「変えられない日本」が垣間見えた――英語民間試験の延期とマラソンの札幌開催

先週の金曜日(11月1日)、二つのニュースが駆け巡った。

一つは、来年から実施が予定され、来年からスタートすることになっていた大学入試への英語民間試験導入を見送ると文部科学省が発表したこと。
もう一つは、東京五輪のマラソン・競歩を札幌で開催することが最終的に決定したことである。

奇しくも同じ日に、既存の方針が変更される大決断が二つもなされたわけだ。しかし、この二つの変更には根本的な違いがある。

英語民間試験の場合、実施が5年後に延期され、その間に実施方法の改善が図られるとはいうが、実施するという大方針そのものは変わっていない。

これに対し、マラソン・競歩については、IOC(国際オリンピック委員会)の鶴の一声で札幌開催が決まり、東京で開催するという既存の方針は葬り去られた。

今回のIOCの独断と批判する声もあるが、東京五輪大会組織委員会、東京都、政府の三者だけであれば、東京でのマラソン開催をやめるなどという「乱暴だが正しい」答に行きつくことは絶対になかったであろう。

文科省(日本政府)といい、東京都といい、日本の組織は一度決められた方針を変えるのが苦手だ。このポストでは、二つのニュースを材料にしながら日本型思考の弱点について考えてみる。

1. 英語民間試験の延期

英語民間試験の源流

2013年10月31日、教育再生実行会議は第四次提言を取りまとめた。そこには「国は、TOEFL 等の語学検定試験やジュニアマイスター顕彰制度、職業分野の資格検定試験等も学力水準の達成度の判定と同等に扱われるよう大学の取組を促す」とある。この時、大学入試に民間の英語試験を活用するという方針はレールに乗った。

教育再生実行会議は2013年1月に閣議決定で設置が決まり、文科省ではなく官邸に置かれている。

「21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を実行に移していくため、内閣の最重要課題の一つとして教育改革を推進する」ため、「内閣総理大臣、内閣官房長官及び文部科学大臣兼教育再生担当大臣並びに有識者により構成し、内閣総理大臣が開催する」ものだ。ただし、閣議決定を読んでもその権限ははっきりしない。

有識者は、安倍晋三(総理大臣)、菅義偉(官房長官)、下村博文(当時の文科大臣)が少なくとも否と言わない人が選ばれる。当然、会議の提言内容もスリー・トップの意に沿わないものは入らない。

以上から、教育再生実行会議とは官僚的な積み上げの意思決定プロセスをバイパスし、安倍や安倍に近い人たちの考え方に基づいて教育改革を進めるための装置であることが見てとれる。

この年(2013年)、教育再生会議は2月、4月、5月、10月と4回も提言を出した。いじめ問題への対応(2月の提言)は急を要したのだとしても、それ以外はいかにも付け焼き刃の印象を免れない。

第四次提言を了承した教育再生実行会議(10月31日開催)では、自民党が同年5月23日にとりまとめた『教育再生実行本部 第二次提言』が参考資料として配布された。興味深いことに、この自民党の提言には「TOEFL等の外部試験の大学入試への活用の推進」という項目がある。英語民間試験の源流はこの辺りにあるのだろう。(ちなみに、同本部の「大学・入試の抜本改革」部会には、主査として山谷えり子、副主査として西川京子、萩生田光一、薗浦健太郎という、安倍好みの右翼的な政治家がズラリ並んでいた。荻生田が現文科大臣であることは言うまでもない。)

制度的欠陥品

教育再生実行会議の提言は、制度設計を含めた入念な検討を経て導き出されたものとは到底思えないものだ。言葉は悪いが、思いつきに毛が生えた程度のものも散見される。提言の作成段階では蚊帳の外に置かれ、実行プランの作成を丸投げされた文部科学省もさぞかし困ったことだろう。

総理大臣が主催する会議の中には政権とともに自然消滅するものも少なくない。しかし、安倍一強が続くこの政権では、官邸直轄の会議が出した提言は非常に重い。文科省はこの間、中央教育審議会の答申を得る等のプロセスを経て、英語民間試験の実行プランを作り上げた。合わない辻褄を無理やり縫い合わせながら作ったものだから、突っ込みどころは満載。先週、延期が発表されるや、メディアは英語民間試験の制度設計がいかに杜撰だったかを、一斉に叩き始めた。

本ポストでいちいち取り上げることはしないが、最大の欠陥は受験生の英語能力を統一的に評価する制度的な担保がないことだ。難易度の異なる7種類の試験のどれを受けるかで事実上、受験生に有利不利が生じる。入試システムに求められる最も基本的な「性能」を欠いた欠陥品、と言わざるを得ない。

中止ではなく、延期

ほんの一週間前まで、官邸や文科省は、見切り発車と言われても来年から英語民間試験を実施する、と決めていた。だからこそ、新任の萩生田文科大臣――上述の通り、英語民間試験の導入の言い出しっぺの一人である——は、出演したテレビ番組で「自分の、あの、私は身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで、勝負してがんばってもらえば」と発言したのだ。

