「NHKから国民を守る党」なる存在

7月21日に投開票のあった参議院選挙は稀にみる凡戦であったが、それゆえに合計してわずか3議席を獲得した二つの政党が注目を集めた。言うまでもなく、一つは「れいわ新選組」、もう一つは「NHKから国民を守る党(N国)」だ。れいわは2,280,253票(4.6%)で2議席、N国は987,885票(2.0%)で1議席を比例代表選挙で獲得した。

その後、N国代表の立花孝志は矢継ぎ早に――いかにも胡散臭そうな人物がここまでやるとは誰も予想していなかったはずである――動く。維新の党から除名され、国会で糾弾決議案を可決された丸山穂高を入党させ、今はもう皆が忘れていた渡辺喜美と共同会派を組んだのだ。最近は永田町関連のニュースが夏枯れ状態なこともあり、メディアは立花を時の人のごとく扱っている。

本ポストでは、N国が議席を獲得した意義、今後の展開、NHK政策の行方について少しばかり想像をめぐらせてみた。

シングル・イッシュー政党として初の国政進出

NHKを国民から守る党は、日本で最初に国会に議席を獲得した「シングル・イッシュー(単一争点)政党」として記憶にも記録にも残ることだろう。N国はNHK放送をスクランブル化することを唯一の公約として掲げた。これに対し、れいわの政策「消費税廃止」が話題になった。しかし、同党は「政府保証つき最低賃金1,500円」「奨学金チャラ」「原発即時禁止」「安保法制廃止」など、様々な分野で公約を発表している。政策のエキセントリックさという意味ではれいわもN国も似たりよったりのところがあるものの、れいわはシングル・イッシュー政党ではない。

なお、シングル・イッシュー政党というだけであれば、N国が初めてというわけではない。今回の参議院選でも「安楽死制度を考える会」はシングル・イッシュー政党と呼んでよかった。しかし、各得票数は233,441票(0.5%)にとどまり、議席獲得はならなかった。

N国が議席を獲得できた理由

なぜ、N国は比例代表で2百万票以上を獲得できたのか?

第一は、唯一訴えた政策が国民の琴線に触れるものだったこと。テレビを持っていればNHKの番組を見なくても受信料を支払わなければならないという仕組みが法律のみならず最高裁でもお墨付きを得ていることに対し、理不尽だと思う国民は決して少なくない。しかも、主要政党はその不満を代弁する気配すら見せようとしない。「NHKをぶっ壊す」というN国の公約はそこを突いた。

第二は、代表の立花孝志なのか、彼の周辺にいる人物なのかは知らないが、同党がネット(特に動画)戦術に長けていること。政見放送を聞く限り、NHKをぶっ壊さなければならない理由は「NHKの男女のアナウンサーが不倫路上カーセックスをしたのに、NHKはその事実を隠蔽しているから」ということにあるそうだ。こういう馬鹿馬鹿しさも拡散には役に立ったのであろう。(私には理解できないが・・・。)

第三は、N国は今回の参議院選で「ぽっと出」の政党ではなく、ここ数年、地方議員選挙に候補者をたてており、参議院選前で首都圏を中心に27人の地方議員を輩出するに至っていた。ネット選挙は空中戦だが、N国は最低限の地上部隊も持っていたのではないか。

第四に、NHKを叩く立花の主張は右翼及び右翼的思考の持ち主の一部と共鳴する。2001年にNHKが戦時性暴力に関する番組を放映したあたりから、安倍を含む自民党右派や右翼団体の一部はNHKを敵視するようになった。先に指摘した国民の根源的な不満に加え、日本社会全体の右傾化に伴い、NHKをぶっ壊すという主張は受け入れられる素地が拡大しているものと考えられる。

第五に、国民民主党に行くはずの比例票が一部按分されてN国に流れた可能性もある。今回、国民民主は略称を「民主党」で届け出た。旧民主党や立憲民主党の支持者が間違って投票してくれることを期待したとも言われている。その結果、国民民主に入れるつもりで有権者が「国民」と書いた票は、「NHKを国民から守る党」と按分されたというのだ。まあ、これは検証のしようがない話なので、話半分で。

スクランブル化の議論に火がついた

次に、N国が国会に議席を獲得したことは、NHKの今後にどのような影響を与えるだろうか?

N国が掲げているのは、NHK放送をスクランブル(暗号)化し、受信料を支払うことに同意した人のみがスクランブルを解除してNHK番組を見られるようにする、というもの。現在、地上波デジタル放送は(NHK以外は)無料でB-CASカードがもらえてスクランブルを解除しているが、N国はNHKに関してWOWOWと同じように有料で解除する仕組みを導入すべきだと主張している。

これ、NHKを観たい人のみから受信料をとる、という仕組みであり、一見とてもよい。こういう受けのよい政策を他の政党は考えつかなかったのか、と疑問に思って調べてみたら、やっぱりあった。日本維新の会だ。詳細は不明ながら、マニフェストに「NHK改革。防災情報など公共性の高い分野は無料化し、スマホ向け無料配信アプリを導入。有料部分は放送のスクランブル化と有料配信アプリの導入。」と書いてある。ただし、維新は選挙戦の期間中、ほとんど強調しなかったので世の中の耳目を引くことはなかった。

これからは全政党がNHK政策をどうするのか、明らかにしなければならなくなる。N国なる存在がこれだけ注目を集めてしまった以上、(NHK以外の)マスコミは各党に対し、「NHKのスクランブル化についてどう考えるか?」と問うに決まっているからだ。

まず、他の野党はどうだろうか。国民に受けがよく、選挙で票になることが証明されたこのテーマについて、「うちは反対」とにべもなく言い切れる党がどれだけあることやら? まあ、野党が揃ってNHKスクランブル化を言い立てたところで、今の国会の議席状況を考えれば、野党の力でスクランブル化が実現する可能性はありえない。

一方、自民党と公明党は政権与党はこれまで政策、そして今ある法律に縛られる。スクランブル導入に乗ると言っても、責任与党としての立場を考えれば、後述するように簡単な話ではない。むしろ、密かに注目すべきは、今すぐではないにせよ、自民党内でもポスト安倍に絡んで有力な総裁候補がNHKスクランブル化を持ち出したりする可能性。ひょっとすればひょっとしかねない。そうなれば、たった1議席を獲っただけのシングル・イッシュー政党が及ぼす影響は信じられないくらい大きなものになるわけだ。

ただし、スクランブル化が大きな政策的焦点になり、N国以外もそれを叫びはじめた瞬間、N国の存在意義はほとんど消滅する。シングル・イッシュー政党がシングル・イッシュー政党のままでいる限り、それは事の理である。その時、立花という人は別のイッシューを見出して時代の寵児であり続けようとするのだろうか?

追い込まれるNHK

さて、立花は、国会議員になってもNHK受信料を踏み倒す、と宣言している。本人は炎上商法のつもりだろうから、騒ぎになればなるほど成功だと思っているんだろう。

これを受け、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)は「現職国会議員の受信料未払いをNHKが認めるなら、大阪市もやめさせてもらう」と表明したと言う。同じくの維新の吉村洋文大阪府知事と永藤英機堺市長も、NHKの対応次第では、府または市として受信料の支払いを拒否する、と述べた模様だ。立花の不払いに対し、国会議員だからといって特例を認めるなよ、とNHKに圧力をかける意味合いだと思いたいが、ポピュリスト維新のことだから、その真意は奈辺にあるのやら? いずれにせよ、「あいつが法律守らなくていいんなら、俺も法律守らないよ」とご立派な政治家さまが揃って仰るのは、子供たちにとても見せられた光景ではない。

そういえば、国民民主党の玉木雄一郎代表まで「法律に定められている義務を果たさず、平気でいるのであれば、国民民主党も払いたくない」と述べたとか。玉木は結局、「支払うべきだ」と言っているようでもあるが、あまり考えたうえでの発言ではなさそうである。

国会議員たちが政治の世界における倫理の崩壊を食いとどめたいと本気で思うのであれば、彼らにはやるべきこと、できることがある。秋の臨時国会で「国会議員が不法行為に及び、また奨励すること」を以って、立花に対して糾弾決議を行うのだ。(そうすると、N国は糾弾決議を受けた議員の集まりになる。)

誤解のないよう言っておくが、私はNHK受信料制度を改革することは大賛成だ。しかし、国会議員が現行法を守ったうえで法改正を提案する、というのならともかく、国会議員が違法行為を行うと堂々宣言するわけだから、これを「オモロイやないか」と笑ってすませるのは変だ。

いずれにせよ、N国が火をつけたスクランブル化の議論は、理屈を超えてNHKへ圧力をかけることになる。そこでNHKはどう動くか?

まず考えられるのは、国民の反発をやわらげるため、受信料の値下げに動くこと。NHKはこれまで何だかんだと理由をつけて意味のある値下げは避けてきた。来年度のNHK予算をどう組むか、注目が集まるだろう。

それ以上に安易、かつNHKの自殺につながりかねない道は、政治に助けを求めること。結果として、官邸や政権与党への忖度が今以上に強まることは言うまでもない。これは外からはなかなか見えにくい話であり、我々はリークによってのみ気づくことができよう。

筋から言えば民営化

スクランブルを導入すれば、NHK番組を見たい人だけが受信料を払ってスクランブルを解除して見る、ということになる。ほとんどの視聴者がスクランブルを解除するために受信料を払い続ければ、NHKの経営にそれほど大きな影響は出ない。受信料を払いたくない人が払わなくてすむだけで、害の方は表面化しない。しかし、相当数の人が「払わなくていいんなら、払わない」と考えれば、NHKの受信料収入は大きく落ち込む。こうなれば、受信料を払い続ける人には受信料値上げの形で跳ね返ってくることは避けられない。

確かに、NHKのドキュメンタリーやドラマなどは、金をかけているせいもあって、質は高いというのが一般的な評価だろう。朝から晩までやっているバラエティーも、視聴率は比較的好調のようだ。しかし、問題は、民放をタダで観られる時に、金を払ってまでNHKを見る人がどれだけいるか、ということ。直感的に考えれば、目に見える形で減る可能性が高い。そうなると、スクランブル化したうえに大幅な受信料引き下げに追い込まれ、経営への影響も出てくるだろう。そもそも今、放送法でテレビを持っていればNHKの受信料を支払わなければならないと義務付けているのも、そうしなければ払ってもらえないからである。

しかし、NHKを観たかろうが観たくなかろうが、受信機を持っていれば問答無用で受信料を支払わされる、という現行の仕組みは、中世じみた理不尽な制度だ。現状維持は不正義と言うべきであろう。

ここはやっぱり、スクランブルなんかじゃなく、NHKの分割民営化だ。教育テレビは国営にして税金で運営する。これだけのために受信料制度を残しても、徴収コストがバカにならないし、どうせまた立花のようなに難癖を付けて支払わない人間が出てくるに違いない。

今日、NHKを民営化しても、大きな問題は出てこない。世界を見回してみても、米国をふくめ、民主主義国家で国(政府)が放送機関を所有していない例はいくらでもある。かつては、NHKの制度を正当化するのに「報道の中立性」ということが言われていた。だが、今の制度がNHKに政治的中立性をもたらしているのかと問われれば、首を傾げざるをえない。法律で受信料収入を担保され、予算や経営委員を国会で議決されるからこそ、NHKは政治の介入に脆くなってきた。昔の政治家はともかく、今の自民党右派なんかはNHKへ圧力をかけることは当たり前くらいにしか思っていない。

小泉純一郎が唱えた郵政民営化と違って、民営化したら地方にテレビ放送がなくなる、ということも起こらない。郵便局がなくては郵便の集配はできないし、過疎地では決済・金融仲介機能が失われてしまう。しかし、受信機さえ各家庭にあれば、電波は空を飛んでいく。

唯一、問題があるとしたら、NHKという鯨が解き放された結果、民放が1~2社つぶれることか。だが、つぶれるテレビ局や関係者にとっては死活問題でも、国全体で見た時には不要なものがなくなるだけの話にすぎない。どのチャンネルを回しても同じような番組ばかりということは、供給側が需要側のニーズを満たすことができないということの裏返しである。もっと言えば、今後放送とインターネットの融合が進む中で、放っておいても今ある放送局のすべてが生き残るということは考えにくい。

さあ、どの政党が最初にNHK民営化論をぶちあげるだろうか? 言っておくが、NHKからも民法からも目の敵にされるから、覚悟して打ち上げたほうがいい。ただし、政策としての筋は悪くないし、国民の支持は得られると思う。NHKの中にも、スクランブル化の影に怯えて今以上、政治への忖度を強めることになるくらいなら、民営化して独立した報道をやりたい、と思う人もいるだろう。私は、その方が健全だと思う。

「スクランブルの見返りに改憲」というディールはない 

一部メディアでは、先の参議院選挙で改憲発議に必要な2/3議席を自民・公明の与党と維新等で確保できなかったため、立花が安倍と「安倍がNHKのスクランブル化に同意する見返りにN国が安倍の改憲に手を貸す」のではないか、という見方が出ているようだ。しかし、それはないだろう。

N国はNHKのスクランブル化以外に公約がない。NHK問題以外の採決等では党議拘束もないそうだし、将来的には国政事項は国民投票で決めるというようなことを言っている。逆に言えば、フリーハンドであり、改憲を含め、政権にすり寄ることにも抵抗はない。

だが、安倍(自民党)は政府を率いている。ただ2/3が欲しくてNHKのスクランブル化を飲む可能性はほとんどないと思われる。安倍がNHKを嫌いだったのは、NHKが自分に噛みついたり、戦後レジームの復活に盾ついたりするような番組を制作したからだ。安倍政権も7年目を迎え、人事面でも随分自分たちにとって都合のよいNHKになってきている。「N国からNHKを守る」というポジショニングをとることは、今の安倍にとっては決して損な話ではないだろう。

何よりも、憲法改正は、2/3という数があれば自動的に改憲できる、というような単純な話ではない。ただ2/3があればよいのなら、前回(2016年)の参議院選挙以降、とっくに改憲は実現しているはず。今現在でも、野党の中にいる隠れ改憲派を個別に口説き落とせば、立花のような胡散臭い議員に声をかけずとも2/3は達成可能であろう。現実には、2/3の内実は公明党を含んだ数字であり、虚ろなものにすぎない。よほど世論をうまく操縦するためのきっかけを掴まない限り、表面的に2/3を得たところで改憲はなるまい。安倍はそのことがわかっているはずだ。

 

N国なる政党と立花孝志なる代表。私には、日本でポピュリズムが勃興しはじめた時代に咲いた仇花のように見えてならない。

自由を振りかざすだけで自由は守れない――「表現の不自由」展の中止に思う

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が中止された。従軍慰安婦をテーマにして韓国人作家が作成した少女像が物議を呼び、右系の人たちからの脅迫や一部政治家の圧力が昂じたため、安全を確保できなくなったためだと言う。

私自身、この少女像を見たいとは思わないし、見ても気持ち悪いとしか思わないに違いない。しかし、だからと言って、人が何かを表現するのを脅迫や圧力でやめさせるようなことがまかり通れば、この国の自由は失われてしまう。企画展が中止に追い込まれたことは言語道断だ。

そのうえで言えば、日本人が自由のために戦う覚悟は、軽い。今、日本や世界を覆う不自由の空気がどれだけ重いかについての認識も、甘い。今回、つくづくそう思った。

今日、表現の自由を奪う力は、ナショナリズムと連合して力を増幅している。我々が教科書で習った「表現の自由」を振りかざすくらいでは、それに対抗することなどできない。芸術家やリベラルな人たちからは怒られるかもしれないが、国民の多数派を味方につける政治的戦略性がなければ、自由はどんどん失われていくだろう。

