。
  現在の皇太子殿下は1960年(昭和35年)生まれ、秋篠宮殿下は1965年(昭和40年)生まれ。「もはや戦後ではない」時代のさらに後、ということになる。これに対し、昭和天皇は1901年(明治34年)、今上天皇は1933年(昭和8年)と戦前のお生まれである。ただし、戦後の昭和天皇と今上天皇は、戦後民主主義の何たるかを(政治家以上に)深く理解されていた。民主主義国家・日本における象徴天皇のあり方を模索、実践されるという点において、天皇家の四人の方々に違いはない。だが、模索と実践の中身は変わり得る。
   昭和天皇と今上天皇は、象徴として、政治にかかわることに非常な謙抑的な態度を取られた。終戦直後を別にすれば、昭和天皇が政治的な発言を行うことは基本的になかった。今上天皇が事実上の退位を表明されたのも、やむにやまれぬ例外的な判断だったと思われる。
    戦後生まれの浩宮と秋篠宮は、皇室と国民の間のコミュニケーションのあり方について、もっと積極的な姿勢をとるのではないか。情報公開を重んじ、象徴天皇であっても――あるいは、象徴天皇であるが故に――自らの考えをもっと率直に国民に伝えるべきだと考えられる可能性は十分にある。

秋篠宮という個性

    皇室情報の対外発信について、皇太嗣になる予定の秋篠宮は特に積極的になりそうだ。
    浩宮と秋篠宮は5歳しか違わないが、お二人は同一人格ではない。浩宮は皇太子として育てられ、天皇になるべく教育されてきた。したがって、ご自身の考えを国民に伝えることについても、昭和天皇や今上天皇のような謙抑的姿勢をある程度は引き継がれるだろう。皇太子時代の浩宮の発言からも、そうした慎重さは窺える。
    一方、二男の秋篠宮は皇太子でない分、比較的自由に育てられた。言動も浩宮に比べて奔放なところがある。代替わりに伴って皇太子と呼称されることに難色を示した結果、皇太嗣になったとも言われている。ご自身の考えに対する「こだわり」も強いように見える。

政府の優柔不断

    政府が天皇または皇室の発言を政治的なものと公式に断ずれば、天皇や皇室の動きは封じられる。だが、大きな政治問題を引き起こすため、政府としては否定的なコメントを発しにくいのが実情だ。
    今上天皇の事実上の退位要請も政治的発言以外の何ものでもなかったが、政府はそれを認めなかった。今回の大嘗祭に関する秋篠宮発言についても、政府は(少なくとも公式には)明確な反応を示していない。秋篠宮発言を「黙殺」したとも言えるが、裏を返せば、「お咎めなし」の扱いとも受け取れる。これでは有効な「規制」ないしは「圧力」となるまい。
    皇室が記者会見で話す内容を(宮内庁が事前に把握することはできても)政府が検閲できるわけではない。秋篠宮発言は収録されたものだったが、そのまま公開された。天皇や皇室の政治的発言をチェックする機能は、煎じ詰めれば皇室サイドの自主規制に委ねられているということ。今後、皇室サイドが意図的に政治的発言をしようと思えば、意味をなさなくなる。

皇室の政治的発言は本当に禁止されているのか?

