立憲的改憲の限界~山尾案と安倍案はよく似ている

安倍政治の次の焦点は憲法改正、とメディアがはやしている。だが私は、安倍からも自民党からもそこまでの熱気を感じない。世の中もまったくと言っていいほど盛り上がっていないのではないか。

自民党は2012年4月に憲法改正草案を発表した。その評価はともかく、一つの提案だったことは事実。ところが、2017年5月に安倍晋三総理(自民党総裁)が自衛隊追記案を提案するや、自民党はあっという間に従来の憲法草案を捨て去り、安倍案を追認した。「長いものには巻かれろ」ということか、「改憲できれば何でもいい」ということか、いずれにしてもいい加減な話である。

一方で、野党の方からも対案の類いは聞こえてこない。共産党や社民党は「護憲」だからまあ許せる。しかし、立憲民主党や国民民主党は「安倍政権の下での改憲には反対」と言うばかり。例によって、何がしたいのかさっぱりわからない。
と思っていたら、山尾志桜里衆議院議員が『立憲的改憲』という著書の中で独自の9条改正試案(私案)を発表しているのに気がついた。本の題名からは、憲法によって権力を縛ることを重視した改憲論、という意気込みが窺われる。

山尾と言えば、私生活の面でいろいろ注目され、政治家として毀誉褒貶の激しい人だが、その点にコメントするつもりはない。党(立憲民主党)の迷惑を顧みずに9条改正試案を発表した一事から見る限り、政策論については真面目な人なのだろうとは思う。そこに敬意を表しつつ、本ポストでは山尾がせっかく出した9条改正試案を俎上に載せてみたい。

今回は「安倍の自衛隊追記案との比較」という視点を意識して山尾試案を検証することにした。両案は共に現行9条への加憲という形式をとっているうえ、山尾自身が安倍案を相当意識しているように見えるからだ。

以下では、現行9条、安倍の自衛隊追記案、山尾案と順を追って解説していく。

現行9条~議論の前提

現行の憲法9条はもうお馴染みであろう。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を子供たちが普通に読めば、日本は軍隊を持てないんだ、と思う。私も子供の時はそうだった。現実にも、1947年5月に憲法が施行されてから3年余りの間、日本には自衛隊類似の組織を含めて軍隊らしきものは存在しない時代があった。

しかし、1950年6月に朝鮮戦争が起きると、米国政府(GHQ)は「日本がいつまでも武装解除のままでは不都合だ」と思うに至り、自衛隊の前身となる警察予備隊等の創設を命じた。もちろん、それまでの解釈に従えば憲法違反だ。

そこで当時の日本政府(内閣法制局)がひねり出したのが、「憲法には書いてないけど、国家は自然権として自衛権を持っている。個別的自衛権の一部は憲法が禁止している武力の行使に含まれない。だから、その限りにおいて軍隊のように見える組織(自衛隊)を持つことは憲法違反じゃないんだよ」という屁理屈。その後、2014年7月になって「集団的自衛権の一部も憲法が禁止している武力の行使に含まれない」という解釈変更がなされたことは周知の事実であろう。

子供の素直な感覚ではヘンテコにしか思えない理屈でも、それを認めない限り、自衛隊は憲法違反になってしまう。永田町や霞が関では長い間、このヘンテコな理屈に疑問を挟むことはタブーとされてきた。

安倍の自衛隊追記案 ~「現行解釈を変えない」と言うけれど・・・

2015年9月に安保法制を成立させた時、安倍総理は上記の理屈の上に立ったうえで集団的自衛権の行使を部分的に容認した。ところがその1年半後、安倍は「自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば命を張って守ってくれ、というのはあまりにも無責任だ」と述べて、9条1項、2項を残しつつ、自衛隊の存在を明文で書き込む憲法改正を提案した。自民党はこれを追認し、自衛隊追記案は現在の「改憲4項目」の一つとなっている。条文的には、概ね以下のようなイメージだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