世間的には、この「身の丈」発言で風向きが変わり、官邸も英語民間試験の導入延期に傾いたと考えられている。もちろん、10月25日に菅原一秀経済産業大臣、10月31日には河井克行法務大臣がそれぞれ辞任したことも大きく影響したことは言うまでもない。9月に内閣を改造して早々につまずいた官邸としては、これ以上批判される材料を放置できなかったのだ。

だが逆に言えば、菅原、河井のスキャンダルと荻生田の「身の丈」発言がなければ、英語民間試験は多くの欠陥を抱えたまま、実行されていたはず。「一度レールに乗ったら変えずに突っ走る」力というのは、すさまじい。

11月1日に政府(文科省)が発表したのも、英語民間試験の導入「延期」であり、「中止」ではない。6年前に決められた既定方針はまだ生きている。

政府に英語民間試験を踏みとどまらせた、と胸を張っている野党四党(立憲民主、国民民主、社会民主、共産)でさえ、先月24日に提出したのは英語民間試験の延期法案である。
政府が延期を発表した途端、英語民間試験に対する批判をヒートアップさせたメディアからも、その廃止を求める声はあまり聞こえてこない。

政府や与党サイドが英語民間試験を導入するという既定方針をやめられない、というのは、安倍一強の政治力学から(同意はできないが)何となくわかる。だが、これだけ批判されているにもかかわらず、「英語民間試験なんかやめてしまえ」という思い切った主張が政府・与党の外からもあまり聞こえてこないのはなぜか?

理由の一つは、英語をグローバル人材育成のためのツールと位置づけ、「読む・聞く」だけでなく「読む・聞く・話す・書く」の四能力を評価すべきだという意見に惑わされる人が多いことだろう。

しかし、試験の方法を変えれば英語力が伸びるわけではないし、TOEFLのスコアが高くても英語ができない日本人留学生も大勢いる。また、「読む・聞く」能力があれば、「話す・書く」能力は大学に入ってから英語漬けにすれば誰でも身につくものである。

二つめの理由は、「官から民へ=改革」という議論に弱い政治家や知識人が多いことである。

11月6日に開かれた衆議院予算委員会で安倍総理は「私は民間がやると悪くなる、民間はよこしまな考えを持っているという考え方はとらない。民間の活力や知恵を導入していくのは当然あってしかるべきだ。民間事業者などが手を挙げることを、最初から排除しなければいけないという考え方は間違っている」と述べた。こう言われると黙ってしまう政治家やメディア関係者は意外と多い。

安倍が言うとおり、「民間=悪」という考え方は間違いだ。しかし、「民間=善」という考え方も同じく間違っている。全国レベルで実施する英語入学試験の場合、民間の採用は明らかに不適切だ。

例えば、民間(NPO)の試験としてTOEFLだけを採用するのであれば、正当かつ公平な試験としての信頼性は担保される。しかし、受験料は1回あたり2万円台半ばになる。年間50万人という大量の受験生に対応することもむずかしいだろう。多くの受験生にとっては難易度が高すぎる、という問題もありそうだ。
かと言って、GTEC(ベネッセ)一本にしたのでは、予備校が入試本番の試験を実施する主体になってしまい、アンフェアな臭いがプンプンしてくる。率直に言って、試験としての権威も低い。

安倍総理には、英語試験は「民間でやれば悪くなる」ということに気づいてほしいものである。

既定方針を変えることのむずかしさ

組織が既定方針を「変える」ということにはむずかしさがつきまとう。

一つは、変えれば何でもいい、というわけではないこと。変える以上は、問題を解決(または改善)できなければ意味がない。

2012年12月から続いている安倍政権は、集団的自衛権の行使容認をはじめ、この国に様々な変化をもたらしてきた。そのすべてを否定するつもりは毛頭ない。だが、よく見ると、変化の細部に魂がこもっていないものが少なくないことも事実だ。集団的自衛権の行使容認ですら、過去の解釈と継ぎはぎだらけにしたため、日本の武力行使に対する制約は基本的に残ったままである。

もう一つのむずかしさは、一度方針を決めたら、それが機能しない現実が生じているにもかかわらず、既定方針のまま走り続ける傾向がいかなる組織にもある、ということ。

これは、何も日本の組織だけに見られるむずかしさではない。だが、強い忖度感情や組織に対する忠誠度の高さなどから、日本の組織で特に目立つ困難であろう。

英語民間試験については、以上の二つのむずかしさが同時に表面化した。

まず、英語民間試験の導入という考えそのものが、変化の方向性が間違っていた。安倍総理を含め、日本の教育を復古的方向に変えることに熱中した人たちが、英語試験でお遊びをした、というのは言い過ぎであろうか。

加えて、英語民間試験の実施プランを作成する過程で問題点が噴出し、このままでは受験生にとって大迷惑となり、本来狙った英語力向上という効果も見通せなくなったにもかかわらず、政府は当初予定通りの実施に向けて突っ走った。そして、英語民間試験の導入という方針そのものは今も生きている。

英語民間試験の問題は、これからが正念場だ。

 