    ここで少し横道に逸れ、皇室の政治的発言は本当に許されないのか、という「そもそも論」について考えてみたい。 
    憲法第4条には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とある。ここから、天皇が政治的発言を行うことは認められない、と一般的にも考えられてきた。
    ただし、皇位の継承や皇室のあり方など、「天皇家の問題」という側面を持つテーマについては、天皇や皇族の自律権が(程度はともかくとして)認められるべき、という学説もある。いずれにせよ、この点についての本格的な議論は行われてこなかったし、政府も明確な見解は示していない。
    天皇家の問題か否かに限らず、天皇が政治に関して何らかの発言をすれば、それで即、国政に関する機能を発揮したことになるのか、と疑問を呈することもできる。天皇が意見を表明しても、政府がそれを無視すれば、少なくとも結果としては政治的影響力が発揮されたことにならない、というわけだ。
    今回の秋篠宮発言についても、「政府が大嘗祭への公費支出を見直せば、秋篠宮が(発言が政府に影響を与えたという意味で)政治的発言を行ったことになる」という意見が政府内にあったと言う。秋篠宮の意見を黙殺するための方便だったとは思うが、この考え方を裏返して少し飛躍させれば、政府が無視すれば皇族は政治的発言にならない、というすごいことになってしまう。
    憲法や皇室典範は、天皇以外の皇族について「国政に関する機能を有しない」と書いていない。天皇はともかく、皇太嗣となる秋篠宮や他の皇族による政治的発言を法律上禁じる根拠は、実はないのではないか。 
    憲法解釈自体、従来ほど硬直的に考えなくてもよい、という雰囲気も生まれつつある。先鞭をつけたのは他ならぬ安倍総理だ。歴代内閣が憲法上許されないとしてきた集団的自衛権の行使を容認できるよう、9条の解釈を変更してみせた。天皇や皇室の政治的発言についての国会答弁や解釈は、集団的自衛権行使と比べてさほど積みあがっているわけではない。9条解釈の劇的変更が認められるのなら、曖昧な4条の解釈を変えるか新設することに大きな抵抗が起きなくても驚くべきではあるまい。
    「オルタナティブ・ファクト(もう一つの真実)」という言葉の流行が示すように、「既存の価値観に縛られる必要はない」という風潮が世界中で広まっている。その波は日本にも静かに押し寄せるだろう。誰かが「天皇や皇室が政策課題について意見を表明することは、憲法上禁止されていない」と言い出せば、案外多くの支持を集める日がくるかもしれない。

    天皇や皇族がある政策テーマに関して政府に何かをあからさまに要求すれば、さすがにそれは国政に関する機能を果たしているとみなされ、憲法上許されないと考えるべきであろう。しかし、政治的なテーマについて単に意見を表明するだけであれば、それを禁じるだけの強い法律的根拠はないように思われる。皇室や国民がそのことにハタと気付いた時、皇室の政治的発言は止めようがなくなる可能性が出てくる。

秋篠宮さまの大嘗祭発言

先月30日に秋篠宮さまが53歳になられ、事前に収録された記者会見の様子が公開された。その際、秋篠宮は来年予定されている大嘗祭について「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と述べられた。皇族が政府の決定を公の席で批判することは極めて異例であったため、物議を醸している。

直接的な論点は二つ。大嘗祭の宗教性と皇室の政治的発言だ。

秋篠宮の問題提起=大嘗祭の宗教性

最初に秋篠宮発言を聞いたとき、「虚を突かれた」思いがした。象徴天皇制がすっかり定着したせいか、昨今の日本社会の保守化が影響しているのか、大嘗祭への国費支出について騒ぐのは、今や共産党やいわゆる左派系の人たちの一部くらいだ。大嘗祭を含め、代替わりの儀式が公費で賄われることに私は疑問を抱いていなかった。

憲法第20条は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。天皇家の行事――特に、皇室典範等による既定のない行事――に宗教的色彩が強いことは否定できないため、大嘗祭への公費支出は控えるべきではないのか、というのが秋篠宮の問題提起である。

これに対して政府は、天皇制が世襲であることから、大嘗祭には公的性格があると考え、宮廷費からの支出に問題はない、と整理してきた。しかし、憲法学者の一部を含め、政府の見解に疑義を示す声もあり、議論は完全な決着を見るに至っていない。

秋篠宮発言は、我々が見て見ぬふりをしてきた「曖昧な決着(未決着)」を白日の下にさらした。しかも、秋篠宮が言うように内廷会計を充てれば、質素倹約になる。世間の受け止めは決して悪くない。秋篠宮発言を表だって批判しているのは、伝統的な天皇制護持を信奉する右翼勢力など一部にとどまっている。

イスラエルやイランのような政教一致国家は特別としても、米国ではトランプ政権と福音派の蜜月、日本では公明党の政権参加など、今日の民主主義国家では政治と宗教の癒着が進行している。秋篠宮の問題提起はこのトレンドに逆行し、政治と宗教の分離を貫こうとするものである。そのこと自体、私には新鮮な驚きであった。