これを初めて見たときの感想は、醜い構成だな、というもの。元々ある1項で「国権の発動たる武力の行使」を放棄しておいて、1項の例外として自衛権の行使はできる、と追記するわけだが、例外が大きすぎて何とも不格好。言うまでもなく、自衛権の行使は「国権の発動」以外のなにものでもない。これを例外扱いにしたら、1項で禁ずる中身はスカスカ。安倍改憲後の9条の下で禁止されるのは、あからさまな侵略戦争くらいだ。自ら「侵略戦争だ」と言って戦争する国はない。9条が「戦争の放棄」を謳っている、と説明するのはしんどくなるだろう。

一方、永田町では、安倍が自らの改憲提案について「自衛隊の任務や権限に変更が生じることはない」と説明していることに反応が集まっている。

第1は、安倍が説明するとおり、改憲しても何も変わらないのであれば、単に自衛隊の存在を明記するだけではないか、という右サイドの失望。
わざわざ改正するのだから、自衛権行使の幅をもっと拡大できるようにしなければ意味はない、というのである。

第2は、安倍が説明するとおり、改憲しても何も変わらないということは、「安倍の自衛隊追記案に賛成すること」イコール「集団的自衛権の一部容認を認めること」になる、という左サイドからの批判。

第3は、条文を変えておいて、9条の解釈が従来の解釈のまま変わらない、と説明するのは通用しない、という疑念。
安保法制を通したとき、憲法9条を変えることなく解釈を変え、それまで許されなかった集団的自衛権の行使を一部可能にしたのは、ほかならぬ安倍であった。
「自衛隊の存在を明記するだけで、何も変わらない」と言いながら自衛隊追記案を認めさせて改憲を実現したとしよう。さすがに安倍の任期中は現行の解釈を維持したとしても、将来の総理大臣が解釈を変えない保証はどこにもない。その時、条文が変わっていれば解釈変更のハードルも当然下がる。

第3の疑念は、「安倍の自衛隊追記案で9条が改正されれば、フルスペックの集団的自衛権行使を可能にする解釈が生まれる」という批判につながる。この点については、山尾の前掲書における対談で阪田雅裕元内閣法制局長官(2004年8月~2006年9月)が述べているとおりであろう。

山尾の9条改正試案~個別的自衛権と交戦権の明記

山尾の改憲案も安倍と同様に現行9条に加憲する形式をとる。現行9条と並べれば以下のような感じだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2 ① 前条の規定は、我が国に対する急迫不正の侵害が発生し、これを排除するために他の適当な手段がない場合において、必要最小限度の範囲内で武力を行使することを妨げない。
② 前条第2項後段の規定にかかわらず、前項の武力行使として、その行使に必要な限度に制約された交戦権の一部にあたる措置をとることができる。
③ 前条第2項前段の規定にかかわらず、第①項の武力行使のための必要最小限度の戦力を保持することができる。
④ 内閣総理大臣は、内閣を代表して、前項の戦力を保持する組織を指揮監督する。
⑤ 第①項の武力行使に当たっては、事前に、又はとくに緊急を要する場合には事後直ちに、国会の承認を得なければならない。
⑥ 我が国は、世界的な軍縮と核廃絶に向け、あらゆる努力を惜しまない。

9条の2にある④、⑤、⑥項は、山尾改正の本筋ではない。

④は自衛隊——何と呼んでもよいが——の司令官が総理大臣、という現状を明記したもの。⑤の自衛隊の武力行使に国会承認が必要、ということは、半世紀以上も前から自衛隊法に書いてある。どちらの項目も自民党改憲草案や安倍の自衛隊追記案に似た記述があり、大きな議論とはなるまい。

⑥項は、それまで戦力を規定してきたところで急に国家の意思表明が出てくる形となっており、個人的には違和感がある。その実現に向けて行動するわけでもないのに文字面だけ理想を書き込んで自己満足したがる、という日本のリベラルの悪い癖が出た。中国の軍事的台頭や朝鮮半島情勢を考えれば、日本は近い将来、防衛費を漸増させざるをえないから、矛盾が生じる可能性が大きい。
ただし、この表現は努力目標にとどまるため、どうにでも解釈できる。したたかな憲法改正派なら、「憲法改正の国民投票を実現するための取引材料に使ってもいい」くらいに考えるかもしれない。

