今こそ、中国とのディールに取り組むチャンスだ ~ EEZ画定のすすめ

最近、中国の勢いに翳りが見える。
日本人の本音としては、半ばホッとし、半ば「ざまあみろ」という感じだろう。

だが、日本政府までそれでいいのか?
外交の世界では、相手が弱みを見せれば、それにつけ込んで少しでも自分に有利な状況を作り出そう、と考えるのが常識のはず。私の目には、日本外交が千載一遇のチャンスを目の前にして無為に時を過ごしているように見える。

日中間のパワー・バランスとその趨勢を考えた時、中国と少しでも有利なディールを行おうと思えば、米中関係がギクシャクしていることに加え、香港問題をはじめ中国政府が国内的にも揉め事を抱えている現在は絶好の機会である。

「ディール」という言葉をトランプの専売特許にしてはならない。

日中の国力格差

21世紀の日本にとって、最大の国家的脅威の一つが中国であることにあまり異論はないだろう。しかし、日中の国力の趨勢を比較してみたとき、見えてくる状況は日本にとって極めて不利だ。
ここでは経済、技術、軍事の面で代表的な指標をとりあげ、簡単な日中比較を行ってみよう。

まず、経済力の代表的指標であるGDP。
中国のGDPは米ドル換算(グラフ上段)で2010年に日本のGDPを抜き、以後もその差は開く一方である。購買力平価ベース(グラフ下段)で見れば、日中のGDP総額が逆転したのはもっと前になり、日中経済の格差は一層拡大する。

単位:十億米ドル
出典:International Monetary Fund, World Economic Outlook Database, October 2019

経済に限った話ではないが、規模が大きいばかりで質が伴わなければ、評価は下がる。技術力の面で、日中の相対的力関係はどうなっているのか。

技術力の優劣を示す指標としての使われるものの一つが論文数だ。中でも注目されるものとして、Top10%補正論文数(ある分野で発表された論文のうち、他で引用された回数が上位10%に入る論文の数に補正を加え、時系列の比較ができるようにしたもの)を取りあげる。
下記は日中のTop10%補正論文数推移をグラフ化したものだ。

出典:文部科学省科学技術・学術政策研究所、科学技術指標2018、調査資料-274、2018年8月

今や、中国が凄いのは規模だけ、と言ってすませることはできないことが一目瞭然だ。中国側の数字が驚異的なペースで伸びているだけでなく、日本側の数字が停滞気味であることも気になる。

次は軍事。下記のグラフは米ソ冷戦終了後の日中の軍事費を比較したものだ。

単位:百万米ドル/2017年。
出典:SIPRI Military Expenditure Database 

差は歴然としている。10年位前までは、量では中国が遥かに凌駕していても、質の面では海空戦力を中心に自衛隊の方が上回っているという評価ができた。
しかし、経済の急速かつ持続的な成長の結果、最近では、軍事技術の面でも中国がリードしている分野が多いと言われている。中距離ミサイルの命中精度、宇宙、サイバーなどでは、はっきり言って日本は太刀打ちできないのが現状である。

もちろん、指標を選べば、日中の較差がこれほどでなかったり、日本の方が優位だったりする絵を描くことも可能だ。しかし、そんな小細工に意味はない。代表的な指標が示すのは、中国の力が日本を逆転し、その差をますます広げている、という現実。
日本はこの客観状況の下で対中外交を展開しなければならない。

中国の苦境

同時に、最近の中国は決して順風満帆の状況にはない。代表的な「変調」を経済面と政治面から見てみよう。

1. 経済成長率の鈍化

鄧小平の改革開放が始まったのが1978年。以来、1989年の天安門事件を受けて数年間低成長に陥った――1989・90年の経済成長率は4%前後――ことはあるものの、中国経済は驚異的な成長を続けてきた。しかし、成長率は2007年の14.3%でピークアウト、2015年以降は7%割れが常態化している。
下記のグラフは1980年以降の中国の経済成長率を示したもの。中国の統計が信じるに足るか、という問題には目をつぶったとしても、最近の中国経済の「不調」ぶりは一目瞭然だ。

縦軸は%。
出典:International Monetary Fund, World Economic Outlook Database, October 2019

中国の経済成長が頭打ちとなっている背景にあるのは、中国経済の成熟化、債務調整の継続、人口ピークアウト、格差の拡大といった構造問題。最近ではトランプ政権の仕掛ける経済・投資戦争が追い打ちをかけている。米中経済戦争を含め、すべてが一過性、周期性の要因ではない、というところが中国にとって頭の痛いところ。今年(2019年)に入ってからも中国の経済成長率は、1~3月=6.4%、4~6月=6.2%、7~9月=6.0%となっている。今後は5%台突入も避けられない、というのが大方の見方だ。

もちろん、中国の経済成長率は、低下したとは言え、日本経済の成長率よりも遥かに高い。(したがって、日中経済の格差は今後も拡大する。)2018年の+7.3%という数字(実質成長率)も、国際的に見れば十分すぎるほど高い。米国の+2.9%はもちろん、インドの+6.8%さえ凌駕している。

だが問題は、これ以上経済成長率が下がった時——その可能性は前述のとおり、非常に高い——、約14億人の中国人に対して共産党による一党独裁を正当化し続けることができるか否か。中国の指導部が怖れているのはそこだ。

2. 米中関係

中国共産党指導部は、過去も現在も経済建設を最優先の国家課題と位置づけ、その邪魔になるような「米国との衝突」は避ける、という外交戦略をとってきた。それは基本的には習近平指導部でも変わらない。
ところが、トランプという米国大統領の方が「中国との衝突」をディールの材料にする、という驚きの事態が生まれた。

確かに、トランプ政権の下、言葉の面でも行動の面でも、米国の対中政策は従来越えることのなかった一線を越えた。(本年5月12日付のポスト参照)
米中経済戦争と呼ばれる関税引き上げの応酬。Huaweiなど中国企業を先端技術分野から締め出すために出された米政府の指示。中国の南シナ海進出への警告。ペンス副大統領による台湾支援の明言等々・・・。
米ソ冷戦と同一視すべきではない(本年4月21日のポスト参照)にせよ、中国を警戒する米国の姿勢は明らかだ。

トランプ大統領が再選されなければ(再選されたとしても2025年以降は)、米国の対中政策が敵対でなくなるのなら、まだよい。
しかし、米国政府が中国に対して警戒感を強め、強硬策を打ち出し始めたのは、実はオバマ政権の後期からである。
民主党の大統領選候補の面々も、中国に対して宥和的な候補出ないことを示すことに汲々としている。エリザベス・ウォーレンやバーニー・サンダースに至ってはトランプ同様、米中貿易戦争も辞さない、という立場だ。

米中対立が激化すれば、屈服するのが中国の方だと決まっているわけではない。だが、米国と激しく対立することは、中国にとって決して望ましいことではない。
上述のとおり、経済面では、それでなくても鈍化している経済成長率の低下に拍車がかかる。軍事面でも中国側のキャッチ・アップは急だが、現時点ではまだまだ米国の方が有利、と言わざるを得ない。

3. 香港問題

習近平は鄧小平以降の中国の指導者の中では、最も短期間で自らの権力基盤を固めることに成功した指導者である。毛沢東を除けば、習ほど強く共産党を掌握した者はいないとさえ言われる。しかし、この夏あたりから習(と言うよりも共産党指導部)は政治基盤の思わぬ揺らぎを見せ始めた。今も収拾のめどが立っていない、香港の動乱のことだ。

1997年に香港が返還された際、中国は50年間にわたって香港の政治体制を変更しない(ただし、外交と国防を除く)と約束した。しかし、現実には中国共産党政権による政治介入が相次ぎ、「一国二制度」と香港の民主主義は徐々に侵食されてきた。

今年の7月1日、香港の犯罪容疑者を中国本土へ引き渡せるようにする「逃亡犯条例」改正案に反対するデモ隊と警察が衝突する。これまでもデモ隊と警察の衝突は繰り返されてきたが、今回はどうも様相が異なる。中国側(実際にはその代理人である行政長官)は逃亡犯条例の改正を取り下げたが、デモ隊側は要求項目を増やして妥協に応じない。それどころか、警察の弾圧によって死者が出たため、デモ隊側の怒りはますます増幅している。

中国政府は板挟みの状況にある。

デモを本当に強権的に弾圧すれば、国際的な非難を受けることは間違いない。1989年の天安門事件の際も中国は国際的に孤立して経済的にも外交的にも苦労した。
香港を弾圧した時、味方になるのはプーチンのロシアくらい。米国との貿易交渉は頓挫し、日本や欧州など、対中貿易戦争ではトランプ政権と距離を置く国々もある程度は米国の対中包囲網につき合う可能性が高い。経済成長が鈍化している今、国際経済と相互依存関係の進んだ中国経済が外的要因から更なる打撃を受ければ、共産党一党支配の正当性が揺らぐであろうことは既に述べたとおりだ。
平和的な台湾統一にも悪影響が出ることは避けられない。

では、デモ隊に妥協して自治の拡大を香港に認めればよいのか? それはそれで、中国本土における民主化要求を刺激し、共産党支配を動揺させる。ウイグルやチベットなど少数民族が自治や独立の要求を強めかねない。

そもそも、デモ隊を強権的に弾圧しようが、彼らの要求を呑んだ宥和的な態度をとろうが、デモに参加する人たちが中長期的に矛を収める保証はない。
今香港で起こっている騒動は、単に民主化や自治の問題を超え、住民のアイデンティティの問題となっているからだ。香港大学が行った調査によれば、香港に在住する人の15%だけが自分を「中国人」だと考えており、残りは自分を「香港人」と考えている。18~29歳に限れば、自分は中国人だと考えている者は3%しかいない。

香港のデモが中国共産党の喉元に突きつけている問題は、それほど根が深い。今回収まったとしても折にふれて指導部を悩ませ続けることだろう。

中国の苦境をチャンスと捉えよ

冒頭で見たとおり、今日の日中の国力を比較すれば、状況は明らかに中国有利と言わざるをえない。しかも、時間が経過するにつれて国力の較差は日本にとって一層不利なものとなる。中国の経済成長率が低下してきていると言っても、日本の経済成長率がいかんせん低すぎるためだ。生産性の面でも人口動態の面でも、日本経済の将来に対しては悲観的な見方の方が圧倒的に多い。

この大きな潮流を考慮した時、日本外交が中国と互角に渡り合おうと思えば、タイミングを見て相手の弱みに付け込む、という発想が不可欠となる。
つまり、中国側が(一時的)苦境に陥った局面を逃さず、日本にとってより良い条件でディールを切り結ぶ、ということだ。

国の状況が困難な時、その国が必ず宥和的になるとは限らない。むしろ、ナショナリズムを強める場合があるのも事実だ。
しかし、国の状況が困難な時に中国が大局的観点からビッグ・ディールを結んだ例は少なからず存在する。例えば、毛沢東と周恩来が踏み切った米中の国交正常化もその一つ。

中国が1990年代に周辺諸国との間で多くの国境問題を解決したのも、天安門事件後、中国指導部が国内的には共産党支配の動揺、対外的には西側諸国による経済制裁と国際的な孤立という深刻な危機に直面していたことが強く影響した。
国境の確定を通じて近隣諸国との関係を改善・強化し、人民解放軍を旧ソ連国境から引きはがして国内の治安維持に使えるようにしておくことは、共産党指導部にとって大きなメリットだったのである。

中ロ国境については、ロシアの方が中国よりもさらに苦境にあったため、中国よりもロシアの情報の方が大きいと言われる。一方、中央アジア方面での国境画定では、中国が諦めた面積の方が相手方よりも多いケースも少なくない。

先述の「三つの苦境」があるとは言え、今の中国が置かれた立ち位置は、天安門事件後に比べれば、まだ良い状況である。日本が対中ディールを追求しようと思えば、中国に全面譲歩を迫るというのは現実的でない。「ウィン・ウィン」を標榜しながら、いかに「引き分け」から「少し勝ち」に持ち込むか、という手腕が問われよう。

日中EEZをめぐる「ディール」

今、日本が中国との間で具体的にどのようなディールを追求すればよいのか?
少しばかり私案を述べてみたい。

日中間で軍事紛争が起きる可能性は低い、と私は思う。
それでも、万一あるとすれば、尖閣諸島と東シナ海ガス油田開発をめぐって(偶発的なものを含めて)日中間に何らかの衝突が起こり、それがエスカレートする場合が最も考えられる。

日本と中国は海を介して隣接している。日中が海で衝突する確率を下げるための「ディール」を結ぶことができれば、その意義はとてつもなく大きい。

尖閣諸島については、中国公船による領海及び接続水域の侵犯はあるものの、日本側が実効支配している。そこでの共同開発等となると(やってはならないというわけではないが)国内的に強い反発が予想される。その点、東シナ海のガス油田の方がディールに向けた障害はまだ少ないと考えられる。

東シナ海のガス油田開発をめぐる日中対立

東シナ海には天然ガスや石油の埋蔵が見込まれる海域があり、中国側が一方的に試掘等を行って日中が対立していることは周知の事実だ。

この問題を司る国際法は国際海洋法条約になるのだが、これが全然単純な話ではない。と言うのも、同条約は200カイリ(約370㎞)に及ぶ排他的経済水域(EEZ)を沿岸国に認める一方で、大陸棚における鉱物資源の採掘権を大陸側の国家に認めている。言わば、国際法自体にダブル・スタンダードが組み込まれているようなもの。
東シナ海の場合、日中の沿岸から200カイリとなると相互に重複が生じる。日本政府は当初、双方の中間線をベースに日中間のEEZを画定すべきだと主張していた。

しかし、中国はそれを逆手にとった。
日中間でEEZが画定されていないにもかかわらず、1990年代から中間線の中国側で天然ガスや石油の試掘を始めたのである。(大陸国家である中国は「大陸棚延長論」に基づいて採掘権を主張することも忘れていない。)
このうち、2003年に着工された春暁(日本名=白樺)は中間線からたった5㎞しか中国側に寄っておらず、天然ガスや石油の埋蔵地域が地下を通じて日中中間線の日本側にまで広がっている可能性が高い。これは見過ごせない、と我が国は激しく抗議した。

2008年5月に胡錦涛主席が来日し、この問題は一旦沈静化したかに見えた。胡が離日した直後の6月18日、日中両政府はガス油田問題で部分的な合意に達する。
そこでは、春暁(日本名=白樺)の開発に日本が参加すること、日中中間線をまたぐ一定海域(地図で見るとかなり限定されている)での日中がガス油田の共同開発を行うことが謳われた。

しかし、この合意は中国国内ではあまり評判がよくなかったようだ。その後、今日に至るまで2008年6月の合意内容は何一つ具体化していない。中国がこの海域で独自にガス油田開発を進める動きも相変わらず続いている。

