横畠法制局長官の発言は何が問題なのか?

もう旬を過ぎたようにも思えるが、横畠裕介内閣法制局長官の発言が物議を醸している。発言は、3月6日の参議院予算委員会で小西ひろゆき議員(無所属。参議院では立憲民主党の会派に所属)が質問に立っていた時に飛び出したものだ。

この種の話は切り取られて報道されることが多い。発言の前後の文脈を確かめる必要があると思い、議事録が出るのを待っていた。だが考えてみれば、国会が議事録を出す際には発言者等の「確認」をとる。横畠は自らの発言を撤回しているし、与党はこの問題の沈静化を図っている。ほとぼりが冷める前に議事録がホームページにアップされることは期待薄。我ながら迂闊だった。(3月15日現在、議事録はアップされていない。)

ただし、国会は議事録の形で活字にして記録を公表するのには慎重だが、動画ならそのまま垂れ流してくれる。少しタイミングが遅れてしまったが、件の発言の前後を動画で確認し、このポストを書くことにした次第である。

事の顛末

しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

発端は、この明治天皇御製の歌が安倍総理の施政方針演説(1月28日)に引用されていたことについて、小西が安倍総理にかみついたことだった。

この件について小西は1月31日に質問主意書を出している。日露戦争に際して大日本帝国憲法下の天皇が戦意高揚のために詠んだ歌を施政方針演説に引用し、「激動する国際情勢」に「立ち向か」い、「共に力を合わせ」ようと国会及び国民に呼び掛けたことは、憲法第九条の理念や「憲法前文の平和主義及び国民主権の理念に反する暴挙」だ、と小西は批判していた。

3月6日の予算委員会においても、小西は「とにかく戦意発揚でみんなで一致団結だ、と明治天皇の歌を詠みあげることは不適切だと思わないか?」と安倍に質した。これに対して安倍は、施政方針演説を読みあげながら小西の指摘するような意図を否定し、最後に「(小西の論理の)跳躍ぶりには驚くばかり」と苦笑交じりに答えた。(確かに小西の批判は無理筋であり、私も珍しく安倍に同情した。)

この答弁に小西は「安倍総理のように時間稼ぎをするような総理は戦後一人いませんでしたよ。国民と国会に対する冒涜ですよ。聞かれたことだけを堂々と答えなさい!」と声を荒げた。ただし、声を荒げたと言っても、切れたような感じはなかったし、「声の荒っぽさ」では与野党ともにもっと酷い議員はいくらでもいる。だが、年長の総理大臣に対して「答えなさい」と命令口調になったことについては、小西自身も「まずかったかな」という表情をしたように見えた。

そこで小西は、「私の質問は安倍内閣に対する監督行為です」と述べ、唐突に横畠内閣法制局長官を指名、「国会における国会議員の質問は国会の内閣に対する監督権の表れである」ことを確認するよう求めた。おそらく、国会議員(小西)の質問は内閣に対する監督権の行使だから、多少乱暴な言葉遣いをしても許される、と自己正当化したかったのであろう。その伏線として、2014年11月21日に小西が出した質問主意書に対する政府答弁書に「国会での審議の場における国会議員による内閣に対する質問は、憲法が採用している議院内閣制の下での国会による内閣監督の機能の表れである」と明記されていたことがあった。

いよいよ、横畠の発言が出てくる。逐語に近い形で引用してみたい。

(横畠)憲法上、議院内閣制でございまして、内閣は国会に対して責任を負う。その観点で国会が一定の監督的な機能、国権の最高機関、立法機関としての作用と言うのはもちろんございます。ただ、このような場で声を荒げて発言するようなことまで含むとは考えておりません。

ここで議場が騒然となり、審議が中断する。与党の理事が収拾を図り、横畠に再答弁を促したのち、審議は再開した。

(横畠)国会の監督権は委員であり、委員会、組織としての監督権でございまして、個々の委員の発言について述べたものではありません。先ほどの「声を荒げて」という部分については、これは委員会で適否について判断すべきことがらでございまして、私が評価すべきではありません。撤回します。

撤回はしたが、謝罪はなかった。もう一度、審議は中断し、再び横畠が答弁に立つ。

(横畠)委員会において判断すべき事柄について評価的なことを申し上げたことは越権であり、この点についてはお詫びして撤回させていただきます。

小西は撤回を受け入れると発言し、その場はこれで収まった。

 

何が問題だったのか?

では、横畠が取り消した発言、つまり、国会が内閣に対して果たす監督機能は国会で声を荒げて発言するようなことまでは含まない、という内容の発言は一体何が問題なのだろうか?

マスコミ報道や野党幹部の発言を見ると、横畠発言が議員を揶揄したとか、それが政治的発言だったことが問題視されているようだ。ここで「政治的発言」というのは、法制局の所管にかかわる行政技術上の見解ではないことを喋った、という程度の意味であろう。

横畠がニヤニヤしながら発言していたことを見ても、横畠の発言が小西を揶揄するものだったことは間違いない。しかし、小西が声を荒げて発言した――ただし、繰り返しになるが、この時の小西の発言は「声を荒げた」と言えるかどうか、微妙なものだった――ことに対し、それが国会の品位を貶める等の問題がある行為かどうかを評価するのは当該委員会や議院運営委員会である。横畠本人も認めたとおり、横畠が小西の発言を「声を荒げた」と評価したことは、法制局長官の職分とは関係のない「越権行為」ということになる。

横畠発言については与党議員からも批判の声があがった。与野党を問わず、議員心理の本音としては、法制局長官であっても官僚風情に国会議員が馬鹿にされた、ということが見過ごせなかったのであろう。

しかし、これだけなら、所詮は国会議員の見栄の問題にすぎない。国会という「コップの中の嵐」について、国会議員と一緒になって騒ぐのもくだらない。

だが、議員たちの薄っぺらい虚栄心から離れて横畠発言をありのままに読んでみると、単に官僚が国会議員を揶揄したということを超えた問題が浮き上がってくる。

それを説明するために、2014年11月21日に小西が出した質問主意書に対する政府の答弁書と3月6日の横畠発言を並べて見比べてみたい。

〈政府答弁書〉
国会での審議の場における国会議員による内閣に対する質問は、憲法が採用している議院内閣制の下での国会による内閣監督の機能の表れである。

〈横畠発言〉
憲法上、議院内閣制でございまして、内閣は国会に対して責任を負う。その観点で国会が一定の監督的な機能、国権の最高機関、立法機関としての作用と言うのはもちろんございます。(①)ただ、このような場で声を荒げて発言するようなことまで含むとは考えておりません。(②)

政府の公式見解(答弁書)は、国会質問は国会が内閣を監督する機能である、と明確に認めている。横畠発言の①も、(敢えて監督「的」という言葉を使ってはいるものの)政府答弁書のラインと基本的に齟齬はない。だが、②は違う。これによって横畠法制局長官は答弁書のラインに重大な限定をつけたことになる。

議員が国会で質問をするとしよう。答弁書のラインで行けば、プロ野球の優勝チームについての予想を聞いたりするのでない限り、政府に対する議員の質問内容は幅広く行政監督機能の一部とみなされ、質問の機会や質問内容の選択は保障されなければならない。

しかし、横畠発言を文字通りに読めば、どうなるか? 政府の憲法解釈、消費税引き上げ方針、あるいは森友・加計問題での総理夫妻や財務省の対応など、内容的には政府に対するチェック機能を果たすうえで当然正当な質問であっても、議員が声を荒げれば、正当な行政監督機能の行使とみなされない、と読めてしまう。政府の取り組みがひどい時、議員が声を荒げて質問することはよくある話だ。それを駄目だと言っていたら、国会の行政監督機能は空洞化する。

いくら小西がその前に頓珍漢な質問をしていたからと言っても、法制局長官の職にある者が感情に流され、国会の行政監督機能を不当に制約しかねない答弁をしてしまった――。横畠発言で一番問題なのはこの点だ。

横畠発言の背景

ではなぜ、横畠はこんなことを言ったのか? その背景についても少し考えておこう。

第一は、長期政権の驕り。野党や一部メディアの間では、横畠法制局長官が野党議員を揶揄するような発言をしたのは、安倍政権が6年以上続いて与党議員のみならず官僚までもが増長し、野党議員を軽んじているからだ、と憤る声が強い。確かに、そうした面はある。

与野党の力関係がある程度拮抗していれば、いくら高慢ちきな官僚でも、野党議員に対して好き勝手なことは言えない。衆参が捻じれていればもちろん、与野党が伯仲した状況で横畠発言が飛び出していれば、委員会の再開までに何時間かかっても不思議ではなかった。野党側が法制局長官の辞任を強硬に求めて審議拒否を続けでもすれば、国会日程が窮屈になって政府・与党が長官の首を差し出さなければならない――。そんな事態さえ、ありえた。

現実には、野党の弱体ぶりは目を覆うばかり。今回、横畠発言をめぐって委員会の審議は何分か止まった。だが、所詮はその程度のこと。官僚たちの間には、官邸と与党には一生懸命忖度する一方、野党は歯牙にもかけない雰囲気が間違いなくある。

第二は、横畠個人の驕り。私の個人的な印象では、横畠個人の驕りが横畠をしてあのようなことを言わせた最大の理由だと思う。自民党の伊吹文明元衆院議長が「少し思い上がっているんじゃないか」と語ったのは、私と同じ感覚かもしれない。

横畠は今や、権勢の絶頂にいる。横畠は安倍内閣の最優先テーマであった安保法制の立役者の一人だ。内閣法制局や防衛省、外務省などをまとめて9条解釈変更の理論的支柱をつくっただけではない。国会審議にあたっては野党議員の追及を「カエルの面に小便」のごとくはねのけ、安保法制の成立にこぎつけた。横畠はそれによって安倍に大きな恩を売った。

内閣法制局の内部では、横畠は組織を守った救世主のような存在でさえある。安保法制をつくるため、安倍は当初、外務省出身の小松一郎を法制局長官に据えた。安保法制を作るには、それまで歴代内閣法制局が営々と築き上げてきた憲法9条の解釈、要するに「集団的自衛権の行使は憲法上、認められない」という解釈を変更しなければならなかった。それを実行できるトップとして、安倍は小松を抜擢したのだ。それは法制局にとって、人事面で侵略を受けたような有事であった。ところが小松は病に倒れ、検察庁出身で法制局次長を務めていた横畠にお鉢が回ってくる。横畠は、組織防衛のために安倍の求める9条解釈の変更に協力した。

ただし、横畠は9条解釈を根底から変更するのではなく、従来の内閣法制局の解釈に接ぎ木をするようなやり方で集団的自衛権の限定的な行使を可能にする新解釈を作り出した。その意味では、高畠は法制局の伝統的な解釈を最大限守り、集団的自衛権の行使容認を安倍が当初思っていたよりも微温的なものにした、と言うこともできる。

いずれにせよ、安倍との関係においても、法制局内部においても、横畠の地位を脅かす要素は見当たらない。こうした状況に置かれれば、よほどの人徳者でない限り、人間は増長する。横畠はまさにそうなった。野党議員はもちろん、与党議員であっても、国会議員何するものぞ、というのが彼の感覚であろう。

ついでに言うと、小西ひろゆき議員のキャラクターにも横畠の発言を誘発した部分が多少なりともある。質問したのが小西以外の議員であれば、高畠があそこまで本性を現わすこともなかったに違いない。

この記事を書くに当たっては、小西が予算委員会で質問した録画を何度も見た。率直に言って、小西が展開する議論の流れを追うのは骨が折れた。彼の論理は往々にして独りよがりで極端、加えて飛躍が甚だしい。また、彼のホームページを覗いてみたら、質問主意書の数に驚かされた。過去6年強の間に200近く出している。一見、立派なことに見えるかもしれないが、その大半は思いつきや独りよがりに溢れており、政府の答弁書も形式論とすれ違いを繰り返しているに過ぎない。一生懸命なのは認めるが、人間的にもう少し成長しないとまずかろう。

 

議員の資質がどうであれ、国会議員が政府に対して行う質問に制約をかけるべきではない。ましてや、横畠が言ったように「声を荒げるかどうか」を基準にするなど、言語道断である。国会議員が情緒不安定で切れるのを見たり、何様気取りか知らないが偉そうに発言するのを聞いたりするのは、私も不愉快極まりない。しかし、それは権力側による言論封殺を防ぐためのコストと考えるしかない。今回の小西の場合は違うが、声を荒げた質問の中にも政府に対するチェック機能として必要なものはありえる。

最後に蛇足を一言。国会議員たる者、もう少し品位を保ったらどうか、と思う議員が少なくない。「ヤジは議場の花」などとうそぶいてチンピラまがいの罵詈雑言を浴びせる輩、国会質問を政府に対する質問ではなく、他の政党に対する誹謗中傷の場として利用する輩・・・。選挙で選ばれれば何でも許される、という理屈を私は認めない。

大阪都構想とは一体、何なのか?