山尾案の核心は、①項、②項、③項にある。

第①項に書きこまれているのは、我が国に対する急迫不正の侵害、排除する適当な手段が他にない、必要最小限度、という武力行使の旧三要件だ。山尾は「現行安保法制のように集団的自衛権の一部を解除する解釈を厳に禁ずる」と述べる一方で、個別的自衛権の一部行使が可能であることを明記する。

第③項は、第①項の帰結として武力行使を行う組織を規定している。すなわち、9条で「陸海空その他の戦力は持たない」と言っているが、上記旧三要件を満たす武力行使にあたる軍隊は持ってもいいんだよ、と書いたものだ。これで自衛隊の存在が憲法に明記される。安倍の自衛隊追記案と構造は同じである。

第②項は、山尾の生真面目さが出ている条項案。現行9条が「交戦権の否認」を明記しているのに対して、上記三要件を満たす武力行使の際には限定的な交戦権が認められる、と定めた。ここで言う交戦権は、「交戦する権利」という意味ではなく、交戦国が国際法上持つ権利の総称。これを認めないと、自衛権の行使を認めても、相手兵力の殺傷・破壊、占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕などができない。ちなみに、2015年の安保法制及びその前提となる憲法解釈の変更もこの点は乗り越えていない。

安倍の自衛隊追記案は交戦権について何も触れていない。つまり、放棄したままだ。少なくとも当面、交戦権は認めないということだろうか。

山尾が自衛権行使に伴ってどの程度の交戦権を認めるべきだと考えているのかは不明である。だが少なくとも、交戦権を限定的に認める山尾案の方が安倍案よりも武力行使の幅を広げる、という部分があることは間違ない。

山尾案でも集団的自衛権は行使できる

山尾の意図するところは、「時の権力者が恣意的な解釈によって集団的自衛権の行使容認を可能にすることがないよう、自衛権行使の旧3要件を条文に入れた」ということなのであろう。しかし、政治家というより法律家としての視点から議論しすぎたせいであろうか、山尾は落とし穴にはまったように見える。つれない言い方になるが、山尾の生真面目な考え方が生きるのは、彼女または彼女と同じ考え方の者が総理大臣か内閣法制局長官の座にある時だけだ。

旧3要件は憲法9条の下で個別的自衛権(の一部)を行使する際の条件を厳格に定めた解釈である。しかし、それを憲法の条文に落とし込んだ瞬間、旧3要件は解釈される対象になる。

山尾のような真面目な法曹関係者が解釈するのであれば、従来の解釈は変わらないと期待してもよかろう。だが、最も重要な憲法解釈は、法律ではなく政治の文脈において決まる。政治が「変える」と決めたら、法律家はついていかざるをえない。朝鮮戦争の際に自衛権と自衛隊(の前身)を正当化する解釈が生まれたのも、作成者は内閣法制局かもしれないが、それを作らせたのは当時の日本政府。その裏に米国政府(GHQ)の命令があったことは言うまでもない。

意外に思われるかもしれないが、2014年7月に新3要件を閣議決定した際、果断さと小心の同居する安倍は過去の政府解釈との連続性を完全に断ち切る決断をせず、集団的自衛権の行使は限定容認にとどまった。将来、「過去の政府解釈にはまったくこだわらない」と本当に割りきる政治指導者が出てくれば、どんな解釈も可能になるだろう。現代はドナルド・トランプが米国大統領になるオルタナファクトの時代だ。過去の法律論議の積み重ねの上に憲法解釈が行われる、という想定の下で憲法改正に取り組むのは、甘い。

「条文化された3要件」をどのように解釈すれば、集団的自衛権の行使が認められるか、少し頭の体操をしてみる。現実の安全保障論と法律論をミックスさせれば、さほどむずかしいことではない。

山尾案が書き込んでいる旧3要件のうち、最も重要な制約となるのは「『我が国』に対する急迫不正の侵害が発生していること」である。「我が国が攻撃されていない」状況下で(我が国と密接な関係にある)他国が攻撃された時に行使されるのが集団的自衛権である以上、この要件があれば当然排除される、というのが山尾の論理であろう。それは従来、正しかった。だが、今はどうだろうか?