しかし、批判された宮内庁をはじめ、政府は秋篠宮発言に内心、不快感を持っている。安倍総理も秋篠宮の問題提起を無視するつもりに違いない。自公はもちろん、野党もこの問題に深入りする気配は見せていない。世間も程なく、この問題を忘れ去り、次の代替わりの時まで思い出すことはなさそうだ。秋篠宮が投じた一石の波紋は短命に終わるであろう。

秋篠宮発言の政治性

秋篠宮発言には、もう一つ、憲法に抵触しかねない問題があった。秋篠宮が政府の決定を批判したという行為そのものが、天皇(皇室)による政治的影響力の行使とみなされ得る、ということだ。

政府は、秋篠宮発言について「既に閣議で口頭了解されている事項について、記者からの質問に対して、あくまでも殿下ご自身のお考えを述べられたものである」(11月30日、西村官房副長官)と捉え、コメントを控える――と言うことは、黙殺する、という意味でもある――としている。要するに、①秋篠宮発言が記者からの質問に答えたものであり、②政府の方針は既に決まっていたことから、秋篠宮発言に憲法上の問題はない、というロジックなのだろう。しかし、こんなものはロジックとは呼べない。

まず、自ら口火を切らず、質問に答える形ならよいのか。そんな言い草が通れば、何でも喋ってよいことになる。しかも、秋篠宮さまの場合にどうだったかは知らないが、記者会見で記者に特定の質問を仕込んでおくことは、少なくとも永田町では日常的に行われている。

次に、閣議等で既に決定がなされたことに個人的見解を述べても問題ない、と見逃すのであれば、ザルもいいところだ。例えば、2016年3月から施行されている安全保障法制について、天皇陛下や皇太子殿下、秋篠宮さまなどが、記者の質問に答えるかたちで「個人的見解」と断って「賛成」または「反対」を表明してもよいことになる。外国人労働者受け入れ拡大法案(出入国管理法改正案)に至っては、国会で審議中の今現在、賛否を表明することは不可、しかし、来週になれば法案が成立しているから可、という訳のわからないことになる。

秋篠宮発言は、政治性を問われる可能性があることを承知したうえでなされたものだと思う。そのうえで、自身の発言が憲法に抵触する政治的発言ではないことについて、秋篠宮は政府とは別のロジックを心中に用意されていたと推察する。

大嘗祭を含め、代替わりの儀式は、それが宗教性を持つか否か、公的な性格を持つか否かにかかわらず、天皇家の行事である。それは誰も否定できない。自らが属する天皇家の行事について当事者として意見を述べたというのであれば、秋篠宮発言は政治的なものではない、と主張する余地が生まれよう。

今回、興味深かったのは、秋篠宮の発言を政治的なものだとして問題視するかどうかが、発言の内容をどう受け止めるかに大きく左右されていたことだ。伝統的な天皇制の復活に向け、国家による関与を増大させたいと考える右翼の一部は、秋篠宮の発言は間違った政治的発言にほかならない、と考えた。一方で、大嘗祭への公費支出を憲法上問題があると主張してきた左派系の一部には、秋篠宮発言の持つ政治的要素にあまり目くじらを立てない傾向が見て取れた。

これはもちろん、ご都合主義もいいところだ。仮に秋篠宮が政府による大嘗祭への支出の増額を要求していれば、どうだったのだ? 右翼は「そうだ、そうだ」と叫びまくり、左派は「皇室の政治発言は絶対に許されない」と抗議しただろう。皇室が発言された内容によってそれを政治的発言とみなすかどうかが変わるなど、あってはならない。

本日3日の会見で宮内庁の西村次長は、秋篠宮さまが「(自身の考えに宮内庁が)聞く耳を持たなかった」と発言されたことについて、「閣議で了解された事項への反対をなさっているものではなく、宮内庁に対するご叱責と受け止めている」と述べたそうだ。閣議了解への反対なら政治的発言となり得るが、宮内庁を叱ったのであれば違いますね、と言いたいらしい。

宮内庁は秋篠宮発言の政治性を指摘する声から秋篠宮を守ろうとしているのか?
それとも、大嘗祭の宗教性を問題提起した秋篠宮を無視しようとしているのか?
おそらく両方なのであろう。

皇室の政治的な発言はどこまで許されるのか?