大阪都構想の是非を問う住民投票をめぐり、松井一郎大阪府知事(日本維新の会代表)が吉村洋文大阪市長(大阪維新の会政調会長)と一緒に辞職し、松井が大阪市長選、吉村が大阪府知事選に打って出る可能性が高まったらしい。来月は統一地方選があるため、大阪の人たちにとってはダブルどころか、クアドロプル選挙ということになるかもしれない。

ダブル・スライド選挙に打って出る理由を松井は「大阪都構想を実現するため」だと言う。だが、それはキレイゴトだろう。大阪府知事選と大阪市長選を仕掛ければ、「維新」対「その他」の構図となって大阪では盛り上がる。その結果、最近は失速気味という指摘もある維新の会の候補が大阪府議会選挙と大阪市議会選挙を有利に戦えるようにする、という意図(悪く言えば党利党略)が透けて見える。

日本維新の会という政党に属する二人が、大阪府知事と大阪市長という、別々の選挙で選ばれた公職を交換する、という発想には驚くほかない。彼らにとって、知事や市長の座は政治または選挙の道具でしかない、ということか。

とは言え、松井たちのやり方をどう評価するかは、大阪の有権者が決めればよいこと。何より、結果的に松井や吉村の「炎上商法」に加担することになるのは胸くそが悪い。連中の茶番からは距離を置くのが賢明というものだ。

だが、ここでふと、初歩的な疑問が生じた。

大阪都構想とは何か――? 

橋下徹が大阪市長だったときから、この言葉を幾度も耳にし、何となくわかったつもりでいた。でも、よくよく考えてみると、説明できない・・・!

大阪府の人口は880万人を超え、日本の総人口の約7%にあたる。その自治体のあり方が変わるかもしれない、ということであれば、無関心は無責任だ。そこで、今回のポストでは大阪都構想を私なりにわかりやすく整理してみた。

「大阪都」とは?

大阪都構想は維新の会の看板政策である。だが、維新の会のホームページを見ても「大阪府構想とは何か?」というストレートな説明は見当たらない。(私が見つけられなかっただけかもしれない。大阪都構想に関するQ&Aなどは、橋下徹氏の動画を含めてたくさんあったのだが…。)仕方ないので、いろいろ調べてみたら、こういうことだとわかった。

まず、誤解されやすいので最初に断っておく。「大阪都」構想と言っても、大阪を日本の首都にしようということでは全然ない。そもそも、日本の首都が東京である、と直接規定した法律は存在しておらず、東京が日本の首都なのは、みんながそう思っているからだ。大阪の人たちが「大阪を日本の首都に」と言ったとしても、大阪以外に住む日本人の多くは相手にしないだろう。

都=首都ではない、とすれば、大阪「都」とは何なのか? 答を先に言うと、大阪府が地方自治法281条第1項に言う都、つまり、当該区域内に「特別区」を設置した広域自治体になるということだ。実はこれ、以前はやりたくても法律上、できなかった。しかし、2012年に大都市地域特別区設置法が制定された結果、東京都のみならず、他の道府県の区域内でも特別区の設置が可能になったのである。

特別区とは、千代田区、港区、新宿区など東京23区のレベルの基礎自治体のこと。横浜、名古屋、仙台、福岡などの政令指定都市にも「○○区」というのはある。これらは「行政区」と呼ばれるが、特別な機能は持たず、単なる「区域」に近い。一方で、東京23区のような特別区は市とほぼ同格の制度。公選の区長や区議会を持ち、独自の条例を制定したり徴税したりすることもできる。権限も格も、特別区の方が単なる行政区よりも遥かに上だ。(本当は比べるのがおかしい。)

現在、大阪市は広域自治体である都道府県に準ずる権能を持った政令指定都市だ。都構想が実現すれば、大阪市は廃止され(政令指定都市でなくなり)、5つの特別区となったうえで大阪府の下に置かれる。今の大阪市が持つ広域自治体としての機能は原則として大阪府に移管される。

これまで、特別区を持つ広域自治体は東京都だけだったから、地方自治法281条第1項に言う「都」と首都は同一視できた。だが、大阪都構想が実現すれば、「東京は、東京都という名称で、特別区を持つ地方自治体法上の都であり、首都である。一方、大阪は、大阪府という名称で、特別区を持つ地方自治体法上の都であり、首都ではない」という状況が生まれるわけだ。(新たに法律を作って大阪府の名称を大阪都に変えれば、大阪都という名称も使えるようになる。だが、率直に言って、紛らわしいし、煩わしい。)

大都市行政のあり方に一石を投じたことは認めよう。だが・・・

以上、大阪都構想とは何なのか、まとめてみた。なるべくわかりやすく、と心掛けたつもりだが、やっぱりわかりにくいだろうか? その最大の理由は、「都」という言葉の意味が一般に使われているのと違うことにある。そこで、敢えて「都」という言葉を使わずに説明すれば、以下のように言ってもさしつかえあるまい。 

戦後しばらくの間、広域自治体である大阪府が基礎自治体である大阪市を傘下に収めていた。しかし、大阪市が大きくなると1956年に政令指定都市に指定され、大阪府が持つ広域自治体としての機能を一部奪った。その後、大阪市の方が勢いを増すにつれ、大阪府から大阪市にますます多くの権能が移管されていった。だが、大阪市民は大阪府民でもある。どうしても大阪府と大阪市との間で機能上の重複があったり、お見合いのような非効率が起きたりする。

橋下徹はそこを突いた。キーワードは「二重行政」だ。橋本の提示した解決策(=大阪都構想)の本質は、大阪市から政令指定都市の権能を奪い、再び大阪府の下に置くことである。

これに対し、反対派は「二重行政と言うなら、大阪市と大阪府がうまくコーディネートすれば済むことだ」という論理で対抗する。この論理、あながち間違ってはいない。大阪市長の吉村自身、「府と市が力をあわせることで、大阪がどんどんよくなっていく。今の大阪が、まさに“大阪都構想”です」と大阪維新の会のHP上で認めている。

しかし、ここで維新の側は政治論を持ち込んで再反論する。吉村は「確かに今は、知事と市長が同じ考え方で同じ方向を持っているので、もはや都構想をやっているようなもの」と述べたあと、「このカタチが何時までも続く保証」はないため、大阪都構想という仕組みをつくることが必要だ、と訴えるのである。(ただし、大阪都ができて権限が一元化されても、無駄遣いに無頓着な大阪「都」知事が選ばれれば結局、改革にはならない。)

大阪都構想がいいことなのか、間違っているのか、結論は最後まで出ないだろう。

元来は基礎自治体である市が巨大化し、「広域自治体である道府県に決定権を持たせるよりも、住民により近い市に決定権を委ねた方が住民サービスはよくなる」という考え方が強くなり、政令指定都市が生まれた。そして、道府県との間で役割分担を試行錯誤してきたのが地方行政の歴史である。

だが、それは欠点のない仕組みではない。大阪もそうだが、神奈川、静岡、福岡は政令指定都市を二つも抱え、府県の空洞化が進んでいる一方、行政組織や議会は従前の規模を原則維持している。これは二重行政以上の無駄と言えよう。政令指定都市になるために合併を繰り返した結果、政令指定都市が基礎自治体と言うには広域化しすぎた、という意見もある。

こうした問題に対し、強くなりすぎた政令指定都市を弱め、道府県の権限を再構築するという都構想は、確かに一つの答えではある。だが、特別区を伴うとは言え、逆戻りが唯一の回答とは言い切れない。二重行政を解消するためなら、政令指定都市をもっと強化した方がよい、という考え方もありえる。

無責任なようだが、都構想がいいか悪いかは、実験してみるしかない。大阪府民や大阪市民が「その実験に賭けてみたい」と言うのであれば、興味深く見守りたいと思う。

 

大阪都構想は当初考えていたよりも真面目なチャレンジかもしれない――。そう思うだけに惜しむことがある。それは、大阪都構想を担ぐ松井や吉川からは、政治的打算、大阪人の性格を利用したポピュリズムがプンプン臭うことだ。あのチンピラまがいの言葉遣いを耳にしただけで、大阪都構想そのものが胡散臭く聞こえてきてしまうのは、私だけではあるまい。

 

24時間営業は「錦の御旗」なのか?――セブンイレブンへの疑問

セブンイレブン本部とフランチャイズ加盟店オーナーが深夜営業をめぐって激しく対立し、ニュースになっている。セブンイレブンのフランチャイズ契約は加盟店による24時間営業を明記していると言う。ところが、東大阪市にある加盟店のオーナーは人手不足や過酷な労働条件を理由に深夜営業を(本部の了解なく)とりやめた。これに対し、セブンイレブン本部は契約の解除や1700万円にのぼる違約金の請求をちらつかせ、対立が激化している――。報道によれば、これが「事件」の大筋のようだ。

当初、この「事件」について正確な情報を持たない私がしたり顔でコメントすることは控えるべきだと思っていた。だが、2月20日にセブンイレブン・ジャパンのホームページに掲載された「弊社加盟店の営業時間短縮に関する報道について」という、木で鼻を括ったような声明文を読んで気が変わった。東大阪の「事件」でどちらかの肩を持つつもりは今もない。だが、この「事件」は両者の争いを超えて日本のコンビニ業界のビジネス・モデル、ひいては企業の社会貢献のあり方について根源的な問いかけを突きつけているように思えてきた。この予感が正しければ、私なりの考えを述べることも無意味ではないだろう。

セブンイレブンの声明文

セブンイレブン本社の声明は、「弊社加盟店における営業時間短縮の報道におきましてお騒がせしており誠に申し訳ございません」で始まる。この手のお詫び文の定型だとは言え、わかっていないなあ、というのが最初の感想。今回の件でセブンイレブンに対して不快感を抱いた一般人は、東大阪の件が表に出なければよかった、などとは全然思っていない。むしろ、逆だ。この件が表沙汰になり、騒ぎになったことを一番苦々しく思っているのは、セブン本部の面々じやないのか。あなたたちからこんなことを言われても、苦笑するしかないですよ。

次に「へっ?」と思ったのは、セブンイレブンが声明の中で、コンビニエンスストアの果たす「社会インフラとしての役割」を強調し、24時間営業を継続する決意を明らかにしていること。行間から「正義は我にあり」というセブンの鼻息の荒さ、加盟店を見下した「上から目線」が露骨に伝わってくる。

それはさておくとして、こんなに簡単に24時間営業の継続を打ち出してよかったのか? 今回の件を受け、セブンイレブン本部内では現在及び将来の24時間営業のあり方について徹底的な議論は行われたのだろうか? 大企業によくあることだが、官僚体質に陥った組織が惰性で24時間営業の継続を打ち出したように見えて仕方がない。

セブンイレブン本部側の対応~4つの選択肢

今回の「事件」が報じられたとき、大別して次のような決着が考えられるだろうと素人なりに考えた。

    1. 加盟店側がフランチャイズ契約に規定された24時間営業の義務に違反したことを理由にセブン本部がフランチャイズ契約を解除し、加盟店に対して違約金を請求する。加盟店側が泣き寝入りすれば、それで終わり。加盟店が争うことを選べば、違約金が減額される等の条件で和解に至る可能性もある。
    2. セブン本部は応援要員の派遣など相当な援助を行い、加盟店はそれを受け入れて24時間営業を再開する。
    3. セブン本部はこの加盟店に対し、特例的に24時間営業の義務をはずす。加盟店は本部から受け取る手数料等の減額等、ペナルティを受ける一方で深夜営業を免除される。
    4. セブン本部は、全加盟店とのフランチャイズ契約を見直し、24時間営業の義務付けについて柔軟性を持った対応ができるようにする。

「事件」が表沙汰になっていなければ、セブン本部は選択肢①を選んでいた可能性が最も高い。しかし、「事件」が世間の注目を大きく浴びた時から、セブン本部は、裁判に勝とうが負けようが、ブランド・イメージの毀損など、加盟店との関係で発生するのとは別種の損失を気にしなければならなくなった。その結果、セブン本部が選択肢①をすぐに選ぶ可能性は低下したと思われる。

セブン本社がHP上に掲載した声明を読む限り、セブン側は選択肢②の線で着地させたい意向のように見える。だが、仮に加盟店側が選択肢②に同意して当座の解決が図られたとしても、それが持続可能なのか、という問題は残る。夜間の人手不足は簡単には解消しないため、加盟店側にしてみれば、綱渡り状態が続く。セブン本部の側も、本部からの人員派遣を永久に続けられるわけではなかろう。何よりも、他の加盟店から同様の声が出てくれば、そのすべてに本部が応援を出すことはできないはずだ。