ここで、朝鮮半島において北朝鮮と米韓が軍事衝突し、今現在、日本の領土は攻撃されていないケースについて考えてみよう。日本国内に米軍基地が存在し、北朝鮮が日本を射程に収めるミサイルを数百基保有していることを考えれば、日本はいつ攻撃されてもおかしくない。しかも、北がミサイルを発射すれば数分から長くても10分以内に甚大な被害が生じ得る。(ミサイル防衛で北のミサイルをすべて撃ち落とせると考えるのは現実的でない。)

山尾はおそらく、朝鮮半島有事については「日本が攻撃されていない事態を含め、個別的自衛権の行使で対応できる」という主張するのであろう。(そうでなければ、集団的自衛権の行使を認めない、という主張を国民が受け入れることはない。)

旧3要件が認める個別的自衛権の行使は、「日本が攻撃を受けて被害が出るまで待て」という趣旨のものでは決してない。我が国への攻撃が切迫していれば、相手側に武力攻撃の「着手」があったとみなして自衛権を行使することは可能だ。

ただし、何を以って「着手」とみなすかは従来、曖昧であった。かつては「ミサイルへの燃料注入が行われる」等の例示があったが、そんなもの、わかるとは限らないし、仮にわかったところで、数分後に日本へ着弾することを考えれば、完全に手遅れだ。固形燃料のミサイルについては、そもそも当てはまらない。

我が国の直面する最大の脅威がミサイル攻撃であるという現実を考えれば、「個別的自衛権で朝鮮半島有事に対応できる」と主張するためには、「着手」を柔軟に認めることが必要だ。逆に言えば、それさえやれば、我が国が攻撃されていない事態を含め、朝鮮半島有事に個別的自衛権で対応するという主張は一応、成り立つ。

ところがこの事態、裏から見て「個別的自衛権だ」と言っても、表から見れば「集団的自衛権以外のなにものでもない」ということになる。いや、日本が目に見える形で攻撃される前に米韓が攻撃された際の武力行使であれば、国民の多くは個別的自衛権ではなく、素直に集団的自衛権の行使と理解するだろう。

このようなケースでは、「我が国に対する急迫不正の武力侵害の発生」の解釈として新3要件を引用し、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合を含む、としても大きな異論は出ないと思われる。

旧3要件が条文化された場合、「急迫不正の侵害がミサイルや砲弾など従来型の「武力攻撃」に限定されるのか」という観点からも解釈の柔軟化が進む可能性がある。

例えば、我が国に対するサイバー攻撃。今日の国際法の流れに従えば、航空機の管制システムがハッキングされて航空機が墜落させられた場合や、厳冬期に電力システムをダウンさせられた結果、多数の死者が出た場合などでは、武力によって相手国を叩くことが正当化されるであろう。
山尾自身がどう考えているかはわからないが、相当規模の人的被害をもたらすサイバー攻撃は「我が国に対する急迫不正の侵害」に該当しうる、と解釈を拡大(または補強)しても決して不自然なことではない。

立憲的改憲の限界

たった一回のブログで山尾の改憲試案を語りつくすことはできない。

今回はあまり触れなかったが、山尾案は交戦権の一部を明記することから、我が国に可能な軍事行動を今以上に——そして安倍案以上にも——拡大させる側面を持っている。いわゆるリベラルの中には、山尾試案を危険視する人も少なくないはずだ。
もっとも、法律家として現実的対応を心掛ける山尾のことだから、そんな批判は「どこ吹く風」に違いない。

いずれにせよ、山尾の改憲案でも集団的自衛権の少なくとも一部は行使可能、というのがこのポストの最も重要な結論だ。皮肉な話ではあるが、山尾が自分の改憲案について「集団的自衛権の行使は認められない」と説明すれば、安倍が自衛隊追記案について「何も変わらない」と説明するのと同じく、不誠実な言動になる。

山尾案の限界は「立憲的改憲」の限界でもある。憲法の条文によって権力を縛る、と言っても、それは背景に権力政治があってこそ、有効に機能する。
今の憲法9条も、日本を打ち負かした米国(GHQ)という絶対的な権力が日本政府や旧軍部という権力を縛ろうとしてできたものだ。
今日、憲法改正の流れが大きくなっているのも、民主党政権が崩壊した後、「安倍一強」「自民党一強」の政治状況が生まれたことによるところが大きい。