東シナ海におけるディールの可能性

東シナ海のEEZをめぐって中国との間でディールを追求するとしたら、どのようなものが考えられるだろうか? 二つほど私案を示してみたい。

① 2008年6月合意の具体化

第一案は、2008年6月の合意を実現すること。
10年以上ストップしていたことを前に進められれば、日中関係の雰囲気が良くなることは間違いない。決して悪くないディールだ。ただし、注意すべき点も二つある。

まず、春暁(白樺)にせよ、指定海域の共同開発にせよ、現在のエネルギー情勢の下で採算がとれるのか、という切実な問いに対してはっきりした答が出ていない。ガスや油の質がどの程度のものなのか、日中中間線付近からパイプラインで中国側へ持っていく――素人考えだが、日本側へ運ぶ方が難易度は高そうである――コストを回収できるのかなど、課題は少なくないと思われる。

もう一つは、2008年6月の合意がカバーするのは、春暁と一部海域の将来的な共同開発に限定されることだ。別な言い方をすれば、この合意を履行したとしても、中国側は広大な海域で「勝手に」試掘等を行うことができる。と言うことは、将来、そこで日中間に不測の衝突が起きる可能性もまた、残ることになる。

② 日中EEZの画定

そこで検討すべきなのが第二案、すなわち日中EEZの画定だ。
もちろん、尖閣諸島の周辺は無理だから除外するしかない。
日中間で協議してもEEZを確定できないようなら、両国が同意して国際司法裁判所(ICJ)へ持ち込む、というのも一つの知恵だ。

2008年6月の合意と比べて係争海域を大幅に減らすことができるので、日中間で将来、紛争が起きる芽を包括的に摘むことができる――。それがこのディールの最大のメリットである。

ただし、EEZを画定しようと思えば、中国のみならず日本側も譲歩は覚悟せざるを得ない。はっきり言って、日中中間線での合意は無理だ。
日中と似たようなケースにおけるICJの判例を見ても、中間線を大陸棚の延伸方向に――つまり、中国のEEZを広げる形で沖縄の方向に――少しずらす形で境界線が引かれる可能性が高い。その結果、現在中国が試掘しているガス油田はすべて中国側に権利が認められることになるだろう。

私に言わせれば、東シナ海のガス油田を少なくとも日本側から商業ベースに乗る形で開発することは、まずできない。そんなものにこだわるよりも、名を捨ててEEZの画定を優先させ、将来日中間で紛争が起きにくいようにする方がずっと賢い。
どうしても、というのであれば、中国が東シナ海で行うガス油田開発については日本の一部出資に優先的配慮を行う、という覚書でも交わしたら十分だろう。

中国国内には、沖縄の間近まで大陸棚が延伸していると主張し、東シナ海におけるべらぼうに広大な海域で中国が独占的に鉱物資源を開発できる、という意見だってある。「中間線+α」(日本側から見れば「中間線-α」)で決着をつけることは、中国にとっても大きな妥協なのだ。

おわりに

今日で安倍総理の総理在任期間は憲政史上最長となった。
「長いだけだよ」と言われないためにも、安倍外交の総仕上げとして日中の画期的なディールに取り組んだらどうだろう?

東シナ海における日中のディールは、安倍総理がプーチン大統領との間で進めようとした――まだしているのか?――北方領土交渉よりも実現可能性は遥かに高い。
日本の安全保障上の不確定要素を減らすという意味からも、国益に資するところが極めて大きい。

来春、習近平国家主席が国賓として来日する。これほど大きなチャンスはない。
日本政府は習の来日を単なるセレモニーに終わらせることなく、大きなディールの実現に向け、全力を傾けるべきだ。

立憲的改憲の限界~山尾案と安倍案はよく似ている

安倍政治の次の焦点は憲法改正、とメディアがはやしている。だが私は、安倍からも自民党からもそこまでの熱気を感じない。世の中もまったくと言っていいほど盛り上がっていないのではないか。

自民党は2012年4月に憲法改正草案を発表した。その評価はともかく、一つの提案だったことは事実。ところが、2017年5月に安倍晋三総理(自民党総裁)が自衛隊追記案を提案するや、自民党はあっという間に従来の憲法草案を捨て去り、安倍案を追認した。「長いものには巻かれろ」ということか、「改憲できれば何でもいい」ということか、いずれにしてもいい加減な話である。

一方で、野党の方からも対案の類いは聞こえてこない。共産党や社民党は「護憲」だからまあ許せる。しかし、立憲民主党や国民民主党は「安倍政権の下での改憲には反対」と言うばかり。例によって、何がしたいのかさっぱりわからない。
と思っていたら、山尾志桜里衆議院議員が『立憲的改憲』という著書の中で独自の9条改正試案(私案)を発表しているのに気がついた。本の題名からは、憲法によって権力を縛ることを重視した改憲論、という意気込みが窺われる。

山尾と言えば、私生活の面でいろいろ注目され、政治家として毀誉褒貶の激しい人だが、その点にコメントするつもりはない。党(立憲民主党)の迷惑を顧みずに9条改正試案を発表した一事から見る限り、政策論については真面目な人なのだろうとは思う。そこに敬意を表しつつ、本ポストでは山尾がせっかく出した9条改正試案を俎上に載せてみたい。

今回は「安倍の自衛隊追記案との比較」という視点を意識して山尾試案を検証することにした。両案は共に現行9条への加憲という形式をとっているうえ、山尾自身が安倍案を相当意識しているように見えるからだ。

以下では、現行9条、安倍の自衛隊追記案、山尾案と順を追って解説していく。

現行9条~議論の前提

現行の憲法9条はもうお馴染みであろう。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を子供たちが普通に読めば、日本は軍隊を持てないんだ、と思う。私も子供の時はそうだった。現実にも、1947年5月に憲法が施行されてから3年余りの間、日本には自衛隊類似の組織を含めて軍隊らしきものは存在しない時代があった。

しかし、1950年6月に朝鮮戦争が起きると、米国政府(GHQ)は「日本がいつまでも武装解除のままでは不都合だ」と思うに至り、自衛隊の前身となる警察予備隊等の創設を命じた。もちろん、それまでの解釈に従えば憲法違反だ。

そこで当時の日本政府(内閣法制局)がひねり出したのが、「憲法には書いてないけど、国家は自然権として自衛権を持っている。個別的自衛権の一部は憲法が禁止している武力の行使に含まれない。だから、その限りにおいて軍隊のように見える組織(自衛隊)を持つことは憲法違反じゃないんだよ」という屁理屈。その後、2014年7月になって「集団的自衛権の一部も憲法が禁止している武力の行使に含まれない」という解釈変更がなされたことは周知の事実であろう。

子供の素直な感覚ではヘンテコにしか思えない理屈でも、それを認めない限り、自衛隊は憲法違反になってしまう。永田町や霞が関では長い間、このヘンテコな理屈に疑問を挟むことはタブーとされてきた。

安倍の自衛隊追記案 ~「現行解釈を変えない」と言うけれど・・・

2015年9月に安保法制を成立させた時、安倍総理は上記の理屈の上に立ったうえで集団的自衛権の行使を部分的に容認した。ところがその1年半後、安倍は「自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば命を張って守ってくれ、というのはあまりにも無責任だ」と述べて、9条1項、2項を残しつつ、自衛隊の存在を明文で書き込む憲法改正を提案した。自民党はこれを追認し、自衛隊追記案は現在の「改憲4項目」の一つとなっている。条文的には、概ね以下のようなイメージだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

これを初めて見たときの感想は、醜い構成だな、というもの。元々ある1項で「国権の発動たる武力の行使」を放棄しておいて、1項の例外として自衛権の行使はできる、と追記するわけだが、例外が大きすぎて何とも不格好。言うまでもなく、自衛権の行使は「国権の発動」以外のなにものでもない。これを例外扱いにしたら、1項で禁ずる中身はスカスカ。安倍改憲後の9条の下で禁止されるのは、あからさまな侵略戦争くらいだ。自ら「侵略戦争だ」と言って戦争する国はない。9条が「戦争の放棄」を謳っている、と説明するのはしんどくなるだろう。

一方、永田町では、安倍が自らの改憲提案について「自衛隊の任務や権限に変更が生じることはない」と説明していることに反応が集まっている。

第1は、安倍が説明するとおり、改憲しても何も変わらないのであれば、単に自衛隊の存在を明記するだけではないか、という右サイドの失望。
わざわざ改正するのだから、自衛権行使の幅をもっと拡大できるようにしなければ意味はない、というのである。

第2は、安倍が説明するとおり、改憲しても何も変わらないということは、「安倍の自衛隊追記案に賛成すること」イコール「集団的自衛権の一部容認を認めること」になる、という左サイドからの批判。

第3は、条文を変えておいて、9条の解釈が従来の解釈のまま変わらない、と説明するのは通用しない、という疑念。
安保法制を通したとき、憲法9条を変えることなく解釈を変え、それまで許されなかった集団的自衛権の行使を一部可能にしたのは、ほかならぬ安倍であった。
「自衛隊の存在を明記するだけで、何も変わらない」と言いながら自衛隊追記案を認めさせて改憲を実現したとしよう。さすがに安倍の任期中は現行の解釈を維持したとしても、将来の総理大臣が解釈を変えない保証はどこにもない。その時、条文が変わっていれば解釈変更のハードルも当然下がる。

第3の疑念は、「安倍の自衛隊追記案で9条が改正されれば、フルスペックの集団的自衛権行使を可能にする解釈が生まれる」という批判につながる。この点については、山尾の前掲書における対談で阪田雅裕元内閣法制局長官(2004年8月~2006年9月)が述べているとおりであろう。

山尾の9条改正試案~個別的自衛権と交戦権の明記

山尾の改憲案も安倍と同様に現行9条に加憲する形式をとる。現行9条と並べれば以下のような感じだ。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2 ① 前条の規定は、我が国に対する急迫不正の侵害が発生し、これを排除するために他の適当な手段がない場合において、必要最小限度の範囲内で武力を行使することを妨げない。
② 前条第2項後段の規定にかかわらず、前項の武力行使として、その行使に必要な限度に制約された交戦権の一部にあたる措置をとることができる。
③ 前条第2項前段の規定にかかわらず、第①項の武力行使のための必要最小限度の戦力を保持することができる。
④ 内閣総理大臣は、内閣を代表して、前項の戦力を保持する組織を指揮監督する。
⑤ 第①項の武力行使に当たっては、事前に、又はとくに緊急を要する場合には事後直ちに、国会の承認を得なければならない。
⑥ 我が国は、世界的な軍縮と核廃絶に向け、あらゆる努力を惜しまない。

9条の2にある④、⑤、⑥項は、山尾改正の本筋ではない。

④は自衛隊——何と呼んでもよいが——の司令官が総理大臣、という現状を明記したもの。⑤の自衛隊の武力行使に国会承認が必要、ということは、半世紀以上も前から自衛隊法に書いてある。どちらの項目も自民党改憲草案や安倍の自衛隊追記案に似た記述があり、大きな議論とはなるまい。

⑥項は、それまで戦力を規定してきたところで急に国家の意思表明が出てくる形となっており、個人的には違和感がある。その実現に向けて行動するわけでもないのに文字面だけ理想を書き込んで自己満足したがる、という日本のリベラルの悪い癖が出た。中国の軍事的台頭や朝鮮半島情勢を考えれば、日本は近い将来、防衛費を漸増させざるをえないから、矛盾が生じる可能性が大きい。
ただし、この表現は努力目標にとどまるため、どうにでも解釈できる。したたかな憲法改正派なら、「憲法改正の国民投票を実現するための取引材料に使ってもいい」くらいに考えるかもしれない。

山尾案の核心は、①項、②項、③項にある。

第①項に書きこまれているのは、我が国に対する急迫不正の侵害、排除する適当な手段が他にない、必要最小限度、という武力行使の旧三要件だ。山尾は「現行安保法制のように集団的自衛権の一部を解除する解釈を厳に禁ずる」と述べる一方で、個別的自衛権の一部行使が可能であることを明記する。

第③項は、第①項の帰結として武力行使を行う組織を規定している。すなわち、9条で「陸海空その他の戦力は持たない」と言っているが、上記旧三要件を満たす武力行使にあたる軍隊は持ってもいいんだよ、と書いたものだ。これで自衛隊の存在が憲法に明記される。安倍の自衛隊追記案と構造は同じである。

第②項は、山尾の生真面目さが出ている条項案。現行9条が「交戦権の否認」を明記しているのに対して、上記三要件を満たす武力行使の際には限定的な交戦権が認められる、と定めた。ここで言う交戦権は、「交戦する権利」という意味ではなく、交戦国が国際法上持つ権利の総称。これを認めないと、自衛権の行使を認めても、相手兵力の殺傷・破壊、占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕などができない。ちなみに、2015年の安保法制及びその前提となる憲法解釈の変更もこの点は乗り越えていない。

安倍の自衛隊追記案は交戦権について何も触れていない。つまり、放棄したままだ。少なくとも当面、交戦権は認めないということだろうか。

山尾が自衛権行使に伴ってどの程度の交戦権を認めるべきだと考えているのかは不明である。だが少なくとも、交戦権を限定的に認める山尾案の方が安倍案よりも武力行使の幅を広げる、という部分があることは間違ない。

山尾案でも集団的自衛権は行使できる

山尾の意図するところは、「時の権力者が恣意的な解釈によって集団的自衛権の行使容認を可能にすることがないよう、自衛権行使の旧3要件を条文に入れた」ということなのであろう。しかし、政治家というより法律家としての視点から議論しすぎたせいであろうか、山尾は落とし穴にはまったように見える。つれない言い方になるが、山尾の生真面目な考え方が生きるのは、彼女または彼女と同じ考え方の者が総理大臣か内閣法制局長官の座にある時だけだ。

旧3要件は憲法9条の下で個別的自衛権(の一部)を行使する際の条件を厳格に定めた解釈である。しかし、それを憲法の条文に落とし込んだ瞬間、旧3要件は解釈される対象になる。

山尾のような真面目な法曹関係者が解釈するのであれば、従来の解釈は変わらないと期待してもよかろう。だが、最も重要な憲法解釈は、法律ではなく政治の文脈において決まる。政治が「変える」と決めたら、法律家はついていかざるをえない。朝鮮戦争の際に自衛権と自衛隊(の前身)を正当化する解釈が生まれたのも、作成者は内閣法制局かもしれないが、それを作らせたのは当時の日本政府。その裏に米国政府(GHQ)の命令があったことは言うまでもない。

意外に思われるかもしれないが、2014年7月に新3要件を閣議決定した際、果断さと小心の同居する安倍は過去の政府解釈との連続性を完全に断ち切る決断をせず、集団的自衛権の行使は限定容認にとどまった。将来、「過去の政府解釈にはまったくこだわらない」と本当に割りきる政治指導者が出てくれば、どんな解釈も可能になるだろう。現代はドナルド・トランプが米国大統領になるオルタナファクトの時代だ。過去の法律論議の積み重ねの上に憲法解釈が行われる、という想定の下で憲法改正に取り組むのは、甘い。

「条文化された3要件」をどのように解釈すれば、集団的自衛権の行使が認められるか、少し頭の体操をしてみる。現実の安全保障論と法律論をミックスさせれば、さほどむずかしいことではない。

山尾案が書き込んでいる旧3要件のうち、最も重要な制約となるのは「『我が国』に対する急迫不正の侵害が発生していること」である。「我が国が攻撃されていない」状況下で(我が国と密接な関係にある)他国が攻撃された時に行使されるのが集団的自衛権である以上、この要件があれば当然排除される、というのが山尾の論理であろう。それは従来、正しかった。だが、今はどうだろうか?

