最初の引見がトランプでは新天皇に申し訳ない

トランプ大統領が5月下旬に来日することがいよいよ本決まりとなったようだ。6月のG20にも出席すれば、「短期間で二度の訪日となって前例がない(=すごいことだ)」という論調でメディアが伝えている。外務省や官邸のブリーフを鵜呑みにしてのことだろう。

アメリカって日本の宗主国だったのか? アメリカ大統領が来る、来ないで大騒ぎするメンタリティーからは、いい加減もう卒業できないものか、といつもながら思ってしまう。

トランプの来日は私にとって、別にどうでもいいことである。しかし、トランプをわざわざ5月に呼ぶのが、「51日に即位される新天皇に『国賓として最初に』会っていただくため」と聞けば、これは黙っていられない。

今上天皇が即位された際、外国要人の引見はどのように行われたのか? 宮内庁のホームページで調べてみた。

今上天皇の即位は1989年(平成元年)17日。大喪の礼は224日に執り行われた。221日にフィンランド大統領夫妻と会見されたのを皮切りに、天皇は27日までの間に大勢の外国元首を引見された。ブッシュ(父)大統領とは25日に会われている。

大喪の礼と切り離したものとしては、44日にイタリア首相を、413日には中国の李鵬首相を、いずれも公賓(国費で接遇する行政府の長など)として引見された。国賓(国費で接遇する国家元首)として最初に引見されたのは、10月のジンバブエ大統領であった。

公賓としての最初の引見が中国の首相になることは避ける、という配慮はあったかもしれない。だが、平成の代替わりに当たり、天皇が最初に引見する国賓・公賓の選択は、大喪の礼という特殊事情があったとは言え、比較的自然体でなされたように見える。

今回、新天皇が国賓として最初に引見される外国要人をトランプ大統領にしたいと政府が考えているのは、安倍のトランプに対するゴマスリだろう。ネット上では、それで日米貿易交渉などが有利に運ぶのではないか等の思惑が紹介されている。トランプが虚栄心をくすぐられて喜ぶのは間違いない。だが、ディールはディールで実利を重視するのがトランプという男だ。

何よりも、この程度のことに新天皇を利用すれば、天皇の権威や天皇制の意義を政府自らが貶めることになる。頓珍漢にも天皇の謝罪を求めている韓国国会議長などは「日本政府は米国に対しては天皇を外交カードにしているんだから、韓国に対してもそうすべきだ」と言い出しかねない。

もっと率直に言おう。新天皇が最初に引見する外国要人(国賓・公賓)としてトランプを選ぶことに反対する最大の理由は、相手がトランプだからである。米国大統領だから、ということでは必ずしもない。米国はわが国の唯一の同盟国。本来なら、天皇陛下が最初に謁見する外国首脳(国賓)が米国大統領になる、ということに目くじらを立てる必要は特にない。だが、トランプとなると話は違ってくる。

トランプのことだ、自分が新天皇に会った最初の外国要人であることを(ツイッターか、記者会見かはともかく)軽々しく自慢するに違いない。反・地球温暖化(パリ協定離脱)、反・自由貿易(TP協定離脱、鉄鋼アルミ追加関税)、反・核軍縮(INF条約破棄通告、イラン核合意離脱)など、トランプの考えに対する新天皇の受け止めを私なりに慮った時、トランプが新天皇を使って自らをアピールするのを見ることは何とも忍びない。

少なくとも現時点では、浩宮が自分の気持ちを表に出したりすることはないだろう。しかし、それをいいことに政府が新天皇をここまで露骨に外交カードとしてよいのか? 安倍総理か、安倍総理とトランプ大統領に忖度する官僚かは知らないが、代替わりを迎えられた新天皇の門出に泥を塗るような真似は厳に慎んでもらいたい。

では、新天皇が即位後最初に引見する外国要人(国賓・公賓)は誰がふさわしいのか? 一つの考え方としては、隣国の首脳という選択肢がある。しかし、同盟国である米国に間違ったメッセージを発することになりかねないというだけでなく、トランプが駄目だというのとよく似た思想上の理由から、習近平もNGだ。文在寅に至っては、新天皇が引見することはもちろん、国賓として迎えることにさえ、誰も賛成しない。

結局、注目されるが故に、新天皇が即位後最初に引見する外国要人(国賓・公賓)はあまり目立たない国の首脳とするのがよさそうだ。今回の代替わりとは事情が異なっていたとは言え、平成の代替わりの際に発揮された知恵に学ぶべきことは決して少なくない。

 

民主党政権の悪夢とは何だったのか?

2月10日に自民党大会が開催された。挨拶に立った安倍晋三総理は、2006年の第一次安倍政権時に参議院選で負けたことに触れ、「わが党の敗北で政治は安定を失い、悪夢のような民主党政権が誕生した。あの時代に戻すわけにはいかない」と強調した。これに対して枝野幸男(菅内閣の官房長官)、岡田克也(鳩山内閣の外相、野田内閣の副総理)、原口一博(鳩山内閣の総務相)などが反発したのをマスコミが面白おかしく報道している。

安倍が民主党政権の悪口を言うのは、政権運営に行き詰まった時か、解散を含めて選挙を意識している時だ。今回がどちらなのか、私は知らないし、興味もない。いずれにせよ、前政権の悪口を言い、「それよりは今の方がマシだな」と思わせることによって自らの求心力を高めようとする安倍の根性は実に情けない。だが、安倍のさもしい手法がこれまで何度も功を奏してきたこともまた、情けない事実である。

奇しくも今年は民主党鳩山政権の誕生から10年が経つ、節目の年。驕れる安倍と民主党残党の面々の泥仕合はどうでもいいが、安倍が口にした「民主党政権の悪夢」とは何だったのか、真正面から総括してみるべきである。戦後はじめての選挙を通じた本格的政権交代の挫折を理解することは今後の日本政治の未来を考えるうえで必ず役に立つ。

安倍晋三は民主党政権の3年3ヶ月の失敗を踏み台にして政権に返り咲き、すべてではないにせよ、相当程度は「民主党政権よりもマシ」という理由のおかげで稀に見る長期政権を担うことになった。民主党政権の悪夢について考えることは、安倍内閣の性格を考えるためのヒントにもなるだろう。

ただし、民主党政権のすべてを総括しようと思えば、本が一冊書けるくらいの量になる。今回は私の頭にさっと浮かんだことだけにとどめさせてもらいたい。

 

【経済】

今回、安倍は主に経済の文脈で民主党政権の負のイメージを強調した。しかし、最も代表的な経済指標である実質GDPを見る限り、民主党政権時代がどうしようもない暗黒時代だったと断じるのはどうにも無理がある。(もちろん、経済の評価は指標によってマチマチである。民主党政権時代の経済がバラ色だったと言うつもりは毛頭ない。)

<日本の経済成長率(実質GDP伸び率、2006年~2018年)>

06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18
1.4% 1.7% -1.1% -5.4% 4.2% -0.1% 1.5% 2.0% 0.4% 1.2% 0.6% 1.9% 0.7%

上記の表は、第一次安倍政権(2006年9月-2007年9月)以降の日本の実質GDP成長率を並べたものだ。

民主党政権は2009年9月に発足し、2012年12月に終焉を迎えた。2010年はリーマン・ショック後のリバウンドもあって経済成長率は期間で最高の伸び。2011年はマイナス成長だが、東日本大震災があったことを考えればこれは仕方がない。2012年もプラスだから実質GDPという指標を通してみると民主党政権時代は悪夢というほどではない。

どうしても悪夢と呼びたいのなら、安倍はリーマン・ショック後の麻生政権(2008年9月-2009年9月)を名指しすべきだ。世間がもてはやすアベノミクスにしても、第二次安倍政権になってからの実質経済成長率は1%未満が3年ある。見方によっては「民主党以下」と言えなくもない。

安倍が民主党政権時代と比べて最もよくなったと自慢する数字の一つが有効求人倍率。確かに、2018年の1.61倍という数字は史上最高であり、民主党政権時代(2009年の0.45倍、2010年の0.56倍、2011年の0.68倍、2012年の0.82倍)を遥かに凌駕する。ただし、2009年の数字は大部分、麻生政権の責に帰せられるべきもの。2011年以降の数字は東日本大震災の影響も当然考慮しなければならない。

もっと遡れば、小渕恵三内閣や森喜朗内閣の頃、日本の有効求人倍率は0.49倍、0.56倍という低い数字だった。安倍に公平を期すつもりがあるなら、自民党政権にも暗黒時代があったと認めなければならない。そもそも、有効求人倍率という統計そのものがハローワークを通じたものに限定されており、近年は高めに出る構造になっているのだが・・・。

民主党政権時代と安倍時代、経済の面で最も違っているのは、国民や経営者の「気分」であろう。「アベノミクス」「異次元の金融緩和」など、安倍は経済を拡大するイメージの言葉を繰り返し使う。有効求人倍率という信憑性の疑わしい数字を振りかざして鬼の首でも獲ったかのごとく振舞えるのも安倍の才能と言える。一方、民主党政権時代は、東日本大震災があったのみならず、消費税引き上げ、財政健全化(事業仕分けによる財源探し)、公務員人件費引き下げなど、経済縮小・アンチビジネス的なイメージがつきまとった。国民は経済指標以上に重苦しい気分に浸っていたと思う。そこにつけいる隙があり、安倍は見事にそれを突いた。政治屋としてしたたかであることは認めざるをえない。

 

【外交安全保障】

民主党政権時代の悪夢と言えば、誰もが最初に思い浮かべるのが鳩山内閣における普天間代替施設問題の迷走だろう。これを「愚かな鳩山の失敗」と位置付けるのは問題の矮小化につながる。困難な政治課題に取り組む上で必要となる戦略的思考、閣内・党内・連立内におけるガバナンス、官僚を使う能力など、政権運営に持っていなければならないものを民主党政権は最後まで持つことがなかった。(野田を評価する人に時々出くわすのは、私に言わせれば、前任者の二人があまりにひどかったからだ。)

ここでは業績評価として民主党政権の外交安全保障を振り返り、安倍政権と対比してみる。

① 対米関係

普天間代替施設をめぐる鳩山内閣の対応を受け、民主党政権の発足直後から日米関係は悪化した。そもそも、民主党マニフェストの対米政策には、米地位協定の改定、普天間基地の辺野古移設見直し(「最低でも県外」)、駐留米軍経費の削減、という米国が嫌う項目が目白押しだった。米国の警戒感がなくなることは最後までなかった。民主党政権時代は、中国の「平和的」とは言えない台頭や北朝鮮の執拗な挑発がはっきりと認識されるようになった時代でもあった。そのような状況下で日米同盟に揺らぎが生じたことに対し、国民の多く、特に保守層は不安感を募らせた。

一方、安倍政権下での日米関係は(表面的には)元の鞘に収まった。オバマ政権は「戦後レジームの解体」を唱える安倍政権の右翼的体質を懸念しつつ、安定した親米政権の誕生を歓迎した。(ただし、安倍の実像はナショナリストであり、決して親米家ではない。)トランプ大統領が誕生すると、安倍はトランプの歓心を買うことに腐心してきた。その効果かどうかはわからないが、日本はこれまでトランプ流の主たる標的となることは免れている。だが、トランプ自身の考えは「日米同盟・ファースト」ではなく、あくまで「アメリカ・ファースト」だ。日本が米国にすり寄れば米国が日本の便宜を図ってくれる、という時代に戻ることはもうない。

② 対中関係

2010年9月、菅内閣の時に起きた尖閣漁船事件で中国は民主党政権を敵視するに至った。2010年には中国のGDPが日本のそれを抜いたが、この頃から中国の外交姿勢がもはや「平和的台頭」と呼べない、という警戒感が日本でも急速に高まった。2012年9月、野田内閣が尖閣諸島を国有化すると、再び日中関係は緊張した。野田が国有化を決断したのは、石原都知事(当時)による尖閣購入が日中間に不測の事態を引き起こすことを懸念したためであった。しかし、中国はそうは受け取らなかった。