時の権力を制御する最も有効な手段は、それに対抗する権力を打ち立てること。この現実を直視せず、「憲法の条文で権力を縛る」といつまでも言い続けているようでは、リベラルが国民の信頼を得る日は永遠に来ない。

 

以上、山尾に一定の敬意を抱きながら、山尾試案を批判してみた。

ここまで批判しておいて言うのも気が引けるが、山尾案は、安倍案や自民党改正草案に比べれば、ずっと真面目に考えられている、という意味では力作と言ってよい。しかし、その山尾試案でさえ、安全保障論や政治論の観点からはこの程度の水準か、と失望したのも正直なところだ。

私は9条改正論者である。しかし、安倍案、自民党改正草案、山尾案を少し真剣に検討してみた結果、やっぱりもっと時間をかけた方がいいな、という気になったことを告白しておく。

参議院選挙が思い知らせた「選挙における政策論争の消滅」

7月21日(日)に参議院選挙が行われた。各党の議席数は報道されているとおりである。とても醒めた言い方になるが、れいわ新選組やNHKを国民から守る党が議席を獲得したことを含め、あまり驚きのない結果であった。

各党の勢いを見るため、今回の参院選と前回(2017年10月)の衆議院選で主要政党が獲得した得票率を並べてみよう。

〈主要政党の比例得票率〉 (単位%)

自民 公明 立憲 維新 希望 国民 共産 れ新
前回

衆院選

33.3 12.5 19.9 6.1 17.4 7.9
今回

参院選

35.4 13.1 15.8 9.8 7 9 4.6

絶対的な得票数は落ちていても、与党は得票率を増やしている。自民は35%で野党第一党の立憲に対してダブル・スコア以上の大差をつけた。自公の合計は48%超。半分を切っているという見方もできるが、やっぱり強い。

一方、立憲民主は2年前から得票率を落とし、党勢にブレーキがかかっていることを窺わせる。2年前の支持層の一部は山本太郎のれいわ新選組に流れたのかもしれない。だが、前回衆院選で自公や希望に行った票――総投票数の約63%に及ぶ――をこの2年間、ほとんど取り込めていないという現実の方が深刻だ。せめて2割近くを握っていないと、立憲が野党の核になることも、野党全体で与党に対抗することも望めない。

維新の会は小躍進した。この春に仕掛けた大阪府知事と大阪市長のスライド選挙という賭けが吉と出て、関西圏(及び首都圏)で久しぶりに風が吹いた、というところだ。

現状、野党に国民の支持が大きく集まる気配は見られない。政権交代はおろか、与野党がある程度伯仲して政権運営に緊張感をもたらすこともむずかしい――。それが偽らざる感想だ。

さて、今回の参議院選挙ほど、政策的争点のない選挙はなかった。だが私は、それを「野党がだらしないから」と簡単に言うべきではないと思う。国民に語るべき大きな政策を持たない点においては、与党も五十歩百歩だからである。素性の知れない人物の唱える「NHK放送のスクランブル化」というニッチな公約が一番目立った、という情けない事実がそのことを如実に示している。

このブログでは、国民の関心が高かった経済(景気)と社会保障の分野において、参議院選挙を通じて各党がどのような政策を公約したか、少し復習してみたい。

経済政策

今回の参議院選挙の最大の争点は、10月に予定されている消費税率引き上げの是非だという見方が事前には強かった。確かにテレビの討論番組などでは司会者がこの問題を提起してはいた。しかし、多くの有権者がそれによって投票行動を決したとは思えない。その理由はいくつかある。

一つは、現在の政治状況からくる諦観。今日、衆参では与党が圧倒的多数を占めている。選挙前の世論調査でも自民党の支持率が4割前後なのに対し、野党第一党の支持率は10%以下。自民党には公明党(創価学会)という選挙上最強の後ろ盾もついている。しかも、小選挙区の衆議院ならともかく、中選挙区的な要素の混じり、半数しか改選されない参議院選挙では、政権交代や衆参の捻じれが実現することはありえない。

もう一つは、国民の意見が分かれていること。世論調査では、国民の半数近くが消費税率引き上げに反対と答える一方、賛成という国民も常に4割近くいる。反対と答えた国民でさえ、少子高齢化が止まらない中、社会保障や教育・子育て政策に充てるため、消費税率引き上げが必要だと言われれば、「消費税が上がるのは嫌だけど、仕方がない」と思う者が少なくない。他所の国ではどうか知らないが、日本人には真面目な人間が多いのだ。

次に、経済政策として争点となり得たアベノミクスはどうだったか?