展示中止に至った顛末

8月1日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が開催された。わずか2日後、同芸術祭実行委員長の大村秀章愛知県知事はその中止を発表する。展示では、昭和天皇をコラージュした版画や「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句など、国内で展示や発表が中止された作品、旭日旗を連想するとして在米韓国人団体から抗議を受けた横尾忠則氏のポスターなど、様々な作品が出品されていたらしい。

その中に韓国人作家が従軍慰安婦をテーマに作成した「平和の少女像」などもあった。これが右翼系の人に限らず、反韓感情を持つ人を刺激した。放火をほのめかすなど、悪質な脅迫が相次いだそうである。菅官房長官や柴山文科大臣は同展への補助金の差し止めを示唆し、ポピュリスト政治家の河村たかし名古屋市長がこれに乗って企画展の中止を声高に求めた。大村知事もこれに抗しきれず、また、危機管理上の懸念も本当に感じたのであろう、企画展の中止を決めたというのが大筋の経過だ。

国民の反応は冷淡

こうした動きに対し、日本ペンクラブは展示の継続を求めて抗議声明を出した。朝日新聞(8月6日付社説:あいち企画展 中止招いた社会の病理)、東京新聞(8月7日付社説:「不自由展」中止 社会の自由への脅迫だ)、毎日新聞(8月6日付社説:「表現の不自由展」中止 許されない暴力的脅しだ)も、やはり報道の自由が失われることに危機感を露にした。

一方、産経新聞(8月7日付主張:愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か)は上記三紙とは異なる調子の社説を掲載。「暴力や脅迫は決して許されない」と形ばかり書いたあと、天皇を題材にした作品や少女像については「ヘイト行為」だと述べ、それは「表現の自由」か、と疑問を呈した。ヘイトに最も親和性の高い新聞らしい社説だが、この説を認めれば、産経新聞が主張する歴史認識は韓国人や中国人にとってはヘイト行為であり、産経新聞の表現の自由も許されない、ということになる。

社説の内容は、朝日などの言い分がまったく正しい。これが20世紀後半のことであれば、世の中は「表現の自由」封殺に対する批判の大合唱となっていただろう。

しかし、現実はどうか。世の中は大きな声をあげようとしない。いや、むしろ、河村や菅、ひいては産経新聞の主張の方が正しい、と感じる国民も決して少なくない。野党を含め、永田町だって、国会閉会中ということを勘案しても、静かなものである。

今回、少女像は展示すべきでなかった

日本国民のほとんどは、表現の自由の重要性を理解していると思う。皆が皆、産経新聞の言説に同意するわけでもあるまい。しかし、今回、少なからぬ国民は、少女像の展示を「表現の自由」の問題ではなく、「ナショナリズム」の問題として捉えた。その結果、「表現の不自由展・その後」は表現の自由を守るために少女像を展示し、表現の自由を後退させた。

それでなくても、経済は停滞、社会の較差も拡大して国民の間には閉塞感が募っているのが日本の現状。そこへもってきて、韓国が日本をナショナリズムの標的にし、日本もとうとう売られた喧嘩を買って韓国にナショナリズムの牙を向けた。日本人が――世界中で見られる傾向かもしれない――少しずつ右傾化(という言葉が不正確なら自国第一主義)の方向に向かっていることは紛れもない事実だ。そして、右も左も無党派も、日本人は韓国が嫌いになった。少なくとも、韓国に「ウンザリ」している人があふれている。

このタイミングで少女像を展示すれば、言論や表現を弾圧する側がナショナリズムを利用し、大手を振って自由に圧力を加えることは、十分に予想できたはずである。

日本人は表現の自由を誰かと戦って勝ち取ったわけでは、基本的にない。敗戦と憲法によって与えられ、教科書で習ってきたにすぎない。だから、ひ弱なインテリが表現の自由を守ろうとして立ち上がるのはよいが、抑圧する側がナショナリズムと組んだら、ひとたまりもない。

理想を曲げることになろうとも、表現の自由を守りたいのであれば、今回は抑圧する側がナショナリズムと手を結びにくいテーマに絞るべきだった。むしろ、表現の自由を守る側がナショナリズムと手を結びやすいテーマを選び、表現の自由に対する国民の共感を得て自由のための橋頭保を築くくらいのしたたかさがあれば、と思う。「少女像」の展示は、そうやって国民の理解を得たうえで、もう少し日韓関係が落ち着いてからにすればよかった。(天皇を題材にした作品については、右系の人が騒いでも国民的な広がりを持つことはなかったであろう。今回、外すべきだったとは考えない。)

ここからは余談の部類を少し。
今回、芸術祭の主宰者や愛知県知事はわずか三日で展示の中止を決めた。もちろん、当事者にしかわからない恐怖や責任感もあったとは思う。だがそれにしても、「あっけなかった」というのが正直な感想だ。私の奥方も、「こんなもん出す以上、脅迫がくることは誰だって想定できたでしょう? 根性もないのにやって腰砕けだね」と首をかしげていた。

だがその一方で、実行委員会のメンバーが大村知事に公開質問状を出し、展示の再開を求めている模様だ。まあ、彼らにしてみれば、「大村や津田大介(芸術監督)はひよったが、我々は教科書に書いてあるとおりに正しい」と言いたいんだろう。とにかく正論にこだわるかと思えば、政治的に味方になるはずの人も公開の場で批判する。だから、日本のリベラルは駄目なんだ、と思わざるを得ない。正論を吐くがひ弱、というのは朝日の社説を読んでも思った。

 

今回、私が書いたことは、正論としては明らかに間違いだ。表現の自由は、それが犯罪行為にでもつながらない限り、絶対的に守られるべきものである。政治的な理由から韓国絡みの表現の自由をことさら目立たせるべきではない、という主張は、本来、表現の自由とは相いれない。

しかし、戦前を含め、純粋な正義が負けた例は歴史上、いくらでもある。戦前は、自由のために命をかけて戦っても、政府から弾圧され続け、戦争に負けるまで自由を得ることはできなかった。今の世の中、戦前と違うのは、国民を味方につけた方が勝つ、ということ。

だが逆に、正論だけ振りかざしても、国民を味方につけられなければ、自由は失われる。憲法で文字上、自由が保障されていても、自由が自動的に守られるわけではない。その主張がどんなに正しくても、国民が共感しなければ、国民は知らず知らずのうちに自由に背を向ける。

そう、国民は、自由にとって味方にも敵にもなる。自由を守りたければ、時には回り道も必要だ。

 

追伸:今日、吉村洋文大阪府知事が少女像などの提示を「反日プロパガンダ」と呼び、「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」「(大村氏は)知事として不適格じゃないか」とまで言ったらしい。この人、松井一郎大阪知事が変なことを言うとオウム返しで変なことを増幅して言うことが多い。

大村知事にどこまでの覚悟があったかは別にして、表現の自由の問題提起をすることに公金を使うのに、何の問題があるというのだ? 政府が補助金を出したくない、というのなら、勝手にすればよい。だが、大阪知事風情が便乗してこんなことを言うなんて、維新のポピュリスト政党的ないやらしさが全面に出ている。

政治戦略上の理由から少女像は展示すべきではなかった、と私は本ブログで述べた。しかし、松井や吉村がここまで言う以上、ガツンと反論しておかないと言論抑圧とナショナリズムの悪い結合が進みすぎてしまう。野党の国会議員も黙っていないで少しは大村知事に加勢してやったらどうだ? 立憲民主と国民民主は国会で統一会派とか言っているらしいが、あんまり国民に嫌われるのを怖がって沈黙していると、支持率で維新に抜かれる日が来るんじゃないのか。

参議院選挙が思い知らせた「選挙における政策論争の消滅」

7月21日(日)に参議院選挙が行われた。各党の議席数は報道されているとおりである。とても醒めた言い方になるが、れいわ新選組やNHKを国民から守る党が議席を獲得したことを含め、あまり驚きのない結果であった。

各党の勢いを見るため、今回の参院選と前回(2017年10月)の衆議院選で主要政党が獲得した得票率を並べてみよう。

〈主要政党の比例得票率〉 (単位%)

自民 公明 立憲 維新 希望 国民 共産 れ新
前回

衆院選

33.3 12.5 19.9 6.1 17.4 7.9
今回

参院選

35.4 13.1 15.8 9.8 7 9 4.6

絶対的な得票数は落ちていても、与党は得票率を増やしている。自民は35%で野党第一党の立憲に対してダブル・スコア以上の大差をつけた。自公の合計は48%超。半分を切っているという見方もできるが、やっぱり強い。

一方、立憲民主は2年前から得票率を落とし、党勢にブレーキがかかっていることを窺わせる。2年前の支持層の一部は山本太郎のれいわ新選組に流れたのかもしれない。だが、前回衆院選で自公や希望に行った票――総投票数の約63%に及ぶ――をこの2年間、ほとんど取り込めていないという現実の方が深刻だ。せめて2割近くを握っていないと、立憲が野党の核になることも、野党全体で与党に対抗することも望めない。

維新の会は小躍進した。この春に仕掛けた大阪府知事と大阪市長のスライド選挙という賭けが吉と出て、関西圏(及び首都圏)で久しぶりに風が吹いた、というところだ。

現状、野党に国民の支持が大きく集まる気配は見られない。政権交代はおろか、与野党がある程度伯仲して政権運営に緊張感をもたらすこともむずかしい――。それが偽らざる感想だ。

さて、今回の参議院選挙ほど、政策的争点のない選挙はなかった。だが私は、それを「野党がだらしないから」と簡単に言うべきではないと思う。国民に語るべき大きな政策を持たない点においては、与党も五十歩百歩だからである。素性の知れない人物の唱える「NHK放送のスクランブル化」というニッチな公約が一番目立った、という情けない事実がそのことを如実に示している。

このブログでは、国民の関心が高かった経済(景気)と社会保障の分野において、参議院選挙を通じて各党がどのような政策を公約したか、少し復習してみたい。

経済政策

今回の参議院選挙の最大の争点は、10月に予定されている消費税率引き上げの是非だという見方が事前には強かった。確かにテレビの討論番組などでは司会者がこの問題を提起してはいた。しかし、多くの有権者がそれによって投票行動を決したとは思えない。その理由はいくつかある。

一つは、現在の政治状況からくる諦観。今日、衆参では与党が圧倒的多数を占めている。選挙前の世論調査でも自民党の支持率が4割前後なのに対し、野党第一党の支持率は10%以下。自民党には公明党(創価学会)という選挙上最強の後ろ盾もついている。しかも、小選挙区の衆議院ならともかく、中選挙区的な要素の混じり、半数しか改選されない参議院選挙では、政権交代や衆参の捻じれが実現することはありえない。

もう一つは、国民の意見が分かれていること。世論調査では、国民の半数近くが消費税率引き上げに反対と答える一方、賛成という国民も常に4割近くいる。反対と答えた国民でさえ、少子高齢化が止まらない中、社会保障や教育・子育て政策に充てるため、消費税率引き上げが必要だと言われれば、「消費税が上がるのは嫌だけど、仕方がない」と思う者が少なくない。他所の国ではどうか知らないが、日本人には真面目な人間が多いのだ。

次に、経済政策として争点となり得たアベノミクスはどうだったか?

安倍の政権復帰から6年経った今、アベノミクスはメッキの剥がれが相当目立ってきている。安倍政権はこれまで、株価など良好な指標のみを宣伝し、民主党政権の致命的なまでのガバナンスの悪さを思い起こさせることでアベノミクスの優位性を喧伝してきた。だが、安倍政権下で日本経済の平均成長率は+1.15%にすぎない。IMFの予測によれば、今年の経済成長率は+0.9%、来年も+0.4%と今後も低水準が続く。「悪夢の民主党政権」の3年間、東日本大震災を経験したにもかかわらず、日本経済が平均して年率+1.87%で成長した。国民もさすがに「アベノミクスも言うほどの成功ではない」と気づき始めている。

ところが、野党の側はアベノミクスを批判するだけで、対案を示せない状態が何年も続いている。特に、野党第一党の立憲民主党に骨太な経済政策が見あたらないのはつらい。

もっとも、野党にも(与党にも)同情すべき部分はある。人口減少が続く日本で、経済政策の妙案がおいそれと見つかるわけはないのだ。立憲民主などは、経済音痴であることを認めて開き直ればよいのに、と思う。「経済運営は政権交代しても基本的に変えない。低金利政策と財政出動は基本的に継続する」と言っておけば、経済界や多くの労働者は安心する。旧民主党政権も東日本大震災を受けて財政出動は十分にしていた。日銀が超低金利政策に転じたのも野田政権末期のことだった。経済政策は自公を引き継ぐことにして、それ以外の政策で与党と差別化を図る、というのも選挙戦略としてはありえるんじゃないかね?

立憲以外にも少し目を向けてみようか。維新は相変わらず、お題目みたいに規制緩和と言うだけ。昭和末期から平成初期に流行った議論だが、ある程度の経済成長を実現するには線が細い。国民民主は今回、高速道路千円、家賃補助、児童手当増額など、積極財政政策に舵を切った。こども国債という名目で現代貨幣理論(MMT)に乗ったようにも見える。ただし、選挙戦を通じてこうした政策が注目されることはまったくなかった。この党は政策以前に党としての信頼性獲得が課題かな? 共産党の経済政策は、アンチ・ビジネスと低所得者偏重が過ぎるので論評しないでおこう。

年金政策

もう一つの大きなテーマになると思われた年金政策はどうだったか?