安倍政権下における日中関係は民主党政権下における日中関係よりもさらに悪化した。中国側は安倍の歴史認識を問題視し、安倍も中国に対する敵愾心を露わにしている。今や、日中関係を友好の時代に戻そうとは両国とも思っていない。ただし、日中双方ともに緊張が一線を越えることには慎重な様子だ。トランプ政権が誕生して米中関係が緊張すると、中国は日本との間で余計な摩擦が起きるのを避けたがるようになった。今日の日中関係は低位で安定した状態と言うこともできる。

③ 対韓関係

鳩山・菅内閣の時代、日韓関係は(良くもなかったが)決して悪くなかった。野田内閣の時代、李明博大統領は慰安婦問題を蒸し返すようになる。2012年8月に李が竹島上陸を強行すると、日韓関係は決定的に冷え込んだ。

歴史問題で極めて強硬な安倍内閣の下、日韓関係は基本的には悪化の一途をたどった。決着したはずの慰安婦合意も韓国から反故にされてしまう。最近は徴用工問題等で日韓が非難を応酬するようになり、日韓関係は戦後最悪と言っても過言でない状態にある。

④ ナショナリズムの充足

政権獲得前、小沢一郎や鳩山は対米自立論を説いていた。国民の中には、その素朴なナショナリズムに期待した者も少なくなかった。しかし、鳩山は普天間移設問題で躓き、最終的にはオバマに膝をついて許しを請う形となり、期待は失望と屈辱に変わった。問題の過程で日米関係は悪化した。日米関係の安定を願う伝統的な保守層の期待はここでも裏切られた。鳩山の失敗を目の当たりにし、菅と野田は対米自立を主張するのを止めた。一方で、菅政権による尖閣漁船事件への対処は国民の目に弱腰と映った。2010年11月にロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問したことも政権に対する国民の怒りを招く。野田内閣でも李明博の竹島上陸や天皇批判などを受け、国民は民主党政権への不満を募らせた。

安倍内閣になってからも、中国、韓国の問題行動は一向に収まらず、むしろ激越になった部分も少なくない。ロシアも北方領土の軍事化を進めるなど、日本が「コケにされる」事態は民主党政権時代以上に起きている。しかし、安倍はタカ派のイメージがあるせいか、特に中韓に対しては「弱腰」とみなされることがほとんどない。米国に対しても安倍政権はご機嫌取りに精を出す姿勢が目立つ。最近、安倍総理がノーベル平和賞にトランプを推薦したというブラック・ジョークのようなことも明らかになった。だが、国民はそれを屈辱的と見做して大きな不満を抱くより、民主党政権時代に顕在化した日米同盟の動揺よりはマシ、と受け止めているように見える。

⑤ 安全保障構想

民主党政権下では菅内閣の2010年12月、防衛大綱を見直して「機動的防衛力」構想を策定した。米ソ冷戦期に策定された「基盤的防衛力」構想は、我が国が一定の防衛力を保有することによって力の空白を作らず、ソ連を抑止するという考え方に基づいていた。これに対し、武器の「保有」から「運用」重視への転換、「南西重視」などの新機軸を打ち出したのが「機動的防衛力」構想である。安全保障筋の玄人の間では概して評価が高い。

安倍内閣の下でも、2013年と2018年の二度、防衛大綱が見直された。2013年は「統合機動防衛力」構想を打ち出したが、前回の見直しからわずか3年しか経っておらず、安倍が民主党政権時代の大綱や用語を使うことを嫌ったため、というのが実態である。昨年末に打ち出した「多次元統合防衛力」も、宇宙やサイバーを従来よりも強調しているが基本線は2010年の大綱(22大綱)を踏襲している。安倍政権が発足すると、尖閣情勢を睨んだ巡視船や潜水艦の増強、武器輸出三原則の見直しなどが進んだ。ただし、これらに着手したのは民主党政権であるという事実は忘れ去られている。

⑥ 外交案件の対処における「しくじり」

民主党政権下では外交安全保障に関する事件が相次いで起き、政治的な焦点課題――平たく言えば「揉め事」――に発展した。典型例は言うまでもなく、民主党政権が発足した直後に起きた普天間問題だ。一国の総理大臣が普天間飛行場の移設先を沖縄県外に見つけると断言したものの、半年後には辺野古移設に回帰。鳩山は国民の支持を失って辞任を余儀なくされた。

菅内閣も発足直後、中国漁船による領海侵犯と海保に対する公務執行妨害に見舞われた。中国人船長を逮捕して拘留を重ねたが、中国側の予想以上の反発にひるみ、突然、船長を釈放して国民から総スカンを食った。

外交案件ではないが、東日本大地震に伴う福島原子力事故のハンドリングも民主党政権の失敗と認識している国民が少なくない。私に言わせれば、福島原発は文字通り「未曾有」の大事故であり、誰が政権にあっても無難に対処することなど不可能だったと思う。

いずれにせよ、民主党政権には重大な事件・事故に対応する能力がない、と国民に信じさせるのに十分な出来事が繰り返し起きた。政権のイメージは、政策の方向性以前の問題として、統治能力に大きく左右される。それが最も如実に表れるのは外交的な事件のハンドリングにおいてだ。一事が万事、という諺があるが、民主党政権は最初の一年間に起きた大事件で続けざまに大失敗した。運がなかった面もあるにせよ、統治能力に致命的な問題があったことは否定できない。

一方、安倍政権には外交安全保障に関わる案件で民主党政権の失敗に比肩すべき事例が見当たらない。辺野古については、沖縄県民の反対を押し切って工事を進めるという意味で(良い悪いの評価は別に)目に見える結果を出している。国論を二分した安保法制も(滅茶苦茶な憲法解釈ではあっても)なんとか成立に漕ぎつけた。

 

【政治とカネ(スキャンダル)】

民主党は自民党政権下の腐敗を批判し、自らはクリーンな政党で売っていた。ところが、民主党政権が誕生する頃から、党の顔とも言える人たちが「政治とカネ」で批判を浴びる事態を招く。

小沢一郎は資金管理団体による土地取引をめぐって元秘書が逮捕・起訴され、政権交代の直前に党代表を辞した。政権発足後も党幹事長の裁判は続いた。

鳩山の「子ども手当」問題もひどかった。母親から総額11億円以上の資金援助を受けながら、政治資金収支報告書に記載せず、現職の総理が脱税を認めざるをえなくなるというスキャンダルだった。

菅直人(発覚当時は総理)と前原誠司(同じく外相)の二人は、在日韓国人からの違法献金問題を追及された。前原は外務大臣をあっさり辞めた。(この人はいつも潔い=もろい。)

安倍と自民党が政権に復帰した後も、政治とカネを含め、不祥事には事欠かない。安倍自身も森友・加計問題で何年も追求を受けてきた。しかし、決定的にクロという物証は得られず、致命傷とはなっていない。では、政治とカネの問題で民主党政権時代を悪夢と呼ぶ資格が安倍政権にあるのか? それは無理というものだ。

 

【内閣と党のガバナンス】

国民の政権与党に対する不信――。この点では安倍政権の圧勝、民主党政権の自爆と言ってよい。

初めての政権交代、ということもあったのだろうが、鳩山内閣と菅内閣ではこれでもかと言わんばかりに大物が入閣した。しかも、彼らの多くは内閣総理大臣の発言に公式の場で異を唱えることが少なくなかった。野田内閣で大物の入閣は減ったが、尖閣国有化の際には外務副大臣の山口壮(今は自民党にいる!)が官邸や外務大臣の方針に盾ついて中国に行ったりした。

そして極めつけは、大量の離党だ。菅・仙谷・野田らの主流派と小沢グループの対立は激化する一方で、2011年末には9名の国会議員が離党。消費税法案の採決では鳩山・小沢ら57名が反対するなど72名の造反者を出した。続いて小沢を筆頭に37名の議員が離党(除籍処分)した。その後も松野順久など、離党は野田内閣が終焉するまで収まらなかった。

安倍政権は「安倍一強」と言われる。大物と言われる閣僚は副総理・財務大臣の麻生太郎と官房長官の菅義偉くらいのもの。安倍に批判的な発言をすればすぐに飛ばされる。安倍に反抗しようとしたのは石破茂くらいだが、ものの見事に封じ込められた。小泉進次郎の自民党批判も安倍の逆鱗に触れない範囲でしかない。

党内民主主義の観点からどうか、という意見はあるだろうが、民主党政権時代の内輪もめと分裂に比べればずっとマシ、というのは国民の偽らざる感想であろう。民主党政権時代の国民そっちのけの党内抗争は、それくらいひどかった。

 

もうこれくらいにしようか。民主党政権時代の悪い思い出をちょっと振り返ってみるつもりが、結構な分量になってしまった。

安倍は「悪夢のような民主党政権」と呼んだ。では、「安倍政権はどれだけ立派なのか?」と冷静に振り返ると、安倍政権もそんなに大した政権ではない。しかし、政治とはある面、国民の心をどう支配するかのゲームだ。今回も自らの発言がメディアで大々的に取り上げられる一方で、民主党政権の末裔たちの反論は「負け犬の遠吠え」にしか聞こえない。安倍が「してやったり」とほくそ笑んでいるのが目に浮かぶ。

給料をあげられない会社は潰れた方がいい

先日、朝のNHKニュースを見ていたら、アナウンサーが「企業の後継者不足が深刻化していますが、いよいよ、地方の中小企業でも経営者を外国に求める動きが出てきました」と述べて特集が始まった。ある企業経営者の弁によれば、日本国内で後継者を求めて募集をかけたところ、面接に来た応募者は有給(休暇)の数や待遇面ばかり気にかけ、本気で経営に意欲を持つ人材は集まらなかったという。そこで、ベトナムまで出かけて幹部候補の採用面接会に参加した、というストーリーであった。

ふーん、と思って見ていたが、この経営者の言葉に日本の国力が衰退していく根源的な理由を垣間見た思いがした。職を選ぶのに給与水準、休暇、福利厚生のことを聞いて何が悪いと言うのか? 給料をあげない、あげられない。だから日本人を雇えない。人手不足の最大の責任はそんな企業の側にこそある。私はそう思う。

人手不足対策を外国人労働者に頼る論理の根幹にあるのは「低賃金の維持」

先般、外国人労働者受け入れという名目で事実上の移民解禁に踏み切った日本。それを正当化する最大の理由は人手不足であった。ロジックはこうだ。先進国である日本で働く労働者の給与水準は高く、労働条件にうるさくなった。肉体労働系の仕事など、女性、高齢者、若者が敬遠する職種も少なくない。一方、ベトナムなど外国人の労働者は、安い給料、少ない休暇でも文句なく働き、危険な仕事に就くことも厭わない――。しかし、そのロジックには少なくとも二つの嘘が混ざっている。

第一は、外国人は労働条件に無頓着、という都合のよい話。日本人労働者の平均月給が30万円台前半なのに対し、ベトナム人の月給は平均で3万円程度。ベトナム人にとって、日本企業に就職すればベトナムで働くよりも10倍以上の収入になる。日本企業で働きたいと思うベトナム人は給与面で満足し、高給によって向上心を掻き立てられている、と見るのが正しい。

第二は、日本人の賃金水準は高い、という事実誤認。日本は今、人手不足と言われる。2018年の平均有効求人倍率は1.61倍となり、45年ぶりの高水準、完全失業率は2.4%と36年ぶりの低さだと言う。安倍総理もアベノミクスの成果だと自慢している。だが本来、労働力の需給がひっ迫すれば給与水準は上がるはず。現実はそうなっていない。

3Kと言われる分野における人手不足についても、やれミスマッチだ、非正規・女性・高齢者の増加だの、いろいろな説明が行われている。だが、ここでも低賃金と劣悪な労働条件が人手不足の最大の要因であろう。そこそこ豊かな日本社会では、十分な見返りが得られない仕事に就くくらいなら、多少生活水準を落ちることになっても働かない方がよい、という発想で家にこもる女性や若者が少なくないと思われる。一方で経営サイドの方にも労働条件を引き上げて人手不足を解消しようという発想はない。安い給料、少ない休暇でも文句なく働いてくれる外国人労働者の増加に活路を見い出そうとしている。

日本企業の人手不足対策は、結局のところ、給料を上げない、労働条件を改善しない、ということが大前提になっているのだ。

日本人の給与水準は低い~下を見て較べるな、上を見て較べろ!