2. マラソンの札幌開催

有無を言わせなかったIOC

英語民間試験の延期が発表されたのと同じ日、国際オリンピック委員会(ジョン・コーツ調整委員長)、東京五輪大会組織委員会(森喜朗会長)、東京都(小池百合子知事)、政府(橋本聖子五輪相)の4者が最終協議を行った。その結果、来年行われるオリンピック競技のうち、マラソンと競歩については札幌で開催することが最終的に確認される。小池は「合意なき決定」と述べたが、最初から都に決定権はなく、結論は決まっていた。この協議は都民の前で「怒れる都知事」を演じさせ、小池の面子を保つための儀式だったと言えよう。

マラソンと競歩の開催場所を東京で開催しない、という大ナタを振るったのは、IOCという日本外の組織である。東京五輪大会組織委員会、東京都、日本政府という国内の組織に決定権があったなら、お互いに牽制しあうか忖度しあう結果、IOCが下したような「無茶だが、正しい」変更は絶対にできていない。

やばくてもやるしかない

2013年9月7日、来年の7月下旬~8月初旬に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されると決まった。それから6年、準備は着々と進められてきた。

その一方で、最近の日本列島の夏は記録的な猛暑続き。多くの日本人の間で「真夏の東京でオリンピックやって大丈夫か?」という懸念が共有されるようになった。選手はもちろん、観客やボランティアを含め、熱中症でバタバタ倒れたらどうするのか、というわけ。

今年の9月27日から10月6日までドーハ(カタール)で開催された世界陸上は、そうした不安を増幅させるものであった。
女子マラソンは深夜11時59分のスタート時に気温32度、湿度74%。68人中、28人が途中棄権し、完走率は6割を割った。「昼やっていたら死人が出たのでは」という声すらあがっている。男子50キロ競歩も午後11時半のスタート時に気温31度、湿度74%。46人中18人が棄権し、完歩率は約6割だった。
この「惨状」を見て、テレビやお茶の間では「東京も危ないんじゃないか?」と心配する人の数がさらに増えた。

しかし、だからと言って、「マラソンを東京で開催しない」という選択肢が頭に浮かんだ日本人はほとんどいなかった。
私自身、「真夏の東京でマラソンはやばい」とは思っても、「マラソンは東京以外で開催すべき」とまでは露ほども考えなかった。
東京都や組織委員会、日本政府と同じく、「東京オリンピックなんだから競技は東京で」という思考の枠組みから一歩も出ていない。恥ずかしながら、「死人が出ても東京でやるしかない」と考えていたのと同じことだった。

組織委員会や東京都も馬鹿ではない。ドーハ世界陸上の前から、猛暑対策には危機感を募らせていたはずだ。

既に昨年12月、猛暑対策としてマラソンのスタート時間は当初予定されていた午前7時から午前6時に前倒しすることが決まっていた。これをもっと早めることくらいは、当然検討していただろう。実際、IOCから札幌移転の話が出ると、東京都はスタート時間を午前5時よりも前にすることを慌てて提案した。
このほかにも、都はマラソン・コースに遮熱性・保水性塗装を施すという公共事業にも注力してきた。(ただし、最近になって遮熱性塗装は逆効果だという指摘も出ている。)

「暑い東京でマラソンを実施する」という枠組みの中で、都も組織委員会も考えられる手は打ってきた。それは認めよう。しかし、道路に遮熱性塗装を施し、スタート時間をいくら早めたところで、焼け石に水。最近の東京の猛暑は対策してどうにかなるレベルを超えている。

考え得る最大限の努力を払っても、競技の最中に選手たちが体調を崩して大量に棄権する——最悪の場合は選手の生命が危険にさらされる——事態が来年、相当の確率で起こりうる。これを黙認することは、「健全なコンディションの下で安全に競技を実施する」というスポーツの常識、人間界の良識に照らして考えた時、不道徳の極みだ。結果的に来年が冷夏となり、取り越し苦労と笑われることになったとしても、放置するには大きすぎるリスクを放置することは、決して許されない。

ところが、「東京でマラソンをやる」という前提の下に立つ限り、日本ではしっかりした組織や有能な人ほど、「リスクがあってもやるしかない」「できることはすべてやろう」「そのうえで、リスクが残るのは仕方がない」という発想になる。既存方針の枠組みそのものを変えよう、という発想は出てきにくい。

枠組みから出れば解決法はあった

ドーハの世界陸上を見て、「東京でマラソンや競歩をやったら、非人道的な事態が起こる可能性が高い」と懸念し、「それは許されない」から「東京以外のもっと涼しいところに変える」という思考回路で判断を下したのがIOCだった。その結論が札幌開催である。

IOCの決定について、「もっと早く言え」とか「関係者とちゃんと話し合え」という批判が出ることは理解できる。東京開催を前提に準備してきた選手や関係者の努力を無にするものだ、という同情の声も当然、出てきた。

しかし、IOCは初めからそこは割り切っていた。この時期に札幌開催へ変更することについて批判が出たところで、来年の本番を東京で行って選手たちに大トラブルが起きるリスクに比べれば、大したものではない、と。