私は、天皇及び皇室がいかなる政治的発言をも慎むべきだとは思わない。

例えば、一昨年8月、天皇陛下が事実上退位の希望を述べられたのは、紛れなく政治的な発言だった。ただし、陛下は「天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たこと」を伝え、「国民の理解を得られることを切に願」うと締め括られた。陛下の希望を受け入れるかどうかや、退位にかかる具体的な取り決めは、国民(国会)に委ねられており、許容されるべき政治的発言だったと考える。

もちろん、天皇の地位に鑑みれば、自らの考えを示すこと自体、政治的な意味合いを持つという意見もあるだろう。確かに、国会で審議する法案について天皇が自らの所感を述べるのであれば、考えを述べただけでもアウトだ。

しかし、日本国の象徴として天皇の地位に就くことができるのは只一人、明仁殿下のみ。にもかかわらず、天皇が80歳を超えても激務を続けなければならないというのは、皇室典範の制定当時には想定されなかった事態である。その「不備」を放置したまま、明仁殿下を天皇の地位に縛り付けておこうとしてきたことは、政府と国会の不正義であった。そんな状況の下で天皇陛下が自らの考え(退位の希望)を国民に伝えても、誰が咎められようか?

事実上、退位のご希望を述べられた天皇陛下に対して、(一部の教条的な右翼を除けば)大多数の国民が共感を寄せた。陛下の高齢と健康状態という客観状況に加え、天皇でなければ全国民誰もが職業選択の自由を持つ中、いつ辞めるかさえ自分で決められないのはおかしい、というのが一般的な受け止めだったと思う。

国民が支持すれば皇室は政治的発言をしてもよい、と言うわけでは全くない。だが、この時の天皇陛下のお言葉は、実に計算され尽くされていたと改めて思わざるをえない。専門家を交え、相当入念に準備されたのに違いない。

翻って、今回の秋篠宮発言は許容できるものなのか? 率直に言って、天皇退位発言に比べて許容度はずっと低い。天皇家の行事に対して秋篠宮が天皇家の一員として意見を述べたのだとしても、皇室行事への政府支出というトピック自体、より一般政治領域に近いテーマであることは否定できない。

今回、秋篠宮発言は大嘗祭への国費支出に批判的な意見だったため、その政治性がカモフラージュされている部分がある。だが、発言内容が大嘗祭への国費支出拡大を主張するものであったなら、政治色は明らかだ。私としては、秋篠宮発言を許容すべきとは言いにくい。

天皇陛下の退位発言は、安倍総理を含めた政府の重い腰を上げさせることに成功した。これに対し、大嘗祭についての秋篠宮発言は政府の行動に何の影響を与えることもないだろう。何のためにわざわざ発言されたのかも不明だ。どれほど周到に準備された言動だったのか、疑問が残る。

外国人労働者をどれくらいまで受け入れるのか?――核心はここだろうよ

25日のポストで、「一定数の外国人が一定期間、日本国内に滞在すれば、日本人の生活や社会制度に大きな影響が出る」という問題意識を述べ、「期間」については1年を基準にすべきだと主張した。今日は「数」の問題を論じる。一体、何人まで、あるいは総人口の何割までなら、日本国に外国人を受け入れるのか?

政府案に外国人受け入れ数の天井はない

今、国会で審議されている外国人労働者受け入れ拡大法案(出入国管理法改正案)には、受け入れ人数に関する規定がない。その意味では、法律上の受け入れ数は青天井だ。山下法務大臣も「数値として上限を設けることは考えていない」と答弁した。

一方で安倍総理は、「当初5年間で最大約34.5万人」という政府の受け入れ想定人数を「上限として運用する」と述べた。ただし、国会答弁は法律ではない。変えようと思えば、後からいくらでも変えられる。

案の定、山下は「大きな経済情勢の変化があれば、例外的に対応を迫られる場合がある」と述べ、期間内での上限引き上げに余地を残して見せた。自民党の田村憲久政調会長代理(元厚労大臣)に至っては、11月18日のNHK討論で「(外国人労働者の数が)足りなければ、またさらに増やすことになる」と事もなげに言ってのけた。

外国人はどれくらい増えるのか? 