セブン本部にとっては、選択肢③にも同様の問題がある。東大阪の加盟店だけ特別扱い、という取り決めを仮に結んだとしても、ここまで騒ぎになった以上、それを秘密にしておくことは到底できない。他の加盟店からも同様の要求が噴出することは火を見るよりも明らかだ。東大阪のように表沙汰になれば要求が通るのか、と加盟店のオーナーたちが思えば、「炎上」が頻発することも十分にありえる。そうなればセブンイレブンのさらなるイメージダウンは避けられない。

では、選択肢④はどうなのか? 加盟店側の中には、「24時間営業をやめられるのなら、売上や利益が減っても構わない」と考えるオーナーが少なくないようである。だが、この選択肢を選べば、セブン本部の受け取るロイヤリティは減り、減収減益要因になる。24時間営業というセブンイレブンの金看板も形骸化しかねない。セブンイレブン側から見れば、悪夢のような選択肢に映っていても不思議ではない。

当事者の一方であるセブンイレブンの組織内部からは、利益を重視する企業の論理はもちろん、社内的な上下関係を含めた様々なしがらみがあるため、事態を客観的に捉えることはむずかしいと思う。だが、部外者の目で外から俯瞰してみれば、流れはもうはっきりしている。

目先の利益や「24時間営業=社会インフラ」という企業理念にこだわり、選択肢①に打って出れば、件の加盟店オーナーに勝って(満額かどうかはともかく)違約金を勝ち取ることは可能かもしれない。だがその結果、消費者の心はセブンイレブンから離れ、結局は衰退への最短コースとなるだろう。選択肢②、選択肢③は所詮、一時しのぎにすぎない。好むと好まざるとにかかわらず、セブン本部は選択肢④の方向に進まざるをえなくなると思う。

24時間営業を残したければ、24時間営業を捨てる発想が必要

24時間営業は消費者にとって確かに便利だ。他業態の店で買うより高くてもコンビニで買い物をする人が多いのも頷ける。防犯を含め、コンビニが24時間営業を通して地域社会で貴重な社会的役割を果たしていることにも、素直に感謝したい。コンビニが掲げる24時間営業は、単なるビジネス・モデルを超え、「民間企業による社会インフラの提供」というソーシャル・モデルとしても広く日本社会で受け入れられている。

しかし、便益の裏には必ずコストがある。コストが受容可能でなければ、事業は持続できない。便利だから、というだけで議論すれば、JRも私鉄も地下鉄も24時間、田舎であっても車両を走らせ続けた方がよい、ということになる。もちろん、コストを考えれば、これが釣合いのとれない暴論であることは言うまでもない。

これに対し、「コンビニの場合は24時間営業しても(24時間営業した方が)儲かるので、コストは受容可能と考えられるのではないか?」という議論もありえる。事実、従来はそう考えられてきたのだと思う。でも、時代の推移とともにコンビニを取り巻く環境は大きく変わり、その議論は成り立ちにくくなっている。

セブンイレブンが24時間営業の第1号店を出したのは1975年のことだ。当時、日本の人口は増え続けると誰もが思っていた。「働くことは美徳」「モーレツ社員」という言葉が幅をきかせ、時間外残業も当たり前だった。今日、日本全国には5万7千店を超えるコンビニがひしめき合っている。少子高齢化と人口減少が進み、世は人手不足の時代となった。その深刻さは、移民嫌いの自民党・安倍政権が外国人労働者という名前で実質移民の受け入れを決めたほど。働き方改革とやらのおかげで、長時間労働はタブー視されている。

こうした状況のもと、深夜営業を維持するための人手を確保できなくなっているのは、東大阪のあの加盟店だけではない。24時間営業を行うために必要なコストが受容限度を超えた、と考える加盟店は確実に増加したし、今後も増加する一方であろう。

セブンイレブン本部の方は、フランチャイズ契約のおかげで現場の人手不足に直接悩まされることはない。人手というコストを加盟店に全部押し付ける、というビジネス・モデルは、実によくできた「儲けの方程式」だ。しかし、その方程式は、加盟店側が24時間営業のコストを黙って吸収してくれてはじめて機能する。コスト負担に耐えられず、叫び声をあげる加盟店が増えれば、世の中の批判の目は、加盟店オーナーの奴隷的な労働に依存して24時間営業を続けようとするセブン本部に向かうこととなろう。

セブンイレブンは24時間営業を全面的に放棄すべきだ、と言うつもりはまったくない。だが、原則すべての加盟店に24時間営業を義務付けたまま、2万店を超える店舗網を維持・拡大しようとしても、もう限界に近づいている。

店舗数が2万もあれば、加盟店の体力は当然、それぞれに異なっている。人件費をしっかり払って人手を集め、立地条件も良く十分に儲かっている強い店もあれば、それができない弱い店もある。そこでセブンは次のような選択を迫られることになるだろう。

24時間営業を従来通り、絶対的な善として推進したいのであれば、今後もフランチャイズ契約の中で24時間営業を義務付ける一方、加盟店の数は縮小を覚悟する。あるいは、加盟店の拡大路線を維持する一方、本部に収めるロイヤリティに格差をつけるなどの条件をつけ、24時間営業するかしないかの選択権を加盟店に与える。(※ 昨日のニュースによれば、コンビニ加盟店ユニオンがセブンイレブンに対し、営業時間の短縮などについて団体交渉に応じるよう求めたという。)

いずれにせよ、セブン本部の儲けは減る。しかし、24時間営業を見直すことによってコンビニというビジネスがより持続可能になる、と考えれば、見直しはセブンの経営にとって悪いこととばかりは言いきれない。

 

 

街が眠ることのない都会はもちろん、過疎化の進む田舎でも、コンビニの24時間営業はとても便利だ。最初にコンビニの24時間営業が最寄りの駅の近くにできたとき、「ありがたい」と思うと同時に、「よくできるもんだなぁ」と感心したもの。それがいつしか、「コンビニが24時間営業するのは当たり前」という感覚になってしまった。

今後、コンビニの24時間営業が見直されることになれば、我々は今よりも不便を感じるようになる。だが、加盟店オーナーに理不尽かつ持続不可能な労働条件を強いることで得られる限界的な便利さなど、捨てればよい。そう割り切れなければ、我々も今のセブンイレブン本部と同じ穴の狢、ということだ。

 

安倍のノーベル平和賞推薦をばらしたトランプの記者会見録を読んでみた

トランプ大統領は2月15日の記者会見で、安倍総理からノーベル平和賞に推薦されたことを明らかにした。

選考機関は推薦人を50年間明らかにしないことになっている。安倍はよもや推薦の事実、すなわちトランプに対するゴマスリが表に出るとは思っていなかったのだろう。でも、甘かった。相手はドナルド・トランプだ。

地球温暖化、核軍備管理(INF)、イラン核合意、エルサレム問題などに対する思想と行動を考えれば、トランプがノーベル平和賞に値するのかという批判が出てくるのは当然だ。安倍がその推薦状のコピーをトランプに届けたと聞けば、属国根性丸出しだと憤る人の気持ちもよくわかる。

一方、安倍の応援団からは「超大国であり同盟国である米国大統領のご機嫌をとることは国益に資する行為だ」という妙に開き直った安倍擁護論が聞こえてくる。まあ、安倍にゴマをすっている人たちが安倍自身のゴマすりを批判するわけがない。

でも、国会でこの件をとりあげて安倍を批判する国会議員の先生方からも、心のどこかに「長いものに巻かれるのは仕方ない」という戦後日本人のメンタリティーが透けて見える。だから、彼らの批判はどこか芝居臭くて心に響かないんだろう。

以上はまったくの余談だ。このポストで書くのは、トランプが安倍からノーベル平和賞の推薦を受けたとバラした時の会見録を読んでみた感想と小さな発見である。

トランプのマッチポンプ?

安倍がトランプをノーベル平和賞に推進した理由について、トランプは会見で次のように解説してみせた。

(以前は北朝鮮の)人工衛星――トランプは “rocket ship” という言葉を使っているが、日本のメディアも翻訳しておらず、何を指すのか今一つ自信がない――やミサイルが日本上空を飛んでいた。警報が鳴り響いていた。それが今や、突如として日本人はいい気分になり、安全だと感じている。私がそうしたのだ。

要するに、トランプは米朝の緊張緩和に対する自身の貢献を自画自賛し、戦争の危機を回避した自分はノーベル平和賞にふさわしいと言ったのである。

確かに、1年前の今頃、我々は――少なくとも私は――戦争の予感とも言うべき重苦しい雰囲気を毎日味わっていた。その不安感は、昨年6月12日にトランプと金正恩がシンガポールで会談する流れになったあたりから急速に薄れ、今では殆ど忘れ去られている。そこだけ見れば、日本人は――韓国人も中国人も、そしてアメリカ人も――トランプ(と金正恩)に感謝しなければいけない、ということになる。

だが、それはあくまでトランプの言い分を鵜呑みにした場合の話だ。1年前に我々が感じた不安は、北朝鮮の核兵器やミサイルのみによって引き起こされたものではない。北朝鮮の持つ核兵器とミサイルに関して言えば、今も1年前も状況はさして変わらない。にもかかわらず現在、私たちが1年前に持っていた不安感から解放されている。せれは、米朝の軍事衝突が差し迫っていないと思えるようになったからにほかならない。

当時は何故、米朝が戦争に至る可能性が高まっていたのか? 根源的な理由は、北朝鮮が核・ミサイルの開発を進め、米本土を射程に入れる核ミサイルの開発・配備に至る可能性が高まったことである。だが、それだけで米朝が戦争に突入する必然性はない。ロシアも中国も北朝鮮以上の能力を持っているが、米国とロシア、中国の間で(すぐに)戦争が起こると心配する人はいない。抑止が十分に働いているためだ。

2017年1月に大統領に就任したトランプは、北朝鮮による核・ミサイルの脅威増大に対処してこなかったとしてクリントン、ブッシュ、オバマの歴代政権を厳しく批判した。特に、北朝鮮との積極的な交渉を行わず、漸進的な制裁強化を通じて北朝鮮の心変わりを待つ、というオバマ政権の「戦略的忍耐」--その大前提には最悪の事態になっても抑止が働く、という認識があった――をこき下ろす。

トランプは北朝鮮政策を転換し、北朝鮮に「最大限の圧力」をかけ、軍事オプションもちらつかせながら核兵器と(中長距離)ミサイルを放棄するよう迫った。金正恩の瀬戸際政策とドナルド・トランプの瀬戸際政策がぶつかり合うことになったのである。(北朝鮮が核・ミサイル能力を飛躍的に進歩させたことが明らかになったのはオバマ政権の最後の一年だった。ヒラリー・クリントンがオバマの次の大統領になっていたとしても、米国の北朝鮮政策は変わっていた可能性がある。)

トランプの「炎と怒り」に恐怖を感じた北朝鮮は、逆に核実験やミサイル発射などを加速させた。これに米国はさらなる圧力の増大で応え、それを脅威と感じた北朝鮮がまた挑発的な行動を先鋭化させる・・・。こうした作用と反作用のスパイラルの中、米朝が何らかのきっかけによって軍事衝突を起こし、それが戦争にエスカレートする可能性が懸念されるようになったのである。

金正恩と一緒になって緊張を煽り、戦争の可能性を高める。そのうえで両者が手打ちをして戦争の不安はなくなった、と誇る。これではマッチポンプだ。トランプにノーベル平和賞をと言うのであれば、金正恩にもノーベル平和賞を、ということにもなりかねない。

CVIDの形骸化

トランプの会見録を読んでみたら、現在と今後の米朝関係を理解するうえでの手がかりも見つかった。安倍やトランプのことをあげつらうよりもこっちの方が重要かもしれないので紹介したい。

記者会見でトランプは、大統領に当選後にオバマと引継ぎを行ったときのことを引き合いに出し、自らの北朝鮮政策がいかに成功したかを誇ってみせた。少し長くなるが、面白いので以下に引用する。

オバマは(北朝鮮と)戦争するつもりだ、と私は思った。実際、彼は私に「北朝鮮との大規模な戦争を始める直前まで行った」と語った。それが今、状況はどうなっている? ミサイルはなくなった。ロケットはなくなった。核実験もなくなった。( No missiles.  No rockets.  No nuclear testing.) 