諸悪の根源は、給与を含めた日本人の労働条件の低さにある。日本人の給与水準が高い、というのは、発展途上国など日本よりも「下」を見て較べた時の話だ。先進国の中で見た時、日本人の賃金は低い。以下にそれを見ていこう。なお、下記のグラフ等はいずれもOECD統計から作成したものである。

まず、2000年以降の日本人の平均年収の推移は次のグラフのとおりである。(最近、勤労統計問題とやらが発覚した。ここで使われている数字もおそらく多少はお化粧されているに違いない。でもまあ、それは誤差の範囲みたいなものであり、趨勢を見る分には無視してよい。構わず議論を進めていこう。)2000年につけたピークを越えられないまま、4百万円台の前半をうろちょろしているのが日本の現実だ。

これを先進国同士で比べてみるとどうか? 次のグラフはOECDに加盟する10ヶ国の2000年以降の給与水準を米ドル換算(購買力平価ベース)でグラフに重ねてみたものだ。日本は赤線である。

日本人の平均年収は、「二十年一日」と言う言葉を使いたくなるほど伸び悩み、ドル換算でも2017年の数字は2000年より低い。この惨状に付き合ってくれている(もっとひどい)のは、イタリアくらいのものだ。2000年時点で日本よりも低かった英国とフランスは日本を追い越し、遥か下にいた韓国も急速に追い上げてきている。2000年時点で日本よりも上にいた国々との間でも、その差は広がる一方。日米比較に至っては、2000年に米国の78%だった日本人の平均実質年収は2017年には67%まで低下した。米国の場合、一部の超高給取りが全体の数字を押し上げている面はあるものの、それを理由に日本人の低水準を慰めるのも惨めな話である。

最後に示すのは、政策誘導可能な最低賃金の比較。

日本の最低賃金は着実に上がってはいる。最低賃金の引き上げは民主党政権が力を入れた政策だったが、安倍政権はそれをパクって看板政策の一つにした。アベノミクスの成果を作らなければならない、という側面もあるだろう。ただし、日本の最低賃金の伸び率は特に高いわけではない。最低賃金の伸びがめざましいのは韓国だ。この勢いが続けば、日本の最低賃金が韓国のそれに抜かれるのも時間の問題であろう。

以上を見れば、結論ははっきりしている。日本人の賃金水準は、途上国などと比べれば間違いなく高いが、先進国間で比較すれば、決してそうではない。むしろ、見劣りがする。休暇取得など、ほかの労働条件を含めれば、もっとみすぼらしく感じられる。

なぜ、日本人の給料は上がらないのか?

では、なぜ、日本人の給料は安いのか? 上がらないのか? 私は学者ではないので経済学的な説明はできない。しかし、常識を働かせて物事を単純に考えれば、本質に迫れる。

簡単な話だ。日本企業の多くは、十分な賃上げを行うだけの体力が不足しているのである。もっと言えば、日本には人を集めるだけの労働条件を提供すれば潰れてしまう、ゾンビ企業が多すぎる。ゾンビ企業の低賃金を基準にして自社の労働条件を比較的低水準に抑えていることができるため、ゾンビでない企業もこの構造から間接的な「メリット」を享受している。

隠れゾンビ企業を生み、生き長らえさせている要因は様々にあり、根が深い。突き詰めれば、他の先進国では我慢の限界を超える過当競争を薄利多売で耐え抜くメンタリティ、下請け(系列)制度など、日本的システムと言われるものにいきつくのだろうか。労働組合も組合と癒着しており、春闘なんかは出来レースにすぎない。

ちょっと脱線するが、日本ほどストライキが少ない国もめずらしい。海外の先進国もそうなのかと思っていたが、ドイツでは昨年12月、組合が7.5%の賃上げを求めてストを打ち、朝の時間帯に4時間、全土で鉄道が止まった。本来、ストは労働者が要求を実現するための正当な手段だが、高度成長期が終わった頃から「一般国民に迷惑がかかる身勝手な行為」という受け止めが広がった。共産党系の組合が政治闘争を持ち込んだことで国民にそっぽを向かれた面もある。だが、連合をはじめ、日本の労働運動が御用組合化して経営サイドとの間に緊張感のかけらもなくなったことが最大の理由であろう。

アベノミクスも隠れゾンビ企業の延命に手を貸している。異次元の金融緩和と大規模な財政出動はいわば経済のカンフル剤だ。カンフル剤の大盤振る舞いが6年以上続けば、体力はボロボロでも延命する企業が増えるのは当然のこと。一方で、アベノミクスの3本目の矢である成長戦略は遅々として進まず、最大の成果は加計学園の獣医学部創設というブラック・ジョークさながらの有り様。成長戦略の本筋は規制緩和だが、それは弱者に退場を促す効果を持つ。本来なら、ゾンビ企業は一掃される方向にベクトルが働くはずだ。しかし、弱者は政治に頼る、という政治学のセオリーどおりのことが起きた結果、安倍政権の規制緩和は骨抜きもいいところだ。

悪い(弱い)のはゾンビ企業だけではない。日本生産性本部によれば、日本の時間当たり労働生産性は主要先進7カ国中最下位、という悲惨な状況が今も続いている。 経団連加盟のご立派な大企業を含め、生産性の低い会社が多すぎる。生産性が高く、儲かる企業でなければ、先進国の上の方の労働条件を提供することなど、夢のまた夢だ。

翻って日本の政治を見回してみると、与野党あげて弱者保護、隠れゾンビ企業の温存に血眼となっている。最低賃金なんか、そのいい例だ。今や、与野党こぞって最低賃金をあげろと言っている。だがこの政策、企業サイド、特に中小企業からは評判が悪い。「最低賃金をこれ以上あげられたら、経営が立ち行かない」と政治に泣きつく。その結果、最低賃金の引き上げ幅は抑えられ、中小企業対策の充実(補助金の引き上げとか)という名のゾンビ延命策がセットで打たれることになる。

賃上げできない企業は退場せよ

日本人労働者を安く働かせることしかできない社会は、結局、低賃金の外国人労働者に依存するしかなくなり、不安定化する。もっと情けないことには、低賃金で働かせられると思っていた外国人もやがて他の先進国の労働条件の良さに目が向き、日本企業での就職をスルーしたり、踏み台にしたりするようになる。特に、幹部になるような外国人は、最初こそ安い給料や休みの少なさを厭わず黙々と働くかもしれないが、やがては労働条件の改善を求めて経営者をつきあげるようになる。彼らは多くの日本人従業員のように従順とは限らない。会社を存続させたいと思って(今は素直な)外国人労働者の受け入れを求めている経営者たち。結局、労働条件の改善か、廃業かの二者択一に頭を悩ます日を少し先延ばししただけのことにすぎないのである。

はっきり言う。給料をあげたら倒産する、という会社はつぶした方がよい。政策誘導できる最低賃金ももっと急カーブであげるべきだ。中小企業対策とセットにする必要はない。隠れゾンビ企業を一掃する覚悟で臨まないと、日本はいつまでたっても低賃金社会のままだ。もちろん、日本経済全体の生産性を高め、日本企業に「儲ける力」をつけさせないと、日本中に倒産と失業の嵐が吹くだけの話となる。だが、企業に生産性向上を促す政策に短期的な痛みが伴うことは避けられない。今の世の中、その蛮勇を厭わない政治指導者は出てくるのだろうか?

杉田水脈「論文」とLGBT差別、そして同性婚

昨年夏、杉田水脈とか言う自民党国会議員がLGBTをバッシングして逆に世間から集中砲火的な批判を浴びた。杉田の主張に便乗した雑誌『新潮45』は廃刊に追い込まれるという醜態まで見せた。しかも、近年の世論調査では、同性婚への賛成が反対を上回るようになっている。こうした情勢だけを見れば、日本でも今後はLGBTの権利が順調に拡大し、同性婚の実現する日も遠くないという予測が立てられても不思議ではない。だが、現実はそれほど単純には動かない。

本ポストでは、昨夏の杉田「論文」を手がかりにしながら、日本で同性婚を認めるべきか否か、政治的に認められるものか否かを論じてみる。なお、最初に断っておくが、私の立場は「LGBT差別禁止には賛成だが、同性婚には反対」というものである。

杉田水脈「論文」について

最初に、『新潮45』2018年8月号に載った杉田水脈の雑文について、私の受け止めを述べておく。

読後の第一印象は、「この人、何がなんでも朝日新聞を批判したかったんだろうな」ということ。朝日新聞をけなして留飲を下げるのが好きな右系の人たちの「受け」をねらった営業文書にしか見えなかった。

だが、こうやって切り捨てるだけでは論が深まらない。半分馬鹿馬鹿しいと思いながらも、中身に立ち入ってみようか。

LGBTは差別されていない?

明らかに間違っていると思ったのは、LGBT差別に対する杉田の現状認識だ。引用と批評を並べてみよう。

「LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか」

杉田自身が差別的な言説を寄せておいて、そんなに差別されていないでしょ、と言うのだから開いた口が塞がらない。

「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます」

杉田は「非国民と言われるかどうか」で差別の有無を論じているが、これはもちろん妄言である。その基準によれば、人種や国籍にかかるもの以外に差別は存在しなくなる。ところが杉田は、他国では「白い目で見られてきたかどうか」で差別の有無を判断する。これでは論理にならない。日本でもLGBTが白い目で見られているという現実がある以上、日本にLGBT差別は厳然としてある、という結論にならなければ、おかしいだろう。

「(日本では)LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか」

こうまで論理が飛ぶと、「???」と反応するしかない。親がLGBTを受容すれば、杉田みたいな輩が差別しても問題にはならない、と言いたいのだろうか。それは、やっぱり日本にLGBT差別がある、と言っているに等しい。

こんな調子の幼稚な議論を大仰に「論文」と呼んだ新潮社(新潮45)の知的水準にもすっかり脱帽せざるをえない。

「生産性がない」発言

世の中で大きな問題になったのは、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がない」という部分だ。この発言に関しては、私の批判のポイントは、当時繰り広げられた批判とは少し異なる。

LGBTの人が(すべてではないにせよ)子供を作らない、という議論そのものは基本的には正しい。もちろん、それを「生産性がない」と形容することは、言われた方は嫌な思いをするだろうし、品のない言い方だ。しかしながら、言い方を変えれば杉田の言っていることは事実であり、ロジックとしては決して間違っていない。

ただし、LGBT問題で行政(または政治)が役割を果たすべきか否かについて述べるとき、杉田のロジックはここでも脱線してしまう。まずもって杉田は、行政がある問題に取り組むべきか(=税金を投入すべきか)否かは「子供がつくられるかどうか(生産性に資するかどうか)」によって決められるべきである、という前提に立つ。これはもちろん、滅茶苦茶な話だ。そんなことを言えば、社会保障も公共事業も国防も子供をつくるためのものではないから、全部やめなければいけなくなる。こんなロジックをいくら振りかざしても、LGBT問題を政治や行政が取り組むことの正当性を否定することはできない。

新潮45の廃刊

その後、『新潮45』は10月号で「そんなにおかしいのか杉田論文」という特集を組む。最初は「新潮社はこの問題でとことん勝負に出るつもりなのか?」と訝った。だが、批判が殺到すると『新潮45』はあっさりと廃刊になる。

新潮社の「自爆」を受け、LGBT問題は杉田の主張が負けて決着したかのような雰囲気が世の中には漂っている。しかし、「LGBTにどう向かい合うか」というテーマに対して日本社会は何一つ決着をつけていない――。それが現実だ。

同性婚というテーマ

ここまで、杉田の主張の「いかれぶり」を指摘してきた。だが、杉田の主張の中には、少なからぬ人にとって「確かにそうだ」と思わせるものがないわけではない。それは同性婚への反対である。