ここで、朝鮮半島において北朝鮮と米韓が軍事衝突し、今現在、日本の領土は攻撃されていないケースについて考えてみよう。日本国内に米軍基地が存在し、北朝鮮が日本を射程に収めるミサイルを数百基保有していることを考えれば、日本はいつ攻撃されてもおかしくない。しかも、北がミサイルを発射すれば数分から長くても10分以内に甚大な被害が生じ得る。(ミサイル防衛で北のミサイルをすべて撃ち落とせると考えるのは現実的でない。)

山尾はおそらく、朝鮮半島有事については「日本が攻撃されていない事態を含め、個別的自衛権の行使で対応できる」という主張するのであろう。(そうでなければ、集団的自衛権の行使を認めない、という主張を国民が受け入れることはない。)

旧3要件が認める個別的自衛権の行使は、「日本が攻撃を受けて被害が出るまで待て」という趣旨のものでは決してない。我が国への攻撃が切迫していれば、相手側に武力攻撃の「着手」があったとみなして自衛権を行使することは可能だ。

ただし、何を以って「着手」とみなすかは従来、曖昧であった。かつては「ミサイルへの燃料注入が行われる」等の例示があったが、そんなもの、わかるとは限らないし、仮にわかったところで、数分後に日本へ着弾することを考えれば、完全に手遅れだ。固形燃料のミサイルについては、そもそも当てはまらない。

我が国の直面する最大の脅威がミサイル攻撃であるという現実を考えれば、「個別的自衛権で朝鮮半島有事に対応できる」と主張するためには、「着手」を柔軟に認めることが必要だ。逆に言えば、それさえやれば、我が国が攻撃されていない事態を含め、朝鮮半島有事に個別的自衛権で対応するという主張は一応、成り立つ。

ところがこの事態、裏から見て「個別的自衛権だ」と言っても、表から見れば「集団的自衛権以外のなにものでもない」ということになる。いや、日本が目に見える形で攻撃される前に米韓が攻撃された際の武力行使であれば、国民の多くは個別的自衛権ではなく、素直に集団的自衛権の行使と理解するだろう。

このようなケースでは、「我が国に対する急迫不正の武力侵害の発生」の解釈として新3要件を引用し、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合を含む、としても大きな異論は出ないと思われる。

旧3要件が条文化された場合、「急迫不正の侵害がミサイルや砲弾など従来型の「武力攻撃」に限定されるのか」という観点からも解釈の柔軟化が進む可能性がある。

例えば、我が国に対するサイバー攻撃。今日の国際法の流れに従えば、航空機の管制システムがハッキングされて航空機が墜落させられた場合や、厳冬期に電力システムをダウンさせられた結果、多数の死者が出た場合などでは、武力によって相手国を叩くことが正当化されるであろう。
山尾自身がどう考えているかはわからないが、相当規模の人的被害をもたらすサイバー攻撃は「我が国に対する急迫不正の侵害」に該当しうる、と解釈を拡大(または補強)しても決して不自然なことではない。

立憲的改憲の限界

たった一回のブログで山尾の改憲試案を語りつくすことはできない。

今回はあまり触れなかったが、山尾案は交戦権の一部を明記することから、我が国に可能な軍事行動を今以上に——そして安倍案以上にも——拡大させる側面を持っている。いわゆるリベラルの中には、山尾試案を危険視する人も少なくないはずだ。
もっとも、法律家として現実的対応を心掛ける山尾のことだから、そんな批判は「どこ吹く風」に違いない。

いずれにせよ、山尾の改憲案でも集団的自衛権の少なくとも一部は行使可能、というのがこのポストの最も重要な結論だ。皮肉な話ではあるが、山尾が自分の改憲案について「集団的自衛権の行使は認められない」と説明すれば、安倍が自衛隊追記案について「何も変わらない」と説明するのと同じく、不誠実な言動になる。

山尾案の限界は「立憲的改憲」の限界でもある。憲法の条文によって権力を縛る、と言っても、それは背景に権力政治があってこそ、有効に機能する。
今の憲法9条も、日本を打ち負かした米国(GHQ)という絶対的な権力が日本政府や旧軍部という権力を縛ろうとしてできたものだ。
今日、憲法改正の流れが大きくなっているのも、民主党政権が崩壊した後、「安倍一強」「自民党一強」の政治状況が生まれたことによるところが大きい。

時の権力を制御する最も有効な手段は、それに対抗する権力を打ち立てること。この現実を直視せず、「憲法の条文で権力を縛る」といつまでも言い続けているようでは、リベラルが国民の信頼を得る日は永遠に来ない。

 

以上、山尾に一定の敬意を抱きながら、山尾試案を批判してみた。

ここまで批判しておいて言うのも気が引けるが、山尾案は、安倍案や自民党改正草案に比べれば、ずっと真面目に考えられている、という意味では力作と言ってよい。しかし、その山尾試案でさえ、安全保障論や政治論の観点からはこの程度の水準か、と失望したのも正直なところだ。

私は9条改正論者である。しかし、安倍案、自民党改正草案、山尾案を少し真剣に検討してみた結果、やっぱりもっと時間をかけた方がいいな、という気になったことを告白しておく。

来年は自動車と駐留米軍経費で日米ギクシャクか~貿易協定〈暫定〉合意の先に待つもの

9月25日、日米は貿易協定の締結に合意し、安倍総理とトランプ大統領がニューヨークで共同声明に署名した。報道ぶりはご大層なものだったが、「三文芝居を見させられているようだった」というのが私の感想である。

ミニ合意

今回の日米合意については、「日本政府はよくやった」という声もあれば、「トランプに押された」という批判もある。政治的には、安倍政権を支持する人は褒めるし、支持しない人はけなす。内容的には、トランプが突きつけた対米自動車輸出への関税引き上げを当面回避できたとみるか、TPPで合意していた自動車の関税引き下げを実現できなかったとみるかが評価の分かれ目となっている。

今回の合意を一言で言えば、日本が米国からの農畜産物をもっと買う(少なくとも、今買っている量を減らさない)ということに尽きる。その条件(関税)はTPP水準の範囲に収まっており、別に目新しいところはない。(正確に言えば、セーフガードを発動しない牛肉の輸入枠については新たに別枠をつくり、米国を特別扱いすることになった。)

今回の貿易協定についての米国側の報道ぶりは、「包括的な貿易協定の第一段階」という言い方で一致している。それはそうだろう。日本が最も恐れていた自動車に対する追加関税の発動は、先送りとなった。茂木外務大臣は追加関税を課さない旨、トランプが安倍に確認したと胸を張った。しかし、ライトハイザー通商代表は「現時点では」と釘を刺し、将来の追加関税に含みを残している。いずれにせよ、トランプの保証なんて詐欺師の保証みたいなもの。茂木の得意そうな顔は恥ずかしかった。

安倍とトランプのウィン・ウィン

共同記者会見の際に安倍は、今回の合意が日米双方にとって「ウィン・ウィン」だと述べた。図らずも、言い得て妙、である。

まずはトランプ。米中貿易交渉は長期化して先行き不透明になった。カナダ、メキシコとの間では新FTA(USMCA)を何とか締結したものの、民主党が多数を占める下院での批准に手間取り、いつ発効させられるかわからない。再選を狙うトランプとしては、支持基盤である米農家に現段階で何らかの実績を示したい。大統領権限で発効させられる日本(及びインド)との「ミニ」貿易協定を是が非でもまとめる必要があった。

一方の安倍。日米間の利害対立が表面化し、安倍が習近平のようにトランプの標的になれば、外交上手という評価は地に堕ち、安倍政権の求心力も急低下しかねない。10月からの消費税引き上げを控え、米中貿易戦争による悪影響に日米貿易摩擦が加われば、日本経済の先行きにますます暗雲が漂い、それこそ政権の命取りになりかねない。

目先の合意にすぎなかろうと、大した中身があろうがなかろうが、安倍とトランプにとって今回の日米合意がウィン・ウィンのディールだったことは間違いない。

日本の存在感低下

ミニと言われようと、先送りと批判されようと、日米の貿易協議がとりあえずまとまったことは事実だ。見通しのきかないまま、過激化の一途をたどる米中貿易戦争とはえらい違いである。しかし、前回のブログで述べたとおり、それは日米関係が良好だから、というわけではない。その背景にある最も大きな事実は、米国(と世界)にとって日本経済の存在感が大幅に低下したことだ。

今回の合意、「世界第一位と第三位の経済大国が結んだ貿易協定である」と言っても別に間違いではない。しかも、日本人は常に米国を中心に世界を見ているから、日米の貿易問題は一大事だと受け止める。だが、米国も同様の受け止めかと言うと、相当な温度差がある。

日米貿易摩擦が燃え盛った1980年代と今日では、米国の目に写る日本経済の大きさは、まったく異なっている。2018年、旧NAFTA締結国(カナダ、メキシコ)からの輸入が米国の総輸入に占める比率は26.2%だった。内訳はカナダからが12.5%、メキシコからが13.6%。単一の国ベースでは、中国からの輸入が21.2%で圧倒的に多い。一方、日本からの輸入は総輸入の5.6%。ASEAN全体の7.3%よりも小さい数字だった。

昔は違った。1989年に日本からの輸入が米国の輸入全体に占める比率は19.8%でトップ。ジャパン・アズ・ナンバーワンという言葉が流行し、やがては日本のGDPが米国のそれを凌駕すると多くの米国人が怖れていた。当時の米政府(レーガンから父ブッシュ政権)が日本に照準を定めたのも無理はなかった。

トランプが正面切って言うことはないだろうが、日本とのディールに本気で取り組むメリットは、それほど大きくないと考えるのが自然である。トランプは既にカナダ、メキシコと新協定(USMCA、ただし未批准)を締結したが、全体の2割以上を占める中国からの輸入をどうにかしないと、有権者への効果的なアピールにならない。

本丸=自動車と駐留米軍経費

先日合意が発表された——と言っても、まだ未署名だが——日米貿易協定により、日米関係は当座の小康状態を得ることになった。

しかし、日米貿易交渉の本丸は、今回先送りされた自動車分野だ。大統領イヤーの来年、トランプは日本のみならず、欧州や韓国も含め、米国が自動車を輸入する国々を叩きにくるはず。ロイターによれば、2017年の米国の自動車輸入は830万台で、メキシコが240万台、カナダが180万台、日本が170万台、韓国が93万台、ドイツが50万台となっている。トランプが本気なら、日本だけ特別扱い、ということにはならないだろう。

米中経済戦争ばかりが注目されているが、トランプのアメリカ・ファーストは同盟国にも、そして貿易以外の分野にも向けられている。特に、同盟国に対する防衛負担増はトランプにとって政治的に重要な公約だ。韓国は今年2月、今年度分の在韓米軍駐留経費負担を従来比8.2%増やすことに同意したが、トランプは来年以降も増額を求める構え。在日米軍駐留経費も聖域扱いされることはない。

ブルームバーグは今春、トランプ政権がドイツや日本などに対し、駐留経費全額プラス50%以上の支払いを求める方針だと伝えた。ボルトン大統領補佐官(安全保障担当、当時)に至っては、今年7月に来日した際、応対した日本側の担当者に「5倍増」を要求した、と朝日新聞が伝えている。

在日米軍駐留経費のうち、日本側が負担している比率は75%(2005年の米側試算)とも86%(2015年度の防衛省試算)とも言われる。実際にかかっている駐留経費以上を払え、というのだから、米側の要求は正気の沙汰とは思えない。だが、トランプにかかれば、狂気と正気の区別はなくなる。もちろん、交渉戦術として最初は大きな数字をふっかけておき、最終的には駐留経費の満額を同盟国に負担させれば上出来、と考えているのかもしれない。

いずれにせよ、我々にしてみれば、米軍駐留経費の満額を支払うなんぞ、冗談ではない。ナショナリスト・安倍晋三にとっても、駐留経費負担増額の受け入れは、沽券にかかわる問題のはずだ。

折悪く、現在の駐留経費負担協定の期限は2021年3月まで。次の5年分――期間は短縮される可能性もある——の交渉は、よりによって大統領選挙イヤーの来年、行わなければならない。

米中協議と大統領選がカギを握る

来年からかこの年末からか、日米交渉は上記2分野で本丸に入る。交渉のプロを自認するトランプのことだ、貿易交渉の枠組みの中で自動車とコメを絡めるといったチンケな戦術ではなく、自動車と在日米軍駐留経費をリンケージさせて日本政府を揺さぶる、くらいのことはいくらでもやってくるだろう。

今後の日米交渉はどうなるのか? 少し予想してみたい。

安倍総理にせよ、経産省、外務省、防衛相にせよ、米国との対立が表面化してでも守り切る、といった覚悟は持っていない。日本政府は米国に対して世界でも稀な腑抜けである。(一戦交える覚悟もなしに米国の虎の尾を踏んだ挙句、尻尾を巻いたのが鳩山由紀夫だった。)したがって日本政府の方は、従来のスタイルで何とか切り抜けたい、と思いながら交渉に臨むことになろう。

従来のスタイルとは、トランプの中で問題が大きくなる前に、トランプのご機嫌をとりながら小規模な譲歩を早めに見せ、日米交渉妥結が双方の政権にとってウィン・ウィンだと納得させる、というもの。問題は、来年という時期に、この2つのテーマで、それが通じるかだ。

可能性はゼロではない。古い数字だが、2004年に米国防総省が発表した数字では、米軍駐留経費のうち、日本の負担割合は74.5%と最大。韓国は40%、ドイツは32.6%にすぎなかった。日本はある意味、優等生だ。ある程度の負担増は仕方ないとしても、その伸び率は抑えられるはずだと日本側は期待しているかもしれない。

しかし、トランプを甘く見てはいけない。7月7日付のブログにも書いたが、トランプは6月29日にも「日米安保はアンフェア」と述べ、日本側を牽制した。駐留米軍経費をめぐる今後の交渉では、駐留経費交渉に日本の軍事的貢献や安保条約改定(日本による集団的自衛権行使の明記を含む)を絡めてくる可能性も十分あり得る。

私は、日米交渉の鍵を握るのは、今後の米中貿易交渉の行方と米大統領選の動向だと思っている。

今回、日米ミニ合意でトランプが手を打ったのは、来年の米大統領選で民主党候補に対して不利な予想が多い中、米中貿易交渉の先行きが見えないことが少なからず影響していた。これは既に述べた通り。

来年も米中貿易交渉がまとまらなければ、日本側は自動車や駐留経費の交渉で比較的小さな譲歩を示し、支持者向けに当座の成果を示したいトランプに高く売りつける余地が生じる。例えば、米国は鉄鋼・アルミニウムのように自動車輸入関税を広く引き上げるが、日本車については個別に適用除外されるケースを設けてもらう。あるいは、日本側の駐留経費負担は微増にとどめる一方、またぞろ米国からの大型武器購入を約束する、とか。

日本にとって最悪なのは、米中貿易交渉がとにもかくにもまとまり、それでも大統領選挙でトランプの苦戦が続く場合だろう。中国以外の標的として、日本たたきの優先順位が上がるかもしれない。焦るトランプがなりふり構わず日本に圧力をかけようとして、対日防衛コミットメントを揺るがすようなツイートを発信するようなことがあっても、私は驚かない。

今年は日韓関係の悪化が著しい年だった。来年は、今とても良いと言われている日米関係が外交上の焦点になる可能性がある。その影響は、日韓の比ではない。

 

それにつけても、日本外交は米国に対する「その場しのぎ」外交をいつまで続けるつもりなのだろうか? トランプが再選されても、別の大統領が生まれても、日米関係が劇的によくなることはもうない。永遠にその場しのぎ、というのは御免こうむりたい。

今日の日米関係は「良い」のか? 