変えるのならもっと早く変えるべきだった、と言われても、過ぎ去った時間は取り戻せない。
関係者と話し合っても、反対されて時間が過ぎるだけ。
選手や関係者の声なら、世界中で見れば会場変更を歓迎する声の方がおそらく多い。
東京都の自分勝手な言い分に気を使った結果、選手が健康を害するリスクを甘受することは、IOCにとって論外だったであろう。

「東京開催という前提で安全が確保できないのなら、東京開催という前提を見直す」というIOCと、「東京開催という前提で努力してきたのだから、東京開催は譲れない」という東京都。IOCに最終的な決定権限があるという契約上の問題だけでなく、論理の面でも勝負は初めから見えていた。

報道によれば、10月30日に行われた調整委員会の席上、小池知事は「(東京開催に向けて準備を進めてきた)選手や地元の人の気持ちをないがしろにはできない。ワンチームで大会を成功させたいという強い思いは、この場におられる皆さんの共通の思いだ」とコーツ委員長を睨みつけたという。「東京で開催しても選手や観客の安全は守られる」と主張できない小池は哀れであった。(この文脈で「ワンチーム」という言葉を使うのもラグビーの日本チームに失礼だと思った、というのは余談である。)

私も偉そうなことは言えないが、東京以外――札幌でなくてもよい――でのマラソン開催を日本側から提起していれば、と思わずにいられない。後から気づいたことだが、東京オリンピックの本番でも、競技のうちいくつかは、東京都どころか関東以外の会場で行われることになっている。例えば、サッカーの一部は札幌、宮城、埼玉などで予選が開催される。

「オリンピックの花」と呼ぶ人もいるマラソンをサッカーの予選なんかとは一緒にできない——。こうした「傲慢な常識」が、関係者を既存の枠組みに閉じ込めてしまったのであろうか。

変えられない国、ニッポン

日本の組織は、既定方針の下で頑張るのは概して得意だ。ラグビー・ワールドカップでは、台風など自然災害の襲来はあったものの、結果的には決められた枠組みの中で運営されたため、協会、地方の協力自治体、ボランティアなどの献身的サポートによって日本大会の運営は大成功を収めた。(日本をはじめとした各国選手の奮闘ぶりは言うまでもない。)

一方で、既定方針の下でいくら頑張っても駄目な時にその既定方針を見直すことは、日本の組織が苦手とするところだ。戦前の日本の指導部(軍部・政府)も、米国に勝てるとは思わないまま、米英との対決路線を変えることはなかった。英語民間試験についても、同じ構図が見てとれる。マラソン・競歩の開催場所を東京から札幌に変えたのがIOCという日本外の組織だったことは、実に象徴的であった。

既存の秩序が国際的にも国内的にも大きく揺らぎ始めた今日、既存の方針が機能しないときにそれを変える力の有無は日本の将来を大きく左右するはずである。

普天間飛行場の辺野古移設もそうだ。その基本方針は23年前に決まり、工事はようやく始まったものの、軟弱地盤の問題も出てきて未だ完成のめどは立たず。何よりも、当時と今では安全保障環境が激変した——主には中国の軍事力が急伸したことと米国のコミットメントが不透明化したこと——のに、3兆円以上の金をかけるべきプロジェクトなのか、という根本的問題がある。だが、日本側は誰も方針の見直しを言い出そうとしない。変える覚悟を感じられないのは、野党や沖縄県も同じだ。

マラソン・競歩の開催地変更にまつわる顛末は、スポーツのみならず、日本型組織全般の「変えられない」体質を浮き彫りにした。
我々はそこから何かを学び取れるのであろうか。

蛇足――IOCに挑戦せよ

IOCはマラソン・競歩のコースを東京から札幌へ変更するに当たり、「アスリート・ファースト」を強調した。
世界的に異常気象が常態化しつつある時代にあって、夏季オリンピックに立候補できる都市は今後、日本に限らず、限定される可能性が出てくる。だが本来、オリンピックはどこの国(都市)でも立候補できるのが当然だろう。それができなくなるのなら、「オリンピックは真夏に開催する」という現在のIOCの枠組みは変えた方がよい。

今回の騒動を受けて、オリンピックを真夏に開催するのがそもそもの問題、という指摘が日本国内からも出てきている。小池をはじめとする関係者に「煮え湯を飲まされた」という思いがあるのなら、なおのこと日本(JOCや日本政府)は、オリンピックの開催時期見直しを声高に主張すべきだ。

もちろん、ただ主張するだけでは既存の枠組みは変わらない。7~8月にオリンピックを開催するのは、巨額の放映料を支払う米テレビ局の意向に沿ったものだと言われている。日本だけがいくら正論をぶってみても、一顧だにされまい。一国で敵わなければ、仲間をつくるしかない。欧州諸国、そしてアジアで同じような緯度に位置する中国、韓国などとタッグを組む、という発想が必要になるだろう。

実際には、日本政府やJOCは「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で何もしない可能性の方が高い。既存の枠組みの中で頑張るのが日本らしさ、と言えばそれまで。でも、「日本らしさ」にも進化は求められるはずだ。動き出したい。

