NHK経営委員会に「報道の自由」の敵が巣食う

前回まで3回のポスト(2月7日2月16日3月7日)で郵便局を舞台にしたかんぽ保険商品の不正営業事件について思うところを述べた。

そこでも簡単に触れたとおり、事件の過程で日本郵政は自らの不正営業問題が白日の下にさらされないよう、NHKに圧力をかけた。その際、NHK経営委員会が日本郵政の味方に付き、NHK会長に圧力をかけていたことが判明している。
これは「報道の自由」の崩壊を招く大問題だ。看過できない。

本ブログでもこの問題を取りあげようと思いながら手間取っていたところ、3月2日付の毎日新聞が「『番組の作り方に問題』 NHK経営委員長がかんぽ報道『介入』か 放送法違反の疑い」という記事を打った。

毎日新聞は昨年9月26日のスクープ以来、この問題の追及に熱心だ。毎日新聞の記事とNHK自身による検証記事を読めば、この問題の論点を追うことができる。

本ポストでは、遅ればせながら、私の意見を述べておきたい。

NHKのスクープと日本郵政の圧力

2018年4月24日――念のために言うが、2019年ではなく、2018年の話だ――、NHKのクローズアップ現代+は「郵便局が保険を“押し売り”!? 郵便局員たちの告白」という衝撃的なタイトルの番組を放映した。おそらく、郵貯グループの不適切営業に最初に切り込んだ番組だったと思う。これはアッパレだった。

7月になると番組側は続編を作るため、SNSで情報提供を呼びかけた。
これに対し、日本郵政、日本郵便、かんぽ生命が社長名でNHK会長宛に「内容が一方的で事実誤認がある」などと掲載中止を申し入れる。

この段階で既に郵貯内部で不適切営業は蔓延していた。
郵政側が「放送内容は間違っている」と思って抗議したのであれば、当時の3社長を含む経営幹部はよほどの無能か、裸の王様ということになる。
不正の存在を知りながら抗議したのであれば、もう背任に近い。

実態はおそらく後者であろう。日本郵政の鈴木・上級副社長は「圧力をかけた記憶は毛頭ない」と述べている。こういう時、本当に圧力をかけていなければ、「圧力をかけてなどいない」と言い切るもの。政治家の「記憶にございません」と同様、「記憶」という言葉を使って否定するのは後ろめたさの表れである。

日本郵政と手を組んだNHK経営委員会

ここまでは、「NHK」対「日本郵政」の戦いだった。

番組サイドが取材をやめないのに業を煮やした郵政側は、番組の担当者が『番組制作について会長は関与しない』と発言したことを問題視し、「放送法上、編集権は会長にあるはず。番組サイドの発言はNHKのガバナンス上、問題だ」とNHK経営委員会に訴えた。

日本郵政の言い分は、世間的には「言いがかり」の類いと言ってよい。
しかし、番組内容の真偽で争うと日本郵政にとって不利となるため、経営委から圧力をかけて現場を黙らせる、という手法を郵政側は選んだのだ。
(この戦術を考え出したのは、鈴木康夫・日本郵政上級副社長――郵政事業と放送行政の両方を所管する総務省の元事務次官――だった可能性がある。)

NHKの上田良三会長(当時)は常日頃、「我々は実際には、放送総局の方に分掌してやってもらっている。自主自律を堅持しながら、事実に基づいて、公平公正、不偏不党といいますか。そういう公共放送としての、守らなくちゃいけないスタンス。これをしっかり守るというのは、口を酸っぱくしてやっている。それを踏まえた上で、現場でやってくれ、と言っています」と表明していた。

番組内容が虚偽だったり取材手法に問題があったのならともかく、郵貯の不適切営業を取りあげた番組制作を止めなければならないとは、上田も考えていなかったに違いない。

だが、NHK経営委員会の石原進委員長(当時)や森下委員長代行(現委員長)から見れば、こうした上田の姿勢そのものに問題があった。
制作現場に任せ、政権批判をされては困る、ということだ。

石原は日本会議と関係があり、安倍政権と非常に近い。森下は安倍総理を囲む「四季の会」のメンバー。安倍が政権批判報道に神経を尖らせ、メディアに対して有形無形の圧力をかけてきたことは周知の事実である。
(脱線するが、石原を最初にNHK経営委員に任命したのは民主党政権(菅内閣)だった。「九州」枠で選ばれたと言うが、脇の甘さはこういうところにも表れる。)

こうして、戦いの構図は、「NHK」対「NHK経営委員会 + 日本郵政」に変わった。
(経営委員の全員が石原と森下に同調したわけではなさそうである。しかし、両名に反対して断固戦った者もいなかったようだ。NHK経営委の議事録的なものには、上田NHK会長に対する注意は、経営委員会の「総意」として行われたと書いてある。委員の一人でも頑強に抵抗すれば、この手の文書に「総意」という単語を載せることはできない。)

石原と森下は日本郵貯がつけた難癖に乗り、経営員会に上田を呼んで叱責した。
上田は抵抗するも、経営委員会には放送法に基づく「(NHK)役員の職務の執行の監督」権限があった。

2018年10月23日、NHK経営委員会は上田に厳重注意を行う。
立場上、上田も最後は経営委員会に逆らえない。最終的に上田は日本郵政側へ詫び状を出させられた。(実に子供じみている!)

こうした経緯を最初にすっぱ抜いたのが昨年9月26日の毎日新聞「NHK報道巡り異例『注意』 経営委、郵政抗議受け かんぽ不正、続編延期」という記事だった。

本来なら、石原や森下は自らの不適切営業を隠蔽したい郵政側を一喝し、NHKに対して「理不尽な抗議に屈するな」と激励する立場にあったはず。
だが、現実は違った。

2018年10月23日に行われた当該経営委員会の議事概要――当初、存在しないとされた――は、国会で批判されたことを受けて1年以上たった昨年11月1日に出てきた。
それは発言者が表に出してもよいと認めた発言のアウトラインであり、フルバージョンの議事録ではなかった。他の議題については発言者と発言内容がわかるのに、NHKのガバナンスに関する討議の部分だけ、発言者名が伏せられ、発言は極めて抽象的に要約してある。

議事概要には、議論の締めの部分だけ、「今回のことについて、いまだ郵政3社側にご理解いただける対応ができていないことについて、経営委員会として、誠に遺憾に思っている」という石原の具体的な発言が載せられている。
後段の「誠に遺憾」という発言を明らかにしたかったのだろう。だが、印象に残るのは、郵政に媚びへつらった前段の言葉遣いである。実に浅ましく、おぞましい。

11月13日の分の経営委員会に至っては、議事録の末尾に下記の文章が(昨年11月1日付で)追記されているのみだ。

○ NHKのガバナンスについて
平成30年11月7日付で、改めて日本郵政株式会社取締役兼代表執行役上級副社長より、NHK経営委員会宛に書状が届いたので、情報共有を行った。
会長に申し入れを行った内容のうち、本件の措置についての報告は求めないことを、経営委員会として確認した。

「情報共有」であって議論ではないから議事録は作りません、本件の措置については報告不要と確認したので議事録はありません、ということにしたかったのだろう。
こんな組織体が「NHKのガバナンス」を云々するとは、とんだ茶番である。

毎日新聞の記事が出ると、経営委員会による「放送現場への介入」という批判が(与党以外では)噴出した。

昨年10月11日、石原は国会に呼ばれ、「経営委員会は番組の内容や中身に立ち入ることは法律上禁止されている」という珍答弁を披露した。犯罪は法律によって処罰されるから、世の中に犯罪は起きない、と言っているのと同じだ。

この問題の追及に執念を燃やす毎日新聞は、この時の議事録に載っていなかった森下の言葉を取材によって復元した。それが冒頭で紹介した今年3月2日付の記事である。

毎日新聞によれば、2018年10月23日の経営委員会で森下は「郵政側が納得していないのは、本当は取材内容だ。本質はそこにあるから経営委に言ってきた」と述べていた。

森下は国会に呼ばれ、「いろいろと自由な意見交換をする中での言葉だったと思う」と自身の発言を事実上、認めた
番組編集への介入があったことは明らかであり、これを見逃すのであれば、何が放送法違反になるのか、私にはわからない。

森下の釈明は、「具体的な制作手法について指示したものではない。経営委員が番組編集に関与できないことは認識している」というもの。
具体的な制作手法について指示しなければ、日本郵政を怒らせない内容の番組にしろ、というニュアンスを伝えても、番組編集への関与にならないとでも言うのか?

こんな人物が今、経営委員長に収まっている。しかも、二代続けて、だ。

報道の自由を取り戻すために

2019年6月27日、かんぽ生命は2014年以降に不適切な契約が約2万4千件あったと発表し、7月10日にはかんぽ生命と日本郵便が第三者委員会を設置して調査することを表明した。

日本郵政の幹部はNHKに蓋をすることには成功したかもしれない。しかし、腐敗の実態は隠そうとしても隠しきれないほど、巨大かつ醜悪だったである。

その後、7月31日にNHK(クローズアップ現代+)は「検証1年 郵便局・保険の不適切販売」というタイトルで続編を放映した。

今度は郵政側もさすがに抗議できなかった。2018年4月24日のクローズアップ現代+が間違っていなかったことも、事実によって証明されていた。

これを以って一件落着でよいのか? そんなわけがない。
一度大きく傷つけられた報道の自由を回復するためには、最低限、以下の三つのことを実現すべきだ。

第一は、森下俊三NHK経営委員長の解任。
その必要がないと言うのであれば、経営委は改ざんされていない議事録を公表し、毎日新聞の記事を否定すべきだ。

だが、先週3月5日に行われた衆議院総務委員会へ参考人として出席した森下は、議事録の公開を拒否した。

高市早苗総務大臣も、「より透明性を持った情報公開」を求めつつ、議事録公開を求めるところまでは踏み込まず。(そりゃあ、そうだろう。公開したら安倍のお友達を守れなくなる。)
一方、森下の発言については「現時点で放送法にただちに抵触するものではない」と庇ってみせた。

第二は、NHK経営委員会が上田NHK会長(当時)に行った厳重注意を取り消すこと。

日本郵便とかんぽ生命による大規模な不正営業の実態が明らかになり、クローズアップ現代+の番組が間違っていなかったことがわかった今も、2018年10月23日にNHK経営委員会が上田会長に対して行った厳重注意は取り消されていない。

これは「取材対象から抗議があった場合、NHK会長は取材対象の意向に沿うよう、番組制作上の指導を行うことが望ましい」と暗黙の裡に伝えたお達しが今も生きていることを意味する。
政権側から番組制作に関するクレームがあれば、NHK会長は時の権力者にご理解いただけるような対応をせよ、ということになりかねない。

昨年末、森下が石原の後任の経営委員長に選ばれた。ほぼ同時に、NHK会長には前田晃伸 元みずほファイナンシャル・グループ会長が就いた。前田も森下と同じく、四季の会のメンバーであった。

前田は就任時の会見で「どこかの政権とべったりということはない」と述べた。
だが、前田には、見かけによらず、食わせ者という評がある。件の厳重注意の趣旨を前田が体現し、「政権のためのNHK」にしないか、という危惧は少なからず残る。

そうした懸念を払しょくするためにも、根拠を失った――本当は最初から根拠などなかった――件の厳重注意は正式に撤回すべきだ。

最後に、NHK自身がNHK経営委員会の悪事を暴く検証番組を作り、世に問うこと。

報道の自由を守るためにある組織だと誰もが思っているNHK経営委員会が報道の自由を脅かした。その悪事を暴くことは報道機関であるNHKの務めであり、それを最もよく知る立場にあるのはほかならぬNHKである。

NHK自身にも、表に出したくない脛の傷がまったくないわけではないのかもしれない。クローズアップ現代+は、経営委員会による会長への厳重注意が番組制作へ影響したのではないかという疑念について、以下のように否定している。

去年(2018年)10月23日に、経営委員会が会長に行った厳重注意が、放送の自主・自律や番組編集の自由に影響を与えた事実はありません。前述のとおり、動画の更新作業や取材継続の判断は、去年(2018年)の7月から8月にかけて行われたものです。したがって、経営委員会による会長への厳重注意が番組の取材や制作に影響したことは時系列からみてもありえません。

しかし、これを額面どおり受け取ることはできない。
2018年7月から8月にかけて下した、取材継続をやめるという判断に日本郵政側の圧力は影響していなかったのか?
経営委員会による会長への厳重注意がなければ、クローズアップ現代+の続編放映は2019年7月ではなく、もっと早かったのではないか?

日本郵便とかんぽ生命の不正営業があまりに巨大であり、しかも、NHKは取材を通じてそれをいち早く察知していた。
続編が放映されて世間の関心が高まれば、日本郵便とかんぽ生命に騙される人は減ったはずであり、そのことはNHKの制作現場も痛いほど感じていたと思われる。

続編の放映が最初の番組放映から1年3ヶ月も後になった理由が「郵政のテーマを続編として深めて取り上げるには十分な取材が尽くされていなかったため」だと言われ、はいそうですか、と信じるほど世間は馬鹿じゃない。

NHKの制作現場は、悪いのはNHK経営委員会(特に石原と森下)だと思っていることだろう。それはほとんど正しい。

だが、その悪だくみを叩くことを毎日新聞任せにしている現状は、NHK側の落ち度だ。前田や幹部連中が押さえつけているのだろうか?

NHKが「経営委」化し、権力の犬になることだけは何としても避けなければならない。

 

NHKは今月1日から、ネット同時配信サービスを試験的に始め、4月には本格サービスへと移行する。受信料制度の抜本的な見直しも俎上にあがっていると言う。

NHK経営委員会を含めた広い意味でのNHKグループには、その前にやるべきことがある。自ら身をただすことだ。

「抑制しない政治」の兆しが見える②~政治がメディアを圧迫する時代とリベラルの憂鬱

前回8月24日付のポストで見たように、N国の立花孝志は、マツコ・デラックス叩きを通じて自分の宣伝にまんまと成功した。だが、そんなことよりもずっと重要なのは、弱小政党であってもバラエティー政治評論を黙らせることができることを示したことである。報道メディアもそれを傍観したため、政治による対メディア介入を助長する結果となってしまった。

今回のポストでは、今日の日本のメディアと政治の関係――メディア一般に対する政治の圧力、メディアの党派的政治性など――を概観し、それが所謂リベラル勢力にとって不利な状況を作り出していることを指摘する。

政治がメディアに圧力をかける状況は決して好ましい事態ではない。しかし、トランプのアメリカをはじめ、今日、世界中の民主主義国家で共通して見られる現象であることも否定できない事実だ。「こんな状況はけしからん」と批判するのは、実は現実逃避にすぎない。まずは現実を直視することから始めるしかない。

メディアを叩き始めた政治

戦後の長い間、第四の権力と言われるメディアには、政治的(党派的)に中立であることが求められてきた。その一方で、政治の側もメディアに圧力をかけることはタブーとされた。

もちろん、戦後政治においてメディアが政治的に完全に中立だったと言うつもりはない。政治が水面下でメディアに圧力をかけることもまったくなかったわけではない。だが、少なくとも建前としては、「メディアは党派的に中立であり、政治は報道に介入してはならない」という考え方が世の中に受け入れられてきた。今日でも日本ではまだそう信じている人が少なくない。

しかし、少なくとも自民党とメディアの関係に関する限り、21世紀に入ったあたりからこの建前は形骸化してきた。

その要因の一つは、冷戦後に旧田中・大平派連合から清和会支配へと党内権力の重心が移行したことに伴い、自民党が右傾化したこと。
2001年には従軍慰安婦関連の番組について当時官房副長官だった安倍晋三などが右翼的見地からNHKに注文を付けたことが知られている。

もう一つの理由は、2009年に下野した苦い経験から自民党が政権維持のためならなりふり構わぬようになり、メディアへの圧力もタブー視しなくなったこと。
2014年の総選挙の際には、自民党はNHKと民放各社に「公平中立、公正」な選挙報道を求める要望書を出す。安倍政権批判に偏ることのないよう選挙番組へのゲスト選定に配慮することなど、それまでになかった露骨な圧力が加えられた。その後もこの種の要望は選挙の度に出されている模様である。
2018年秋には、国政選挙でもない自民党総裁選に関してまで、安倍と石破を対等に扱う旨の細かな要望書を新聞各社に出している。石破有利の報道を行わないよう圧力をかけるためであった。

メディアの側も情けない。言うことを聞かなければ安倍に出演・取材拒否されて番組や記事が成立しなくなることを気にかけたり、安倍一強体制が続く中、あとで有形無形の嫌がらせを受けることを恐れたりした結果、自民党の要望に大筋で従ってきた。

このように、最近では政治がメディアに圧力をかけるということが、実際に起きている。しかし、メディアに圧力を効果的にかけることができたのは、これまでは自民党だけだった。野党の多くは政治がメディアに圧力をかけることを依然としてタブー視し続けている。メディアの側も、仮に野党から圧力をかけられても無視することができた。

今回、N国は政治がメディアに圧力をかけられる可能性を大きく広げた。たった一人の国会議員しかいなくても、声を荒げる、有名人や番組スポンサーを攻撃対象に選ぶ、ネット動画で拡散する、等の手法が当たれば、メディアーー少なくとも、ワイドショーの芸能政治評論くらいならーーに圧力をかけて黙らせることができるという実例を作ったのである。

リベラル野党には無理?