参院選の直前、金融庁の審議会が「老後、公的年金だけでは足りないから2000万円の貯蓄が必要」というレポートを出し、選挙への悪影響を恐れた政府が受け取りを拒否するという珍事件が起きた。政府は「年金は百年安心」と言ってきた(と思われてきた)ため、国民の政権不信が一気に高まった。ある野党の政治家は「神風が吹いた」と喜んだそうだ。

しかし、結果的に神風はそよ風程度のものだった。野党はここでも対案を出せなかった。例は良くないが、イギリスのブレグシットも、「EUはけしからん」だけなら国民投票にたどりつくことはなかった。「EU残留」と「EU離脱」という2つの選択肢が示されてはじめて、国論を二分する一大争点になった。年金も選択肢が複数なければ論争にならない。

確かに、年金というテーマに国民の関心は非常に高い。しかし、国民の大多数を喜ばせ、納得させられる解決策は存在しない。誰だって、支給開始年齢は今のまま、支給額が増えるのがいいに決まっている。そして誰だって、保険料負担や消費税が上がるのは嫌だ。この2つの矛盾を解決するには、高齢化の進展以上の速度で労働力人口が増え続けるか、給料が上がり続けるしかない。それができたのは高度成長期のみであり、今はもう不可能だ。

結局、各党の提示しうる年金政策は、年金制度をやめないかぎり、

    1. 年金支給年齢の引き上げや年金支給額を減らしながら、現行制度を続ける
    2. 年金支給額を維持・増加するため、保険料や消費税率を引き上げる

のいずれかとならざるをえない。(それ以外にも、財政赤字を増やしてでも少子化対策を打つとか、移民を大幅に増やすと言った選択肢も考えられるが、今回は深入りしない。)

自公は①を称して「100年安心」と言っている。決して、現行の年金支給水準が100年続く、という意味ではない。給付水準を下げれば制度が維持されるのは当たり前。だから、嘘とは言い切れない。だが、国民が誤解するに任せていたのは「ズルい」話だ。ちなみに、金融庁の報告書が「2000万円必要」と言ったのは、①を前提にしたギリギリの生活が嫌だったらお金を貯めておいた方がいいですよ、という意味とも読める。

一方、年金の支給額が不十分だ、という野党の主張を政策にしようと思えば、②の方向へ行かざるをえない。ところが野党は、10月の消費税率引き上げにすら反対している。国民の負担増を公約として打ち出すことなど論外だ。勢い、その年金政策は曖昧となり、選挙戦の最中も政府・与党の隠蔽体質を批判するにとどまった。(公平を期すために言うと、野党は低年金者対策の充実についてはこの選挙で具体策を示していた。しかし、わずかの金額であるうえ、正当に保険料を支払った大多数の国民には関係がない話であったため、争点になることがなかったのも当然である。)

野党の参院選公約を見ると、立憲民主は最低保障機能の強化を謳っている。低年金者の給付額を上げるのだろうが、低年金者とそうでない人の線をどこで引くのか、受給額をいくらにするのかといった具体的な制度設計は示されていない。そこの議論に入れば、必要な財源と消費税率の引き上げ幅が表に出るためであろう。しかし、「最低保障機能の強化」だけ言われても国民は政策とは受け止めない。

一方、維新が提案しているのは積み立て方式の導入だ。一見魅力的に聞こえるが、既に何十年も賦課方式でやってきているため、新方式への切り替えには膨大な財源が必要になる。維新もそこについては口を閉ざしたままである。

私は、野党が公約で細かく財源を示す必要は全然ないと思っている。しかし、こと年金に関しては、そういうわけにはいかない。野党が年金の充実を公約するのなら、負担増についても説明すべきだ。ブレグジットの国民投票の際、離脱派は「EUから離脱すれば拠出金がなくなり、英国の社会保障に毎週(←毎年ではない)500億円使えるようになる」という主張――もちろん嘘だ――を展開し、多くの人がそれを信じた。日本でそんなことはやめてもらいたい。

ここからは少し脱線する。

上述した2つの年金政策は年金制度の存続を前提にしたものである。だが将来的には、「老後は自助努力で支える。その代わり、保険料も支払わない」という考え方に立ち、年金制度の廃止を掲げる政党が現れても驚くべきではない。年金保険料を一定期間以上支払った世代にとって年金廃止は損な話になるため、多数派を占めることはさすがに無理だろう。しかし、若い世代にとって今の年金制度は年寄り世代を支えるためのアンフェアな「持ち出し」にほかならない。シングル・イッシュー・パーティとして若者にターゲットを絞れば、複数議席の獲得は十分可能だと思う。

その結果、将来の日本の年金制度改革が、負担増による給付増(または給付維持)という方向に進むのではなく、負担減と給付減――足りない部分は自助努力で補う前提である――という方向に向かう可能性も出てくるのではないか。自助を強調する考え方は自民党の理念とも親和性が高い。そんな状況になったら、野党はどうするんだろうか?

今後の展開~有志連合と補正予算

参議院選挙が終わり、来週には臨時国会が開かれる。だが、これは参議院議長を選ぶための短期間。その後、秋に開かれるであろう臨時国会では、どのような政策が議論されることになるのだろうか? 少しばかり予想してみよう。

まず、マスコミが騒ぐ憲法改正はどうか? 安倍総理が何をやりたいのか、正直言って私にはよくわからない。自民党は4項目の改憲案を決めているが、選挙戦の最中、憲法のどこをどう変える、ということを安倍が力説したという印象はない。安倍が言っていたのは、憲法を変えたい、ということだけだった。しかも、選挙が終わった途端、自民党の案にはこだわらない、と言い出す始末だ。結局、安倍がほしいのは「はじめて憲法を改正した総理大臣」という名誉なのであろう。

そのうえで言えば、国民投票法の改正で野党に譲歩したうえで、野党を分断して憲法改正の土俵に引きずり込む、というのが最も考えられる安倍の改憲戦術ではないか。ただし、安倍は憲法改正の前にトランプが要求しているペルシャ湾の有志連合について、対応を決めなければならない。その分、改憲のスケジュールは後ろに倒れるだろう。

では、ペルシャ湾の有志連合に日本政府はどう対応するのか? 米国が期待しているようなことを自衛隊にさせるためには、新法の制定のみならず、9条解釈の再変更が必要となりかねない。仮に現行法で対応しようとすれば、ペルシャ湾の事態を存立危機事態と認定しなければならない。だが、今の時代にオイル・ショックが再現するようなシナリオには無理がありすぎる。

日本のタンカーが沈められて日本が当事者になってしまえば別だが、ペルシャ湾を理由に新法を通すのはなかなか骨の折れる仕事になる。今の危機は、イラン核合意からの離脱をはじめ、トランプの側にも責任があることは事実だ。「日本はトランプのマッチ・ポンプに付き合って自衛隊を派遣するのか?」という批判が出てくることも避けられない。解散・総選挙を視野に入れた時も、具合がよろしくないだろう。

加えて、安倍晋三は本来的に親米主義者というよりもナショナリストである、という要素についても考える必要がある。(ここで詳しくは述べないが、私は安倍の親米は本心からくるものではないと思っている。)安倍が「米国に付き合ってペルシャ湾くんだりで自衛隊員の血を流してもよい」と考えるかどうか? はっきり見えてこない。

次に、経済政策はどうか? ポイントは3つある。

一つ目は、この夏、米国との貿易協議がどう決着するか。程々の線で妥協して双方が自賛できればよし。ひどい譲歩を呑まされれば、安倍の解散戦略に制約が強まる。呑まないで交渉が長引けば、トランプが何をツィートするかわからず、それはそれで安倍にとって爆弾になる。

二つ目は、日本の景気動向全般に対しては、米中貿易・技術戦争の行方がから目が離せない。ただし、これは安倍政権が当事者能力を発揮できる問題ではない。日本政府に米中の仲介役が務まるとも思えない。まさに見守るしかないだろう。

三つ目にして当面の経済政策で最大の課題となるのは、消費税率引き上げをいかに軟着陸させるか、ということ。消費税が上がれば、消費は冷え込む。その分、政府支出を増やして景気の落ち込みを防がなければならない。実はこれ、今年1月17日のポストでも書いたとおり、日本政府は既に昨年度の補正予算と今年度の予算で手当てしている。だが、消費税率が上がると言うのにまだ駆け込み需要も見られず、景気の先行きは視界不良だ。そこでもう一丁、財政出動した方がいい、という意見が強まる可能性が高い。そうなれば、補正予算という話になる。

ここで問題は、何を名目に追加財政出動するか、ということである。ポイント還元やプレミアム付商品券といった消費税対策は、期間延長では当面の消費喚起にはならない。かと言って、今からポイントを拡大するなど制度をいじれば、混乱が大きい。

定番の公共事業はどうか? これについても、昨年度から来年度までの3年間、防災・減災、国土強靭化のための緊急対策として7兆円の公共事業を既に組んでいる。これには不要不急のものまで計上しているので、ここから増やすと言っても限度がある。結局、中途半端な補正を打ってお茶を濁す、ということになりそうだ。

安倍が補正予算で大玉を考えるとしたら、教育の無償化や児童手当の増額といった野党が主張している政策に手を出す可能性もないではない。これらは一旦始めれば恒久的に支出が続く政策だ。本来、消費税引き上げ対策として補正を組んで一時的にやるべきものではない。だが、安倍が国民民主の「子ども国債」に食いついたらどうか? 財務省は反対するだろうが、同省は安倍政権内での影響力が低下しているうえ、自民党内にもMMT支持派は一定数いる。まったくあり得ない話ではないだろう。

玉木代表は憲法改正をめぐる安倍の「釣り球」にもアッという間に飛びついたらしい。安倍総理のやり方次第では、憲法改正と子ども国債は野党分断の絶好の玉になりそうだ。

仁義なき選挙情報戦略~自民党の強さの秘密

参議院選挙の投票日まであと1週間。メディアでは「与党(自公)が優勢」という報道が躍っているようだ。今回の選挙、「争点が何なのか、よくわからない」「与党もパッとしないが、野党も批判ばかり」という声をやたらとよく耳にする。こうなると、自民党と公明党の組織力がものを言う。与党優位という情勢調査も当然かな、と思う。だが、与党有利の理由はそれだけではない。

我々有権者は、各党の政策や政治姿勢、あるいは政治家の人格等を判断して投票先を決めていると思っている。それこそが民主主義と選挙の建前でもある。しかし、正確に言えば、有権者は、各々が認識する「各党の政策や政治姿勢、あるいは政治家の人格等」を判断材料にして投票先を決めている。この部分、すなわち「有権者が各党をいかに認識するか」に大きな影響を与えるのが各党の情報戦略である。

ナチス・ドイツの例を持ち出すまでもなく、徹底的かつ巧妙な情報操作によって特定政党を支持するよう有権者を「洗脳」することは不可能なことではない。日本でそれを最も効果的にやれる立場にあるのは、資金力が豊富で長年権力を独占してきた自民党である。

自民党がこのことを理解し、既に実行に移しているとすれば? 政策をありのままに伝えることに重きを置く野党が、自民党に対抗するのは至難の業だ。それこそが近年の日本で起きていることだと思う。

中吊り広告による選挙応援?

先日電車に乗っていた時、ある中吊り広告を見ながら、「これでは自民党が強いわけだ」と妙に納得した。

私が見た中吊りは、高橋洋一著『安倍政権「徹底査定」』の広告であった。(中吊りそのものではないが、同書の新聞広告はこちら。)そこには、「安倍政権に80点をつける」とか、「若者の雇用が増えた」とか、「長期政権だから外交もよい」といった表現――記憶に基づくものなので正確ではない――が躍っていた。

面白いことに、6月の新聞広告に載っていた「だが、消費増税=景気後退なら大減点だ!」という大きな一行は、私の見た中吊り広告には見当たらなかった。安倍政権が10月の消費増税を掲げたまま選挙戦に入ったため、自民党(安倍政権)にネガとなる表現は避けたのだろう。その代わりに追加されていたのが、野党と(安倍政権に批判的な)メディアに対する批判である。ちなみに、出版元は悟空出版という2014年に設立された会社。ホームページを見る限り、ネトウヨ的な刊行物や安倍政権ヨイショの本が目立つ。

選挙期間中にこの中吊り広告を都内の地下鉄に掲載するのは、安倍政権(自民党)に対する選挙応援と受け取られても仕方ない。自民党がやれば、地下鉄なり、JRなりの自主規制コードにひっかかる可能性が高いだろう。しかし、高橋何某の書いた本の宣伝であれば、よほどのデタラメが書いてない限り、地下鉄会社も掲載を断ることはない。

アベノミクスの定量的な評価は、何の指標をとるかによって分かれる。たとえば、首相官邸の「『日本再興戦略』改訂2014」というホームページ――今は更新されていない――には、スーパーマンみたいなのが助走からホップ・ステップ・ジャンプよろしく空を飛んでいく絵が描いてあり、その先には「国内総生産成長率3%」とある。IMFによれば、日本の経済成長率は、2013年=2%、2014年=0.4%、2015年=1.2%、2016年=0.6%、2017年=1.9%、2018年=0.8%であった。ただの1年でさえ、目標を達成したことがなく、6年間のうち半分は1%を切っている。目標未達は明らかだ。だがそれでも、良い指標だけを取り出してアベノミクスはうまくいっている、と評価することを嘘とまでは言うことはできない。実際、自民党の公約パンフレットには、安倍にとって都合のよい数字だけが、これでもか、とばかりに載っている。

安倍外交についても評価は分かれる。厳しいことを言えば、安倍政権下でも拉致問題は前進せず、北朝鮮の核・ミサイル開発はさらに深刻化。中国公船による尖閣付近の領海及び接続水域への侵犯も減らず、北方領土交渉に至っては期待を振りまくばかりでプーチンから軽くあしらわれている。トランプにも振り回されているようにしか見えない。総理の外遊が増え、G7でも古顔になったのは事実だが、どんな具体的な成果が出たのかと問われると答に窮する。しかし、外交の評価は人それぞれだから、褒めようがこき下ろそうが、著者の自由と言える。民主党政権の時よりは良くなった、と言ってさえおけば、納得する人も少なくない。

書いてある内容の真偽のほどはさておき、この手の広告を通勤・通学の途中などに毎日、繰り返し目にしたら、どうだろう? 安倍政権が事実として十分な成果を出しているか否かにかかわらず、「安倍政権はよくやっている」「安倍政権を悪く言う野党やメディアは間違っている」ということを無意識のうちに刷り込まれる人が出てきてもおかしくはない。自民党が指示してやらせているか否かは不明だが、この手の広告が選挙期間中に打たれることで選挙戦上、自民党に有利に働くことは間違いない。

もちろん、安倍政権を礼賛し、野党を批判する書物ばかりが出版されているわけではない。安倍政権に批判的な人たちも様々な書物を著している。例えば、インターネットを見ていたら『「安倍晋三」大研究』(望月衣塑子&特別取材班 著、KKベストセラーズ)の広告に出くわしたりもする。

しかし、安倍政権礼賛・野党批判の書物(本、雑誌、新聞等)の方が、逆の本よりも遥かに多そうだ。雑誌や新聞、テレビも、安倍政権を攻撃する論調のところよりは安倍政権を擁護する論調のところの方が多い。NHKも安倍総理のお友達が会長(籾井勝人氏)や経営委員(百田尚樹氏など)が任命されていた。この勝負、物量的には安倍政権を批判する側に分が悪い。

ネットの世界でも自民党の一人勝ち

今日、活字の世界は縮小傾向なのに対し、ネットの世界が急速に拡張していることは言うまでもない。しかも、ネットの世界の方がフェイク・ニュースに寛容だ。当然、政治(政党)もネットの世界に注目し、自らの情報戦略に取り入れようと考える。ネット情報戦略の重要性にいち早く気づき、積極的に展開したのが自民党である。

その自民党が参議院選挙を前にネット戦略を刷新したと言う。人気ゲームや女性ファッション誌とコラボし、ネットやSNSを駆使して支持をよびかけるらしい。これなどは、自民党の政策や政治姿勢を対外的にネット配信するもの。ネット戦略の言わば「表の」部分であり、その中でも日の当たる分野だ。

公表されている自民党のネット戦略の中には、あまり目立たないかたちで行われているものもある。例えば、2013年のNHK報道は、自民党が業者に依頼して自民党や同党議員に関する書き込みを常時監視し、自民党にとって問題があれば、反論や削除要請を行っている様子を映像付きで流した。

最近はネット・ニュースの下の方にコメント欄がある場合も多い。自民党にとって都合の良いニュースであれば、自民党を持ち上げたり、野党をけなしたりする書き込みが、自民党にとって都合の悪いニュースであれば、自民党をフォローしたり、野党はもっとひどいと主張したりする書き込みも目に付く。もちろん、逆のケースもあるが、比率としては少ない。こうしたコメントは、純粋に個人の立場から書き込まれたものばかりではあるまい。自民党に依頼された業者によるものもあることは、上述のNHK報道からも明らかだ。

さらに、自民党には「自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)」というボランティアを組織した党公認のネット部隊が存在することが知られている。ネトウヨ系が多く、上記の書き込みを行う実働部隊とも目されているようだが、私はその実態をよく知らない。J-NSCは自民党のホームページ上で募集され、国会議員も参加する会議やオフ会も開かれているので相当に組織化されていると見てよかろう。

より攻撃的な情報戦略

刷新されたネット戦略を除けば、ここまで述べてきたネット情報戦略は自民党への他者の批判に対する防衛的な色彩が強いものだ。しかし、「攻撃こそ最大の防御」という言葉ある中で、自民党のネット情報戦略が防衛一色のものとは考えにくい。