中国は貿易戦争を仕掛けられ、EUは今月中にも報復関税を発動されることになった。メキシコやカナダはNAFTAの大幅改訂を飲まされた。それに比べれば、トランプの対日圧力はまだ「優しい」方だ、と感じている日本人は決して少なくあるまい。925日に日米が貿易協定の締結に合意したことを受け、「今日の日米関係はまあまあ良いんじゃないか」という思いを強くした人もいるだろう。

だが、ちょっと待ってほしい。日本が圧力を受けていないのならともかく、日本に対する圧力が他国に対するものほどきつくないことを理由に「日米関係は良好である」という結論に至るのは、まともな思考でははない。

「今日の日米関係は史上最強」説

政府・与党やメディアの多くは、現在の日米関係を「非常に良好」と表現する。今年5月にトランプが来日した際も、安倍は「親密な個人的信頼関係により、日米同盟のきずなは揺るぎようがない」と胸を張った。外務省のホームページに至っては、9月25日に行われた日米首脳会談で両首脳が「日米同盟が史上かつてなく強固であるとの認識を再確認」した、とまで書いてある。

米中の貿易戦争は今や投資の分野にまで拡大しつつあり、着地点が見えない。トランプはカナダ、メキシコ、欧州などの同盟国首脳をも口汚い言葉で罵り、従来考えられなかったような要求を突きつけては様々な二国間関係にストレスを生じさせている。

こうしたアメリカ・ファーストの姿勢は日本にも向けられている。今回の日米貿易協定もその反映だ。しかし、トランプの要求リストの本丸部分(自動車)について、日本は交渉の先送りを許された。安倍に向けられてきたトランプの言葉(ツイッターを含む)も、イスラエルを除く他国首脳に対するものと比べれば、明らかにゆるい。その意味では、今日の日米関係を良好と呼ぼうと思えば、呼べないことはない。

だが、今日の日米関係を良好と呼ぶのは、やっぱり何かしっくりこない。その理由をはっきりさせるため、21世紀に入ってからの日米関係を時系列でごく簡単に振り返ってみたい。

21世紀の日米関係を振り返る

〈小泉―ブッシュ時代〉

この時代の日米関係は、確かに良好だったと言える。

外交安全保障面では、9.11を受けて対テロ戦争の遂行を推進した米国に対して、小泉政権は自衛隊をインド洋(アフガン戦争)やサモア(イラク戦争)に派遣し、目に見える貢献を行った。自衛隊は前線に出て戦ったわけではないが、湾岸戦争で「トゥーリトル、トゥーレイト」「キャッシュ・ディスペンサー」と揶揄された日本とは大違いだった。

経済面でも、日本脅威論が喧伝され、1980年代のように日米貿易摩擦が燃え盛った時代はもう過去のものだった。バブル崩壊後の「失われた10年(←その後も続いた)」を経て日本経済の相対的地位が低下した一方、双子の赤字に苦しんでいた米国は、冷戦終結に伴う平和の配当とIT経済の急速な伸長によって経済大国としての自信を取り戻していたのである。

小泉とブッシュの個人的関係も良かった。二人のケミストリーが合っていたことはつとに有名である。小泉のカウンターパートがオバマやトランプであったなら、ここまで緊密な関係とはならなかったに違いない。ジャック・シラク(仏大統領)やゲアハルト・シュレーダー(独首相)はブッシュの単独行動主義をきびしく批判していた。ブッシュにとって、トニー・ブレア(英首相)と小泉純一郎は、単に気があるだけでなく、外交の世界における盟友でもあった。

〈政権交代前〉

小泉は2006年9月に首相を退任する。その後の3年間で首相を務めた安倍晋三(第一次)、福田康夫、麻生太郎の下でも、日米関係の基本は変わっていない。

ただし、2007年の参院選以降、「ねじれ国会」の状況によって日本政府は日米間の約束事を円滑に遂行することができなくなった。福田内閣はテロ特措法の更新に失敗し、インド洋で自衛隊が行っていた米軍艦船への給油活動は3か月以上中断した。ブッシュの方も政権2期目の後半では支持率が低迷し、レイムダック状態に陥った。

小泉以後の3人の日本の首相とブッシュの間に緊密な関係が生まれることもなかった。日本側の首相はほぼ一年おきに交代したうえ、ブッシュとの間でケミストリーが一致する性格の持ち主もいなかったためだ。

〈民主党政権時代〉

2009年1月に米国ではオバマ大統領が就任した。同年8月末に行われた総選挙の結果、日本では2012年12月まで民主党が政権を担うことになる。

民主党は選挙時のマニフェストで、地位協定の改定、普天間代替施設の再検討、駐留米軍経費の削減、東アジア共同体の創設などを訴えていた。こうした対米自立路線が日米同盟に緊張をもたらしたことは言うまでもない。特に、鳩山由紀夫総理が普天間代替基地の辺野古移設案を見直して「最低でも県外」を実現しようとしたことは、日米関係を一気に冷え込ませた。加えて、民主党政権の統治能力欠如が日本政府に対するオバマ政権の不信感を増幅した。

その後、菅直人、野田佳彦の両総理はマニフェストで掲げた対米政策を事実上、封印した。鳩山の躓きに懲りたことが直接の理由だが、2010年秋の尖閣船長事件やメドベージェフ露大統領による国後島訪問など、中国やロシアとの間で緊張が高まったことも彼らの背中を押した。しかし、民主党政権に対するオバマ政権の態度は最後まで醒めたままだった。

民主党政権の3人の首相とオバマ大統領の間に個人的信頼関係が築かれることもなかった。日本側にも問題があったのは事実だが、オバマ自身も外国首脳と個人的に親しくなるような性格ではなかった。

〈安倍―オバマ時代〉

2012年12月の総選挙で安倍・自民党が政権に返り咲く。

安倍は日米関係の立て直しを唱え、米側もそれを歓迎した。中国の軍事的台頭が顕在化する中、オバマ政権は(少なくとも公式には)アジアへのリバランス戦略を打ち出していたからだ。とは言え、「米国は世界の警察官ではない」と表明したオバマの米国は、国際秩序に積極的に関わるよりも内政を重視する傾向が顕著だった。また、安倍内閣の歴史認識や靖国参拝に対する態度はオバマ政権にとって不快かつ危険なものと映っていた。

経済面ではオバマ政権がイニシアチブをとったTPPに日本政府も乗り、共に自由貿易を推進しようとした。2018年3月にはTPP11協定の署名に漕ぎつけている。

安倍とオバマの個人的関係は緊密と呼べるものではなかった。オバマは実務的な人間だったし、右翼的志向を持つ安倍と基本的にはリベラルなオバマの相性が良いわけもなかった。

〈安倍―トランプ時代〉

2017年1月、ドナルド・トランプが米大統領に就任する。

トランプはアメリカ・ファーストを掲げ、中国のみならず、同盟国との間でも摩擦を起こすことを厭わない。現在までのところ、日本はトランプを持ち上げ、米国からの武器調達など早期にトランプの要求に応じることによって、トランプの標的となることから免れてきた。

ただし、トランプ政権は日本に対して在日米軍駐留経費の大幅増――ボルトン大統領補佐官(当時)は来日時に5倍増を吹っかけた――を要求している。北朝鮮に対しても、2018年春までは米朝間に軍事衝突を起こしかねないほど緊張を高めて日本側の懸念を高めていたが、今は北朝鮮が中距離以下のミサイル開発を進めるのを問題視しなくなり、別の意味で日本側を心配させている。客観的に見れば、安全保障面で日米同盟の平仄が合っているとはとても言えない。国際秩序に対するトランプ政権の軍事的なコミットメントも、(オバマがやらなかった)シリア空爆に踏み切った以外は概して消極的である。

トランプは経済面でも日米関係は緊張を持ち込んだ。トランプは就任するやTPPからの脱退を表明。二国間でより米国に有利な貿易協定を結ぼうと画策してきた。

安倍とトランプの個人的関係は、表向き良好ということになっている。だが、二人の間に盟友関係と呼ぶような強い紐帯があるのかは疑問だ。ただし、中国だけでなく多くの同盟国の首脳と仲が悪いトランプにとって、安倍は「仲間」を演出できる数少ない首脳の一人。安倍もトランプとの良好な関係をアピールすることによって米国の要求を値切ろうとしているように見える。二人はお互いに相手のことを「利用するのに都合のよい人物」と考えているのではないか。

 

こうして時系列で見ると、今日の日米関係が良好であるとはとても言えない。日米双方が――安倍もトランプも、両国の官僚たちも――同盟関係の綻びが表面化しないよう画策し、それが比較的うまくいっているだけの話だ。今日の日米関係を良好と呼ぶのに抵抗を感じるのは、当然のことであった。

日米関係はトランプ大統領の誕生によって変質したというわけでもない。米国が内向きになる兆候はオバマの時代から既に顕著だった。来年の大統領選挙でトランプが再選されなくても日米関係が元に戻ることはもうない、と思っておくべきだ。

徴用工問題は仲裁委員会で政治決着を図るのが上策

9月3日9月8日の2回にわたり、徴用工問題をめぐる日韓関係について議論してきた。
日韓関係のもつれた糸をほぐそうとしても、日韓関係の現状は双方があまりに憎みあいすぎている。日韓が緊張緩和に向けた話し合いを今すぐに始めることは、なかなか期待できない。

それでも将来、日韓関係を改善しようと思えば、慰安婦問題と徴用工問題に何らかのケリをつけることが必要になる。特に、徴用工問題はどうしても避けて通れない。

形式から見た時、徴用工問題を決着させるには、①日韓二国間交渉による合意、②国際法廷での裁判、③日韓請求権協定に基づく仲裁委員会の裁定、という三つの方法がある。いずれも針の穴に糸を通すようなむずかしい話だ。しかし、最も現実的かつ意味のある解決となるのは、仲裁委員会を使うやり方であろう。

二国間交渉は解決につながらない

慰安婦に関しては、2011年に韓国大法院が韓国政府の無作為を咎める判決を下した。その後、2015年に安倍と朴槿恵の間で妥協が成立したが、文在寅によって一方的に反故にされたという経緯もある。
したがって、韓国政府が今後日本に再交渉を求めてきても、日本政府には「無視する」という選択肢がある。日韓関係に棘は残るが、慰安婦問題で在韓日本企業に賠償させることはできない。日本側が無理に動かなくても、目立った実害は出ない。

徴用工の方は、在韓日本企業に賠償責任を認めた韓国大法院の判決で出ており、このままでは実害が出る。今後、訴えられる在韓日本企業の数が増える可能性もある。
日本としては、この問題にケリがつかない限り、手打ちはできない。

1965年の請求権協定によって韓国国内の賠償については韓国政府が責任を持つと合意したのだから、韓国政府は約束を守れーー。これが日本政府の主張だ。
だが、韓国にも三権分立の建前がある。判決が出る前ならまだやりようがあったかもしれない。大法院の判決が確定した後、政府がそれを覆すというのは、文在寅政権でなくても無茶な話ではある。

それでも何らかの政治決着が図られるとすれば、日本政府や関係企業も一部資金負担して基金をつくり、日韓両国政府が共同して賠償に当たる、というような枠組みが考えられる。

とは言え、韓国政府が日本企業の負担を一部でも分担するということになれば、韓国世論は激高し、政権は崩壊しかねない。ましてや、文たちは反日の虜と言っても過言ではない。日本との表立った妥協など、考えたくもないだろう。

仮に日韓の間に妥協が成立し、日本国民の税金を一部でも使うことになれば、「日韓請求権協定で決着済み」という従来の日本政府の主張と矛盾する。国内(特に右寄りの人々)の説得が紛糾することは容易に想像がつく。

「両国政府が交渉を通じて妥協案に合意する」というスキームには、もう一つ大きな問題がある。苦労して合意しても、将来、韓国側にちゃぶ台返しを食らう可能性が――決して低くない可能性が――あることだ。
慰安婦問題も、村山談話とアジア女性基金、2015年の日韓合意など、何度も政府間で決着したと思ったにもかかわらず、蒸し返されてきたのが現実。徴用工問題についても、韓国政府は長年「日韓請求権協定で決着済み」と同意していたはずだが、手のひらを返した。

日本国民の間では、「韓国と何かに合意しても無意味。どうせまた、裏切られる」という絶望的なウンザリ感が共有されている。これは、政治家、官僚、国民のすべてのレベルで、右だろうと左だろうと、安倍政権を支持していようと支持していまいと、あてはまる。現時点で日本側に、韓国政府と交渉しようというエネルギーは湧きそうもない。

結論として、日韓二国間協議による解決は、無理かつ無意味ということになる。

国際司法裁判所という劇薬

当事者同士で有効な結論に達することができない場合、国内であれば次の選択肢は「出るところへ出る」こと。国際社会でその役割を担うのは、国際司法裁判所(ICJ)である。

国際法廷に委ねれば、いかなる判決が出ようと、日韓両国はそれに従うと期待してよい。(韓国については一抹の不安がないわけではないが、国際社会が韓国を支持しないことは明白だ。)
国際司法裁判所という第三者によって「譲歩させられる」という形をとるため、日韓両国政府国内的に言い訳をしやすい、というメリットもある。

国際司法裁判所は、1920年に国際連盟が創設した常設国際司法裁判所を前身とし、国連憲章(第14章第92~96条)に基づいて1945年に設置された国連傘下の常設の司法機関。裁判所はオランダのハーグに置かれ、国連総会と安全保障理事会の投票によって選ばれた15人の判事によって構成される。判事の経歴は、外務省の法律顧問、国際法の教授、大使や裁判官の経験者などが多い。同一の国から二人以上の判事が選ばれることは禁止されている。