ここで断っておかねばならない。N国が今回、成功裡にメディアを叩いたからと言って、すべての政党(野党)が立花のように効果的にメディアを叩けるわけではない、ということだ。

一言で言えば、野党がメディアを叩こうと思えば、ガラがよくては駄目。知性はメディア批判の邪魔をする。立花だけでなく、トランプを見ても、安倍を見ても、そのことは一目瞭然であろう。

日本のリベラル系野党は、旧民主党系を筆頭に、知識偏重でひ弱だ。かつては暴力革命を唱えることもあった共産党でさえ、今やすっかり知識人政党になってしまった。今日、リベラル系野党が産経新聞を批判しても、あることないこと反論されて返り討ちとなるのがオチだ。支持率とメディアへの露出がある程度比例する今日、弱小野党には、「メディアと喧嘩してメディアとの関係が悪くなっては困る」という要らぬ計算も働く。

フェイク・ニュースがはびこる今日、ナショナリズムと感性に訴える勢力の方が、理性や知性を重視する勢力よりも、政治やメディアの世界では有利である。
理由を簡単に説明しよう。

右寄りの政党がリベラルなメディアを攻撃する場合、テーマはナショナリズムが関わるものが多い。その際、右寄り政党は当該メディアの弱みを集中して突く。事実関係に異論があっても、ナショナリズムに結び付けて声高に叫べば、より多くの国民の共感を得ることは比較的簡単だ。しかも、右寄りのメディアもリベラル系メディア叩きに参戦する。この時点で、数のうえではリベラル勢力にとって「多勢に無勢」の状況が生まれる。一方、リベラル系メディアは、右寄りからの攻撃に対して事実関係の検証やコスモポリタニズム(または平和主義)の観点から反論しようとする。しかし、これは手間がかかるうえ、ナショナリズムの関わるテーマを論理だけで議論しても一般国民の共感は広がらない。共産党や社民党を別にすれば、リベラル系野党も国民感情に配慮して「どっちつかず」の態度をとることが多い。

右寄りメディアがリベラル系野党を批判するときは、まったく逆のことが当てはまる。敗戦後、平和主義や知性が幅を利かせた時代は終わり、リベラル系はメディアも政党も不利な立場に置かれているのが今日の実情である。

米国においても、民主党は知性を尊重する支持者を共和党よりも多く持ち、民主党の議員の間にもその傾向が見受けられる。実際、米国の民主党もトランプのフェイク・ニュース攻勢に対して守勢に回らされている。だが、米国の民主党は、日本のリベラル系野党ほど負け犬根性に支配されていないし、同党を支持するメディアを持っている(後述)。日本に比べれば、状況ままだマシと言ってよい。

日本のメディアの党派性

メディアの方も今や、政治的(党派的)中立性を維持しているかと言えば、微妙なところ情勢となった。「微妙」という言葉を使うのは、今日のメディアがすべからく政治的党派性を帯びている訳ではないからである。

我々は一般的な建前として、「新聞、テレビなどのメディアは政治的に中立・公正である」と無意識のうちに思っている。だが、現実はそうではない。

法規制上、テレビ局は前述の放送法で政治的公平性を要求されている。しかし、社の方針として特定政党を支持していても、当該政党に明白に有利な報道を連日繰り返すのでなければ、法的にはアウトとならない。毎週のように自局の番組に複数政党を出演させ、コメンテーター等が特定政党をヨイショするくらいのことは大目に見られる。

論より証拠、右寄りと言われるフジテレビの報道番組では、解説委員が露骨に安倍を支持したり、野党を叩きまくったりするが、それが放送法第4条違反だということにはなっていない。
一方で、保守系陣営から偏向報道だと批判されることの多いテレビ朝日は、安倍政権を批判する傾向が他局に比べて強いことは確かだが、自民党以外の特定政党(立憲民主党など)を支持しているという事実はない。政権批判はしても、野党にもケチをつける。教科書どおりに政治的中立であろうとしているのか、言ってみれば「おぼっちゃま」のようなテレビ局である。

NHKについては長い間、公共放送であるがゆえに民法とは別次元で政治的(党派的)中立性が求められる、と考えられてきた。しかし、NHKの番組制作に自民党や官邸が介入したらしいことは前述のとおり。安倍政権になってからは、百田尚樹、長谷川三千子、古森重隆から、安倍の家庭教師だった本田勝彦まで、安倍に近い右寄りの人物が経営委員に指名された。同じく安倍人脈の籾井勝人が会長に据えられていたことをはじめ、NHK本体の人事にも官邸の意向が反映されているという指摘は後を絶たない。

新聞になると、そもそも根拠法がないので、放送法第4条のように政治的中立を法的に求められているわけではない。右寄りで知られる産経新聞は2010年に綱領を改定して決定的に右旋回した自民党を明白に支持していると言ってよい。産経ほどではないが、読売、日経も伝統的に自民党寄りだ。
一方、朝日、毎日、東京はリベラル系と位置付けられ、自民党に批判的な論調で知られる。ただし、この3社が民主党政権時代、与党寄りだったかというとそんなことはない。権力(政権)に対して批判的なだけで、特定の政党支持を打ち出してはいない。安倍自民党が政権に返り咲いて以降は、安倍政権を礼賛した時期もあったし、評論家よろしく野党叩きに精を出すことも少なくなかった。日本のメディアは溺れる者は叩くが、強い者にはゴマをする習性があるのだ。

最近はネット・メディアも無視できない。「ネトウヨ」という言葉が示すように、この世界では右寄りの政党が支持される傾向が強い。例えば、ネット・メディアの代表格であるニコニコ動画は安倍応援団として知られている。安倍も選挙戦中の討論番組では、地上波テレビ局を差し置いてニコ動に優先的に出演する。リベラル系でニコ動に匹敵するメディアは存在しない。

世界の民主主義国家を見渡してみても、メディアが特定政党を支持する、というのは別に異常なことではない。むしろ、日本のようにメディアが政治的(党派的)に中立を装っていることのほうが珍しい。米国では、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNが民主党系、FOXは共和党系(と言うよりも最近はトランプ系)などとはっきり色分けされる。大統領選のたびにメディアの多くは自社が支持する候補を明らかにすると言う。

ただし、日本のメディアにおいては、(公言してはいないものの)自民党を明確に支持しているメディアは確かに存在する一方、(政権批判には熱心であっても)リベラル系の政党を本気で応援しているメディアはない。その結果、リベラル系政党は自分たちの主張や反論を伝えるうえでも、どうしても後手にまわる。

戦後、日本では(公明との連立も含めた)自民党一党支配が長期にわたって続き、二大政党制が根付いていないことも関係しているのだろうが、逆に言えば、現代日本政治においてリベラル政党が弱体である理由の一つとなっている。

リベラル陣営は立ち直れるか?

N国の立花がマツコ・デラックスに噛みついた事件は、与党・自民党でなくても政党がメディアを叩ける可能性の一端を垣間見せた。だが、メディアを効果的に叩く点においては、政権の座にあるか否かを別にしても、保守系政党の方がリベラル系政党よりも有利だ。しかも、リベラル系政党は、自民党が持っているような「御用メディア」を持っていない。

これでは、リベラル系野党が夢見る政権交代などまずあり得ない。万一、僥倖に恵まれて政権に就くことができたとしても、民主党政権よろしく短期間で下野することは間違いがない。リベラル系の野党は10年計画を立て、綺麗ごとでないメディア戦術を組み立てる必要があるだろう。

危機意識が足りない点では、リベラル系メディアも五十歩百歩。綺麗ごとを墨守するだけでは、このまま保守政党と右寄り行動派メディアにどんどん包囲され、「報道の自由」も何もあったものではなくなる。いつまで党派的中立性をくそ真面目に守り続けるつもりなのだろう?

リベラル勢力に頑張ってもらいたいとは思うが、楽観的展望は描けない。

「抑制しない政治」の兆しが見える①~マツコ・デラックスに噛みついた立花孝志

このところ、「NHKから国民を守る党(N国)」の立花孝志代表が芸能人のマツコ・デラックスの発言に噛みつき、話題になっている。立花一流の炎上商法に本ブログでコメントするのも馬鹿馬鹿しい――。そう思ってスルーするつもりだったが、よくよく考えてみると、この騒動の向こうに現代日本の(世界の、と言ってもよい)民主主義が直面する宿痾のようなものが見えてきた。

これまで日本では、自民党だけがメディアに圧力をかけられる存在であった。しかし、今、我々は、政治が一般的にメディアへ圧力をかけられる時代の入り口にいるのではないか。

マツコの発言は何が問題だったのか? 

7月29日に放映されたTOKYO MX(東京メトロポリタンテレビジョン)の「5時に夢中!」という番組で、マツコ・デラックスがN国について以下のように述べた。

「この人たちがこれだけの目的のために国政に出られたら迷惑だし、これから何をしてくれるか判断しないと。今のままじゃ、ただ気持ち悪い人たち」
「ちょっと宗教的な感じもあると思う」
「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」

これに対してN国代表の立花は「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒。「マツコ・デラックスをぶっ壊す!」と8月12日にマツコが出演中のMXに押しかけ、番組スポンサーである崎陽軒のシウマイについて不買運動を呼びかけたりした。その後、8月19日にもMXを訪れた立花は、崎陽軒不買運動とマツコ批判に終結宣言を出す。しかし、MXに対しては自らの番組出演を要望し、同局が見解を出すまで毎週押しかけ続けると述べた。

マツコの発言に戻ろう。
私は、マツコの発言で敢えて問題があるとすれば、N国が「これだけの目的」(=NHKのスクランブル化)のために参院選に出たことを「迷惑」と述べた部分だと思う。この発言は、シングル・イッシュー政党の存在意義を認めないことにつながる。ただし、「NHKをぶっ壊す」以外の法案賛否などについてN国の見解がわからないため、今後の言動をしっかり見定めたい、ということにマツコの真意があったのであれば、問題視するほどのこともない話だ。

芸能人ではない立花が、自分のことを「気持ち悪い」とか、「宗教的な感じ」がすると言われれば、不愉快な気持ちになったことは十分に理解できる。だが、マツコのこの感覚は少なからぬ人が抱いている感覚である。N国の候補者たちが政見放送で連日繰り返したパフォーマンスを見れば、そう思われてもまあ仕方がないだろう。しかし、マツコが思ったことをそのままに言ってはならないのは、それが誹謗中傷に当たる時のみ。今回のマツコの言葉を誹謗中傷とまで言うことはできない。(念のために付け加えると、マツコの「気持ち悪い」発言は、N国の候補者たちに向けられた言葉だと思われる。だが立花は、わざとかどうかは知らないが、これをN国に投票した人たちへ向けられた言葉と解釈しているようだ。)

結局、立花が最も問題視しているのは、N国へ投票した有権者が「冷やかし」や「ふざけ」によって投票行動を決めた、という部分なのであろう。この言葉に対して立花は、「N国に投票してくれた有権者をバカにした発言は許しがたい」と激怒してみせた。自分がケチをつけられたことに怒っているのではなく、一般有権者が侮辱されたことに対し、一般有権者のために怒っている、という体裁をとる。こういうところが立花は実にうまい。

立花は「発言は明らかに公平中立な放送をしなくてはならないという放送法4条違反」だと主張している。N国の上杉某なる幹事長も同様のことを述べ、だから、反論する機会を得るために――つまり、N国を公平に扱うために――立花をMXの番組に出演させろ、と要求している。だがこれ、ほとんど「いちゃもん」である。

放送法4条は放送番組の編集に際して以下の四点を要求している。

1.  公安及び善良な風俗を害しないこと。
マツコの発言が公安を害していないことは言うまでもない。N国の候補者たちが善良な風俗を害していないのであれば、マツコの発言も同様であろう。

2.  政治的に公平であること。
立花は、今回のマツコの発言を、一方的に特定の政治団体を誹謗中傷したものと批判する。だが、事実でもないのに「殺人者だ」「窃盗犯だ」と言われたのならともかく、この程度で「誹謗中傷」にはならない。また、立花が言うように今回の事例で政治的な公平さが損なわれたと解釈するのであれば、テレビでコメンテーターが政党を多少なりとも批判しようと思えば、その政党を必ず番組に呼ばなければならなくなる。これではテレビ局は政党について何も言えなくなってしまう。それは言論の自由の死を意味する。(ついでに言うと、放送法でいう政治的公平性を立花たちのように解釈すれば、ある政党を褒めても公平さを欠くことになるため、他の政党を呼んだ番組の中でしか許されない、ということにもなってしまう。)

何よりも、立花たちは、ここでいう政治的公平性の意味を(無知ゆえにか故意にか)間違って解釈している。政府が想定しているのは、「選挙期間中又はそれに近接する期間において殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合といった極端な場合」や「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が一方の政治的見解を取り上げず、殊更に他の政治的見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合」等だ。放送法第4条にいう政治的公平性は、マツコのような他愛のない発言について針の先のような形式主義をあてはめようとするものではない。

3. 報道は事実をまげないですること
マツコが「冷やかしもあって、ふざけて入れた人も相当数いるんだろうなと思う」と述べたことに対し、立花は「みんな真剣に投票している」「誰がふざけて選挙の投票なんかするか!」と怒る。しかし、マツコは「N国に投票した人のすべてがふざけて入れた」と言ったわけではない。実際、「面白そう」というノリでN国に入れた人はいただろう。マツコの発言を虚偽と断定することはできない。それでも立花がマツコを批判したければ、ふざけてN国に投票した人が一人もいなかったことを立花たちが証明すべきだ。立花は「挙証責任はマツコの側にある」と主張するだろうが、それでは放送番組で政治を論じることは事実上できなくなる。

4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

これは例えば、外国人労働者の受け入れとか、カジノとか、憲法改正など、相反する意見がある重要課題について、多様な見解を紹介して一方的な議論にならないようにする、という意味。今回の件が当てはまらないことは言うまでもない。

結論としては、今回のマツコの発言が放送法4条に違反している、というN国の主張自体がフェイクである、ということ。マツコ発言には、立花が噛みつくような正当な問題など見当たらない。

バラエティー政治評論の限界

以上で述べたとおり、立花のマツコ批判は間違っている、と考えるのが正論だ。しかし、立花は自分の議論が正論かどうかなど歯牙にもかけていないだろう。マツコを叩くことによってN国の宣伝は十分に(かつ安上がりに)果たした。

もう一つ、マツコたたきで立花とN国が得たものがある。メディア、少なくともワイドショーのバラエティー政治評論の側に「N国を叩くと面倒なことになる」という気持ちを植え付けたことだ。

今回の顛末を通して、マツコやMX側がダンマリを決め込んでしまったのには少し拍子抜けした。マツコにしてみれば、「反論すれば立花の思う壺」と(それなりに)賢明な判断をしたつもりなのかもしれない。だが、そのために世間では「立花の主張の方に分がある」という見方が広がってしまった感がある。

マツコに限らず、吉本問題ではあれほど好き勝手に発言していたワイドナショーのコメンテーターや芸能人たちも――「爆笑問題」の太田光など一部の例外を除いて――、この件については歯切れが悪い。自分の見解を表明して立花の標的になることを怖れている、というのは考えすぎかもしれないが、彼らは明らかに「怯んで」いるように見える。(私はワイドショーをそんなに見ているわけではないので、あくまで漠然とした感想である。)