私は杉田と異なり、日本でもLGBTに対する差別は厳然としてあると思うし、LGBT差別禁止法もちゃんとしたものを早期に成立させるべきだと考えている。しかし、同姓婚になると「ちょっと待ってくれ」という声が心の奥底から湧き上がってくる。

「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。・・・「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません」

ここでも杉田は「同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません」と論理を飛躍させている。だが、同性婚の問題にとどまるとしても、私はそれを容認してよいと思わない。なぜなら、私も杉田同様、同性婚に「秩序が壊れることに対する恐れ」を感じ取るからだ。

とは言え、私と杉田では、維持したい「秩序」の中身が異なる。杉田が崩壊を恐れる「秩序」は、突き詰めれば、家父長的な「家」制度に行きつくであろう。私は、家族は大事だと思っても、戦前の家父長的な「家」には価値を見出さない。夫婦別姓にも賛成する。しかし、自然の摂理としては雄雌、人間界では男女のペアリングが本来の「あるべき姿」だと思う。それに沿えない人が差別されたり、迫害されたりすべきではないが、同性婚を異性婚と同列に社会制度化して「あるべき姿」と認めることはできない。(こうした考え方自体が差別的だと言う人もいるのだろう。でも、私の価値観について妥協する気にはなれない。)

同性婚に対する反対は、意外なことに世の中の多数派ではなくなっているらしい。近年の世論調査によれば、同性婚への賛成は反対を上回っている。2017年3月に行われたNHKの調査もそうだ。同性婚の支持は若い世代で反対を顕著に上回り、特に20代や30代では7~8割が賛成しているという、ちょっと信じられない数字が出ている。

ただし、この態度は深く考えた末の結論と言うよりも、雰囲気に流されたものである可能性が高い。また、安保法制然り、原発再稼働然り、日本の政治は世論の意向に逆らった政策を通すことも往々にしてある。

同性婚という社会制度に踏み込めば、日本会議の人たちを含め、いわゆる保守系の人々の多くは反発するに違いない。私のように、いわゆる保守でも右翼でもない人間の中からも、躊躇する者が相当数出てこよう。

彼らはしぶとい

杉田水脈は今後も、その低俗で極端な主張を変えることはなかろう。杉田の経歴を見ると、選挙区の有権者から強い支持を得て議員に当選したわけではなさそうだ。2012年12月の衆院選では兵庫6区から立候補し、関西での「維新の会」人気に助けられて比例復活。2014年11月には次世代の党から立候補し、あえなく落選。ところが2017年10月の総選挙では比例中国ブロックで自民党から立候補し、苦もなく当選した。ホームページを見ると櫻井よしこが応援しているようだし、安倍総理やその周辺の人たちとも仲がよさそう。だからこそ、自民党の比例単独で優遇されたと考えられる。

杉田が安倍たちから評価されてきたのは、その主張が封建的で右翼的だからである。LGBTの人たちや所謂リベラルな知識人、メディアに叩かれれば叩かれるほど、安倍たちの間で杉田の評価は上がる。結果として杉田の議員生命にとっても有利に働く。

一方、LGBTを認めたくない右の人たちの中でもう少し理論的かつ運動に長けた人たちは、同性婚反対を突破口にLGBT批判の論理を再構築してくる可能性がある。

『新潮45』10月号で杉田を擁護した藤岡信勝が副会長を務める「新しい歴史教科書をつくる会」の成功体験は示唆に富んでいる。当初は極論、暴論のオンパレードの教科書を作って一般人の口をアングリさせたが、問題個所を削除したり表現を丸めたりした結果、ついに検定に合格。「つくる会」の教科書は今、いくつかの学校で使用されるに至った。この人たち、柔軟というのか融通無碍というのか、運動をやりとげることについては馬鹿にできない実績を持っている。

トランプの巻き返し

LGBTの権利拡大や同性婚の容認は世界の流れ、という風に語られることが多い。だが、それは必ずしも正確ではない。トランプのアメリカを見るがいい。。

トランプ政権が発足して早々、職場でのLGBT差別を禁止するオバマの大統領令を撤回する動きが表面化した。結局、この大統領令は継続されると表明されたが、トランプ政権下でLGBT政策が徐々に後退していることは否定できない事実だ。トランスジェンダーの児童、生徒に対する学校での差別を禁止したオバマ政権時の通達は廃止され、トランスジェンダーの軍への入隊も大幅に制限されることになった。昨年10月には、米保健福祉省が法律上の性を生まれつきの生殖器で定義し、変更を認めない措置を検討していると報じられた。ペンス副大統領をはじめ、LGBTを嫌悪するキリスト教福音派の主張に寄り添う、ということを意味する動きだ。

いずれにせよ、トランプ政治が続く限り、米国でLGBT政策の揺り戻しは止まるまい。保守派の判事が増えていけば、同性婚を全米で合法とした2015年6月の米最高裁判決も近い将来、覆らないとは限らない。

タイム誌によれば、トランプの前任者であるオバマも同性婚に対する見解を大きく左右させている。当初、イリノイ州議会上院議員の時は同姓婚に賛成と言ったり、「未定」と答えたりしていた。しかし、2004年に(連邦)上院選に出馬した際には、同姓婚に反対と述べている。大統領に当選した後、2010年あたりからオバマは「意見が変わりつつある」とほのめかすようになった。そして2012年、大統領として初めて同性婚への賛成を公言するに至った。

オバマの場合、交友関係などが本人の考えに影響を与えたのかもしれないし、世論調査で同性婚への支持が過半を上回るようになったことなどによって政治的な計算を働かせたのかもしれない。リベラルな指導者として知られるオバマでさえ、これだけ迷い、悩んできたということは、LGBTへの政治の関り方が一筋縄でいかないものであることを示唆してあまりある。

 

LGBT運動に携わる人たちは、どこまでやるつもりなのだろうか? 差別禁止を求めるところまでで立ち止まるのか、それとも同性婚という形で異性婚と同じ社会的な認知を得るところまで要求を強めるのか?

私は、LGBTの人たちに「どうしろ」と言うつもりはない。杉田たちの運動に与するつもりも毛頭ない。ただ、同性婚まで求められたら、私の答はノーである。右系のグループも同姓婚反対を正面に出しながら、LGBTに対するネガキャンを巧妙に仕掛けてくるに違いない。

LGBTの差別禁止と権利拡大の政治闘争はこれから本番を迎えることになりそうだ。

消費税引き上げ対策の虚しさ~終わりはあるのか?

1月4日、安倍総理の年頭会見をテレビで見るともなく見た。安倍は「頂いた消費税を全て国民の皆様にお返しするレベルの十二分の対策」を講じると力をこめていた。私の奥方は「そんなことするくらいなら、消費税、上げなきゃいいじゃない?」と突っ込んだ。それが普通の反応というものだろう。

対策を打たなければ上げられない消費税ねぇ・・・。新年早々、虚しさを覚えた。今回はそれについて書く。

10月には消費税が10%になる

今年の10月から消費税が10%に上がることになっている。ただし、永田町には「安倍総理はまた延期するんじゃないか?」と半ば本気で疑う空気がある。

2012年8月に民主党(野田政権)、自民党、公明党が賛成して成立した法律どおりであれば、消費税は2015年10月に10%へ引き上げられていたはず。しかし、2014年11月になって安倍総理は引き上げ時期を2017年4月まで延期した。2016年6月には2019年10月まで再延期。2014年は衆議院の解散・総選挙、2016年は参議院選挙とセットの延期表明だった。今年も夏には参議院選挙がある。衆議院の解散も理論上はいつでもできる。議員心理としては、増税延期と選挙のセットを警戒するのもわからないではない。

とは言え、10月まであと9ヶ月しかない。レジ対策やポイント還元制度などを含む政府予算案も提出済みだ。予算が成立した後、春以降に「また延期する」となれば、経済界の対応は大混乱する。税収等の見通しや幼児教育無償化、災害に対応した公共事業等の実施にも甚大な影響が出る。いくら安倍でも、さすがにそれは許されまい。「今月後半の通常国会冒頭解散」も含め、無理筋だ。リーマン・ショック級の経済危機が来れば別だが、株が2万円を切ったくらいでは予定通り10月には消費税を上げざるをえない――。そう読むのが冷静な見方と言うべきである。

消費税「対策」の数々

消費税率10%への引き上げに伴う景気への悪影響を本気で心配してのことか、はたまた参議院選挙対策なのかは知らないが、昨年あたりから消費税引き上げ対策なるものの議論が政府・与党内でかまびすしくなった。昨年末には、「消費税率引き上げに伴う対応」なるものが経済財政諮問会議で決まる。その中には、最初に耳にしたとき、冗談かと思った施策も含まれていた。くどくど説明するつもりはないが、簡単にまとめるとざっと以下のような構図となる。

まず、消費税率の引き上げによる国民の負担増(=経済へのネガティブな影響と考えてよい)は、軽減税率分等を除くと5.2兆円。

これに対し、消費税の増収分によって国民――全員が等しく直接的な恩恵を受けるわけではないが――が被る利益は、幼児教育の無償化や低年金者対策、介護人材の処遇改善等で約3.2兆円。後は基本的には「社会保障の安定化」という名目で基本的には借金返しに使われるのが本来の姿だ。経済や財政にとっても中長期的には決して悪い話ではない。しかし、目先の話としては、差し引き年2兆円程度、景気にマイナスの影響を与える。足踏みを続ける日本経済の現状を考えると、自然体でこの悪影響を飲み込むことはむずかしい。

そこで、政府が支出を増やすことで当面の穴を埋めよう、というのが今回の消費税引き上げ対策だ。その規模や、合計2.3兆円。消費税率引き上げによって増加する国民の受益分3.2兆円と合わせると5.5兆円となり、国民負担の増加分5.2兆円を超える。安倍が「頂いた消費税をすべて(どころかそれ以上を)国民に返す」と述べる所以である。

政府が国民のため、日本経済のために使ってくれると言う、ありがたい2.3兆円の中身は以下のようなものだ。

〇ポイント還元=2,798億円。2019年10月から2020年6月までの間、中小小売業者等で買い物をしてキャッシュレス決済すれば、2%または5%のポイントを還元するもの。5%なら、消費税引き上げ分(2%)を凌駕する実質値引きとなる。政府主催のポイント還元大バーゲンセール、と言ったところ。

〇プレミアム付商品券=1,723億円。2019年10月から2020年3月までの間、低所得・子育て世帯向けに2.5万円の商品券を2万円で販売する。要するに政府が5千円恵んでやるから使いなさい、というものだ。1999年に子育て世代や高齢の低所得者へ一人当たり2万円(総額6,194億円)を配り、効果のないバラマキと批判された地域振興券を思い出す。いずれも公明党のアイディアなのだから、それも当然か。

〇すまい給付金の拡充=785億円。低所得の住宅購入者に対し、10~50万円程度を2021年12月まで延長して支給する。

〇次世代住宅ポイント制度=1300億円。省エネ性、耐震性、バリアフリー性能等を満たす住宅購入について、2020年3月までに契約すればポイント(新築で30万円分)がつく。

〇住宅ローン控除の期間を3年延長。消費税増税分(2%)を3年間にわたって2/3%ずつ税額控除することを認める。

〇自動車所得時・保有時の税負担軽減等。

ここまでは個人消費の落ち込みをにらんだ消費テコ入れ策と言ってよい。だが、最後に次の大物が控えている。

〇防災・減災、国土強靭化のための緊急対策=2019年度分で1兆3,475億円。何のことはない、2018年度から20年度までの3年間、総額7兆円(事業規模)の公共事業をやる、という話だ。最近の災害の頻発を考えれば、本当にやるべきものは消費税引き上げに関係なく取り組まれてしかるべき。しかし、中身をみると災害対策に便乗した不急のものも少なくなさそう。金に色はついていないから、消費税を財源にして公共事業の大盤振る舞いを正当化した、と言われても仕方がない。

こうして並べてみただけで消費税引き上げ対策の趣味の悪さや悪乗りぶりには辟易する。だが、一連の対策にはもっと根深い問題がある。

対策をやめられるのか?