ネットを使った攻撃的な情報戦略と言えば、2016年の米大統領の際にロシアが仕掛けたものが有名である。この時、ロシアはプーチン大統領の承認のもと、反ヒラリー・クリントンのフェイク・キャンペーンを大々的に仕掛けた。民主党本部へサイバー攻撃を仕掛けて盗み出した本当の情報を織り交ぜることによってヒラリーに不利となる偽情報の信ぴょう性を高め、自らの手で作ったサイトやウィキリークス、大手新聞に流して全米に拡散させた。多くの米国民がそれを信じた。開票の結果、僅差で大統領に選ばれたのは劣勢と言われたトランプであった。

違法性や悪質性の程度を問わなければ、この手の攻撃的なキャンペーンは昔から行われてきたことだ。共和党も民主党も、昔から多かれ少なかれ、真贋取り混ぜて相手候補に対する中傷合戦を行ってきた。例えば、「○○はユダヤ人だ」という噂を流すとか。日本でも、選挙期間中に候補者をめぐる怪文書が飛び交うと言う話は今日も聞く。だが、ロシアのやったことは、サイバー攻撃を交えたこと、ネットと伝統的メディアを組み合わせたこと、大衆心理把握の巧みさ、そして物量の点で、従来の攻撃的なキャンペーンとは一線を画す、積極的なものであった。

自民党はこの手の攻撃的キャンペーンをやっていないのだろうか? もちろん、やっていても公表するわけはないから、はっきりしたことを知ることはできない。だが、ネットでうかがい知ることのできるJ-NSC会員と自民党議員の会話が本当なら、自民党は当該会員がネットを通して野党などを攻撃することを奨励ないし黙認しているように見える。

報道によれば、参議院選挙公示の直前に自民党本部は、某インターネット・サイトの記事から引用、加筆、修正した内容を掲載した『フェイク情報が蝕むニッポン トンデモ野党とメディアの非常識』という冊子を自民党所属の衆参国会議員事務所に各25冊届けた。自民党所属の石破茂衆議院議員が「怪文書」と呼ぶほどのものだから、内容はフェイク・ニュースの類と言ってよいのだろう。一部の有志議員ならともかく、自民党本部がそんなものを配布したため、メディアでも話題になった。

この「怪文書」配布騒動が示唆することは、自民党がフェイクであろうが構わず、敵対する野党のイメージを貶めるために情報を積極的に流す偽情報キャンペーン(英語で言う「disinformation campaign」)を厭わないということである。

だが、自民党は偽情報キャンペーンをボランティアに任せているだけなのか? ロシアがやったようなサイバー攻撃まで使っているかどうかはわからないが、プロの集団に偽情報キャンペーンを含む攻撃的情報戦略を実行させている可能性は否定できない。偽情報キャンペーンはネット上だけで行われるとは限らず、新聞、雑誌、出版物からテレビまで、あらゆる媒体を通じて実行可能だ。違法なものでない限り、広告代理店が一括して請け負っていたとしても、私は驚かない。

フェイク・ニュースは自民党に有利

我々は、常に真実を受け入れ、嘘を退けるとは限らない。トランプのフェイクを真実だと信じるアメリカ人がたくさんいることからもわかるとおり、信じたいことを受け入れ、信じたくないことを退ける人は少なくない。

安倍政権に心酔する人たちは、安倍政権に批判的な人が安倍政権を批判しても、たいして影響を受けないだろう。逆に、枝野信者の人たちは、いくらネトウヨの人たちから批判されてもそれを信じることなく、立憲民主党を支持し続けるはずだ。

ただし、立憲民主党の支持者の方が中高年の割合が高いと言われている。特にかつて学生運動を経験した旧社民・共産支持者で立憲支持に変わった人たちの中には、いわゆるインテリ、知識人と呼ばれる人も少なくない。この人たちは理屈で考える傾向が強いため、相手方のネガキャンに対して比較的弱い。フェイクによる批判であっても、理屈や事実を示さないとなかなか納得しない傾向がある。「言いがかり」に対して理路整然と反論することは土台無理な注文だ。弱い支持層であれば、相手方のフェイク・ニュースによって切り崩される人も一定数出てこよう。

これに対し、自民党支持の人たちは相手陣営からの攻撃的情報戦略に接してもそれほど大きく動揺することはない。仮に安倍政権批判があっても、「野党や左翼メディアの言うことだから嘘!」と言われれば、それだけで納得し、安倍政権批判を信じないことにできる。フェイク・ニュースを交えた偽情報キャンペーンは、本質的に自民党を利する面の方が多い。

プロ集団を使ってフェイク・ニュースを交えた偽情報キャンペーンを大々的に行うためには、豊富な資金力を持った政党でなければならない。自民党の収入は250億円超え(うち、政党交付金が179億円)。これに対し、野党第一党の立憲民主党は政党交付金が収入の大半を占めると考えられるが、その額は今年で約32億円だった。これまで蓄えた額も考えれば、自民党の資金力は文字通り他党を圧倒しているはず。この点でも、自民党の有利は動かない。

その自民党が他党に先駆けて――遅くとも2009年に下野した時か、おそらくその前から――フェイク・ニュースも交えて攻撃的な選挙情報戦略に取り組んできたとしたら? 資金力的にもノウハウ的にも、他の政党が自民党の持つ先行者利得を切り崩すことは容易なことではないだろう。何よりも、自民党以外の政党は、フェイクを厭わないという仁義なき世界に足を踏み入れることに対する躊躇をなかなか捨てきれないと思われる。

 

私自身、各政党が偽情報を駆使した情報戦略にしのぎを削るような政治には強い抵抗がある。しかし、我々の生きている世界はすでにそういうものになっているのかもしれない。だとすれば、そんな状況下における民主主義なんて、一体どんな価値を持つのだろうか?

トランプに「日米安保はフェアでない」と言われてダンマリか・・・

先月29日、G20で来日したドナルド・トランプ大統領の記者会見が大阪で開かれた。そこでトランプは、日米安保条約が不公平だと批判し、日米安保条約を改訂する必要があると述べた。その4日前、6月25日には、トランプが側近に対して日米安保破棄の可能性について漏らしていたというリーク報道があった。翌26日には、米フォックス・ビジネス・ネットワークとの電話インタビューでトランプが日米安保条約の片務性についてあからさまに不満を述べていた。現職の米大統領が日本に来る前後のタイミングで日米安保を批判したため、トランプ発言は大きな注目を浴びた。

しかし、日本の敷居をまたいだうえで「お前たちはフェアでない」と言われたのに、この国の政治からもメディアからも、目立った憤りの声は聞こえてこない。ああ、情けなや。

トランプの発言は、シンプルなメッセージでストレートに響く。同時に、それは短い中にもフェイクを交えていることが多い。日米安保に関する今回の一連の発言も例外ではない。しかし、聞こえてくるのは、やれ「トランプの真意は何か?」「今後、トランプは日本に何を要求してくるのか?」「日米同盟を維持するため、日本は米国を守るべきではないか?」という議論――しかも、とても中途半端な議論――ばかり。まさに、日本中が「トランプ劇場」にはまっていると言ってよい。

このポストではトランプ発言に潜むフェイクを指摘し、ついでに「少しはトランプに反論してみろよ」とお上品で頭でっかちなこの国の政治家さんたちに(無駄と知りつつ)注文をつけてみる。

日米安保に関するトランプ発言

トランプは何と言ったのか? 6月29日の大阪会見におけるトランプの発言は、以下のとおり。(英語を参照して、多少補足した。)

Q:大阪での安倍晋三首相との会談後、日米安保条約の破棄についてまだ考えていますか? また、首相はそれについて何を語りましたか?

トランプ大統領:いいえ、日米安保の破棄は全く考えていない。(日米安保条約は)不公平な合意である、と私は言っているだけだ。過去6カ月間、そのことについて安倍首相に話してきた。私が語ったのは「仮に誰かが日本を攻撃すれば、米国は日本に続いて戦闘に加わり、実際に全力で臨む」ということだ。我々は四つに組んで戦い、日本のための戦闘にコミットする。誰かが米国を攻撃しても、日本はそうする必要がない。これは不公平(unfair)だ。(日米安保条約の締結によって)我々が行ったディール(取引)はこのようなものだ。(中略)だが、私は安倍首相に対して、我々はそれを変えなければならない、と話した。なぜなら、誰も米国を攻撃することのないよう望むが、仮にそのようなことが起これば――その逆になる可能性の方がずっと大きいが――、誰かが米国を攻撃することが万一あれば、(逆のケースで)米国が日本を助けるのであれば、日本は我々を助けるべきだからだ。安倍首相はそのことを分かっている。米国を助けることについて、彼には何の問題もないだろう。

トランプは、日米安保条約を破棄する考えこそ、明確に否定した。しかし、現職の米国大統領が日米安保条約を「不公平(フェアでない)」と呼び、改訂すべきだと公の場で――しかも日本で――明言したことの意味は大きい。

1960年に改訂された日米安保条約はこう記す。

第 5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。(以下略)

第 6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。(以下略)

日本に対する武力攻撃があれば、米国は日本を守る(=第五条)。日本に米国を防衛する義務はないが、その代わりに米国は基地を日本の領土の置き、事実上自由に使ってよい(=第六条)。日米両国は過去半世紀以上にわたってこの考え方を共有し、「日米の責任分担はバランスがとれている」という見解を相互に確認してきた。今回、トランプはそれを真っ向から否定し、日米安保を「アンフェア」と呼んだのだった。

トランプが開けた「パンドラの箱」

政治の決めごとの中には、穏健で回りくどい説明が専門家や官僚たちの間で賢明とされる一方、一般人の感覚からすれば「どこかおかしい」と思われることが往々にしてある。そんな時、パンドラの箱ではないが、名のある指導者が一たびそれを「おかしい」と公言すれば、「そうだ、やっぱりおかしい」と思う人の数が一気に増えたりする。

米国の対北朝鮮政策もそうした例の一つだ。米朝が軍事衝突すれば、北朝鮮軍の射程に入っているソウル市民や在韓米軍に甚大な被害が予想される。そのため、米国が北朝鮮にかける圧力には限度があるというのが、長年にわたって米政府の考え方だった。ところがトランプ政権は、クリントン、ブッシュ、オバマのそうした北朝鮮政策をきびしく批判し、軍事的選択肢も排除しないとして「最大限の圧力」を北朝鮮にかける方向に舵を切った。今や、米議会は民主党も共和党も、金正恩と安易な妥協をせず、トランプが安易に圧力を緩めないよう圧力をかける側にまわっている。

「米国は日本を守るのに日本は米国を守らない」というトランプの主張は、様々な事情を省略すれば、米国人にとって直感的に否定しにくい。今回、現職の大統領が公の席で「日米安保は(米国にとって)アンフェア」だと言ってしまった以上、今後は「日米安保はアンフェア」だと思う米国人が確実に増えるだろう。そうなれば、将来、民主党の大統領を含め、トランプ以外の人が大統領になっても、トランプ以前のように「日米安保は不平等ではない」という見解をとるかどうかは疑問だ。

トランプ発言のフェイク~米国は本当に中国と戦うのか?

トランプは日米安保のどこがアンフェアだと言うのか? ここでおさらいしておこう。

アンフェアという意味についてなら、大阪での発言よりもその前に行われたフォックスとの電話インタビューの方が詳しい。

6月26日のインタビューでトランプは、「日本が攻撃されれば、米国は第3次世界大戦を戦う。我々は命と財産をかけて戦い、彼ら(日本人)を守る」と強調した。続けて、「しかし、我々(米国)が攻撃されても、日本は我々を助ける必要はない。彼らは(米国への)攻撃をソニーのテレビで見ていられる」と述べた。

実際に聞いてみると、当該電話インタビューの中心テーマは米中貿易摩擦であり、日本に関する発言はインタビューの中盤で飛び出したものだ。しかも、トランプはすぐに批判の矛先を欧州に移し、ドイツをこき下ろしている。私の印象では、トランプは最初から日米安保を批判するつもりだったというよりも、司会者に訊かれて咄嗟に発言したように思える。とは言え、同じ趣旨のことをトランプは大阪でも話しており、トランプの日米安保観がこういうものであることは間違いない。

フォックスのインタビューでは「日本が攻撃されれば、米国は第三次世界大戦を戦う」と言い、大阪の会見では「仮に誰かが日本を攻撃すれば、我々は日本に続いて戦闘に加わり、実際に全力で臨む」と語ったトランプ。だが、ここに既にフェイクが潜んでいる。

第三次世界大戦を戦う、という以上、トランプは暗黙の裡に「日本が中国に攻撃されれば、米国は中国と戦う」と言っていることになる。本当にそうなのか?

中国が万一、在日米軍基地を攻撃するようなことがあれば、それは米国に対する攻撃以外のなにものでもない。この場合、米国にとって中国と戦う以外の選択肢はない。中国が米国の同盟国である日本の大都市圏を攻撃しても、米国は中国が日本の次に(在日米軍基地を含む)米国を攻撃すると考える可能性が高い。この場合も、米国は中国と戦わざるをえないだろう。これで終わりなら、トランプの発言にフェイクはないことになる。

問題は、実際に日本が中国から攻撃されるとすれば、そのような「ハード・ケース」が現実のものになる可能性はまず想定できないということ。中国による日本攻撃があるとすれば――それですら確率的には決して高くないが――、最もあり得るのは局所的な戦闘である。

例えば、尖閣諸島周辺や東シナ海のガス油田付近で日中が衝突するケース。事態がエスカレートし、中国が本土の都市部にミサイルを撃ち込んできたりすれば別だが、自衛隊と人民解放軍の戦闘が東シナ海上にとどまれば、米軍が表に出てくることは期待薄だ。

日米安保条約をもう一度よく読んでみよう。第5条に書かれているのは、日本が他国から武力攻撃された時、米国は「自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動する」ということだけだ。NATOの場合は、加盟国が「国際連合憲章第五十一条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助する」と取り決めている。それに比べると日米安保の相互防衛条項は随分レベルが低い。

結局、日米安保条約で定められた「自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処する」ために米国がとる具体的な行動は、日本に対する攻撃が起きた際の様々な状況、被攻撃対象の重要性、米軍が軍事介入した時に予想される損害の程度等々を米国政府が総合的に解釈したうえで決まる、ということだ。

常識的には、尖閣諸島のような絶海の無人島のために「米国兵士の生命を失ってもよい」と考える米国大統領はまずいない。日中が尖閣周辺で衝突した場合、米国が一番避けたいのは戦闘がエスカレートし、在日米軍が巻き込まれて中国と戦わなければならなくなることだ。米国は日中双方に強く自制を求め、場合によっては戦闘を拡大しないよう日本に圧力をかけてくる可能性すらある。調停役を買って出ることはあっても、トランプが言うように第三次世界大戦を覚悟して最初から全力で戦闘に加わるとは到底考えられない。

尖閣有事で米軍が自衛隊と一緒に中国軍と戦ってくれる可能性は低い、というのが日米安保条約をめぐる現実。トランプが言ったようにはならない。つまり、トランプ発言はほぼフェイクと言うべきだ。

日本政府はトランプ発言を「見て見ぬふり」

トランプ発言に対する日本側の反応は、正論ではあるが陳腐なものだった。

6月27日の記者会見で菅官房長官は、先ほど紹介した、日米政府間でこれまで了解してきた日米安保条約に関する見解を繰り返した。

日米同盟というのはですね、この安保条約で第5条においてはわが国への武力攻撃に対して日米が共同で対処する。ここは定めています。そして、第6条において、米国に対してわが国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和と安全の維持に寄与するために、わが国の施設、区域の使用、これを認めている。5条、6条でですね、このようなことをしっかりとうたっています。

日米両国の義務、そういう意味において、同一ではなくてですね、全体として見れば、日米双方の義務のバランス、ここはとられているというふうに思っていますので、片務的ということは当たらない。片務的ではなくて、お互いにバランスをとれている、そういう条約であると思ってます。