これまでワイドショーでキャスターやコメンテーター、わけても芸能人が政党や政治家を批判したり、おちょっくったりしても、今回マツコのように噛みつかれることは基本的になかった。特に、野党を批判しても、批判された側が彼らに牙をむいてくる心配は不要であった。(国会議員ではなかったが、橋下徹はメディアへの反論を厭わなかった。それでも橋本は知識人。反論は言論にとどまり、テレビ局に抗議に出向くようなことはなかった。) 言わば、自分の身は安全な場所に置いたまま、好きなことを言ってもよかった。

ところが今回、たった一人しか国会議員のいない「弱小」政党に軽口を叩いたところ、口汚く猛反発を食らったあげく、テレビ局にまで押しかけられ、スポンサー企業の不買運動まで口にされた。

単にすごむだけではない。芸能人には馴染みのない言葉(放送法第4条とか)を織り交ぜてくる。「崎陽軒に罪はない気がする」と軽いノリでツィートしたダルビッシュ投手は、N国幹事長の上杉から「崎陽軒に罪はないのならば、誰に罪があるのでしょうか?」と完全に議論をすり替えられ、「危機管理」「公共の電波」とむずかしそうな言葉を並べた反論を受けてしまう。少し知識のある人なら、上杉の議論など完全に反駁できるものだが、罪のないダルビッシュは謝罪に追い込まれてしまった。

米国などでは芸能人が支持政党を明確にし、政治的主張を行うことは珍しくない。彼らは、知識、意識、ディベート術もそれなりのレベルにある。政治家と対決することも辞さない。と言うか、その気がなければ表立って発言したりしない。だが、日本の芸能政治評論にそんな覚悟は見られない。立花に噛みつかれた途端、マツコや他の芸能人たちが怯んだのも当然である。

沈黙する報道メディアと政治

今回の一件では、もう一つ肩透かしをくったことがある。新聞を含めた既存メディアや政党(特に野党)がこの件についてあまり発信しなかったことだ。ワイドショーには娯楽色があり、あまり肩ひじ張って政治的公平性の話題を掘り下げろと言うのも酷なところがあるかもしれない。しかし、テレビの報道番組や、新聞までもが今回の騒動に目立った反応を見せていないことは理解に苦しむ。新聞やテレビ局にとっては、愛知トリエンナーレを社説で論じるのと同様の重要性があると思うのだが・・・。

お堅い政治評論の世界に住むお歴々は、芸能人やワイドショーを見下しているのかもしれない。N国とマツコ・デラックスの衝突など、高尚な政治テーマを扱う自分たちが関わる話題ではない、と思っているのかも。しかし、N国的な対メディア攻撃はいずれ、報道メディアにも向かう。(自民党による攻撃に対しては、すでに防戦一方となっている。)今回、報道メディアが黙っているのを見て、彼らもバラエティー政治評論とそれほどレベルは変わらないのだな、と思った次第である。

N国以外の政党からも、立花の言動に対して大きな異議の表明はなかった。私の知る限りでは、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)が「働いている場所までチームのスタッフを連れて行き、目の前で街宣活動するのは国会議員という権力者としてはやりすぎ」と述べたのが唯一である。ただし、松井は「テレビコメンテーターが批判する内容によっては、反論すべき」とも述べている。マツコの発言やそれに対する立花の見解に対する評価には踏み込んでいない。どっちつかず、でN国に対する遠慮さえ感じられる。

 

次回は議論を一歩進め、日本の政治がメディアに圧力をかけている現状を概観してみたい。今の時代にそれが与野党のパワーバランスにどのような影響を与えるかについても考えてみたい。

「NHKから国民を守る党」なる存在

7月21日に投開票のあった参議院選挙は稀にみる凡戦であったが、それゆえに合計してわずか3議席を獲得した二つの政党が注目を集めた。言うまでもなく、一つは「れいわ新選組」、もう一つは「NHKから国民を守る党(N国)」だ。れいわは2,280,253票(4.6%)で2議席、N国は987,885票(2.0%)で1議席を比例代表選挙で獲得した。

その後、N国代表の立花孝志は矢継ぎ早に――いかにも胡散臭そうな人物がここまでやるとは誰も予想していなかったはずである――動く。維新の党から除名され、国会で糾弾決議案を可決された丸山穂高を入党させ、今はもう皆が忘れていた渡辺喜美と共同会派を組んだのだ。最近は永田町関連のニュースが夏枯れ状態なこともあり、メディアは立花を時の人のごとく扱っている。

本ポストでは、N国が議席を獲得した意義、今後の展開、NHK政策の行方について少しばかり想像をめぐらせてみた。

シングル・イッシュー政党として初の国政進出

NHKを国民から守る党は、日本で最初に国会に議席を獲得した「シングル・イッシュー(単一争点)政党」として記憶にも記録にも残ることだろう。N国はNHK放送をスクランブル化することを唯一の公約として掲げた。これに対し、れいわの政策「消費税廃止」が話題になった。しかし、同党は「政府保証つき最低賃金1,500円」「奨学金チャラ」「原発即時禁止」「安保法制廃止」など、様々な分野で公約を発表している。政策のエキセントリックさという意味ではれいわもN国も似たりよったりのところがあるものの、れいわはシングル・イッシュー政党ではない。

なお、シングル・イッシュー政党というだけであれば、N国が初めてというわけではない。今回の参議院選でも「安楽死制度を考える会」はシングル・イッシュー政党と呼んでよかった。しかし、各得票数は233,441票(0.5%)にとどまり、議席獲得はならなかった。

N国が議席を獲得できた理由

なぜ、N国は比例代表で2百万票以上を獲得できたのか?

第一は、唯一訴えた政策が国民の琴線に触れるものだったこと。テレビを持っていればNHKの番組を見なくても受信料を支払わなければならないという仕組みが法律のみならず最高裁でもお墨付きを得ていることに対し、理不尽だと思う国民は決して少なくない。しかも、主要政党はその不満を代弁する気配すら見せようとしない。「NHKをぶっ壊す」というN国の公約はそこを突いた。

第二は、代表の立花孝志なのか、彼の周辺にいる人物なのかは知らないが、同党がネット(特に動画)戦術に長けていること。政見放送を聞く限り、NHKをぶっ壊さなければならない理由は「NHKの男女のアナウンサーが不倫路上カーセックスをしたのに、NHKはその事実を隠蔽しているから」ということにあるそうだ。こういう馬鹿馬鹿しさも拡散には役に立ったのであろう。(私には理解できないが・・・。)

第三は、N国は今回の参議院選で「ぽっと出」の政党ではなく、ここ数年、地方議員選挙に候補者をたてており、参議院選前で首都圏を中心に27人の地方議員を輩出するに至っていた。ネット選挙は空中戦だが、N国は最低限の地上部隊も持っていたのではないか。

第四に、NHKを叩く立花の主張は右翼及び右翼的思考の持ち主の一部と共鳴する。2001年にNHKが戦時性暴力に関する番組を放映したあたりから、安倍を含む自民党右派や右翼団体の一部はNHKを敵視するようになった。先に指摘した国民の根源的な不満に加え、日本社会全体の右傾化に伴い、NHKをぶっ壊すという主張は受け入れられる素地が拡大しているものと考えられる。

第五に、国民民主党に行くはずの比例票が一部按分されてN国に流れた可能性もある。今回、国民民主は略称を「民主党」で届け出た。旧民主党や立憲民主党の支持者が間違って投票してくれることを期待したとも言われている。その結果、国民民主に入れるつもりで有権者が「国民」と書いた票は、「NHKを国民から守る党」と按分されたというのだ。まあ、これは検証のしようがない話なので、話半分で。

スクランブル化の議論に火がついた

次に、N国が国会に議席を獲得したことは、NHKの今後にどのような影響を与えるだろうか?

N国が掲げているのは、NHK放送をスクランブル(暗号)化し、受信料を支払うことに同意した人のみがスクランブルを解除してNHK番組を見られるようにする、というもの。現在、地上波デジタル放送は(NHK以外は)無料でB-CASカードがもらえてスクランブルを解除しているが、N国はNHKに関してWOWOWと同じように有料で解除する仕組みを導入すべきだと主張している。

これ、NHKを観たい人のみから受信料をとる、という仕組みであり、一見とてもよい。こういう受けのよい政策を他の政党は考えつかなかったのか、と疑問に思って調べてみたら、やっぱりあった。日本維新の会だ。詳細は不明ながら、マニフェストに「NHK改革。防災情報など公共性の高い分野は無料化し、スマホ向け無料配信アプリを導入。有料部分は放送のスクランブル化と有料配信アプリの導入。」と書いてある。ただし、維新は選挙戦の期間中、ほとんど強調しなかったので世の中の耳目を引くことはなかった。

これからは全政党がNHK政策をどうするのか、明らかにしなければならなくなる。N国なる存在がこれだけ注目を集めてしまった以上、(NHK以外の)マスコミは各党に対し、「NHKのスクランブル化についてどう考えるか?」と問うに決まっているからだ。

まず、他の野党はどうだろうか。国民に受けがよく、選挙で票になることが証明されたこのテーマについて、「うちは反対」とにべもなく言い切れる党がどれだけあることやら? まあ、野党が揃ってNHKスクランブル化を言い立てたところで、今の国会の議席状況を考えれば、野党の力でスクランブル化が実現する可能性はありえない。

一方、自民党と公明党は政権与党はこれまで政策、そして今ある法律に縛られる。スクランブル導入に乗ると言っても、責任与党としての立場を考えれば、後述するように簡単な話ではない。むしろ、密かに注目すべきは、今すぐではないにせよ、自民党内でもポスト安倍に絡んで有力な総裁候補がNHKスクランブル化を持ち出したりする可能性。ひょっとすればひょっとしかねない。そうなれば、たった1議席を獲っただけのシングル・イッシュー政党が及ぼす影響は信じられないくらい大きなものになるわけだ。

ただし、スクランブル化が大きな政策的焦点になり、N国以外もそれを叫びはじめた瞬間、N国の存在意義はほとんど消滅する。シングル・イッシュー政党がシングル・イッシュー政党のままでいる限り、それは事の理である。その時、立花という人は別のイッシューを見出して時代の寵児であり続けようとするのだろうか?

追い込まれるNHK

さて、立花は、国会議員になってもNHK受信料を踏み倒す、と宣言している。本人は炎上商法のつもりだろうから、騒ぎになればなるほど成功だと思っているんだろう。

これを受け、松井一郎大阪市長(日本維新の会代表)は「現職国会議員の受信料未払いをNHKが認めるなら、大阪市もやめさせてもらう」と表明したと言う。同じくの維新の吉村洋文大阪府知事と永藤英機堺市長も、NHKの対応次第では、府または市として受信料の支払いを拒否する、と述べた模様だ。立花の不払いに対し、国会議員だからといって特例を認めるなよ、とNHKに圧力をかける意味合いだと思いたいが、ポピュリスト維新のことだから、その真意は奈辺にあるのやら? いずれにせよ、「あいつが法律守らなくていいんなら、俺も法律守らないよ」とご立派な政治家さまが揃って仰るのは、子供たちにとても見せられた光景ではない。

そういえば、国民民主党の玉木雄一郎代表まで「法律に定められている義務を果たさず、平気でいるのであれば、国民民主党も払いたくない」と述べたとか。玉木は結局、「支払うべきだ」と言っているようでもあるが、あまり考えたうえでの発言ではなさそうである。

国会議員たちが政治の世界における倫理の崩壊を食いとどめたいと本気で思うのであれば、彼らにはやるべきこと、できることがある。秋の臨時国会で「国会議員が不法行為に及び、また奨励すること」を以って、立花に対して糾弾決議を行うのだ。(そうすると、N国は糾弾決議を受けた議員の集まりになる。)

誤解のないよう言っておくが、私はNHK受信料制度を改革することは大賛成だ。しかし、国会議員が現行法を守ったうえで法改正を提案する、というのならともかく、国会議員が違法行為を行うと堂々宣言するわけだから、これを「オモロイやないか」と笑ってすませるのは変だ。

いずれにせよ、N国が火をつけたスクランブル化の議論は、理屈を超えてNHKへ圧力をかけることになる。そこでNHKはどう動くか?

まず考えられるのは、国民の反発をやわらげるため、受信料の値下げに動くこと。NHKはこれまで何だかんだと理由をつけて意味のある値下げは避けてきた。来年度のNHK予算をどう組むか、注目が集まるだろう。

それ以上に安易、かつNHKの自殺につながりかねない道は、政治に助けを求めること。結果として、官邸や政権与党への忖度が今以上に強まることは言うまでもない。これは外からはなかなか見えにくい話であり、我々はリークによってのみ気づくことができよう。

筋から言えば民営化

スクランブルを導入すれば、NHK番組を見たい人だけが受信料を払ってスクランブルを解除して見る、ということになる。ほとんどの視聴者がスクランブルを解除するために受信料を払い続ければ、NHKの経営にそれほど大きな影響は出ない。受信料を払いたくない人が払わなくてすむだけで、害の方は表面化しない。しかし、相当数の人が「払わなくていいんなら、払わない」と考えれば、NHKの受信料収入は大きく落ち込む。こうなれば、受信料を払い続ける人には受信料値上げの形で跳ね返ってくることは避けられない。

確かに、NHKのドキュメンタリーやドラマなどは、金をかけているせいもあって、質は高いというのが一般的な評価だろう。朝から晩までやっているバラエティーも、視聴率は比較的好調のようだ。しかし、問題は、民放をタダで観られる時に、金を払ってまでNHKを見る人がどれだけいるか、ということ。直感的に考えれば、目に見える形で減る可能性が高い。そうなると、スクランブル化したうえに大幅な受信料引き下げに追い込まれ、経営への影響も出てくるだろう。そもそも今、放送法でテレビを持っていればNHKの受信料を支払わなければならないと義務付けているのも、そうしなければ払ってもらえないからである。

しかし、NHKを観たかろうが観たくなかろうが、受信機を持っていれば問答無用で受信料を支払わされる、という現行の仕組みは、中世じみた理不尽な制度だ。現状維持は不正義と言うべきであろう。

ここはやっぱり、スクランブルなんかじゃなく、NHKの分割民営化だ。教育テレビは国営にして税金で運営する。これだけのために受信料制度を残しても、徴収コストがバカにならないし、どうせまた立花のようなに難癖を付けて支払わない人間が出てくるに違いない。

今日、NHKを民営化しても、大きな問題は出てこない。世界を見回してみても、米国をふくめ、民主主義国家で国(政府)が放送機関を所有していない例はいくらでもある。かつては、NHKの制度を正当化するのに「報道の中立性」ということが言われていた。だが、今の制度がNHKに政治的中立性をもたらしているのかと問われれば、首を傾げざるをえない。法律で受信料収入を担保され、予算や経営委員を国会で議決されるからこそ、NHKは政治の介入に脆くなってきた。昔の政治家はともかく、今の自民党右派なんかはNHKへ圧力をかけることは当たり前くらいにしか思っていない。

小泉純一郎が唱えた郵政民営化と違って、民営化したら地方にテレビ放送がなくなる、ということも起こらない。郵便局がなくては郵便の集配はできないし、過疎地では決済・金融仲介機能が失われてしまう。しかし、受信機さえ各家庭にあれば、電波は空を飛んでいく。

唯一、問題があるとしたら、NHKという鯨が解き放された結果、民放が1~2社つぶれることか。だが、つぶれるテレビ局や関係者にとっては死活問題でも、国全体で見た時には不要なものがなくなるだけの話にすぎない。どのチャンネルを回しても同じような番組ばかりということは、供給側が需要側のニーズを満たすことができないということの裏返しである。もっと言えば、今後放送とインターネットの融合が進む中で、放っておいても今ある放送局のすべてが生き残るということは考えにくい。

さあ、どの政党が最初にNHK民営化論をぶちあげるだろうか? 言っておくが、NHKからも民法からも目の敵にされるから、覚悟して打ち上げたほうがいい。ただし、政策としての筋は悪くないし、国民の支持は得られると思う。NHKの中にも、スクランブル化の影に怯えて今以上、政治への忖度を強めることになるくらいなら、民営化して独立した報道をやりたい、と思う人もいるだろう。私は、その方が健全だと思う。