ただし、徴用工問題を国際司法裁判所で裁くことについては、二点、押さえておかなければならないことがある。

1.  合意付託できるか

一つは、日本が望むだけでは、裁判が始まらないことだ。国内の裁判であれば、一方が他方を訴えれば、基本的には裁判が始まる。しかし、国際司法裁判はそうではない。制度的な詳しい説明は省略するが、徴用工問題を国際司法裁判所で争うためには、日韓が本件を国際司法裁判所へ付託することに合意し、その旨を記した特別合意書をハーグ法廷へ提出することが必要になる。

日本政府は戦後、領土問題を解決するために国際司法裁判所を利用しようとしたことが何度かある。韓国に対しては1954年、1962年、2012年の三回にわたって竹島の領有権問題を国際司法裁判所へ共同付託(合意付託)するよう提案した。ソ連に対しても、1972年に北方領土に関する共同付託を申し入れたことがある。しかし、いずれも韓国とソ連が拒否したため、国際法廷は開かれなかった。

昨年、徴用工問題で大法院判決が下ったことを受け、日本政府は国際司法裁判所への提訴(単独付託)も検討していると言われる。

相手国の同意がなくても、係争当事国の片方がハーグ法廷に訴え出ること自体はできる。その後、訴えられた方が自発的に付託に応じれば、裁判は始まる。ただし、そのようなケースは極めて稀だ。

特に、韓国は面子を重んじる国。単独付託され、後からそれに応じることは、まず考えられない。日本が単独提訴しても、「憂さ晴らし」にしかならない。韓国に下記の仲裁委員会設置を呑ませるためのカードの一つと位置付け、軽はずみなことはしないことだ。

国際司法裁判所で徴用工問題を実際に審理させたいのなら、事前に韓国と話し合って「合意付託」に持ち込むしかない。そのハードルは非常に高いが、モデル・ケースは存在する。

シンガポールの東方、マレーシアの南東方向の海上に三つの岩礁がある。その一つ、ペドラ・ブランカ島(マレーシア名はバトゥプテ島)は19世紀に英国が灯台を建て、その後はシンガポールが管理してきた。しかし、1979年にマレーシアがこれら三つの岩礁の領有権を主張し始め、その帰属問題は両国間で争いの種となった。
長年の交渉の末、両国はこの問題の解決を国際司法裁判所に委ねるという特別協定に調印し、2005年にハーグ法廷へ提訴した。2008年に国際司法裁判所の出した判決は、ペドラ・ブランカ島についてはシンガポール、その南方の岩礁についてはマレーシアの主権を認める一方、最南端の岩礁については周囲の海域を領海とする国(シンガポール、マレーシアに加え、インドネシアも絡む可能性がある)の領有という表現で先送りにした。シンガポール政府とマレーシア政府はそれぞれ、不満を述べつつも判決を受け入れた。

とは言え、韓国政府が徴用工問題で合意付託に応じるということは、大法院(最高裁)で勝訴が確定しているのに、わざわざ判決が覆るリスクを冒すということを意味する。それだけでも、韓国世論から売国的だと非難されかねない。ハードルが高いことに変わりはない。

2.  勝てないかもしれない

徴用工問題を国際司法裁判所で解決する場合、もう一つの注意点は、日本が勝てるか否か、見通せないことだ。

日本政府の主張は、1965年に締結した日韓請求権協定で解決済み、というもの。無償(3億ドル)・有償(2億ドル)援助等を行い、韓国の個人分については韓国政府が責任を持つ約束だったのに、反故にされたと韓国政府を批判している。
国家間で戦時の賠償問題が片付いても、個人による旧敵国への賠償請求権は残る、という考え方が国際法解釈の主流だ。韓国の個人分の補償については韓国政府が責任を持ち、日本政府はその分を含めて韓国に援助を行ったという主張が、どの程度通るのか。韓国側が人権問題を絡めてお得意のロビイングを仕掛けることを含め、日本に不利な判決が出る要素は、少なからずある。

2014年3月、オーストラリアとニュージーランドが南極海における日本の調査捕鯨を国際法違反だと提訴した裁判について、国際司法裁判所は「このままの形で捕鯨の許可を与えることはできない」という判決を下した。判決を受け、日本は南極海での調査捕鯨を中止せした。判決が出るまで、外務省は「絶対に勝てる」と楽観していたと言う。

国際司法裁判所ではないが、韓国が原発事故後、福島県などからの水産物輸入を禁止している問題について、今年4月、世界貿易機関(WTO)の上級委員会(第2審)は、韓国に是正を求めた小委員会(第1審)の判断を取り消す裁決を下した。この時も、外務省や農水省は「勝てる」と思っていたらしい。

負けるかもしれない、というリスクがあるのは、韓国にもあてはまる。
しかも、現状の大法院判決は韓国に有利なものだ。日本側は国際司法裁判所で負けても、「ダメ元」と言えなくもない。だが、韓国政府の場合は、国際司法裁判所で負ければ、文字通り洒落にならない。

国際司法裁判の場合、政治的な配慮よりも、法解釈の議論に基づいて判決が下される。その結果、負けた方にとっては、極めてきびしい結果になる可能性がある。
例えば、元徴用工への賠償責任は韓国政府にある、という判決が下れば、(日本側にとっては当然の判決であっても)韓国の政治は大混乱に陥るだろう。逆に、日本政府は元徴用工への賠償責任を幅広く負うべし、という判決であれば、賠償金額や対象となる人数は膨れ上がりかねない。

日韓双方の政治指導者がこうした不透明性を呑み込み、文字通り政治生命をかけて取り組むことができるのか? 両国の政治や世論はついてこられるのか?
そう考えると、国際司法裁判所における解決、というオプションも現実味は薄いか。

落としどころは仲裁委員会

日韓請求権協定には、両国の間に意見の相違が生じたときの紛争解決手段について、第3条に定めがある。
すなわち、日韓の間でまずは協議を通じて解決をめざす。それが駄目な場合は、日韓各1名と日韓が同意する日韓以外の1名(または日韓が同意する第三国の指名する1名)からなる仲裁委員会を設置し、案件を付託する。両国は仲裁委員会の決定に服さなければならない。

昨年、徴用工判決が出たあと、日本政府は韓国に外交協議を申し入れ、さらに仲裁委員会の設置を求めた。しかし、韓国政府が事実上拒否したため、設置は叶わなかった。

だが、仲裁委員会による解決には無視できないメリットがある。一度断られたからと言って諦めるのはもったいない。仲裁委員会による解決のメリットは二つ。

一つは、条約(国際協定)に基づくものであり、第三国(第三者)も関与する仕組みであるため、結論が出れば、韓国も決定に従わなければならないこと。ちゃぶ台返しはまずないと思ってよい。(ただし、仲裁委員会の設置まで行っても、結論が出ないケースはあり得る。)

二つめは、仲裁委員会とは言ってもベースにあるのは二国間協議であるため、日本または韓国が国内的にどうしても受け入れられないような決定には至らないこと。つまり、国際司法裁判所の判決よりも、日韓の間で一種の「引き分け」を実現させられる可能性が高い。

両国間に最低限の信頼関係もないまま、仲裁の「着地点」について下打ち合わせもしないまま、出たところ勝負のように仲裁委員会の設置を提案しても、韓国が受けるはずはない。水面下で日韓が妥協できる大体のラインを双方がイメージできてはじめて、仲裁委員会設置の可能性が出てくる。

私が抱く仲裁案のイメージは、先に二国間交渉の項で述べたようなものだ。日本の完勝は韓国が受け入れるはずがなく、韓国の完勝は日本が受け入れられない。そうであれば、着地できる範囲は誰が考えてもあまり広くない。

冷え切った日韓の間を取り持つよう、第三国――仲裁委員会が設置されれば、仲裁委員を出すことになる可能性が高い――に依頼することも重要になる。いや、もしかしたら、これが成否の鍵を握るかもしれない。

第三国として誰もが最初に思い浮かべるのは、日韓双方の同盟国である米国だろう。私もそれを否定するものではない。
ただし、今の「トランプのアメリカ」がよいかどうかは慎重に考えた方がよい。トランプが「善意の第三者」として振舞うかどうかに確証が持てないためだ。安倍とトランプの関係を韓国がどう見るか、ということもある。
もう一つ。米国に仲介役を頼めば、「米国というお目付け役のもとで日韓が協議させられている」という構図になってしまう。別な意味でこれは嫌だな。

中国に仲介役を頼む、というウルトラCも頭の体操としては面白い。だが、中国は韓国と同じく徴用工問題を抱える国だ。日本の国内世論が中国を仲介役として受け入れることに抵抗感を持つであろうことも障害になる。賢明ではあるまい。

とは言え、米国は「日米韓」、中国は「日中韓」という日韓を含んだトライラテラルな枠組みを持っている。日本との新ディール協議に入るよう、米国と中国から韓国へ働きかけてもらうことはとても意味がある。

ここは「近隣でない小国」という線で、過去に国際紛争の仲介役として実績を持つ国にあたってみてはどうか? いずれにせよ、日本外交の日頃の「交際力」が試される。外務省にはこういう時にいい仕事をしてもらいたいものだ。

 

安倍政権と文在寅政権の相互憎悪を考えれば、少なくともいずれかの国で指導者が交代しない限り、日韓が仲裁委員会の設置を含め、何らかの妥協策に合意できる可能性はないかもしれない。(理屈の上では、別な見方もできないわけではない。日韓が何らかの妥協案に到達した場合、それぞれの政府が国内世論を納得させる上では、「右寄りで政権基盤の磐石である安倍」と「左寄りで支持率の比較的高い文」の組み合わせは理想的なものである。)

国力の接近した日韓がナショナリズムを制御し、歴史問題を克服することは、生半可なことではできない。日韓の指導者は、冷静に自国の国益とは何かを理解し、文字通り政治生命をかけてこの難問に取り組むべきだ。さもなければ、日韓のルーズ・ルーズ・ゲームはいつまでも続く。

参議院選挙が思い知らせた「選挙における政策論争の消滅」

7月21日(日)に参議院選挙が行われた。各党の議席数は報道されているとおりである。とても醒めた言い方になるが、れいわ新選組やNHKを国民から守る党が議席を獲得したことを含め、あまり驚きのない結果であった。

各党の勢いを見るため、今回の参院選と前回(2017年10月)の衆議院選で主要政党が獲得した得票率を並べてみよう。

〈主要政党の比例得票率〉 (単位%)

自民 公明 立憲 維新 希望 国民 共産 れ新
前回

衆院選

33.3 12.5 19.9 6.1 17.4 7.9
今回

参院選

35.4 13.1 15.8 9.8 7 9 4.6

絶対的な得票数は落ちていても、与党は得票率を増やしている。自民は35%で野党第一党の立憲に対してダブル・スコア以上の大差をつけた。自公の合計は48%超。半分を切っているという見方もできるが、やっぱり強い。

一方、立憲民主は2年前から得票率を落とし、党勢にブレーキがかかっていることを窺わせる。2年前の支持層の一部は山本太郎のれいわ新選組に流れたのかもしれない。だが、前回衆院選で自公や希望に行った票――総投票数の約63%に及ぶ――をこの2年間、ほとんど取り込めていないという現実の方が深刻だ。せめて2割近くを握っていないと、立憲が野党の核になることも、野党全体で与党に対抗することも望めない。

維新の会は小躍進した。この春に仕掛けた大阪府知事と大阪市長のスライド選挙という賭けが吉と出て、関西圏(及び首都圏)で久しぶりに風が吹いた、というところだ。

現状、野党に国民の支持が大きく集まる気配は見られない。政権交代はおろか、与野党がある程度伯仲して政権運営に緊張感をもたらすこともむずかしい――。それが偽らざる感想だ。

さて、今回の参議院選挙ほど、政策的争点のない選挙はなかった。だが私は、それを「野党がだらしないから」と簡単に言うべきではないと思う。国民に語るべき大きな政策を持たない点においては、与党も五十歩百歩だからである。素性の知れない人物の唱える「NHK放送のスクランブル化」というニッチな公約が一番目立った、という情けない事実がそのことを如実に示している。

このブログでは、国民の関心が高かった経済(景気)と社会保障の分野において、参議院選挙を通じて各党がどのような政策を公約したか、少し復習してみたい。

経済政策

今回の参議院選挙の最大の争点は、10月に予定されている消費税率引き上げの是非だという見方が事前には強かった。確かにテレビの討論番組などでは司会者がこの問題を提起してはいた。しかし、多くの有権者がそれによって投票行動を決したとは思えない。その理由はいくつかある。

一つは、現在の政治状況からくる諦観。今日、衆参では与党が圧倒的多数を占めている。選挙前の世論調査でも自民党の支持率が4割前後なのに対し、野党第一党の支持率は10%以下。自民党には公明党(創価学会)という選挙上最強の後ろ盾もついている。しかも、小選挙区の衆議院ならともかく、中選挙区的な要素の混じり、半数しか改選されない参議院選挙では、政権交代や衆参の捻じれが実現することはありえない。

もう一つは、国民の意見が分かれていること。世論調査では、国民の半数近くが消費税率引き上げに反対と答える一方、賛成という国民も常に4割近くいる。反対と答えた国民でさえ、少子高齢化が止まらない中、社会保障や教育・子育て政策に充てるため、消費税率引き上げが必要だと言われれば、「消費税が上がるのは嫌だけど、仕方がない」と思う者が少なくない。他所の国ではどうか知らないが、日本人には真面目な人間が多いのだ。

次に、経済政策として争点となり得たアベノミクスはどうだったか?

安倍の政権復帰から6年経った今、アベノミクスはメッキの剥がれが相当目立ってきている。安倍政権はこれまで、株価など良好な指標のみを宣伝し、民主党政権の致命的なまでのガバナンスの悪さを思い起こさせることでアベノミクスの優位性を喧伝してきた。だが、安倍政権下で日本経済の平均成長率は+1.15%にすぎない。IMFの予測によれば、今年の経済成長率は+0.9%、来年も+0.4%と今後も低水準が続く。「悪夢の民主党政権」の3年間、東日本大震災を経験したにもかかわらず、日本経済が平均して年率+1.87%で成長した。国民もさすがに「アベノミクスも言うほどの成功ではない」と気づき始めている。

ところが、野党の側はアベノミクスを批判するだけで、対案を示せない状態が何年も続いている。特に、野党第一党の立憲民主党に骨太な経済政策が見あたらないのはつらい。

もっとも、野党にも(与党にも)同情すべき部分はある。人口減少が続く日本で、経済政策の妙案がおいそれと見つかるわけはないのだ。立憲民主などは、経済音痴であることを認めて開き直ればよいのに、と思う。「経済運営は政権交代しても基本的に変えない。低金利政策と財政出動は基本的に継続する」と言っておけば、経済界や多くの労働者は安心する。旧民主党政権も東日本大震災を受けて財政出動は十分にしていた。日銀が超低金利政策に転じたのも野田政権末期のことだった。経済政策は自公を引き継ぐことにして、それ以外の政策で与党と差別化を図る、というのも選挙戦略としてはありえるんじゃないかね?