安全保障の専門家が採点すれば、合格点をつけるに違いない模範解答である。しかし、トランプは論理性や官僚的な積み上げよりも直感とディール感覚で物事を判断する人間だ。こんな「屁理屈」に動かされることはない。現に、安倍は過去半年間、トランプを説得することができなかった。

私が何よりも驚いたのは、トランプに大阪という場所でこれまでの日米間の取り決めを否定する発言をされたにもかかわらず、日本政府が何事もなかったような反応に終始していることである。プライドも何もあったものではない。

トランプ政権の誕生後、安倍政権はトランプを刺激せず、トランプの要求があれば早い段階でそれを一部受け入れることによってトランプの「標的」にならないよう努めてきた。これまではその戦略が功を奏し、北朝鮮、中国、イランだけでなく、ドイツなど欧州諸国やメキシコ、カナダといった同盟国が次々とトランプの標的になる中、日本はその陰に隠れて比較的「うまく」立ちまわってきた。(トランプ政権によって最も優遇されている国がイスラエルであることは言うまでもない。)

今回も日本政府はトランプ発言を問題視せず、今後も米国に多少の譲歩を繰り返すことで「やりすごそう」と思っているのかもしれない。しかし、今回トランプが突きつけた日米安保の双務性に対する疑問は、誤魔化すには根本的すぎる。

日米安保に関するトランプの一連の発言があった後、駐日米国大使のウィリアム・ハガティはトランプ発言について「米国ほど軍事支出をしない(日本など)多くの同盟国へのいら立ちを表明した」と解説し、在日米軍駐留経費負担の増額や日本の防衛予算増額が必要になると示唆した。

日本の米軍駐留経費負担割合は約75%で同盟国中最も高いが、現在の協定は2021年3月に期限を迎えるため、再選されなくてもトランプ政権が交渉相手となる。しかし、トランプ政権は少なくとも内部的には、同盟国に対して米軍駐留経費総額の1.5倍以上を支払うよう求める「コスト・プラス50」方式を検討している模様だ。

トランプは日本やドイツなどの同盟国が安全保障面で米国にただ乗りしていると批判してきた。日本に対し、米国を防衛するための集団的自衛権の行使を求めるだけでなく、日本の防衛予算を大幅に増やすよう要求してきても何の不思議もない。日本が防衛予算を増やすということは、米製兵器をもっと買わせることを意味する。大統領再選に向けたアピールにもなって一石二鳥となろう。(トランプはこれまでも日本による大量のF-35購入を誉めそやしている。)

今後、トランプは日米安保の改訂を求めてくるのか? 日本に防衛予算や米軍駐留経費の増額を要求するのか? はたまた安保を材料に貿易協議での譲歩を迫るのか? いずれにしても、今のままトランプのペースが続けば、日本はいいように引っかき回され、ディールでも圧倒されることになるだろう。

トランプとやり合う気概を持った政治家も皆無

政府だけが反応が鈍いわけではない。与野党問わず、日本の政治家たちはトランプ発言に対し、おしなべて沈黙している。

私の知る限り、トランプにはっきり噛みついたのは共産党の志位和夫委員長だけだ。志位は「本当にやめるというなら結構だ。私たちは日米安保条約は廃棄するという立場だ。一向に痛痒を感じない」と啖呵を切ったらしい。だが、日本国民の大多数が共産党の主張する日米安保廃棄に共感するはずもない。トランプにとって志位さんの発言は、それこそ痛くも痒くもない。

他の与野党幹部に至っては、ダンマリか、菅官房長官と同じ小賢しい解説を繰り返すだけ。他国の政治家に自分の国(大阪)であんなことを言われ、まともに反論する政治家が出てこないなんて、ひどい話だ。

せめて、こんなツイートをする政治家はいないものか?

トランプさん、あなたの言うように防衛面のみで双務的な内容に日米安保条約を改訂し、そのうえで日本に米軍基地を置き続けたいと言うのであれば、我々はあなた方に地代を要求させてもらいますからね。

上記では長すぎるようなら、こんなのはどうだ?

トランプさん、あなたが 5条の改訂を求めるのなら、我々は 6条の改訂を求める。

言っていることは、従来の政府のスタンスの延長だが、トランプが反応するカネの話と結びつけているのが味噌である。

日本の有力な政治家がこんな発信をすれば、トランプや米国サイドは「米軍基地がなくなって困るのは日本だろう? 俺たちは出ていっても構わないんだぜ」とすごんでくるだろう。その時、怯まないで米国との議論に立ち向かえれば、日本の安全保障政策は一皮むけると思う。しかし、そんな度胸と知性を持った政治家が見当たらないのは実に淋しい。

そう言えば今は参議院選挙の期間だった。トランプが6月29日にあんなことを言ったのに、党首討論等で日米安保のあり方や日本外交が論争にならないなんて、この国の政治はもう呼吸すらしていないのではないか。

反米ではないが米国と渡り合う気概を持ち、軍事力の有用性をしっかり認識したリベラルがこの国に登場することを期待してはならないだろうか――? 今回は脱線したまま、この辺で終わりにする。

消費税を延期せずに解散、も十分にあり

最近の永田町では、解散ムードが高まる一方に見える。もともと予定されている参議院選挙(=7月22日投開票という観測が強い)と合わせれば、1986年7月に中曽根康弘総理が仕掛けて以来、実に33年ぶりの衆参ダブル選挙となる。

「衆参ダブルなら、10月に予定されている消費税10%への引き上げは延期される」という見方が与野党ともに強い。しかし、本当にそうだろうか? 「解散も消費税引き上げも」という選択肢の方がありえる、と私は思う。

萩生田と菅の発言

解散風が吹き始めたきっかけは、4月18日に安倍側近と自他ともに認める萩生田光一官房副長官のインターネットテレビでの発言だった。荻生田はこう述べている。

「景気がちょっと落ちている。ここまで景気回復してきたのに、万一、腰折れしたら、何のための増税かということになる」
「次の日銀の短観(7月1日に発表予定)をよく見て、『本当に、この先危ないぞ』となったら、崖に向かってみんなを連れて行くわけにはいかないので、違う展開はある」
「増税をやめることになれば、国民の信を問うことになる」

荻生田発言は、4月21日に沖縄3区と大阪12区で行われた衆議院補欠選挙の直前というタイミングで飛び出した。両選挙区とも自民・公明が完敗した。そのことは4月18日段階で関係者なら誰もが予想していた。補選2敗で与党内における安倍の求心力が落ちないようにしたい――選挙が近いとなれば、執行部批判はできない――とか、メディアの目を補選からそらしたい、などと荻生田が考えたとしても不思議ではない。

その後、菅義偉官房長官の発言が解散風をさらに煽る。5月17日の定例会見で記者が次のように質問した。

「通常国会の終わりにですね、野党から内閣不信任決議案が提出されるのが慣例になっているとも言われているんですが、それを受けて、時の政権が国民に信を問うため衆院解散・総選挙を行うというのはですね、大義になるかどうか、長官ご自身はいかがお考えでしょうか?」

「それは当然なるんじゃないですか」

菅はぶっきらぼうに答えた。一旦は沈静化しかけた解散風にこれでまた火がついた。自民党が衆議院でも選挙の調査をかけた、という話も伝わり、与野党ともに同日選にむけて色めき立つことになった。

不信任案の提出が解散の大義になる、という奇妙な話

この質問、「やらせ」くさいと思わずにはいられない。「大義のあった解散なんて今までにあったのかよ?」と突っ込みを入れたいところでもある。まあ、それらは置いておくにしても、不信任案提出が解散の大義になるなどというのは、論理としてボロボロだ。

憲法第69条によれば、内閣不信任決議が衆議院において可決された場合、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならないことになっている。「内閣不信任案が可決されれば、解散の大義になる」というのであれば、(大義という言葉を使うかどうかは別にして)まだわからないでもない。

しかし、今の国会の議席配分を見れば、野党が内閣不信任案を提出しても、可決される可能性はゼロ。だから記者の質問も、不信任案が「可決されたら」ではなく、「提出されたら」となっている。

内閣不信任案は毎度のように提出されている。「一強多弱」状況の下では、野党が自らの存在意義を見せるためのパフォーマンス――そう言って悪ければ儀式――のようなものだ。内閣を制御するための「伝家の宝刀」なんて建前に過ぎない。

もちろん、解散は総理の専権事項である。内閣不信任案が可決されない限り、総理が解散しようと思えば、いつでも解散できる。その意味では、総理が「内閣不信任案が『提出』されたので解散する」と言えば、解散できないことはない。「売られた喧嘩は買う」というわけである。ただし、それでは変な前例ができてしまい、将来「内閣不信任案が提出されたので解散しろ」と言われかねない。

しかも、安倍総理はこれまで内閣不信任案が提出されてもことごとく否決し、6年半の長きにわたって政権を持続させてきた。「内閣不信任案が提出されたから解散した」ことなど、一度もない。今まで認めてこなかった大義が今回、急に出てきましたというのでは、あまりにも国民を愚弄している。

今回、消費税率引き上げ延期は解散の大義にしにくい

ではなぜ、内閣不信任案の提出が解散の大義になるか否かなどという馬鹿げた質問が飛び出したのか?

安倍総理はこれまでに二度解散している。一度目は2014年11月。この時は、翌年10月に予定されていた消費税率10%への引き上げを2017年4月に先送ることを表明。その是非を国民に問うことが解散の争点(大義)とされた。その後、2016年6月には消費税引き上げを2019年10月まで再延期すると述べ、そのうえで「アベノミクスを加速させる」ことを同年7月に行われた参議院選挙の争点と位置づけた。そして2017年9月の前回総選挙では、「消費税の使途変更(次の消費税増税分を借金の返済ではなく、子育て支援や教育無償化に使うこと)」や「北朝鮮問題への圧力路線」について国民の信を問う、とした。

安倍総理が今年10月に行われる消費税率引き上げを三度(みたび)延期すると決めているのであれば、それは「立派な」解散理由となる。わざわざ、「野党による不信任案の提出」などというチンケな大義を持ち出す必要などないはずだ。

しかし、安倍が解散する場合でも、消費税は予定通り10月には10%に引き上げるしかない、と考えているとしたら、辻褄は合う。

実際、わずか4ヶ月後に迫った消費税率の引き上げをこの期に及んで延期できるのか、という問題は、政治家の気合で乗り越えられるような小さな話ではない。例えば、複数税率の導入に対応できるレジの準備。補助金申請は4月段階で10万件を超えたと言う

10月の消費税率引き上げにあわせ、環境性能や耐震性の高い住宅を新築すれば省エネ家電などに交換できる「次世代住宅ポイント」制度の申請受け付けも今日(6月3日)から始まった。今さら延期と言えば、産業界も消費者も大混乱は必至だ。

加えて、安倍には、消費税率引き上げの延期を言わずとも、衆参選挙で負けることはない、という見込みがあるに違いない。もちろん、国民が与党の政策・政治を支持しているとは決して思わない。だが、自民党には、小選挙制度の下で公明党という独特の選挙集団と手を組んでいるという強みがある。リーダーの不在、政策の失速、選挙準備の遅れという三重苦を抱えた野党では、勝ち目は薄い。今現在、議席増を目論んでいられる野党(ゆ党?)と言えば、「大阪の乱」で勢いづく日本維新の会くらいのものだろう。

安倍が解散、衆参ダブルを既に決断しているのかどうか、私には知る由もない。だが、「10月の消費税引き上げは延期できない。消費税引き上げでも勝てるのなら、解散もありだ。大義は何か適当に考えればよい」というあたりが安倍の胸のうちではないか、と予想する。荻生田発言は解散理由において安倍を縛るものだった。菅発言は「解散するなら消費税率引き上げ延期」をニュートラルにすることに意味があったのではないか。

 

いずれにせよ、参議院選挙は間違いなくある。今回の選挙、何が争点なのか、私にはよくわからない。ほとんどの国民にとってもそうだろう。与党は「野党が不信任を出したら受けて立つ」と言うだけ。野党も与党批判を通じてしか自己の存在を主張できない。
「野党冬の時代」というよりも、「政党冬の時代」がしばらく続く――。それだけははっきりしている。

令和の天皇が挑む試練――象徴ゆえの困難

昨日(2019年5月1日)、平成の天皇(明仁上皇)が退位し、令和の新天皇(先の皇太子徳仁親王、浩宮)が即位した。前回の御代代わりは昭和天皇の崩御に伴うものだったため、世の中は自粛ムードだった。しかし、今回は祝賀ムード一色と言ってよい。「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」と「即位後朝見(ちょうけん)の儀」も正装で行われた。不敬かもしれないが、私は戦後生まれの同世代として新天皇に親近感を抱いている。新天皇にとって、めでたい門出となったことをまずは素直に慶びたい。

だが、正直に言えば、慶びの裏には不安もある。昨年12月13日付のポスト(「次の代替わりに伴い、『天皇制のあり方』も変わる」)で、新天皇を試練が待ち受けることになる、と私は書いた。ここ数日の皇室特番をテレビで見ながら、新天皇を含め、これからの皇室は大変だな、という思いを改めて強くした。

象徴天皇は権力がない故に、その存在価値を国民の支持に見出すしかない。つまり、天皇制の将来はひとえに、天皇の人格、天皇の徳にかかっている、ということ。先の天皇(明仁上皇)はこの試練を見事に乗り越えたが、次もうまくいくとは限らない。

祝賀ムードの中、新天皇にとって試練の日々がいよいよ始まった。令和が始まったばかりだと言うのに、水を差すつもりは毛頭ない。むしろ、徳仁天皇にエールを送るつもりで私の思うところを書いてみる。

 

明仁天皇の危機感

平成における成功

平成が終わりを告げるまでの数週間、テレビなどは明仁天皇と美智子皇后の特集をものすごい勢いで放映した。そのすべてを見たわけではないが、先の天皇・皇后は本当に国民に敬愛されていた、というのが実感である。先月行われた時事通信の世論調査では、明仁天皇に対して「尊敬の念を抱いている」が44.0%、「好感を抱いている」が39.5%にのぼった。これは凄い数字だ。失礼な物言いではあるが、昭和天皇が崩御されたとき、明仁天皇がここまで国民に支持されることになると誰が思ったであろうか?