日韓摩擦の泥仕合~ルーズ・ルーズ・ゲームは続く

徴用工判決が出た直後の昨年11月7日、「日韓関係、あと10年は駄目だろう」と本ブログで書いた。

案の定、その後の日韓関係は悪化した。今夏、日本政府がついに貿易面で韓国に圧力をかけたところ、韓国側は軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を含め、予想を上回る反発を示す。

今や、日韓のメディアが日韓関係悪化のニュースを報じない日はない。ワイドショーで「ジーソミア」などという言葉が飛び交う始末。日韓関係は単に泥沼化したのみならず、泥仕合になりつつあるようだ。

問題は、この泥仕合の向こうで日韓双方が国力を確実に摩耗させていること、そして、この泥仕合に終わりが見えないことである。

泥仕合化

日韓関係は、単に悪化するだけでなく、泥仕合の様相を呈してきた。

1. 日本のトランプ流採用と韓国の過剰反応

韓国大法院の徴用工判決が出たのは昨年10月30日。その後、日本政府は仲裁委員会の開催を要請するなど、日韓請求権協定の枠組みで問題を解決する体裁をとった。ここまでは日本側の冷静さ――内心は激怒していたのであるが――が際立った。

しかし、去る7月18日に韓国政府が仲裁委設置を事実上拒否したのを待って、日本側もついに「実力行使」に出た。韓国向け半導体部品の輸出規制、輸出管理におけるホワイト・リストからの韓国除外という措置を矢継ぎ早に発表したのである。これに対し、韓国側も報復措置をとり、日韓の対立は一気にエスカレートした。日韓双方は、政府も国民もナショナリズムの虜になってしまった感がある。

日本側の対韓輸出管理厳格化は、安全保障上の措置と言ってはいても、実際には徴用工問題への対抗措置にほかならない。韓国に対して「ウンザリ感」を募らせている日本人の中には、爽快に感じた向きも少なくなかっただろう。これ、世界は「安倍がトランプ流に倣った」と見ている。トランプが中国に対し、知的財産権や軍事戦略上の目的を達成するため、関税引き上げや貿易制限を恣意的に発動しているのと同じことを安倍が韓国に対してやった、というわけだ。

韓国側が日本政府の措置に対応した報復措置(日本をホワイト・リストからはずすなど、対日輸出管理の厳格化)をとったのは、まあ仕方のないことであろう。だが、韓国の動きはそれにとどまらなかった。日本からの石炭灰輸入に際して放射能検査を義務付ける措置、日本産食品17品目やプラスティック廃棄物等に対する放射能検査の強化など、輸入面でも報復措置を打ち出し、民間では日本製品不買運動や日韓航空便の運休・減便などが広がった。極めつきは、安全保障協力分野にまで飛び火させ、GSOMIAの破棄を通告した。まだ足りないと思ったのか、8月25日には竹島でイージス艦まで投入した軍事訓練を行い、米国防総省でさえ「生産的でない」と顔をしかめた。8月31日には韓国与野党の国会議員が竹島に上陸する。この国にバランス感覚というものを期待してはいけない、と思うのは日本人ばかりではあるまい。

米中貿易戦争においても、対米関税の引き上げ等、中国は対抗措置をとっている。だが、私に言わせれば、中国の対応の裏側には、まだ理性がある。中国は、自らの対抗措置が最初に米国がとった措置を超えないよう配慮し、事態のエスカレートを少しでも防ごうと努めているように見えるからだ。(それでも、トランプが追加措置を発動するので結局、エスカレートは止まらない。)それに対し、韓国の反応は、ただ感情をぶつけているだけにしか見えない。

今後、安倍はトランプよろしく、韓国に対してさらなる打撃を加えるのか? 私は、少なくともこのタイミングでは、新たな措置をとる必要はないと思っている。こちらの意思は、すでに二発の輸出管理強化で示してある。GSOMIA破棄や竹島上陸に反応して日本が追加制裁措置をとっても、後述するように効果はない。であれば、世界から「日本も本当にトランプ流でいくつもりだ」と思われてもつまらない。情緒不安定な韓国と同一視されるのも不愉快な話だ。

2. 感情的な言葉の応酬

日韓双方の政治レベルでの言葉の応酬が、泥試合の様相を一層強めている。

韓国側はトップの文在寅大統領が感情に任せた――あるいは、国内的な「受け」を意識した――発言を繰り返している。「加害者の日本が盗っ人たけだけしく大声をあげている」「北朝鮮との経済協力で平和経済を実現し日本に追いつく」などという発言は、一国の指導者として品格も戦略もあったものではない。韓国の与党議員に至っては、日本のメディアをわざわざ集めたうえで、「4歳児みたいな行動」「笑止千万」などという表現を使って日本の行動を批判した。

日本側は、安倍総理や菅官房長官がまだ抑制的なトーンを貫いているのが救いである。しかし、河野太郎外務大臣はまだお若いのか、マスコミのカメラが回っているところで韓国大使の発言を遮り、「きわめて無礼」と発言した。外務大臣がすぐに激するようでは落第だ。竹島についても、あの丸山穂高が「戦争で取り返すしかないんじゃないですか」とツィート。さらに、在日韓国大使館には銃弾と脅迫文が送られた。世界から見たら、韓国だけでなく日本も、「危なっかしい国」と映っているに違いない。