「スクランブルの見返りに改憲」というディールはない 

一部メディアでは、先の参議院選挙で改憲発議に必要な2/3議席を自民・公明の与党と維新等で確保できなかったため、立花が安倍と「安倍がNHKのスクランブル化に同意する見返りにN国が安倍の改憲に手を貸す」のではないか、という見方が出ているようだ。しかし、それはないだろう。

N国はNHKのスクランブル化以外に公約がない。NHK問題以外の採決等では党議拘束もないそうだし、将来的には国政事項は国民投票で決めるというようなことを言っている。逆に言えば、フリーハンドであり、改憲を含め、政権にすり寄ることにも抵抗はない。

だが、安倍(自民党)は政府を率いている。ただ2/3が欲しくてNHKのスクランブル化を飲む可能性はほとんどないと思われる。安倍がNHKを嫌いだったのは、NHKが自分に噛みついたり、戦後レジームの復活に盾ついたりするような番組を制作したからだ。安倍政権も7年目を迎え、人事面でも随分自分たちにとって都合のよいNHKになってきている。「N国からNHKを守る」というポジショニングをとることは、今の安倍にとっては決して損な話ではないだろう。

何よりも、憲法改正は、2/3という数があれば自動的に改憲できる、というような単純な話ではない。ただ2/3があればよいのなら、前回(2016年)の参議院選挙以降、とっくに改憲は実現しているはず。今現在でも、野党の中にいる隠れ改憲派を個別に口説き落とせば、立花のような胡散臭い議員に声をかけずとも2/3は達成可能であろう。現実には、2/3の内実は公明党を含んだ数字であり、虚ろなものにすぎない。よほど世論をうまく操縦するためのきっかけを掴まない限り、表面的に2/3を得たところで改憲はなるまい。安倍はそのことがわかっているはずだ。

 

N国なる政党と立花孝志なる代表。私には、日本でポピュリズムが勃興しはじめた時代に咲いた仇花のように見えてならない。

自由を振りかざすだけで自由は守れない――「表現の不自由」展の中止に思う

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が中止された。従軍慰安婦をテーマにして韓国人作家が作成した少女像が物議を呼び、右系の人たちからの脅迫や一部政治家の圧力が昂じたため、安全を確保できなくなったためだと言う。

私自身、この少女像を見たいとは思わないし、見ても気持ち悪いとしか思わないに違いない。しかし、だからと言って、人が何かを表現するのを脅迫や圧力でやめさせるようなことがまかり通れば、この国の自由は失われてしまう。企画展が中止に追い込まれたことは言語道断だ。

そのうえで言えば、日本人が自由のために戦う覚悟は、軽い。今、日本や世界を覆う不自由の空気がどれだけ重いかについての認識も、甘い。今回、つくづくそう思った。

今日、表現の自由を奪う力は、ナショナリズムと連合して力を増幅している。我々が教科書で習った「表現の自由」を振りかざすくらいでは、それに対抗することなどできない。芸術家やリベラルな人たちからは怒られるかもしれないが、国民の多数派を味方につける政治的戦略性がなければ、自由はどんどん失われていくだろう。

展示中止に至った顛末

8月1日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」という企画展が開催された。わずか2日後、同芸術祭実行委員長の大村秀章愛知県知事はその中止を発表する。展示では、昭和天皇をコラージュした版画や「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句など、国内で展示や発表が中止された作品、旭日旗を連想するとして在米韓国人団体から抗議を受けた横尾忠則氏のポスターなど、様々な作品が出品されていたらしい。

その中に韓国人作家が従軍慰安婦をテーマに作成した「平和の少女像」などもあった。これが右翼系の人に限らず、反韓感情を持つ人を刺激した。放火をほのめかすなど、悪質な脅迫が相次いだそうである。菅官房長官や柴山文科大臣は同展への補助金の差し止めを示唆し、ポピュリスト政治家の河村たかし名古屋市長がこれに乗って企画展の中止を声高に求めた。大村知事もこれに抗しきれず、また、危機管理上の懸念も本当に感じたのであろう、企画展の中止を決めたというのが大筋の経過だ。

国民の反応は冷淡

こうした動きに対し、日本ペンクラブは展示の継続を求めて抗議声明を出した。朝日新聞(8月6日付社説:あいち企画展 中止招いた社会の病理)、東京新聞(8月7日付社説:「不自由展」中止 社会の自由への脅迫だ)、毎日新聞(8月6日付社説:「表現の不自由展」中止 許されない暴力的脅しだ)も、やはり報道の自由が失われることに危機感を露にした。

一方、産経新聞(8月7日付主張:愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か)は上記三紙とは異なる調子の社説を掲載。「暴力や脅迫は決して許されない」と形ばかり書いたあと、天皇を題材にした作品や少女像については「ヘイト行為」だと述べ、それは「表現の自由」か、と疑問を呈した。ヘイトに最も親和性の高い新聞らしい社説だが、この説を認めれば、産経新聞が主張する歴史認識は韓国人や中国人にとってはヘイト行為であり、産経新聞の表現の自由も許されない、ということになる。

社説の内容は、朝日などの言い分がまったく正しい。これが20世紀後半のことであれば、世の中は「表現の自由」封殺に対する批判の大合唱となっていただろう。

しかし、現実はどうか。世の中は大きな声をあげようとしない。いや、むしろ、河村や菅、ひいては産経新聞の主張の方が正しい、と感じる国民も決して少なくない。野党を含め、永田町だって、国会閉会中ということを勘案しても、静かなものである。

今回、少女像は展示すべきでなかった

日本国民のほとんどは、表現の自由の重要性を理解していると思う。皆が皆、産経新聞の言説に同意するわけでもあるまい。しかし、今回、少なからぬ国民は、少女像の展示を「表現の自由」の問題ではなく、「ナショナリズム」の問題として捉えた。その結果、「表現の不自由展・その後」は表現の自由を守るために少女像を展示し、表現の自由を後退させた。

それでなくても、経済は停滞、社会の較差も拡大して国民の間には閉塞感が募っているのが日本の現状。そこへもってきて、韓国が日本をナショナリズムの標的にし、日本もとうとう売られた喧嘩を買って韓国にナショナリズムの牙を向けた。日本人が――世界中で見られる傾向かもしれない――少しずつ右傾化(という言葉が不正確なら自国第一主義)の方向に向かっていることは紛れもない事実だ。そして、右も左も無党派も、日本人は韓国が嫌いになった。少なくとも、韓国に「ウンザリ」している人があふれている。

このタイミングで少女像を展示すれば、言論や表現を弾圧する側がナショナリズムを利用し、大手を振って自由に圧力を加えることは、十分に予想できたはずである。

日本人は表現の自由を誰かと戦って勝ち取ったわけでは、基本的にない。敗戦と憲法によって与えられ、教科書で習ってきたにすぎない。だから、ひ弱なインテリが表現の自由を守ろうとして立ち上がるのはよいが、抑圧する側がナショナリズムと組んだら、ひとたまりもない。

理想を曲げることになろうとも、表現の自由を守りたいのであれば、今回は抑圧する側がナショナリズムと手を結びにくいテーマに絞るべきだった。むしろ、表現の自由を守る側がナショナリズムと手を結びやすいテーマを選び、表現の自由に対する国民の共感を得て自由のための橋頭保を築くくらいのしたたかさがあれば、と思う。「少女像」の展示は、そうやって国民の理解を得たうえで、もう少し日韓関係が落ち着いてからにすればよかった。(天皇を題材にした作品については、右系の人が騒いでも国民的な広がりを持つことはなかったであろう。今回、外すべきだったとは考えない。)

ここからは余談の部類を少し。
今回、芸術祭の主宰者や愛知県知事はわずか三日で展示の中止を決めた。もちろん、当事者にしかわからない恐怖や責任感もあったとは思う。だがそれにしても、「あっけなかった」というのが正直な感想だ。私の奥方も、「こんなもん出す以上、脅迫がくることは誰だって想定できたでしょう? 根性もないのにやって腰砕けだね」と首をかしげていた。

だがその一方で、実行委員会のメンバーが大村知事に公開質問状を出し、展示の再開を求めている模様だ。まあ、彼らにしてみれば、「大村や津田大介(芸術監督)はひよったが、我々は教科書に書いてあるとおりに正しい」と言いたいんだろう。とにかく正論にこだわるかと思えば、政治的に味方になるはずの人も公開の場で批判する。だから、日本のリベラルは駄目なんだ、と思わざるを得ない。正論を吐くがひ弱、というのは朝日の社説を読んでも思った。

 

今回、私が書いたことは、正論としては明らかに間違いだ。表現の自由は、それが犯罪行為にでもつながらない限り、絶対的に守られるべきものである。政治的な理由から韓国絡みの表現の自由をことさら目立たせるべきではない、という主張は、本来、表現の自由とは相いれない。

しかし、戦前を含め、純粋な正義が負けた例は歴史上、いくらでもある。戦前は、自由のために命をかけて戦っても、政府から弾圧され続け、戦争に負けるまで自由を得ることはできなかった。今の世の中、戦前と違うのは、国民を味方につけた方が勝つ、ということ。

だが逆に、正論だけ振りかざしても、国民を味方につけられなければ、自由は失われる。憲法で文字上、自由が保障されていても、自由が自動的に守られるわけではない。その主張がどんなに正しくても、国民が共感しなければ、国民は知らず知らずのうちに自由に背を向ける。

そう、国民は、自由にとって味方にも敵にもなる。自由を守りたければ、時には回り道も必要だ。

 

追伸:今日、吉村洋文大阪府知事が少女像などの提示を「反日プロパガンダ」と呼び、「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」「(大村氏は)知事として不適格じゃないか」とまで言ったらしい。この人、松井一郎大阪知事が変なことを言うとオウム返しで変なことを増幅して言うことが多い。

大村知事にどこまでの覚悟があったかは別にして、表現の自由の問題提起をすることに公金を使うのに、何の問題があるというのだ? 政府が補助金を出したくない、というのなら、勝手にすればよい。だが、大阪知事風情が便乗してこんなことを言うなんて、維新のポピュリスト政党的ないやらしさが全面に出ている。

政治戦略上の理由から少女像は展示すべきではなかった、と私は本ブログで述べた。しかし、松井や吉村がここまで言う以上、ガツンと反論しておかないと言論抑圧とナショナリズムの悪い結合が進みすぎてしまう。野党の国会議員も黙っていないで少しは大村知事に加勢してやったらどうだ? 立憲民主と国民民主は国会で統一会派とか言っているらしいが、あんまり国民に嫌われるのを怖がって沈黙していると、支持率で維新に抜かれる日が来るんじゃないのか。

参議院選挙が思い知らせた「選挙における政策論争の消滅」

7月21日(日)に参議院選挙が行われた。各党の議席数は報道されているとおりである。とても醒めた言い方になるが、れいわ新選組やNHKを国民から守る党が議席を獲得したことを含め、あまり驚きのない結果であった。

各党の勢いを見るため、今回の参院選と前回(2017年10月)の衆議院選で主要政党が獲得した得票率を並べてみよう。

〈主要政党の比例得票率〉 (単位%)

自民 公明 立憲 維新 希望 国民 共産 れ新
前回

衆院選

33.3 12.5 19.9 6.1 17.4 7.9
今回

参院選

35.4 13.1 15.8 9.8 7 9 4.6

絶対的な得票数は落ちていても、与党は得票率を増やしている。自民は35%で野党第一党の立憲に対してダブル・スコア以上の大差をつけた。自公の合計は48%超。半分を切っているという見方もできるが、やっぱり強い。

一方、立憲民主は2年前から得票率を落とし、党勢にブレーキがかかっていることを窺わせる。2年前の支持層の一部は山本太郎のれいわ新選組に流れたのかもしれない。だが、前回衆院選で自公や希望に行った票――総投票数の約63%に及ぶ――をこの2年間、ほとんど取り込めていないという現実の方が深刻だ。せめて2割近くを握っていないと、立憲が野党の核になることも、野党全体で与党に対抗することも望めない。

維新の会は小躍進した。この春に仕掛けた大阪府知事と大阪市長のスライド選挙という賭けが吉と出て、関西圏(及び首都圏)で久しぶりに風が吹いた、というところだ。

現状、野党に国民の支持が大きく集まる気配は見られない。政権交代はおろか、与野党がある程度伯仲して政権運営に緊張感をもたらすこともむずかしい――。それが偽らざる感想だ。

さて、今回の参議院選挙ほど、政策的争点のない選挙はなかった。だが私は、それを「野党がだらしないから」と簡単に言うべきではないと思う。国民に語るべき大きな政策を持たない点においては、与党も五十歩百歩だからである。素性の知れない人物の唱える「NHK放送のスクランブル化」というニッチな公約が一番目立った、という情けない事実がそのことを如実に示している。

このブログでは、国民の関心が高かった経済(景気)と社会保障の分野において、参議院選挙を通じて各党がどのような政策を公約したか、少し復習してみたい。

経済政策

今回の参議院選挙の最大の争点は、10月に予定されている消費税率引き上げの是非だという見方が事前には強かった。確かにテレビの討論番組などでは司会者がこの問題を提起してはいた。しかし、多くの有権者がそれによって投票行動を決したとは思えない。その理由はいくつかある。

一つは、現在の政治状況からくる諦観。今日、衆参では与党が圧倒的多数を占めている。選挙前の世論調査でも自民党の支持率が4割前後なのに対し、野党第一党の支持率は10%以下。自民党には公明党(創価学会)という選挙上最強の後ろ盾もついている。しかも、小選挙区の衆議院ならともかく、中選挙区的な要素の混じり、半数しか改選されない参議院選挙では、政権交代や衆参の捻じれが実現することはありえない。

もう一つは、国民の意見が分かれていること。世論調査では、国民の半数近くが消費税率引き上げに反対と答える一方、賛成という国民も常に4割近くいる。反対と答えた国民でさえ、少子高齢化が止まらない中、社会保障や教育・子育て政策に充てるため、消費税率引き上げが必要だと言われれば、「消費税が上がるのは嫌だけど、仕方がない」と思う者が少なくない。他所の国ではどうか知らないが、日本人には真面目な人間が多いのだ。

次に、経済政策として争点となり得たアベノミクスはどうだったか?

安倍の政権復帰から6年経った今、アベノミクスはメッキの剥がれが相当目立ってきている。安倍政権はこれまで、株価など良好な指標のみを宣伝し、民主党政権の致命的なまでのガバナンスの悪さを思い起こさせることでアベノミクスの優位性を喧伝してきた。だが、安倍政権下で日本経済の平均成長率は+1.15%にすぎない。IMFの予測によれば、今年の経済成長率は+0.9%、来年も+0.4%と今後も低水準が続く。「悪夢の民主党政権」の3年間、東日本大震災を経験したにもかかわらず、日本経済が平均して年率+1.87%で成長した。国民もさすがに「アベノミクスも言うほどの成功ではない」と気づき始めている。

ところが、野党の側はアベノミクスを批判するだけで、対案を示せない状態が何年も続いている。特に、野党第一党の立憲民主党に骨太な経済政策が見あたらないのはつらい。

もっとも、野党にも(与党にも)同情すべき部分はある。人口減少が続く日本で、経済政策の妙案がおいそれと見つかるわけはないのだ。立憲民主などは、経済音痴であることを認めて開き直ればよいのに、と思う。「経済運営は政権交代しても基本的に変えない。低金利政策と財政出動は基本的に継続する」と言っておけば、経済界や多くの労働者は安心する。旧民主党政権も東日本大震災を受けて財政出動は十分にしていた。日銀が超低金利政策に転じたのも野田政権末期のことだった。経済政策は自公を引き継ぐことにして、それ以外の政策で与党と差別化を図る、というのも選挙戦略としてはありえるんじゃないかね?

立憲以外にも少し目を向けてみようか。維新は相変わらず、お題目みたいに規制緩和と言うだけ。昭和末期から平成初期に流行った議論だが、ある程度の経済成長を実現するには線が細い。国民民主は今回、高速道路千円、家賃補助、児童手当増額など、積極財政政策に舵を切った。こども国債という名目で現代貨幣理論(MMT)に乗ったようにも見える。ただし、選挙戦を通じてこうした政策が注目されることはまったくなかった。この党は政策以前に党としての信頼性獲得が課題かな? 共産党の経済政策は、アンチ・ビジネスと低所得者偏重が過ぎるので論評しないでおこう。

年金政策

もう一つの大きなテーマになると思われた年金政策はどうだったか?