戦争に負けて大日本帝国は日本国となり、天皇の位置づけも戦前とは大きく変わった。明治天皇、大正天皇、終戦までの昭和天皇は、間違いなく政治権力を持っており、現人神として神聖化された存在であった。大日本帝国憲法の第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定め、第3条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定していた。ただし、第4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあるとおり、天皇は絶対君主だったわけではない。明治から戦中にかけて、政治の実権は元老たちや軍部が握っていた。だが彼らも、天皇の意向をまったく無視できたわけではない。戦前の天皇は厳然たる政治的影響力を持っていた。

戦後、新憲法の下で天皇は日本国の「象徴」という曖昧な概念として存続することになった。裕仁天皇は人間宣言を行い、政治的な発言も慎まざるを得なくなる。とは言え、同じ人格を持つ天皇がある時点を境に完璧に変わることなどありえない。昭和天皇の話し振りなどからは、最晩年においても高い目線が感じられたものである。それでも、国民の多くは昭和天皇に対し、現人神と権力者の残滓を見ていた(前回のポスト参照)から、天皇の権威は保たれた。

その意味で、名実ともに象徴天皇となった最初の天皇は明仁天皇だった。そして明仁天皇は、象徴天皇として国民の敬愛を集め、見事なまでに成功をおさめる。しかし、その成功は決して最初から約束されていたものではなかった。

象徴天皇制のきびしさ

考えてみれば、「象徴天皇」とは心もとないものだ。天皇が(たとえ絶対的なものでなくても)政治権力を持っていれば、天皇一個人の能力や徳にかかわらず、天皇の地位はまず安泰である。だが、今日の象徴天皇制の下で天皇は政治権力を持たない。神事に携わっているとはいえ、戦前のような神性も失われた。それどころか、憲法第1条は天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」と明言している。国民主権の時代に象徴天皇制を存続させるためには、国民の支持を得続けることが必須というわけだ。

現人神でもなく、権力者でもない天皇が国民から支持されるか否かは、天皇個人の資質にかかる部分が大部分である。

これが一国の宰相であれば、人徳に多少欠けていても、政治経済の運営実績を残し、選挙に勝利すればその地位を守ることができる。企業でも、同族による株式支配や好業績の達成に助けられ、性格に難のある経営者がその地位に居続けることも珍しくはない。しかも、大臣であれ、経営者であれ、本当に資質がなければ、別の誰かに代わればよいだけの話だ。

象徴天皇は違う。権力を持たない以上、天皇に政治的な実績をあげることは不可能。神として崇めたてられることもない。結局、天皇や皇后の人徳、人格で勝負するしかない。天皇という個性が国民に受け容れられなければ、自ら交代することも許されず、天皇制そのものの存続が危ぶまれる事態となる。考えようによっては、象徴天皇制とは、実にきびしい制度だ。

そのことを誰よりもわかっていたのは、ほかならぬ明仁天皇ご自身だったのではないだろうか? 昨年12月20日に行われた会見で「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と明仁天皇は述べられた。

即位以来、象徴天皇が置かれた立場のきびしさを自覚しながら、言ってみれば日々、崖っぷちに立たされたような気持ちで公務に取り組まれていたのであろう。去る2月24日に行われた即位30年記念式典で明仁天皇は「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と述べられた。「果てしなく遠く」という部分に天皇制存続に対する危機感の反映を感じ取るのは私だけだろうか。

政治との距離

明仁天皇はいかに象徴天皇として国民の支持を獲得できたのか? 本人や皇后の人格、天皇の公務に対する責任感が最大の理由であろうが、それらは私の目で観察することができない。ここでは、明仁天皇の慎重さ(戦後憲法に忠実であろうとする姿勢)と、平成という災害の時代が天皇に迫った対応の二点によって、多くの国民が象徴天皇を支持するようになったという事実を指摘しておく。

明仁天皇はリベラルな考え方の持ち主と言われている。しかし、ご本人は国民主権を定める戦後憲法を厳格に解釈し、政治的な発言を厳に慎まれた。お気持ちが滲むような発言をされたことは幾度かあるが、その場合も言葉を選ばれており、天皇が政治的な発言を行ったとは言いがたいものであった。なお、2016年8月に生前退位の意向を事実上表明されたことを取り上げ、政治的発言と批判する向きもあるようだが、それは天皇を憲法の奴隷とみなす極論である。

重要なことは、明仁天皇が特定の政治家や政党を支持したり、批判したりすることから完璧なまでに距離を置いたことだ。平成のほとんどの期間、自民党政権(またはその連立政権)が続いたが、リベラルな思考の持ち主である天皇が政権を批判したことはなかった。比較的リベラルな民主党政権ができた時も、天皇が政権に親近感を表明することは微塵もなかった。平成の最後の6年余り、「戦後レジームの解体」という天皇の価値観を真っ向から反する考え方を持つ安倍晋三が総理大臣を務めても、天皇は政治の動きに対し、黙して語らなかった。もしも、2009年に政権交代が実現した時に天皇がそれを歓迎する発言をしていれば、あるいは、憲法の解釈改憲を行った安倍を明確に批判していれば、右寄り、あるいは保守層の反発を招いていたに違いない。一方で、リベラル系の国民は明仁天皇がリベラルな思考の持ち主であることを知っており、戦前のイメージを引きずる昭和天皇に対して持ったような反感を明仁天皇に抱くことはなかった。価値観の多様化した現代において天皇が奇跡的に広範な国民の支持を得られたのは、政治的発言を厳に慎むという明仁天皇の慎重さに負う部分が少なからずあった。

新しい役割としての被災地訪問

もう一つ、誤解を怖れずに敢えて言うと、平成が頻繁に大災害に見舞われた時代であったことが、天皇に象徴天皇としての新たな――かつ、国民の目に見える――役割を与え、結果的に象徴天皇に対する国民の支持を集めさせることになった。

象徴天皇の役割には様々なものがある。

内閣総理大臣の(形式的な)任命、解散詔書の作成、栄典の授与など、憲法に由来する「国事行為」。はっきり言って、これらは一般国民にとっては関係のないことである。

国家の安寧・繁栄、五穀豊穣などを祈る「祭祀」。これも一部の右寄りの人を除けば、興味のないことだ。第一、天皇が祈りを捧げている姿を国民は目にすることがない。

それ以外の公務。終戦後、昭和天皇は敗戦に打ちひしがれた国民を励ますため、全国行幸を行ったほか、戦没者の慰霊活動も行った。国民体育大会や植樹祭など様々な行事にも皇族が分担して参加している。外国訪問や来日した外国要人との面会といった皇室外交も重要な仕事のひとつだ。これらは平成の皇族にも引き継がれてきた。

平成になると、阪神淡路大震災、東日本大震災をはじめ、大規模な地震が頻発し、近年は豪雨・豪雪災害が毎年のように全国各地を襲った。被災地訪問は昭和の時代にもあったが、平成において天皇の公務の中で最も重要なものになったと言ってよい。

もちろん、天皇が災害を利用したと言いたいのではない。天皇は、日本国の象徴、日本国民統合の象徴としての責任感に駆られて、やむにやまれぬ気持ちで公務に携わられたはずだ。

被災地訪問に向けた天皇の献身は、その頻度と回数のみならず、姿勢の面でも昭和と区別されるものだった。昭和天皇も種々の慰問活動をされたが、立ったまま、上から目線の残る言葉――「あ、そう」は流行語となった――をかけていた。しかし、明仁天皇と美智子皇后は違った。自ら膝をついて被災者と同じ目線になり、予定時間を超えても被災者の声に耳を傾けた。今では当たり前に思うようになったが、天皇が一般国民に丁寧語で語りかけるのをはじめて聞いた時、違和感さえ覚えたものである。

平成の30年あまりの間、天皇は被災地を慰問し続けた。天皇が自ら国民の中に入り、国民と苦難を分かち合おうとする姿に国民は感動をおぼえた。今や、国民が天皇に期待する役割のうち、「被災地訪問などで国民を励ます」が最も多い66%(複数回答)にのぼる。被災地訪問は天皇の公務として高く評価されるようになっている。

 

令和以後、象徴天皇制が抱える課題

以上のように、明仁天皇は象徴天皇として国民の支持を集めることに見事成功した。だが、問題は令和以後どうなるか、である。国民の歓呼の中で即位した徳仁天皇は、父が抱えた以上に大きな課題と直面することになると思われる。

国民の支持

共同通信社が実施した緊急電話世論調査によると、徳仁天皇に対して「親しみを感じる」と回答した者が82.5%にのぼった。まずは順調なスタートだと言える。しかし、「親しみを感じる」ことと新天皇を「支持する」ことはまた別だ。明仁天皇が国民に支持されたからと言って、徳仁天皇も自動的に国民に支持され続ける保証はどこにもない。

令和の時代、徳仁天皇と雅子皇后は、象徴天皇としていかに国民の支持を得ていくのか? 令和の天皇ご夫妻と平成の天皇ご夫妻の人徳を比べることは私にはできない。だが、明仁天皇夫妻が国民に敬愛されている分、徳仁天皇夫妻が越えるべきハードルも高くなることだけは確かであろう。

明仁天皇が「開拓」した被災地の訪問は令和の天皇も継続することになる。しかし、東日本大震災級の大災害が令和の時代も引き続いて起こるとは願いたくない。新時代が災害の面で安寧であれば、天皇の役割が失われる、というのはやはり矛盾している。

明仁天皇は被災地訪問を通じて、国民に近しい皇室という昭和天皇とは異なるスタイルを自ら作り上げた。それは昭和天皇が戦前の天皇像を部分的に残し、国民も昭和天皇に戦前の天皇像の残滓を見ていた時代の後だったからこそ、強いインパクトがあった。一方、5月1日の即位後朝見の儀で徳仁天皇は「常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たす」と誓った。前天皇の姿勢を継承すると言ったわけだ。だが、前天皇と同じことをしても、前天皇と同じくらい評価されるものか否か? 今しばらく様子を見ないとまだ何とも言えない。

雅子皇后の健康状態が激務に耐えられるのか、という懸念も残る。皇室の仕事は長く続くものなのだから、新皇后には最初から無理されることのないよう、是非とも謹んでほしい。確かに、雅子皇后が健康状態故に公務を減らされれば、批判が多少なりとも出てくることは覚悟せざるをえない。だが、そうした批判に対しては別の批判も出てくるはず。プレッシャーの中で徳仁・雅子流の皇室像を作れるかどうかを国民は注視している。

雅子皇后が外交官出身ということもあり、新天皇・新皇后に対し、これまでとは一味違った皇室外交を期待する声も聞こえてくる。私も、そうした期待を抱かないわけではない。だが、令和の皇室外交は安全運転、かつペースを抑えて行うべきだ。被災地訪問など国内の公務よりも皇室外交に熱心である、と見られるようなことがあれば、新天皇に対する風当たりは一気に強くなりかねない。また、皇室外交が親善を超えて中身を伴うものになれば、天皇は知らず知らずのうちに政治の世界に足を踏み入れることになる。そうなれば、皇室外交を支持する国民もいる一方、批判する国民も必ず出てくる。天皇が政治的発言を行えば、象徴天皇制に対する国民の支持は必ず減ることになろう。

ゴシップ・ネタの類いだからあまり言いたくはないが、小室圭氏の母親の問題をはじめ、皇太嗣である秋篠宮家に関わる出来事も懸念材料だ。小室氏にまつわる話は何が本当なのか、私は知る由もない。だが、眞子内親王が小室氏と結婚すれば、将来の天皇の義兄やその母親が金銭トラブルを抱えたまま、説明責任すら果たさない、と少なからぬ国民は不快に思うだろう。もちろん、小室氏と眞子内親王は天皇家から独立した二つの人格である。好きあった二人が結婚するのは自由だ。しかし、世の中は、二人を独立した人格と見るのではなく、皇太嗣の娘、悠仁親王の姉とその彼氏、と見る。私の知り合いの中にも「こんな問題一つ解決できなくて、次の天皇家を信頼しろと言われても無理ですよね?」と言う人はいる。徳仁天皇は黙っていればよいと思うが、秋篠宮にとっては頭の痛い問題である。

後継者問題

政府は今秋以降、皇位継承問題の検討を進める意向のようだ。

現在、天皇の後継者は、皇位継承順位1位の皇太嗣(秋篠宮)、同2位の悠仁親王、同3位の常陸宮の3名のみ。常陸宮は徳仁天皇(59歳)の叔父で83歳だから、事実上、秋篠宮と悠仁親王の2名と言ってよい。秋篠宮は徳仁天皇の5歳年下であるため、仮に現天皇が80代で退位されれば、秋篠宮は前例のない高齢で即位することになり、在位の期間は短いと考えられる。先月20日付の朝日新聞は、秋篠宮がそのような事態においては皇位継承を拒否すると述べた、と伝えた。となると、皇位継承者は事実上、悠仁親王一人となる。徳仁天皇が80歳になる年に悠仁親王は34歳くらい。悠仁親王に男子がいなければ、天皇家は絶えてしまう。事態は深刻である。

今後の検討では、女性宮家の創設のみならず、女系天皇や女性天皇についても議論される可能性がある。今日発表された共同通信の世論調査では、女性天皇を認めることに賛成が79.6%、反対は13.3%であったと言う。実際には、保守派のすさまじい抵抗が予想されるため、女系天皇や女性天皇の実現は困難を極めると考えざるをえない。

令和以後の皇位継承の本当の問題は、皇位継承資格の拡大によって解決できる類いのものではないかもしれない。私の根本的な疑問は、悠仁親王であろうが、(女性天皇が認められた場合の)愛子内親王であろうが、果たして本人が天皇となることを望むのか、というものだ。明仁上皇や徳仁天皇までは、それが当たり前だったかもしれない。だが、21世紀に生まれ、現人神だった昭和天皇に会ったこともない若者が、周囲はすべて職業選択の自由を享受している中、一人、憲法や皇室典範の定めに従って天皇になる、という道を選ぶものだろうか? 例えば、悠仁親王が天皇に即位する場合は、30代から40年以上にわたって天皇の務めを果たさなければならない可能性が高い。親王がそれを望まないと考えたとしても、誰が責められようか?

保守派の中には、旧皇族の男系男子を皇籍復帰させるという解決策を提唱する者もいる。これをやれば、継承資格を持つ者の数は格段に増える。天皇になることを受け入れる者も探しやすくはなるだろう。でもそれは、大多数の国民にとって、どこの馬の骨だかわからない者が新天皇になる、ということを意味する。天皇に政治権力がない今、そんなやり方で天皇を選べば、象徴天皇制は国民の支持を失い、制度そのものが崩れ去るであろう。(少なくとも私は、そんな天皇を象徴と仰ぐ気にはなれない。)

象徴天皇制の下、皇位継承の問題は一義的には政府が考えるべきことだ。しかし、皇位継承は天皇家の存続の問題でもある。現実には、徳仁天皇も心を悩ませないわけにはいくまい。問題が議論される過程で、国内世論が分断されれば、象徴天皇に対する国民の支持が大きく揺るがされる可能性も排除できない。

 

以上、新天皇に対し、厳しいことばかり言いすぎたかもしれない。だが私は、徳仁天皇と雅子皇后を温かく、そして長い目で見守るつもりだ。

 

現代貨幣理論(MMT)が日本に逆輸入される日

現代貨幣理論(Modern Monetary Theory, MMT)というものがアメリカで流行しているそうだ。

経済学の徒でない私には、現段階でMMTなるものに確定的な評価をくだす自信がない。しかし、MMTなるものが無視するには大きすぎる政治的なインパクトを持つであろうことは十分に予測できる。本ポストでは、アメリカにおけるMMTの流行が、近い将来、日本の経済・財政政策に影響を与える可能性について考えてみたい。

MMTが日本の経済政策にもたらすものは、チャンスなのか、リスクなのか?

MMTとは何か?