安倍の政権復帰から6年経った今、アベノミクスはメッキの剥がれが相当目立ってきている。安倍政権はこれまで、株価など良好な指標のみを宣伝し、民主党政権の致命的なまでのガバナンスの悪さを思い起こさせることでアベノミクスの優位性を喧伝してきた。だが、安倍政権下で日本経済の平均成長率は+1.15%にすぎない。IMFの予測によれば、今年の経済成長率は+0.9%、来年も+0.4%と今後も低水準が続く。「悪夢の民主党政権」の3年間、東日本大震災を経験したにもかかわらず、日本経済が平均して年率+1.87%で成長した。国民もさすがに「アベノミクスも言うほどの成功ではない」と気づき始めている。

ところが、野党の側はアベノミクスを批判するだけで、対案を示せない状態が何年も続いている。特に、野党第一党の立憲民主党に骨太な経済政策が見あたらないのはつらい。

もっとも、野党にも(与党にも)同情すべき部分はある。人口減少が続く日本で、経済政策の妙案がおいそれと見つかるわけはないのだ。立憲民主などは、経済音痴であることを認めて開き直ればよいのに、と思う。「経済運営は政権交代しても基本的に変えない。低金利政策と財政出動は基本的に継続する」と言っておけば、経済界や多くの労働者は安心する。旧民主党政権も東日本大震災を受けて財政出動は十分にしていた。日銀が超低金利政策に転じたのも野田政権末期のことだった。経済政策は自公を引き継ぐことにして、それ以外の政策で与党と差別化を図る、というのも選挙戦略としてはありえるんじゃないかね?

立憲以外にも少し目を向けてみようか。維新は相変わらず、お題目みたいに規制緩和と言うだけ。昭和末期から平成初期に流行った議論だが、ある程度の経済成長を実現するには線が細い。国民民主は今回、高速道路千円、家賃補助、児童手当増額など、積極財政政策に舵を切った。こども国債という名目で現代貨幣理論(MMT)に乗ったようにも見える。ただし、選挙戦を通じてこうした政策が注目されることはまったくなかった。この党は政策以前に党としての信頼性獲得が課題かな? 共産党の経済政策は、アンチ・ビジネスと低所得者偏重が過ぎるので論評しないでおこう。

年金政策

もう一つの大きなテーマになると思われた年金政策はどうだったか?

参院選の直前、金融庁の審議会が「老後、公的年金だけでは足りないから2000万円の貯蓄が必要」というレポートを出し、選挙への悪影響を恐れた政府が受け取りを拒否するという珍事件が起きた。政府は「年金は百年安心」と言ってきた(と思われてきた)ため、国民の政権不信が一気に高まった。ある野党の政治家は「神風が吹いた」と喜んだそうだ。

しかし、結果的に神風はそよ風程度のものだった。野党はここでも対案を出せなかった。例は良くないが、イギリスのブレグシットも、「EUはけしからん」だけなら国民投票にたどりつくことはなかった。「EU残留」と「EU離脱」という2つの選択肢が示されてはじめて、国論を二分する一大争点になった。年金も選択肢が複数なければ論争にならない。

確かに、年金というテーマに国民の関心は非常に高い。しかし、国民の大多数を喜ばせ、納得させられる解決策は存在しない。誰だって、支給開始年齢は今のまま、支給額が増えるのがいいに決まっている。そして誰だって、保険料負担や消費税が上がるのは嫌だ。この2つの矛盾を解決するには、高齢化の進展以上の速度で労働力人口が増え続けるか、給料が上がり続けるしかない。それができたのは高度成長期のみであり、今はもう不可能だ。

結局、各党の提示しうる年金政策は、年金制度をやめないかぎり、

    1. 年金支給年齢の引き上げや年金支給額を減らしながら、現行制度を続ける
    2. 年金支給額を維持・増加するため、保険料や消費税率を引き上げる

のいずれかとならざるをえない。(それ以外にも、財政赤字を増やしてでも少子化対策を打つとか、移民を大幅に増やすと言った選択肢も考えられるが、今回は深入りしない。)