一方で、政府は「日本における外国人労働者と在留外国人の将来像」について一切語ろうとしない。であれば、こちらで考えるしかない。私に精緻な計算を行う能力はないが、それでも、日本社会の将来像について大まかなイメージをつかむためには、荒い試算でも示さないよりはよいと思う。以下の数字は、そういう前提で読んでいただきたい。

前回も述べたが、5年後に見込まれる145.5万人の人手不足分をすべて外国人労働者で賄うことになれば、日本に住む外国人の数は現在の256.2万人から401.7万人に5割も増加する。総人口に占める外国人の比率も、現在の2%から3.2%に上昇する。

別の試算方法をとれば、数字はもっと大きくなる。2017年末の在留外国人数――外国人労働者を含む――は256.2万人、過去5年間で52.8万人増えている。毎年10.6万人、年率4.7%の増加率だ。この増加率が今後も維持されれば、2027年末の在留外国人数は406.5万人、2037年には644.9万人となる。日本の総人口に占める在留外国人の比率(日本の将来人口推計(平成29年)から計算)は、それぞれ3.4%と5.7%に上昇する。

2008年に自民党の外国人材交流推進議員連盟は、今後50年間で1000万人の移民(通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも 12 ヵ月間当該国に居住する人)を受け入れるべきという提言を出した。これが実現すれば、2058年に日本の総人口に占める在留外国人比率は、単純計算で12.8%となる。(移民が日本にとどまるという前提に基づき、[2008年末の在留外国人数(214.5万人)+1,000万人]/ 9,470万人として計算。)

この数字、当時は夢物語のような数字と笑い飛ばされ、あまり深刻に考えられることはなかった。しかし、過去5年間の増加ペース(年率4.7%増)が30年続けば、2047年の在留外国人数は1,016.2万人、総人口の9.7%を占めることになる。今となっては、決してありえない数字とは言えない。ゾッとする。

欧米諸国との比較

では、いったいどれくらいまでなら、外国人の受け入れ増加を認めるのか? 検討のための材料として、OECDの統計から「移民が総人口に占める比率」を下記に抜き出してみた。なお、OECDは移民について、「1年以上滞在する外国籍の人」という定義と「外国生まれの人」(この場合、帰化していても一世であれば、移民にカウントされる)という二種類の定義を用いている。日本の場合、後者の定義は馴染みもなければ、統計も存在しない。前者の定義であれば、日本における在留外国人とほぼ同義と考えても構わないだろう。

移民が総人口に占める比率(%)
(上段は「1年以上滞在する外国籍人口」、下段は「外国生まれ人口」の比率)

2007年 2009年 2011年 2013年 2015年 2017年
ドイツ 8.3 8.4 8.4 9.0 10.1 12.2
12.9 13.2 13.2 12.5 13.5 15.5
オーストリア 9.7 10.3 10.8 11.8 13.4 15.4
14.6 15.1 15.4 16.1 17.4 19.0
ハンガリー 1.6 1.8 2.1 1.4 1.5 1.6
3.4 3.9 4.4 4.3 4.8 5.3
フランス 6.0 6.1 6.3 6.5 6.8 7.1*
11.4 11.6 11.8 12.1 12.3 12.6*
オランダ 4.1 4.3 4.6 4.7 5.0 5.7
10.5 10.8 11.2 11.5 11.8 12.5
英国 6.3 7.0 7.6 7.7 8.6 9.3
9.4 10.7 11.8 12.3 13.1 14.2
米国 7.2 7.1 7.2 7.0 6.9 6.9
12.4 12.4 12.8 12.8 13.2 13.5
日本 1.6 1.7 1.7 1.6 1.7 1.9

International Migration Outlook 2018 (OECD)より抜粋)
*は2016年。日本について「外国生まれ人口」の統計はない。

この数字を眺めて明らかに言えるのは、日本の「移民」(1年以上滞在する外国籍の者)受け入れ水準が欧米対比で非常に低い、ということ。

一方で、この数字だけを見て、「移民」の受け入れ割合がこのあたりを超えたら社会が不安定化する、という一般的な水準を見出すことは困難だ。一国の社会的安定度に影響を与える要素が移民の数だけでないことを考えれば、それも当然であろう。