残念ながら、MMTの詳細な解説となると私には荷が重い。ここではMMTの簡単な紹介にとどめるが、ご容赦いただきたい。

政府はどんなに支出を増やしても、お金がなくなったり破産したりすることはない――。このシンプルな考え方がMMTの共通項である。そこから、3月15日付の日経新聞はMMTの主張を「自国通貨建てで政府が借金し物価が安定している限り、財政赤字は問題ない。政府の借金は将来国民に増税して返せばよい。無理に財政赤字を減らし均衡させることにこそ問題がある」とまとめている。厳密に言えば異論もあるかもしれないが、MMTの持つ政治的な意味を考えるうえでは、この程度の理解でも大きな不都合はないだろう。

米連邦準備制度理事会(FRB)のジェローム・パウエル議長から、ポール・クルーグマンやラリー・サマーズなどの経済学の大御所たちまで、メイン・ストリームの人たちはMMTを痛烈に批判している。

伝統的な経済学の理論では、財政赤字の膨張を問題視する考え方が強い。20世紀後半の欧米先進国の経験も財政赤字を罪悪視し、「財政健全化こそ正義」という風潮を裏打ちするものだった。

1970年代のイギリスは経済成長の低下を受けて財政赤字が増加、1976年には財政破綻した。その後、サッチャーによる民営化、金融引き締め、財政支出削減等を経て1998年、ブレアの時代に財政黒字に転じた。

ベトナム戦争後の米国も経済の停滞に苦しみ、1980年代には財政赤字と経常赤字の併存(双子の赤字)が問題視された。レーガン政権下では国防予算の増加や大規模減税によって財政赤字が膨らみ、1992年にピークに達する。その後、クリントン政権下で米経済は復活し、1998年には財政黒字を実現した。

ワイマール時代の天文学的インフレを経験し、ヒトラーの台頭を許したドイツもインフレに対して強いアレルギーを持ち、財政規律を人一倍重視する。

要するに、伝統的な経済・財政学者や金融政策の実務に携わってきた人たちの目には、MMTの先に「放漫財政→ハイパー・インフレ→財政破綻」が見えるのだ。今はMMTの広告塔な役割を果たしているステファニー・ケルトン(ニューヨーク州立大学教授)も、長い間異端視されてきたと言う。

しかし、私に言わせれば、伝統的な経済学とMMTの違いは、いわゆる近代経済学とマルクス経済学の違いのような根本的なものではない。

例えば、伝統的な経済学者や金融政策の実務者たちも、経済低迷期における政府の介入(財政出動)が必要であることは明確に認めている。ただし、彼らは財政出動が「大きくなりすぎる」ことを警戒し、財政出動や財政赤字はできるだけ小さくとどめ、できるだけ早く解消した方がよい、と考える。

対するMMTは、財政赤字を恐れるあまり、経済低迷期において財政出動が「小さくなりすぎる」ことにむしろ懸念を抱く。リーマン・ショック後の不況期に各国政府は財政出動や低金利(マイナス金利を含む)政策を展開したが、MMTの信奉者は、その規模や期間が中途半端だったから今日も世界経済は立ち直っていない、と批判するのだ。

ちなみに、MMTも財政赤字を野放図に膨れ上がらせたまま、放置していいとは考えない。十分に大きく、十分に長く財政出動すれば、景気が上向いて税収も増える、というのがMMTの理想像。しかし、財政赤字の増加ペースが物価上昇率を超えたり、完全雇用が実現したりすれば、財政赤字にブレーキをかけなければいけない。ただし、その場合でも政府には増税という最終手段があるから、問題はない、とあくまで楽観的である。

政治から見たMMT

圧倒的な少数派にとどまり、その教義が実行される可能性がほとんどなければ、正統派は異端を本気で批判しない。伝統的な経済学者や金融政策の実務者たちがMMTを声高に批判し始めたのは、近年、アメリカ政治の一部、特に民主党左派にMMTと組む動きが見られるためである。

代表格が前述のケルトンだ。前回の大統領予備選でヒラリー・クリントンと最後まで民主党候補の座を争ったバーニー・サンダースの経済顧問を務めた。もしもサンダース大統領が誕生していれば、ケルトンが経済政策の司令塔となり、MMT流の経済・財政政策が採用されていた可能性があったということだ。

民主党の左派の政治家で最近売り出し中なのが、アレクサンドリア・オカシオ=コルテス。プエルトルコ移民を母に持ち、昨年11月に28歳で史上最年少の下院議員となった。彼女も財政赤字の拡大を容認するMMTに秋波を送っている。オカシオ=コルテスは、政策面ではグリーン・ニューディールを主張し、10年以内にエネルギーを100%再生可能由来のものにするほか、4兆6千億ドル(約500兆円!)のインフラ投資を行うのだとか。財源として炭素税や高所得者への増税を訴えるが、それだけでは足りない。MMTに関心を寄せるのも自然な流れと言える。

サンダースを含め、民主党の左派は政府が保険料を徴収して医療費の全額を払う単一支払者制度(single payer health care)の導入を主張している。必要な財源は年間、150兆円とも300兆円以上とも言われる。彼らの間でもMMTへの「期待」は大きい。

だが、財政赤字に寛容なのは民主党左派ばかりではない。実際のところ、「共和党=小さな政府」というのは財政の観点では既に死語となっている。

トランプ政権の下、10年間で1.5兆ドル(約160兆円)の減税、国防費やインフラ投資の増額などが行われた結果、連邦政府の債務残高は22兆ドル(約2400兆円)を突破して過去最高となった。トランプが政治的にMMT支持を口にするかどうかを別にすれば、トランプが財政赤字に無頓着な大統領であることは明らかだ。

トランプの説明によれば、今は財政赤字が積み増されても、将来経済成長によって税収が増えるから問題は起きない。まるでMMTの論者の話を聞いているようだ。もちろん、トランプは将来増税に訴えなければならない可能性など、おくびにも出さない。トランプは学者ではないから理論を証明する必要はない。仮に将来増税するとしても、その時の大統領が自分でなければ別に構わない、と言ったところだろう。

日本への影響

面白いことに、MMTの論者たちはその理論が正しい「証拠」として日本のアベノミクスを挙げることが多い。

日本政府の債務残高の対GDP比は2009年から200%に乗り、2018年度は236%程度。しかも、安倍内閣(正確には野田政権末期)以降、日銀による国債買い入れを含めた「異次元の金融緩和」を続けている。にもかかわらず、インフレは起きていない。黒田日銀が目標としていた2%のインフレ目標など夢のまた夢だ。

同様に、欧州の量的金融緩和やマイナス金利も、伝統的な経済理論が指摘したような問題を顕在化させていない。であれば、米政府の債務残高の対GDP比が2011年から100%台に乗り、今も上昇傾向にあるからと言っても、どうってことはない(=財政赤字はもっと増やせる)ということになる。

大規模な金融緩和と財政出動のセットであるアベノミクスの下でインフレが起きない(起きてくれない)理由はきちんと解明されていない。人口減少のトラップによるという説などいくつもの説明が試みられてはいるものの、決定版はない。だから、MMTのように「そもそも、財政赤字を拡張しても問題は起きない」という説が受け入れられる素地があるのだ。

いずれにせよ、アベノミクスはMMTが流行する前に登場している。その意味では、日本の経済政策であるアベノミクスがMMTに影響を与えていることはあっても、その逆はない――。これまでは、そう思ってよかった。しかし、将来もそうであり続ける保証はない。

アメリカの例を見るまでもなく、MMTは政治との親和性が高い。それはそうだろう。政治は有権者の歓心を買いたいからバラマキに走りがち。だが、高度成長が終わった先進国では財源が制約になる。MMTはその縛りから政治を解き放つ。

まずは米国同様、民主党崩れのリベラル陣営がMMTを援用する可能性がある。旧民主党やその末裔政党はリベラルのくせに財政健全化にこだわりを見せる不思議な政党だ。思えば民主党政権は、財源にこだわる一方で既存の事業をやめる決断もできなかったため、マニフェスト公約である子ども手当の実現や高速道路の無料化を断念、嘘つきと批判された。(東日本大震災があったことは考慮すべきだが、それがなくても主要な選挙公約を実現できていなかったことは間違いない。)下野後の民主党及びその後継政党は、財源の呪縛ゆえに新たな目玉政策――憲法改正とかでなければ、大概はカネがかかるものだ――を提案することができないままの状況で今日に至っている。

立憲民主党や国民民主党は社会保障や教育、子育てで大きな政府を志向しているが、財源がネックになっている。そのくせ、消費税の引き上げには反対しているから、八方ふさがりだ。MMTを採用すれば、景気対策を含め、国民に様々な夢を売ることができるようになる。国民民主党代表の玉木雄一郎はコドモノミクスと称して「第三子を生めば一千万配り、財源は『子ども国債』を発行する」と言っていた。いつMMTになびいても不思議ではないだろう。しかも、一昨年の分裂騒動以来、野田佳彦や岡田克也といった財政健全化派の影響力は無残に落ちた。立憲民主や国民民主の政治家に少し目端の利く連中がいれば、MMTに注目しないはずはない、と思う。

一方で、元来がバラマキ政党の自民党も、上げ潮派に限らず、MMTに魅力を感じるはずである。

と言うのも、アベノミクスは「第二の矢」として財政出動を放ち、確かに財政拡張的な政策ではあるが、財務省がまだ頑張ってきた結果、一定の節度を保っているからである。2019年度の公債発行額は32.7兆円と2012年度に比べて14.8兆円も少ない。税収が同期間で18.6兆円も増えたからこそできる業だが、リフレ派からすれば、もっと公債発行すればいいのに・・・、ということになる。

今年10月に消費税が上がり、来年夏には東京オリンピックも閉幕。消費税引き上げ対策も大半はその頃までに終わる。自民党政権が続いても、今後の日本経済は良くて横ばい、悪ければ減速の可能性が高い。加えて、米国からは駐留米軍経費の負担や防衛費を増額しろという圧力が高まるかもしれない。近年の災害多発を考えれば、土木事業も一概には否定できない。

安倍政権がこれまで圧倒的に強かったのは、政権交代で日本経済がよくなったという半ば真実プラス半ば錯覚のおかげ。国民が夢から醒めたら、盤石に見える自民党政権もあっという間に危うくなる。安倍だろうとその後継首相であろうと、より強力な財政投入の誘惑にかられるであろうことは疑いがない。それを正当化するのに、MMTは絶好の理論だ。かつて安倍が浜田宏一エール大学名誉教授の名前を出してアベノミクスを権威付けしようとしていたのを思い出す。

 

MMTを実践(=実験)するのは、アメリカなのか、日本なのか? はたまた別の国なのか?

MMTが正しければ、答が何であろうが問題はない・・・はずである。財政赤字を積み増しても、経済が上向いて税収が増えればハッピーエンドとなる。だが、財政赤字を積み増しても経済が上向かない時には、「MMTが言うような形で実験を継続できるか否か?」という別の問題が出てくる。MMTが想定する安全弁は、政府による増税である。しかし、現実の政治は増税を求められた瞬間にMMTとの親和性を断ち切るかもしれない。

他方で、MMTが間違っていれば、伝統的な経済学者や金融実務者が主張するようにハイパー・インフレが起きて経済は破綻することに(おそらく)なる。

いずれにしても、MMTの採用は相当にリスクの高い実験となる。常識的に考えれば、実験を行う最初の国にはなりたくない。だが、「失われた10年」が20年になり、30年になりそうな日本には、その素地がありそうに思える。我々はMMTの誘惑に耐えられるだろうか?

 

横畠法制局長官の発言は何が問題なのか?

もう旬を過ぎたようにも思えるが、横畠裕介内閣法制局長官の発言が物議を醸している。発言は、3月6日の参議院予算委員会で小西ひろゆき議員(無所属。参議院では立憲民主党の会派に所属)が質問に立っていた時に飛び出したものだ。

この種の話は切り取られて報道されることが多い。発言の前後の文脈を確かめる必要があると思い、議事録が出るのを待っていた。だが考えてみれば、国会が議事録を出す際には発言者等の「確認」をとる。横畠は自らの発言を撤回しているし、与党はこの問題の沈静化を図っている。ほとぼりが冷める前に議事録がホームページにアップされることは期待薄。我ながら迂闊だった。(3月15日現在、議事録はアップされていない。)

ただし、国会は議事録の形で活字にして記録を公表するのには慎重だが、動画ならそのまま垂れ流してくれる。少しタイミングが遅れてしまったが、件の発言の前後を動画で確認し、このポストを書くことにした次第である。

事の顛末

しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

発端は、この明治天皇御製の歌が安倍総理の施政方針演説(1月28日)に引用されていたことについて、小西が安倍総理にかみついたことだった。

この件について小西は1月31日に質問主意書を出している。日露戦争に際して大日本帝国憲法下の天皇が戦意高揚のために詠んだ歌を施政方針演説に引用し、「激動する国際情勢」に「立ち向か」い、「共に力を合わせ」ようと国会及び国民に呼び掛けたことは、憲法第九条の理念や「憲法前文の平和主義及び国民主権の理念に反する暴挙」だ、と小西は批判していた。

3月6日の予算委員会においても、小西は「とにかく戦意発揚でみんなで一致団結だ、と明治天皇の歌を詠みあげることは不適切だと思わないか?」と安倍に質した。これに対して安倍は、施政方針演説を読みあげながら小西の指摘するような意図を否定し、最後に「(小西の論理の)跳躍ぶりには驚くばかり」と苦笑交じりに答えた。(確かに小西の批判は無理筋であり、私も珍しく安倍に同情した。)

この答弁に小西は「安倍総理のように時間稼ぎをするような総理は戦後一人いませんでしたよ。国民と国会に対する冒涜ですよ。聞かれたことだけを堂々と答えなさい!」と声を荒げた。ただし、声を荒げたと言っても、切れたような感じはなかったし、「声の荒っぽさ」では与野党ともにもっと酷い議員はいくらでもいる。だが、年長の総理大臣に対して「答えなさい」と命令口調になったことについては、小西自身も「まずかったかな」という表情をしたように見えた。

そこで小西は、「私の質問は安倍内閣に対する監督行為です」と述べ、唐突に横畠内閣法制局長官を指名、「国会における国会議員の質問は国会の内閣に対する監督権の表れである」ことを確認するよう求めた。おそらく、国会議員(小西)の質問は内閣に対する監督権の行使だから、多少乱暴な言葉遣いをしても許される、と自己正当化したかったのであろう。その伏線として、2014年11月21日に小西が出した質問主意書に対する政府答弁書に「国会での審議の場における国会議員による内閣に対する質問は、憲法が採用している議院内閣制の下での国会による内閣監督の機能の表れである」と明記されていたことがあった。

いよいよ、横畠の発言が出てくる。逐語に近い形で引用してみたい。

(横畠)憲法上、議院内閣制でございまして、内閣は国会に対して責任を負う。その観点で国会が一定の監督的な機能、国権の最高機関、立法機関としての作用と言うのはもちろんございます。ただ、このような場で声を荒げて発言するようなことまで含むとは考えておりません。

ここで議場が騒然となり、審議が中断する。与党の理事が収拾を図り、横畠に再答弁を促したのち、審議は再開した。

(横畠)国会の監督権は委員であり、委員会、組織としての監督権でございまして、個々の委員の発言について述べたものではありません。先ほどの「声を荒げて」という部分については、これは委員会で適否について判断すべきことがらでございまして、私が評価すべきではありません。撤回します。

撤回はしたが、謝罪はなかった。もう一度、審議は中断し、再び横畠が答弁に立つ。

(横畠)委員会において判断すべき事柄について評価的なことを申し上げたことは越権であり、この点についてはお詫びして撤回させていただきます。

小西は撤回を受け入れると発言し、その場はこれで収まった。

 

何が問題だったのか?

では、横畠が取り消した発言、つまり、国会が内閣に対して果たす監督機能は国会で声を荒げて発言するようなことまでは含まない、という内容の発言は一体何が問題なのだろうか?