北朝鮮はミサイルを廃棄していない。発射実験をとりやめているにすぎない。だが、そんなことはお構いなしでトランプは次のように続ける。

しかし、そんなこと(No missiles, No rockets, No nuclear testing)よりもずっと重要なこと、本当にずっと重要なこと、もっと重要なことは、私と金正恩が素晴らしい関係を築いたということだ。私は金正恩と非常に良好な関係にある。私は仕事をやり遂げたのだ。

トランプはこの後、安倍からノーベル平和賞に推薦されたことを紹介し、さらに述懐と自画自賛を繰り広げた。

それは最初、とても厳しい対話で始まった。「炎と怒り」だ。「全面的な抹殺」もあった。「私の(核の)ボタンの方が大きい」とか、「私の(核の)ボタンは機能している」とか・・・。人々は「トランプは狂っている」と言ったものだ。そしてどうなったかわかるか? とても良好な関係だ。私は彼(金正恩)がとても好きだし、彼も私のことがとても好きだ。これは私以外の他の誰にもできなかった。オバマ政権にも、だ。第一に彼らはそんなことをしようと思わなかっただろう。第二に、彼らにはそれを成就させる能力もなかった。

以上から見て取れるのは、トランプが米朝関係の現状にとても満足していることだ。

確かにトランプは当初、これまでの政権よりも遥かに大きな拳を振り上げた。しかし、シンガポール会談の前後からトランプは、北朝鮮がミサイルを飛ばさなくなったことや核実験を停止したことを大きな成果とみなし、核のCVID(完全かつ検証可能で不可逆的は核廃棄)が実現していないにもかかわらず、今以上の圧力を加えなくなった。いくらミサイル発射や核実験を控えたところで、北朝鮮が核・ミサイル能力の廃棄に踏み出さない限り、米本土に届く核ミサイルの開発・配備まであと一歩、という状況が変わらないことは敢えて言うまでもない。

おそらく金正恩は、ミサイル発射と核実験を行わないことをトランプに約束しているのだろう。これで米本土に届く核ミサイルの完成は防がれた、というのがトランプの受け止めと思われる。しかし、それではもはや「完全な核廃棄」とは言えない。トランプ政権の掲げていたCVIDは既に形骸化している、と考えるのが妥当だ。また、前政権の頃よりもはるかに厳格な経済制裁が今も続いているが、昨今は中露(及び韓国)による水面下の援助がある程度復活していると考えられる。

このように見てくると、現在のトランプ政権の北朝鮮政策はトランプ自身が激しく批判した従来の政権とほぼ同じラインに収まったと言ってよい。

トランプは「ディール」好きで有名だ。トランプの本を読むとよくわかるが、彼が好む商売上の「ディール」で大事なことは、自らの損失を最小化し、利益を最大化することだ。相手を叩き潰す完勝である必要は必ずしもない。見過ごされがちだが、「怒りと炎」のチキン・ゲームによって追い込まれたのは金正恩と北朝鮮だけではない。トランプや米軍も相当消耗したはず。北朝鮮が米本土を攻撃可能な核ミサイルを完成させることはないという保証が得られるのであれば、CVIDの達成にはこだわらなくても十分に良いディールだ、とトランプが思うようになったとしても不思議なことは一つもない。もちろん、上記の保証を裏打ちするものがトランプと金正恩の個人的関係しかない、と言うのは何とも危うい話ではあるが・・・。

ベトナム会談を前に

間もなく(2月27日と28日)、ベトナムで2回目の米朝首脳会談が行われる。

いかなる結果となるにせよ、我々のボトムラインは「抑止の構造は生きている」ということだ。今回の金正恩の対応を見れば、彼が生き残りにこだわり、その限りにおいては合理的に考えることができるという「信頼感」は高まった。つまり、米朝間で抑止が働く可能性は高い、と考えてよい。であれば、北朝鮮の非核化とミサイルの廃棄が目に見えるように進まなくても、米国は前のように拳を振り上げるべきだ、と考えるのは短慮と言うもの。

北朝鮮が米本土に届く核ミサイルを配備することは望ましい事態ではないし、できる限り避けるべきことだ。しかし、抑止が機能する限り、北朝鮮は核ミサイルを保有しても使えない。現状、北朝鮮は米本土に届く核ミサイルを完成させる数歩手前の段階と見られる。この状態で止まれば、北の核・ミサイルが廃棄されなくても、米国にとって最悪の事態とはならない。

一方で、北朝鮮が米本土に届く核ミサイルを開発・配備する事態を避けるために圧力をかけ続け、何らかの理由で北朝鮮と米国の間で戦争が起きれば、特に日本にとっては最悪の事態だ。戦闘が米韓と北朝鮮の間にとどまればまだよいが、在日米軍基地を抱える日本列島が攻撃を受けない可能性は低い。ここで問題は、米本土と違い、日本列島を射程に含む(ノドン搭載の)核ミサイルが既に実戦配備されている可能性の十分にあること。通常弾頭ミサイルによる飽和攻撃と同時に核弾頭を撃たれれば、ミサイル防衛も無力だ。米朝が開戦すれば日本が必ず核ミサイル攻撃を受けるというわけではないが、核攻撃を受けた時に受ける致命的な被害を考えれば、米朝開戦につながる選択肢を日本が容認することは蛮勇にすぎない。

ベトナムでの首脳会談で事態はどう進むのか、進まないのか。呑気に聞こえるかもしれないが、「決裂して1年前のような緊張関係に戻らなければ良しとする」というくらいの気持ちで会談を見守るのがよいと思う。

 

 

 

最初の引見がトランプでは新天皇に申し訳ない

トランプ大統領が5月下旬に来日することがいよいよ本決まりとなったようだ。6月のG20にも出席すれば、「短期間で二度の訪日となって前例がない(=すごいことだ)」という論調でメディアが伝えている。外務省や官邸のブリーフを鵜呑みにしてのことだろう。

アメリカって日本の宗主国だったのか? アメリカ大統領が来る、来ないで大騒ぎするメンタリティーからは、いい加減もう卒業できないものか、といつもながら思ってしまう。

トランプの来日は私にとって、別にどうでもいいことである。しかし、トランプをわざわざ5月に呼ぶのが、「51日に即位される新天皇に『国賓として最初に』会っていただくため」と聞けば、これは黙っていられない。

今上天皇が即位された際、外国要人の引見はどのように行われたのか? 宮内庁のホームページで調べてみた。

今上天皇の即位は1989年(平成元年)17日。大喪の礼は224日に執り行われた。221日にフィンランド大統領夫妻と会見されたのを皮切りに、天皇は27日までの間に大勢の外国元首を引見された。ブッシュ(父)大統領とは25日に会われている。

大喪の礼と切り離したものとしては、44日にイタリア首相を、413日には中国の李鵬首相を、いずれも公賓(国費で接遇する行政府の長など)として引見された。国賓(国費で接遇する国家元首)として最初に引見されたのは、10月のジンバブエ大統領であった。

公賓としての最初の引見が中国の首相になることは避ける、という配慮はあったかもしれない。だが、平成の代替わりに当たり、天皇が最初に引見する国賓・公賓の選択は、大喪の礼という特殊事情があったとは言え、比較的自然体でなされたように見える。

今回、新天皇が国賓として最初に引見される外国要人をトランプ大統領にしたいと政府が考えているのは、安倍のトランプに対するゴマスリだろう。ネット上では、それで日米貿易交渉などが有利に運ぶのではないか等の思惑が紹介されている。トランプが虚栄心をくすぐられて喜ぶのは間違いない。だが、ディールはディールで実利を重視するのがトランプという男だ。

何よりも、この程度のことに新天皇を利用すれば、天皇の権威や天皇制の意義を政府自らが貶めることになる。頓珍漢にも天皇の謝罪を求めている韓国国会議長などは「日本政府は米国に対しては天皇を外交カードにしているんだから、韓国に対してもそうすべきだ」と言い出しかねない。

もっと率直に言おう。新天皇が最初に引見する外国要人(国賓・公賓)としてトランプを選ぶことに反対する最大の理由は、相手がトランプだからである。米国大統領だから、ということでは必ずしもない。米国はわが国の唯一の同盟国。本来なら、天皇陛下が最初に謁見する外国首脳(国賓)が米国大統領になる、ということに目くじらを立てる必要は特にない。だが、トランプとなると話は違ってくる。

トランプのことだ、自分が新天皇に会った最初の外国要人であることを(ツイッターか、記者会見かはともかく)軽々しく自慢するに違いない。反・地球温暖化(パリ協定離脱)、反・自由貿易(TP協定離脱、鉄鋼アルミ追加関税)、反・核軍縮(INF条約破棄通告、イラン核合意離脱)など、トランプの考えに対する新天皇の受け止めを私なりに慮った時、トランプが新天皇を使って自らをアピールするのを見ることは何とも忍びない。

少なくとも現時点では、浩宮が自分の気持ちを表に出したりすることはないだろう。しかし、それをいいことに政府が新天皇をここまで露骨に外交カードとしてよいのか? 安倍総理か、安倍総理とトランプ大統領に忖度する官僚かは知らないが、代替わりを迎えられた新天皇の門出に泥を塗るような真似は厳に慎んでもらいたい。

では、新天皇が即位後最初に引見する外国要人(国賓・公賓)は誰がふさわしいのか? 一つの考え方としては、隣国の首脳という選択肢がある。しかし、同盟国である米国に間違ったメッセージを発することになりかねないというだけでなく、トランプが駄目だというのとよく似た思想上の理由から、習近平もNGだ。文在寅に至っては、新天皇が引見することはもちろん、国賓として迎えることにさえ、誰も賛成しない。

結局、注目されるが故に、新天皇が即位後最初に引見する外国要人(国賓・公賓)はあまり目立たない国の首脳とするのがよさそうだ。今回の代替わりとは事情が異なっていたとは言え、平成の代替わりの際に発揮された知恵に学ぶべきことは決して少なくない。

 

民主党政権の悪夢とは何だったのか?

2月10日に自民党大会が開催された。挨拶に立った安倍晋三総理は、2006年の第一次安倍政権時に参議院選で負けたことに触れ、「わが党の敗北で政治は安定を失い、悪夢のような民主党政権が誕生した。あの時代に戻すわけにはいかない」と強調した。これに対して枝野幸男(菅内閣の官房長官)、岡田克也(鳩山内閣の外相、野田内閣の副総理)、原口一博(鳩山内閣の総務相)などが反発したのをマスコミが面白おかしく報道している。

安倍が民主党政権の悪口を言うのは、政権運営に行き詰まった時か、解散を含めて選挙を意識している時だ。今回がどちらなのか、私は知らないし、興味もない。いずれにせよ、前政権の悪口を言い、「それよりは今の方がマシだな」と思わせることによって自らの求心力を高めようとする安倍の根性は実に情けない。だが、安倍のさもしい手法がこれまで何度も功を奏してきたこともまた、情けない事実である。

奇しくも今年は民主党鳩山政権の誕生から10年が経つ、節目の年。驕れる安倍と民主党残党の面々の泥仕合はどうでもいいが、安倍が口にした「民主党政権の悪夢」とは何だったのか、真正面から総括してみるべきである。戦後はじめての選挙を通じた本格的政権交代の挫折を理解することは今後の日本政治の未来を考えるうえで必ず役に立つ。

安倍晋三は民主党政権の3年3ヶ月の失敗を踏み台にして政権に返り咲き、すべてではないにせよ、相当程度は「民主党政権よりもマシ」という理由のおかげで稀に見る長期政権を担うことになった。民主党政権の悪夢について考えることは、安倍内閣の性格を考えるためのヒントにもなるだろう。

ただし、民主党政権のすべてを総括しようと思えば、本が一冊書けるくらいの量になる。今回は私の頭にさっと浮かんだことだけにとどめさせてもらいたい。

 

【経済】

今回、安倍は主に経済の文脈で民主党政権の負のイメージを強調した。しかし、最も代表的な経済指標である実質GDPを見る限り、民主党政権時代がどうしようもない暗黒時代だったと断じるのはどうにも無理がある。(もちろん、経済の評価は指標によってマチマチである。民主党政権時代の経済がバラ色だったと言うつもりは毛頭ない。)

<日本の経済成長率(実質GDP伸び率、2006年~2018年)>

06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18
1.4% 1.7% -1.1% -5.4% 4.2% -0.1% 1.5% 2.0% 0.4% 1.2% 0.6% 1.9% 0.7%

上記の表は、第一次安倍政権(2006年9月-2007年9月)以降の日本の実質GDP成長率を並べたものだ。

民主党政権は2009年9月に発足し、2012年12月に終焉を迎えた。2010年はリーマン・ショック後のリバウンドもあって経済成長率は期間で最高の伸び。2011年はマイナス成長だが、東日本大震災があったことを考えればこれは仕方がない。2012年もプラスだから実質GDPという指標を通してみると民主党政権時代は悪夢というほどではない。

どうしても悪夢と呼びたいのなら、安倍はリーマン・ショック後の麻生政権(2008年9月-2009年9月)を名指しすべきだ。世間がもてはやすアベノミクスにしても、第二次安倍政権になってからの実質経済成長率は1%未満が3年ある。見方によっては「民主党以下」と言えなくもない。