参院選の直前、金融庁の審議会が「老後、公的年金だけでは足りないから2000万円の貯蓄が必要」というレポートを出し、選挙への悪影響を恐れた政府が受け取りを拒否するという珍事件が起きた。政府は「年金は百年安心」と言ってきた(と思われてきた)ため、国民の政権不信が一気に高まった。ある野党の政治家は「神風が吹いた」と喜んだそうだ。

しかし、結果的に神風はそよ風程度のものだった。野党はここでも対案を出せなかった。例は良くないが、イギリスのブレグシットも、「EUはけしからん」だけなら国民投票にたどりつくことはなかった。「EU残留」と「EU離脱」という2つの選択肢が示されてはじめて、国論を二分する一大争点になった。年金も選択肢が複数なければ論争にならない。

確かに、年金というテーマに国民の関心は非常に高い。しかし、国民の大多数を喜ばせ、納得させられる解決策は存在しない。誰だって、支給開始年齢は今のまま、支給額が増えるのがいいに決まっている。そして誰だって、保険料負担や消費税が上がるのは嫌だ。この2つの矛盾を解決するには、高齢化の進展以上の速度で労働力人口が増え続けるか、給料が上がり続けるしかない。それができたのは高度成長期のみであり、今はもう不可能だ。

結局、各党の提示しうる年金政策は、年金制度をやめないかぎり、

    1. 年金支給年齢の引き上げや年金支給額を減らしながら、現行制度を続ける
    2. 年金支給額を維持・増加するため、保険料や消費税率を引き上げる

のいずれかとならざるをえない。(それ以外にも、財政赤字を増やしてでも少子化対策を打つとか、移民を大幅に増やすと言った選択肢も考えられるが、今回は深入りしない。)

自公は①を称して「100年安心」と言っている。決して、現行の年金支給水準が100年続く、という意味ではない。給付水準を下げれば制度が維持されるのは当たり前。だから、嘘とは言い切れない。だが、国民が誤解するに任せていたのは「ズルい」話だ。ちなみに、金融庁の報告書が「2000万円必要」と言ったのは、①を前提にしたギリギリの生活が嫌だったらお金を貯めておいた方がいいですよ、という意味とも読める。

一方、年金の支給額が不十分だ、という野党の主張を政策にしようと思えば、②の方向へ行かざるをえない。ところが野党は、10月の消費税率引き上げにすら反対している。国民の負担増を公約として打ち出すことなど論外だ。勢い、その年金政策は曖昧となり、選挙戦の最中も政府・与党の隠蔽体質を批判するにとどまった。(公平を期すために言うと、野党は低年金者対策の充実についてはこの選挙で具体策を示していた。しかし、わずかの金額であるうえ、正当に保険料を支払った大多数の国民には関係がない話であったため、争点になることがなかったのも当然である。)

野党の参院選公約を見ると、立憲民主は最低保障機能の強化を謳っている。低年金者の給付額を上げるのだろうが、低年金者とそうでない人の線をどこで引くのか、受給額をいくらにするのかといった具体的な制度設計は示されていない。そこの議論に入れば、必要な財源と消費税率の引き上げ幅が表に出るためであろう。しかし、「最低保障機能の強化」だけ言われても国民は政策とは受け止めない。

一方、維新が提案しているのは積み立て方式の導入だ。一見魅力的に聞こえるが、既に何十年も賦課方式でやってきているため、新方式への切り替えには膨大な財源が必要になる。維新もそこについては口を閉ざしたままである。

私は、野党が公約で細かく財源を示す必要は全然ないと思っている。しかし、こと年金に関しては、そういうわけにはいかない。野党が年金の充実を公約するのなら、負担増についても説明すべきだ。ブレグジットの国民投票の際、離脱派は「EUから離脱すれば拠出金がなくなり、英国の社会保障に毎週(←毎年ではない)500億円使えるようになる」という主張――もちろん嘘だ――を展開し、多くの人がそれを信じた。日本でそんなことはやめてもらいたい。

ここからは少し脱線する。

上述した2つの年金政策は年金制度の存続を前提にしたものである。だが将来的には、「老後は自助努力で支える。その代わり、保険料も支払わない」という考え方に立ち、年金制度の廃止を掲げる政党が現れても驚くべきではない。年金保険料を一定期間以上支払った世代にとって年金廃止は損な話になるため、多数派を占めることはさすがに無理だろう。しかし、若い世代にとって今の年金制度は年寄り世代を支えるためのアンフェアな「持ち出し」にほかならない。シングル・イッシュー・パーティとして若者にターゲットを絞れば、複数議席の獲得は十分可能だと思う。

その結果、将来の日本の年金制度改革が、負担増による給付増(または給付維持)という方向に進むのではなく、負担減と給付減――足りない部分は自助努力で補う前提である――という方向に向かう可能性も出てくるのではないか。自助を強調する考え方は自民党の理念とも親和性が高い。そんな状況になったら、野党はどうするんだろうか?

今後の展開~有志連合と補正予算

参議院選挙が終わり、来週には臨時国会が開かれる。だが、これは参議院議長を選ぶための短期間。その後、秋に開かれるであろう臨時国会では、どのような政策が議論されることになるのだろうか? 少しばかり予想してみよう。

まず、マスコミが騒ぐ憲法改正はどうか? 安倍総理が何をやりたいのか、正直言って私にはよくわからない。自民党は4項目の改憲案を決めているが、選挙戦の最中、憲法のどこをどう変える、ということを安倍が力説したという印象はない。安倍が言っていたのは、憲法を変えたい、ということだけだった。しかも、選挙が終わった途端、自民党の案にはこだわらない、と言い出す始末だ。結局、安倍がほしいのは「はじめて憲法を改正した総理大臣」という名誉なのであろう。

そのうえで言えば、国民投票法の改正で野党に譲歩したうえで、野党を分断して憲法改正の土俵に引きずり込む、というのが最も考えられる安倍の改憲戦術ではないか。ただし、安倍は憲法改正の前にトランプが要求しているペルシャ湾の有志連合について、対応を決めなければならない。その分、改憲のスケジュールは後ろに倒れるだろう。

では、ペルシャ湾の有志連合に日本政府はどう対応するのか? 米国が期待しているようなことを自衛隊にさせるためには、新法の制定のみならず、9条解釈の再変更が必要となりかねない。仮に現行法で対応しようとすれば、ペルシャ湾の事態を存立危機事態と認定しなければならない。だが、今の時代にオイル・ショックが再現するようなシナリオには無理がありすぎる。

日本のタンカーが沈められて日本が当事者になってしまえば別だが、ペルシャ湾を理由に新法を通すのはなかなか骨の折れる仕事になる。今の危機は、イラン核合意からの離脱をはじめ、トランプの側にも責任があることは事実だ。「日本はトランプのマッチ・ポンプに付き合って自衛隊を派遣するのか?」という批判が出てくることも避けられない。解散・総選挙を視野に入れた時も、具合がよろしくないだろう。

加えて、安倍晋三は本来的に親米主義者というよりもナショナリストである、という要素についても考える必要がある。(ここで詳しくは述べないが、私は安倍の親米は本心からくるものではないと思っている。)安倍が「米国に付き合ってペルシャ湾くんだりで自衛隊員の血を流してもよい」と考えるかどうか? はっきり見えてこない。

次に、経済政策はどうか? ポイントは3つある。

一つ目は、この夏、米国との貿易協議がどう決着するか。程々の線で妥協して双方が自賛できればよし。ひどい譲歩を呑まされれば、安倍の解散戦略に制約が強まる。呑まないで交渉が長引けば、トランプが何をツィートするかわからず、それはそれで安倍にとって爆弾になる。

二つ目は、日本の景気動向全般に対しては、米中貿易・技術戦争の行方がから目が離せない。ただし、これは安倍政権が当事者能力を発揮できる問題ではない。日本政府に米中の仲介役が務まるとも思えない。まさに見守るしかないだろう。

三つ目にして当面の経済政策で最大の課題となるのは、消費税率引き上げをいかに軟着陸させるか、ということ。消費税が上がれば、消費は冷え込む。その分、政府支出を増やして景気の落ち込みを防がなければならない。実はこれ、今年1月17日のポストでも書いたとおり、日本政府は既に昨年度の補正予算と今年度の予算で手当てしている。だが、消費税率が上がると言うのにまだ駆け込み需要も見られず、景気の先行きは視界不良だ。そこでもう一丁、財政出動した方がいい、という意見が強まる可能性が高い。そうなれば、補正予算という話になる。

ここで問題は、何を名目に追加財政出動するか、ということである。ポイント還元やプレミアム付商品券といった消費税対策は、期間延長では当面の消費喚起にはならない。かと言って、今からポイントを拡大するなど制度をいじれば、混乱が大きい。

定番の公共事業はどうか? これについても、昨年度から来年度までの3年間、防災・減災、国土強靭化のための緊急対策として7兆円の公共事業を既に組んでいる。これには不要不急のものまで計上しているので、ここから増やすと言っても限度がある。結局、中途半端な補正を打ってお茶を濁す、ということになりそうだ。

安倍が補正予算で大玉を考えるとしたら、教育の無償化や児童手当の増額といった野党が主張している政策に手を出す可能性もないではない。これらは一旦始めれば恒久的に支出が続く政策だ。本来、消費税引き上げ対策として補正を組んで一時的にやるべきものではない。だが、安倍が国民民主の「子ども国債」に食いついたらどうか? 財務省は反対するだろうが、同省は安倍政権内での影響力が低下しているうえ、自民党内にもMMT支持派は一定数いる。まったくあり得ない話ではないだろう。

玉木代表は憲法改正をめぐる安倍の「釣り球」にもアッという間に飛びついたらしい。安倍総理のやり方次第では、憲法改正と子ども国債は野党分断の絶好の玉になりそうだ。

仁義なき選挙情報戦略~自民党の強さの秘密

参議院選挙の投票日まであと1週間。メディアでは「与党(自公)が優勢」という報道が躍っているようだ。今回の選挙、「争点が何なのか、よくわからない」「与党もパッとしないが、野党も批判ばかり」という声をやたらとよく耳にする。こうなると、自民党と公明党の組織力がものを言う。与党優位という情勢調査も当然かな、と思う。だが、与党有利の理由はそれだけではない。

我々有権者は、各党の政策や政治姿勢、あるいは政治家の人格等を判断して投票先を決めていると思っている。それこそが民主主義と選挙の建前でもある。しかし、正確に言えば、有権者は、各々が認識する「各党の政策や政治姿勢、あるいは政治家の人格等」を判断材料にして投票先を決めている。この部分、すなわち「有権者が各党をいかに認識するか」に大きな影響を与えるのが各党の情報戦略である。

ナチス・ドイツの例を持ち出すまでもなく、徹底的かつ巧妙な情報操作によって特定政党を支持するよう有権者を「洗脳」することは不可能なことではない。日本でそれを最も効果的にやれる立場にあるのは、資金力が豊富で長年権力を独占してきた自民党である。

自民党がこのことを理解し、既に実行に移しているとすれば? 政策をありのままに伝えることに重きを置く野党が、自民党に対抗するのは至難の業だ。それこそが近年の日本で起きていることだと思う。

中吊り広告による選挙応援?

先日電車に乗っていた時、ある中吊り広告を見ながら、「これでは自民党が強いわけだ」と妙に納得した。

私が見た中吊りは、高橋洋一著『安倍政権「徹底査定」』の広告であった。(中吊りそのものではないが、同書の新聞広告はこちら。)そこには、「安倍政権に80点をつける」とか、「若者の雇用が増えた」とか、「長期政権だから外交もよい」といった表現――記憶に基づくものなので正確ではない――が躍っていた。

面白いことに、6月の新聞広告に載っていた「だが、消費増税=景気後退なら大減点だ!」という大きな一行は、私の見た中吊り広告には見当たらなかった。安倍政権が10月の消費増税を掲げたまま選挙戦に入ったため、自民党(安倍政権)にネガとなる表現は避けたのだろう。その代わりに追加されていたのが、野党と(安倍政権に批判的な)メディアに対する批判である。ちなみに、出版元は悟空出版という2014年に設立された会社。ホームページを見る限り、ネトウヨ的な刊行物や安倍政権ヨイショの本が目立つ。

選挙期間中にこの中吊り広告を都内の地下鉄に掲載するのは、安倍政権(自民党)に対する選挙応援と受け取られても仕方ない。自民党がやれば、地下鉄なり、JRなりの自主規制コードにひっかかる可能性が高いだろう。しかし、高橋何某の書いた本の宣伝であれば、よほどのデタラメが書いてない限り、地下鉄会社も掲載を断ることはない。

アベノミクスの定量的な評価は、何の指標をとるかによって分かれる。たとえば、首相官邸の「『日本再興戦略』改訂2014」というホームページ――今は更新されていない――には、スーパーマンみたいなのが助走からホップ・ステップ・ジャンプよろしく空を飛んでいく絵が描いてあり、その先には「国内総生産成長率3%」とある。IMFによれば、日本の経済成長率は、2013年=2%、2014年=0.4%、2015年=1.2%、2016年=0.6%、2017年=1.9%、2018年=0.8%であった。ただの1年でさえ、目標を達成したことがなく、6年間のうち半分は1%を切っている。目標未達は明らかだ。だがそれでも、良い指標だけを取り出してアベノミクスはうまくいっている、と評価することを嘘とまでは言うことはできない。実際、自民党の公約パンフレットには、安倍にとって都合のよい数字だけが、これでもか、とばかりに載っている。

安倍外交についても評価は分かれる。厳しいことを言えば、安倍政権下でも拉致問題は前進せず、北朝鮮の核・ミサイル開発はさらに深刻化。中国公船による尖閣付近の領海及び接続水域への侵犯も減らず、北方領土交渉に至っては期待を振りまくばかりでプーチンから軽くあしらわれている。トランプにも振り回されているようにしか見えない。総理の外遊が増え、G7でも古顔になったのは事実だが、どんな具体的な成果が出たのかと問われると答に窮する。しかし、外交の評価は人それぞれだから、褒めようがこき下ろそうが、著者の自由と言える。民主党政権の時よりは良くなった、と言ってさえおけば、納得する人も少なくない。

書いてある内容の真偽のほどはさておき、この手の広告を通勤・通学の途中などに毎日、繰り返し目にしたら、どうだろう? 安倍政権が事実として十分な成果を出しているか否かにかかわらず、「安倍政権はよくやっている」「安倍政権を悪く言う野党やメディアは間違っている」ということを無意識のうちに刷り込まれる人が出てきてもおかしくはない。自民党が指示してやらせているか否かは不明だが、この手の広告が選挙期間中に打たれることで選挙戦上、自民党に有利に働くことは間違いない。

もちろん、安倍政権を礼賛し、野党を批判する書物ばかりが出版されているわけではない。安倍政権に批判的な人たちも様々な書物を著している。例えば、インターネットを見ていたら『「安倍晋三」大研究』(望月衣塑子&特別取材班 著、KKベストセラーズ)の広告に出くわしたりもする。

しかし、安倍政権礼賛・野党批判の書物(本、雑誌、新聞等)の方が、逆の本よりも遥かに多そうだ。雑誌や新聞、テレビも、安倍政権を攻撃する論調のところよりは安倍政権を擁護する論調のところの方が多い。NHKも安倍総理のお友達が会長(籾井勝人氏)や経営委員(百田尚樹氏など)が任命されていた。この勝負、物量的には安倍政権を批判する側に分が悪い。

ネットの世界でも自民党の一人勝ち

今日、活字の世界は縮小傾向なのに対し、ネットの世界が急速に拡張していることは言うまでもない。しかも、ネットの世界の方がフェイク・ニュースに寛容だ。当然、政治(政党)もネットの世界に注目し、自らの情報戦略に取り入れようと考える。ネット情報戦略の重要性にいち早く気づき、積極的に展開したのが自民党である。