とはいえ、欧米における移民の増加が社会不安を増大させていることを疑う者はいない。ヒラリー・クリントンやトニー・ブレアなどでさえ、欧州諸国は移民を制限しないと(社会不安を養分とする)ポピュリズムを止められない、と主張するようになったほどだ。

上限は保守的すぎるほど保守的でよい

移民と呼ぼうが、外国人労働者と呼ぼうが、一旦受け入れれば、減らすことはまずできない。日本人にとって、多文化共生という美辞麗句も幻想であろう。「とりあえず増やしてみて、問題が出たら考える」という発想は駄目だ。日本の受け入れ可能な「移民または在留外国人」の水準を検討する際には、極めて保守的な態度で臨む必要がある。

日本が受け入れるべき在留外国人(1年以上生活する者)数が総人口に占める割合は、5%でも十分に高すぎる。5%と言えば、現在の2.5倍の水準だ。

増加のペースも考慮しなければならない。前述のとおり、5年後に見込まれる145.5万人の人手不足分をすべて外国人労働者で賄えば、日本に住む外国人の数は現在の256.2万人から401.7万人に増加し、総人口に占める割合は3%強となる。この水準を5年で実現すれば、5年で5割増という急激な増加ペースだ。それでは社会的なインパクトが大きすぎる。

今後10年から20年で徐々に増やして3%程度、というのが良い線ではないか。もちろん、その間に少子化対策なり、女性や高齢者の労働参加率引き上げなり、技術革新による労働生産性の引き上げなり、打つべき手を本気で打たないとドン詰まりだ。経済の停滞を甘受するか、移民(在留外国人)の増加によって社会を不安定化させるかの選択に追い込まれる。

十分に保守的な上限を法律に明記すること。それを実現することなく、出入国管理法改正案に賛成する自民、公明、維新はとんでもない。それを明記した対案を出せない野党も情けない。

「移民」論争の不毛と本質

国会では27日(火)にも出入国管理法改正案が衆議院を通過する見込みと言う。だが、国会での議論はいつもの通り、何も深まっていない。逃げる政府、問題を見て見ぬふりの与党、批判に終始する野党、というお馴染みの構図にはウンザリ。だが、何が問題か、突き詰めることまで諦めてならない。

外国人労働者受け入れ拡大法案については、11月13日15日の2回に分けて書いた。その間も「なぜ、抵抗感が消えないのか?」と考えてみたが、突き詰めると、外国人労働者の受け入れ増加が日本社会の安定性を突き崩すのではないか、という不安が消えないのである。その意味で、これはやっぱり移民問題なんだ、と思う。今回と次回はそのことについて書く。

国会での「移民」質疑――論争になっていない

安倍のブレを追及しても・・・

法案審議が始まって以来、野党は外国人労働者受け入れ拡大法案を移民法案と呼んできた。だが野党側の矛先は、安倍総理が以前、「移民政策はとらない」と言っていたことを引き合いに出し、「この法案は実質的に移民拡大法案じゃないか。総理は前言を翻した」という点に向きがちだ。

これに対して安倍は、今回の法案は「永住する(外国)人がどんどん増える政策」ではないから移民政策ではない、したがって、自分がブレたわけではない、と反論。
「言った、言わない」みたいな議論に終始して本質論に入らないから、安倍は却って安堵しているのではないか。

すれ違う「移民の定義」

言葉遊びの世界に嵌っているのは、移民の定義をめぐるやり取りも同じこと。

政府の方は、移民の定義を問われても答弁しない。代わりに、「移民政策」については、「国民の人口に比して、一定程度の規模の外国人を家族ごと期限を設けることなく受け入れることによって国家を維持していこうとする政策」ととりあえず定義している。とりあえず、というのは、このままでは意味を持たない定義だからだ。一定規模と言ったって、国民の人口に比して何%を超えるまではよいのか? 家族を帯同しなければよいのか? 例えば10年、更新可能でも期限がついていれば受け入れし放題なのか? 解釈は伸縮自在。政策を示すと言う点では無意味である。