立憲以外にも少し目を向けてみようか。維新は相変わらず、お題目みたいに規制緩和と言うだけ。昭和末期から平成初期に流行った議論だが、ある程度の経済成長を実現するには線が細い。国民民主は今回、高速道路千円、家賃補助、児童手当増額など、積極財政政策に舵を切った。こども国債という名目で現代貨幣理論(MMT)に乗ったようにも見える。ただし、選挙戦を通じてこうした政策が注目されることはまったくなかった。この党は政策以前に党としての信頼性獲得が課題かな? 共産党の経済政策は、アンチ・ビジネスと低所得者偏重が過ぎるので論評しないでおこう。

年金政策

もう一つの大きなテーマになると思われた年金政策はどうだったか?

参院選の直前、金融庁の審議会が「老後、公的年金だけでは足りないから2000万円の貯蓄が必要」というレポートを出し、選挙への悪影響を恐れた政府が受け取りを拒否するという珍事件が起きた。政府は「年金は百年安心」と言ってきた(と思われてきた)ため、国民の政権不信が一気に高まった。ある野党の政治家は「神風が吹いた」と喜んだそうだ。

しかし、結果的に神風はそよ風程度のものだった。野党はここでも対案を出せなかった。例は良くないが、イギリスのブレグシットも、「EUはけしからん」だけなら国民投票にたどりつくことはなかった。「EU残留」と「EU離脱」という2つの選択肢が示されてはじめて、国論を二分する一大争点になった。年金も選択肢が複数なければ論争にならない。

確かに、年金というテーマに国民の関心は非常に高い。しかし、国民の大多数を喜ばせ、納得させられる解決策は存在しない。誰だって、支給開始年齢は今のまま、支給額が増えるのがいいに決まっている。そして誰だって、保険料負担や消費税が上がるのは嫌だ。この2つの矛盾を解決するには、高齢化の進展以上の速度で労働力人口が増え続けるか、給料が上がり続けるしかない。それができたのは高度成長期のみであり、今はもう不可能だ。

結局、各党の提示しうる年金政策は、年金制度をやめないかぎり、

    1. 年金支給年齢の引き上げや年金支給額を減らしながら、現行制度を続ける
    2. 年金支給額を維持・増加するため、保険料や消費税率を引き上げる

のいずれかとならざるをえない。(それ以外にも、財政赤字を増やしてでも少子化対策を打つとか、移民を大幅に増やすと言った選択肢も考えられるが、今回は深入りしない。)

自公は①を称して「100年安心」と言っている。決して、現行の年金支給水準が100年続く、という意味ではない。給付水準を下げれば制度が維持されるのは当たり前。だから、嘘とは言い切れない。だが、国民が誤解するに任せていたのは「ズルい」話だ。ちなみに、金融庁の報告書が「2000万円必要」と言ったのは、①を前提にしたギリギリの生活が嫌だったらお金を貯めておいた方がいいですよ、という意味とも読める。

一方、年金の支給額が不十分だ、という野党の主張を政策にしようと思えば、②の方向へ行かざるをえない。ところが野党は、10月の消費税率引き上げにすら反対している。国民の負担増を公約として打ち出すことなど論外だ。勢い、その年金政策は曖昧となり、選挙戦の最中も政府・与党の隠蔽体質を批判するにとどまった。(公平を期すために言うと、野党は低年金者対策の充実についてはこの選挙で具体策を示していた。しかし、わずかの金額であるうえ、正当に保険料を支払った大多数の国民には関係がない話であったため、争点になることがなかったのも当然である。)

野党の参院選公約を見ると、立憲民主は最低保障機能の強化を謳っている。低年金者の給付額を上げるのだろうが、低年金者とそうでない人の線をどこで引くのか、受給額をいくらにするのかといった具体的な制度設計は示されていない。そこの議論に入れば、必要な財源と消費税率の引き上げ幅が表に出るためであろう。しかし、「最低保障機能の強化」だけ言われても国民は政策とは受け止めない。

一方、維新が提案しているのは積み立て方式の導入だ。一見魅力的に聞こえるが、既に何十年も賦課方式でやってきているため、新方式への切り替えには膨大な財源が必要になる。維新もそこについては口を閉ざしたままである。

私は、野党が公約で細かく財源を示す必要は全然ないと思っている。しかし、こと年金に関しては、そういうわけにはいかない。野党が年金の充実を公約するのなら、負担増についても説明すべきだ。ブレグジットの国民投票の際、離脱派は「EUから離脱すれば拠出金がなくなり、英国の社会保障に毎週(←毎年ではない)500億円使えるようになる」という主張――もちろん嘘だ――を展開し、多くの人がそれを信じた。日本でそんなことはやめてもらいたい。

ここからは少し脱線する。

上述した2つの年金政策は年金制度の存続を前提にしたものである。だが将来的には、「老後は自助努力で支える。その代わり、保険料も支払わない」という考え方に立ち、年金制度の廃止を掲げる政党が現れても驚くべきではない。年金保険料を一定期間以上支払った世代にとって年金廃止は損な話になるため、多数派を占めることはさすがに無理だろう。しかし、若い世代にとって今の年金制度は年寄り世代を支えるためのアンフェアな「持ち出し」にほかならない。シングル・イッシュー・パーティとして若者にターゲットを絞れば、複数議席の獲得は十分可能だと思う。

その結果、将来の日本の年金制度改革が、負担増による給付増(または給付維持)という方向に進むのではなく、負担減と給付減――足りない部分は自助努力で補う前提である――という方向に向かう可能性も出てくるのではないか。自助を強調する考え方は自民党の理念とも親和性が高い。そんな状況になったら、野党はどうするんだろうか?

今後の展開~有志連合と補正予算

参議院選挙が終わり、来週には臨時国会が開かれる。だが、これは参議院議長を選ぶための短期間。その後、秋に開かれるであろう臨時国会では、どのような政策が議論されることになるのだろうか? 少しばかり予想してみよう。

まず、マスコミが騒ぐ憲法改正はどうか? 安倍総理が何をやりたいのか、正直言って私にはよくわからない。自民党は4項目の改憲案を決めているが、選挙戦の最中、憲法のどこをどう変える、ということを安倍が力説したという印象はない。安倍が言っていたのは、憲法を変えたい、ということだけだった。しかも、選挙が終わった途端、自民党の案にはこだわらない、と言い出す始末だ。結局、安倍がほしいのは「はじめて憲法を改正した総理大臣」という名誉なのであろう。

そのうえで言えば、国民投票法の改正で野党に譲歩したうえで、野党を分断して憲法改正の土俵に引きずり込む、というのが最も考えられる安倍の改憲戦術ではないか。ただし、安倍は憲法改正の前にトランプが要求しているペルシャ湾の有志連合について、対応を決めなければならない。その分、改憲のスケジュールは後ろに倒れるだろう。

では、ペルシャ湾の有志連合に日本政府はどう対応するのか? 米国が期待しているようなことを自衛隊にさせるためには、新法の制定のみならず、9条解釈の再変更が必要となりかねない。仮に現行法で対応しようとすれば、ペルシャ湾の事態を存立危機事態と認定しなければならない。だが、今の時代にオイル・ショックが再現するようなシナリオには無理がありすぎる。

日本のタンカーが沈められて日本が当事者になってしまえば別だが、ペルシャ湾を理由に新法を通すのはなかなか骨の折れる仕事になる。今の危機は、イラン核合意からの離脱をはじめ、トランプの側にも責任があることは事実だ。「日本はトランプのマッチ・ポンプに付き合って自衛隊を派遣するのか?」という批判が出てくることも避けられない。解散・総選挙を視野に入れた時も、具合がよろしくないだろう。

加えて、安倍晋三は本来的に親米主義者というよりもナショナリストである、という要素についても考える必要がある。(ここで詳しくは述べないが、私は安倍の親米は本心からくるものではないと思っている。)安倍が「米国に付き合ってペルシャ湾くんだりで自衛隊員の血を流してもよい」と考えるかどうか? はっきり見えてこない。

次に、経済政策はどうか? ポイントは3つある。

一つ目は、この夏、米国との貿易協議がどう決着するか。程々の線で妥協して双方が自賛できればよし。ひどい譲歩を呑まされれば、安倍の解散戦略に制約が強まる。呑まないで交渉が長引けば、トランプが何をツィートするかわからず、それはそれで安倍にとって爆弾になる。

二つ目は、日本の景気動向全般に対しては、米中貿易・技術戦争の行方がから目が離せない。ただし、これは安倍政権が当事者能力を発揮できる問題ではない。日本政府に米中の仲介役が務まるとも思えない。まさに見守るしかないだろう。

三つ目にして当面の経済政策で最大の課題となるのは、消費税率引き上げをいかに軟着陸させるか、ということ。消費税が上がれば、消費は冷え込む。その分、政府支出を増やして景気の落ち込みを防がなければならない。実はこれ、今年1月17日のポストでも書いたとおり、日本政府は既に昨年度の補正予算と今年度の予算で手当てしている。だが、消費税率が上がると言うのにまだ駆け込み需要も見られず、景気の先行きは視界不良だ。そこでもう一丁、財政出動した方がいい、という意見が強まる可能性が高い。そうなれば、補正予算という話になる。

ここで問題は、何を名目に追加財政出動するか、ということである。ポイント還元やプレミアム付商品券といった消費税対策は、期間延長では当面の消費喚起にはならない。かと言って、今からポイントを拡大するなど制度をいじれば、混乱が大きい。

定番の公共事業はどうか? これについても、昨年度から来年度までの3年間、防災・減災、国土強靭化のための緊急対策として7兆円の公共事業を既に組んでいる。これには不要不急のものまで計上しているので、ここから増やすと言っても限度がある。結局、中途半端な補正を打ってお茶を濁す、ということになりそうだ。

安倍が補正予算で大玉を考えるとしたら、教育の無償化や児童手当の増額といった野党が主張している政策に手を出す可能性もないではない。これらは一旦始めれば恒久的に支出が続く政策だ。本来、消費税引き上げ対策として補正を組んで一時的にやるべきものではない。だが、安倍が国民民主の「子ども国債」に食いついたらどうか? 財務省は反対するだろうが、同省は安倍政権内での影響力が低下しているうえ、自民党内にもMMT支持派は一定数いる。まったくあり得ない話ではないだろう。

玉木代表は憲法改正をめぐる安倍の「釣り球」にもアッという間に飛びついたらしい。安倍総理のやり方次第では、憲法改正と子ども国債は野党分断の絶好の玉になりそうだ。

消費税を延期せずに解散、も十分にあり

最近の永田町では、解散ムードが高まる一方に見える。もともと予定されている参議院選挙(=7月22日投開票という観測が強い)と合わせれば、1986年7月に中曽根康弘総理が仕掛けて以来、実に33年ぶりの衆参ダブル選挙となる。

「衆参ダブルなら、10月に予定されている消費税10%への引き上げは延期される」という見方が与野党ともに強い。しかし、本当にそうだろうか? 「解散も消費税引き上げも」という選択肢の方がありえる、と私は思う。

萩生田と菅の発言

解散風が吹き始めたきっかけは、4月18日に安倍側近と自他ともに認める萩生田光一官房副長官のインターネットテレビでの発言だった。荻生田はこう述べている。

「景気がちょっと落ちている。ここまで景気回復してきたのに、万一、腰折れしたら、何のための増税かということになる」
「次の日銀の短観(7月1日に発表予定)をよく見て、『本当に、この先危ないぞ』となったら、崖に向かってみんなを連れて行くわけにはいかないので、違う展開はある」
「増税をやめることになれば、国民の信を問うことになる」

荻生田発言は、4月21日に沖縄3区と大阪12区で行われた衆議院補欠選挙の直前というタイミングで飛び出した。両選挙区とも自民・公明が完敗した。そのことは4月18日段階で関係者なら誰もが予想していた。補選2敗で与党内における安倍の求心力が落ちないようにしたい――選挙が近いとなれば、執行部批判はできない――とか、メディアの目を補選からそらしたい、などと荻生田が考えたとしても不思議ではない。

その後、菅義偉官房長官の発言が解散風をさらに煽る。5月17日の定例会見で記者が次のように質問した。

「通常国会の終わりにですね、野党から内閣不信任決議案が提出されるのが慣例になっているとも言われているんですが、それを受けて、時の政権が国民に信を問うため衆院解散・総選挙を行うというのはですね、大義になるかどうか、長官ご自身はいかがお考えでしょうか?」

「それは当然なるんじゃないですか」

菅はぶっきらぼうに答えた。一旦は沈静化しかけた解散風にこれでまた火がついた。自民党が衆議院でも選挙の調査をかけた、という話も伝わり、与野党ともに同日選にむけて色めき立つことになった。

不信任案の提出が解散の大義になる、という奇妙な話

この質問、「やらせ」くさいと思わずにはいられない。「大義のあった解散なんて今までにあったのかよ?」と突っ込みを入れたいところでもある。まあ、それらは置いておくにしても、不信任案提出が解散の大義になるなどというのは、論理としてボロボロだ。

憲法第69条によれば、内閣不信任決議が衆議院において可決された場合、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならないことになっている。「内閣不信任案が可決されれば、解散の大義になる」というのであれば、(大義という言葉を使うかどうかは別にして)まだわからないでもない。

しかし、今の国会の議席配分を見れば、野党が内閣不信任案を提出しても、可決される可能性はゼロ。だから記者の質問も、不信任案が「可決されたら」ではなく、「提出されたら」となっている。

内閣不信任案は毎度のように提出されている。「一強多弱」状況の下では、野党が自らの存在意義を見せるためのパフォーマンス――そう言って悪ければ儀式――のようなものだ。内閣を制御するための「伝家の宝刀」なんて建前に過ぎない。

もちろん、解散は総理の専権事項である。内閣不信任案が可決されない限り、総理が解散しようと思えば、いつでも解散できる。その意味では、総理が「内閣不信任案が『提出』されたので解散する」と言えば、解散できないことはない。「売られた喧嘩は買う」というわけである。ただし、それでは変な前例ができてしまい、将来「内閣不信任案が提出されたので解散しろ」と言われかねない。

しかも、安倍総理はこれまで内閣不信任案が提出されてもことごとく否決し、6年半の長きにわたって政権を持続させてきた。「内閣不信任案が提出されたから解散した」ことなど、一度もない。今まで認めてこなかった大義が今回、急に出てきましたというのでは、あまりにも国民を愚弄している。

今回、消費税率引き上げ延期は解散の大義にしにくい

ではなぜ、内閣不信任案の提出が解散の大義になるか否かなどという馬鹿げた質問が飛び出したのか?