消費税引き上げ対策と称する施策の数々。その根底には、今後1~2年程度の間にアベノミクスの第2の矢、つまり大規模な財政出動――大部分は公共事業で残りは個人消費刺激策だ――によって日本経済を自律的な回復軌道に乗せ、2021年度までには消費税引き上げが与えるマイナスの影響(2兆円強/年)を吸収できるようにする、という考え方がある。

しかし、6年間もアベノミクス(=超金融緩和と大規模財政出動)を続けた結果、低速巡航速度を維持するのがやっとこさというのが日本経済の実力だ。不況ではないが、潜在成長率は0.8%に満たない。安倍政権のピーク(2014年4Q~2015年1Q)ですら、日本経済の潜在成長率は0.91%だった。バブルの頃の4%程度には遠く及ばず、その4分の1に届くことさえ高望み、という有り様である。今回、消費税引き上げ対策という名の新たな財政出動を打てば、消費税2%引き上げの与えるマイナスの影響を吸収しながら日本経済が十分な成長を続けられる、と想定することは限りなく非現実的だ。

対策のうち、個人消費を刺激するものは来年3月か6月に終わる。防災関連の公共事業も再来年の3月には終わる。消費税の引き上げから半年強たてば景気に約5千億円のマイナス効果が出はじめ、1年半たてば2兆円弱のマイナス効果が顕在化する、ということにほかならない。来年後半以降、オリンピック(2020年7~8月)後の景気後退と消費税引き上げ対策終了がダブルで効いてくる可能性が大きいと思っておくべきであろう。(米中貿易摩擦の激化等の影響はまた別の要素としてある。)

その先に何が来るのか? 来年か再来年、政府はまたぞろ大規模な経済対策を打つ羽目に陥り、その後も同じことを繰り返す、というのが最もありそうなシナリオだ。経済対策と称して財政出動がいつまでも続けば、いくら消費税率の引き上げによって社会保障の安定化(=借金返済)を進めても、日本の財政全体で見れば穴の開いたバケツ状態が続くことになる。

 

消費税を上げても増収分がブラックホールのように消費税対策に消えていく。しかも、対策の中身は悪趣味なものばかり。かと思えば、野党は「社会保障は充実させろ、消費税は上げるな」と矛盾だらけのことしか言わない。それくらいなら、消費税を上げないかわりに社会保障の充実や安定化を当面は我慢する、という政策の方がまだ筋が通っているんじゃないか。経済の身の丈に合わない社会保障制度をつくったところで、そんなものは所詮、長続きするわけがないのである。

海兵隊に頼る以外の選択肢~辺野古土砂投入に思う④

SACO合意(1996年)の頃には、在沖海兵隊の能力を維持することによって抑止力も維持される、という論理が成り立っていた。だが今日の安全保障環境の下では、いくら在沖海兵隊の能力を維持しても日本に対する侵略の抑止にはさほど役立たない。にもかかわらず、「日米間の約束事だから」という理由で日本政府が22年前の計画を完遂させようとひた走っているのはどうしたことか。間違った道をどんなに走っても、良くて徒労に終わり、悪ければ崖から落ちることになる。

四回シリーズの最後にあたる本ポストでは、海兵隊の海外移転という鳩山内閣よりもぶっ飛んだ提案を行う。ただし、左系の人たちと異なり、日本の自主防衛能力強化とのセットを条件とする。

発想の転換

過去20年余りの間、軍事の世界では情報技術と融合した兵器体系の革新が進み、戦域はサイバーや宇宙空間に広がった。その結果、遠く離れた場所からピンポイントでミサイル攻撃を行うことが可能なミサイル新時代が到来している。

人民解放軍は軍備の近代化を進めて自衛隊を質量ともに凌駕するに至り、その軍事能力は世界最強の米軍も真剣に憂慮せざるをえない水準に達した。北朝鮮についても、総合的な軍事能力こそ遅れているものの、核ミサイルの開発・配備によって「窮鼠猫を噛み殺す」事態を懸念しなければならなくなった。

このような新しい状況下では、前回見たとおり、これまで期待してきたほどの抑止力を在沖海兵隊に期待することはできない。日本にとって最も懸念される尖閣有事についても、海兵隊をはじめ、在日米軍が自衛隊と一緒に前線で戦ってくれる可能性は必ずしも高くない。

安倍総理や菅官房長官たちには、そのことが見えていないようだ。それどころか、「中国の脅威がますます募る中、在沖海兵隊という軍事力を沖縄に維持することが日本の安全保障にとってプラスになる」と信じこんでいるように見える。「軍隊がいれば安心、いなくなれば不安」という心理は人間の心に馴染みやすい。しかし、それに囚われて思考停止しているようでは、両人とも並みの政治家にすぎない。

では、どうすべきなのか? 決まっている。米軍があてにならないのなら、自助努力しかないではないか!

自前の抑止力に現実味が出てきた~22年前とのもう一つの違い

こういう発想がこれまで出てこなかったのも、やはりSACO合意の呪縛と言うべきだろう。戦後日本は憲法9条の下で専守防衛に徹することを国是とし、日米同盟は「米軍が矛、自衛隊が盾」の役割分担である、と考えてきた。SACO合意(1996年)やロードマップ(2006年)もその前提で在日米軍の再編計画を組み立てた。

相手の攻撃を抑止するためには、「攻めてきたらお前も痛い目にあうぞ」という脅しが効くことが必要だ。しかし、日本は戦後、憲法上の制約から海外派兵を禁止してきたうえ、能力的にも相手の領域を攻撃できるような兵器体系を持っていなかった。そこで、相手を攻める「矛」の役割は米軍が果たし、自衛隊は主に日本の領土内で防衛にあたる、すなわち「盾」の役割を果たす、という役割分担ができあがったのである。

この役割分担が不動である限り、普天間飛行場返還の条件である「抑止力維持」を満たすためには、米海兵隊の維持(=県内への飛行場の引っ越し)以外の結論はありえない。SACO合意の時もまさにそうだった。しかし、今は事情が随分変わってきている。

1992年に国際平和協力法が成立。以来、自衛隊は27の国連平和維持活動(PKO)に派遣された。その中には、南スーダンのように国際常識的には戦地とみなされる場所も含まれている。自衛隊派遣の実績は国連以外の枠組みでも積みあがってきた。2001年のテロ特措法によってインド洋上に、2003年のイラク特措法によってサマワに、それぞれ自衛隊が派遣されている。この間、一人も殺さず、一人も殺されていないとは言え、「戦わない軍隊」と呼ばれた自衛隊が着々と実戦経験を積んできたことは否定できない事実だ。2015年9月には安保法制が成立し、翌年3月から施行された。集団的自衛権行使の容認ばかりが注目されがちだが、これによって特別措置法をいちいち成立させる必要がなくなり、自衛隊海外派遣のハードルが下がったことの意味も非常に大きい。

自衛隊は、その兵器体系の面でも「矛」の要素を徐々に持ちはじめている。先月閣議決定した最新の防衛大綱では、事実上の空母――「多用途運用護衛艦」と呼ぶんだそうである――運用を打ち出した。ステルス性能の高いF-35Bを艦載すると言うから、南西方面での作戦能力は確実に向上するだろう。中国に逆転されていた航空戦力面でも、新型戦闘機F-35の配備予定数を従来の42機から約100機上積みした。さらに、スタンド・オフ・ミサイルの保有。ノルウェー製の対艦・対地ミサイル「JSM」は射程約500 km、米国製の対艦ミサイル「LRASM」と対地用ミサイル「JASSM」の射程は約900 kmだと言う。後者であれば、日本の領土内から撃って北朝鮮の全域に届き、沖縄から撃てば上海も射程に収めることになる。防衛省はそんな運用の仕方はしないと言っているが、少なくとも自衛隊がそれだけの能力を持つようになる、ということは紛れもない事実である。

二十数年前と比べれば、日本(自衛隊)は明らかに矛の役割を果たせるようになってきたと言える。もちろん、自衛隊に広大な中国本土を叩くことは不可能だ。(そんなことをすれば、大規模ミサイル攻撃が日本を襲うことになりかねない。)しかし、尖閣有事の際に中国側に大きな打撃を与えることは、自衛隊の能力増強とやり方次第によっては、十分に可能だろう。前回述べたように、中国が尖閣侵攻を企てるとすれば、局地戦を想定する可能性が高い。そこで手痛い反撃を受けると思わせるだけの能力を自衛隊が身につければ、自前で抑止力を向上させる芽が出てこよう。

自前の防衛力強化と辺野古埋め立ては両立しない

自前の防衛力を強化するためには、言うまでもなく、カネがかかる。F-35を1機購入するのに100億円かかるとして、100機の追加購入だけでも単純計算で1兆円かかる。潜水艦を含め、ほかにも欲しい装備はいくらでもある。

日本の財政事情は22年前よりも一層悪化し、最近も好転の兆しを見せない。アベノミクスとやらが成功した(?)はずなのに、日本経済は今後も低成長が続くと誰もが予想している。一方で、少子高齢化に歯止めがかからず、社会保障費はまだ増え続けることが確実だ。増加する防衛費を捻出するための打ち出の小槌はどこにもない――。この状況下では、自前の防衛力強化と辺野古代替施設の建設を同時に追求することが矛盾をはらんでいることは火を見るよりも明らかだ。

辺野古の代替施設建設にかかる経費は、当初3,500億円程度と言われていた。だが、日本の公共工事が当初予算どおりで完成するわけがない。沖縄県は総工費を2兆5,500憶円――積算根拠は大雑把だが、結果的に大きくはずれてはいないだろう――と見積もる

これだけの巨額の金を注ぎ込んで辺野古に新飛行場をつくった挙句、海兵隊の提供する抑止力は低下し続け、本当に尖閣有事が起こった時に海兵隊が投入されるかどうか定かではない。何ともやりきれない話だ。

工費が仮に2兆円として、それだけあれば、自前の防衛力整備をどれだけ進めることができることか。兵器体系にお金を使えば、我が国の防衛力は確実に向上する。だが、海に土砂を投入しても、業者にカネを落とすだけ。日本政府、政治家、知識人たちには、こんな至極単純な現実がどうして見えないのか?

米軍に頼る以外の選択肢=海兵隊の海外移転と日本の自助努力

一月ほど前、テレビで辺野古に土砂を投入するダンプカーとブルドーザーの映像を見て何となく書き始めたこの論考。普天間・辺野古問題について私の提案を以下に述べ、ひとまず筆をおくことにする。

普天間の危険性の除去と抑止力の確保を両立させることを目的としている点において、私の提案は22年前のSACO合意と同じだ。ただし、普天間の危険性の除去は普天間飛行場の県内移設ではなく、在沖海兵隊全体の海外移駐による。抑止力の確保は在沖海兵隊の維持ではなく、日本の自前の防衛力増強によって実現する。提案は3つの柱からなる。

辺野古埋め立てを含む移設工事を中止し、自前の防衛力増強を進める

過ちては即ち改めるに憚ることなかれ。工事は日本政府が行い、費用も日本政府が持っているのだから、日本政府の決定によって工事は速やかに中止すべきだ。工事が進めば進むほど、政治的にも財政的にも引き返せなくなる。辺野古が八っ場ダムの二の舞になれば、悲劇だ。

同時に、工事中止で浮く費用を防衛予算の増額に回す。必要とあらば、ディールの一環として、米国からの武器調達を増やすことも考慮してよい。

短期的には、普天間飛行場へのクリア・ゾーン導入を米国に求める

辺野古につくられる新滑走路の長さは1,800メートル以下。そこで、現在2,740メートルある普天間飛行場滑走路の両端を短縮し、その短縮分と基地の敷地を利用してクリアゾーン(CZ)を導入する。(ただし、米国国内のCZ基準をそのまま当てはめると周辺住宅の立ち退き等の問題も出かねないため、普天間周辺の実情に合わせて柔軟に考える必要がある。)基本的には工事も不要のはず。
普天間に飛行場が残る限り、危険性はゼロにはならない。だが、普天間の危険性は確実に(かつ直ちに)減少する。ちなみにこれは、伊波洋一(現参議院議員)が宜野湾市長だった時に主張していたアイデアである。