自公は①を称して「100年安心」と言っている。決して、現行の年金支給水準が100年続く、という意味ではない。給付水準を下げれば制度が維持されるのは当たり前。だから、嘘とは言い切れない。だが、国民が誤解するに任せていたのは「ズルい」話だ。ちなみに、金融庁の報告書が「2000万円必要」と言ったのは、①を前提にしたギリギリの生活が嫌だったらお金を貯めておいた方がいいですよ、という意味とも読める。

一方、年金の支給額が不十分だ、という野党の主張を政策にしようと思えば、②の方向へ行かざるをえない。ところが野党は、10月の消費税率引き上げにすら反対している。国民の負担増を公約として打ち出すことなど論外だ。勢い、その年金政策は曖昧となり、選挙戦の最中も政府・与党の隠蔽体質を批判するにとどまった。(公平を期すために言うと、野党は低年金者対策の充実についてはこの選挙で具体策を示していた。しかし、わずかの金額であるうえ、正当に保険料を支払った大多数の国民には関係がない話であったため、争点になることがなかったのも当然である。)

野党の参院選公約を見ると、立憲民主は最低保障機能の強化を謳っている。低年金者の給付額を上げるのだろうが、低年金者とそうでない人の線をどこで引くのか、受給額をいくらにするのかといった具体的な制度設計は示されていない。そこの議論に入れば、必要な財源と消費税率の引き上げ幅が表に出るためであろう。しかし、「最低保障機能の強化」だけ言われても国民は政策とは受け止めない。

一方、維新が提案しているのは積み立て方式の導入だ。一見魅力的に聞こえるが、既に何十年も賦課方式でやってきているため、新方式への切り替えには膨大な財源が必要になる。維新もそこについては口を閉ざしたままである。

私は、野党が公約で細かく財源を示す必要は全然ないと思っている。しかし、こと年金に関しては、そういうわけにはいかない。野党が年金の充実を公約するのなら、負担増についても説明すべきだ。ブレグジットの国民投票の際、離脱派は「EUから離脱すれば拠出金がなくなり、英国の社会保障に毎週(←毎年ではない)500億円使えるようになる」という主張――もちろん嘘だ――を展開し、多くの人がそれを信じた。日本でそんなことはやめてもらいたい。

ここからは少し脱線する。

上述した2つの年金政策は年金制度の存続を前提にしたものである。だが将来的には、「老後は自助努力で支える。その代わり、保険料も支払わない」という考え方に立ち、年金制度の廃止を掲げる政党が現れても驚くべきではない。年金保険料を一定期間以上支払った世代にとって年金廃止は損な話になるため、多数派を占めることはさすがに無理だろう。しかし、若い世代にとって今の年金制度は年寄り世代を支えるためのアンフェアな「持ち出し」にほかならない。シングル・イッシュー・パーティとして若者にターゲットを絞れば、複数議席の獲得は十分可能だと思う。

その結果、将来の日本の年金制度改革が、負担増による給付増(または給付維持)という方向に進むのではなく、負担減と給付減――足りない部分は自助努力で補う前提である――という方向に向かう可能性も出てくるのではないか。自助を強調する考え方は自民党の理念とも親和性が高い。そんな状況になったら、野党はどうするんだろうか?

今後の展開~有志連合と補正予算

参議院選挙が終わり、来週には臨時国会が開かれる。だが、これは参議院議長を選ぶための短期間。その後、秋に開かれるであろう臨時国会では、どのような政策が議論されることになるのだろうか? 少しばかり予想してみよう。

まず、マスコミが騒ぐ憲法改正はどうか? 安倍総理が何をやりたいのか、正直言って私にはよくわからない。自民党は4項目の改憲案を決めているが、選挙戦の最中、憲法のどこをどう変える、ということを安倍が力説したという印象はない。安倍が言っていたのは、憲法を変えたい、ということだけだった。しかも、選挙が終わった途端、自民党の案にはこだわらない、と言い出す始末だ。結局、安倍がほしいのは「はじめて憲法を改正した総理大臣」という名誉なのであろう。