その自民党が参議院選挙を前にネット戦略を刷新したと言う。人気ゲームや女性ファッション誌とコラボし、ネットやSNSを駆使して支持をよびかけるらしい。これなどは、自民党の政策や政治姿勢を対外的にネット配信するもの。ネット戦略の言わば「表の」部分であり、その中でも日の当たる分野だ。

公表されている自民党のネット戦略の中には、あまり目立たないかたちで行われているものもある。例えば、2013年のNHK報道は、自民党が業者に依頼して自民党や同党議員に関する書き込みを常時監視し、自民党にとって問題があれば、反論や削除要請を行っている様子を映像付きで流した。

最近はネット・ニュースの下の方にコメント欄がある場合も多い。自民党にとって都合の良いニュースであれば、自民党を持ち上げたり、野党をけなしたりする書き込みが、自民党にとって都合の悪いニュースであれば、自民党をフォローしたり、野党はもっとひどいと主張したりする書き込みも目に付く。もちろん、逆のケースもあるが、比率としては少ない。こうしたコメントは、純粋に個人の立場から書き込まれたものばかりではあるまい。自民党に依頼された業者によるものもあることは、上述のNHK報道からも明らかだ。

さらに、自民党には「自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)」というボランティアを組織した党公認のネット部隊が存在することが知られている。ネトウヨ系が多く、上記の書き込みを行う実働部隊とも目されているようだが、私はその実態をよく知らない。J-NSCは自民党のホームページ上で募集され、国会議員も参加する会議やオフ会も開かれているので相当に組織化されていると見てよかろう。

より攻撃的な情報戦略

刷新されたネット戦略を除けば、ここまで述べてきたネット情報戦略は自民党への他者の批判に対する防衛的な色彩が強いものだ。しかし、「攻撃こそ最大の防御」という言葉ある中で、自民党のネット情報戦略が防衛一色のものとは考えにくい。

ネットを使った攻撃的な情報戦略と言えば、2016年の米大統領の際にロシアが仕掛けたものが有名である。この時、ロシアはプーチン大統領の承認のもと、反ヒラリー・クリントンのフェイク・キャンペーンを大々的に仕掛けた。民主党本部へサイバー攻撃を仕掛けて盗み出した本当の情報を織り交ぜることによってヒラリーに不利となる偽情報の信ぴょう性を高め、自らの手で作ったサイトやウィキリークス、大手新聞に流して全米に拡散させた。多くの米国民がそれを信じた。開票の結果、僅差で大統領に選ばれたのは劣勢と言われたトランプであった。

違法性や悪質性の程度を問わなければ、この手の攻撃的なキャンペーンは昔から行われてきたことだ。共和党も民主党も、昔から多かれ少なかれ、真贋取り混ぜて相手候補に対する中傷合戦を行ってきた。例えば、「○○はユダヤ人だ」という噂を流すとか。日本でも、選挙期間中に候補者をめぐる怪文書が飛び交うと言う話は今日も聞く。だが、ロシアのやったことは、サイバー攻撃を交えたこと、ネットと伝統的メディアを組み合わせたこと、大衆心理把握の巧みさ、そして物量の点で、従来の攻撃的なキャンペーンとは一線を画す、積極的なものであった。

自民党はこの手の攻撃的キャンペーンをやっていないのだろうか? もちろん、やっていても公表するわけはないから、はっきりしたことを知ることはできない。だが、ネットでうかがい知ることのできるJ-NSC会員と自民党議員の会話が本当なら、自民党は当該会員がネットを通して野党などを攻撃することを奨励ないし黙認しているように見える。

報道によれば、参議院選挙公示の直前に自民党本部は、某インターネット・サイトの記事から引用、加筆、修正した内容を掲載した『フェイク情報が蝕むニッポン トンデモ野党とメディアの非常識』という冊子を自民党所属の衆参国会議員事務所に各25冊届けた。自民党所属の石破茂衆議院議員が「怪文書」と呼ぶほどのものだから、内容はフェイク・ニュースの類と言ってよいのだろう。一部の有志議員ならともかく、自民党本部がそんなものを配布したため、メディアでも話題になった。

この「怪文書」配布騒動が示唆することは、自民党がフェイクであろうが構わず、敵対する野党のイメージを貶めるために情報を積極的に流す偽情報キャンペーン(英語で言う「disinformation campaign」)を厭わないということである。

だが、自民党は偽情報キャンペーンをボランティアに任せているだけなのか? ロシアがやったようなサイバー攻撃まで使っているかどうかはわからないが、プロの集団に偽情報キャンペーンを含む攻撃的情報戦略を実行させている可能性は否定できない。偽情報キャンペーンはネット上だけで行われるとは限らず、新聞、雑誌、出版物からテレビまで、あらゆる媒体を通じて実行可能だ。違法なものでない限り、広告代理店が一括して請け負っていたとしても、私は驚かない。

フェイク・ニュースは自民党に有利

我々は、常に真実を受け入れ、嘘を退けるとは限らない。トランプのフェイクを真実だと信じるアメリカ人がたくさんいることからもわかるとおり、信じたいことを受け入れ、信じたくないことを退ける人は少なくない。

安倍政権に心酔する人たちは、安倍政権に批判的な人が安倍政権を批判しても、たいして影響を受けないだろう。逆に、枝野信者の人たちは、いくらネトウヨの人たちから批判されてもそれを信じることなく、立憲民主党を支持し続けるはずだ。

ただし、立憲民主党の支持者の方が中高年の割合が高いと言われている。特にかつて学生運動を経験した旧社民・共産支持者で立憲支持に変わった人たちの中には、いわゆるインテリ、知識人と呼ばれる人も少なくない。この人たちは理屈で考える傾向が強いため、相手方のネガキャンに対して比較的弱い。フェイクによる批判であっても、理屈や事実を示さないとなかなか納得しない傾向がある。「言いがかり」に対して理路整然と反論することは土台無理な注文だ。弱い支持層であれば、相手方のフェイク・ニュースによって切り崩される人も一定数出てこよう。

これに対し、自民党支持の人たちは相手陣営からの攻撃的情報戦略に接してもそれほど大きく動揺することはない。仮に安倍政権批判があっても、「野党や左翼メディアの言うことだから嘘!」と言われれば、それだけで納得し、安倍政権批判を信じないことにできる。フェイク・ニュースを交えた偽情報キャンペーンは、本質的に自民党を利する面の方が多い。

プロ集団を使ってフェイク・ニュースを交えた偽情報キャンペーンを大々的に行うためには、豊富な資金力を持った政党でなければならない。自民党の収入は250億円超え(うち、政党交付金が179億円)。これに対し、野党第一党の立憲民主党は政党交付金が収入の大半を占めると考えられるが、その額は今年で約32億円だった。これまで蓄えた額も考えれば、自民党の資金力は文字通り他党を圧倒しているはず。この点でも、自民党の有利は動かない。

その自民党が他党に先駆けて――遅くとも2009年に下野した時か、おそらくその前から――フェイク・ニュースも交えて攻撃的な選挙情報戦略に取り組んできたとしたら? 資金力的にもノウハウ的にも、他の政党が自民党の持つ先行者利得を切り崩すことは容易なことではないだろう。何よりも、自民党以外の政党は、フェイクを厭わないという仁義なき世界に足を踏み入れることに対する躊躇をなかなか捨てきれないと思われる。

 

私自身、各政党が偽情報を駆使した情報戦略にしのぎを削るような政治には強い抵抗がある。しかし、我々の生きている世界はすでにそういうものになっているのかもしれない。だとすれば、そんな状況下における民主主義なんて、一体どんな価値を持つのだろうか?

消費税を延期せずに解散、も十分にあり

最近の永田町では、解散ムードが高まる一方に見える。もともと予定されている参議院選挙(=7月22日投開票という観測が強い)と合わせれば、1986年7月に中曽根康弘総理が仕掛けて以来、実に33年ぶりの衆参ダブル選挙となる。

「衆参ダブルなら、10月に予定されている消費税10%への引き上げは延期される」という見方が与野党ともに強い。しかし、本当にそうだろうか? 「解散も消費税引き上げも」という選択肢の方がありえる、と私は思う。

萩生田と菅の発言

解散風が吹き始めたきっかけは、4月18日に安倍側近と自他ともに認める萩生田光一官房副長官のインターネットテレビでの発言だった。荻生田はこう述べている。

「景気がちょっと落ちている。ここまで景気回復してきたのに、万一、腰折れしたら、何のための増税かということになる」
「次の日銀の短観(7月1日に発表予定)をよく見て、『本当に、この先危ないぞ』となったら、崖に向かってみんなを連れて行くわけにはいかないので、違う展開はある」
「増税をやめることになれば、国民の信を問うことになる」

荻生田発言は、4月21日に沖縄3区と大阪12区で行われた衆議院補欠選挙の直前というタイミングで飛び出した。両選挙区とも自民・公明が完敗した。そのことは4月18日段階で関係者なら誰もが予想していた。補選2敗で与党内における安倍の求心力が落ちないようにしたい――選挙が近いとなれば、執行部批判はできない――とか、メディアの目を補選からそらしたい、などと荻生田が考えたとしても不思議ではない。

その後、菅義偉官房長官の発言が解散風をさらに煽る。5月17日の定例会見で記者が次のように質問した。

「通常国会の終わりにですね、野党から内閣不信任決議案が提出されるのが慣例になっているとも言われているんですが、それを受けて、時の政権が国民に信を問うため衆院解散・総選挙を行うというのはですね、大義になるかどうか、長官ご自身はいかがお考えでしょうか?」

「それは当然なるんじゃないですか」

菅はぶっきらぼうに答えた。一旦は沈静化しかけた解散風にこれでまた火がついた。自民党が衆議院でも選挙の調査をかけた、という話も伝わり、与野党ともに同日選にむけて色めき立つことになった。

不信任案の提出が解散の大義になる、という奇妙な話

この質問、「やらせ」くさいと思わずにはいられない。「大義のあった解散なんて今までにあったのかよ?」と突っ込みを入れたいところでもある。まあ、それらは置いておくにしても、不信任案提出が解散の大義になるなどというのは、論理としてボロボロだ。

憲法第69条によれば、内閣不信任決議が衆議院において可決された場合、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならないことになっている。「内閣不信任案が可決されれば、解散の大義になる」というのであれば、(大義という言葉を使うかどうかは別にして)まだわからないでもない。

しかし、今の国会の議席配分を見れば、野党が内閣不信任案を提出しても、可決される可能性はゼロ。だから記者の質問も、不信任案が「可決されたら」ではなく、「提出されたら」となっている。

内閣不信任案は毎度のように提出されている。「一強多弱」状況の下では、野党が自らの存在意義を見せるためのパフォーマンス――そう言って悪ければ儀式――のようなものだ。内閣を制御するための「伝家の宝刀」なんて建前に過ぎない。

もちろん、解散は総理の専権事項である。内閣不信任案が可決されない限り、総理が解散しようと思えば、いつでも解散できる。その意味では、総理が「内閣不信任案が『提出』されたので解散する」と言えば、解散できないことはない。「売られた喧嘩は買う」というわけである。ただし、それでは変な前例ができてしまい、将来「内閣不信任案が提出されたので解散しろ」と言われかねない。

しかも、安倍総理はこれまで内閣不信任案が提出されてもことごとく否決し、6年半の長きにわたって政権を持続させてきた。「内閣不信任案が提出されたから解散した」ことなど、一度もない。今まで認めてこなかった大義が今回、急に出てきましたというのでは、あまりにも国民を愚弄している。

今回、消費税率引き上げ延期は解散の大義にしにくい

ではなぜ、内閣不信任案の提出が解散の大義になるか否かなどという馬鹿げた質問が飛び出したのか?

安倍総理はこれまでに二度解散している。一度目は2014年11月。この時は、翌年10月に予定されていた消費税率10%への引き上げを2017年4月に先送ることを表明。その是非を国民に問うことが解散の争点(大義)とされた。その後、2016年6月には消費税引き上げを2019年10月まで再延期すると述べ、そのうえで「アベノミクスを加速させる」ことを同年7月に行われた参議院選挙の争点と位置づけた。そして2017年9月の前回総選挙では、「消費税の使途変更(次の消費税増税分を借金の返済ではなく、子育て支援や教育無償化に使うこと)」や「北朝鮮問題への圧力路線」について国民の信を問う、とした。

安倍総理が今年10月に行われる消費税率引き上げを三度(みたび)延期すると決めているのであれば、それは「立派な」解散理由となる。わざわざ、「野党による不信任案の提出」などというチンケな大義を持ち出す必要などないはずだ。

しかし、安倍が解散する場合でも、消費税は予定通り10月には10%に引き上げるしかない、と考えているとしたら、辻褄は合う。

実際、わずか4ヶ月後に迫った消費税率の引き上げをこの期に及んで延期できるのか、という問題は、政治家の気合で乗り越えられるような小さな話ではない。例えば、複数税率の導入に対応できるレジの準備。補助金申請は4月段階で10万件を超えたと言う

10月の消費税率引き上げにあわせ、環境性能や耐震性の高い住宅を新築すれば省エネ家電などに交換できる「次世代住宅ポイント」制度の申請受け付けも今日(6月3日)から始まった。今さら延期と言えば、産業界も消費者も大混乱は必至だ。

加えて、安倍には、消費税率引き上げの延期を言わずとも、衆参選挙で負けることはない、という見込みがあるに違いない。もちろん、国民が与党の政策・政治を支持しているとは決して思わない。だが、自民党には、小選挙制度の下で公明党という独特の選挙集団と手を組んでいるという強みがある。リーダーの不在、政策の失速、選挙準備の遅れという三重苦を抱えた野党では、勝ち目は薄い。今現在、議席増を目論んでいられる野党(ゆ党?)と言えば、「大阪の乱」で勢いづく日本維新の会くらいのものだろう。

安倍が解散、衆参ダブルを既に決断しているのかどうか、私には知る由もない。だが、「10月の消費税引き上げは延期できない。消費税引き上げでも勝てるのなら、解散もありだ。大義は何か適当に考えればよい」というあたりが安倍の胸のうちではないか、と予想する。荻生田発言は解散理由において安倍を縛るものだった。菅発言は「解散するなら消費税率引き上げ延期」をニュートラルにすることに意味があったのではないか。

 

いずれにせよ、参議院選挙は間違いなくある。今回の選挙、何が争点なのか、私にはよくわからない。ほとんどの国民にとってもそうだろう。与党は「野党が不信任を出したら受けて立つ」と言うだけ。野党も与党批判を通じてしか自己の存在を主張できない。
「野党冬の時代」というよりも、「政党冬の時代」がしばらく続く――。それだけははっきりしている。

令和の始まりに考える「米中冷戦」論 ③ ~ 米中対立の性格を吟味する

最初にお断りを一言。本ブログでは、前回前々回と「平成の終わりに考える『米中冷戦』論」というタイトルで米中関係を論じている。先月中に一区切りつけることができるだろう、と思って書き始めたのだが、甘かった。諸般の理由で時間が十分とれなかったことに加え、やはりテーマが大きいため、予想以上に筆に進まなかったのだ。その結果、前二回を引きついだ今回のポストは、「令和の始まりに考える~」とタイトルを変更している。不格好な話だが、ご寛恕願いたい。

第1回のポストでは米ソ冷戦後の米中関係の推移を振り返り、第2回は米ソ冷戦と今日の米中関係を比較することによって米中関係の特徴を記述した。以上を踏まえ、今回は米中関係の性格をさらに深掘りしてみたい。

緩い対立~熱戦はない

米中関係が緊張の度を増していることは否定できない事実である。だが、それは冷戦期の米ソ関係のような「一触即発」の緊張とは異なる。

1. 米中「熱戦」はない

第一に、米中が軍事的な戦争に至る可能性は、無視してよい。米中開戦が必至、という見方もあるようだが、少なくとも現段階では、それは扇動の類いにすぎない。

冷戦期の米ソは、まさに一触即発の状況にあり、世界中の人々が人類全体を何度も滅ぼす核戦争の恐怖に怯えた。しかし、両超大国の持つ核戦力が対等(パリティ)の状態になって相互核抑止が成立したため、米ソ間で戦争(=熱戦)が起こることはなかった。結果的に「長い平和(Long Peace)」が実現したのである。