安倍が民主党政権時代と比べて最もよくなったと自慢する数字の一つが有効求人倍率。確かに、2018年の1.61倍という数字は史上最高であり、民主党政権時代(2009年の0.45倍、2010年の0.56倍、2011年の0.68倍、2012年の0.82倍)を遥かに凌駕する。ただし、2009年の数字は大部分、麻生政権の責に帰せられるべきもの。2011年以降の数字は東日本大震災の影響も当然考慮しなければならない。

もっと遡れば、小渕恵三内閣や森喜朗内閣の頃、日本の有効求人倍率は0.49倍、0.56倍という低い数字だった。安倍に公平を期すつもりがあるなら、自民党政権にも暗黒時代があったと認めなければならない。そもそも、有効求人倍率という統計そのものがハローワークを通じたものに限定されており、近年は高めに出る構造になっているのだが・・・。

民主党政権時代と安倍時代、経済の面で最も違っているのは、国民や経営者の「気分」であろう。「アベノミクス」「異次元の金融緩和」など、安倍は経済を拡大するイメージの言葉を繰り返し使う。有効求人倍率という信憑性の疑わしい数字を振りかざして鬼の首でも獲ったかのごとく振舞えるのも安倍の才能と言える。一方、民主党政権時代は、東日本大震災があったのみならず、消費税引き上げ、財政健全化(事業仕分けによる財源探し)、公務員人件費引き下げなど、経済縮小・アンチビジネス的なイメージがつきまとった。国民は経済指標以上に重苦しい気分に浸っていたと思う。そこにつけいる隙があり、安倍は見事にそれを突いた。政治屋としてしたたかであることは認めざるをえない。

 

【外交安全保障】

民主党政権時代の悪夢と言えば、誰もが最初に思い浮かべるのが鳩山内閣における普天間代替施設問題の迷走だろう。これを「愚かな鳩山の失敗」と位置付けるのは問題の矮小化につながる。困難な政治課題に取り組む上で必要となる戦略的思考、閣内・党内・連立内におけるガバナンス、官僚を使う能力など、政権運営に持っていなければならないものを民主党政権は最後まで持つことがなかった。(野田を評価する人に時々出くわすのは、私に言わせれば、前任者の二人があまりにひどかったからだ。)

ここでは業績評価として民主党政権の外交安全保障を振り返り、安倍政権と対比してみる。

① 対米関係

普天間代替施設をめぐる鳩山内閣の対応を受け、民主党政権の発足直後から日米関係は悪化した。そもそも、民主党マニフェストの対米政策には、米地位協定の改定、普天間基地の辺野古移設見直し(「最低でも県外」)、駐留米軍経費の削減、という米国が嫌う項目が目白押しだった。米国の警戒感がなくなることは最後までなかった。民主党政権時代は、中国の「平和的」とは言えない台頭や北朝鮮の執拗な挑発がはっきりと認識されるようになった時代でもあった。そのような状況下で日米同盟に揺らぎが生じたことに対し、国民の多く、特に保守層は不安感を募らせた。

一方、安倍政権下での日米関係は(表面的には)元の鞘に収まった。オバマ政権は「戦後レジームの解体」を唱える安倍政権の右翼的体質を懸念しつつ、安定した親米政権の誕生を歓迎した。(ただし、安倍の実像はナショナリストであり、決して親米家ではない。)トランプ大統領が誕生すると、安倍はトランプの歓心を買うことに腐心してきた。その効果かどうかはわからないが、日本はこれまでトランプ流の主たる標的となることは免れている。だが、トランプ自身の考えは「日米同盟・ファースト」ではなく、あくまで「アメリカ・ファースト」だ。日本が米国にすり寄れば米国が日本の便宜を図ってくれる、という時代に戻ることはもうない。

② 対中関係

2010年9月、菅内閣の時に起きた尖閣漁船事件で中国は民主党政権を敵視するに至った。2010年には中国のGDPが日本のそれを抜いたが、この頃から中国の外交姿勢がもはや「平和的台頭」と呼べない、という警戒感が日本でも急速に高まった。2012年9月、野田内閣が尖閣諸島を国有化すると、再び日中関係は緊張した。野田が国有化を決断したのは、石原都知事(当時)による尖閣購入が日中間に不測の事態を引き起こすことを懸念したためであった。しかし、中国はそうは受け取らなかった。

安倍政権下における日中関係は民主党政権下における日中関係よりもさらに悪化した。中国側は安倍の歴史認識を問題視し、安倍も中国に対する敵愾心を露わにしている。今や、日中関係を友好の時代に戻そうとは両国とも思っていない。ただし、日中双方ともに緊張が一線を越えることには慎重な様子だ。トランプ政権が誕生して米中関係が緊張すると、中国は日本との間で余計な摩擦が起きるのを避けたがるようになった。今日の日中関係は低位で安定した状態と言うこともできる。

③ 対韓関係

鳩山・菅内閣の時代、日韓関係は(良くもなかったが)決して悪くなかった。野田内閣の時代、李明博大統領は慰安婦問題を蒸し返すようになる。2012年8月に李が竹島上陸を強行すると、日韓関係は決定的に冷え込んだ。

歴史問題で極めて強硬な安倍内閣の下、日韓関係は基本的には悪化の一途をたどった。決着したはずの慰安婦合意も韓国から反故にされてしまう。最近は徴用工問題等で日韓が非難を応酬するようになり、日韓関係は戦後最悪と言っても過言でない状態にある。

④ ナショナリズムの充足

政権獲得前、小沢一郎や鳩山は対米自立論を説いていた。国民の中には、その素朴なナショナリズムに期待した者も少なくなかった。しかし、鳩山は普天間移設問題で躓き、最終的にはオバマに膝をついて許しを請う形となり、期待は失望と屈辱に変わった。問題の過程で日米関係は悪化した。日米関係の安定を願う伝統的な保守層の期待はここでも裏切られた。鳩山の失敗を目の当たりにし、菅と野田は対米自立を主張するのを止めた。一方で、菅政権による尖閣漁船事件への対処は国民の目に弱腰と映った。2010年11月にロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問したことも政権に対する国民の怒りを招く。野田内閣でも李明博の竹島上陸や天皇批判などを受け、国民は民主党政権への不満を募らせた。

安倍内閣になってからも、中国、韓国の問題行動は一向に収まらず、むしろ激越になった部分も少なくない。ロシアも北方領土の軍事化を進めるなど、日本が「コケにされる」事態は民主党政権時代以上に起きている。しかし、安倍はタカ派のイメージがあるせいか、特に中韓に対しては「弱腰」とみなされることがほとんどない。米国に対しても安倍政権はご機嫌取りに精を出す姿勢が目立つ。最近、安倍総理がノーベル平和賞にトランプを推薦したというブラック・ジョークのようなことも明らかになった。だが、国民はそれを屈辱的と見做して大きな不満を抱くより、民主党政権時代に顕在化した日米同盟の動揺よりはマシ、と受け止めているように見える。

⑤ 安全保障構想

民主党政権下では菅内閣の2010年12月、防衛大綱を見直して「機動的防衛力」構想を策定した。米ソ冷戦期に策定された「基盤的防衛力」構想は、我が国が一定の防衛力を保有することによって力の空白を作らず、ソ連を抑止するという考え方に基づいていた。これに対し、武器の「保有」から「運用」重視への転換、「南西重視」などの新機軸を打ち出したのが「機動的防衛力」構想である。安全保障筋の玄人の間では概して評価が高い。

安倍内閣の下でも、2013年と2018年の二度、防衛大綱が見直された。2013年は「統合機動防衛力」構想を打ち出したが、前回の見直しからわずか3年しか経っておらず、安倍が民主党政権時代の大綱や用語を使うことを嫌ったため、というのが実態である。昨年末に打ち出した「多次元統合防衛力」も、宇宙やサイバーを従来よりも強調しているが基本線は2010年の大綱(22大綱)を踏襲している。安倍政権が発足すると、尖閣情勢を睨んだ巡視船や潜水艦の増強、武器輸出三原則の見直しなどが進んだ。ただし、これらに着手したのは民主党政権であるという事実は忘れ去られている。

⑥ 外交案件の対処における「しくじり」

民主党政権下では外交安全保障に関する事件が相次いで起き、政治的な焦点課題――平たく言えば「揉め事」――に発展した。典型例は言うまでもなく、民主党政権が発足した直後に起きた普天間問題だ。一国の総理大臣が普天間飛行場の移設先を沖縄県外に見つけると断言したものの、半年後には辺野古移設に回帰。鳩山は国民の支持を失って辞任を余儀なくされた。

菅内閣も発足直後、中国漁船による領海侵犯と海保に対する公務執行妨害に見舞われた。中国人船長を逮捕して拘留を重ねたが、中国側の予想以上の反発にひるみ、突然、船長を釈放して国民から総スカンを食った。

外交案件ではないが、東日本大地震に伴う福島原子力事故のハンドリングも民主党政権の失敗と認識している国民が少なくない。私に言わせれば、福島原発は文字通り「未曾有」の大事故であり、誰が政権にあっても無難に対処することなど不可能だったと思う。

いずれにせよ、民主党政権には重大な事件・事故に対応する能力がない、と国民に信じさせるのに十分な出来事が繰り返し起きた。政権のイメージは、政策の方向性以前の問題として、統治能力に大きく左右される。それが最も如実に表れるのは外交的な事件のハンドリングにおいてだ。一事が万事、という諺があるが、民主党政権は最初の一年間に起きた大事件で続けざまに大失敗した。運がなかった面もあるにせよ、統治能力に致命的な問題があったことは否定できない。

一方、安倍政権には外交安全保障に関わる案件で民主党政権の失敗に比肩すべき事例が見当たらない。辺野古については、沖縄県民の反対を押し切って工事を進めるという意味で(良い悪いの評価は別に)目に見える結果を出している。国論を二分した安保法制も(滅茶苦茶な憲法解釈ではあっても)なんとか成立に漕ぎつけた。

 

【政治とカネ(スキャンダル)】

民主党は自民党政権下の腐敗を批判し、自らはクリーンな政党で売っていた。ところが、民主党政権が誕生する頃から、党の顔とも言える人たちが「政治とカネ」で批判を浴びる事態を招く。

小沢一郎は資金管理団体による土地取引をめぐって元秘書が逮捕・起訴され、政権交代の直前に党代表を辞した。政権発足後も党幹事長の裁判は続いた。

鳩山の「子ども手当」問題もひどかった。母親から総額11億円以上の資金援助を受けながら、政治資金収支報告書に記載せず、現職の総理が脱税を認めざるをえなくなるというスキャンダルだった。

菅直人(発覚当時は総理)と前原誠司(同じく外相)の二人は、在日韓国人からの違法献金問題を追及された。前原は外務大臣をあっさり辞めた。(この人はいつも潔い=もろい。)

安倍と自民党が政権に復帰した後も、政治とカネを含め、不祥事には事欠かない。安倍自身も森友・加計問題で何年も追求を受けてきた。しかし、決定的にクロという物証は得られず、致命傷とはなっていない。では、政治とカネの問題で民主党政権時代を悪夢と呼ぶ資格が安倍政権にあるのか? それは無理というものだ。

 

【内閣と党のガバナンス】

国民の政権与党に対する不信――。この点では安倍政権の圧勝、民主党政権の自爆と言ってよい。

初めての政権交代、ということもあったのだろうが、鳩山内閣と菅内閣ではこれでもかと言わんばかりに大物が入閣した。しかも、彼らの多くは内閣総理大臣の発言に公式の場で異を唱えることが少なくなかった。野田内閣で大物の入閣は減ったが、尖閣国有化の際には外務副大臣の山口壮(今は自民党にいる!)が官邸や外務大臣の方針に盾ついて中国に行ったりした。

そして極めつけは、大量の離党だ。菅・仙谷・野田らの主流派と小沢グループの対立は激化する一方で、2011年末には9名の国会議員が離党。消費税法案の採決では鳩山・小沢ら57名が反対するなど72名の造反者を出した。続いて小沢を筆頭に37名の議員が離党(除籍処分)した。その後も松野順久など、離党は野田内閣が終焉するまで収まらなかった。

安倍政権は「安倍一強」と言われる。大物と言われる閣僚は副総理・財務大臣の麻生太郎と官房長官の菅義偉くらいのもの。安倍に批判的な発言をすればすぐに飛ばされる。安倍に反抗しようとしたのは石破茂くらいだが、ものの見事に封じ込められた。小泉進次郎の自民党批判も安倍の逆鱗に触れない範囲でしかない。