安倍総理はこれまでに二度解散している。一度目は2014年11月。この時は、翌年10月に予定されていた消費税率10%への引き上げを2017年4月に先送ることを表明。その是非を国民に問うことが解散の争点(大義)とされた。その後、2016年6月には消費税引き上げを2019年10月まで再延期すると述べ、そのうえで「アベノミクスを加速させる」ことを同年7月に行われた参議院選挙の争点と位置づけた。そして2017年9月の前回総選挙では、「消費税の使途変更(次の消費税増税分を借金の返済ではなく、子育て支援や教育無償化に使うこと)」や「北朝鮮問題への圧力路線」について国民の信を問う、とした。

安倍総理が今年10月に行われる消費税率引き上げを三度(みたび)延期すると決めているのであれば、それは「立派な」解散理由となる。わざわざ、「野党による不信任案の提出」などというチンケな大義を持ち出す必要などないはずだ。

しかし、安倍が解散する場合でも、消費税は予定通り10月には10%に引き上げるしかない、と考えているとしたら、辻褄は合う。

実際、わずか4ヶ月後に迫った消費税率の引き上げをこの期に及んで延期できるのか、という問題は、政治家の気合で乗り越えられるような小さな話ではない。例えば、複数税率の導入に対応できるレジの準備。補助金申請は4月段階で10万件を超えたと言う

10月の消費税率引き上げにあわせ、環境性能や耐震性の高い住宅を新築すれば省エネ家電などに交換できる「次世代住宅ポイント」制度の申請受け付けも今日(6月3日)から始まった。今さら延期と言えば、産業界も消費者も大混乱は必至だ。

加えて、安倍には、消費税率引き上げの延期を言わずとも、衆参選挙で負けることはない、という見込みがあるに違いない。もちろん、国民が与党の政策・政治を支持しているとは決して思わない。だが、自民党には、小選挙制度の下で公明党という独特の選挙集団と手を組んでいるという強みがある。リーダーの不在、政策の失速、選挙準備の遅れという三重苦を抱えた野党では、勝ち目は薄い。今現在、議席増を目論んでいられる野党(ゆ党?)と言えば、「大阪の乱」で勢いづく日本維新の会くらいのものだろう。

安倍が解散、衆参ダブルを既に決断しているのかどうか、私には知る由もない。だが、「10月の消費税引き上げは延期できない。消費税引き上げでも勝てるのなら、解散もありだ。大義は何か適当に考えればよい」というあたりが安倍の胸のうちではないか、と予想する。荻生田発言は解散理由において安倍を縛るものだった。菅発言は「解散するなら消費税率引き上げ延期」をニュートラルにすることに意味があったのではないか。

 

いずれにせよ、参議院選挙は間違いなくある。今回の選挙、何が争点なのか、私にはよくわからない。ほとんどの国民にとってもそうだろう。与党は「野党が不信任を出したら受けて立つ」と言うだけ。野党も与党批判を通じてしか自己の存在を主張できない。
「野党冬の時代」というよりも、「政党冬の時代」がしばらく続く――。それだけははっきりしている。

安倍のノーベル平和賞推薦をばらしたトランプの記者会見録を読んでみた

トランプ大統領は2月15日の記者会見で、安倍総理からノーベル平和賞に推薦されたことを明らかにした。

選考機関は推薦人を50年間明らかにしないことになっている。安倍はよもや推薦の事実、すなわちトランプに対するゴマスリが表に出るとは思っていなかったのだろう。でも、甘かった。相手はドナルド・トランプだ。

地球温暖化、核軍備管理(INF)、イラン核合意、エルサレム問題などに対する思想と行動を考えれば、トランプがノーベル平和賞に値するのかという批判が出てくるのは当然だ。安倍がその推薦状のコピーをトランプに届けたと聞けば、属国根性丸出しだと憤る人の気持ちもよくわかる。

一方、安倍の応援団からは「超大国であり同盟国である米国大統領のご機嫌をとることは国益に資する行為だ」という妙に開き直った安倍擁護論が聞こえてくる。まあ、安倍にゴマをすっている人たちが安倍自身のゴマすりを批判するわけがない。

でも、国会でこの件をとりあげて安倍を批判する国会議員の先生方からも、心のどこかに「長いものに巻かれるのは仕方ない」という戦後日本人のメンタリティーが透けて見える。だから、彼らの批判はどこか芝居臭くて心に響かないんだろう。

以上はまったくの余談だ。このポストで書くのは、トランプが安倍からノーベル平和賞の推薦を受けたとバラした時の会見録を読んでみた感想と小さな発見である。

トランプのマッチポンプ?

安倍がトランプをノーベル平和賞に推進した理由について、トランプは会見で次のように解説してみせた。

(以前は北朝鮮の)人工衛星――トランプは “rocket ship” という言葉を使っているが、日本のメディアも翻訳しておらず、何を指すのか今一つ自信がない――やミサイルが日本上空を飛んでいた。警報が鳴り響いていた。それが今や、突如として日本人はいい気分になり、安全だと感じている。私がそうしたのだ。

要するに、トランプは米朝の緊張緩和に対する自身の貢献を自画自賛し、戦争の危機を回避した自分はノーベル平和賞にふさわしいと言ったのである。

確かに、1年前の今頃、我々は――少なくとも私は――戦争の予感とも言うべき重苦しい雰囲気を毎日味わっていた。その不安感は、昨年6月12日にトランプと金正恩がシンガポールで会談する流れになったあたりから急速に薄れ、今では殆ど忘れ去られている。そこだけ見れば、日本人は――韓国人も中国人も、そしてアメリカ人も――トランプ(と金正恩)に感謝しなければいけない、ということになる。

だが、それはあくまでトランプの言い分を鵜呑みにした場合の話だ。1年前に我々が感じた不安は、北朝鮮の核兵器やミサイルのみによって引き起こされたものではない。北朝鮮の持つ核兵器とミサイルに関して言えば、今も1年前も状況はさして変わらない。にもかかわらず現在、私たちが1年前に持っていた不安感から解放されている。せれは、米朝の軍事衝突が差し迫っていないと思えるようになったからにほかならない。

当時は何故、米朝が戦争に至る可能性が高まっていたのか? 根源的な理由は、北朝鮮が核・ミサイルの開発を進め、米本土を射程に入れる核ミサイルの開発・配備に至る可能性が高まったことである。だが、それだけで米朝が戦争に突入する必然性はない。ロシアも中国も北朝鮮以上の能力を持っているが、米国とロシア、中国の間で(すぐに)戦争が起こると心配する人はいない。抑止が十分に働いているためだ。

2017年1月に大統領に就任したトランプは、北朝鮮による核・ミサイルの脅威増大に対処してこなかったとしてクリントン、ブッシュ、オバマの歴代政権を厳しく批判した。特に、北朝鮮との積極的な交渉を行わず、漸進的な制裁強化を通じて北朝鮮の心変わりを待つ、というオバマ政権の「戦略的忍耐」--その大前提には最悪の事態になっても抑止が働く、という認識があった――をこき下ろす。

トランプは北朝鮮政策を転換し、北朝鮮に「最大限の圧力」をかけ、軍事オプションもちらつかせながら核兵器と(中長距離)ミサイルを放棄するよう迫った。金正恩の瀬戸際政策とドナルド・トランプの瀬戸際政策がぶつかり合うことになったのである。(北朝鮮が核・ミサイル能力を飛躍的に進歩させたことが明らかになったのはオバマ政権の最後の一年だった。ヒラリー・クリントンがオバマの次の大統領になっていたとしても、米国の北朝鮮政策は変わっていた可能性がある。)

トランプの「炎と怒り」に恐怖を感じた北朝鮮は、逆に核実験やミサイル発射などを加速させた。これに米国はさらなる圧力の増大で応え、それを脅威と感じた北朝鮮がまた挑発的な行動を先鋭化させる・・・。こうした作用と反作用のスパイラルの中、米朝が何らかのきっかけによって軍事衝突を起こし、それが戦争にエスカレートする可能性が懸念されるようになったのである。

金正恩と一緒になって緊張を煽り、戦争の可能性を高める。そのうえで両者が手打ちをして戦争の不安はなくなった、と誇る。これではマッチポンプだ。トランプにノーベル平和賞をと言うのであれば、金正恩にもノーベル平和賞を、ということにもなりかねない。

CVIDの形骸化

トランプの会見録を読んでみたら、現在と今後の米朝関係を理解するうえでの手がかりも見つかった。安倍やトランプのことをあげつらうよりもこっちの方が重要かもしれないので紹介したい。

記者会見でトランプは、大統領に当選後にオバマと引継ぎを行ったときのことを引き合いに出し、自らの北朝鮮政策がいかに成功したかを誇ってみせた。少し長くなるが、面白いので以下に引用する。

オバマは(北朝鮮と)戦争するつもりだ、と私は思った。実際、彼は私に「北朝鮮との大規模な戦争を始める直前まで行った」と語った。それが今、状況はどうなっている? ミサイルはなくなった。ロケットはなくなった。核実験もなくなった。( No missiles.  No rockets.  No nuclear testing.) 

北朝鮮はミサイルを廃棄していない。発射実験をとりやめているにすぎない。だが、そんなことはお構いなしでトランプは次のように続ける。

しかし、そんなこと(No missiles, No rockets, No nuclear testing)よりもずっと重要なこと、本当にずっと重要なこと、もっと重要なことは、私と金正恩が素晴らしい関係を築いたということだ。私は金正恩と非常に良好な関係にある。私は仕事をやり遂げたのだ。

トランプはこの後、安倍からノーベル平和賞に推薦されたことを紹介し、さらに述懐と自画自賛を繰り広げた。

それは最初、とても厳しい対話で始まった。「炎と怒り」だ。「全面的な抹殺」もあった。「私の(核の)ボタンの方が大きい」とか、「私の(核の)ボタンは機能している」とか・・・。人々は「トランプは狂っている」と言ったものだ。そしてどうなったかわかるか? とても良好な関係だ。私は彼(金正恩)がとても好きだし、彼も私のことがとても好きだ。これは私以外の他の誰にもできなかった。オバマ政権にも、だ。第一に彼らはそんなことをしようと思わなかっただろう。第二に、彼らにはそれを成就させる能力もなかった。

以上から見て取れるのは、トランプが米朝関係の現状にとても満足していることだ。

確かにトランプは当初、これまでの政権よりも遥かに大きな拳を振り上げた。しかし、シンガポール会談の前後からトランプは、北朝鮮がミサイルを飛ばさなくなったことや核実験を停止したことを大きな成果とみなし、核のCVID(完全かつ検証可能で不可逆的は核廃棄)が実現していないにもかかわらず、今以上の圧力を加えなくなった。いくらミサイル発射や核実験を控えたところで、北朝鮮が核・ミサイル能力の廃棄に踏み出さない限り、米本土に届く核ミサイルの開発・配備まであと一歩、という状況が変わらないことは敢えて言うまでもない。

おそらく金正恩は、ミサイル発射と核実験を行わないことをトランプに約束しているのだろう。これで米本土に届く核ミサイルの完成は防がれた、というのがトランプの受け止めと思われる。しかし、それではもはや「完全な核廃棄」とは言えない。トランプ政権の掲げていたCVIDは既に形骸化している、と考えるのが妥当だ。また、前政権の頃よりもはるかに厳格な経済制裁が今も続いているが、昨今は中露(及び韓国)による水面下の援助がある程度復活していると考えられる。

このように見てくると、現在のトランプ政権の北朝鮮政策はトランプ自身が激しく批判した従来の政権とほぼ同じラインに収まったと言ってよい。

トランプは「ディール」好きで有名だ。トランプの本を読むとよくわかるが、彼が好む商売上の「ディール」で大事なことは、自らの損失を最小化し、利益を最大化することだ。相手を叩き潰す完勝である必要は必ずしもない。見過ごされがちだが、「怒りと炎」のチキン・ゲームによって追い込まれたのは金正恩と北朝鮮だけではない。トランプや米軍も相当消耗したはず。北朝鮮が米本土を攻撃可能な核ミサイルを完成させることはないという保証が得られるのであれば、CVIDの達成にはこだわらなくても十分に良いディールだ、とトランプが思うようになったとしても不思議なことは一つもない。もちろん、上記の保証を裏打ちするものがトランプと金正恩の個人的関係しかない、と言うのは何とも危うい話ではあるが・・・。

ベトナム会談を前に

間もなく(2月27日と28日)、ベトナムで2回目の米朝首脳会談が行われる。

いかなる結果となるにせよ、我々のボトムラインは「抑止の構造は生きている」ということだ。今回の金正恩の対応を見れば、彼が生き残りにこだわり、その限りにおいては合理的に考えることができるという「信頼感」は高まった。つまり、米朝間で抑止が働く可能性は高い、と考えてよい。であれば、北朝鮮の非核化とミサイルの廃棄が目に見えるように進まなくても、米国は前のように拳を振り上げるべきだ、と考えるのは短慮と言うもの。

北朝鮮が米本土に届く核ミサイルを配備することは望ましい事態ではないし、できる限り避けるべきことだ。しかし、抑止が機能する限り、北朝鮮は核ミサイルを保有しても使えない。現状、北朝鮮は米本土に届く核ミサイルを完成させる数歩手前の段階と見られる。この状態で止まれば、北の核・ミサイルが廃棄されなくても、米国にとって最悪の事態とはならない。

一方で、北朝鮮が米本土に届く核ミサイルを開発・配備する事態を避けるために圧力をかけ続け、何らかの理由で北朝鮮と米国の間で戦争が起きれば、特に日本にとっては最悪の事態だ。戦闘が米韓と北朝鮮の間にとどまればまだよいが、在日米軍基地を抱える日本列島が攻撃を受けない可能性は低い。ここで問題は、米本土と違い、日本列島を射程に含む(ノドン搭載の)核ミサイルが既に実戦配備されている可能性の十分にあること。通常弾頭ミサイルによる飽和攻撃と同時に核弾頭を撃たれれば、ミサイル防衛も無力だ。米朝が開戦すれば日本が必ず核ミサイル攻撃を受けるというわけではないが、核攻撃を受けた時に受ける致命的な被害を考えれば、米朝開戦につながる選択肢を日本が容認することは蛮勇にすぎない。

ベトナムでの首脳会談で事態はどう進むのか、進まないのか。呑気に聞こえるかもしれないが、「決裂して1年前のような緊張関係に戻らなければ良しとする」というくらいの気持ちで会談を見守るのがよいと思う。

 

 

 

最初の引見がトランプでは新天皇に申し訳ない

トランプ大統領が5月下旬に来日することがいよいよ本決まりとなったようだ。6月のG20にも出席すれば、「短期間で二度の訪日となって前例がない(=すごいことだ)」という論調でメディアが伝えている。外務省や官邸のブリーフを鵜呑みにしてのことだろう。

アメリカって日本の宗主国だったのか? アメリカ大統領が来る、来ないで大騒ぎするメンタリティーからは、いい加減もう卒業できないものか、といつもながら思ってしまう。

トランプの来日は私にとって、別にどうでもいいことである。しかし、トランプをわざわざ5月に呼ぶのが、「51日に即位される新天皇に『国賓として最初に』会っていただくため」と聞けば、これは黙っていられない。

今上天皇が即位された際、外国要人の引見はどのように行われたのか? 宮内庁のホームページで調べてみた。

今上天皇の即位は1989年(平成元年)17日。大喪の礼は224日に執り行われた。221日にフィンランド大統領夫妻と会見されたのを皮切りに、天皇は27日までの間に大勢の外国元首を引見された。ブッシュ(父)大統領とは25日に会われている。