翻って米中間の核戦力を見ると、前回見たとおり、米国が中国を圧倒している。米中間には軍事的な意味での相互核抑止は成立していない。だが、米中関係の緊張にもかかわらず、両国間で核戦争が起きるとは考えられていない。核戦力で圧倒的に劣る中国が米国を核で先制攻撃できないことは当然であろう。他方で、優位に立つはずの米国にとっても中国を核攻撃することはリスクが大きすぎる。米国が中国の核戦力を破壊し尽くす前に、中国も米本土に核ミサイルを数発以上射ち込むくらいのことは十分に可能だからである。自国が攻撃された場合は別だが、すべての先進国は、大勢の自国民の命を失うとわかっていて戦争を起こす、ということができない時代になっている。米国とて例外ではない。

中国は負けることがわかっているから核のボタンを最初に押すことができない。米国は勝つとわかっていても予想される中国の反撃によって受ける被害に耐えられないため、核のボタンを最初に押さない。つまり、今日の米中間には、相互核抑止とは別種の相互抑止が成立しているのだ。したがって、米中間で(少なくとも本格的な)戦争が起こるとはことも考えられない。

2. 相手を打倒しようと思っていない

米中が相手に対して感じる脅威のレベルが比較的低いことも、米中が軍事的に戦わないことのもう一つの理由である。

冷戦期の米ソは、それぞれ「民主主義・資本主義」、「共産主義」という異なるイデオロギーを奉じ、それを世界に広げると同時に自らの勢力圏を拡大しようとして相争った。政治イデオロギーに関して言えば、「民主主義」対「共産主義」の対立構図は米中間に今も見られる。しかし、自らの政治イデオロギーを「輸出」しようとか、相手の体制を転覆しようとかいう意図は、双方とも持っていない。その意味で、米ソ冷戦下で厳然と存在したようなイデオロギー対立は、今の米中間には存在しない。当然、米中間の対立は米ソ間の対立よりも「緩い」ものとなる。

なお、経済については、計画経済(国家統制)を残したまま資本主義を取り入れる中国に対し、資本主義の総本山とも言える米国は(特にトランプ政権になってから)重商主義に傾き、こちらも国家の介入色を強めている。米中「貿易戦争」の核心にあるのは、経済イデオロギーの対立ではない。「利益」をめぐる対立だ。

3. ペンス演説

昨年11月4日、マイク・ペンス米副大統領はワシントンにある保守系シンクタンクで政権の対中政策について講演した。中国への敵意をむき出しにした内容だったため、一部では第二の「鉄のカーテン」演説と呼ぶ者もいる。

私はペンス演説に二通りの感想を持った。一つは、副大統領という地位にある者がここまで露骨な表現で中国を罵ったことに対し、ニクソン=キッシンジャー以来の米中接近という大きな流れが転換点を迎えた、というもの。もう一つは、米中対立はやはり米ソ対立とは違うな、という思い。キリスト教福音派らしい宗教的熱狂を帯びた表現を多用しているものの、ペンスの挙げた中国の「罪状」を煎じ詰めれば、「中国が米国を追い上げ、米国の派遣に挑戦している」ということ、つまりは「国力の接近」だ。根本にイデオロギー対立があった米ソ冷戦とはそこが大きく違う。だから、米中対立は米ソ冷戦に比べ、「緩い」のである。

そのうえで言うと、私がペンス演説の中で最も注目したのは、中国が米国世論に対して様々な形で工作を仕掛け、米国民の政権選択をも左右しようとしていると警戒感を露わにしたこと。ロシアがトランプ大統領誕生(=ヒラリー大統領阻止)のために露骨な選挙介入を行ったことには触れないまま、中国が反トランプの工作を行っていると非難するのはご都合主義だと失笑せざるをえない。

しかし、ネットを通じたものであれ、その他諸々の工作によるものであれ、外国が自国にとって都合の悪い政治家を落選させたり、逆に都合のよい政治家を当選させたりするようなことがあれば、それは一種の「間接侵略」である。(私に言わせれば、2016年米大統領選におけるロシアの介入は間接侵略以外の何ものでもない。)真珠湾攻撃や9.11同時多発テロが示すとおり、自国が侵略(攻撃)された時の米国は、徹底的に戦う。2016年大統領選挙時のロシアばりに露骨な形で中国が米国世論への介入を行えば、米中の対立を「緩い」と言い続けられる保証はなくなるだろう。

恒常的な対立

軍事的な直接衝突は起こらないかわりに、米中間では経済的な対立が既に顕在化している。経済や技術面での米中の直接衝突は、今後も終わることなく、ダイレクトな形で続いていく。

1. 貿易摩擦(貿易戦争)

経済摩擦は武力衝突のようなハードな対立ではない。その分、経済における米中「戦争」は恒常的に発生しうる。

米ソ冷戦の時は、武力衝突も貿易戦争もなかった。米ソ間、あるいは東西ブロック間の貿易量は極めて少なかったから、冷戦期にはそもそも米ソの貿易戦争など起きようがなかった。(冷戦期を通じて米国が何度か対ソ穀物輸出を制限したことはある。しかし、影響は限定的で「貿易戦争」と形容すべきものではなかった。)

これに対し、米中間には経済的に深い相互依存関係が存在する。その気になれば、双方がいつでも経済制裁に打って出ることはできる。

ちなみに、経済的な制裁措置には、「買わない」制裁と「売らない」制裁がある。今、トランプが中国に仕掛けている関税引き上げは、「買わない」制裁の一種だ。モノが溢れている状況にあっては「輸出を止める」と脅すよりも「輸入を制限する」と脅す方が有効なことが多い。一方で、2010年の尖閣漁船事件の際に中国がとったレアメタル禁輸は「売らない」制裁の例である。希少な原材料だからこそ、輸出禁止が圧力になると考えられたのである。

これまで長い間、米国を含む各国の政府は貿易をプラスサム(ウィン・ウィン)ゲームと捉えてきた。関税引き上げなどの貿易制限的な措置をとった場合、自国産業にも悪影響が出ることが避けられない。北朝鮮やイランなどに対する戦略的目的を持つものを別にすれば、貿易赤字があるからという理由で大規模な貿易戦争に打って出ることは控える――。1980年代の日米自動車摩擦の時を含め、それが従来の常識だった。

しかし、ドナルド・トランプは違った。トランプは貿易をゼロサム・ゲームと捉え、貿易制限をいとも簡単に発動する。米産業全体では「返り血」を浴びるはずだが、それよりもディール感覚での駆け引きを優先しているように見える。

トランプ政権がこれまで中国に対して仕掛けた関税引き上げは以下のとおり。2018年3月に鉄鋼・アルミニウムの関税を引き上げたのを皮切りに、同年7月にはロボットや工作機械など340億ドル分、8月には半導体や化学品など160億ドル分、9月には家電や家具など2000億ドル分を対象に関税を15%引き上げて25%にする、と発表した。(実施時期にはズレがあり、2000億ドル分の引き上げは今年5月。)さらに、去る5月10日には残りの全輸入品(iPhoneを含む)についても追加関税をかける準備を始めた。これら一連の関税引き上げに対し、中国が毎回、米国からの輸入に対して関税を引き上げるなど、報復措置を講じたことは言うまでもない。

「貿易戦争」を始めたのがトランプであるなら、今後トランプ大統領が任期を終えれば、事態は沈静化するのだろうか? そうはなるまい。

政治的なタブーは一度破られると、タブーでなくなるもの。伝統的に自由貿易の牙城であったはずの共和党は今やこぞってトランプ支持に傾いた。トランプと競う民主党は元々保護主義に親和性が高い。民主党の大統領候補がトランプ流に対抗して自由貿易を打ち出す雰囲気はない。

米中間で過激化する一方の貿易摩擦を鎮静化させる要素があるとすれば、貿易戦争の悪影響が金融市場や景気動向に急激に作用し、トランプの政権運営の足を引っ張るような事態が起きることであろう。後述するように昨年10月から年末にかけてはそうした動きがまさに見られた。

2. 技術覇権戦争

トランプ政権が中国に仕掛けている経済戦争は、単に貿易や関税と言った分野にとどまらない。私は、米中が今後、技術覇権をめぐって繰り広げる抗争こそ、「戦争」という名によりふさわしい、と思っている。

為替レートを購買力平価で計算すれば、超大国である米国はGDPに代表される経済力で中国に既に抜かれ、実勢レートでも抜かれるのは時間の問題。米中の経済ボリュームが逆転すれば、軍事力の面でも米国が中国にキャッチアップされるのは時間の問題である。

そこで米国が重視するのが、技術力で対中優位を堅持することになる。これからの経済覇権は、AIに象徴される情報技術の基準を誰が先に押さえるか、に大きく左右される。軍事面でも、湾岸戦争以降、アフガン戦争やイラク戦争で世界に衝撃を与えた米国の精密誘導兵器は軍事力と情報力の結合にほかならない。この分野においても、中国やロシアのキャッチアップは急だ。5Gを含めた次世代の技術標準で中国――正確には、米国以外のあらゆる国――に先を越されれば、超大国・米国の経済覇権と軍事覇権は本当に危うくなる。この点については、不動産王あがりのトランプよりも、米国の戦略立案者たちの方が危機感は強い。論より証拠、この1年あまりの動きを振り返ってみれば、米国がなりふり構わず、技術開発の面で中国を封じ込めにかかっていることは明らかだ。

2018年4月、米国政府はZTE(中興通訊)に対し、対イラン制裁違反を名目に7年間の米国内販売禁止を命じた。2018年後半になると、米政府が同盟国に対し、HUAWEI(華為技術)の通信機器を使わないよう要請した。同年12月には、HUAWEI創業者の娘(副会長)の孟晩舟が米政府の要請に基づいてカナダで逮捕される。今年5月には、ポンペオ国務長官が英国に対して5G移動通信システムにHUAWEI製品を使用しないよう求めた。もちろん、米国政府が英国以外にも同様の要求をしているであろうことは容易に想像できる。

米国は本気だ。しかし、中国も後に引くことはできない。技術覇権をめぐる米中間の熾烈な抗争は今後も続く、と見ておくほかない。

 米中経済摩擦のコスト(経済的な影響)

米ソ冷戦とは異なり、米中対立の基本構造は、米国と中国の2国間のものだ。しかし、両国の経済摩擦の影響は世界中に及ぶ。米中関係の議論からは少し離れるが、トランプの自国中心主義(アメリカ・ファースト)の矛先は中国だけに向いているわけではない、ということについてもここで触れておく。

1. 国際経済、金融市場への影響

米国による関税引き上げとそれに対する中国の報復合戦が続けば、当然ながら米中の経済や日本を含めた世界経済にマイナスの影響が出ることは避けられない。

問題がそれにとどまれば、ある意味で米中の自業自得。だが、米中は世界第1位と第2位の経済大国であり、両者のGDPを合計すれば世界全体の4割弱を占める。グローバリゼーションが進展した今日、米国や中国と経済相互依存状態にない国は事実上存在しない。米中経済の減速が日本を含めた世界経済の足をも引っ張ることは当然だ。

OECDの見立てでは、5月10日に米国が実施に移した2000億ドル分の追加関税引き上げにより、米国のGDPは約0.4%、中国のGDPは0.6%程度押し下げられるとともに、世界全体のGDPも0.2%ほど低下する。米中が双方からの輸入品全体に追加関税をかけるシナリオでは、最終的なGDPの押し下げ幅は米国=1.1%、中国=1.3%、世界=0.8%に拡大する。

米中の貿易戦争、技術戦争は実体経済に悪影響を及ぼす以上に金融市場を大きく揺さぶる。好調な米企業業績などを反映して米国株式市場は2018年10月に史上最高値を更新していたが、米長期金利の上昇に加え、トランプ政権による対中関税の追加引き上げ方針表明や孟晩舟逮捕などが重なり、年末にかけて株価は大きく下落した。10月3日に26,823ドル(終値)をつけたニューヨーク・ダウは、12月24日に21,792ドルにまで下落。日経平均も10月2日に24,270円だったのが、12月25日には19,155円まで下がった。

株価急落を受けたトランプ政権は中国と協議して合意に至る意思を示し、FRBも利上げ観測を醒ましたため、今年に入って米国株は回復に向かった。それでも先週、米政府が2000億ドル分の対中輸入に対する関税を15%引き上げると発表するや、米国や世界の株価は一斉に下落した。米中貿易・技術戦争がエスカレートして金融市場がさらに動揺すれば、実体経済の被る悪影響が増幅されることは言うまでもない。

2. アメリカ・ファースト

米中冷戦のイメージが強すぎると見過ごされてしまいがちだが、トランプ政権が仕掛ける貿易戦争の標的は中国だけではない。

米ソ冷戦たけなわの頃には、米国にとって不倶戴天の敵であるソ連と対決することが最優先課題だった。米国が西側同盟諸国に対して貿易戦争を大々的に仕掛けることなど、論外であった。(日米繊維摩擦など、限定的な経済摩擦はあった。)

だが今日、トランプにとって大事なものは、外交でも政治でもビジネスでも「勝ち負け」だ。中国に貿易戦争を仕掛けているのも、貿易赤字(=負け)を減らすことが米国の国益だと信じているため。要するに、トランプの貿易戦争の原動力は、アメリカ・ファーストという名の自国中心主義なのである。そう考えれば、トランプの矛先が向かうのは中国だけ、ということにならないのは自明の理だろう。

実際、鉄鋼・アルミの追加関税は中国だけでなく、EU、カナダ、メキシコ、日本なども対象となった。(日本製品は鉄鋼で申請分の4割、アルミで8割が適用除外された模様。なお、中国製アルミも申請分の25%は適用除外されている。)

米国政府はカナダ、メキシコにNAFTA(北米自由貿易協定)の再交渉を要求し、2018年11月にUSMCA(米国・メキシコ・カナダ協定)を締結。メキシコからは自動車貿易における原産地規則強化や賃金条項の導入、カナダからは乳製品市場へのアクセスや知財保護期間などを獲得した。また、2018年9月には米韓FTAを改訂し、米国によるトラック関税撤廃を20年延期した。日本とはTAGという名の日米FTAの締結に向け、現在交渉中だ。

「アメリカ・ファースト」の最大の焦点となる、自動車関税の引き上げ――1980年代の日米自動車摩擦の時でも具体的な政治課題にはならなかった――に至っては、中国など眼中にはない。その狙いが米自動車産業の保護にあることは言うまでもない。WTOのエコノミストは、米国が外国車の輸入を制限すれば、米中間の貿易摩擦よりも世界経済への影響が大きいと指摘している。

米国が同盟国に対して要求を突き付けているのは、貿易や経済だけに限った話ではない。2018年7月、トランプはNATO首脳会談で他の加盟国に対して、防衛費をすぐさまGDPの2%まで増額し、NATO加盟国が2024年までに達成すべき防衛費の対GDP比率も4%に引き上げるよう求めた。日本は米国からの兵器購入を増額することで当面の矛先をかわしている。だが、現在1%未満にすぎない防衛予算の対GDP比を増やせという要求がいつ来てもおかしくない状況にある。

冷戦期は、ソ連に対抗するために西側ブロックの結束を重視し、盟主であり、超大国である米国が防衛責任の大半を負っていた。米ソ冷戦期以来の「慣行」は、経済分野のみならず、軍事の分野でも当たり前のものではなくなりつつある。

令和の天皇が挑む試練――象徴ゆえの困難

昨日(2019年5月1日)、平成の天皇(明仁上皇)が退位し、令和の新天皇(先の皇太子徳仁親王、浩宮)が即位した。前回の御代代わりは昭和天皇の崩御に伴うものだったため、世の中は自粛ムードだった。しかし、今回は祝賀ムード一色と言ってよい。「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」と「即位後朝見(ちょうけん)の儀」も正装で行われた。不敬かもしれないが、私は戦後生まれの同世代として新天皇に親近感を抱いている。新天皇にとって、めでたい門出となったことをまずは素直に慶びたい。

だが、正直に言えば、慶びの裏には不安もある。昨年12月13日付のポスト(「次の代替わりに伴い、『天皇制のあり方』も変わる」)で、新天皇を試練が待ち受けることになる、と私は書いた。ここ数日の皇室特番をテレビで見ながら、新天皇を含め、これからの皇室は大変だな、という思いを改めて強くした。

象徴天皇は権力がない故に、その存在価値を国民の支持に見出すしかない。つまり、天皇制の将来はひとえに、天皇の人格、天皇の徳にかかっている、ということ。先の天皇(明仁上皇)はこの試練を見事に乗り越えたが、次もうまくいくとは限らない。

祝賀ムードの中、新天皇にとって試練の日々がいよいよ始まった。令和が始まったばかりだと言うのに、水を差すつもりは毛頭ない。むしろ、徳仁天皇にエールを送るつもりで私の思うところを書いてみる。

 

明仁天皇の危機感

平成における成功

平成が終わりを告げるまでの数週間、テレビなどは明仁天皇と美智子皇后の特集をものすごい勢いで放映した。そのすべてを見たわけではないが、先の天皇・皇后は本当に国民に敬愛されていた、というのが実感である。先月行われた時事通信の世論調査では、明仁天皇に対して「尊敬の念を抱いている」が44.0%、「好感を抱いている」が39.5%にのぼった。これは凄い数字だ。失礼な物言いではあるが、昭和天皇が崩御されたとき、明仁天皇がここまで国民に支持されることになると誰が思ったであろうか?