3. 主張は水掛け論

肝心の徴用工問題についても、日韓の主張のどちらが正しいのか、という点について冷静な議論は行われていない。

この間、日本政府の態度は一貫している。すなわち、両国間の賠償問題は1965年の日韓請求権協定によって「完全かつ最終的に」解決済みである、ということ。したがって、韓国大法院の判決は「国際法違反の状態を作り出した」ものであり、断固として認められない、となる。

多くの日本人が聞けば、実に説得力のある議論に聞こえる。だが実は、国家間で戦時の賠償問題が片付いても、個人による旧敵国への賠償請求権は残る、という考え方が国際法では主流。そこに人権問題が絡めば、日本政府の主張が国際社会で広く受け入れられるかは微妙なところである。安倍総理が国際法違反の中身にあまり立ち入らず、「韓国は国と国との約束を守ってほしい」と繰り返すのも、その辺が影響しているのではないか、と私などは勘ぐってしまう。いずれにせよ、多くの日本人は「韓国の国際法違反」という主張を信じて疑わない。

一方で、韓国側は当然、個人の請求権は日韓請求権協定によっても消滅していない、と論陣を張る。だが、韓国側にも弱みはある。2011年8月に韓国大法院が従軍慰安婦問題で韓国政府の無為を違憲とする判決を下すまで、韓国政府は日本政府に対して「賠償の問題は個人の分を含め、1965年の日韓基本条約と請求権協定で解決済みである」と40年以上にわたって認めてきた。その意味で、韓国政府の約束破りは明白だ。日本政府の方も業を煮やし、韓国政府が個人請求権については自ら責任を引き受けると述べていた「約束」を証拠として公開し始めている。ただし、韓国政府は過去の政府間合意について国内向けにはあまり語ろうとせず、「日本政府が悪い」の一点張りだ。

日本側は韓国の態度を「国際法違反」と決めつけ、韓国側も大法院判決の正当性を叫ぶだけ。両国の外務当局が協議に臨んでも、お互いに相手の説には耳を傾けることなく、自国の立場を一方的に繰り返すだけ。これを泥仕合と呼ばずして何と呼ぶのであろうか。

双方効果なし

泥仕合でも、我々が韓国側の行動を変えられるのであれば、まだ救いはある。韓国側の常軌を逸したような行動についても、それで日本に何らかの影響を与えられるのであれば、少しは理解できる部分もあるだろう。しかし、日韓双方のやっていることは、相手にほとんど影響を与えることはない。そもそも、経済制裁によってナショナリズムを押さえつけることは、よほど条件が整っていない限り、基本的には不可能だ。それが簡単にできるなら、北朝鮮はとっくに核開発をやめているし、米中貿易戦争もこんなに長期化していない。

〈日本→韓国〉

今回、日本政府が輸出管理規制を韓国に課した狙いは、言うまでもなく、徴用工判決をめぐって韓国に圧力をかけることにある。

安倍政権の中には、韓国政府が徴用工問題の政治的解決に取り組むよう、圧力をかけたいと考える強硬派もいるだろう。だがそれは、日本で言えば最高裁判決で有罪判決が出たあとに政府が介入して判決を無効にしようとするようなものだ。曲がりなりにも三権分立の韓国でそんなことは制度的にできない。無理にやれば、政権は倒れてしまう。したがって、日本が圧力をかけても、韓国政府が徴用工問題を考え直す、と期待するのは(残念ながら)見当はずれだ。

日本政府内には、韓国側に目に見える形で圧力をかけることによって、韓国側が差し押さえた在韓日本企業の資産を処分するなど、徴用工問題で次なる行動に出ることを牽制する意図があったと言われている。「日系企業の資産に手をつければ、さらなる制裁を実施するぞ」という無言の脅しをかけた形だ。だが、そうした効果を多少は期待できるとしても、それほど長続きするだろうか? 韓国の法制度に詳しいわけではないが、最高裁(大法院)判決が出た以上、いつまでも執行を止めておけるとは考えにくい。

では、日本政府の措置によって韓国の世論が軟化し、結果として徴用工問題で韓国側に何らかの変化が生まれることは期待できるだろうか? 日本では、文在寅大統領の対日姿勢に批判が高まっているという報道が目立つ。しかし、文の不支持率が5割を超えたのは、文が次期法相に据えようとする側近(チョ・グク元大統領府司法担当首席補佐官)のスキャンダルによるところが大きい。それに、文の支持率もまだ4割を超えており、まだまだ「追い込まれた」という状況ではない。