大喪の礼と切り離したものとしては、44日にイタリア首相を、413日には中国の李鵬首相を、いずれも公賓(国費で接遇する行政府の長など)として引見された。国賓(国費で接遇する国家元首)として最初に引見されたのは、10月のジンバブエ大統領であった。

公賓としての最初の引見が中国の首相になることは避ける、という配慮はあったかもしれない。だが、平成の代替わりに当たり、天皇が最初に引見する国賓・公賓の選択は、大喪の礼という特殊事情があったとは言え、比較的自然体でなされたように見える。

今回、新天皇が国賓として最初に引見される外国要人をトランプ大統領にしたいと政府が考えているのは、安倍のトランプに対するゴマスリだろう。ネット上では、それで日米貿易交渉などが有利に運ぶのではないか等の思惑が紹介されている。トランプが虚栄心をくすぐられて喜ぶのは間違いない。だが、ディールはディールで実利を重視するのがトランプという男だ。

何よりも、この程度のことに新天皇を利用すれば、天皇の権威や天皇制の意義を政府自らが貶めることになる。頓珍漢にも天皇の謝罪を求めている韓国国会議長などは「日本政府は米国に対しては天皇を外交カードにしているんだから、韓国に対してもそうすべきだ」と言い出しかねない。

もっと率直に言おう。新天皇が最初に引見する外国要人(国賓・公賓)としてトランプを選ぶことに反対する最大の理由は、相手がトランプだからである。米国大統領だから、ということでは必ずしもない。米国はわが国の唯一の同盟国。本来なら、天皇陛下が最初に謁見する外国首脳(国賓)が米国大統領になる、ということに目くじらを立てる必要は特にない。だが、トランプとなると話は違ってくる。

トランプのことだ、自分が新天皇に会った最初の外国要人であることを(ツイッターか、記者会見かはともかく)軽々しく自慢するに違いない。反・地球温暖化(パリ協定離脱)、反・自由貿易(TP協定離脱、鉄鋼アルミ追加関税)、反・核軍縮(INF条約破棄通告、イラン核合意離脱)など、トランプの考えに対する新天皇の受け止めを私なりに慮った時、トランプが新天皇を使って自らをアピールするのを見ることは何とも忍びない。

少なくとも現時点では、浩宮が自分の気持ちを表に出したりすることはないだろう。しかし、それをいいことに政府が新天皇をここまで露骨に外交カードとしてよいのか? 安倍総理か、安倍総理とトランプ大統領に忖度する官僚かは知らないが、代替わりを迎えられた新天皇の門出に泥を塗るような真似は厳に慎んでもらいたい。

では、新天皇が即位後最初に引見する外国要人(国賓・公賓)は誰がふさわしいのか? 一つの考え方としては、隣国の首脳という選択肢がある。しかし、同盟国である米国に間違ったメッセージを発することになりかねないというだけでなく、トランプが駄目だというのとよく似た思想上の理由から、習近平もNGだ。文在寅に至っては、新天皇が引見することはもちろん、国賓として迎えることにさえ、誰も賛成しない。

結局、注目されるが故に、新天皇が即位後最初に引見する外国要人(国賓・公賓)はあまり目立たない国の首脳とするのがよさそうだ。今回の代替わりとは事情が異なっていたとは言え、平成の代替わりの際に発揮された知恵に学ぶべきことは決して少なくない。

 

「日ソ共同宣言を基礎として」という言葉が与える誤解

1月22日、安倍晋三総理がロシアを訪問してプーチン大統領と会談した。

今回の会談に関して言えば、首脳会談の前段として1月14日(現地時間)に行われた河野-ラブロフ外相会談でロシア側が極めてきびしい態度を見せていたため、メディアの間でいつものような期待感は盛り上がっていなかった。それでも首脳会談後、いくつかのメディアが「四島はむずかしくても、二島返還なら実現できる」という雰囲気を醸し出していたのを見た。二島返還に対して根拠のない期待が根強い理由は、昨年11月の日ロ首脳会談で「1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速する」ことが確認されたことが大きい。

日ソ共同宣言を基礎として、とはどういう意味なのか? ここで再確認しておくべきだろう。

二島返還への根強い楽観

北方領土問題に関して私の考えと見通しは、昨年10月23日に「プーチンの平和条約発言――もう、夢からさめよう」、同11月17日に「『二島返還』狂想曲を嗤う~日露首脳会談を受けて」、同11月20日に「ワイドショー化した領土交渉~北方領土をめぐる日露協議の非常識」という題で既に書いた。10月23日のポストが最も包括的に書いたつもりだが、今回の首脳会談を受けて特に修正・加筆すべき点はない。北方領土問題が決着する場合、ロシアが譲り渡し(日本側は「返還」と呼ぶ)に同意するのは、よくて1島(歯舞諸島)、最悪はゼロ(ただし、周辺海域での漁業権付与などとセット)であろう。問題は、我々がそれを受け入れるのか、その成果を得るためにどれだけの代償を払う覚悟があるのか、に尽きる。

近年、安倍がプーチンを下関に迎えて行われた日露首脳会談など、期待値を(勝手に)高めては裏切られることが繰り返されてきた。加えて、ロシア側要人の強硬発言やデモなどの動きも伝わってきている。それに伴い、北方領土交渉の行方に対する世論やマスコミの見方は、従来に比べれば随分、現実的になった。1月21日に発表された産経新聞とFNNの共同世論調査では、北方領土問題について「進展すると思わない」という回答が72.9%だったのに対し、「進展すると思う」は20.4%にすぎなかったと言う。

22日に行われた安倍―プーチンの首脳会談後も、多くの新聞の論調は交渉の先行きに概して悲観的な見方を示した。ただし、前週に行われた日露外相会談でラブロフ外相が半ば恫喝的な態度をとったのに対し、プーチンは安倍に対して冷静な対応を――少なくとも表向きは――見せた。安倍とプーチンの間に個人的な信頼関係があるため、と解釈するのはあまりに安倍へのお追従が過ぎる。ラブロフがヒールを演じることで領土問題でロシアが主導権を握る一方、プーチンは大人の対応を見せて安倍を平和条約締結交渉に引き留める、というのが先方の描いたシナリオだったのであろう。

とは言え、首脳会談後のマスコミの論調の中には、「二島返還であれば・・・」という楽観論というか、希望をつなぐ調子が散見されたことも事実である。以下はその例だ。

安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領が会談し、北方四島のうち歯舞・色丹の2島  引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言に基づく平和条約締結交渉を加速させる方針で一致した。同宣言を基礎に平和条約締結に向けた交渉を進める方向性は、昨年11月の首脳会談でも合意している。今回の会談でその方針を再確認したことは、今後の領土交渉が実質的に2島に絞って行われる可能性が高まったことを意味する。(1/24 京都新聞社説)

両国は昨年11月、歯舞群島、色丹島の引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言を交渉の基礎とすることで合意している。今後の交渉では、領土・領海の画定や、ロシアの施政権が及ぶ期間、北方領土に暮らすロシア住民の処遇など、多岐にわたる課題を解決しなければならない。(1/24 読売新聞社説)

こうした論調が根強くあるのは、一つには安倍総理が四島返還を諦め、二島返還で手を打とうと考えており、総理周辺から「二島ならいける」という楽観論が漏れてくることが影響しているのだろう。マスコミが根拠のない希望的観測を信じているのか、政権の足を引っ張らないようにしているのか、それはわからない。

だが何よりも、昨年11月14日に行われた首脳会談で「1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速する」ことで安倍とプーチンが合意し、今回の首脳会談でもそのことが再確認されたことに引っ張られている面が大きい。上記の新聞社はいずれもそのことを引用したうえで、二島返還が既成事実であるかごとき論調を展開している。

日ソ共同宣言は以下のように規定している。

ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

ここで「引き渡す」という言葉が使われているのは、先日もラブロフが強調したように、ソ連(ロシア)が北方領土は自国領土であるという立場に立つからだ。日本側はこれを以って二島返還が約束されたと解釈している。マスコミも「『歯舞・色丹の2島引き渡しを明記した』1956年の日ソ共同宣言」と書くので、常識的な受け止めとしては、二島返還の合意が交渉のスタートポイントになる、とついつい思ってしまいがちだ。

「日ソ共同宣言を基礎に」と言うけれど・・・

そもそも、昨年11月の日露首脳会談の合意と称される文言は、日露間で文書として確認されたものではない。外務省のホームページを見ると、「テタテ(二人だけの)会談の結果として、『1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる。そのことをプーチン大統領と合意した。』ことが発表されました」とある。これだけだ。

日本側は、1956年の日ソ共同宣言を基礎とする、という言い方をロシア側に認めさせたことで、鬼の首を取ったように喜んだ。共同宣言を基礎とすることの意味を「ロシアが色丹、歯舞の返還を保証した(少なくとも、重く受け止めざるをえなくなった)」と解釈しているからにほかならない。

しかし、1956年の共同宣言で領土問題に触れたくだりはほんの数行にすぎない。単に「1956年宣言を基礎として」というだけであれば、ロシア側は「1956年宣言を基礎にすると言ったが、色丹・歯舞の引き渡しに関する記述を念頭に置いていたわけではない」と主張することも十分に可能だ。日本側が期待するようにプーチンが色丹、歯舞の返還(引き渡し)にコミットしたのであれば、「1956年にソ連邦が歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意したことを基礎として平和交渉を加速させる」とか、「1956年宣言を基礎として領土交渉を加速させる」とでも発表すればよかったはずである。

「基礎とする」ということ意味も、日露の間では受け止め方が違っている。日本側は先に述べたとおり、最低限でも色丹・歯舞の引き渡しは確保される、と思って(願って)いる。だがロシア側は、1956年の共同宣言以降、様々な環境や条件が変わったため、色丹・歯舞の引き渡しという当時の約束については、それを割り引く方向で交渉するのが当たり前である、という認識だろう。何しろ、北方領土はその全域をロシアが完全に実効支配しており、日本人居住者もいない。島を取り戻すために日本が戦争に訴える心配もまったくない。悔しい話だが、北方領土に関してはプーチンもラブロフも悠然と構えている、というのが本当のところだ。

「1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」というこのフレーズ。ロシア側にとっての肝は、「1956年宣言を基礎として」の部分ではなく、「平和条約交渉を加速させる」という部分にある、と見るのが正しい。次にその意味を見ていこう。

ラブロフの注文

1月14日に行われた日露外相会談の後、ラブロフ外相は記者会見で日本批判を繰り広げた。交渉術の部分もあるし、ラブロフの性格もあるから、これをすべて額面通りに受けとめる必要はない。だが、ラブロフの日本批判を裏側から読めば、平和条約締結の交渉――領土問題の交渉ではない――を通じてロシアが日本に求めてくることがとても率直に語られた会見でもあった。ラブロフ節には耳を覆いたくなるようなところもあるが、それを我慢してロシア側の要求を整理しておくのも無駄ではあるまい。

まず、ラブロフは、四島の主権がロシアにあることを含め、第二次世界大戦の結果をすべて日本側が認めることを要求する。四島を「北方領土」と呼ぶことも容認できない、と。これは日本の立場とまったく相容れない。これが「日本がいったん北方四島をロシア領と認めれば、ロシアは島を返す(譲り渡す)」という意味であれば、面子を捨ててもよい、という考え方も出てこよう。もちろん、ロシアはそんなに甘くない。

ラブロフは次に、経済や投資分野、文化面での日露関係強化を求める。日本側は領土問題の進展なしに金だけを「先食い」されないよう、漸進的に進める考えだが、ロシアはそれが気に食わない。投資とサービス分野における関税優遇、原子力エネルギーの平和利用や宇宙分野における協力拡大、社会保障分野やビザなし制度など、野心的な要求をつきつけてきている。

北方領土に対するロシアの主権を認め、湯水のごとく経済協力を行えば、北方領土は――4島か2島か、それ以下かはともかく――返ってくるのか? ニェット(ノー)だ。

三番目の要求として、ラブロフは外交や国際分野における両国の協力を求める。抽象的にはもっともな話に聞こえるかもしれない。だが、国連におけるロシアの提案に日本が原則賛同することなど、実質的にはロシアの陣営に入れ、と迫っているのにも等しい物言いだった。

日米同盟にも楔を打ち込む意図がありありだ。ロシア(ソ連)は、1960年の日米安保条約改定によって日本はソ連(及び中国)を対象とする日米軍事同盟の結成に同意した、と評価してきた。それを踏まえてラブロフは次にように述べた。

日米安保を更新したのは1960年。その後、日本側は1956年宣言の履行から遠ざかりました。私たちは今、1956年宣言に立ち帰るわけですから、軍事同盟における状況が今とは根本的に違っていることを考慮しなければなりません。アメリカは世界的なミサイル防衛システムを日本にも展開しており、それが軍拡につながっています。アメリカは・・・ロシアや中国の安全保障上の危険を生み出しています。

この発言からも、「日ソ共同宣言を基礎とする」ことの意味をロシア側が「色丹・歯舞の引き渡し」に限定して捉えるつもりのないことは十分に窺える。いずれにせよ、ロシアが米国と対立を強める中、プーチンたちが日米離間の意図を持っていることは明白だ。「北方領土が返還されても米軍基地を置かない」と約束すれば(あるいは米国にそう約束してもらえば)、ロシアは安心して北方領土を返してくれる、という程度の話では済みそうもない。

平和条約交渉を通じて日本を揺さぶり、日本側から経済協力をとりつけ、自らに有利な国際政治環境をつくりだすこと――。それがプーチンの狙いだ。もちろん、外交である以上、ロシアは満額回答でなくてもどこかで妥協するはずではあるが、ロシアは今後、あの手この手を使って日本から譲歩を引き出そうとしてくるだろう。

交渉の行方、潜むリスク

このように、平和条約交渉と言っても、日本とロシアでは目的が大きく異なる。ロシアが二島返還にも消極的である以上、日本側もロシアによる「食い逃げ」を警戒すれば、交渉は難航し、着地しないはずである。しかし、気を付けなければならないのは、交渉を続けるうちに安倍総理や外務省の交渉当事者たちが日露平和条約の締結を自己目的化してしまうことだ。

日本国の指導者にとって、あるいは日本の外交官にとって、「北方領土問題の解決と日露平和条約の締結」、「拉致問題の解決と日朝国交正常化」は、戦後日本の残された最後の大仕事だ。この感覚は外の者にはなかなか理解できないのだが、この二つのテーマに関わる者たちは、熱病にかかったように「我が手による実現」を希求する。ましてや、安倍は日本の憲政史上、最強の権力者の一人とまでみなされるに至った。自らのレガシーとして日露平和条約の締結に並々ならぬ執念を燃やしていることは疑いない。そこに危険が潜んでいる。

元工作員であるプーチンの標的は安倍その人だ。二人が25回も会っているということは、それだけ心理戦を仕掛けられてきたという意味でもある。