党内民主主義の観点からどうか、という意見はあるだろうが、民主党政権時代の内輪もめと分裂に比べればずっとマシ、というのは国民の偽らざる感想であろう。民主党政権時代の国民そっちのけの党内抗争は、それくらいひどかった。

 

もうこれくらいにしようか。民主党政権時代の悪い思い出をちょっと振り返ってみるつもりが、結構な分量になってしまった。

安倍は「悪夢のような民主党政権」と呼んだ。では、「安倍政権はどれだけ立派なのか?」と冷静に振り返ると、安倍政権もそんなに大した政権ではない。しかし、政治とはある面、国民の心をどう支配するかのゲームだ。今回も自らの発言がメディアで大々的に取り上げられる一方で、民主党政権の末裔たちの反論は「負け犬の遠吠え」にしか聞こえない。安倍が「してやったり」とほくそ笑んでいるのが目に浮かぶ。

統計問題を受けての雑感

統計問題の三つの罪

統計問題の発覚から大分時間がたった。毎月勤労統計をはじめとした統計問題は、確かにひどい話だ。でも、世間での批判を耳にするたび、「ポイントはそこなんだろうか?」と何か引っかかるものを感じてきた。毎月勤労統計の間違いを私流に整理すれば、大きく言って三つ指摘できる。

一つは、厚労省が総務省への届け出に反して大規模事業所の東京分について全数調査をしていなかった、という手続き的な問題。総務省に届け出た以上、厚労省は(それを訂正しない限り)その通りに調査しなければ法律違反になる。官僚が法律違反では話にならない。そのうえで言えば、大規模事業所の分を全数調査するという最初の判断の是非についても再検証がなされるべきだと私は思う。全数を調査するんなら、統計学という学問なんかいらない。最初から大規模事業所の分も抽出調査することにして総務省に届け出るべきだった、と私は思う。何で全数調査することにしてしまったのか、謎だ。

二つめは、その全数調査を行わずに抽出調査したデータについて、統計学的に当然かけるべき補正をかけていなかったという、およそ考えられない初歩的なミス。これさえやっていれば、一番目の法律違反という批判は避けられなかったにせよ、失業給付等の額が(大きく)変わることはなかったはずである。厚生労働省はここまで無能だったのか、とあきれるほかない。個人的には、最も大きなショックを受けたのもこの点であった。

三つめは、厚労省が間違いに気付いた後、それを何年も公表しなかったこと。担当部署では昨年1月分から間違いを補正する作業に取り掛かっていたと言う。「不正」が意図的に始まったものか否かはさておき、上記二つの問題は相当以前から認識されていたと考えられる。ところが、昨年12月に統計委員会が指摘するまで事態は表面化しなかった。間違いがあってもそれが表に出る、という透明性が確保された組織であれば、まだ救いはある。しかし、間違った者がそれを隠すようでは、その組織は腐っている。

高度成長期の頃までは、「官僚一流、経済二流、政治三流」と言われたものだ。しかし、森友・加計問題の財務省、南スーダン日報問題を隠蔽した防衛省・自衛隊、今回の厚労省――かつては「消えた年金」問題もここだった――とくれば、能力面でも職業倫理のうえでも「官僚三流」と言わざるをえない。その分、経済や政治がレベルアップしたわけではない。日本は大丈夫なのか、と心配になる。

国会論戦の不毛

国会では、毎月勤労統計をはじめとする統計問題をめぐり、与野党の論戦(凡戦)が続いている。これが実につまらない。

野党は「正しい数字に基づいて計算すれば実質賃金はマイナスになる」と政府を責め、統計問題をきっかけにアベノミクスの失敗を印象付けようとしている。だが、この6年間で改善した数字も少なくないため、水掛け論に終わるのが関の山だろう。予算委員会では野党議員が「統計不正はアベノミクスに有利な数字をつくるための官僚による忖度だったのではないか」と安倍総理に質問していた。根拠や証拠もなくそんなことを言われても、政府を攻めきれない苦し紛れから言いがかりをつけているようにしか聞こえない。

政府・与党もひどい。賃金統計が過大に計上されていた以上、それを修正すれば賃金に関する従来の数字が下がることは避けられない。「実質賃金はマイナスだった」と素直に認めればいいものを、経済状況を判断する際に実質賃金を参照するのは適切ではない、などと論点をすり替え、アベノミクスを執拗に礼賛する。閣僚や与党議員たちは安倍へのゴマすりに血道を上げ、茂木敏充経済再生大臣に至っては、ゴロツキのような口調で野党議員に噛みついていた。

多くの国民にとって、アベノミクスの評価は既に定まりつつあると思う。マイナス成長からの脱却には成功したという評価と、安倍の公約していた2%成長は実現できないという失望のミックス、と言ったところだろう。統計問題が出てきたのを材料にして、アベノミクスは失敗だ、いや成功だ、と政治家たちが力むだけでは、国民は白けるばかりだ。もう少し面白い質問はできないもんだろうか?

例えば私などは、「間違いは許せないが、だからと言って追加給付が百円玉数枚という人にまで税金を使って対応する必要はないだろうよ」と不謹慎なことを考えてしまう。「勤労統計の間違いを受けて発生する追加給付について、千円以下については支払わないよう特別立法を検討してみないか」という質問でもしてくれれば、国会中継の視聴率も少しは上り、NHKも喜ぶに違いない。まあ、質問した議員は炎上必至ではあるが・・・。

給料をあげられない会社は潰れた方がいい

先日、朝のNHKニュースを見ていたら、アナウンサーが「企業の後継者不足が深刻化していますが、いよいよ、地方の中小企業でも経営者を外国に求める動きが出てきました」と述べて特集が始まった。ある企業経営者の弁によれば、日本国内で後継者を求めて募集をかけたところ、面接に来た応募者は有給(休暇)の数や待遇面ばかり気にかけ、本気で経営に意欲を持つ人材は集まらなかったという。そこで、ベトナムまで出かけて幹部候補の採用面接会に参加した、というストーリーであった。

ふーん、と思って見ていたが、この経営者の言葉に日本の国力が衰退していく根源的な理由を垣間見た思いがした。職を選ぶのに給与水準、休暇、福利厚生のことを聞いて何が悪いと言うのか? 給料をあげない、あげられない。だから日本人を雇えない。人手不足の最大の責任はそんな企業の側にこそある。私はそう思う。

人手不足対策を外国人労働者に頼る論理の根幹にあるのは「低賃金の維持」

先般、外国人労働者受け入れという名目で事実上の移民解禁に踏み切った日本。それを正当化する最大の理由は人手不足であった。ロジックはこうだ。先進国である日本で働く労働者の給与水準は高く、労働条件にうるさくなった。肉体労働系の仕事など、女性、高齢者、若者が敬遠する職種も少なくない。一方、ベトナムなど外国人の労働者は、安い給料、少ない休暇でも文句なく働き、危険な仕事に就くことも厭わない――。しかし、そのロジックには少なくとも二つの嘘が混ざっている。

第一は、外国人は労働条件に無頓着、という都合のよい話。日本人労働者の平均月給が30万円台前半なのに対し、ベトナム人の月給は平均で3万円程度。ベトナム人にとって、日本企業に就職すればベトナムで働くよりも10倍以上の収入になる。日本企業で働きたいと思うベトナム人は給与面で満足し、高給によって向上心を掻き立てられている、と見るのが正しい。

第二は、日本人の賃金水準は高い、という事実誤認。日本は今、人手不足と言われる。2018年の平均有効求人倍率は1.61倍となり、45年ぶりの高水準、完全失業率は2.4%と36年ぶりの低さだと言う。安倍総理もアベノミクスの成果だと自慢している。だが本来、労働力の需給がひっ迫すれば給与水準は上がるはず。現実はそうなっていない。

3Kと言われる分野における人手不足についても、やれミスマッチだ、非正規・女性・高齢者の増加だの、いろいろな説明が行われている。だが、ここでも低賃金と劣悪な労働条件が人手不足の最大の要因であろう。そこそこ豊かな日本社会では、十分な見返りが得られない仕事に就くくらいなら、多少生活水準を落ちることになっても働かない方がよい、という発想で家にこもる女性や若者が少なくないと思われる。一方で経営サイドの方にも労働条件を引き上げて人手不足を解消しようという発想はない。安い給料、少ない休暇でも文句なく働いてくれる外国人労働者の増加に活路を見い出そうとしている。

日本企業の人手不足対策は、結局のところ、給料を上げない、労働条件を改善しない、ということが大前提になっているのだ。

日本人の給与水準は低い~下を見て較べるな、上を見て較べろ!

諸悪の根源は、給与を含めた日本人の労働条件の低さにある。日本人の給与水準が高い、というのは、発展途上国など日本よりも「下」を見て較べた時の話だ。先進国の中で見た時、日本人の賃金は低い。以下にそれを見ていこう。なお、下記のグラフ等はいずれもOECD統計から作成したものである。

まず、2000年以降の日本人の平均年収の推移は次のグラフのとおりである。(最近、勤労統計問題とやらが発覚した。ここで使われている数字もおそらく多少はお化粧されているに違いない。でもまあ、それは誤差の範囲みたいなものであり、趨勢を見る分には無視してよい。構わず議論を進めていこう。)2000年につけたピークを越えられないまま、4百万円台の前半をうろちょろしているのが日本の現実だ。

これを先進国同士で比べてみるとどうか? 次のグラフはOECDに加盟する10ヶ国の2000年以降の給与水準を米ドル換算(購買力平価ベース)でグラフに重ねてみたものだ。日本は赤線である。

日本人の平均年収は、「二十年一日」と言う言葉を使いたくなるほど伸び悩み、ドル換算でも2017年の数字は2000年より低い。この惨状に付き合ってくれている(もっとひどい)のは、イタリアくらいのものだ。2000年時点で日本よりも低かった英国とフランスは日本を追い越し、遥か下にいた韓国も急速に追い上げてきている。2000年時点で日本よりも上にいた国々との間でも、その差は広がる一方。日米比較に至っては、2000年に米国の78%だった日本人の平均実質年収は2017年には67%まで低下した。米国の場合、一部の超高給取りが全体の数字を押し上げている面はあるものの、それを理由に日本人の低水準を慰めるのも惨めな話である。

最後に示すのは、政策誘導可能な最低賃金の比較。

日本の最低賃金は着実に上がってはいる。最低賃金の引き上げは民主党政権が力を入れた政策だったが、安倍政権はそれをパクって看板政策の一つにした。アベノミクスの成果を作らなければならない、という側面もあるだろう。ただし、日本の最低賃金の伸び率は特に高いわけではない。最低賃金の伸びがめざましいのは韓国だ。この勢いが続けば、日本の最低賃金が韓国のそれに抜かれるのも時間の問題であろう。

以上を見れば、結論ははっきりしている。日本人の賃金水準は、途上国などと比べれば間違いなく高いが、先進国間で比較すれば、決してそうではない。むしろ、見劣りがする。休暇取得など、ほかの労働条件を含めれば、もっとみすぼらしく感じられる。

なぜ、日本人の給料は上がらないのか?