韓国の歴代政権は支持率が下がるほど、対日強硬姿勢をトーンアップさせてきた歴史を持つ。2012年8月に李明博大統領が竹島に上陸した時は、前月に実兄が収賄で逮捕され、支持率は2割を切っていた。大統領就任時は「未来志向」の日韓関係を追求した盧武鉉も、政権のレームダック化が進むにつれ、歴史問題等で対日姿勢を硬化させた。竹島(独島)が韓国領土であることを強調した特別談話を出して支持率を(一時的に)改善させたこともあった。文在寅についても、今後支持率が急低下したりすれば、ナショナリズム・カードを積極的に切ってくる可能性が大いにある。その時、日本側の追加制裁によって文を止めることは不可能だと思っておいた方がよい。

私自身は、輸出管理強化に踏み切った日本政府の意図は、上述のような駆け引きの側面よりも、日本側の韓国に対するイライラ感の表明という側面の方が強かったと考えている。日本国民の多くが今回の政府の措置を評価しているのも、そこに共感したからだろう。韓国という国には、「下手に出れば、どこまでもつけあがる」という傾向がある。戦後の日韓関係の中で「文句を言い続ければ、最後には日本が折れてくれる」という甘えの構造をすっかり身につけてしまった。ホワイト・リストはずしの最大の意義は、「もう黙っていませんから、そのつもりで」というメッセージを日本から韓国へ送ったことにある。

〈韓国→日本〉

日本による対韓輸出管理の厳格化という一手に対し、過剰ともいえる反応を示した韓国。しかし、韓国がどれだけ過激な行動をとっても、日本政府が一度下した決定を覆す効果は期待できない。

安倍政権は、対韓輸出管理厳格化を(建前は安全保障目的だが実際には)徴用工問題に対応するカードと位置づけている。日本国民も主要政党も同様の認識だ。したがって、韓国側が「GSOMIA等の措置を取り消してほしければ、韓国をホワイト・リストから除外した措置を撤回せよ」と言ってきても、まったく噛み合わない。

しかも、韓国側の措置は、国家のプライドを曲げなければならないほどの痛みを日本に感じさせるものではない。もちろん、日韓貿易に関わる企業や、韓国人観光客の減った旅館・食堂・土産物屋等の関係者にとって、多かれ少なかれ、経済的打撃があるのは事実だ。しかし、彼らが日本政府に対して譲歩を求めるような雰囲気は皆無と言ってよい。

日本側の報道には自国に都合のよいニュースを取り上げがちであると先に述べた。その傾向は韓国側の報道にも見てとれる。枝野幸男立憲民主党代表が河野外務大臣を批判したニュースも、朝鮮日報が早速、誇張気味に伝えていた。だが、枝野を含め、立憲民主党、国民民主党、野田前総理のグループなど旧民主党系の野党は、いずれも徴用工判決を批判し、安倍政権が発動した貿易管理強化を支持している。民主党政権(野田内閣)時代、GSOMIA締結で合意していたにもかかわらず、協定締結の1時間前になって韓国側にドタキャンされた、という前代未聞の事件が起きた。彼らが「親韓」というのは相当古い認識だ。

リベラル系のハンギョレ新聞になると、もっとすごい。例えば、「安倍政府は日本市民の良心的な声に耳を傾けるべき」という社説。現実の日本では、リベラルの多くを含め、圧倒的多数の日本人が韓国に対して嫌悪感(ウンザリ感)を抱いている。その根の深さが韓国側にはなかなか伝わらないのかもしれない。こうしたバイアスのかかった報道を通じて、韓国側が「超強硬な対応策の効果があった」などと勘違いしないよう願うばかりだ。

終わりの見えないルーズ・ルーズ・ゲーム

かくして、日韓双方の行為は、相手の言動を変えるという点では、効果がない。一方で、相手の反感を高めて事態をエスカレートさせるという、作用・反作用の効果は確実に発揮されている。また、後述するように致命的なものではないが、日韓の経済活動にマイナスの影響を与えていることも否定できない事実だ。

かつて日中間では、両国関係をウィン・ウィンの関係にする、ということが盛んに言われた。ウィン・ウィンとは、「両国が協力しあえば(協力しないよりも)お互いに得になる、だから協力しましょう」という意味である。これに対し、「一方が損する分、他方が得をする」というのがゼロサム・ゲーム。そこでは、協力ではなく対立が行動の基調となる。

今日の日韓関係を見ると、一方の損が他方の得になっている、というわけでもない。例えば、日本の対韓輸出管理厳格化。韓国側が事務的、時間的に困るのはもちろんだが、だからと言って日本側の儲けが増えるわけではない。日本側も、手間が増えたり顧客を失ったり、いいことは一つもない。韓国側の措置についても同様。日本製品のボイコットによって当該日本企業(例えばユニクロ)の売り上げは少し落ちるだろう。代わりに、韓国の消費者は比較的安価で高品質な製品を買えなくなる。GSOMIAの破棄に至っては、日韓双方の安全保障にとってマイナスとなり、笑っているのは北朝鮮や中国である。「ルーズ・ルーズ・ゲーム」以外のなにものでもない。

双方にとってマイナスばかりなのであれば、そんな緊張関係は早く終わらせるのが理性的な判断であろう。だが、その理性的判断ができなくなるのがナショナリズムのナショナリズムたる所以。ましてや、現時点で日韓両国の対抗措置の応酬が及ぼす影響は、日本だけでなく、韓国にとっても、たいしたものではない。