これに対して野党は、移民について別の定義を持ち出し、外国人労働者は移民だと主張する。よく引用されるのが国連経済社会局の次の言及だ。
「国際(国境を越えた)移民の正式な法的定義はありませんが、多くの専門家は、移住の理由や法的地位に関係なく、本来の居住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意しています。3カ月以上12カ月未満の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住と呼んで区別するのが一般的です。」

一方、国際移住機関は、移民を「当人の (1) 法的地位、(2) 移動が自発的か非自発的か、(3) 移動の理由、(4) 滞在期間に関わらず、本来の居住地を離れて、国境を越えるか、一国内で移動している、または移動したあらゆる人」と定義する。

なるほど、これらの定義をあてはめれば、政府が受け入れを拡大しようとしている外国人労働者はれっきとした移民、ということになる。

このような野党の追及に対し、政府は、万国共通の移民の定義はないと述べ、日本政府の定義を繰り返す。ここでも、「あっちではこう書いてある」「こっちの考え方は別物だ」と水掛け論の応酬となり、結論が出ることはない。

多くの日本人が「移民」という言葉から思い描くイメージに比べて、上述の国際的な定義はかなり「緩い」ということも、政府が論戦から逃げるのを手助けしている。3ヶ月で一時的移住と言われたら、えっ?と思う人の方が圧倒的に多いだろう。逆に、安倍が口走る「永住する(外国)人」の方が一般国民のイメージには近い。

自分たちの移民政策について述べる党が一つもない

「現下の移民政策はいかなるものか」と問われ、「今回の外国人労働者受け入れは移民政策ではありません」とすれ違い答弁しかできない政府・与党。お粗末の極みである。

だが、野党各党が「今回の法案は実質、移民拡大法案だ」と攻撃しても、迫力はまったく感じられない。その最大の理由は、野党各党が移民政策に関して自らの考えを明らかにしていないからだ。移民の定義として国際機関の定義を採用するのならそれでも結構。その定義に従って、○○党は移民増加に賛成なのか、反対なのか。どの程度の規模までなら受け入れてもいいと考えているのか――。国会質疑を聞いていても、野党の考えはほとんど伝わってこない。

今の国会質疑に比べれば、竹光を使った時代劇のチャンバラの方がよっぽど真剣勝負だ。嘆かわしい。

移民と呼ばなくても、在留外国人は無視できない

問題は、外国人労働者を「移民」と呼ぶべきかどうかではない。彼らを移民と呼ばないにしても、彼らの数が増えれば、国民生活や社会制度に大きな影響を及ぼす。それこそ、論争すべきポイントなのである。

安倍総理は、「永住じゃないから問題ない」と言う。つまり、今回の法案で外国人労働者に付与することになる資格は、5年なり何なり、期限がついている。だから、永住ではない、という理屈である。これに対し、資格に期限があっても、延長されればどんどん永住に近づいていく、という批判はもちろん、正しい。だが、これもまた、永住かどうかの水掛け論になり、本質に近づかない。

本質論に入るためには、「外国人労働者は(少なくとも制度上、)永住ではない」と敢えて認めてしまおう。そのうえで、移民という言葉を使わずに、問えばよい。
「5年以内しか滞在しない外国人労働者が2千万人、日本の人口の約2割になっても、構わないのか?」あるいは、「5年間以内しか滞在しない外国人労働者が1千万人、日本の人口の約1割であれば、構わないのか?」と。

本来、ナショナリストの安倍が「構わない」とは言うまい。まさか、この問いからも逃げるようなら、売国奴のような総理である。

一定数の外国人が一定期間、日本国内に滞在すれば、日本人の生活や社会制度に大きな影響が出る。だからこそ、前出のとおり、政府も「移民政策」を「国民の人口に比して、一定程度の規模の外国人を家族ごと期限を設けることなく受け入れることによって国家を維持していこうとする政策」と定義せざるをえなかったのだ。