マスコミ報道や野党幹部の発言を見ると、横畠発言が議員を揶揄したとか、それが政治的発言だったことが問題視されているようだ。ここで「政治的発言」というのは、法制局の所管にかかわる行政技術上の見解ではないことを喋った、という程度の意味であろう。

横畠がニヤニヤしながら発言していたことを見ても、横畠の発言が小西を揶揄するものだったことは間違いない。しかし、小西が声を荒げて発言した――ただし、繰り返しになるが、この時の小西の発言は「声を荒げた」と言えるかどうか、微妙なものだった――ことに対し、それが国会の品位を貶める等の問題がある行為かどうかを評価するのは当該委員会や議院運営委員会である。横畠本人も認めたとおり、横畠が小西の発言を「声を荒げた」と評価したことは、法制局長官の職分とは関係のない「越権行為」ということになる。

横畠発言については与党議員からも批判の声があがった。与野党を問わず、議員心理の本音としては、法制局長官であっても官僚風情に国会議員が馬鹿にされた、ということが見過ごせなかったのであろう。

しかし、これだけなら、所詮は国会議員の見栄の問題にすぎない。国会という「コップの中の嵐」について、国会議員と一緒になって騒ぐのもくだらない。

だが、議員たちの薄っぺらい虚栄心から離れて横畠発言をありのままに読んでみると、単に官僚が国会議員を揶揄したということを超えた問題が浮き上がってくる。

それを説明するために、2014年11月21日に小西が出した質問主意書に対する政府の答弁書と3月6日の横畠発言を並べて見比べてみたい。

〈政府答弁書〉
国会での審議の場における国会議員による内閣に対する質問は、憲法が採用している議院内閣制の下での国会による内閣監督の機能の表れである。

〈横畠発言〉
憲法上、議院内閣制でございまして、内閣は国会に対して責任を負う。その観点で国会が一定の監督的な機能、国権の最高機関、立法機関としての作用と言うのはもちろんございます。(①)ただ、このような場で声を荒げて発言するようなことまで含むとは考えておりません。(②)

政府の公式見解(答弁書)は、国会質問は国会が内閣を監督する機能である、と明確に認めている。横畠発言の①も、(敢えて監督「的」という言葉を使ってはいるものの)政府答弁書のラインと基本的に齟齬はない。だが、②は違う。これによって横畠法制局長官は答弁書のラインに重大な限定をつけたことになる。

議員が国会で質問をするとしよう。答弁書のラインで行けば、プロ野球の優勝チームについての予想を聞いたりするのでない限り、政府に対する議員の質問内容は幅広く行政監督機能の一部とみなされ、質問の機会や質問内容の選択は保障されなければならない。

しかし、横畠発言を文字通りに読めば、どうなるか? 政府の憲法解釈、消費税引き上げ方針、あるいは森友・加計問題での総理夫妻や財務省の対応など、内容的には政府に対するチェック機能を果たすうえで当然正当な質問であっても、議員が声を荒げれば、正当な行政監督機能の行使とみなされない、と読めてしまう。政府の取り組みがひどい時、議員が声を荒げて質問することはよくある話だ。それを駄目だと言っていたら、国会の行政監督機能は空洞化する。

いくら小西がその前に頓珍漢な質問をしていたからと言っても、法制局長官の職にある者が感情に流され、国会の行政監督機能を不当に制約しかねない答弁をしてしまった――。横畠発言で一番問題なのはこの点だ。

横畠発言の背景

ではなぜ、横畠はこんなことを言ったのか? その背景についても少し考えておこう。

第一は、長期政権の驕り。野党や一部メディアの間では、横畠法制局長官が野党議員を揶揄するような発言をしたのは、安倍政権が6年以上続いて与党議員のみならず官僚までもが増長し、野党議員を軽んじているからだ、と憤る声が強い。確かに、そうした面はある。

与野党の力関係がある程度拮抗していれば、いくら高慢ちきな官僚でも、野党議員に対して好き勝手なことは言えない。衆参が捻じれていればもちろん、与野党が伯仲した状況で横畠発言が飛び出していれば、委員会の再開までに何時間かかっても不思議ではなかった。野党側が法制局長官の辞任を強硬に求めて審議拒否を続けでもすれば、国会日程が窮屈になって政府・与党が長官の首を差し出さなければならない――。そんな事態さえ、ありえた。

現実には、野党の弱体ぶりは目を覆うばかり。今回、横畠発言をめぐって委員会の審議は何分か止まった。だが、所詮はその程度のこと。官僚たちの間には、官邸と与党には一生懸命忖度する一方、野党は歯牙にもかけない雰囲気が間違いなくある。

第二は、横畠個人の驕り。私の個人的な印象では、横畠個人の驕りが横畠をしてあのようなことを言わせた最大の理由だと思う。自民党の伊吹文明元衆院議長が「少し思い上がっているんじゃないか」と語ったのは、私と同じ感覚かもしれない。

横畠は今や、権勢の絶頂にいる。横畠は安倍内閣の最優先テーマであった安保法制の立役者の一人だ。内閣法制局や防衛省、外務省などをまとめて9条解釈変更の理論的支柱をつくっただけではない。国会審議にあたっては野党議員の追及を「カエルの面に小便」のごとくはねのけ、安保法制の成立にこぎつけた。横畠はそれによって安倍に大きな恩を売った。

内閣法制局の内部では、横畠は組織を守った救世主のような存在でさえある。安保法制をつくるため、安倍は当初、外務省出身の小松一郎を法制局長官に据えた。安保法制を作るには、それまで歴代内閣法制局が営々と築き上げてきた憲法9条の解釈、要するに「集団的自衛権の行使は憲法上、認められない」という解釈を変更しなければならなかった。それを実行できるトップとして、安倍は小松を抜擢したのだ。それは法制局にとって、人事面で侵略を受けたような有事であった。ところが小松は病に倒れ、検察庁出身で法制局次長を務めていた横畠にお鉢が回ってくる。横畠は、組織防衛のために安倍の求める9条解釈の変更に協力した。

ただし、横畠は9条解釈を根底から変更するのではなく、従来の内閣法制局の解釈に接ぎ木をするようなやり方で集団的自衛権の限定的な行使を可能にする新解釈を作り出した。その意味では、高畠は法制局の伝統的な解釈を最大限守り、集団的自衛権の行使容認を安倍が当初思っていたよりも微温的なものにした、と言うこともできる。

いずれにせよ、安倍との関係においても、法制局内部においても、横畠の地位を脅かす要素は見当たらない。こうした状況に置かれれば、よほどの人徳者でない限り、人間は増長する。横畠はまさにそうなった。野党議員はもちろん、与党議員であっても、国会議員何するものぞ、というのが彼の感覚であろう。

ついでに言うと、小西ひろゆき議員のキャラクターにも横畠の発言を誘発した部分が多少なりともある。質問したのが小西以外の議員であれば、高畠があそこまで本性を現わすこともなかったに違いない。

この記事を書くに当たっては、小西が予算委員会で質問した録画を何度も見た。率直に言って、小西が展開する議論の流れを追うのは骨が折れた。彼の論理は往々にして独りよがりで極端、加えて飛躍が甚だしい。また、彼のホームページを覗いてみたら、質問主意書の数に驚かされた。過去6年強の間に200近く出している。一見、立派なことに見えるかもしれないが、その大半は思いつきや独りよがりに溢れており、政府の答弁書も形式論とすれ違いを繰り返しているに過ぎない。一生懸命なのは認めるが、人間的にもう少し成長しないとまずかろう。

 

議員の資質がどうであれ、国会議員が政府に対して行う質問に制約をかけるべきではない。ましてや、横畠が言ったように「声を荒げるかどうか」を基準にするなど、言語道断である。国会議員が情緒不安定で切れるのを見たり、何様気取りか知らないが偉そうに発言するのを聞いたりするのは、私も不愉快極まりない。しかし、それは権力側による言論封殺を防ぐためのコストと考えるしかない。今回の小西の場合は違うが、声を荒げた質問の中にも政府に対するチェック機能として必要なものはありえる。

最後に蛇足を一言。国会議員たる者、もう少し品位を保ったらどうか、と思う議員が少なくない。「ヤジは議場の花」などとうそぶいてチンピラまがいの罵詈雑言を浴びせる輩、国会質問を政府に対する質問ではなく、他の政党に対する誹謗中傷の場として利用する輩・・・。選挙で選ばれれば何でも許される、という理屈を私は認めない。

大阪都構想とは一体、何なのか?

大阪都構想の是非を問う住民投票をめぐり、松井一郎大阪府知事(日本維新の会代表)が吉村洋文大阪市長(大阪維新の会政調会長)と一緒に辞職し、松井が大阪市長選、吉村が大阪府知事選に打って出る可能性が高まったらしい。来月は統一地方選があるため、大阪の人たちにとってはダブルどころか、クアドロプル選挙ということになるかもしれない。

ダブル・スライド選挙に打って出る理由を松井は「大阪都構想を実現するため」だと言う。だが、それはキレイゴトだろう。大阪府知事選と大阪市長選を仕掛ければ、「維新」対「その他」の構図となって大阪では盛り上がる。その結果、最近は失速気味という指摘もある維新の会の候補が大阪府議会選挙と大阪市議会選挙を有利に戦えるようにする、という意図(悪く言えば党利党略)が透けて見える。

日本維新の会という政党に属する二人が、大阪府知事と大阪市長という、別々の選挙で選ばれた公職を交換する、という発想には驚くほかない。彼らにとって、知事や市長の座は政治または選挙の道具でしかない、ということか。

とは言え、松井たちのやり方をどう評価するかは、大阪の有権者が決めればよいこと。何より、結果的に松井や吉村の「炎上商法」に加担することになるのは胸くそが悪い。連中の茶番からは距離を置くのが賢明というものだ。

だが、ここでふと、初歩的な疑問が生じた。

大阪都構想とは何か――? 

橋下徹が大阪市長だったときから、この言葉を幾度も耳にし、何となくわかったつもりでいた。でも、よくよく考えてみると、説明できない・・・!

大阪府の人口は880万人を超え、日本の総人口の約7%にあたる。その自治体のあり方が変わるかもしれない、ということであれば、無関心は無責任だ。そこで、今回のポストでは大阪都構想を私なりにわかりやすく整理してみた。

「大阪都」とは?

大阪都構想は維新の会の看板政策である。だが、維新の会のホームページを見ても「大阪府構想とは何か?」というストレートな説明は見当たらない。(私が見つけられなかっただけかもしれない。大阪都構想に関するQ&Aなどは、橋下徹氏の動画を含めてたくさんあったのだが…。)仕方ないので、いろいろ調べてみたら、こういうことだとわかった。

まず、誤解されやすいので最初に断っておく。「大阪都」構想と言っても、大阪を日本の首都にしようということでは全然ない。そもそも、日本の首都が東京である、と直接規定した法律は存在しておらず、東京が日本の首都なのは、みんながそう思っているからだ。大阪の人たちが「大阪を日本の首都に」と言ったとしても、大阪以外に住む日本人の多くは相手にしないだろう。

都=首都ではない、とすれば、大阪「都」とは何なのか? 答を先に言うと、大阪府が地方自治法281条第1項に言う都、つまり、当該区域内に「特別区」を設置した広域自治体になるということだ。実はこれ、以前はやりたくても法律上、できなかった。しかし、2012年に大都市地域特別区設置法が制定された結果、東京都のみならず、他の道府県の区域内でも特別区の設置が可能になったのである。

特別区とは、千代田区、港区、新宿区など東京23区のレベルの基礎自治体のこと。横浜、名古屋、仙台、福岡などの政令指定都市にも「○○区」というのはある。これらは「行政区」と呼ばれるが、特別な機能は持たず、単なる「区域」に近い。一方で、東京23区のような特別区は市とほぼ同格の制度。公選の区長や区議会を持ち、独自の条例を制定したり徴税したりすることもできる。権限も格も、特別区の方が単なる行政区よりも遥かに上だ。(本当は比べるのがおかしい。)

現在、大阪市は広域自治体である都道府県に準ずる権能を持った政令指定都市だ。都構想が実現すれば、大阪市は廃止され(政令指定都市でなくなり)、5つの特別区となったうえで大阪府の下に置かれる。今の大阪市が持つ広域自治体としての機能は原則として大阪府に移管される。

これまで、特別区を持つ広域自治体は東京都だけだったから、地方自治法281条第1項に言う「都」と首都は同一視できた。だが、大阪都構想が実現すれば、「東京は、東京都という名称で、特別区を持つ地方自治体法上の都であり、首都である。一方、大阪は、大阪府という名称で、特別区を持つ地方自治体法上の都であり、首都ではない」という状況が生まれるわけだ。(新たに法律を作って大阪府の名称を大阪都に変えれば、大阪都という名称も使えるようになる。だが、率直に言って、紛らわしいし、煩わしい。)

大都市行政のあり方に一石を投じたことは認めよう。だが・・・

以上、大阪都構想とは何なのか、まとめてみた。なるべくわかりやすく、と心掛けたつもりだが、やっぱりわかりにくいだろうか? その最大の理由は、「都」という言葉の意味が一般に使われているのと違うことにある。そこで、敢えて「都」という言葉を使わずに説明すれば、以下のように言ってもさしつかえあるまい。 

戦後しばらくの間、広域自治体である大阪府が基礎自治体である大阪市を傘下に収めていた。しかし、大阪市が大きくなると1956年に政令指定都市に指定され、大阪府が持つ広域自治体としての機能を一部奪った。その後、大阪市の方が勢いを増すにつれ、大阪府から大阪市にますます多くの権能が移管されていった。だが、大阪市民は大阪府民でもある。どうしても大阪府と大阪市との間で機能上の重複があったり、お見合いのような非効率が起きたりする。

橋下徹はそこを突いた。キーワードは「二重行政」だ。橋本の提示した解決策(=大阪都構想)の本質は、大阪市から政令指定都市の権能を奪い、再び大阪府の下に置くことである。

これに対し、反対派は「二重行政と言うなら、大阪市と大阪府がうまくコーディネートすれば済むことだ」という論理で対抗する。この論理、あながち間違ってはいない。大阪市長の吉村自身、「府と市が力をあわせることで、大阪がどんどんよくなっていく。今の大阪が、まさに“大阪都構想”です」と大阪維新の会のHP上で認めている。

しかし、ここで維新の側は政治論を持ち込んで再反論する。吉村は「確かに今は、知事と市長が同じ考え方で同じ方向を持っているので、もはや都構想をやっているようなもの」と述べたあと、「このカタチが何時までも続く保証」はないため、大阪都構想という仕組みをつくることが必要だ、と訴えるのである。(ただし、大阪都ができて権限が一元化されても、無駄遣いに無頓着な大阪「都」知事が選ばれれば結局、改革にはならない。)

大阪都構想がいいことなのか、間違っているのか、結論は最後まで出ないだろう。

元来は基礎自治体である市が巨大化し、「広域自治体である道府県に決定権を持たせるよりも、住民により近い市に決定権を委ねた方が住民サービスはよくなる」という考え方が強くなり、政令指定都市が生まれた。そして、道府県との間で役割分担を試行錯誤してきたのが地方行政の歴史である。

だが、それは欠点のない仕組みではない。大阪もそうだが、神奈川、静岡、福岡は政令指定都市を二つも抱え、府県の空洞化が進んでいる一方、行政組織や議会は従前の規模を原則維持している。これは二重行政以上の無駄と言えよう。政令指定都市になるために合併を繰り返した結果、政令指定都市が基礎自治体と言うには広域化しすぎた、という意見もある。

こうした問題に対し、強くなりすぎた政令指定都市を弱め、道府県の権限を再構築するという都構想は、確かに一つの答えではある。だが、特別区を伴うとは言え、逆戻りが唯一の回答とは言い切れない。二重行政を解消するためなら、政令指定都市をもっと強化した方がよい、という考え方もありえる。

無責任なようだが、都構想がいいか悪いかは、実験してみるしかない。大阪府民や大阪市民が「その実験に賭けてみたい」と言うのであれば、興味深く見守りたいと思う。

 

大阪都構想は当初考えていたよりも真面目なチャレンジかもしれない――。そう思うだけに惜しむことがある。それは、大阪都構想を担ぐ松井や吉川からは、政治的打算、大阪人の性格を利用したポピュリズムがプンプン臭うことだ。あのチンピラまがいの言葉遣いを耳にしただけで、大阪都構想そのものが胡散臭く聞こえてきてしまうのは、私だけではあるまい。