では、なぜ、日本人の給料は安いのか? 上がらないのか? 私は学者ではないので経済学的な説明はできない。しかし、常識を働かせて物事を単純に考えれば、本質に迫れる。

簡単な話だ。日本企業の多くは、十分な賃上げを行うだけの体力が不足しているのである。もっと言えば、日本には人を集めるだけの労働条件を提供すれば潰れてしまう、ゾンビ企業が多すぎる。ゾンビ企業の低賃金を基準にして自社の労働条件を比較的低水準に抑えていることができるため、ゾンビでない企業もこの構造から間接的な「メリット」を享受している。

隠れゾンビ企業を生み、生き長らえさせている要因は様々にあり、根が深い。突き詰めれば、他の先進国では我慢の限界を超える過当競争を薄利多売で耐え抜くメンタリティ、下請け(系列)制度など、日本的システムと言われるものにいきつくのだろうか。労働組合も組合と癒着しており、春闘なんかは出来レースにすぎない。

ちょっと脱線するが、日本ほどストライキが少ない国もめずらしい。海外の先進国もそうなのかと思っていたが、ドイツでは昨年12月、組合が7.5%の賃上げを求めてストを打ち、朝の時間帯に4時間、全土で鉄道が止まった。本来、ストは労働者が要求を実現するための正当な手段だが、高度成長期が終わった頃から「一般国民に迷惑がかかる身勝手な行為」という受け止めが広がった。共産党系の組合が政治闘争を持ち込んだことで国民にそっぽを向かれた面もある。だが、連合をはじめ、日本の労働運動が御用組合化して経営サイドとの間に緊張感のかけらもなくなったことが最大の理由であろう。

アベノミクスも隠れゾンビ企業の延命に手を貸している。異次元の金融緩和と大規模な財政出動はいわば経済のカンフル剤だ。カンフル剤の大盤振る舞いが6年以上続けば、体力はボロボロでも延命する企業が増えるのは当然のこと。一方で、アベノミクスの3本目の矢である成長戦略は遅々として進まず、最大の成果は加計学園の獣医学部創設というブラック・ジョークさながらの有り様。成長戦略の本筋は規制緩和だが、それは弱者に退場を促す効果を持つ。本来なら、ゾンビ企業は一掃される方向にベクトルが働くはずだ。しかし、弱者は政治に頼る、という政治学のセオリーどおりのことが起きた結果、安倍政権の規制緩和は骨抜きもいいところだ。

悪い(弱い)のはゾンビ企業だけではない。日本生産性本部によれば、日本の時間当たり労働生産性は主要先進7カ国中最下位、という悲惨な状況が今も続いている。 経団連加盟のご立派な大企業を含め、生産性の低い会社が多すぎる。生産性が高く、儲かる企業でなければ、先進国の上の方の労働条件を提供することなど、夢のまた夢だ。

翻って日本の政治を見回してみると、与野党あげて弱者保護、隠れゾンビ企業の温存に血眼となっている。最低賃金なんか、そのいい例だ。今や、与野党こぞって最低賃金をあげろと言っている。だがこの政策、企業サイド、特に中小企業からは評判が悪い。「最低賃金をこれ以上あげられたら、経営が立ち行かない」と政治に泣きつく。その結果、最低賃金の引き上げ幅は抑えられ、中小企業対策の充実(補助金の引き上げとか)という名のゾンビ延命策がセットで打たれることになる。

賃上げできない企業は退場せよ

日本人労働者を安く働かせることしかできない社会は、結局、低賃金の外国人労働者に依存するしかなくなり、不安定化する。もっと情けないことには、低賃金で働かせられると思っていた外国人もやがて他の先進国の労働条件の良さに目が向き、日本企業での就職をスルーしたり、踏み台にしたりするようになる。特に、幹部になるような外国人は、最初こそ安い給料や休みの少なさを厭わず黙々と働くかもしれないが、やがては労働条件の改善を求めて経営者をつきあげるようになる。彼らは多くの日本人従業員のように従順とは限らない。会社を存続させたいと思って(今は素直な)外国人労働者の受け入れを求めている経営者たち。結局、労働条件の改善か、廃業かの二者択一に頭を悩ます日を少し先延ばししただけのことにすぎないのである。

はっきり言う。給料をあげたら倒産する、という会社はつぶした方がよい。政策誘導できる最低賃金ももっと急カーブであげるべきだ。中小企業対策とセットにする必要はない。隠れゾンビ企業を一掃する覚悟で臨まないと、日本はいつまでたっても低賃金社会のままだ。もちろん、日本経済全体の生産性を高め、日本企業に「儲ける力」をつけさせないと、日本中に倒産と失業の嵐が吹くだけの話となる。だが、企業に生産性向上を促す政策に短期的な痛みが伴うことは避けられない。今の世の中、その蛮勇を厭わない政治指導者は出てくるのだろうか?

「日ソ共同宣言を基礎として」という言葉が与える誤解

1月22日、安倍晋三総理がロシアを訪問してプーチン大統領と会談した。

今回の会談に関して言えば、首脳会談の前段として1月14日(現地時間)に行われた河野-ラブロフ外相会談でロシア側が極めてきびしい態度を見せていたため、メディアの間でいつものような期待感は盛り上がっていなかった。それでも首脳会談後、いくつかのメディアが「四島はむずかしくても、二島返還なら実現できる」という雰囲気を醸し出していたのを見た。二島返還に対して根拠のない期待が根強い理由は、昨年11月の日ロ首脳会談で「1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速する」ことが確認されたことが大きい。

日ソ共同宣言を基礎として、とはどういう意味なのか? ここで再確認しておくべきだろう。

二島返還への根強い楽観

北方領土問題に関して私の考えと見通しは、昨年10月23日に「プーチンの平和条約発言――もう、夢からさめよう」、同11月17日に「『二島返還』狂想曲を嗤う~日露首脳会談を受けて」、同11月20日に「ワイドショー化した領土交渉~北方領土をめぐる日露協議の非常識」という題で既に書いた。10月23日のポストが最も包括的に書いたつもりだが、今回の首脳会談を受けて特に修正・加筆すべき点はない。北方領土問題が決着する場合、ロシアが譲り渡し(日本側は「返還」と呼ぶ)に同意するのは、よくて1島(歯舞諸島)、最悪はゼロ(ただし、周辺海域での漁業権付与などとセット)であろう。問題は、我々がそれを受け入れるのか、その成果を得るためにどれだけの代償を払う覚悟があるのか、に尽きる。

近年、安倍がプーチンを下関に迎えて行われた日露首脳会談など、期待値を(勝手に)高めては裏切られることが繰り返されてきた。加えて、ロシア側要人の強硬発言やデモなどの動きも伝わってきている。それに伴い、北方領土交渉の行方に対する世論やマスコミの見方は、従来に比べれば随分、現実的になった。1月21日に発表された産経新聞とFNNの共同世論調査では、北方領土問題について「進展すると思わない」という回答が72.9%だったのに対し、「進展すると思う」は20.4%にすぎなかったと言う。

22日に行われた安倍―プーチンの首脳会談後も、多くの新聞の論調は交渉の先行きに概して悲観的な見方を示した。ただし、前週に行われた日露外相会談でラブロフ外相が半ば恫喝的な態度をとったのに対し、プーチンは安倍に対して冷静な対応を――少なくとも表向きは――見せた。安倍とプーチンの間に個人的な信頼関係があるため、と解釈するのはあまりに安倍へのお追従が過ぎる。ラブロフがヒールを演じることで領土問題でロシアが主導権を握る一方、プーチンは大人の対応を見せて安倍を平和条約締結交渉に引き留める、というのが先方の描いたシナリオだったのであろう。

とは言え、首脳会談後のマスコミの論調の中には、「二島返還であれば・・・」という楽観論というか、希望をつなぐ調子が散見されたことも事実である。以下はその例だ。

安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領が会談し、北方四島のうち歯舞・色丹の2島  引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言に基づく平和条約締結交渉を加速させる方針で一致した。同宣言を基礎に平和条約締結に向けた交渉を進める方向性は、昨年11月の首脳会談でも合意している。今回の会談でその方針を再確認したことは、今後の領土交渉が実質的に2島に絞って行われる可能性が高まったことを意味する。(1/24 京都新聞社説)

両国は昨年11月、歯舞群島、色丹島の引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言を交渉の基礎とすることで合意している。今後の交渉では、領土・領海の画定や、ロシアの施政権が及ぶ期間、北方領土に暮らすロシア住民の処遇など、多岐にわたる課題を解決しなければならない。(1/24 読売新聞社説)

こうした論調が根強くあるのは、一つには安倍総理が四島返還を諦め、二島返還で手を打とうと考えており、総理周辺から「二島ならいける」という楽観論が漏れてくることが影響しているのだろう。マスコミが根拠のない希望的観測を信じているのか、政権の足を引っ張らないようにしているのか、それはわからない。

だが何よりも、昨年11月14日に行われた首脳会談で「1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速する」ことで安倍とプーチンが合意し、今回の首脳会談でもそのことが再確認されたことに引っ張られている面が大きい。上記の新聞社はいずれもそのことを引用したうえで、二島返還が既成事実であるかごとき論調を展開している。

日ソ共同宣言は以下のように規定している。

ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

ここで「引き渡す」という言葉が使われているのは、先日もラブロフが強調したように、ソ連(ロシア)が北方領土は自国領土であるという立場に立つからだ。日本側はこれを以って二島返還が約束されたと解釈している。マスコミも「『歯舞・色丹の2島引き渡しを明記した』1956年の日ソ共同宣言」と書くので、常識的な受け止めとしては、二島返還の合意が交渉のスタートポイントになる、とついつい思ってしまいがちだ。

「日ソ共同宣言を基礎に」と言うけれど・・・

そもそも、昨年11月の日露首脳会談の合意と称される文言は、日露間で文書として確認されたものではない。外務省のホームページを見ると、「テタテ(二人だけの)会談の結果として、『1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる。そのことをプーチン大統領と合意した。』ことが発表されました」とある。これだけだ。

日本側は、1956年の日ソ共同宣言を基礎とする、という言い方をロシア側に認めさせたことで、鬼の首を取ったように喜んだ。共同宣言を基礎とすることの意味を「ロシアが色丹、歯舞の返還を保証した(少なくとも、重く受け止めざるをえなくなった)」と解釈しているからにほかならない。

しかし、1956年の共同宣言で領土問題に触れたくだりはほんの数行にすぎない。単に「1956年宣言を基礎として」というだけであれば、ロシア側は「1956年宣言を基礎にすると言ったが、色丹・歯舞の引き渡しに関する記述を念頭に置いていたわけではない」と主張することも十分に可能だ。日本側が期待するようにプーチンが色丹、歯舞の返還(引き渡し)にコミットしたのであれば、「1956年にソ連邦が歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意したことを基礎として平和交渉を加速させる」とか、「1956年宣言を基礎として領土交渉を加速させる」とでも発表すればよかったはずである。

「基礎とする」ということ意味も、日露の間では受け止め方が違っている。日本側は先に述べたとおり、最低限でも色丹・歯舞の引き渡しは確保される、と思って(願って)いる。だがロシア側は、1956年の共同宣言以降、様々な環境や条件が変わったため、色丹・歯舞の引き渡しという当時の約束については、それを割り引く方向で交渉するのが当たり前である、という認識だろう。何しろ、北方領土はその全域をロシアが完全に実効支配しており、日本人居住者もいない。島を取り戻すために日本が戦争に訴える心配もまったくない。悔しい話だが、北方領土に関してはプーチンもラブロフも悠然と構えている、というのが本当のところだ。

「1956年宣言を基礎として平和条約交渉を加速させる」というこのフレーズ。ロシア側にとっての肝は、「1956年宣言を基礎として」の部分ではなく、「平和条約交渉を加速させる」という部分にある、と見るのが正しい。次にその意味を見ていこう。

ラブロフの注文

1月14日に行われた日露外相会談の後、ラブロフ外相は記者会見で日本批判を繰り広げた。交渉術の部分もあるし、ラブロフの性格もあるから、これをすべて額面通りに受けとめる必要はない。だが、ラブロフの日本批判を裏側から読めば、平和条約締結の交渉――領土問題の交渉ではない――を通じてロシアが日本に求めてくることがとても率直に語られた会見でもあった。ラブロフ節には耳を覆いたくなるようなところもあるが、それを我慢してロシア側の要求を整理しておくのも無駄ではあるまい。

まず、ラブロフは、四島の主権がロシアにあることを含め、第二次世界大戦の結果をすべて日本側が認めることを要求する。四島を「北方領土」と呼ぶことも容認できない、と。これは日本の立場とまったく相容れない。これが「日本がいったん北方四島をロシア領と認めれば、ロシアは島を返す(譲り渡す)」という意味であれば、面子を捨ててもよい、という考え方も出てこよう。もちろん、ロシアはそんなに甘くない。

ラブロフは次に、経済や投資分野、文化面での日露関係強化を求める。日本側は領土問題の進展なしに金だけを「先食い」されないよう、漸進的に進める考えだが、ロシアはそれが気に食わない。投資とサービス分野における関税優遇、原子力エネルギーの平和利用や宇宙分野における協力拡大、社会保障分野やビザなし制度など、野心的な要求をつきつけてきている。

北方領土に対するロシアの主権を認め、湯水のごとく経済協力を行えば、北方領土は――4島か2島か、それ以下かはともかく――返ってくるのか? ニェット(ノー)だ。

三番目の要求として、ラブロフは外交や国際分野における両国の協力を求める。抽象的にはもっともな話に聞こえるかもしれない。だが、国連におけるロシアの提案に日本が原則賛同することなど、実質的にはロシアの陣営に入れ、と迫っているのにも等しい物言いだった。

日米同盟にも楔を打ち込む意図がありありだ。ロシア(ソ連)は、1960年の日米安保条約改定によって日本はソ連(及び中国)を対象とする日米軍事同盟の結成に同意した、と評価してきた。それを踏まえてラブロフは次にように述べた。

日米安保を更新したのは1960年。その後、日本側は1956年宣言の履行から遠ざかりました。私たちは今、1956年宣言に立ち帰るわけですから、軍事同盟における状況が今とは根本的に違っていることを考慮しなければなりません。アメリカは世界的なミサイル防衛システムを日本にも展開しており、それが軍拡につながっています。アメリカは・・・ロシアや中国の安全保障上の危険を生み出しています。