ここで問題となるのが、「一定数」と「一定期間」。数の問題は次回に譲り、今回は期間の問題について私の考えを述べたい。

1年以上滞在すれば、大きな影響がある

少なくとも、政府が問題視する外国人労働者のラインは甘すぎる。

今回新設される特定技能1号は在留期限が通算5年で延長できない。2号は期限こそあるものの、業種によってまちまちで更新可能、家族も帯同できる。いずれも、労働力としての外国人がほしい経営サイドの要求を、「移民増加政策はとらない」という政府の建前の下で無理やり法制化した仕組み。外国人労働者の受け入れ増加と社会的安定性との関係など、真剣に考えられてはいない。

特定技能1号は5年で帰るという立てつけだが、仮に在留期限を超えて不法残留する者がゼロだとしても、根本的な問題が残る。せいぜい数週間程度しか滞在しない外国人旅行者が増えるにつれ、彼らの行状に眉をひそめる人も増えている。5年で定住する外国人労働者であれば、もっと様々な摩擦が起きても不思議ではない。

外国人労働者の行状が不良だと決めつけるつもりはまったくない。だが、彼らの生活習慣や価値観は、当然のことながら日本人とは違う。生活に支障のない程度の日本語能力、というのも極めていい加減だ。「違い」をストレスに感じるのは、迎える側の日本人も来る側の外国人も同じはず。今回の法案が成立し、外国人労働者が従来以上のペースで増加した時、日本人も外国人も相手に対して適応できないケースが増えるに違いない。

特定技能2号の方は、定義からしてより「移民」に近い。とは言え、政府の考え方に従えば、特定技能2号で資格を何度も更新し、日本に何十年も生活した外国人が資格も持ったまま日本で亡くなっても、永住ではなかった、と済ませられてしまう。まさに法匪の論理である。

国際機関では、滞在期間が1年を超える外国人を「移民」とみなすことが多い。前出の国際移住機構もそうだし、OECDもそうだ。例えば、OECDの移民の定義を一般化すると、「他国に在住していた人が、通常の住居をある国の領域内に一定期間――最低12カ月の場合が多い――定める行為」というもの。少なからぬ国際的機関が外国人の在留期限として1年をメルクマールにしているということは、やはり、意味があるのだろう。

「移民」という言葉と結びつけなければ、1年というのは感覚的にもそれほど無理なく受け入れられよう。先ほどの質問も、「1年未満で帰る外国人労働者が1千万人」であれば、多くの人にとって抵抗感はかなり薄れるに違いない。

最初は1年を基準に考えてみて、もっと長期でも大丈夫そうだ、ということになって延ばすのならまだよい。しかし、最初から5年、あるいは永住でなければよい、という大甘の基準で始めるのは危険すぎる。一旦受け入れてしまえば、外国人であっても簡単に追い出すわけにはいかない。

今後は、日本の在留外国人について、他国との国際比較を通して考えるべきケースも増加するに違いない。その意味でも、在留期間1年超の外国人――移民と呼んでもいいだろうが、抵抗があるのなら、「長期在留外国人」でも何でも、好きな呼び方をすればいい――を特別のカテゴリーとして認識することが不可欠である。

余談~右翼の抗議を見て思ったこと

先週木曜日の夕方、帰宅する途中で日の丸が林立しているのを見た。何かと思ったら、右翼団体が外国人労働者受け入れ拡大法案(出入国管理法)に反対する街頭活動だった。看板には「がんばれ、安倍政権」と書いてあったが、この法案には反対なのだろう。日本国民の負担で外国人家族の社会保険を見るなんて言語道断、みたいなことを言っている。右翼じゃない一般国民もそこはまったく同意するだろう、と思いながら通り過ぎた。

だが、よくよく考えてみれば、右翼が外国人家族の社会保険負担の問題を強調しすぎていいんだろうか。その論を逆手に取られれば、外国人家族に対する社会保険サービスの提供を制限する法律を作れば、外国人がいくら入ってきてもよい、ということになりかねない。

右翼たるもの、外国人労働者――外国籍の国内生活者でもある――という名の移民が増えて日本の国柄や社会の安定性が脅かされる、という点をもっと強調してほしい。普段はどちらかと言えば右翼嫌いの私がそう思っているのに気づき、内心笑ってしまった。