在沖海兵隊について、10年後の海外移設を米国に要求する

県外であれ、県内であれ、今日の安全保障環境下で海兵隊を日本国内に置いておくことの意義は低下している。海兵隊の一体運用性を考慮すれば、普天間飛行場だけを切り離して県外(本土)や海外に移設するという選択肢はない。したがって、米国に求めるのは海兵隊全体の海外移設、ということになる。有事の際に海兵隊が来援できるよう、最低限の施設は(返還を求めずに)残しておくことは一考に値いしよう。
グアムか、ハワイか、オーストラリアか、米本土かなど、在沖海兵隊をどこに移設するかは米国が決めることだ。日本が関知する必要はない。
もちろん、上記の要求に米国が不快感を示す可能性は小さくない。いや、米国は間違いなく日本の約束違反を責め、民主党政権時代のように日米関係が悪化することも十分に考えられる。それでなくても、人間の感情として、「出て行け」と言われればいい気はしない。しかも、既に述べたとおり、米国にとって沖縄には海兵隊がグローバル展開する際の拠点としての重要な価値が今もあるのだ。
だが、我々も背に腹は代えられない。「約束を違えても自らの考える国益に正直であれ」と教えたのはトランプ大統領である。このまま、抑止力が落ちた海兵隊の引っ越しに兆円単位の金を費やすほど、今日の日本には余裕がない。中国は経済力のみならず、軍事力でも日本を追い越し、戦略的な膨張を続けている。北朝鮮の核・ミサイル問題は日本にとって何一つ解決しておらず、韓国との関係も冷却の一途を辿っている。抑止力の観点から費用対効果の低い海兵隊の引っ越しをとりやめ、その予算を自前の防衛力強化に回さないと、我が国の安全保障は本当に立ち行かなくなる。
中国が精密誘導ミサイルを実戦配備するに至った今日、沖縄という中国の近場にある、埋め立てられて固定された基地(=辺野古飛行場)は有事に際して脆弱なことこのうえない。日本近辺の守りについては自衛隊の役割を増やす一方、在沖海兵隊は狙われやすい沖縄から離れ、有事の際にのみ来援する、という戦略は米国にとっても検討の余地は十分にあると考えてもよい。

 

 

いわゆるリベラル系の人たちにとって私の議論は、安倍政権の推し進める辺野古埋立て以上に危険な考えと映るかもしれない。しかし、中国の平和的とは言えない台頭が続く限り、「米軍は出て行け、日本が防衛努力を増やす必要はない」というユートピア的な主張を唱えたところで、SACO合意やロードマップの代案とはならない。結果的に辺野古の埋め立てが止まることもない。

沖縄であれ、本土であれ、政治的にリベラルでない人たちはここらで発想を変え、自主防衛と海兵隊撤退をセットで政府与党に突きつけてやってはどうか? あとは覚悟の問題だ。

海兵隊の持つ抑止機能は低下した~辺野古土砂投入に思う③

20年以上前と現在とで、日本の安全保障にとって在沖米軍の存在意義は大きく変わったのか、それとも基本的には同じなのか? 比較論考の本筋に入っていきたい。

20年前:抑止の対象

1996年も今も、抑止の対象は中国と北朝鮮と言ってよかろう。ただし、中国や北朝鮮のもたらす(潜在的な)脅威の深刻さは、当時と今とでは大きく異なっている。私の記憶では、米国は21世紀を迎えてもしばらくの間、中国や北朝鮮を脅威と呼ばず、地域の安全保障環境に対する不透明性と呼んでいたはずだ。

1995年から96年にかけ、中国は台湾に圧力を加えるためにミサイル発射を繰り返していた。SACO合意の頃には既に、中国が東アジア・西太平洋地域の不安定化要因になるという漠然とした認識は既にあったと言えよう。しかし、当時の中国の軍事力は、冷戦後に名実ともに世界最強となった米軍の足許にも及ばないものだった。実際、クリントン政権が台湾海峡に空母を派遣すると中国は黙るしかなかった。この当時、尖閣諸島を巡って日中が衝突していれば、局地戦にとどまる限りは日本単独で中国側を撃退できたものと思われる。

北朝鮮はどうか? 遅くとも1990年代になると平壌が核兵器やミサイルの開発を行っていることはわかっていた。北朝鮮が地域の不安定化要因の一つであることは当時も明らかだった。だが、北朝鮮の経済的な停滞は誰の目にも明らかで、金王朝は早晩崩壊するという見方も少なくなかった。2006年になると北朝鮮は最初の小規模な核実験を実施した。しかし、核弾頭の小型化などを実現し、(わずか十数年後に)核ミサイルの実戦配備にまでたどり着くとは誰も本気で心配しなかった。北朝鮮のミサイル開発は(1998年のテポドン発射を除けば)スカッドやノドンが中心。米本土はおろか、ハワイ・グアムにも届かなかった。

20年前:海兵隊と抑止

1996年当時、在沖及び在日米軍は、自らは潜在的の攻撃から安全な場所に身を置きつつ、中国や北朝鮮の挑発的な動きに睨みを利かすことができた。在沖海兵隊も、その機能の一部である普天間飛行場が辺野古沖へ移動し、滑走路が短くなって運用上多少の制約が生じたとしても、どうということはなかった。もちろん、日本国内の引っ越し費用は日本政府が負担することになっていたので、米国政府の懐が痛むこともなかった。(海兵隊のグアム移転費用については、日米が分担することになった。)

現在:抑止の対象

今はどうか? 中国経済は2010年頃まで基本的には二桁成長を続け、最近も6%台後半の成長ペースを維持。それに伴って国防費も膨張した。この間、軍事と情報技術の融合がトレンドとなり、サイバーや宇宙分野を含め、中国は人民解放軍の近代化に熱心に取り組んだ。今や中国は第五世代と呼ばれる最先端の戦闘機を圧倒的な量で揃えたのみならず、自衛隊基地や在日米軍基地、さらには自衛隊や米軍艦船をピンポイントで正確にミサイル攻撃する能力を備えるに至った。現時点で人民解放軍の方が米軍よりも強い、と言うつもりはない。だが、万一両者が戦えば、米軍も相当な犠牲を覚悟しなければならない状況になっていることは確かである。

中国の軍事力が総合力で米国をキャッチアップしてきたとすれば、北朝鮮は核ミサイルという一点豪華主義で米国に対抗しようとしている。北朝鮮は近年、水爆実験さえ行ったと主張しており、核弾頭の小型化も相当進んだと考えられている。ミサイルもIRBMやICBMの実験を繰り返して行い、グアムやハワイのみならず米本土をも射程に含んだ可能性が高い。もちろん、米軍と北朝鮮軍の戦力差は歴然としており、両者が交戦状態に入れば、北朝鮮軍は米軍に蹴散らされることであろう。だが、緒戦段階で日韓両国や米本土までが核ミサイル攻撃を受ける可能性は厳然として残る。

では、この状況下で海兵隊を含む在沖米軍が提供してきた抑止力はどうなるのか? 想像力を具体的に働かせてみたい。

 現在:海兵隊と北朝鮮の抑止

北朝鮮による対日攻撃があるとすれば、基本的には米朝が何らかの理由で――偶発的な衝突がエスカレートした場合や、米国が北朝鮮の核・ミサイル能力を除去するための先制攻撃に踏み切った場合等が考えられる――交戦状態に入ったときだ。開戦が迫れば、北朝鮮が自らを攻撃する拠点となる在日米軍基地をミサイルで叩いておきたい、と考えることには軍事的な合理性がある。辺野古を埋め立てて造った滑走路を含め、固定された標的が狙われやすいことは言うまでもない。北朝鮮が複数のミサイルを同時発射してくれば、ミサイル防衛があっても防ぎきれないだろう。(ただし、通常弾頭ミサイルによる攻撃であれば、施設が破壊され尽くすというわけではない。)

ではこの時、沖縄に海兵隊基地があれば、北朝鮮は日本へのミサイル攻撃を思いとどまる――つまり、抑止される――だろうか? 平壌が日本攻撃に踏み切るとすれば、米軍による大規模攻撃――緒戦段階では、米軍の航空機による空爆や艦船からのミサイル攻撃が物量にモノを言わせる形で行われるだろう――が不可避だと思うからこそ、粟を食って(被害を少しでも減らそうと考えて)在日米軍基地を叩こうとするのである。数千人の海兵隊がいようがいまいが、金正恩の判断に影響はない。

 現在:海兵隊と中国の抑止

私は、中国が日本の領土に大々的な攻撃を仕掛けてくることはない、と思っている。だが、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス油田開発に絡んだ衝突が起こる可能性は否定できない。

軍事的に尖閣を獲りにくる場合でも、事態がエスカレートして日中の全面的な軍事衝突に発展しても構わない、とは中国も考えていないはず。在日米軍がいるからという以前の問題として、尖閣にそこまでの価値はないからだ。

偶発的な衝突を除いて、尖閣や油ガス田絡みで軍事行動を起こす場合、中国は自らの行動に対して米軍が軍事介入しないと考えている可能性が高い。米国は日米安保条約第5条が尖閣諸島に適用されることを繰り返し強調している。しかし、第5条の適用と米軍が中国軍と戦火をまみえるということは同義ではないうえ、尖閣諸島の領有権については米国も中立姿勢である。絶海の無人島をめぐって中国軍と戦い、自国兵士の生命を危険にさらすより、中国軍とは自衛隊に戦わせ、自らは後方に控えておきたい、と米国大統領が考えたとしても、少しも不思議ではない。

米国が尖閣有事に本格的に軍事介入すれば、沖縄のみならず日本中にある米軍基地が中国の攻撃にさらされる。米艦船でさえ、中国が持つ精密誘導ミサイルで攻撃されれば、防ぎきれないと考えられているのだ。米軍と互角ではないまでも十分に強くなった中国軍と戦うことは、タリバンやフセインのイラク軍、あるいはシリア軍と戦うのとはわけが違う。ロシアがクリミアを併合した時も、米国は軍事介入を検討していない。奇妙な話に聞こえるかもしれないが、尖閣有事が起きた場合、それを局地戦にとどめることに関して米中の利害は一致するかもしれないのである。

尖閣有事が局地戦にとどまるのであれば、在沖海兵隊が尖閣奪還を命じられることもない。在沖海兵隊が尖閣有事を抑止するというロジックは、まったく無意味とは言わないまでも、相当に説得力が低いと感じられるのだ。

では、尖閣有事が日中の全面戦争にエスカレートする場合はどうか? その時は在日米軍基地がある故に米国も軍事介入を決断せざるをえない可能性が高まる。ただし、在沖海兵隊の有無によって米国大統領が下す決断の内容が変わることはない。(米国にとってより重要な基地はほかにいくつもある。)

中国にしても、事態をエスカレートさせるか否かを考える際に考慮すべき米軍兵力は、嘉手納(空軍)や横須賀(海軍)であり、在沖海兵隊1万数千人(グアム移転後)は大きな要素ではあるまい。普天間飛行場(将来は辺野古代替施設)や佐世保基地を集中的にミサイル攻撃すれば、海兵隊の機能は麻痺する。いずれにしても、中国との戦いでモノを言うような陸上兵力は米本土から(陸軍と海兵隊を)持ってこないと話にならない。

在沖海兵隊の存在によって中国の尖閣攻撃を抑止できる、というロジックはここでも分が悪そうに見える。

ついでにもう一言。台湾や南シナ海で米中が軍事諸突すれば、日本が巻き込まれる可能性はもちろん、ある。しかし、台湾問題で中国が武力行使に踏み切るのは、台湾が独立志向を強め、放置すれば中国共産党の正統性が揺らぐ時である。いわば面子の問題であり、米軍との勝ち負けは主要な判断材料にならない可能性が高い。沖縄駐留の海兵隊を怖がって手出しをやめる、ということも当然ない。南シナ海有事についても、多かれ少なかれ、同様のことが言える。

なぜ、辺野古埋立てなのか?~辺野古土砂投入に思う②

辺野古土砂投入を受け、前回は主に政治的観点からの感想を書いた。本ポストからは、辺野古を埋め立てて米海兵隊用の海上飛行場をつくることの軍事的合理性について考えてみる。

日米両政府とも、辺野古の埋め立てが唯一の実現可能な解決策だと主張してきた。我々もそれを大枠で受け入れてきた。しかし、ここ数年来の軍事技術の進展と西太平洋地域における安全保障環境の変化はめまぐるしい。

20年以上前に下した決定は、今も唯一の現実的な選択肢なのだろうか?