この発言からも、「日ソ共同宣言を基礎とする」ことの意味をロシア側が「色丹・歯舞の引き渡し」に限定して捉えるつもりのないことは十分に窺える。いずれにせよ、ロシアが米国と対立を強める中、プーチンたちが日米離間の意図を持っていることは明白だ。「北方領土が返還されても米軍基地を置かない」と約束すれば(あるいは米国にそう約束してもらえば)、ロシアは安心して北方領土を返してくれる、という程度の話では済みそうもない。

平和条約交渉を通じて日本を揺さぶり、日本側から経済協力をとりつけ、自らに有利な国際政治環境をつくりだすこと――。それがプーチンの狙いだ。もちろん、外交である以上、ロシアは満額回答でなくてもどこかで妥協するはずではあるが、ロシアは今後、あの手この手を使って日本から譲歩を引き出そうとしてくるだろう。

交渉の行方、潜むリスク

このように、平和条約交渉と言っても、日本とロシアでは目的が大きく異なる。ロシアが二島返還にも消極的である以上、日本側もロシアによる「食い逃げ」を警戒すれば、交渉は難航し、着地しないはずである。しかし、気を付けなければならないのは、交渉を続けるうちに安倍総理や外務省の交渉当事者たちが日露平和条約の締結を自己目的化してしまうことだ。

日本国の指導者にとって、あるいは日本の外交官にとって、「北方領土問題の解決と日露平和条約の締結」、「拉致問題の解決と日朝国交正常化」は、戦後日本の残された最後の大仕事だ。この感覚は外の者にはなかなか理解できないのだが、この二つのテーマに関わる者たちは、熱病にかかったように「我が手による実現」を希求する。ましてや、安倍は日本の憲政史上、最強の権力者の一人とまでみなされるに至った。自らのレガシーとして日露平和条約の締結に並々ならぬ執念を燃やしていることは疑いない。そこに危険が潜んでいる。

元工作員であるプーチンの標的は安倍その人だ。二人が25回も会っているということは、それだけ心理戦を仕掛けられてきたという意味でもある。

杉田水脈「論文」とLGBT差別、そして同性婚

昨年夏、杉田水脈とか言う自民党国会議員がLGBTをバッシングして逆に世間から集中砲火的な批判を浴びた。杉田の主張に便乗した雑誌『新潮45』は廃刊に追い込まれるという醜態まで見せた。しかも、近年の世論調査では、同性婚への賛成が反対を上回るようになっている。こうした情勢だけを見れば、日本でも今後はLGBTの権利が順調に拡大し、同性婚の実現する日も遠くないという予測が立てられても不思議ではない。だが、現実はそれほど単純には動かない。

本ポストでは、昨夏の杉田「論文」を手がかりにしながら、日本で同性婚を認めるべきか否か、政治的に認められるものか否かを論じてみる。なお、最初に断っておくが、私の立場は「LGBT差別禁止には賛成だが、同性婚には反対」というものである。

杉田水脈「論文」について

最初に、『新潮45』2018年8月号に載った杉田水脈の雑文について、私の受け止めを述べておく。

読後の第一印象は、「この人、何がなんでも朝日新聞を批判したかったんだろうな」ということ。朝日新聞をけなして留飲を下げるのが好きな右系の人たちの「受け」をねらった営業文書にしか見えなかった。

だが、こうやって切り捨てるだけでは論が深まらない。半分馬鹿馬鹿しいと思いながらも、中身に立ち入ってみようか。

LGBTは差別されていない?

明らかに間違っていると思ったのは、LGBT差別に対する杉田の現状認識だ。引用と批評を並べてみよう。

「LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか」

杉田自身が差別的な言説を寄せておいて、そんなに差別されていないでしょ、と言うのだから開いた口が塞がらない。

「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます」

杉田は「非国民と言われるかどうか」で差別の有無を論じているが、これはもちろん妄言である。その基準によれば、人種や国籍にかかるもの以外に差別は存在しなくなる。ところが杉田は、他国では「白い目で見られてきたかどうか」で差別の有無を判断する。これでは論理にならない。日本でもLGBTが白い目で見られているという現実がある以上、日本にLGBT差別は厳然としてある、という結論にならなければ、おかしいだろう。

「(日本では)LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか」

こうまで論理が飛ぶと、「???」と反応するしかない。親がLGBTを受容すれば、杉田みたいな輩が差別しても問題にはならない、と言いたいのだろうか。それは、やっぱり日本にLGBT差別がある、と言っているに等しい。

こんな調子の幼稚な議論を大仰に「論文」と呼んだ新潮社(新潮45)の知的水準にもすっかり脱帽せざるをえない。

「生産性がない」発言

世の中で大きな問題になったのは、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がない」という部分だ。この発言に関しては、私の批判のポイントは、当時繰り広げられた批判とは少し異なる。

LGBTの人が(すべてではないにせよ)子供を作らない、という議論そのものは基本的には正しい。もちろん、それを「生産性がない」と形容することは、言われた方は嫌な思いをするだろうし、品のない言い方だ。しかしながら、言い方を変えれば杉田の言っていることは事実であり、ロジックとしては決して間違っていない。

ただし、LGBT問題で行政(または政治)が役割を果たすべきか否かについて述べるとき、杉田のロジックはここでも脱線してしまう。まずもって杉田は、行政がある問題に取り組むべきか(=税金を投入すべきか)否かは「子供がつくられるかどうか(生産性に資するかどうか)」によって決められるべきである、という前提に立つ。これはもちろん、滅茶苦茶な話だ。そんなことを言えば、社会保障も公共事業も国防も子供をつくるためのものではないから、全部やめなければいけなくなる。こんなロジックをいくら振りかざしても、LGBT問題を政治や行政が取り組むことの正当性を否定することはできない。

新潮45の廃刊

その後、『新潮45』は10月号で「そんなにおかしいのか杉田論文」という特集を組む。最初は「新潮社はこの問題でとことん勝負に出るつもりなのか?」と訝った。だが、批判が殺到すると『新潮45』はあっさりと廃刊になる。

新潮社の「自爆」を受け、LGBT問題は杉田の主張が負けて決着したかのような雰囲気が世の中には漂っている。しかし、「LGBTにどう向かい合うか」というテーマに対して日本社会は何一つ決着をつけていない――。それが現実だ。

同性婚というテーマ

ここまで、杉田の主張の「いかれぶり」を指摘してきた。だが、杉田の主張の中には、少なからぬ人にとって「確かにそうだ」と思わせるものがないわけではない。それは同性婚への反対である。

私は杉田と異なり、日本でもLGBTに対する差別は厳然としてあると思うし、LGBT差別禁止法もちゃんとしたものを早期に成立させるべきだと考えている。しかし、同姓婚になると「ちょっと待ってくれ」という声が心の奥底から湧き上がってくる。

「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。・・・「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません」

ここでも杉田は「同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません」と論理を飛躍させている。だが、同性婚の問題にとどまるとしても、私はそれを容認してよいと思わない。なぜなら、私も杉田同様、同性婚に「秩序が壊れることに対する恐れ」を感じ取るからだ。

とは言え、私と杉田では、維持したい「秩序」の中身が異なる。杉田が崩壊を恐れる「秩序」は、突き詰めれば、家父長的な「家」制度に行きつくであろう。私は、家族は大事だと思っても、戦前の家父長的な「家」には価値を見出さない。夫婦別姓にも賛成する。しかし、自然の摂理としては雄雌、人間界では男女のペアリングが本来の「あるべき姿」だと思う。それに沿えない人が差別されたり、迫害されたりすべきではないが、同性婚を異性婚と同列に社会制度化して「あるべき姿」と認めることはできない。(こうした考え方自体が差別的だと言う人もいるのだろう。でも、私の価値観について妥協する気にはなれない。)

同性婚に対する反対は、意外なことに世の中の多数派ではなくなっているらしい。近年の世論調査によれば、同性婚への賛成は反対を上回っている。2017年3月に行われたNHKの調査もそうだ。同性婚の支持は若い世代で反対を顕著に上回り、特に20代や30代では7~8割が賛成しているという、ちょっと信じられない数字が出ている。

ただし、この態度は深く考えた末の結論と言うよりも、雰囲気に流されたものである可能性が高い。また、安保法制然り、原発再稼働然り、日本の政治は世論の意向に逆らった政策を通すことも往々にしてある。

同性婚という社会制度に踏み込めば、日本会議の人たちを含め、いわゆる保守系の人々の多くは反発するに違いない。私のように、いわゆる保守でも右翼でもない人間の中からも、躊躇する者が相当数出てこよう。

彼らはしぶとい

杉田水脈は今後も、その低俗で極端な主張を変えることはなかろう。杉田の経歴を見ると、選挙区の有権者から強い支持を得て議員に当選したわけではなさそうだ。2012年12月の衆院選では兵庫6区から立候補し、関西での「維新の会」人気に助けられて比例復活。2014年11月には次世代の党から立候補し、あえなく落選。ところが2017年10月の総選挙では比例中国ブロックで自民党から立候補し、苦もなく当選した。ホームページを見ると櫻井よしこが応援しているようだし、安倍総理やその周辺の人たちとも仲がよさそう。だからこそ、自民党の比例単独で優遇されたと考えられる。

杉田が安倍たちから評価されてきたのは、その主張が封建的で右翼的だからである。LGBTの人たちや所謂リベラルな知識人、メディアに叩かれれば叩かれるほど、安倍たちの間で杉田の評価は上がる。結果として杉田の議員生命にとっても有利に働く。

一方、LGBTを認めたくない右の人たちの中でもう少し理論的かつ運動に長けた人たちは、同性婚反対を突破口にLGBT批判の論理を再構築してくる可能性がある。

『新潮45』10月号で杉田を擁護した藤岡信勝が副会長を務める「新しい歴史教科書をつくる会」の成功体験は示唆に富んでいる。当初は極論、暴論のオンパレードの教科書を作って一般人の口をアングリさせたが、問題個所を削除したり表現を丸めたりした結果、ついに検定に合格。「つくる会」の教科書は今、いくつかの学校で使用されるに至った。この人たち、柔軟というのか融通無碍というのか、運動をやりとげることについては馬鹿にできない実績を持っている。

トランプの巻き返し

LGBTの権利拡大や同性婚の容認は世界の流れ、という風に語られることが多い。だが、それは必ずしも正確ではない。トランプのアメリカを見るがいい。。

トランプ政権が発足して早々、職場でのLGBT差別を禁止するオバマの大統領令を撤回する動きが表面化した。結局、この大統領令は継続されると表明されたが、トランプ政権下でLGBT政策が徐々に後退していることは否定できない事実だ。トランスジェンダーの児童、生徒に対する学校での差別を禁止したオバマ政権時の通達は廃止され、トランスジェンダーの軍への入隊も大幅に制限されることになった。昨年10月には、米保健福祉省が法律上の性を生まれつきの生殖器で定義し、変更を認めない措置を検討していると報じられた。ペンス副大統領をはじめ、LGBTを嫌悪するキリスト教福音派の主張に寄り添う、ということを意味する動きだ。

いずれにせよ、トランプ政治が続く限り、米国でLGBT政策の揺り戻しは止まるまい。保守派の判事が増えていけば、同性婚を全米で合法とした2015年6月の米最高裁判決も近い将来、覆らないとは限らない。

タイム誌によれば、トランプの前任者であるオバマも同性婚に対する見解を大きく左右させている。当初、イリノイ州議会上院議員の時は同姓婚に賛成と言ったり、「未定」と答えたりしていた。しかし、2004年に(連邦)上院選に出馬した際には、同姓婚に反対と述べている。大統領に当選した後、2010年あたりからオバマは「意見が変わりつつある」とほのめかすようになった。そして2012年、大統領として初めて同性婚への賛成を公言するに至った。

オバマの場合、交友関係などが本人の考えに影響を与えたのかもしれないし、世論調査で同性婚への支持が過半を上回るようになったことなどによって政治的な計算を働かせたのかもしれない。リベラルな指導者として知られるオバマでさえ、これだけ迷い、悩んできたということは、LGBTへの政治の関り方が一筋縄でいかないものであることを示唆してあまりある。

 

LGBT運動に携わる人たちは、どこまでやるつもりなのだろうか? 差別禁止を求めるところまでで立ち止まるのか、それとも同性婚という形で異性婚と同じ社会的な認知を得るところまで要求を強めるのか?

私は、LGBTの人たちに「どうしろ」と言うつもりはない。杉田たちの運動に与するつもりも毛頭ない。ただ、同性婚まで求められたら、私の答はノーである。右系のグループも同姓婚反対を正面に出しながら、LGBTに対するネガキャンを巧妙に仕掛けてくるに違いない。

LGBTの差別禁止と権利拡大の政治闘争はこれから本番を迎えることになりそうだ。