そのうえで言えば、国民投票法の改正で野党に譲歩したうえで、野党を分断して憲法改正の土俵に引きずり込む、というのが最も考えられる安倍の改憲戦術ではないか。ただし、安倍は憲法改正の前にトランプが要求しているペルシャ湾の有志連合について、対応を決めなければならない。その分、改憲のスケジュールは後ろに倒れるだろう。

では、ペルシャ湾の有志連合に日本政府はどう対応するのか? 米国が期待しているようなことを自衛隊にさせるためには、新法の制定のみならず、9条解釈の再変更が必要となりかねない。仮に現行法で対応しようとすれば、ペルシャ湾の事態を存立危機事態と認定しなければならない。だが、今の時代にオイル・ショックが再現するようなシナリオには無理がありすぎる。

日本のタンカーが沈められて日本が当事者になってしまえば別だが、ペルシャ湾を理由に新法を通すのはなかなか骨の折れる仕事になる。今の危機は、イラン核合意からの離脱をはじめ、トランプの側にも責任があることは事実だ。「日本はトランプのマッチ・ポンプに付き合って自衛隊を派遣するのか?」という批判が出てくることも避けられない。解散・総選挙を視野に入れた時も、具合がよろしくないだろう。

加えて、安倍晋三は本来的に親米主義者というよりもナショナリストである、という要素についても考える必要がある。(ここで詳しくは述べないが、私は安倍の親米は本心からくるものではないと思っている。)安倍が「米国に付き合ってペルシャ湾くんだりで自衛隊員の血を流してもよい」と考えるかどうか? はっきり見えてこない。

次に、経済政策はどうか? ポイントは3つある。

一つ目は、この夏、米国との貿易協議がどう決着するか。程々の線で妥協して双方が自賛できればよし。ひどい譲歩を呑まされれば、安倍の解散戦略に制約が強まる。呑まないで交渉が長引けば、トランプが何をツィートするかわからず、それはそれで安倍にとって爆弾になる。

二つ目は、日本の景気動向全般に対しては、米中貿易・技術戦争の行方がから目が離せない。ただし、これは安倍政権が当事者能力を発揮できる問題ではない。日本政府に米中の仲介役が務まるとも思えない。まさに見守るしかないだろう。

三つ目にして当面の経済政策で最大の課題となるのは、消費税率引き上げをいかに軟着陸させるか、ということ。消費税が上がれば、消費は冷え込む。その分、政府支出を増やして景気の落ち込みを防がなければならない。実はこれ、今年1月17日のポストでも書いたとおり、日本政府は既に昨年度の補正予算と今年度の予算で手当てしている。だが、消費税率が上がると言うのにまだ駆け込み需要も見られず、景気の先行きは視界不良だ。そこでもう一丁、財政出動した方がいい、という意見が強まる可能性が高い。そうなれば、補正予算という話になる。

ここで問題は、何を名目に追加財政出動するか、ということである。ポイント還元やプレミアム付商品券といった消費税対策は、期間延長では当面の消費喚起にはならない。かと言って、今からポイントを拡大するなど制度をいじれば、混乱が大きい。

定番の公共事業はどうか? これについても、昨年度から来年度までの3年間、防災・減災、国土強靭化のための緊急対策として7兆円の公共事業を既に組んでいる。これには不要不急のものまで計上しているので、ここから増やすと言っても限度がある。結局、中途半端な補正を打ってお茶を濁す、ということになりそうだ。

安倍が補正予算で大玉を考えるとしたら、教育の無償化や児童手当の増額といった野党が主張している政策に手を出す可能性もないではない。これらは一旦始めれば恒久的に支出が続く政策だ。本来、消費税引き上げ対策として補正を組んで一時的にやるべきものではない。だが、安倍が国民民主の「子ども国債」に食いついたらどうか? 財務省は反対するだろうが、同省は安倍政権内での影響力が低下しているうえ、自民党内にもMMT支持派は一定数いる。まったくあり得ない話ではないだろう。

玉木代表は憲法改正をめぐる安倍の「釣り球」にもアッという間に飛びついたらしい。安倍総理のやり方次第では、憲法改正と子ども国債は野党分断の絶好の玉になりそうだ。