 危険性除去と抑止力維持

まず、辺野古に米海兵隊のための飛行場を作る目的をおさらいしておきたい。

歴代政権が強調してきたのは、米海兵隊が運用する普天間飛行場の危険性を除去することだ。行ってみればわかるし、Googleの航空写真を見ても十分にわかるとおり、小学校を含め、無数の家屋が飛行場を取り囲むように建っている。騒音は言うまでもなく、万一事故が起きれば、大惨事になることは想像にかたくない。2003年にラムズフェルド国防長官(当時)が世界一危険な米軍施設だと言ったのも十分に頷ける。

1995年9月に起きた米兵(海兵隊と海軍)による少女暴行事件を受け、沖縄県民の反基地感情が高揚した。翌年12月、橋本龍太郎政権の時に日米両政府は所謂SACO合意を結び、普天間飛行場を沖縄本島東海岸沖に移設した後、返還することが決まる。言葉は悪いが、日米両政府は沖縄県民を懐柔するために「普天間飛行場の引っ越し」を決めたのだ。

しかし、この「引っ越し」には条件が付いた。「普天間飛行場の重要な軍事的機能及び能力は今後も維持すること」である。これを称して「抑止力の維持」という言葉が頻繁に使われるようになった。

在沖海兵隊は、普天間飛行場に加え、地上戦闘部隊、兵站基地、司令部、演習場が一体となって機能している。飛行場のみを遠くへ持って行っても軍事的に意味をなさない。こうして、「普天間飛行場は引っ越さなければならない」→「でも、抑止力は落とさない」→「新しい飛行場は沖縄県内でなければならない」→「 陸上に適地がない以上、海を埋め立てるしかない」→「辺野古が唯一の実現可能な選択肢」という論理の鎖が出来上がった。

なお、正確を期するために言えば、辺野古への移設によって在沖海兵隊の能力はいくらか低下する、と見るのが本当は正しい。在沖海兵隊の規模縮小もさることながら、辺野古につくる滑走路が普天間よりも短くなり、運用上の制約が加わるためである。

太田昌秀知事(当時)はSACO合意の内容を聞かされた時、「嬉しく思う反面、県内への代替施設が必要と聞いて、喜びが半減せざるを得なかった」と思ったという。沖縄県民のすべてが合意を歓迎したわけではないが、一歩前進という見方もできた。SACO合意を正面から否定することはできない、という雰囲気が沖縄にもあったことは否定できない。

一方、本土の人々は当時、諸手をあげてSACO合意を歓迎した。特に永田町では、「普天間飛行場の危険性の除去」は政治的な意味における「錦の御旗」になった。SACO合意を支持することは日米安保体制を支持することを意味した。代替施設の建設に反対すれば、「海兵隊の普天間居座りを許すつもりか?」と批判されて口ごもらざるをえないという構図も生まれた。県外移設を希求した鳩山由紀夫も、「普天間飛行場の引っ越し」という意味ではSACO合意の延長線上でもがいたにすぎない。この流れは今も続き、安倍政権は言うに及ばず、現在野党第一党の立憲民主党もSACO合意に両足を突っ込みながら洞が峠を決め込んでいるのが実情だ。

2006年5月のいわゆる「日米ロードマップ」によって、普天間の代替飛行場は辺野古を埋め立ててつくることが決まった。それは、「普天間飛行場の危険性の除去」という政治的な錦の御旗と「在沖海兵隊の抑止力維持」という軍事的な錦の御旗を掲げた結果にほかならない。

問題意識=20年前の前提は現在も生きているのか?

人口密集地にある普天間飛行場の危険性は除去しなければならない。中国の軍事的台頭や北朝鮮の度を越した挑発行動を見れば、米軍の抑止力は維持しておきたい――。だから私も長い間、辺野古の埋め立ては「仕方がない」と思ってきた。でも、最近は何かモヤモヤ感が出てきた。

考えてみれば、SACO合意は1996年12月。今から22年も前に決めたものだ。普天間飛行場の代替施設の完成と同飛行場の返還も5年から7年後、つまり、どんなに遅くても2005年までには実現することになっていた。「危険性除去と抑止力維持」のロジックに隙がないと思ったのは、当時の安全保障環境を前提にしていたからにほかならない。

安倍政権になって埋め立て工事に着工したとはいえ、普天間飛行場代替施設の完成は2025年以降になると見込まれている。今日の安全保障環境は22年前に比べて大きく変化している。今後はもっと大きく変わるだろう。絶対に正しいと思われてきた「危険性除去と抑止力維持」のロジックで今も突き進んでいいのか、というのは正当かつ根本的な疑問であるはずだ。

もちろん、20年たったからと言って、普天間飛行場の危険性を放置してもよい、ということにはならない。しかし、在沖海兵隊の抑止力維持はもはや錦の御旗たりえないのではないか――? 私はそう思い始めている。

在沖海兵隊の存在意義

そもそも、在沖海兵隊の存在意義は何なのか? 日本では「抑止力」が独り歩きしているが、米国にとって(在沖海兵隊に限らず)在日米軍基地の軍事的な意義は、大きい順に①グローバルな兵力展開拠点、②抑止、③日本防衛、である。ちなみに米ソ冷戦期は、極東ソ連軍(特に核ミサイル搭載潜水艦)の封じ込めが最重要の任務であった。

米軍は、かつてはベトナム、近年はアフガニスタン、イラクを含む中東など、世界各地で作戦行動に従事している。在日米軍基地は米本土等から作戦対象地域へ派遣される四軍の中継、兵站基地の役割を担ってきた。フィリピンにあった海軍基地と空軍基地から撤退して以降、中東方面とハワイ・米国太平洋岸の間で米軍が信頼を置ける基地は、日本以外には存在しない。(在韓米軍基地の任務は韓国防衛の比重が高い。)単に地理だけの問題ではない。日本が提供する優れた工業技術力は米兵力のメンテナンスにとって極めて有用だ。兵士や家族の生活環境という面でも、日本は申し分がない。さらに、駐留経費の8~9割を日本側が負担しているため、エコノミーでもある。

海兵隊に関しては、米本土を含めたローテーションの中で沖縄に集結し、広大な演習場等を使って訓練を積み、練度をあげてから実戦に投入される。一定期間戦ったら、沖縄(や米本土)に戻って休息をとる。在沖海兵隊は、飛行場(普天間)、地上戦闘部隊等(キャンプ・ハンセン、キャンプ・レスター、)、兵站基地(キャンプ・シュワブ、キャンプ・キンザー)、司令部(キャンプ・コートニー)、演習場(北部演習場等)が比較的狭い区域にまとまっていなければならない、と先に述べた。その最大の目的は米軍のグローバル展開のため、というのが本当は正しい。

では、在沖海兵隊の持つ抑止力とは何か? 抑止とは、潜在的な敵国がこちら(この場合は日本)を攻撃したら、米軍が大規模な報復を加えると思わせることによってその攻撃を未然に防ぐこと。一旦攻撃されてしまえば、抑止とは言わず、防衛の段階に移行する。要するに、在日米軍基地が存在するが故に、日本のみならず西太平洋地域で潜在的な敵国は「わるさ」をすることを思いとどまる、と期待されているのが抑止力だ。

在日米軍基地がなければ、アフガニスタンを含めた中東での作戦行動に大きな支障が生じる。米国にとって、米軍のグローバル展開のためのプラットフォームとしての役割が最も重要だ。米国で識者連中に聞けば、ほぼ全員がこのことに同意する。しかし、そのことを強調すれば、「在日米軍基地は一義的には米国のために存在する」ということになって日米の外交防衛当局にとっては塩梅が悪い。そこで、「在日米軍は日本への攻撃を抑止し、一旦有事になれば日本を防衛するために存在する」ということが強調されてきた。

在沖海兵隊にせよ、嘉手納空軍基地にせよ、兵力展開拠点、抑止、防衛といった役割のうち、どれか一つだけを持っているわけではない。兵力展開が最重要であっても、米軍の存在が抑止力となり、攻撃を受けたら日本防衛の任にあたることになる。在日米軍基地が日本攻撃に対する抑止力となっているという議論そのものは、嘘ではない。

本当の問題は別のところにある。今日、在沖米軍の持つ抑止力の意味付けや効能そのものが大きく変わりつつあり、将来はもっと変わっていくに違いない。それなのに、22年前の計画を惰性で進めてしまってよいのか――? それこそが問われるべきだ。

辺野古土砂投入に思う~政治編

12月14日、政府は辺野古埋め立ての土砂投入を開始した。10月8日のポストで、辺野古の埋め立て阻止は茨の道だと書いたが、事態はまさにその通りに進行している。
ダンプカーが土砂を運び、ブルドーザーがそれを辺野古の海に向けて落とすニュース映像を見てから1週間。この間に思ったことがあるので、今回は政治の視点、次回は軍事戦略の視点で書き留めておきたい。

沖縄の民意を無視しても許される政治 

何とあっけないことか――。辺野古土砂投入の報に接して最初に持った感想である。かつては、沖縄の民意が辺野古の埋め立てに反対しているのに土砂投入を強行するなど、政治の常識として考えられないことだった。それがどうだ? 今や、政府が沖縄の民意を無視することは当たり前のように行われる時代となってしまった。

普天間飛行場の代替基地は辺野古を埋め立てて建設する、という現行案は2006年5月の「日米ロードマップ」で決まった。その後、沖縄県が容認しない限り、政府は埋め立て工事を強行することはできない、と長らく考えられていた。

一つは技術的な理由。埋め立てには県知事の承認が必要。仲井眞弘多知事(当時)の本音は埋め立て賛成だったが、県内世論を慮って承認に踏み切れない状態が続いた。

もう一つは政治的な理由。小選挙区制の導入や参議院での与野党逆転により、政権交代の可能性が常に現実のものと考えられていた時代。沖縄の民意を無視して埋め立てを強行すれば、時の政権は沖縄のみならず全国的な世論の批判を受け、立っていられなくなるとほとんどすべての政治家が信じていた。

前者については、2013年12月に仲井眞がついに埋め立てを承認し、一時的にクリアされた。だが、その1年後に翁長雄志(故人)が仲井眞を大差で破って知事になると沖縄県(知事)は辺野古の埋め立て反対に立ち戻った。その姿勢は現在の玉城デニー知事にも受け継がれている。

沖縄の民意を考えれば、仲井眞の退場によって辺野古の基地建設は再び停滞してもおかしくなかった。だが、安倍政権は違った。沖縄防衛局が埋め立て着工に向けて調査や準備を進めたのに対し、翁長は何度も執行停止をかけたが、政府は行政不服審査請求を行って沖縄県による執行停止を次々と無効にした。去る9月、沖縄県がついに埋め立て承認を撤回した際も同様の措置がとられた。先週の土砂流入はこの時点でもう既定路線になっていた。

沖縄の民意を無視できる理由

なぜ、安倍政権はここまで沖縄の民意――すべての沖縄県民が辺野古基地建設に反対しているわけではないが――を無視できるのか? 菅官房長官や安倍総理に言わせれば、普天間飛行場の危険性除去のためには、不退転の覚悟で辺野古基地建設に邁進するしかない、ということになるのだろう。だが、その説明は綺麗ごとにすぎる。

安倍政権の愚民思考

安倍政権の根っこには、「既成事実を作れば、沖縄は諦め、最後は従う」という考えがある。安保法制の時も、「法案を成立させてしまえば、今は反対している国民もやがては受け入れる」と考えていた。長いものに巻かれやすい日本人の国民性を見越した、一種の愚民思考とも言える。