戦争に負けて大日本帝国は日本国となり、天皇の位置づけも戦前とは大きく変わった。明治天皇、大正天皇、終戦までの昭和天皇は、間違いなく政治権力を持っており、現人神として神聖化された存在であった。大日本帝国憲法の第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定め、第3条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定していた。ただし、第4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあるとおり、天皇は絶対君主だったわけではない。明治から戦中にかけて、政治の実権は元老たちや軍部が握っていた。だが彼らも、天皇の意向をまったく無視できたわけではない。戦前の天皇は厳然たる政治的影響力を持っていた。

戦後、新憲法の下で天皇は日本国の「象徴」という曖昧な概念として存続することになった。裕仁天皇は人間宣言を行い、政治的な発言も慎まざるを得なくなる。とは言え、同じ人格を持つ天皇がある時点を境に完璧に変わることなどありえない。昭和天皇の話し振りなどからは、最晩年においても高い目線が感じられたものである。それでも、国民の多くは昭和天皇に対し、現人神と権力者の残滓を見ていた(前回のポスト参照)から、天皇の権威は保たれた。

その意味で、名実ともに象徴天皇となった最初の天皇は明仁天皇だった。そして明仁天皇は、象徴天皇として国民の敬愛を集め、見事なまでに成功をおさめる。しかし、その成功は決して最初から約束されていたものではなかった。

象徴天皇制のきびしさ

考えてみれば、「象徴天皇」とは心もとないものだ。天皇が(たとえ絶対的なものでなくても)政治権力を持っていれば、天皇一個人の能力や徳にかかわらず、天皇の地位はまず安泰である。だが、今日の象徴天皇制の下で天皇は政治権力を持たない。神事に携わっているとはいえ、戦前のような神性も失われた。それどころか、憲法第1条は天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」と明言している。国民主権の時代に象徴天皇制を存続させるためには、国民の支持を得続けることが必須というわけだ。

現人神でもなく、権力者でもない天皇が国民から支持されるか否かは、天皇個人の資質にかかる部分が大部分である。

これが一国の宰相であれば、人徳に多少欠けていても、政治経済の運営実績を残し、選挙に勝利すればその地位を守ることができる。企業でも、同族による株式支配や好業績の達成に助けられ、性格に難のある経営者がその地位に居続けることも珍しくはない。しかも、大臣であれ、経営者であれ、本当に資質がなければ、別の誰かに代わればよいだけの話だ。

象徴天皇は違う。権力を持たない以上、天皇に政治的な実績をあげることは不可能。神として崇めたてられることもない。結局、天皇や皇后の人徳、人格で勝負するしかない。天皇という個性が国民に受け容れられなければ、自ら交代することも許されず、天皇制そのものの存続が危ぶまれる事態となる。考えようによっては、象徴天皇制とは、実にきびしい制度だ。

そのことを誰よりもわかっていたのは、ほかならぬ明仁天皇ご自身だったのではないだろうか? 昨年12月20日に行われた会見で「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と明仁天皇は述べられた。

即位以来、象徴天皇が置かれた立場のきびしさを自覚しながら、言ってみれば日々、崖っぷちに立たされたような気持ちで公務に取り組まれていたのであろう。去る2月24日に行われた即位30年記念式典で明仁天皇は「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と述べられた。「果てしなく遠く」という部分に天皇制存続に対する危機感の反映を感じ取るのは私だけだろうか。

政治との距離

明仁天皇はいかに象徴天皇として国民の支持を獲得できたのか? 本人や皇后の人格、天皇の公務に対する責任感が最大の理由であろうが、それらは私の目で観察することができない。ここでは、明仁天皇の慎重さ(戦後憲法に忠実であろうとする姿勢)と、平成という災害の時代が天皇に迫った対応の二点によって、多くの国民が象徴天皇を支持するようになったという事実を指摘しておく。

明仁天皇はリベラルな考え方の持ち主と言われている。しかし、ご本人は国民主権を定める戦後憲法を厳格に解釈し、政治的な発言を厳に慎まれた。お気持ちが滲むような発言をされたことは幾度かあるが、その場合も言葉を選ばれており、天皇が政治的な発言を行ったとは言いがたいものであった。なお、2016年8月に生前退位の意向を事実上表明されたことを取り上げ、政治的発言と批判する向きもあるようだが、それは天皇を憲法の奴隷とみなす極論である。

重要なことは、明仁天皇が特定の政治家や政党を支持したり、批判したりすることから完璧なまでに距離を置いたことだ。平成のほとんどの期間、自民党政権(またはその連立政権)が続いたが、リベラルな思考の持ち主である天皇が政権を批判したことはなかった。比較的リベラルな民主党政権ができた時も、天皇が政権に親近感を表明することは微塵もなかった。平成の最後の6年余り、「戦後レジームの解体」という天皇の価値観を真っ向から反する考え方を持つ安倍晋三が総理大臣を務めても、天皇は政治の動きに対し、黙して語らなかった。もしも、2009年に政権交代が実現した時に天皇がそれを歓迎する発言をしていれば、あるいは、憲法の解釈改憲を行った安倍を明確に批判していれば、右寄り、あるいは保守層の反発を招いていたに違いない。一方で、リベラル系の国民は明仁天皇がリベラルな思考の持ち主であることを知っており、戦前のイメージを引きずる昭和天皇に対して持ったような反感を明仁天皇に抱くことはなかった。価値観の多様化した現代において天皇が奇跡的に広範な国民の支持を得られたのは、政治的発言を厳に慎むという明仁天皇の慎重さに負う部分が少なからずあった。

新しい役割としての被災地訪問

もう一つ、誤解を怖れずに敢えて言うと、平成が頻繁に大災害に見舞われた時代であったことが、天皇に象徴天皇としての新たな――かつ、国民の目に見える――役割を与え、結果的に象徴天皇に対する国民の支持を集めさせることになった。

象徴天皇の役割には様々なものがある。

内閣総理大臣の(形式的な)任命、解散詔書の作成、栄典の授与など、憲法に由来する「国事行為」。はっきり言って、これらは一般国民にとっては関係のないことである。

国家の安寧・繁栄、五穀豊穣などを祈る「祭祀」。これも一部の右寄りの人を除けば、興味のないことだ。第一、天皇が祈りを捧げている姿を国民は目にすることがない。

それ以外の公務。終戦後、昭和天皇は敗戦に打ちひしがれた国民を励ますため、全国行幸を行ったほか、戦没者の慰霊活動も行った。国民体育大会や植樹祭など様々な行事にも皇族が分担して参加している。外国訪問や来日した外国要人との面会といった皇室外交も重要な仕事のひとつだ。これらは平成の皇族にも引き継がれてきた。

平成になると、阪神淡路大震災、東日本大震災をはじめ、大規模な地震が頻発し、近年は豪雨・豪雪災害が毎年のように全国各地を襲った。被災地訪問は昭和の時代にもあったが、平成において天皇の公務の中で最も重要なものになったと言ってよい。

もちろん、天皇が災害を利用したと言いたいのではない。天皇は、日本国の象徴、日本国民統合の象徴としての責任感に駆られて、やむにやまれぬ気持ちで公務に携わられたはずだ。

被災地訪問に向けた天皇の献身は、その頻度と回数のみならず、姿勢の面でも昭和と区別されるものだった。昭和天皇も種々の慰問活動をされたが、立ったまま、上から目線の残る言葉――「あ、そう」は流行語となった――をかけていた。しかし、明仁天皇と美智子皇后は違った。自ら膝をついて被災者と同じ目線になり、予定時間を超えても被災者の声に耳を傾けた。今では当たり前に思うようになったが、天皇が一般国民に丁寧語で語りかけるのをはじめて聞いた時、違和感さえ覚えたものである。

平成の30年あまりの間、天皇は被災地を慰問し続けた。天皇が自ら国民の中に入り、国民と苦難を分かち合おうとする姿に国民は感動をおぼえた。今や、国民が天皇に期待する役割のうち、「被災地訪問などで国民を励ます」が最も多い66%(複数回答)にのぼる。被災地訪問は天皇の公務として高く評価されるようになっている。

 

令和以後、象徴天皇制が抱える課題

以上のように、明仁天皇は象徴天皇として国民の支持を集めることに見事成功した。だが、問題は令和以後どうなるか、である。国民の歓呼の中で即位した徳仁天皇は、父が抱えた以上に大きな課題と直面することになると思われる。

国民の支持

共同通信社が実施した緊急電話世論調査によると、徳仁天皇に対して「親しみを感じる」と回答した者が82.5%にのぼった。まずは順調なスタートだと言える。しかし、「親しみを感じる」ことと新天皇を「支持する」ことはまた別だ。明仁天皇が国民に支持されたからと言って、徳仁天皇も自動的に国民に支持され続ける保証はどこにもない。

令和の時代、徳仁天皇と雅子皇后は、象徴天皇としていかに国民の支持を得ていくのか? 令和の天皇ご夫妻と平成の天皇ご夫妻の人徳を比べることは私にはできない。だが、明仁天皇夫妻が国民に敬愛されている分、徳仁天皇夫妻が越えるべきハードルも高くなることだけは確かであろう。

明仁天皇が「開拓」した被災地の訪問は令和の天皇も継続することになる。しかし、東日本大震災級の大災害が令和の時代も引き続いて起こるとは願いたくない。新時代が災害の面で安寧であれば、天皇の役割が失われる、というのはやはり矛盾している。

明仁天皇は被災地訪問を通じて、国民に近しい皇室という昭和天皇とは異なるスタイルを自ら作り上げた。それは昭和天皇が戦前の天皇像を部分的に残し、国民も昭和天皇に戦前の天皇像の残滓を見ていた時代の後だったからこそ、強いインパクトがあった。一方、5月1日の即位後朝見の儀で徳仁天皇は「常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たす」と誓った。前天皇の姿勢を継承すると言ったわけだ。だが、前天皇と同じことをしても、前天皇と同じくらい評価されるものか否か? 今しばらく様子を見ないとまだ何とも言えない。

雅子皇后の健康状態が激務に耐えられるのか、という懸念も残る。皇室の仕事は長く続くものなのだから、新皇后には最初から無理されることのないよう、是非とも謹んでほしい。確かに、雅子皇后が健康状態故に公務を減らされれば、批判が多少なりとも出てくることは覚悟せざるをえない。だが、そうした批判に対しては別の批判も出てくるはず。プレッシャーの中で徳仁・雅子流の皇室像を作れるかどうかを国民は注視している。

雅子皇后が外交官出身ということもあり、新天皇・新皇后に対し、これまでとは一味違った皇室外交を期待する声も聞こえてくる。私も、そうした期待を抱かないわけではない。だが、令和の皇室外交は安全運転、かつペースを抑えて行うべきだ。被災地訪問など国内の公務よりも皇室外交に熱心である、と見られるようなことがあれば、新天皇に対する風当たりは一気に強くなりかねない。また、皇室外交が親善を超えて中身を伴うものになれば、天皇は知らず知らずのうちに政治の世界に足を踏み入れることになる。そうなれば、皇室外交を支持する国民もいる一方、批判する国民も必ず出てくる。天皇が政治的発言を行えば、象徴天皇制に対する国民の支持は必ず減ることになろう。

ゴシップ・ネタの類いだからあまり言いたくはないが、小室圭氏の母親の問題をはじめ、皇太嗣である秋篠宮家に関わる出来事も懸念材料だ。小室氏にまつわる話は何が本当なのか、私は知る由もない。だが、眞子内親王が小室氏と結婚すれば、将来の天皇の義兄やその母親が金銭トラブルを抱えたまま、説明責任すら果たさない、と少なからぬ国民は不快に思うだろう。もちろん、小室氏と眞子内親王は天皇家から独立した二つの人格である。好きあった二人が結婚するのは自由だ。しかし、世の中は、二人を独立した人格と見るのではなく、皇太嗣の娘、悠仁親王の姉とその彼氏、と見る。私の知り合いの中にも「こんな問題一つ解決できなくて、次の天皇家を信頼しろと言われても無理ですよね?」と言う人はいる。徳仁天皇は黙っていればよいと思うが、秋篠宮にとっては頭の痛い問題である。

後継者問題

政府は今秋以降、皇位継承問題の検討を進める意向のようだ。

現在、天皇の後継者は、皇位継承順位1位の皇太嗣(秋篠宮)、同2位の悠仁親王、同3位の常陸宮の3名のみ。常陸宮は徳仁天皇(59歳)の叔父で83歳だから、事実上、秋篠宮と悠仁親王の2名と言ってよい。秋篠宮は徳仁天皇の5歳年下であるため、仮に現天皇が80代で退位されれば、秋篠宮は前例のない高齢で即位することになり、在位の期間は短いと考えられる。先月20日付の朝日新聞は、秋篠宮がそのような事態においては皇位継承を拒否すると述べた、と伝えた。となると、皇位継承者は事実上、悠仁親王一人となる。徳仁天皇が80歳になる年に悠仁親王は34歳くらい。悠仁親王に男子がいなければ、天皇家は絶えてしまう。事態は深刻である。

今後の検討では、女性宮家の創設のみならず、女系天皇や女性天皇についても議論される可能性がある。今日発表された共同通信の世論調査では、女性天皇を認めることに賛成が79.6%、反対は13.3%であったと言う。実際には、保守派のすさまじい抵抗が予想されるため、女系天皇や女性天皇の実現は困難を極めると考えざるをえない。

令和以後の皇位継承の本当の問題は、皇位継承資格の拡大によって解決できる類いのものではないかもしれない。私の根本的な疑問は、悠仁親王であろうが、(女性天皇が認められた場合の)愛子内親王であろうが、果たして本人が天皇となることを望むのか、というものだ。明仁上皇や徳仁天皇までは、それが当たり前だったかもしれない。だが、21世紀に生まれ、現人神だった昭和天皇に会ったこともない若者が、周囲はすべて職業選択の自由を享受している中、一人、憲法や皇室典範の定めに従って天皇になる、という道を選ぶものだろうか? 例えば、悠仁親王が天皇に即位する場合は、30代から40年以上にわたって天皇の務めを果たさなければならない可能性が高い。親王がそれを望まないと考えたとしても、誰が責められようか?

保守派の中には、旧皇族の男系男子を皇籍復帰させるという解決策を提唱する者もいる。これをやれば、継承資格を持つ者の数は格段に増える。天皇になることを受け入れる者も探しやすくはなるだろう。でもそれは、大多数の国民にとって、どこの馬の骨だかわからない者が新天皇になる、ということを意味する。天皇に政治権力がない今、そんなやり方で天皇を選べば、象徴天皇制は国民の支持を失い、制度そのものが崩れ去るであろう。(少なくとも私は、そんな天皇を象徴と仰ぐ気にはなれない。)

象徴天皇制の下、皇位継承の問題は一義的には政府が考えるべきことだ。しかし、皇位継承は天皇家の存続の問題でもある。現実には、徳仁天皇も心を悩ませないわけにはいくまい。問題が議論される過程で、国内世論が分断されれば、象徴天皇に対する国民の支持が大きく揺るがされる可能性も排除できない。

 

以上、新天皇に対し、厳しいことばかり言いすぎたかもしれない。だが私は、徳仁天皇と雅子皇后を温かく、そして長い目で見守るつもりだ。