日本側の措置は、あくまでも「輸出手続きの厳格化」であり、「禁輸」ではない。最初は事務手続き面で時間がかかるにせよ、日韓の業者は早晩適応するだろう。韓国側はヒステリックに反応したが、対韓輸出が大きく落ち込むような事態は起きないと思われる。

韓国側のとった措置も、輸出に関しては基本的に同様のことが言える。輸入面の措置についても、韓国一国が一部産品について制限をかけたところで、日本側が耐えられない事態にはほど遠い。

GSOMIAが破棄されることの影響はどうか? 日本にとって(韓国にとっても)安全保障に関わる情報の精度が落ちることは避けられない。また、日韓の防衛協力全般がギクシャクしているという対外的メッセージを発したのも同然であった。ただし、北朝鮮や中国の脅威を考えた時、米韓双方にとって圧倒的に重要なのは米軍の情報。日本も韓国も、米国との同盟関係は維持できている。

とは言え、これが一昨年であれば、韓国もGSOMIAの破棄にはとても踏み切れなかったであろう。当時は、トランプと金正恩がチキン・ゲームを続け、米朝開戦の可能性が真面目に懸念されていた。今も北朝鮮が核・ミサイル開発を継続していることは誰の目にも明らかだ。しかし、トランプと金正恩が相互に自重する密約を結んでいる現在、北朝鮮が日本や韓国を攻撃してくる兆候はない。そうであれば、GSOMIAも、あった方が安全保障上はよいに決まっているが、なくても致命的に困る、というほどのことではない。

では、日韓が今後、米中貿易戦争並みの関税引き上げ競争などにエスカレートさせれば、結果は変わってくるのか? 日韓の場合、国力が今やそれほどかけ離れていないうえ、経済的相互依存の構造も割と対称的になってきた。日韓の間で経済的手段によってナショナリズムを屈服させることは、ますます困難になったと考えなければならない。

まず、日韓のGDPと両者の規模を時系列で比較してみよう。

〈日韓のGDP比較〉

1980 1990 2000 2010 2018
日本 1,044.88 2,451.67 3,418.87 4,484.79 5,594.45
韓国 83.512 323.605 776.442 1,473.30 2,136.32
韓国/日本 8% 13% 23% 33% 38%
単位:10億米ドル(購買力平価)。 2018年の数字はIMFによる推計値。
(International Monetary Fund, World Economic Outlook Database, April 2019)

韓国が日本を着実にキャッチアップしていることは一目瞭然。ただし、これだけでは、韓国経済は日本経済の半分にも満たない、という見方もできよう。だが、次の表で一人当たりのGDPについて日韓を比較してみると、韓国はもうほとんど日本に並んでいる。IMFの推計では、2023年には日本を抜くという衝撃の事態が現実になりそうだ。

〈一人当たりGDPの日韓比較〉

1980 1990 2000 2010 2018 2023
Japan 8,948 19,861 26,956 35,149 44,227 51,283
Korea 2,191 7,549 16,517 29,731 41,351 51,418
単位:米ドル(購買力平価ベース)。 2018年以降の数字はIMFによる推計値。
(International Monetary Fund, World Economic Outlook Database, April 2019)

貿易相互依存度についても、日本が圧倒的に有利というわけではない。確かに、韓国の貿易には、半導体をはじめ、日本から輸入した素材、部品、製作機械などを組み立てて輸出するという構造がある。しかし、日本が対韓経済措置を強化すれば、韓国の方が先に音を上げるだろうか? そうはならなそうだ。

IMFのデータをもとに計算すると、昨年(2018年)段階で日本にとって韓国との貿易(輸出入)は全体の5.6%を占めた。 これに対し、韓国の貿易の7.5%が日本と間で行われている。日本の方が低いが、その差は絶対的なものではない。

これが昔であれば、話は違ったであろう。例として1990年時点の数字を見てみる。日本の対韓貿易が全体に占める割合は5.6%で現在と変わらない。だが、韓国の対日貿易は全体の21.9%を占めていた。対米貿易が全体の16.9%だったから、日本の存在感がいかに大きかったかわかる。当時と較べた時、現時点で韓国経済にとって日本の持つ意味は明らかに低下した。今後、日本が経済的対抗措置を追加発動しても、韓国が屈服するとは考えにくい。

現状は、双方の発動している経済措置は比較的軽微なものであるため、それぞれ相手にとって致命的な打撃を与えることはなく、日韓両国ともに十分耐えられる。仮に今後、日韓が経済的措置をエスカレートさせたとしても、マイナスの影響がどちらか一方に極端に偏ることはないため、どちらかが先に屈服する、ということは期待できない。むしろ、こうした措置の応酬は日韓両国でナショナリズムを煽るため、双方がやせ我慢を続けることになる可能性が高い。

我々に言わせれば、売られた喧嘩。しかし、向こうは逆の受け止めだろう。いずれにせよ、ルーズ・ルーズ・ゲームをいつまでも続けなければならないとは、愚かな話だ。