安倍たちの思惑どおり進んでいる部分のあることは、残念ながら否定できない。フランスではマクロン政権による燃料税引き上げへの反発から1か月以上もデモが続き、一部は暴徒化してマクロン大統領も譲歩を余儀なくされた。日本では安保闘争以来、そんな激しい抗議活動は起きていない。

本土の無関心

12月14日の土砂投入は、沖縄県民が何度も示してきた民意を決定的に裏切る行為だ。しかし、本土のメディアは比較的冷静にそのニュースを伝えていたように思う。あれからまだ1週間も経っていないが、新聞やテレビが土砂投入の現状を詳しく報道することは(私が知らないだけかもしれないが)早くもなくなっている。

野党も概して「ぬるい」対応だった。立憲民主党と国民民主党は、記者会見で憤りを表明したが、「来年2月の住民投票の結果を待て」というニュアンスの弱い反対姿勢。共産党は緊急街宣、社民党は党声明で反対を訴えたが、維新の党や希望の党のホームページには何も載っていない。

沖縄の沈黙

 辺野古土砂投入に対する沖縄県内の反応でさえ、私個人の印象では比較的穏やかなものに見える。それは沖縄県民の絶望の裏返しかもしれないのだが、本土の人たちが沖縄の基地問題をニンビー(Not In My Backyard)とみなす傾向に拍車をかけていることも事実だ。

安倍一強

国会の政治状況も安倍に味方している。与野党が国会で伯仲状況にあったり、次の選挙で衆議院の過半数割れを危惧せざるをえない状況だったりすれば、政府が行政不服審査請求を行って沖縄県の権限を無効にするという無理筋のやり方を繰り返すことなど論外だったはず。しかし、自民党が国会で圧倒的な多数を占め続け、野党は魅力に乏しいうえにバラバラ、自民党内にも安倍の有望なライバルが見当たらないという状況が続いているため、安倍は沖縄問題で世論の反発に鈍感でいられる。現在、沖縄における自民党の国会議員は3名――衆議院選挙区1名、比例復活2名。参議院議員はいない――のみ。仮にゼロになっても、安倍一強はびくともしない。

全国レベルの世論調査では、辺野古土砂投入について反対が5割弱から6割、賛成が3割前後といったところ。だが、この5割弱から6割の反対意見の持ち主は、フランスのようにデモを行うわけでもなければ、次の選挙で非自公候補に投票するわけでもない。その意味で世論調査が示す数字は、安倍にとって痛くも痒くもないだろう。

政治的タブーのない政治へ向かう

かくして、安倍は沖縄県の意向にお構いなく、埋め立てを強行できる状況が続いている。それが止まる兆候はまったく見られない。

トランプが登場して非常識と思われる公約を打ち上げた時、「そんなこと、できるわけがない」と多くの人が思った。今や、トランプの「変な政策」が実行されても、我々はいちいち驚かなくなっている。だが日本でも、トランプ大統領が登場するよりも前から徐々に同じことが起こりつつあったのだ。12月14日の土砂投入を目の当たりにした国民の多くも、「ついに来たか」という醒めた感覚だったと思う。

政治的に正しいかどうかの常識が日本でも崩れてきた――。辺野古に土砂を流し込んだダンプカーとブルドーザーはそのことを象徴していた。そして、納得のいかない政策は沖縄県民だけに降りかかるわけではない。
安保法制が制定される過程で、憲法改正ではなく、解釈変更で集団的自衛権の行使を容認するという滅茶苦茶がまかり通ったことはまだ記憶に新しい。イージス・アショアの導入をめぐっては、秋田県や山口県の人たちは、今の沖縄県とよく似た立場に追い込まれるだろう。

この政治潮流を我々は押しとどめることができるか? おそらく呑みこまれてしまう可能性の方が高いのだろう。

次の代替わりに伴い、「天皇制のあり方」も変わる

 これから天皇家と象徴天皇制が大きな変動の時代に入るのではないか――? 
 前々回前回、ブログの記事を書きながら、そんな予感を抱くようになった。

  半年後に控えた天皇の代替わりは、現在の象徴天皇制になってから二回目。大多数の国民は、来年行われる天皇の代替わりを一種の「儀式」ないしは「行事」と受け止めている。それが終われば、「天皇が明仁陛下から徳仁陛下に替わり、上皇と皇太嗣という新しい呼称ができるものの、その顔ぶれは今と同じであり、現在とあまり変わらない天皇家の日常に戻る」というのが漠然とした感覚であろう。
  確かに、前回の代替わりでは、変化よりも継続の面が目立った。天皇が裕仁陛下から明仁陛下に替わり、元号も昭和から平成になったが、「天皇制のあり方」や「天皇と国民の関係」は前の時代と大きく変わらなかった。だが、次の代替わりでは、変化がもっと前面に出てくるような気がする。先日の秋篠宮発言はそのことをいち早く示唆した鏑矢だったのではないか。

  本ブログは、秋篠宮さまの大嘗祭発言を受けて書き始めたシリーズの三回目にして、とりあえずの最終回となる。テーマは、来る天皇の代替わりを受け、「天皇制のあり方」がどのように変化するか、について考えること。
  新しい元号の時代になれば、天皇陛下が代替わりされ、元号が変わる以外に、何が変わるのか? 国民の側と皇室の側に分け、整理してみよう。

消える「現人神の残滓」

    来年の代替わりに伴い、国民の側で確実に起こることがある。それは、戦前の天皇制に関する記憶がほぼ消滅することだ。
    明治、大正、戦前の昭和にわたり、天皇は「現人神(あらひとがみ)」であった。もちろん、戦前の日本人全員が天皇を神と信じていたわけではない。(私の父も「天皇陛下が本物の神様だとは思っていなかった」と話していたものだ。)しかし、明治憲法上の下で天皇が神聖化され、政治も(実態はともかく)天皇の名において行う建前であったことは紛れもない事実。「天皇陛下万歳」と言って戦死した日本兵が多数いたことの示す通り、天皇は神のごとく、国民(臣民)の思考や行動を深く規定していた。
    その後、終戦(敗戦)によって昭和天皇は「人間宣言」を行い、神の座から降りた。しかし、終戦までの時代を生きた日本人にとって、現人神であった天皇の記憶が一瞬で消え去ることはなかった。戦後も多くの国民は心のどこかで天皇を「ありがたい」存在とみなしてきた。
    平成元年(1989年)に即位した今上天皇に現人神だった時間はない。だが、1933年の誕生から「人間宣言」までの約12年間、明仁殿下は現人神の子であった。平成63年時点において、終戦時に2歳以上だった(=当時45歳以上の)国民は全人口の三分の一以上、36.3%を占めていた。今上天皇も単なる象徴を超えた特別な存在であり続けた、と言ってよかろう。
    これに対し、昭和天皇の孫である浩宮や秋篠宮は、昭和天皇の人間宣言の後に生まれた。二人とも、「神の孫」であった時間はない。しかも、今年11月現在、終戦時に2歳以上だった(75歳以上の)国民の数は全人口の14.3%にまで減少している。終戦時に12歳以上だった国民に至っては、全人口の4.5%にすぎない。天皇が神であった時代の記憶を持った国民は早晩いなくなる。浩宮や秋篠宮は名実ともに人間である最初の天皇となるのだ。
    戦後の昭和天皇と今上天皇は、相当数の国民にとっては一定の神性を残しながら、災害時の慰問や平和式典、文化的行事などへの出席など、国民への献身によって広く尊崇の念を集めてきた。次の代替わりの後、一部の右翼を除けば、日本国民が天皇を現人神の記憶と結び付けて尊崇することは基本的になくなる。神性を失ったとき、天皇の権威は下がると考えるのが自然であろう。
    新天皇と皇族は、災害慰問などの活動のみによって国民から今のような尊崇の念を集め続けることができるのか? 新皇后となられる雅子妃のお務めは健康状態を考慮しながら行わざるをえず、無理はできまいし、されるべきではない。当面は上皇(現在の今上天皇)がいらっしゃるとは言え、その助けを借りられる時間には限りがある。新天皇家がご苦労されるであろうことは想像にかたくない。

情報発信の積極化~吉と出るとは限らない

    新時代における皇室サイドの変化については、前回、前々回のポストでも触れてきたつもりだ。
    昭和(戦後)と平成の天皇は、新憲法と戦後民主主義の流れを汲んで政治向きの発言や自己主張を控え、象徴としての役割に徹した。次の天皇や皇室は、今までよりも自己主張を増やす可能性が高い。特に、皇太嗣となる秋篠宮は、情報発信に積極的に取り組みそうな雰囲気を醸し出している。
    新天皇や皇族の方々が自己主張を増やされることは時代の流れ。否定されるべきことではない。皇族と国民との間のコミュニケーションの手段が、SNSを含め、変わっていくことも避けられまい。望ましいかどうかは様々な意見があると思うが、「開かれた皇室をアピールするため」あるいは「国民と直に繋がるため」に皇室が様々に試行錯誤されるであろうことは十分に予想できる。その際、留意すべきことが二つある。
    一つは、コミュニケーションの手段が変われば、皇族と国民の間のコミュニケーションのあり方も影響を受ける、ということ。 
    報道陣から予め質問を受け付けて文書で答えるのであれば、宮内庁の職員が模範解答を作り、慇懃無礼ながら木で鼻を括ったような答になりがちだ。これが記者会見になれば、先日の秋篠宮発言がそうだったように、宮廷官僚の作った想定問答ラインから外れようと思えば不可能ではない。そこに新しい情報発信の可能性も生まれる。録画会見なら、何か変わったことを言っても、それが表に出るまでの間に対応あるいは釈明を考える余裕はある。生中継なら、その辺のリスクは高まる。
    SNSになると状況はさらに変わる。衆人環視どころか誰にも見られることなく、誰からのチェックも受けずに自分の思ったままを書き込むことができる。それも短いフレーズで、何の遠慮も配慮もなく、ダイレクトに結論だけ書くことになる可能性が高い。あとはワンクリックで発信完了。あっと言う間に世の中に拡散される。うまくいけば好感度が高まる一方で、炎上のリスクも隣り合わせだ。秋篠宮の大嘗祭発言に対しても、ネット上で見られるのは好意的な反応ばかりではない。
    もう一つは、天皇や皇室が政治的な発言を行うことの微妙さ。
    前回のブログで述べたとおり、天皇や皇族の政治的発言が憲法上または法律上、どこまで禁止されているかについては、かなりグレーなところがある。だが、たとえクロでないとしても、天皇や皇族の自己主張が政治的領域にまで及ぶようなことになれば、天皇制を維持するうえではマイナスの方が大きい、と私は危惧する。
    価値観が多様化した現代社会において、すべての国民が支持する政策など、ありはしない。大嘗祭への公費支出についての見解も例外ではない。皇族が政治課題で何かを言えば、それを支持する人もいる一方で、反発する人も必ず出てくる。その結果、天皇は国民統合の象徴ではなく、国民分断の象徴となりかねない。
    もっと大きな懸念は、皇族が政治的と受け取られうる発言を行うになれば、政治の側にそれを利用しよういう動きが出かねないこと。そんなことが起きれば、憲法に抵触する可能性があるのみならず、民主主義はおかしくなってしまう。

浩宮さまを待ち受ける挑戦

    戦後六十数年、天皇は、国民の中に残っていた現人神の記憶に助けられつつ、災害慰問などによる無私の献身、絶妙のバランス感覚と政治的発言の抑制によって国民の支持を繋ぎ止めることに成功してきた。しかし、代替わり後の状況は変わる。
    ほとんどすべての国民が天皇や皇族を自分たちと同じ人間であると捉える状況下で、新天皇は国民統合の象徴としての役割を果たすよう求められる。皇室は国民に対する情報発信を積極化させるだろうが、新天皇や皇太嗣の広い意味における政治的手腕(statecraft)は未知数だ。
    代替わりの後、新天皇の時代は、天皇制にとって試練の時代となるだろう。浩宮さまが思慮深い性格だとしても、苦労は絶えまい。新時代の天皇制をつくる責任を皇室のみに押しつけることは間違いだ。我々もよくよく考えなければならない。